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2019年7月7日日曜日

MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる

 MMT(現代貨幣理論)は,どうも常識的なマクロ経済学とただ「違う」だけでなく,特定の条件の下で,「金融政策と財政政策の役割をそっくり入れ替えて理解している」ように見える。なぜ,こうなるのだろうか。最終的なMMTの正否や,当面の政治的立場とは別に,理論の問題として考えておかねばならないように思う。

 ここで特定の条件とは,「ゼロ金利にしても需要不足が解消できないような状況」のことだ。つまりは,今世紀になってから先進諸国がしばしば陥っている状態のことだ。

 この条件が満たされない限りは,常識的なマクロ経済学とMMTの政策的対立はそれほど激しくない。中央銀行の金融政策で金利を操作すれば,銀行の企業に対する貸出金利に影響を及ぼし,それによって投資にも影響を及ぼし,したがって需要に影響する。失業率が高いときに政府の財政政策を発動することで需要が喚起されて雇用が拡大する。これによって財政赤字も増大するが,景気が回復すればインフレになり,かつ税収が拡大するので,財政は引き締め気味に運営することが適切となる。これらは,少なくとも実践のレベルでは常識的な理論だろうがMMTだろうが同じことだ。

 しかし,上記の条件が満たされてしまうと,話が大きく異なってくる。以下,浅学を省みずに対比してみる。

 常識的な経済学は,管理通貨制の下での通貨を政府の強制通用力か人々の信認による価値シンボルとみなす。そして,貨幣は政府または中央銀行により金融システムを通して外生的に供給可能であるとする。政府または中央銀行は金融システムを用いて通貨を創造する。悪性インフレを防ぎ通貨価値を安定させることも金融システムの役割である。この考えを延長すれば,ゼロ金利下であっても,通貨が外生的に供給可能である以上,政府は非伝統的金融政策により通貨供給量を増やして有効需要を喚起するという,リフレーション政策を取ることが有効である。

 また,常識的な経済学は,財政システムにおいては政府はハードな予算制約の下に置かれており,税収の範囲で支出すると考える。正常な財政システムでは通貨は創造されない。課税の本質的役割は公共目的に支出財源を確保することである。課税しなければ支出できない。政府は,一時的に財政赤字を出すことはあるとしても,財政均衡を保つのが正常な状態である。通貨が統合政府の負債と記帳されることは単なる会計の形式論で実質的意味がないものである(※)。したがって,財政赤字の一定以上の拡大や恒久化は避けるべきであり,ゼロ金利下であっても財政拡張に頼るべきではない。財政赤字を拡張したところで,政府債務が積みあがり,結局将来の税収によって補わねばならないだけであるから,裁量的財政政策での有効需要創出効果はそもそも限られていると見るべきだ。すでに政府債務累積している状況下では財政再建を優先すべきだ。

 対して,MMTではどうなるか。

 MMTは,貨幣(現金通貨と預金通貨)は統合政府(政府+中央銀行)の手形=債務証書であるとする。そして,このことの系として,金融システムにおいて「貨幣は貸付需要に応じて銀行・中央銀行が信用を供与する金融取引によって創造される」という内生的貨幣供給論を採ることになる。政府は金融政策では通貨を創造しない。企業の借り入れ需要に応じて通貨が創造される。したがって,ゼロ金利下であれば,金融政策では企業の借り入れ需要を刺激することはできない。中央銀行が一方的に通貨供給量を増やすことはできない。ゼロ金利下でのリフレーション政策は,金融政策のみで行う限りまったく無効である。なお,人為的にマイナス金利政策を取れば,金融機関の経営を破綻に追い込むだけである。

