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2022年10月8日土曜日

T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を読む

 学部ゼミで訳しながら読むために,T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を全訳作業中。この論文はSpringerから出版されている単行書の1章だが,オープンアクセスになっており,無料でダウンロードできる。

 実は,私にはこの論文はすんなりと吸収できる。というのは,というのは,マルクス的に読めるからである。いや,階級闘争や社会主義を論じているとかいう意味ではない。以下のような経済理論的読み方ができてしまうのである。

・「ものづくりの組織能力」はマルクスの「協業による生産力」の応用と考えればいい。
・「設計情報の創造と転写」はマルクスの「労働による価値の生成」の拡張とみなせばよい。
・分析単位としての「現場ー企業ー産業」の三層構造は,私が鉄鋼業研究で採用してきた岡本博公氏の「事業所ー企業ー産業」の三層構造とほぼ同じである。岡本説の源流は,堀江英一氏や坂本和一氏によるマルクスの生産力概念の独自解釈である。
・「設計を基礎とする比較優位」も,村岡俊三氏に習った国際価値論の応用とみなせばよい。村岡氏の国際価値論は,マルクス班の比較生産費説を含んでいた。

 藤本氏ご本人はマルクスではなくリカードを現代的に継承されて本論文を書かれている。例えば本論文では利潤の存在根拠は搾取ではなく,設計情報の創造性による希少性のようである。しかし,リカードとマルクスは相当に強い継承性があるので,マルクスに慣れているとやはり本論文はすらすら読めるのである。

 しかし,言いたいのは,私が個人的事情からこういう読み方をするというだけのことではない。藤本説が古典経済学から現代の経営学に至るまでの広大な射程を持った学説だということである。

 藤本説はそのように理解されているだろうか。Google Scholarで見るとまだ7回しか引用されておらず(2022/10/2現在),藤本氏の他の論文よりも引用頻度が低いのは不満である。しかし,その理由は,なんとなく想像がつく。

 まず主流派の経済学者の場合,藤本氏の学説は経営学だということで,あまりご存じないおそれがあり,問題関心も向かないかもしれない。藤本氏のモデルは塩沢由典氏との共同研究により,多国多数財モデルの貿易論として数理マルクス経済学の場で発展させられているが,経済学の学会では少数派であろう。また,主流派の経済学者は「工場や小売店など現場のオペレーションの観察が大事である」と主張する理論を提示されても自分事と思えないのかもしれない。だから,藤本氏の学説をもっと読むべきは,数理マルクス派を除けば,マルクス経済学から出発した産業経済学者や経営学者であろう。私を含めて,どれほど生き残っているのかは別として。

 また,多くの経営学者にとっては,なぜ古典経済学や比較生産費説に寄せたモデルを論じなければならないのか,受け入れがたいのかもしれない。例えば,「第三に,A国とB国の間での,X,Y,Z 各産業の相対生産性比率のプロファイルが,両国の相対賃金率に影響を与える(藤本・塩沢 2011-2012)。つまり,競争相手国に対する全産業の相対的な生産性比率のプロファイルが相対的賃金率に影響を与えるのである。第四に,上記の相対的な生産性と賃金の結果,競争する諸国の産業X,Y,Zの相対的なコストと価格が明らかになる。長期的には,リカード的比較優位の論理により,他の国内産業よりもライバル国に対する相対的生産性比率が高い「比較優位産業」がグローバル市場で選択され,A,B,C国の産業ポートフォリオが形成される」(p. 35)などと書かれると,私には空気のような普通の話であり,経済学者にも了解可能ではあろうが,多くの経営学者にとっては自分事と思えないのかもしれない。

 藤本氏もその学説も著名である。しかし,その学説の根幹は,あまり学界に浸透していないのではないかというのが,私の余計な心配である。上記のように多くの経済学者,経営学者双方の視野の外にある領域をカバーしているからである。また,より身近な次元では,経営論壇において氏の説は単純化されて「インテグラルかモジュラーか」「組織能力に基づくインテグラルな日本のもの造りがすばらしい」「いや,そんなのはもう古い」という次元の応酬に還元されがちである。

 藤本説は,経済学と経営学を統合し,古典的学説と現代的学説を連続させる,深く広大な領域を持つものとして,もっと多くの人によってさまざまな角度から検討されるべきではないかと,私は思っている。

T. Fujimoto. A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites.  T. Fujimoto & F. Ikuine (Eds.). Industrial Competitiveness and Design Evolution (pp. 5-41). Springer, 2018.

<関連>

藤本隆宏『現場主義の競争戦略 次世代への日本産業論』新潮新書,2013年の「情報価値説」 (2014/2/24),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月12日。


2022年9月28日水曜日

欧米と日本ではインフレ対策はどちらが難しいか。日本にはどのようなインフレ対策が必要か

 2022年9月現在,西欧諸国・アメリカと日本は,いずれもインフレーション対策に追われている。しかし,インフレの性質は異なっており,したがって必要な対策も,その難易度も異なっているように見える。欧米と日本では,どちらのインフレ対策の方が難しいだろうか。私には,おおむね欧米の方が難しいが,ある一点だけ日本の方が苦しいように思える。この投稿の目的は,インフレ対策というレンズを通して,当面のマクロ経済政策の望ましい方向を探り,とくに日本に独自の課題を考えることである。

1.欧米のインフレ対策:アメリカの事例を中心に

 欧米のインフレは,以前に書いたように(※1)1)自立的好況による物価上昇,2)コストプッシュによる物価上昇,3)財政赤字による通貨投入が引き起こすインフレ(ほんらいの意味の貨幣的インフレ)の3種混合である。1)と3)について別の言い方をすると,両者結合してディマンド・プル・インフレ,価格・賃金スパイラルを昂進させている。

 これにマクロ経済政策で立ち向かうことは,種々のジレンマを伴う。

 1)金融引き締め。好況の行き過ぎによる投機的需要を冷やすのには効くが,FRBも認めているように,景気自体を落ち込ませる危険性が高い。その場合,コロナ禍で広がった資産・所得格差をさらに大きくして低所得層を直撃する。もともと,貨幣的インフレで投入された通貨は金融引き締めでは回収できないので効果がない。無理に効果をあげようと金融を過度に引き締めれば,一層の不況をもたらす(この場合も,財政で投入された資金は貯蓄として眠るだけで回収はされない)。

 2)引き締めと拡張を混合させた財政政策。意図的にネジレを持たせた複雑な対応が必要になる。すでにバイデン政権がインフレ抑制法(8月16日成立)で行なっている方策がその例である(※2)。まず全体としては貨幣的インフレを抑制するために,財政を引き締め気味にして,コロナ禍で散布された通貨を回収する必要がある。ただし,コロナ禍で格差が拡大しているので,再分配を同時に強めねばならない。そのため,バイデン政権は富裕層増税,法人税の最低基準設定,自社株買い戻し課税などを行っている。

 一方,コスト・プッシュ・インフレ対策としては,生活コストを抑えるとともに,国内の供給能力を量質ともに上げねばならない。それによって輸入に依存する食糧やエネルギーの価格を抑制するのである。バイデン政権の場合,クリーンエネルギーや電気自動車(EV),省エネ機器を購入する家計にリベート支給や税額控除を行ない,医療保険やメディケアの国民負担を引き下げるとしている。ただしこれらは財政支出を増やすことになるので,全体としての引き締め傾向を損なわないように行わねばならない。バイデン政権は,全体として財政赤字は3000億ドル以上削減する意図である。

3)欧米のインフレ対策の複雑さ

 以上のように,金融政策に依存すればインフレ抑制の代償としてただちに不況をもたらす。財政政策でインフレ抑制と国民生活支援を両立させるためには,課税強化部面と支出強化部面を適切に使い分けねばならず,その調整が容易ではないのである。ジョセフ・スティグリッツ教授はインフレ抑制法を「インフレだけでなく,経済や社会が長年直面しているいくつかの重要な課題に対応する内容」と高く評価しているが(※3),共和党はインフレ抑制に効果がないと攻撃しており,その行方が注目される。

2.日本のインフレ対策

 対して日本のインフレは,もっぱら2)コスト・プッシュ・インフレである。長年の超金融緩和に加え,コロナ禍で相当な財政支出を行ったにもかかわらず,1)3)によるディマンド・プル・インフレが一向に起こらないところが独特である。

 ということは,インフレ対策もコスト・プッシュ対策に絞ればよいということになり,実は欧米よりも取るべき政策は単純になる。

 1)まず金融政策である。「超」金融緩和政策は見直されるべきであるが,金融を「引き締め」てはならない。

 超金融緩和政策は,もともと景気対策としては誤っていて需要拡大に結び付かないし(※4),最近の投稿で述べたように長期的に日本経済の供給側も弱めるという弊害があった(※5)。ただし,コロナ禍では期せずして無制限流動性供給策となり,短期的に役に立ったことは公平のため述べておくべきだろう。それも,コロナ対策がウィズコロナに切り替わるために意義を持たなくなりつつある。

 よって,「超」金融緩和策は見直されるべきである。ただし,欧米のように金融「引き締め」を行ってはならない。なぜならば,日本の景気は過熱してもいないし,財政赤字で撒布された資金が企業・店舗の設備投資や個人消費に回って物価を押し上げているわけでもないからである(この夏にリベンジ消費ブームが起こる可能性はあったが,第7波で吹き飛んだ)。

