講義動画「現代資本主義におけるマクロ経済政策」の公開。続き。
需要不足により生じる失業は自由放任では解消しない 現代資本主義におけるマクロ経済政策⑭
投資と消費を左右する流動性選好 現代資本主義におけるマクロ経済政策⑮
川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
「経済学入門A」のオンライン講義最終回の抜粋,第2回。この講義は小経営的生産様式と自由な小商品生産を区別し,前者が基礎になって後者が成立するのは長い歴史的過程を経てのことであるという風に『資本論』を読んでいます。
生産様式とは,一定の生産関係の中での生産諸力の運動形態であり,具体的には労働手段と労働の結合の具体的なあり方です。つまり,直接には生産力のありかたであって生産関係のあり方ではありません。しかし,どのような生産関係にフィットするかという適合・不適合があります。そして,もっともフィットする生産関係が名称について「封建的生産様式」「資本主義的生産様式」などと呼ばれるのです。
小経営的生産様式は,小経営という生産関係にフィットしたものです。小経営は社会全体を長い時期にわたって支配する生産関係ではありません。むしろいろいろな前資本主義的生産関係の中にある経営様式であり,解体する共同体にかわり,また変容する共同体とともに,ゆっくりとはったつしてくる経営様式です。そして,発達し切ると,自由な小商品生産の下での小経営的生産様式になります。商品経済の中で独立した自営農民や独立した手工業者です。そのとき,生産手段の法的所有という意味でも,生産物の経済的取得様式という意味でも,個人的所有が発達します。
しかし,自由な小商品生産は,社会全体を支配することなく,発達すればするほど資本主義的生産に転化してしまいます。そうすると,個人による生産手段の法的所有は法的建前に過ぎなくなり,大多数の直接生産者は生産手段を持たない賃労働者になります。また,経済的取得様式としての個人的所有は,他人を搾取すればするほどより多く搾取できるという資本主義的取得法則に転化してしまいます。これが個人的所有の第一の否定です。
この見解は,大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年と栗原百寿『農業問題入門』青木書店(初版,1955年,有斐閣)に強く影響を受けてまとめたものです。いずれも今後アップする動画の第9回で文献リストに掲げています。
資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 個人的所有の生成と否定
東北大学経済学部で2020年度第2学期に1年生向けに行った「経済学入門A」のオンライン講義から,2021年1月18日に行った最終回の後半部分を,9本に分割して配信します。講義内容はマルクス経済学の入門で,教科書に使用したのは大谷禎之介『図解 社会経済学 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年です。動画の内容は,教科書第1篇第10章「資本の本源的蓄積」第2節「資本主義的生産の歴史的位置」に相当する部分です。これは,カール・マルクス『資本論』で言えば,第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に相当する部分です。
第1回は小経営的生産様式の歴史的位置づけを行ったものです。小経営的生産様式を重視するのは,ある意味では東北大学における経済学研究の伝統であり,これを定式化した業績は栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年に帰せられます。栗原理論の問題意識は安孫子麟氏に受け継がれ,その新たな定式化は,安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年などに示されています。また,これとは別に,平田清明氏の個体的所有論をめぐる討論から大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店が書かれました。私はこれらの業績から多くを学びました。
1.はじめに:マルクス経済学でインフレーションとバブルを理解する枠組みを求めて
『前衛』2022年2月号に建部正義氏の論稿「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」が載っている。日本共産党は,貨幣・信用論をリジッドに統一しているわけではない。『前衛』や『経済』に寄稿されるマルクス経済学者も一枚岩でなく,管理通貨制度下の貨幣についての捉え方では,二大理論,つまり国家紙幣=価値章標(価値のシンボル)説と信用貨幣(手形)説の両方が存在している。建部氏の見解も,氏の独立した学問的見地に立ってのものであることは言うまでもない。ここで私が書くことも日本共産党への論評ではなく,あくまでも建部氏との学問的対話である。
ここでは,建部氏の見解と対話することで,「マルクス経済学の概念と理論を前提した場合に,現代のインフレーションとバブルをどのように規定すべきか」を考えてみたい。建部論文は,この大きな課題に挑まれたのであり,胸を借りるに適した研究だからである。私自身は,マルクスの理論がすべて正しいと考えるものではないが,マルクスの理論の延長線上で現代資本主義をどこまで捉えられるかは,やはり限界まで突き詰めねばならないと考えている。そのためにも,まずは建部氏とともにマルクス経済学の基礎に立って討論したい。
2.不換制下の預金貨幣と銀行券は信用貨幣でないとする建部説
前述のように,マルクス経済学において,管理通貨制度,言い換えると不換制のもとでの貨幣の捉え方は,価値章標=不換国家紙幣説と信用貨幣=手形説に大別される。まず,この点での建部氏の見地を確認しよう。建部氏は,マルクス『資本論』の記述を解釈して,大要以下のように言われる。