 一方,MMTは,財政システムにおいて,統合政府が貨幣=政府手形を発行して贈与したり財・労働力・サービスを購入したりする実物取引によって,需要が創造されると主張する。つまり財政システムで通貨が創造される。公共目的に必要な財源は,政府債務の創造によって調達される。課税の本質的役割は支出財源を確保することではなく,悪性インフレを防ぎ通貨価値を安定させることである。課税しなければ通貨価値を調整できない。統合政府は赤字なのが正常な状態であり,統合政府が債務を負って信用貨幣を発行することで,流通に必要な現金通貨が供給できているのである(※※)。したがって,財政赤字と政府債務はそれ自体は問題ではない。統合政府債務は恒久的に存在するのであって,将来の税収によって埋め合わせねばならないものではない。ゼロ金利下にあっては,財政政策だけが有効需要を拡張できるマクロ経済政策である。

 常識的な経済学から見れば,MMTが「統合政府が財政政策を調節して外生的に貨幣を供給できる」というのは馬鹿げている。租税を徴収しなければ財政支出で貨幣を供給することもできない。いくら統合政府が財政赤字を拡張したところで,政府債務が積みあがり,結局将来の税収によって補わねばならないだけであり,通貨供給量も需要も通時的にはさほど増やすことはできない。マクロ経済政策の範囲で需要を増やしたければ,政府または中央銀行が金融システムによって貨幣を供給しなければならない。

 MMTからみれば,常識的な理論が「政府または中央銀行が金融政策を調節して外生的に貨幣を供給できる」というのは馬鹿げている。借り入れ需要のないところに貸し出しは起こらない。いくら中央銀行が金利を引き下げ,買いオペレーションをしても,それだけでは,中央銀行当座預金が積みあがるだけであって,通貨供給量は増えない。マクロ経済政策によって需要を増やしたければ,政府が財政支出するしかない。

 このように,ゼロ金利下,そして財政赤字の累積下では,常識的なマクロ経済学とMMTとでは,金融政策と財政政策の役割がそっくり入れ替わるのである。そうなる理論的根拠は,おそらくMMTが信用貨幣論的な政府貨幣論(※※※)と,強い意味の統合政府論(※※※※)をとっていることにある。ということは,常識的なマクロ経済学とMMTのどちらかが正しいとするならば,MMTの正否は,信用貨幣論的政府貨幣論と,強い意味の統合政府論にかかっているということになるだろう。

※こう考えないと,中央銀行が中央銀行券を発行している以上,統合政府は常に債務を背負っていることになってしまう。だから常識的なマクロ経済学では,中央銀行券の債務性は実質的にはないものと考える。

※※だから,統合政府が貨幣=政府手形を発行し,中央銀行が中央銀行券を発行している以上,統合政府は常に債務を背負っていることになる。MMTでは,貨幣=政府手形の債務性が実質的にあると考える。

※※※MMTは,政府貨幣=統合政府の手形とする点で信用貨幣論を取っている。ここで,政府手形がどうして現金通貨として人々によって信認され,支払手段としても流通手段としても用いられるのかという問題がある。MMTは,政府が人々に対して,政府貨幣を納税手段として認めることによってである,とする(中央銀行券も,政府への納税及び中央銀行に対する支払いの手段と認められる)。納税手段と認められることにより,政府貨幣=政府手形は税債務との相殺を可能とする支払い手段となる。そして,納税手段であることによって,人々が政府貨幣を求めるようになり,民間でも支払い手段及び流通手段になるというのである。

※※※※MMTの統合政府論では,政府が国債を発行することによって生じる債務のみならず,中央銀行が中央銀行券を発行し,また市中銀行からの預金を受け入れることによって負う債務も実質的な債務だとされている。これが「強い意味」での統合政府である。だから政府債務があって当たり前であって,債務のない統合政府など存在しない。一方,常識的なマクロ経済学では,たとえ統合政府論を取る場合でも,中央銀行券や中央銀行預け金の債務性は実質的にないものとみなす。そして,財政だけを対象として,政府債務がないことを正常な状態とみなす。