 したがい,「超」金融緩和を,超のつかない金融緩和にするくらいが妥当であろう。具体策には,コロナ禍対策の無利子・無担保融資支援の終了(これは日銀もすでに表明したが,賛成である),短期金利のマイナス誘導と長期金利のゼロ誘導中止,ETF購入の中止と債券購入に移行しての購入規模縮小,0.25%での指値オペの縮小を,金融市場へのショックに注意しながら行うことである。そして短期金利をゼロ水準まで戻し,それ以上は引き締めない程度が適当であろう。

 2)次に財政政策である。日本ではコロナ禍のような財政拡張は中止すべきだとしても,欧米と異なり財政全体を引き締めるべきではない。貨幣的インフレが起こっていないからである。それどころか,長年政府・日銀が熱望していたように,需要増大によるゆるやかな貨幣的インフレを起こす方が望ましい状態は何も変わっていないのである。

 これまで繰り返し主張してきたように,政府・日銀の誤りは,リフレーション理論,すなわちゼロ金利下でも,貨幣的インフレと好況を金融政策単独で起こせるという考えにある。この誤った金融政策への依存を止めねばならない。かわって必要なのが財政政策である。この構図はアベノミクス期以来何も変わっていない(※6)。

 ただし,コロナ禍で撒布された財政資金は,企業・家計の手元に眠ったままであることには注意が必要である。これが一気に財・サービスに買い向かえば行き過ぎたディマンド・プル・インフレへと逆転する。したがい,財政全体としては,プライマリーバランス均衡目標を放棄し,コロナ以前程度の財政赤字水準で管理するくらいがよいだろう。

 そして,生活支援と再分配の強化が必要である。コロナ禍と異なるのは,支援対象を「企業・営業」ではなく,「国民生活」にし,需要を維持することによって営業も支援するという姿勢に変えることである。岸田内閣による低所得層への一時金は悪くはないが,より体系的に税制を改正すべきだろう。具体的には,所得税の累進性を1980-90年代に実施されていた程度に戻し,非課税の低所得者には逆に現金を給付するマイナスの所得税を設定すべきだろう。またバイデン政権の政策を参考にし,自社株買い戻しやキャピタル・ゲインへの課税を強めることも,実行可能な範囲だろう。これ以上のインフレとなれば,消費税減税も視野に入れるべきだ。

 供給力強化も必要である。2021年以来の国際価格高騰とウクライナ危機を踏まえれば,エネルギーの効率的国産化は急務である。建物の省エネ化補助は,費用対効果の高い温暖化対策であり景気対策になる。再生可能エネルギーに対する補助を,場当たり的なものではなく地域環境と両立するものにし,洋上風力と,建物屋上の太陽光発電設置を支援することも現実性は高い。

3)日本のインフレ対策の単純さ

 このように,日本のインフレ対策は,1)金融政策は「超」金融緩和から「超」を取るだけでよく,景気を犠牲にして物価を抑える理不尽を必要としない。2)財政も緊急の引き締めを必要としない。この2点において,ほんらい欧米よりも単純であり,犠牲の少ない形で実行可能なのである。

 インフレ時に金融・財政を引き締めないのはおかしいとの意見があるかもしれないが,それはインフレの性質を見誤っているからである。日本の景気は過熱しておらず,ディマンド・プル・インフレの指標である賃金上昇はかすかにしか起こっていない。そのため,引き締める必要がないのである。緩めの金融によって景気が上向き,緩めの財政によって家計の実質購買力が上昇するならば,たとえ物価上昇率がさらに上がっても,その方が望ましいと考えるべきである。

4)日本独自の困難:賃金の上がりにくさ

 しかし,日本のインフレ対策には,唯一,欧米と真逆の困難が存在する。それは,賃金の上方硬直性,すなわち上がりにくさである。2022年春闘の主要企業賃上げ率は2.0%に過ぎなかった(※7)。2022年7月確報の所定内給与上昇率は一般労働者1.1%,パートタイム労働者2.5%に過ぎない。所定外給与がそれぞれ4.7%,14.0%上昇して人手不足は起こりつつあるが,所定内給与への反映が十分ではない(※8)。最低賃金は引き上げられているものの,時給1000円を超えているのは3都府県のみである(※9)。

 日本の賃金は労働市場の需給関係にはさすがに反応するが,労働運動が極度に弱体化しており,また民間大企業の企業内労組が正社員しか組織していないうえに,経営業績に過度に忖度するため,相場づくりができていない。

 このため,金融・財政政策を適切に行っても,なお物価の先行上昇が賃金に波及しにくく賃金圧力が先行しての賃金・価格スパイラルは到底生じないのである。1970-80年代には,日本的労働慣行は,賃金・価格スパイラルが悪性インフレを後押ししてしまう欧米と異なる日本経済の評価すべき点とされていたが,ここに来てまったくのマイナス要素となっている。

 この賃金の上方硬直性については,インフレ対策のような短期のタイムスパンで対処できることは少なく,最低賃金の継続的引上げと地域間均衡の促進,労働行政強化によるコンプライアンス強化くらいかもしれない。それ以上は,どうしても労働市場と雇用慣行の改革が必要であろう。


※1 「『金融引き締めによるインフレ抑制』で何が起こっており,何が犠牲にされているのか」Ka-Bataブログ,2022年9月5日。

※2 「バイデン米大統領、インフレ削減法案に署名、中間層に成果アピール(米国)」JETROビジネス短信,2022年8月17日。

※3 「スティグリッツ氏 米インフレ抑制法が大きな意味を持つ理由」日経ビジネス,2022年8月24日。

※4 「信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する」Ka-Bataブログ,2019年5月2日。

※5 「超金融緩和が日本経済に引き起こした矛盾」Ka-Bataブログ,2022年9月27日。

※6 この点に関する限り,常識的な経済理論よりMMTの方が正しいと私は考える。以下の対比を参照。「MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」Ka-Bataブログ,2019年7月7日。

※7 厚生労働省「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」を労働政策研究・研修機構サイトで確認。

※8 厚生労働省「毎月勤労統計調査 令和4年7月分結果確報」。

※9 厚生労働省「令和4年度地域別最低賃金改定状況」。


2022年9月27日火曜日

超金融緩和が日本経済に引き起こした矛盾

  円安下のコスト・プッシュ・インフレのもとで,日本銀行は超金融緩和の継続を宣言している(※1)。ここでは,超金融緩和が継続されたことによって日本経済がどのような影響を蒙っているかを,やや長期的な視点から考えたい。とくに「矛盾」という切り口を重視したい。超金融緩和からの出口について,竹を割ったようなすっきりした主張が出てきにくいのは,それが「あちら立てればこちら立たず」という矛盾を引き起こしているからである。それ故,解決にはひと工夫もふた工夫も必要であるが,まずこの矛盾の所在を明らかにしなければならない。以下は,まだ裏付けが十分でないところもある試論である(※2)。

1.超金融緩和がなければ成り立たない低収益・ローリスクの事業によって雇用が底支えされるという矛盾

 日銀の超金融緩和は,金利水準の面から言えば短期金利をマイナス,長期金利をゼロに誘導しようというものである。しかし,これが,本来望んだ効果,すなわち実質利子率を下げることにより企業の実体経済への投資を促進して生産と雇用を拡大し,物価上昇と賃金上昇の好循環としての緩やかなディマンド・プル・インフレを起こす,という結果に結びついていない。それどころか,黒田総裁の「異次元緩和」から起算すれば約10年,事実上のゼロ金利から起算すれば実に四半世紀に及ぶこの超緩和策は,元々想定していなかったような企業行動の歪みを発生させている。

 主要な歪みの一つは,超金融緩和の下でしか存続できないような,収益性もしくは成長性の低い事業投資の保護である。いくら金利を引き下げてもディマンド・プル・インフレが起きないことで,いわゆる「自然利子率」の低迷と指摘されている。これは,低金利の下でも,事業投資が拡大して,モノや人の奪い合いとなり,インフレとなるようなことが起きていないという現象を解釈する用語である。著しく引き下げられた現行利子率でも純投資が拡大しないのは,国内市場での販売見込みと期待収益率に企業経営者が確証を持てないからである。投資決定は不確実性があるため,金利の上昇・下降に対して投資決定の拡大・縮小が素直に対応するかは断定できないが,金利がより引き上げられれば,さらに投資が減退する恐れはある。裏返すと,現に行われてきた純投資プロジェクトが,金利が過度に低く抑えられている環境の下では成り立つが,そうでなければ利益を生まない,あるいは当初の利益は小さくてもその後成長するという見通しを持てないようなものへと,つまりは低収益またはローリスクなものに偏っている恐れがある。これを直接観察できる指標は少ないが,間接的には生産性向上率の低下と潜在成長率の継続的低下から読み取ることができる。

 この問題の解決は一筋縄ではいかない。それによって,多くの雇用と所得が支えられているからである。その規模は実証的研究にて確かめねばならないが,一定規模に達することは十分予想できる(※3)。

2.まともにくらすためには時給1500円が必要だが,より低賃金で成り立っている企業が多いという矛盾

 収益性や成長性の低さは,別の面からも察知できる。今日,全労連等の労働組合が指摘するように(※4),20代の単身者が憲法の求める健康で文化的な最低限度の生活を送るためには,時給計算で1500円の賃金が必要である。したがって,全国一律最低賃金1500円を支給せよという要求はもっともである。ところが,これは東京都の最低賃金1072円(2022年10月1日改訂)の1.4倍であり,最低水準の都道府県の853円の1.8倍なのである(※5)。

 直ちに時給1500円を支給すれば経営困難に陥るか,事業を縮小して雇用を削減するような企業が,中小零細企業を中心に多いことも,その詳細は実証研究にて確かめねばならないとしても,まずまちがいない。この中には,通常の意味で生産性が低い企業の他に,下請けシステムの下で低収益を強いられている企業や,自営的経営のために低賃金・低生産性でも存続能力が高い企業があることも問題を複雑にしている。しかし,非正規雇用を含む低賃金によって事業を成り立たせ,低賃金と引き換えに雇用を維持している低収益の企業が広範に存在していることは疑いえない。

 そして,問題は,これらの企業の事業投資のうちいくらかが,超金融緩和措置ゆえに成り立っていると考えられることである。金利が引き上げられればさらに収益性が悪化することはすぐにわかる。この意味で,超金融緩和策は,低収益の事業投資を保護することで,低賃金の企業ーー経営と雇用を維持を目的にやむを得ずそうしている経営者もいれば,人権無視のブラック労働を平然と課す経営者もいるだろうーーを成り立たせており,つまり低賃金と引き換えに雇用を維持している可能性がある。

3.暫定的評価

 超金融緩和策は,投資と消費の活性化,物価上昇と賃金上昇の好循環という,所期の目的をまったく達成していない。むしろその作用によって,以下のような矛盾を引き起こしている可能性がある。

 超金融緩和策は,その下でしか成り立たない,あるいは賃金を抑えることによってしか成り立たないような事業,したがってその事業を行う企業を保護している。超金融緩和は,これによって日本経済の供給側のパフォーマンス,つまり高い生産性で財・サービスを供給し,高い賃金を支払い可能にする能力を長期的に悪化させている。また需要側のパフォーマンス,すなわち投資と消費の水準を双方とも弱々しいままに停滞させている。しかし,複雑なのは供給の上限と需要との関係である(図。著者作成)。供給パフォーマンスの悪化は,潜在GDPに一応表される供給の天井が伸び悩むことを意味する。他方,現実のGDPは需要不足によりこれに及ばない。両者のギャップが,すなわちGDPギャップが存在する時,失業や不安定就業や設備遊休が生じる。


 超金融緩和下の日本では,供給の上限を引き上げていないからこそ,需要が弱くとも不況が激烈にならずにすんでおり,需要を弱々しいなりに一定水準から底割れさせないようにしていると考えられるのである(※6)。

 目的を達成していない以上,超金融緩和策は見直されねばならない。タイミングとしては,円安よりもコロナ禍のウィズコロナへの移行が重要である。コロナ禍では,企業・店舗の大量倒産・廃業を避けるために,流動性供給が重要であった。そのため,超金融緩和が一時的に功を奏した面があったことは否定できない。よって,コロナ禍のウィズコロナへの移行こそが,超金融緩和の見直し時期としてふさわしいのである。

 しかし,超金融緩和を単に中止すれば,少なくとも一時的に多くの事業,したがって企業を不採算に陥らせ,雇用を縮小させる恐れがある(※7)。これまでと逆に,金融を引き締めればよいという単純な話にはならない。そもそも景気に対する調整の役割を金融政策だけでは果たすことができないのに,無理に過大な役割を持たせようとしたから問題が起こったのである。超金融緩和策の見直しに際しては,一時的な激変緩和措置を講じるとともに,実際に投資と消費の活性化,物価上昇と賃金上昇の好循環をもたらすような別の政策を開発し,ただちに実施していかねばならない。インフレの問題を考慮したうえで,別途論じたい。


※1 日本銀行「当面の金融政策運営について」2022年9月22日。

※2 河野龍太郎『成長の臨界 「飽和資本主義」はどこへ向かうのか』慶應義塾大学出版会,2022年は,論旨が錯綜している印象を受けるものの,ここでとりあげた論点については,共有できる主張を含んでいる。

※3 なお,もう一つの歪みは,企業の実物資産への純投資の停滞と金融資産へのシフトである。日本企業は,全体として有形固定資産への投資に積極的でなく,国内では実物資産の組み替え,すなわちM&Aによる企業や企業集団の再編成と金融資産への投下を増やし,実物資産への投資は海外で増やしている。これは資産構成の推移から読み取れる。なお,この他にIT投資への消極性がみられることはしばしば指摘されるとおりである。

※4 「最低賃金」と「生計費」が5分でわかる!全国一律の最低賃金1,500円を勝ち取って格差解消&「普通の暮らし」の実現へ!」全労連ウェブサイト。

※5 厚生労働省「令和4年度地域別最低賃金改定状況」。

※6 なお,ここで述べたことと矛盾するように見えることがある。それは,日本企業全体の収益性は,指標によっては高成長期より低下しているものもあれば,低下していないものもあるということである。例えば,総資本営業利益率は低下しているが,総資本経常利益率は低下していない。自己資本当期利益率は低下している。売上高営業利益率は製造業で低下し非製造業はむしろ向上しているが,売上高経常利益率は圧倒的に向上している(「法人企業統計調査からみる日本企業の特徴」財務省財務総合政策研究所,2020年5月)。
 低収益・ローリスクの事業に投資が偏っているのに,収益性指標は見方によっては悪くないというこの事態は,以下によって説明できる可能性がある。1)日本企業全体の収益率が金利低下や金融資産肥大化でバブル的に底上げされていて,実物資産の収益性は全体として低い。2)事業投資の間の収益格差が広がっていて,超金融緩和で超過利益を上げる事業もあれば辛うじて救済される事業もある。3)労働分配率の抑制によって利益率が引き上げられている。
 私はいずれも作用していると考えているが,それについて十分なデータと解釈をまだ提示できない。今後検討したい。

※7 ここで私は収益性の低い事業を営む企業を「ゾンビ企業」とは呼んでいないことに注意してほしい。「ゾンビ企業」とは,「淘汰されるべきなのに生き残っている」というニュアンスを含む用語であるが,私はここでとりあげた企業を直ちに淘汰しろと主張したいのではない。むしろ,直ちに淘汰しようとしたら雇用が失われて需要がさらに停滞するという矛盾を直視すべきと言っているのである。

2022年9月19日月曜日

ロシアへの輸出規制とロシアからの輸入規制の違いについて

  ロシアに対する経済制裁のうち,各国からロシアへの輸出(ロシアの輸入)に対する規制と,各国のロシアからの輸入(ロシアの輸出)に対する規制を同次元で論じる議論が多いが,経済学的にはこの二つは作用が異なる。適切に区分し,また両者の相互作用を考えるべきではないだろうか。

 まず,経済制裁の最大の目的は,ロシアの戦争遂行能力をそぐことであり,もっとも直接的にはロシア政府・軍が,戦争のために必要とする物資を調達できないようにすることだと想定しよう。他の目的もあるにせよ,最大の目的はこうだと想定して無理はないはずである。

 そうすると,平時の貿易の利益と異なり,問題にすべき効果はロシアの戦争遂行能力にとってのプラスマイナスである。その際,注意しなければならないのは,ロシアが必要とするのは物資であって外貨ではないということである。戦争遂行のためには,外貨は,ただ持っているだけでは何の役にも立たない。戦争に使える物資を輸入するための代金の支払いに使える限りで意味を持つのである。

 以上のように想定した上で輸出規制と輸入規制の効力を考えよう。

*対ロシア輸出規制の実効性がある場合
 ロシアへの輸出(ロシアの輸入)に対する規制に実効性がある場合,ロシアの政府・軍は,外国から戦争に使う物資を調達できなくなる。どんなに独裁政治を敷いたところで,ロシアの実効支配地域にあるモノしか使うことはできない。元来輸入品に依存している軍需品,例えば高性能の半導体や部材がなければ,ロシア軍は戦争遂行に支障をきたす。つまり,ロシアへの輸出規制に実効性があれば,ロシアの軍需品調達を失敗に追い込めるので,ロシアの戦争遂行能力を「マイナス」に持っていくことができる。これが一番分かりやすい制裁の効き目であろう。

*対ロシア輸出規制の実効性がない場合
 逆にロシアへの輸出規制に実効性がない場合,ロシアは外貨準備を失うかわりに,戦争に必要な物資を輸入できる。もともと外貨は直接戦争に使えるものではないので,この場合,ロシアの戦争遂行能力は必要な物資を獲得出来るという点で「プラス」となる。

*対ロシア輸入規制の実効性がある場合
 次に,ロシアからの輸入(ロシアの輸出)に対する規制を考える。輸入規制がうまく機能したとしても,それでロシアの物資が減るわけではない。ロシアにとっての輸出とは,物資を失うことと引き換えに外貨を稼ぐことであるから(※1),それができなくなるだけである。つまりロシアの物資は動かず,したがって戦争遂行能力も現状から動かないという意味で「プラマイゼロ」である。

*対ロシア輸入規制の実効性がない場合
 逆に,ロシアからの輸入規制に実効性がない場合,ロシアは原燃料なり鉄鋼なりを輸出して外貨を獲得することができる。これは一見するとロシアにとって有利になっているように見えるが,そうではない。外貨は直接には戦争の役には立たないからである。むしろここでは,ロシアは物資を失っている。ただし,ロシア政府の経済統制が効いていれば,戦争遂行に必要な物資は輸出されにくいだろうから,それ以外の物資が輸出されている確率が高い。例えば天然ガスにせよ普通鋼鋼材にせよ,多少輸出したところでロシア軍は困らない。しかしロシアも資本主義経済ではあるから,企業が自己利益のために政府の意向と異なる輸出をすることもありえなくはない。よって,戦争遂行能力は「わずかにマイナス」とみておくのがよいだろう。