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2019年7月3日水曜日

MMTの評価には,規範論でなく経済分析からの批判が必要

 小黒一正氏のMMT批判。これは,昔のケインズ政策に対する「ハーヴェイロードの前提」批判であり,公共選択論による批判である。私は,規範論としてこの指摘は一理あると予感する。MMTは統合政府の財政が赤字で政府債務があることは当然とした上で(赤字にしないと日銀券=統合政府の手形も発行できない),財政は悪性インフレを防ぐように運営されるべきとする。それを民主主義の下でどうやって防ぐのだという公共選択論の問いかけは,おそらくMMTにも妥当する。
 しかし逆に言うと,これはMMTが抱える問題が,昔のケインズ政策と同様の「財政赤字のサステナビリティ」問題であることを意味する。つまり,多くの人が昔の財政赤字論争を忘れてしまったからMMTの主張が突飛に見えてくるだけであって,実は昔のケインズ政策より突飛ということはないのである。何しろMMTは一種のケインズ理解なのだから。
 そしてまた,公共選択論が,資本主義国家の財政に与える様々な利害関係の強弱を無視し,軍事国家や企業国家と呼ばれるように(宮本憲一『現代資本主義と国家』岩波書店,1981年の類型論による),政府に影響力を行使できる資本グループに奉仕する財政構造が作られていることを無視していること,ともすれば教育や社会保障支出の切りつめを正当化する理屈になりやすいことも,昔と同じである。古くからある左からの批判も,小黒氏に向けられるだろう。MMTの支持者のうち左派は,そういう財政構造が問題であって,人民のために支出しろと言っているのだ。
 ここまでのところ,話は新しいようで古いのだ。だから,実はMMTにせよそれに対する反対にせよ,さほど突飛ではない。少なくとも,MMTだけが突飛で小黒氏が常識的だとはとても思えない。どちらも,大いにあり得る話として温故知新で議論すればよい。

 もっとも,それだけではすまない,新しいこともある。1)規範論としての意味と,2)規範以前の客観的な現実分析としての意味は違っているということだ。当然,現実分析(「財政とは+++である」)を踏まえて規範(「財政は××であるべきだ」)を述べねばならない。
 MMTも(私の理解ではケインズも),規範論という側面と,経済システムの客観的分析の側面を持っている。もちろん,後者が基礎になって前者がある。そして,MMTによる後者,つまり経済分析は,おそらく主流のマクロ経済学と異なっている。MMTを評価するには,規範論に規範論をぶつけるのではなく,その経済分析を理解した上で,正しいかどうかを判断すべきだろう。
 具体的に言うと,小黒氏は,明らかに財政均衡がノーマルな状態であって,財政赤字は,出すこともできるし,出さないこともできるととらえている。それはそれで,主流派の経済分析による根拠があるからだ。だから,「憲法で財政均衡を義務付けるしかない」というブキャナンの主張まで肯定的に紹介する。これは自らの経済分析による規範論だ。
 しかし,MMTはもともと統合政府論であり,統合政府の財政は赤字なのがノーマルな状態であり,通貨はもともと,納税に使えると政府に認定されたから通用しているのだと主張している。赤字を出さないことは,やりたくてもできないのである。だから,MMT自らの経済分析による規範論は「憲法で財政均衡を義務付けるなど意味がない」となるのである。
 だから,MMTに向かって,「赤字を出してもよいなんてトンデモない主張だ」では表面的な批判にしかならず,理論的にはほとんど意味がない。規範論の背後にある経済,財政,貨幣に対する分析を把握したうえで,そこから評価しなければならないだろう。これは小黒氏に特定して言っているのではなく,多くのMMT批判についてこのように指摘したいのだ。もちろん,MMTが主流派の理論を評価する場合も同じ基準が妥当する。

 私は,時間はかかっても,MMTの経済分析を理解して評価したいと思っている。

小黒一正「MMT(現代金融理論)が見落としているもの…財政の民主的統制の難しさ」Business Journal,2019年6月4日。



2019年6月25日火曜日

細野祐二『会計と犯罪 郵便不正から日産ゴーン事件まで』の特捜検察批判

 就寝前と仕事の合間を使っただけなのだが,2日間で読み終えた。こう言っては何だが,岩波書店には珍しい,ミステリーのように引き込まれて,すらすらと読める本だ。

 著者のこれまでの本と異なり,粉飾決算事件の分析ではない。中心となるのは郵便不正事件とそれに続く,村木厚子氏が起訴されて無罪となった虚偽公文書事件,そして大坂地検特捜部による証拠改ざん事件だ。おそらく,もともとこれらを主要な対象と予定していたのだろう。ところが日産自動車カルロス・ゴーン事件が発生し,それが最後部に置かれることになった。