 以上のように,ロシアへの輸出規制とロシアからの輸入規制の作用はまったく異なっており,戦争遂行能力をそぐために重要なのは輸出規制の方であることがわかる。

 次に,輸出規制と輸入規制を両方考慮すると,4通りの組み合わせができる。

*対ロシア輸出・輸入ともストップ(ロシアは輸入も輸出もできない)
 ロシアへの輸出規制とロシアからの輸入規制が両方機能すれば,ロシアの戦争遂行能力は「マイナス」と「プラスマイナスゼロ」を足し合わせたものになり,輸出規制の単独の効果と同じく「マイナス」である。ロシアは輸出も輸入もできず,時とともに「マイナス」がどんどん累積することに甘んじるしかない。

*対ロシア輸出ストップ,輸入継続(ロシアは輸入できないが輸出できる)
 また輸出規制が機能して輸入規制が機能しなかった場合は,ロシアの戦争遂行能力は「マイナス」と「わずかにマイナス」を足し合わせたものになり,「やや大きなマイナス」となる。この場合,ロシアにとっては輸出を拡大することはできるが,輸出だけ伸びても輸入に使えない外貨が貯まるだけであり,物資を失う「ややマイナス」が積み重なるだけであり,政府・軍にとっては好ましいことではない。むしろロシアからの輸入を必要とする国に対して,天然ガスの輸出を絞るなどして圧力をかける選択肢を選ぶだろう。なので,早晩輸出を停止し,戦争遂行能力は「マイナス」の累積に甘んじることになる。

*対ロシア輸出継続,輸入ストップ(ロシアは輸入できるが輸出できない)
 輸出規制が機能せず,輸入規制だけ機能した場合には,ロシアの戦争遂行能力は「プラス」と「プラマイゼロ」を加えたものになり,「プラス」となる。この場合,ロシアは軍需品の輸入を拡大するという選択肢が働くので,「プラス」は時とともに大きくなっていくが,支払のための外貨を輸出で獲得することができないため,外貨の枯渇とともに輸入が止まり,「プラス」の効果もなくなる。

*対ロシア輸出・輸入とも継続(ロシアは輸入も輸出もできる)
 輸出規制も輸入規制も機能しなかった場合には,ロシアの戦争遂行能力は「プラス」と「わずかにマイナス」を加えたものになり,「ややプラス」となる。この場合,ロシアは時とともに輸出も輸入も拡大し,輸出で獲得した外貨で戦争に必要な物資を輸入することを繰り返すので,「ややプラス」は累積的に大きくなってしまう。

 さて,4通りをロシアの戦争遂行能力を低下させる順に並べてみよう。

1位 対ロシア輸出ストップ,輸入継続(「やや大きいマイナス」→「マイナス」の累積)
2位 対ロシア輸出・輸入ともストップ(「マイナス」の累積)
3位(短期) 対ロシア輸出継続,輸入ストップ(「プラス」の累積→外貨が尽きた時点で停止)
3位(長期) 対ロシア輸出・輸入とも継続(「ややプラス」の累積がずっと継続)

 ここから対ロシア輸出規制と輸入規制の性質の違いがはっきりと分かる。

 まず,ロシアへの輸出規制の方が決定的に重要であることがはっきりした。少し考えれば当たり前のことであって,ロシアが戦争に必要とする物資をロシアに送らないことが,ロシアの戦争遂行能力をそぐのである。

 次に,ロシアからの輸入規制は,輸出規制との組み合わせ次第で全く異なる結果になることが明らかになった。

 対ロシア輸出規制が効力を持っていれば,輸入規制はさほど意味がない。それどころか,規制がない方がロシアの戦争遂行能力への打撃が大きくなる可能性がある。ロシアが輸出だけして輸入できないと,ロシアから物資が出ていく一方で,ロシアには戦争に必要な物資が与えられないからである。ロシアとしては,軍需品を輸入できない状態では,輸出して外貨を稼いでも使うことができず,カネの持ち腐れである。それよりは,ロシアの物資を必要とする国に対して,ロシア側から輸出を制限する方策を取るだろう。また,この時制裁を行う側は,むしろロシアが戦争に必要とする物資まで強力に買い付けてしまうことによって,戦争遂行を困難に陥れることができる可能性がある。

 一方,輸出規制が効力を持っていない場合,そもそも制裁の効力は大いにそがれてしまうが,その程度については,輸入規制の影響を受ける。ロシアはどのみち輸入を拡大して戦争遂行能力を高めてしまうのであるが,各国の対ロシア輸入規制が有効であればロシアは輸出できず,輸入代金を支払うほど外貨は減っていく。いつかは枯渇し,輸入もできなくなる。逆にもし輸入規制が効力を持たないと,ロシアは平時と同様に次々と外貨を得て,次々と戦争に必要な物資を輸入できてしまい,制裁の効力はまったくなくなる。

 まとめよう。経済制裁に効力を持たせるための必要条件は,ロシアへの輸出規制に効力をもたせることである。輸出規制が効けばロシアの戦争遂行能力をそぐことができるし,効かないとそぐことができなくなる。

 ロシアへの輸出規制が十分に効いていれば,輸入規制は意味がなく,むしろしない方がよいこともありうる。各国がロシアの物資を買いあさり,輸入しまくることでロシアの戦争遂行能力をさらに下げられる可能性があるからである。制裁の実効性を上げる,具体的にはロシアの戦争遂行能力をそぐ上で最も望ましいシナリオは,ロシアと輸出も輸入もしないこととは限らない。ロシアに輸出はせず,逆にロシアから強力に買い付けて輸入してしまうことの方が実効性が高くなる可能性がある。

 制裁の実効性を上げるためには,ロシアへの輸出規制を漏れなく行なうことが必要条件となる。輸出規制の強化は,輸入規制と独立に行うことができる。逆にロシアからの輸入規制は,輸出規制が効いている時には強化しても意味がなく,輸出規制が効かない場合にだけ有効となる。よって,輸入規制を強めるか,逆になくすかは,輸出規制の状態に従属させて行うことが必要となる。

 このように,ロシアへの輸出規制とロシアからの輸入規制のは異なる作用をしているのであって,同一視してはならない。つい同一視したくなるのは,平時の取引と同じく「カネがあれば何でも買える」,「輸出した者は利益を得る」と思い込んでしまうからである。しかし,これは錯覚である。ロシア政府・軍が戦争に必要とするのはモノである。モノに替えることのできないカネ(外貨)は戦争の役に立たない。モノとカネは違う。ロシアの戦争遂行能力をそぐためには,カネを与えないことではなくモノを与えないこと,カネでモノを買えないようにすることが肝心なのである。

 以上の単純な論理から,ただちに具体的な場面での具体的な方策をすべてみちびきだせるわけではない。しかし,制裁の現実を理解する上でも,この単純な論理はかなり有効である。また,単純にして厳正な論理は忘れてはならないのであり,常に念頭に置いておくべきであると思う。それに反する,錯覚に基づいた主張をしなくてすむからである。

※1 ロシア当局がルーブルでの支払いを要求している場合も,輸入する外国企業はまずロシア当局に外貨を売却してルーブルに替えてから支払っていると思われる。この場合,ロシア当局は外貨を獲得できることに変わりはない。

2022年9月8日木曜日

続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか

 先日「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」というノートを書き,MMT(現代貨幣理論)が貨幣流通の根拠は国定貨幣説(表券主義)で,現代の金融システムの説明は信用貨幣説で説明する二元論を取っていることを記した。その時は,どうしてそのような二元論を取るのかが理解できなかったのだが,ランダル・レイの論文「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」の邦訳を読んで,どうにか理解できそうに思えてきた。レイが「ミンスキーの『誰でも貨幣を創造できる。問題はそれを受け取ってもらうことだ』という見解に従うことになった」というところに関係しているようだ。

 ハイマン・ミンスキーは債務のピラミッド論の創始者である。「このピラミッドでは、最も受けとられやすい政府の負債が頂点にあり、次に商業銀行の負債、そして『ノンバンク金融機関』の負債、非金融法人企業の負債、最後に中小企業や家計の負債が最下層に位置している。このピラミッドは、負債の受容性と流動性を反映したものであり、ピラミッドの下位に位置する主体は、支払いにおいてピラミッドのより上位にある負債を用いる」。レイはこれを受け継いでおり,ここまでは信用貨幣説である。

 では,頂点にある政府の負債はなぜ受け取ってもらえるのか。レイやそのほかのMMT論者は,ここを国定通貨説で説明しているのである。「納税者が税金の支払いのために自国の通貨を政府に返還すると、納税者と政府の両方が償還される。納税者にはもはや税金という負債はなくなり、政府の自国の通貨を受け入れる義務は果たされる」というわけである。つまり,「納税に使える」ということが,政府の負債が貨幣として流通する根拠なのである。以上がMMTにおける信用貨幣説と国定貨幣説の結びつき方である。

 とすれば,私の理解する日本の伝統的なマルクス派信用貨幣論との違いは,以下のようになる。もっとも,日本のマルクス派信用貨幣論にもヴァラエティがあるので,これは私が,できる限り首尾一貫して理論を組み立てればこうなるだろうとした理解の仕方に過ぎないことをお断りしておく。なお,欧米ではこれに近い考え方はホリゾンタリストと呼ばれるようである。

 マルクス派の信用貨幣論は,伝統的に政府を捨象し,民間の商品経済と資本主義経済の発展の中に,信用貨幣が流通する根拠を求めてきた。中央銀行も,まず「銀行」として理解し,それが発展して国家から決済システムと最後の貸し手機能を付与されるという風に理解してきた。不換制の下で預金貨幣や中央銀行券が流通する根拠も,手形流通の原理を根拠に,手形の債権債務相殺機能によって理解してきた。商品経済が発達し,手形流通が発達しているからこそ,資本主義的な銀行業は銀行手形として預金貨幣や銀行券を発券できるのである。手形の債権債務相殺機能は金兌換と不換とにかかわらず機能する。そして,銀行間の決済システムと信用維持に必要だからこそ中央銀行が選定されるのである。民間経済の発展こそが根拠である。信用貨幣の流通性に相違を認めることは,MMTのピラミッド論と同じである。しかし,頂点に立つ信用貨幣である中央銀行の債務が流通する決定的根拠は,MMTのように「納税に使える」ことではない。「中央銀行への支払いに使える」ことである。

 もう少し対比を続けよう。

 MMTでは頂点に立つのは政府債務である。これはMMTが非常に強い意味で統合政府論を理解し,中央銀行を「政府」の一部と理解するからである。マルクス派信用貨幣論では頂点に立つのは中央銀行債務である。これは中央銀行をまずは「銀行」として理解したうえでその政府との結合を考えるからである。

 MMTは頂点に立つ政府債務が有効性を証明する場面として,納税に注目する。そこでは納税者の債務と政府の債務が相殺される。納税者は納税義務を果たすし,政府は自分の債務である貨幣を受け取るからである。マルクス派信用貨幣論は,頂点に立つ中央銀行債務が有効性を証明する場面として,中央銀行への返済に注目する。そこでは銀行の債務と中央銀行の債務が相殺される。銀行は中央銀行からの借り入れを返済するし,中央銀行は自分の債務である中央銀行当座預金を受け取るからである。

 MMTは国定通貨の根拠を貨幣史に求める。通時的理解である。前近代社会から国定貨幣が用いられてきたから資本主義社会でも国定貨幣が用いられるというのである。日本のマルクス経済学では(論者によって意見が異なるものの※1),私の理解では,資本主義経済そのものの構造に求める。共時的理解である。現時点で,資本主義経済が機能するためには,ほんらいは価値尺度として金を貨幣とすることが要請される一方で,そのようなプリミティブなしくみでは経済発展が制約されるために,貨幣代替物として預金貨幣や中央銀行券が用いられるとみるのである。

 おそらく以上のように対比してまちがいないものと思う。賛否はともあれ,こうした突き合わせをきちんとしておくことは,理論的対話のために必要であると思う。

※1 これは,かつてマルクス派の世界で「論理=歴史」説と「論理」説の論争と呼ばれていた話のことである。論理的前後関係と時間的前後関係は照応すべきであり,例えば『資本論』の商品論よりも剰余価値論の方が時間的に後の話だと考えると,「論理=歴史」説となる。論理的前後関係と時間的前後関係は別だと考え,商品論から剰余価値論への流れは,同時点で論理が抽象的なところから具体的なところに進んでいるのだと考えると「論理」説になる。ここで私は「論理」説に立って説明しており,MMTをいわば「論理=歴史」説とみなしているのである。

ランダル・レイ(WARE_BLUEFIELD,ゲーテちゃん,kenta460,sorata31,望月慎訳)「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」(2020年7月)経済学101。


2022年9月5日月曜日

「金融引き締めによるインフレ抑制」で何が起こっており,何が犠牲にされているのか

 1.はじめに

 2022年現在,アメリカのFRBを先頭に,欧米の中央銀行は「インフレを鎮静化させるために金融を引き締めて」いる。日本銀行がその例外とされる。本稿の目的は,この金融引き締めがもたらす効果について理論的可能性を考察し,そこからこの政策を論じる上で必要な観点を見出すことである。

 その際,注意しなければならないことが二つある。ひとつは,2022年現在,先進国で「インフレ」と言われていることの中には,性質の異なる複数種類の物価上昇が含まれているのではないかということである。そのいずれに対しても,金融引き締めは効果を持つのだろうか。もう一つは,金融引き締めは,本当に「インフレを鎮静化させる」効果を持ち,またそれ以外の効果は持たないのかということである。「インフレを鎮静化させるために金融を引き締め」ることは金融政策上の「常識」であるが故に,ほとんど疑われることはない。しかし,落ち着いて理論的に考えてみれば,そこには十分疑いの余地があるのではないかということである。


2.「インフレーション」の種別と2022年における物価上昇の複合性

 日常用語では,持続的な物価上昇はすべて「インフレーション」と呼ばれる。しかし,その中には,異なった作用が含まれている。

a.自律的好況による物価上昇

 端的に,民間経済内で好況期に需要が供給を上回ることによる物価上昇である。銀行による信用創造の拡大を伴う。銀行貸出が返済を上回る状態が一定期間持続することで通貨供給量が拡大する。加熱すれば投機的な見込み需要による物価上昇に至る。需要が強い分野で物価が上昇し,そうでない分野では上昇しないので,本質的に不均等であり,商品間の相対関係も変わる。

b.コストプッシュによる物価上昇

 財・サービスの生産費が上昇し,それが価格に転嫁されることによる物価上昇であり,供給制約による物価上昇である。景気循環の局面に関係なく生じうるので,銀行による信用創造への影響も場合による。やはり抽象モデルであり,現実には相当に異なる経済状況のいずれにも当てはまる。需要超過から始まって,それが原燃料・中間財の生産条件を悪化させるために生じることもあるが,海外から供給される原燃料や食料の生産費高騰が輸入価格上昇を通して国内に浸透することの方が目立つ。後者の場合は,国内の実質的購買力が低下する。商品間の相対関係はもちろん変わる。

c.通貨の過剰投入によるインフレ

 流通に必要な貨幣量に対して,通貨が過剰投入されることによる名目的価格上昇である。いわば貨幣的インフレと言える。金兌換がなされていて公定の価格標準が明確であった時代には,このような物価上昇だけがインフレと呼ばれていた。

 貨幣的インフレは,以前より述べている通り財政赤字によって通貨供給量が外生的に拡大することによって生じる(※1)。ただし,財政赤字なら必ず貨幣的インフレを生じるとは限らない。1)財政刺激によって財・サービスの流通量を拡大すれば生じない。2)財政刺激がさしあたり財・サービスの需要拡大に結び付かずに,貯蓄形成(金融資産形成を含む)に帰結してしまえば生じない。3)財政刺激によって財・サービスに買い向かう購買力が発生し,しかし財・サービスの流通量が拡大しない場合に生じるのである。

 3)は抽象モデルなので,現象的にはまったく両極の経済状況のいずれにもあてはまる。一つの極は好況が完全雇用にまで達してなお財政刺激が行われている場合であり,他方の極は,財政赤字による補助金で企業や家計をいくら支援しても,生産能力がまったく停滞しているような場合である。

 貨幣的インフレは名目的価格上昇なので,本来は商品間の相対関係は変化しない。しかし,政府需要や補助金や給付金などが特定の箇所を起点として社会に浸透していくものであり,また投入された通貨が貯蓄として遊休したり流通に復帰したりすることもあるので,実際には時間をかけて不均等に物価上昇が浸透していく。

 この区別と関連に注目しなければならないのは,2022年現在の先進諸国の物価上昇は,a,b,cのすべてが作用していると考えられるからである。aの好況による物価騰貴にあたるのは,2021年には経済の回復が始まり,先進諸国のGDPはIMFによれば5.2%成長したことである。bのコスト・プッシュにあたるのは,2021年から原燃料・食糧価格の上昇が始まり,ウクライナ戦争と,ロシアに対する経済制裁によって加速したことである。cの貨幣的インフレにあたるのは,コロナ禍に直面して諸国政府がそろって赤字財政を拡張し,多額の給付金や補助金を交付し,また経済回復のための公共投資を行ったことである。


3.3種の物価上昇に対する金融引き締めの作用

 では,この三つが混合した物価上昇に対して,中央銀行の金融引き締め,つまりインターバンク貸付の短期利子率を高め誘導することを通して銀行による信用創造を抑制することは,どのように作用するだろうか。

 a,すなわち好況による物価騰貴に対しては,政策が物価上昇の原因に対して素直に反作用しており,効果が期待できる。好況騰貴は需要超過を信用創造の拡大が後押しすることで生じる。金融引き締めは,この信用創造を抑制して需要を抑制することで物価上昇を抑えるのである。

 超過需要が仮需を作り出すに至り,放置すれば反動で激しい不況が起こりそうな場合には,引き締め政策は望ましい効果を持つ。多くの人々にとって望ましくない仮需による投機と,反動不況の激烈さを抑えるからである。ただし,引き締めが行き過ぎれば需要は冷え込み,失業率が上昇するおそれがある。物価上昇の抑制すなわち需要の抑制である。インフレ抑制の代償が失業であり就業の不安定化である。

 b,すなわちコストプッシュに対しても金融引き締めは効くには効くが,好況騰貴に対してよりもトリッキーな効き方をする。コスト・プッシュによる価格上昇が起こっている場合,元々需要超過が生じているわけではない。これに対する金融引き締めとは,つまり,景気が過熱もしていないのに引き締めるわけである。よって,好況騰貴に対してよりも,激しく景気を落ち込ませる。物価上昇の抑制を優先して,敢えて不況への突入もいとわないという政策になる。物価抑制の代償としての失業や就業不安定化は一層激しくなる。

 c,すなわち貨幣的インフレに対しては,物価上昇の途上では有効である。上昇の途上とは,財政赤字で撒布された通貨が瞬間的に物価を騰貴させるのではなく,いったんは貯蓄として遊休し,徐々に実物経済に回って物価が上昇しつつある過程のことである。この時に金融引き締めを行えば,物価を上昇させるだけの超過需要を抑え,通貨を貯蓄として眠り込んだままにさせることはできるかもしれない。ただし,貯蓄は課税によって回収されない限りなくなりはしない。財政赤字によって投入された通貨は,金融引き締めでは回収できないからである(※2)。貯蓄は,再び実物経済に買い向かう機をうかがいつつ,預金として滞留することもあれば,金融資産に買い向かってバブルを起こすこともあることに注意が必要である。