 本書は,経済事件における特捜検察による冤罪の構造を暴いた本なのである。細野氏によれば,ゴーン会長は役員報酬の件にせよオマーン・ルートにせよ,法的には無罪とされるべきなのである。なぜそう言えるのかは,どうか本書にあたられたい。




細野祐二『会計と犯罪 郵便不正から日産ゴーン事件まで』岩波書店,2019年。


2019/6/6 Facebook投稿の再録。



2019年6月21日金曜日

『キングコング:髑髏島の巨神』:ベトナムから遠く離れられない兵士たち

 アマゾンビデオで『キングコング 髑髏島の巨神』をアマゾンで視ました。ただいま公開中の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』と同一世界という設定です。時は1973年。諜報組織モナークは,ベトナムから這う這うの体で撤退中のアメリカ軍に護衛してもらいつつ,地球観測衛星ランドサット(1972年に1号機打ち上げ)が発見した未知の島に向かいます。

(以下,前半30分についてのみネタバレあり)

 ヘリでナパーム弾みたいな爆発を伴う調査機器を投下していると、いきなりコングが現れて,引っこ抜いた木を投げつけ,1機墜落。逆上した隊長は発砲を命じるが,反撃食らって全機墜落。ジャングルと泥の河をさまよう羽目に。「部下の仇を取る」とコング抹殺に燃え狂う隊長に,同行する民間人は大迷惑。

 その後,色々あったのですが,言うべきことはただ一つではないかと思うのです。

「撃つな,馬鹿」。

Amazon Video 『キングコング:髑髏島の巨神』



『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters視ました。ネタバレにならない範囲での感想。

*映像はすごかった。さすがはハリウッドだ。
*ゴジラシリーズの怪獣たちへの「愛」は感じられた。「わかってるな」と思わせるショットも多い。
*ゴジラは人智を超えた自然の守り神みたいなもんになっている。この点は前作(「東宝チャンピオンまつり ゴジラ対ムートー サンフランシスコ大決戦」だったっけ)よりはるかに明確に打ち出されていて,ストーリーの骨格をなしていた。なので,そういうものなんだと自己暗示して受け入れれば面白く見られる。
*前作で何しに出て来たのか全く分からなかった芹沢博士が,ちゃんと活躍したのには安心した。
*核兵器の取扱いについては,例によって,ざけんな馬鹿野郎と思いつつ視るしかない。


2019年6月16日日曜日

フォルモサ・ハティン・スチール:単年度赤字が続くも,国内での同社材への需要は強い。トランプ政権の通商政策は思わぬ後押しに

 ベトナムに立地する台湾系高炉メーカー,フォルモサ・ハティン・スチール(FHS)は,2017年に5.2兆ドン(2億ドル),2018年に2.7兆ドン(1.1億ドル)の赤字を計上した。これは,おおむね予想通りだ。海洋汚染事件で第1高炉稼働が1年遅れて2017年になり,第2高炉も2018年に稼働したばかりだから,年あたりの償却負担や金融費用がかさんで当然だ。
 第2高炉稼働後,半年で200万トン以上の粗鋼を生産したとあるから,年間400万トンペースの稼働状況とみられる。フル稼働で年産700万トンのはずだから,まだ慣らし運転から脱却しきってはいないが,生産増大のペースはそう遅くない。
 国内市場への売れ行きは好調なはずだ。ベトナムはすでに建設用表面処理鋼板の輸出国になっているが,対米輸出に際しては,母材のホットコイルによってアンチダンピング税がかかってしまう。どういうことかというと,中国製,韓国製,台湾製のホットコイルはアメリカからダンピング輸出を認定されている。それらをベトナムの冷延・表面処理鋼板メーカーが母材に用いると,最終製品はベトナムから輸出するのであっても迂回輸出とみなされて課税されてしまう。そのため,ホア・セン・グループなどベトナムの鋼板メーカーは,フォルモサ製ホットコイルを使いたがっている。トランプ政権は,事実上,フォルモサの営業をしてあげているようなものなのだ。