 そして問題は,貯蓄として眠りこませることが,程よく仮需の抑制につながるのか,ここでも失業をもたらすかということである。これは,元々の財政赤字が,物価上昇を起こすことなく完全雇用を達成できていたかどうかに依存する。完全雇用に近い状態を達成できていたのであれば,さらなる通貨投入によって引き起こされた貨幣的インフレの発生のみを抑制するファイン・チューニングが政策的課題となる。うまくいけば物価を程よく抑えながら完全雇用を維持できる。しかし,元の財政支出の仕方に問題があって,完全雇用達成以前に貨幣的インフレが起こってしまっているかもしれない。この場合,金融引き締めは,ここでもインフレ抑制の代償として失業や就業不安定化を生じさせることになる。

 以上が3種類の物価上昇に対する金融引き締めの効果であり,その代償である。


4.まとめ

 以上のように,物価の持続的上昇,日常用語でいう「インフレ」に金融引き締めで立ち向かうことの作用はさまざまである。まとめるならば,金融引き締めが,その公式の目標通りに物価上昇を抑制して経済の混乱を鎮め,景気循環の振幅を和らげることに寄与するのは,貨幣的インフレや好況騰貴で超過需要が,生産や販売の実質拡大に寄与しない仮需の発生に至っており,これを適度に抑制する場合である。

 ただし,金融引き締めは,多くの場合,物価上昇抑制の代償として失業増大や就業不安定化をもたらす。好況騰貴に対して引き締めが仮需の抑制を通り越して作用した場合,貨幣的インフレにおいて,もともとの財政支出に問題があって,完全雇用達成以前に貨幣的インフレを招いており,これを引き締めで抑制しようとした場合,コストプッシュの物価上昇に対して,景気が過熱してもいないのに引き締めを行った場合である。

 つまり,金融引き締めの犠牲は労働者や,中小零細企業に集中する。しかし,物価上昇の負担は場合による。物価上昇は確かに経済活動全般を混乱させるが,多くの場合,賃金上昇が遅れることにより労働者が損失を蒙る。ただし状況によっては,コスト・プッシュにより体力の弱い企業が損失を被ることもあり,労働市場のひっ迫が激しい場合は賃上げ率の高いセクターの企業が損失を蒙る。物価上昇と金融引き締めの得失は不均等に分布しているのであり,社会全体として望ましいかどうかと,そのために利益と損失が一部に集中していることには共に注意が払われねばならない。

 そもそも論で言えば,好況騰貴やコストプッシュの場合は金融引き締めで通貨供給量を制限することができるが,財政赤字による貨幣的インフレに対しては,通貨量を縮小させることはできない。できるのは,撒布された通貨を貯蓄として眠り込ませることだけである。この因果関係が誤認されていると,政策論議には歪みが生じるであろう。


5.実践的指針

 中央銀行を監視する実践的な指針としては,「インフレを鎮静化させるための金融引き締め」を行うことに対しては,以下の点のチェックが必要であろう。

*仮需の抑制を通り越して不況を誘導していないか。

*雇用を過剰に犠牲にし,労働者や社会的弱者に負担を偏らせていないか。

*そもそも財政拡張を行う際に,完全雇用達成以前にインフレをもたらすような無駄や偏りがないか。

*コストプッシュに対して,引き締めによる需要抑制よりも供給制約の緩和(食糧・エネルギー自給率の向上など)で対処する可能性を提起すべきではないか。

 そして,より根本的には,「インフレ抑制の代償は失業・就業不安定化である」ようなマクロ経済政策の在り方が,本当に唯一可能なものであるのかを問い,代替的政策の可能性を検討する必要があるだろう。


※1 国債が中央銀行引き受けで発行された場合のみならず,民間銀行によって購入された場合にも生じる。この点は以下を参照。「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」Ka-Bataブログ,2020年11月19日(2022年9月5日一部改訂)。

※2 派生的な論点として注意すべきことがある。好況騰貴やコストプッシュの場合は,極論すれば不況によって物価を下落させることも可能だが,貨幣的インフレに対しては,物価上昇を抑制することはできても,いったん上昇した物価を下落させることはできない。貨幣的インフレによって名目的に物価水準が上昇してしまうと,流通する財・サービスの総額自体が膨れ上がってしまう。ここで,仮に課税するなどして,いったん撒布した通貨を流通から引き上げたとしても,物価水準が下落するのではなく,財・サービスを流通させる通貨が不足し,その分だけ銀行からの借り入れ需要が増え,信用創造で通貨が供給されることで補われる。貨幣的インフレでいったん上昇した物価は元に戻らないのである。

2022年9月3日土曜日

大学教員になろうとする文系博士課程院生の苦悩:訓練には5年必要だが資金援助は3年という問題

  文部科学省が公表した2022年度学校基本調査(速報値)によれば,2022年度に大学院博士課程に在籍する学生数は7万5267人で,2年連続で減少したとのこと。減少数は28人に過ぎないのだが,学部は6722人,修士課程は3696人増えたのと対比すると,やはり博士課程の不人気は目立つ。その理由は,キャリア形成の展望が見えにくいからである。

 問題は理工系と文系,また企業就職希望と研究者志望で異なってくる。ここでは文系の大学教員志願者を念頭において,博士課程の院生がキャリア形成上直面する困難をとりあげたい。文系の場合,企業への就職も徐々に増えてきているとはいえ,依然として大学教員になることが博士課程院生の主要なキャリア・パスだからである。


1.訓練は3年で足りないが,資金援助は3年しかない

 文系の博士課程修了者が大学教員になろうとする場合に直面する問題を端的に言うと,「教員として採用される水準に達するまでの訓練は3年では足りない」が,「資金援助は3年分しかない」という矛盾に突き当たることである。この矛盾を解決するには,留年者にでもポスドクにでもいいから,あと2年分の資金援助が必要だというのが私の意見である。

 以下,説明が長いので関心ある方のみご覧いただけると幸いだ。なお,文系でも分野により,大学により事情はいくらか異なるかもしれないので,「経済・経営系ではかなり見られる話」というくらいに受け取っていただきたい。


2.文系の博士課程院生は何を求めらるか:「3本」から「博士論文+査読付き3本」へ

 現在,文系で,任期付きであれ何であれ,授業を行う大学教員として採用されるには,1)博士の学位を取得していることと,2)査読付き雑誌に一定数の論文を単著で3本程度書いていることが必要である。ちなみに,2)の理系との違いは,日本語で書かれた国内誌でも認められる一方で,単著でないと実力を認められないことである。文系では,理系に近いとみなされる分野以外では「最終著者」,すなわち指導教員が連名の最後に名を連ねる習慣がなく,指導教員は,相当手をかけて院生を指導した結果の論文にも,名前を連ねない。

 資金の話はいったん脇に置くとして,文系の場合,業績としてはこの1)と2)を博士課程の所定年限である3年で満たすことを要求される。博士論文を書くのは博士課程なので今では当然として(かつては違ったことをすぐ後で書く),同時に3年の間に査読付き雑誌に単著で,かつ数理化されていない分野では10-30ページに及ぶ論文を3本程度出さねばならないのである。正直,これはあまりに過酷であり,相当の割合で達成することはできず,4年か5年かけることになる。

 当ゼミの例でも,博士課程修了者(見込み含む)11名が要した在学期間の平均は4.2年である(このほかに休学期間がある)。そして在学中に3本の論文を掲載可までもっていった院生は,記憶の限り1人だけ,2本掲載可に至ったのも5人である。3本書けない院生は,せめて博士論文と査読付き1本と国際会議1本などという風に妥協することになるのである。

 もちろん,建前としては博士課程は3年で修了すべきであるし,大学はそのように指導すべきだということになっている。だが,無理なのである。その理由を,過去との対比で説明しよう。

 かつて日本の文系では,博士とはライフワークとなる分厚い書物により,論文博士として取得するものであった。課程博士はめったにとれなかったのである。逆に言えば,博士でなくても大学教員になれた。ただ,もちろん研究能力を証明しないとなれないのであり,博士課程では博士論文は書かずに,学術論文を3本程度書くことに集中したのである。私の恩師である金田重喜教授は,院生の顔を見るたびに「30歳まで3本書かんといかん」というのが常であった。1人当たり年に30回ほど言われるのでげんなりしたものだが,結局のところ3本書いた院生の就職率はそうでない院生より圧倒的に高かったので,「金田の法則」と名がついたほどであった。私も博士論文など夢にも思わず,「30歳まで3本」の強迫観念にとりつかれ,内容はとにかく無理くり執筆した。