FHSに対するまとまった評価は以下の拙論で行っています。
「国際経済統合下におけるベトナム鉄鋼業の発展」TERG Discussion Paper, No. 395, 2018年11月。

Steel maker Formosa incurs huge losses despite incentives, Hanoitimes, June 15, 2019.

Vietnam's steelmaker Hoa Sen to purchase hot-rolled coil from Formosa Ha Tinh, Hanoitimes, October 12, 2018.

2019年6月13日木曜日

外国人留学生が卒業後に起業することは促進すべきだが,在学中の起業は認めるべきではない理由

 外国人留学生による起業を促すため,大学に在学しながらの在留資格切り替えを認めることが検討されているという時事通信の報道があった。

<卒業後の起業促進は賛成>

 私は,外国人留学生が卒業後に起業することを促すのは賛成だ。日本経済の活性化に大いにプラスになるからだ。そして,起業する(「経営・管理」ビザを取得する)のに,卒業・退学後,いったん帰国しなければならないというのは,確かに理不尽だ。しかし,この問題については,すでに今年初めから,起業を準備する卒業生には「特定活動」の在留資格を与えて滞在延長を認め,その間に起業準備をするという規制緩和が実施されていると報道されている。これで十分だと思う。不十分なら,滞在延長期間を延長すればいい。


<在学中の在留資格切り替えは反対>

 時事通信の報道が正確だと仮定してのことだが,在学中に在留資格切り替えを認めるという今回の案は,賛成できない。在学中に資格を切り替えて起業することを初めから念頭に置いて留学して来る留学生と,そうした留学生を数多く受け入れて定員を満たし授業料収入を上げようとする日本の一部の大学の双方にモラル・ハザードを起こすと思う。片や真剣に授業を受けず,片や教育の中身を充実させようとしない結果,大学教育が劣化するおそれがある。政府は,東京福祉大学事件をもう忘れたのか。

 ちなみに,いったん日本の学部を卒業した前期課程学生,日本の前期課程を修了した後期課程学生であれば,いまでも在学中の資格切り替えは可能だと思う。すでに一度,日本で大学を卒業しているからである。少なくとも私の周囲を見ると,「経営・管理」の例には接したことがないが,「技術・人文知識・国際業務」や「高度専門家」への切り替えはできているように見える。それはそれでもっともなことだろう。

「外国人留学生の起業促進=在留資格切り替え可能に-特区諮問会議」時事ドットコムニュース,2019年6月11日。


「留学経験生かし起業の外国人支援…滞在1年延長」読売新聞オンライン,2019年1月19日。

2019年6月11日火曜日

『産業学会研究年報』第35号投稿募集中

 私が編集委員長を務める『産業学会研究年報』第35号の投稿規程・執筆要項が公表されました。投稿の締め切りは2019年8月30日(金)です。会員の投稿をお待ちしております。写真は第34号です。



『産業学会研究年報』投稿規程・執筆要項(2019年度)

2019年6月8日土曜日

博士課程院生に対する編集者型指導教員論

 私はよく,院生に対してよく言えば丁寧,悪く言えばかまい過ぎと言われますが,そこには色々な背景があります。大きいのは,「抽象的なやる気や学問へのあこがれや漠然とした関心はあっても,何をどう問題にしたいのかはわからない院生」という存在です。自分自身がそうであって苦しんだことや,当ゼミにやってくる院生もたいていはそうであるという認識がまずあります。私の意見では,1980年代には日本はすでに「なにをやりたいかわからない若者」の時代になっていたし,そして21世紀の今,新興国もそうなっているのです。よって,ただ放置しているだけ,あるいはよく使われる言葉で言うと「放牧型」の支援では,過半数の院生は論文を完成させられません。経験則的に言うならば,修士論文は辛うじて完成するかもしれませんが,学術誌に投稿したり博士論文を完成させることはできません。

 しかし,これは院生がダメだという意味ではありません。最初は何が何だかわからなくても,やがて問題を発見し,解決法を発見するかもしれないからです。そういう可能性を引き出せるかどうかは,大学と指導教員側の問題でもあります。

 だからといって「農業型」の指示・命令式指導やゼミ(研究室)運営をすると,研究主体は私になってしまい,院生が自立した研究者になれません。それは適切ではありません。

 この認識の上に立って,私がどういう指導教員になっているかと言うのをわかりやすく表現するとすると,以前は「パワハラを排したネオ徒弟制」と言っていたのですが,いまは「作家に対する編集者」だと思います。

 つまり,ネタ出しや作品構想の打ち合わせからいっしょに行い,研究対象,問題意識,課題設定,分析視角,調査方法などについて話し合う。たとえて言えば,よい研究になりそうな原石を院生の中から見つけてきて,いっしょにがっつんがっつんノミを入れあう(この表現はマンガ家マンガ『新吼えろ!ペン』第17話「おれの中の定義」サンデーGXコミックス第5巻71-73ページよりいただきました。画像参照)。




院生が持っている問題意識を引き出し,学問的枠組みや着眼点を探すことや,調査・分析の仕方も,自分で学ばせつつも頻繁にコメントし,必要なサジェスチョンやダメ出しをする。途中原稿についても完成原稿についても最初の読者となり,これが学界に出たらどういう風に視られるかを考えてまた話し合う。学会や研究会では他の研究者から学ぶ機会を作るとともに,当人を売り込む。学会報告の反応を見て,どのようにアピールすべきかもいっしょに考える。雑誌査読を突破する方策を検討し,コメント,添削,日本語校正をする。修了の見込みやキャリアについても相談する。相手が若者の場合,必要に応じて各種の生活相談に乗る。ただしパワハラ,セクハラ,えこひいき,人格的上下関係,強度の依存関係にならないように厳重に注意する(しかし,理系と異なり単独指導制なので,フェール・セーフが必要。複数の教員が出るゼミを作るとか,支援方針を文書にする,個別指導もすべて記録する,意見交換内容は互いにメールで文書化するなど<これで十分とは思っていません>)。

 このスタイルの社会的メリットは,冒頭に書いたように,「はじめから何をどうやりたいかわかって入学するわけではない」院生を育てて,よい研究を生み出すことができることです。初めから問題意識と学問的素養と自己の思想にあふれている院生だけを相手にするよりも,育成対象のすそ野は何倍にも広がります。

 また,私自身にもメリットがあります。研究過程で自分の問題意識や関心も正当に加えられるために,自分自身の研究の幅が広がり,物理的・精神的限界から自分自身ではできなかったような研究も院生がやってくれるといううれしさもあります。例えば,現在のゼミ生が手掛けている研究も,自分でやりたいけれど手が回らないテーマであったり,昔,自分でとりくんで謎のまま終わった研究の続きをやってもらっているようなものであったりします。正直,これが研究者としての最大のメリットです。

 もちろん問題もあります。私にとっての問題は,言うまでもなく,途方もない労力と時間がかかることです。何しろ,自分も論文を書かねばならないわけで,いわば作家をやりながら編集者をやっているわけですから。それと,文科系に特有の事情としては,単独著作が尊重される世界なので,かなり丁寧に支援した論文でも,雑誌には,共著でなく単著として発表させるようにしなければなりません。そうすると,自らの教育成果にはなっても研究成果として業績リストには表現されないことになります。もっとも,当人が修了してからも支援を続けて新たに雑誌に発表するときは,一人前の研究者同士の共同研究になるので,共著にします。そういう例も3回ほどありました。