 1990年代に大学院重点大学が登場し,予算が増える代わりに,それまでごく少数しか入学させていなかった院生を定員通りにとることとなった。また,制度に即して3年できちんと修了させねばならないということにもなった。そのため,博士論文の基準は,さすがにライフワークではまずかろうと,論文3本分くらいの,公表に耐えるものくらいに調整された(大学により異なる)。わかりやすく長さで言うと,A4×100ページ前後の博士論文も増えた。

 しかし,問題は,「30歳まで」かどうかは別として(いろいろな年齢の院生が増えたので),院生が博士課程在学時に査読付き論文を書かねばならないという制約はまったく変わらなかったことだった。むしろ,大学紀要でなく査読付き雑誌に載せるべきだとされた点ではハードルは上がった。

 なぜ変わらなかったかと言うと,論文がないと就職活動に参戦もできないからである。私の感触では,教員に公募して門前払いされないためには,最小限3本の書き物(すべて論文でなくても,せめて国際会議ペーパーや査読付きプロシーディングなどあわせて3本)が必要だった。院生は,3年間の間に,多少は簡単になった博士論文を書くと同時に,学会や国際会議で報告をし,ディスカッションペーパーを書き,改訂して査読付き論文を雑誌に,できる限り3本掲載しなければならなくなった。

 ハードルは上がったが,挑戦する院生の側の条件も変わった。以前に比べ「3度の飯より研究優先」のような人々ばかりではなくなったのである。パートナーや子どものいる者,親を介護する者,社会人からの鞍替え組,ビジネスパースンの道も残しておきたい留学生など,研究以外のことも考えて,よりまっとうに毎日を送らねばならない人が増えた。

 新世代の院生に「3本」の代わりに「博士論文プラス査読付き3本」を3年間で要求することは,到底無理であった。したがって現実的には妥協するしかなく,5年かけてこれを達成するか,あるいは博士論文と査読付き1本程度を3年で書き,あとはポスドクになってから論文執筆をするとか,そういうやり方になることが多かった。


3.資金問題:支援年限の3年期限と有給ポスドク職の少なさ

 さてここで資金問題が入る。院生に対する政府・留学生の母国政府・大学・民間の各種奨学金は,ここ数年で急速に充実してきてありがたい限りである。しかし,これらはほとんど所定年限,つまり3年しか支給されない。院生は留年するとたちまち経済的に困窮するのである。

 そして理工系に比べて致命的なのは,文系では有給ポスドク職が極端に少なく,大学院を修了しても,やはり困窮するということである。有給ポスドク職にはいろいろあるが,多くの場合,組織やプロジェクトの「研究員」となって研究に専念するものである。もっとも待遇がよいのは給料と研究費が両方もらえる学術振興会の特別研究員PDであろう。しかし,これらのポストは数が少ない。1996-2000年に「ポストドクター等1万人支援計画」なるものが実施されたはずであるが,その効果は文系に限ってはほとんどなかったと言ってよい。いや,もちろん少しはポストが増えただろうが,大学院重点化により,博士の方がそれより増えたのである。当研究科では,やむを得ず無給の「博士研究員」という資格をつくって,仕事のない博士が大学に籍を置けるようにしている(博士を取得した留学生の場合,このような何らかのポスドク資格がないと,日本にいることもできなくなる)。

 こうなると,いよいよもって教員は「3年の間に博士論文と査読付き雑誌3本掲載を目指せ。そうしないと経済的にたいへんなことになるぞ」という過酷な要求を院生につきつけねばならない。しかし,「3度の飯より研究優先」の院生でもそれは難しいし,そうでなく子育てや介護をしている院生にはいよいよ無理である。やらねばたいへんだが,できるはずがないという悪循環である。


4.「任期付き大学教員」以前の問題

 これが,「期限付き助教」になる以前の話であることに注意してほしい。大学教員職が期限付きの職に偏り,雇用が安定しないという話は既に広く知られている。それはそのとおりであり,いまさら私が言うまでもない。ここで言いたかったのは,期限付き助教になる以前に,これほどの困難が,研究者志望の博士課程院生の前に立ちふさがっているということなのである。

 確かに,ポスドクを乗り切れば,期限付き助教の職や,テニュア・トラック助教の教員職はそれなりにある。しかし,大学全体が人手不足になっているため,助教にも授業をしてもらうことが多い。そして授業をしてもらうとなると,1)博士の学位と2)査読付き雑誌3本程度は必須なのである。このハードルを,資金援助を得られる期間内にクリアすることが難儀なのである。ハードルを回避する方法もないではないが,3)非常勤講師歴が豊富であることや,4)一度,民間のリサーチ職に就いていること,などになるので,大学でずっと研究に専念してきた若者にはなかなか満たせない。


5.まとめ

 長々書いてきたが,要するに教員になるために必要な訓練期間は3年を超えるのに,資金援助が得られるのは3年だという矛盾が,文系の博士課程院生を苦しめているのである。正直に言って,あと2年分,つまり1人につき3年でなく5年の研究生活について資金援助がなければ,文系の研究者を育て続けることは難しいだろう。留年者への支援でも有給ポスドク職でもどちらでもよいからこれが必要だというのが私の意見である。

「『博士離れ』浮き彫り、学生2年連続減 就職状況厳しく」日本経済新聞電子版,2022年8月24日。

「学校基本調査-令和4年度(速報) 結果の概要-」文部科学省ウェブサイト,2022年8月24日。

<続編>
「研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年8月24日。


2022年8月31日水曜日

『アジア経営研究』第28号と『ベトナムの味』

 『アジア経営研究』第28号が届きました。当ゼミの修了生Nguyen Kim Ngan グエン・キム・ガンさんの論文”Issues in international manufacturer-supplier relationship: A multi-case study of Vietnam's motorcycle industry”も掲載されました。ちょうどガンさんから,彼女も編集に参加した一般社団法人BETOAJI発行の『ベトナムの味』をいただいたところでした。おめでとう。そして,ありがとう。







2022年8月28日日曜日

JFEスチールが西日本製鉄所倉敷地区で高炉1基を停止し大型電炉を増設するという報道に接して

 JFEスチールが西日本製鉄所倉敷地区の高炉1基を2028年前後に停止し,あわせて大型電炉を建設するという報道。日本製鉄に3年遅れを取ったが,ついに決断したか。事実だとよいが(9/1 JFEスチールはカーボンニュートラル戦略説明会を開催し,この報道が事実であることを裏付けた。)

 NHKは正確に報じているが,時事通信社の配信に依拠したメディアは「高炉を電炉に転換」と書いている。これはやや筆が滑ったところがあり,正確には電炉と同次元で対応するのは転炉である。高炉は鉄鉱石から銑鉄(溶銑)をつくり,その溶銑をつかって転炉で粗鋼をつくる。電炉はスクラップや銑鉄・還元鉄などから粗鋼をつくる。転炉は溶銑の持つ熱を利用するので,高炉が隣接していないと効率的に操業できない。

 だから,この報道が正しいとすれば,その意味するところは,高炉を1基減らし,対応する転炉の能力も縮小し,それで減る分の粗鋼生産を電炉でカバーするということだろう。

 鉄鋼業は製造業最大のCO2排出源であり,その原因は酸化鉄である鉄鉱石をコークスと微粉炭,つまりは炭素を用いて還元するからである。この問題を根本的に解決するのは,炭素でなく水素で還元する次世代製鉄法である。それにはやや劣るが有効な方法として,排出されるCO2をCCUS(二酸化炭素回収・利用・貯留)で貯蔵または再利用することも構想されている。しかし,いずれにせよ実用化にはまだ時間が必要だ。さしあたり,既存技術である電炉法の適用範囲を拡大すればCO2排出は抑制できる。電炉法では主原料として鉄スクラップを使うので,高炉が不要になるからだ。当面,これでしのぐしかない。

 電炉法で高級品を製造するのは,多品種・少量生産で,二次精錬などの多数の工程をかけてやれば可能である。あとは価格とコストの見合いである。特殊鋼電炉メーカーはそのような生産方式で成り立っている。しかし問題は,現代社会は,大量生産品の鋼材にも高級化を求めているということだ。その最たるものは自動車のボディである。

 高級化は仕様の多様化でもあり,鉄鋼メーカーに入る受注は小ロット化する。高炉メーカーはこれを何とか大ロットにまとめ上げて効率性を維持しつつ,高級品を製造する技術開発を進めてきた。そのため,高級化した大量生産品の知識・ノウハウは,高炉・転炉法での製造技術として高炉メーカーに蓄積され,また学界での研究もおこなわれている。

 高級化した大量生産品の製造を電炉法に切り替えようとすると,以下のことが課題となる。

1.電炉自体の大型化。これは世界ではすでに実績があり,さほど困難ではない。
2.高品質なスクラップまたは直接還元鉄の調達。少量なら問題なくとも,大量にとなると容易ではない。
3.高級品の知識・ノウハウの高炉・転炉法から電炉法への置き換え。これも長年高炉・転炉法に固着していたため容易ではない。メーカーのR&Dだけでなく,学界や大学での研究の重点を含めて転換が必要だ。
4.電力業の脱炭素化。電炉とは電気炉の略称で,その名の通り電力を大量消費する。なのでEVと同じで,温暖化防止には発電でのCO2排出を抑えねばならない。鉄鋼メーカーがCO2排出の少ない電力を選択して購入したり,電力業に直接・間接に関与したりする動きも広がるだろう。例えば,太陽光発電の普及により,昼間電力が余り気味になるという現象が生じているので,長年,夜間操業を強いられてきた電炉メーカーは,今後昼間操業に転換し,太陽光発電業者から集中的に電気を買うことが考えられる。