 院生当人にとってもよいことばかりではありません。小説家やマンガ家は,編集者と共同作業をしていてもすでにプロの作家です。しかし,大学院生はちがいます。編集者のような指導教員のもとから,修了とともに旅立たねばなりません。そのとき,編集者を失った作家のようになって挫けてしまってはどうにもなりません。つまり,指導教員がいなくなっても大丈夫なように自立する独自の努力が求められるということです。結局は,自立するしかないのです。

 課程博士論文の作成と審査は,自立の重要なきっかけであり,試練です。以前は初めて学術誌に投稿するときと思っていたのですが,どうも博士論文のようです。

 博士論文より前に学術誌に論文を出すときは,私と院生の関係も違います。学術誌への投稿では,「院生+指導教員」vs査読者という構図です。査読を突破して論文を交換するために私は院生を支援します。コメントもすれば添削も日本語校正もします(そもそも,雑誌の編集委員会が留学生の投稿者に対して,日本語ネイティブや指導教員による日本語校正を求めてきたりします)。正直,こちらがそこまでやらないと,院生が,研究職にエントリーするのに最小限必要と言われる3本の論文を出すことは難しいです。

 しかし,博士論文は院生vs「指導教員を含む審査委員」という構図です。私はもちろん論文支援はしますが,支援の方法は違います。院生に援護射撃をするのではなく,合格水準を示して,そこに向かって到達する道筋を示すような支援になるので,院生当人にとっては厳しくなります。また留学生の書いた日本語も修正はせず,問題点だけ示して必要な水準まで直させます。つまり,ここでは指導教員は支援者というより壁になります。博士論文を提出して合格することで,編集者のついていない作家として自立することになるでしょう。

 このような編集者型指導教員の姿が適切なものか,また持続可能性のあるものなのかどうかは,いまでもわかりません。しかし,今のところ私自身にとっては,これ以外の方法が思いつかないのです。

<参考>
島本和彦『新吼えろペン』第5巻,Kindle版。


2019年6月6日木曜日

島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に思う研究者≒マンガ家論

私が島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に魅かれるのは,マンガ家と研究者がどこか似ているからかもしれない。

 自然科学であれ人文・社会科学であれ,研究においては価値判断によって事実を曲げてはならない。しかし,テーマ選択や問題設定,研究方法の選択,分析視角のとり方には価値判断や嗜好が大いに働く。そのため,論文は研究対象を何らかの形で反映しているが,それは研究対象を解釈するという実践を通して反映しているのであり,その解釈においては自分自身を表現してもいるのだ。だから論文は「作品」で「も」ある。解釈や自己表現の度合いは,おそらくは自然科学より社会科学の方がはるかに強く,人文科学においてさらに強い。

 論文に「作品」の性格が強ければ強いほど,小説家や漫画家と同じく,自分を見失った状態では書けなくなる。ところが,鏡なしに自分自身を観ることは,元来大変困難であるし,論文も一種の鏡になってくれるが,あまりに形が複雑すぎて,論文に映った自分が何だよくわからないこともある。

(引用1)アシスタント・前杉英雄「人も信用できない……。自分のマンガが面白いのかどうかもわからない……。混沌としたこの世界の中で,それでも毎月作品を上げている先生はたいしたものだったのだ!!」(『吼えろ!ペン』第12巻,小学館,2004年,121ページ)


 この困難を乗り越える秘策はないのだが,十分条件ではないものの必要条件だけはあると思う。それは,書き続けることだ。

(引用2)マンガ家・炎尾燃「そこが勝負どころだ!それでも作らなければ次につながっていかないだろう!」(『新吼えろ!ペン』第5巻,小学館,2006年,41ページ)


 ごくまれに,ものすごい寡作でも名声をなす研究者もいる(当研究科なら故・原田三郎教授などがそうだ)。しかし,それは超例外的な存在だ。たいていの研究者は,傑作だろうが駄作だろうが,書き続けないと,書けなくなる。それは,研究ノウハウを失うからというだけの理由ではない。研究者としての自分自身がわからなくなり,いっそう書けなくなるのだ。だから,出来がよかろうが悪かろうが,書くしかない。そう思わない人もいるだろうが,私は,こう思う(じゃあ,書けよさっさと)。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...