 今回の決断はJFEスチールのものだが,これらの転換を担うのは,何も既存高炉メーカーや既存電炉メーカーに限られない。次世代技術や業際的ビジネスモデルをひっさげたスタートアップやアライアンスを含めて,様々な担い手に機会を開くことが必要だ。

「JFEスチール 高炉1基を休止し「電炉」建設を検討 脱炭素加速へ」NHK NEWS WEB,2022年8月27日。

「JFE、高炉1基を電炉に転換 岡山の製鉄所、27年にも」時事通信社,2022年8月26日。

JFEスチール カーボンニュートラル戦略説明会 [2022年9月1日],JFEスチール株式会社。


<参考>

「日本製鉄広畑製鉄所の製鋼工程が電炉法に切り替わることについて」Ka-Bataブログ,2019年11月19日。

川端望「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」『粉体技術』第12巻第10号,日本粉体技術工業協会,2020年10月,15-19頁。

「脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか(『Value One』No.73,株式会社メタルワン,20201年7月15日掲載原稿)」Ka-Bataブログ,2021年7月16日。


2022年8月23日火曜日

預金貨幣の内生的供給と外生的供給:岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社,1948年の先駆的意義

  岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』は,戦後直後の日本におけるインフレーションを,貨幣理論によって把握しようとした労作である。本書は1948年発行であり,紙質も印刷状態もよくないものであって,今日どれほど残存しているのかが懸念される。しかし,実は本書は,今日の貨幣をめぐる論議に見通しを与えてくれる先駆的なものだと,私は考えている。

 本書で重要なのは副題である。岡橋氏は,戦後直後のインフレーションを念頭に置いて,「こんにち,銀行券にかはって預金貨幣が支払流通手段の中心的形態」(序言3頁)であると述べている。インフレーションは,商品流通に必要な貨幣量を超えて,貨幣代替物が流通界に投じられた際に生じるものである。この貨幣代替物の主役が預金貨幣だと岡橋氏は主張しているのである。

 これは,金融実務に携わる人にとっては当たり前のことである。実務家は,戦後直後であれ21世紀であれ,預金が通貨として大きな役割を果たすことを知っている。マネーストック指標のM1,M2,M3は預金通貨を含んでいることは少し調べればわかることである。

 ところが,多くの一般市民,経済評論家,経済学者は,実はそのように考えていない。今日では多くの人が,しばしば銀行振り込みを利用し,公共料金やクレジットカードの利用高を口座引き落としで決済している。しかし,同時に国や中央銀行が定めたものだけが貨幣であり,現代の通貨制度とは「中央銀行がお札を刷って通貨にする」ものだと思いこんでいる。そして,財政赤字やインフレを論じる時も「日銀がお札を刷ってばらまく」云々という風に考えている。そして深刻なのは,一般市民だけでなく,経済評論家や経済学者も真顔でそのように論じることである。場合によって,経済学の教科書にその趣旨が記されていることすらある。この考えに立てば,通貨供給とは日銀券の発行であり,インフレーションとは日銀券の刷りすぎから起こるということになる。

 これは間違いであって,経済学の理論でも預金貨幣を正面からとらえねばならないと,岡橋氏は1948年に述べているのである。

 ここで説かねばならない問題がある。預金貨幣といっても,中央銀行当座預金は直接商品流通を媒介しない。民間の取引で用いられているのは市中銀行の預金である。では,銀行の企業に対する貸し付けによってインフレーションが起こるのだろうか(※1)。そうではないと岡橋氏は言う。「インフレーションとは国家の強権的な貨幣的手段の創造によるところの一般物価の騰貴である」(序言2-3頁)。つまりは政府が税収以上に支出する財政赤字,そのための国債の発行から生じるものである。では,どうして政府の財政赤字が,中央銀行券の過大な発行でなく市中銀行による預金貨幣の過大な発行となるのか。岡橋氏は,戦時統制期の軍需に即して以下のように言う。

 「赤字公債のうえに形成された日本銀行における政府当座預金は,政府支払小切手によっていろいろな軍需会社に撒布された。これらの政府小切手は,それぞれ軍需会社の取引銀行をつうじ,手形交換所をへて日本銀行に提示され,ここに政府当座当座預金は一般預金にふりかえられたのであって,前者の減少が後者の一般預金の増大となってあらはれたのである」(104-106頁)。

 これは,軍需会社を政府の支出先企業とし,手形交換所を電子交換所とすれば,21世紀の今日も同じである(※2)。

 つまり,財政赤字による通貨供給量の増大の多くは,預金貨幣の増大となって表れる。この増大分が,商品流通量の増大を超えている時にインフレーション作用が生じるわけである。念のためいえば,岡橋氏は財政赤字が直ちにインフレを起こすと述べているのではない。失業を減らし,遊休設備を稼働させ,滞貨を動かして,通貨供給に見合った商品流通量の増大を引き起こすのであれば,インフレーションは起こらないのである。

 さて,こうした財政赤字による預金貨幣の発行を,岡橋氏は「信用貨幣の変質」と呼んでいる。預金は銀行の債務であって,預金貨幣は信用貨幣である。しかし,同じ預金貨幣であっても,ほんらいの信用貨幣の場合と変質した場合があるというのである(※3)。

 銀行が企業に貸し出す際に生み出される預金貨幣は,商品流通に対応したものである。そして,貸付金が回収されれば消滅する。よって,商品流通の内在的な動きに応じて伸縮性を持っている。商品流通が拡大するから貨幣流通量も増えるし,逆なら逆である。現代の用語で言えば,貨幣は内生的に供給される。

 しかし,財政赤字を通して生み出される預金貨幣は,流通外から政府が権力的に投じたものである。そして,上記のような伸縮性を持たない。縮小させようとすれば,政府が課税を強化するなどして,やはり権力的に回収するしかない。つまり,ここでの貨幣供給は外生的である。

 銀行貸出を通した預金貨幣の供給は内生的であり,財政赤字を通した預金貨幣の供給は外生的である。同じ預金貨幣でも供給ルートによって性質が異なる。このことを,岡橋氏は1948年に見抜いていたのである。

 この見地からは,今日の貨幣をめぐる議論に二つの示唆が得られる。

 まず一つ目は多くの研究者や市民への警告である。多くの研究者が,金兌換が停止された預金通貨は信用貨幣ではなく不換国家紙幣だとみなしており,その日常感覚バージョンとして,多くの人が日銀が自らの意思でお札を刷って紙幣を供給できると考えている。これらは日銀・銀行ルートの貨幣供給を外生的とみているのである。しかし,これでは,預金通貨が市中銀行の貸し出しと回収を通して伸縮することを説明できない。この見地をとってはならないのである。

 もう一つは,内生的貨幣供給論者への注意である。内生的貨幣供給論者は,銀行の貸し出し・回収による貨幣供給量の伸縮を正しく説明する。その点で外生的貨幣供給論よりはるかに妥当である。しかし,そこから,信用貨幣であるから,いつでもどこでも内生的に供給されるのだと硬直した規定を与えてはならない。うかつにそうすると,財政赤字を通した預金貨幣供給が外生的であることを位置づけられなくなる。信用貨幣論は,信用貨幣が供給ルートによって性質を変えることまで射程を伸ばす必要がある。

 以上が,1948年発行の本書から得られる認識である。岡橋保氏の学説は,今日の貨幣をめぐる論議を深めるために,なお深く検討する価値を持つものだと,私は考える。


余談:本書は世界文化社から発行されている。この出版社は,戦前に存在した雑誌『世界文化』とは関係がない。しかし,現在存在している「世界文化社グループ」とも異なる。その実態は「電通」である。住所が「電通ビル」となっているが,これは現在の電通銀座ビルである。電通は1946年に総合雑誌『世界文化』を発行したが,GHQによって「活動制限会社」に指定されたために出版事業を縮小し『世界文化』の発行も,大地書房,そして世界文化社に移されたのである。
 また,同社の代表は廣西元信氏である。マルクス経済学の世界では著書『資本論の誤訳』で有名であり,また空手家として有名な人物である。廣西氏が『世界文化』の編集に携わっていたことは知られているが,同社の代表も務めていたのである。
 世界文化社の本は1953年くらいまで出ていたようであるが,それと入れ替わるように1954年には,子供マンガ新聞社と世界文化画報社が改組されて世界文化社となり,現在の世界文化社グループに至る。両社に何らかの関係があったのかはわからない。


※1 そうだという研究者もいる。この見解については以下で論評した。
「インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話」Ka-Bataブログ,2022年1月25日。

※2 こうした預金をめぐるオペレーションを貨幣理論のモデルに組み込まねばならないことは,今日,MMT(現代貨幣理論)が主張しているところである。その点ではMMTが妥当である。岡橋氏を含むマルクス派信用貨幣論とMMTは信用貨幣論において共通するところが多いが,商品貨幣論から出発して信用貨幣論に至るか,表券主義と信用貨幣論を使い分けるかというところが異なる。この点は以下で対比した。
「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

※3 これを岡橋氏が「変質」と呼ぶ理由は,政府の財政赤字による通貨投入は,商品流通の必要性に応じたものではないからである。なお,ここでは,国債を民間に向けて売り出した場合と日銀引き受けとした場合とでどのような相違があるかについては触れなかった。この点では岡橋説と拙論は異なってくるが,それはまた別の論点となる。







大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...