まず,兌換銀行券は金支払約束という意味で信用貨幣である。兌換制下での帳簿信用による預金貨幣も,兌換銀行券支払約束という意味で信用貨幣である。これらは貨幣流通法則にしたがう。
対して,不換銀行券は信用貨幣ではなく,不換国家紙幣の流通法則にしたがう。不換制下の帳簿信用による預金貨幣は,不換銀行券に対する支払約束に過ぎないから,信用貨幣ではなく不換国家紙幣の流通法則にしたがう。
つまり,建部氏は現代の預金貨幣や日本銀行券は信用貨幣でなく不換国家紙幣だという見地に立っている。ここからいろいろな問題が起こってくるのであるが,まずは氏の言うことを聞き続けよう。
3.インフレーションのマルクス的定義と建部説との関係
マルクスの貨幣流通法則とはいろいろな内容を持っているが,ここで重要なのは,商品流通に必要になれば流通に入り,不要になれば商品交換の作用により流通から出るという法則性である。つまり貨幣流通量に伸縮性があるということである。金貨をイメージすればお分かりだろう。他方,国家紙幣流通法則とは,商品流通に一度入ったら,商品交換の作用によっては流通から出られないということである。つまり国家紙幣の流通量には伸縮性がなく,国家権力が回収しない限り増える一方なのである。建部氏は詳細を説明してないが,明らかに上記の法則を念頭に置いている。そして,私も異論はない。
ここでインフレーションをマルクス的に定義するとどうなるか。建部氏によれば,「インフレーションとは『商品流通に必要な金の総額』,すなわち,流通必要金量を超える不換通貨(金と交換されることのない政府紙幣,不換銀行券や不換制下の預金貨幣のこと)の過剰発行によって生じる名目的な物価騰貴のこと」(p. 75)である。私は後述するようにカッコ内に同意できないが,それを除けば異論はない(※1)。
建部氏はこの定義を念頭に置き,兌換制下の信用貨幣ではインフレーションは起きようがなく,不換制下ではインフレーションが起き得るというのである。
4.不換制下の信用貨幣を本質規定では否定し,「現在の通貨供給の基本メカニズム」では事実上肯定する建部説
このようにマルクス解釈をした上で,建部氏は「現在の通貨供給の基本メカニズム」を論じる。
それは,企業や家計からの銀行に対する借り入れ需要に対して,銀行が帳簿信用(預金創造=信用創造)で預金貨幣を供給し,返済によって預金が消滅するというものである。銀行は創造した預金貨幣額に応じて日本銀行に準備預金を積まねばならない。この準備預金をネットで増加させることができるのは日本銀行だけである。日銀は,預金創造=信用創造活動に基づく銀行の追加準備預金需要に対しては,基本的に受動的に対応する。しかし,ある程度は金利政策を中心とした金融政策で銀行貸出に影響を与えることはできる。
日銀券は,企業や銀行が預金を銀行から引き出す場合に発行される。まず銀行が日銀から日銀券を引き出し,この日銀券が企業や家計の手に渡される。
建部氏の「現在の通貨供給の基本メカニズム」は,みなもっともである。建部氏はマルクス経済学内において内生的貨幣供給論者として知られており,ここで書かれていることも金融システムにおける内生的貨幣供給論そのものである。
しかし,私は目を点にせざるを得ない。建部氏は,不換制の下でも預金貨幣は伸縮性を持つと言い,商品流通を予定した預金貨幣が貸し出しによって流通に入り,返済によって流通から出ると言っている。そして,日銀券は,預金をおろすと預金が減った分だけ日銀券が発行されるのであり,日銀券の運動は預金貨幣の運動に従属しているとみなしている。ならば,預金貨幣も日銀券も国家紙幣流通法則ではなく,貨幣流通法則に従っているとみるのが普通だろう。金と交換されなくても信用貨幣だと見るのが普通だろう。貸し出し・返済をとおした通貨供給からはインフレーションは起きないと見るのが普通だろう。ところが,建部氏は,マルクス解釈のところでは,不換制下の銀行券と預金貨幣は不換国家紙幣であって国家紙幣流通法則にしたがいインフレーションを招きやすいと言われるのである。これは水と油のごとき,矛盾と言わざるを得ない。
5.過剰な貸付けによるインフレーションを認める建部説
それでは,建部氏は「現代インフレーションの発展プロセス」をどう説明されるのか。「インフレーションとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出という要因と中央銀行によるその見落としないし追認という要因とが重なることによって生じる」(p. 80)とすることによってである。ここで財政赤字や,まして日銀の国債引き受けなどもまったく登場していないことに注意していただきたい。建部氏は,財政的要因がまったくなくとも,銀行による過剰な貸し出しによってインフレーションが起きるといわれるのである。これは「信用インフレーション説」と呼ばれるものの極端な形態に他ならない。
しかし,企業や家計が必要とする場合に貸し出しが行われ,貸し出しは貸し倒れなければ返済されるとすれば,それは,商品流通が拡大しようとする時,すなわち流通必要金量や通貨量が増える時に通貨が増え,商品流通が収縮して,流通必要金量や通貨量が減る時に通貨が減るだけのことである。いったい,どうしてこれで貸出が過剰になるのだろうか。どうすれば,名目的物価騰貴としてのインフレーションが起こるのであろうか。建部氏はこのことを全く説明されない。
6.土地にも流通必要金量を認める建部説
建部氏は,次いでバブルに話を移し,「バブルとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出によって生じる地価などの資産価格の高騰」(p. 82)だと規定される。
建部氏は,地代の資本還元によって計算された土地の購買価格をもとにして,「土地の売買に必要な貨幣量を流通必要金量に含めることはできない相談であろうか。できるはずだというのが筆者の考え方である」(p. 82)という。この論法で行けば,配当の資本還元によって株式価格も,利子の資本還元によって債券価格も,証券の売買に必要な流通金量があるということになるだろう。私は,マルクス理論に立つ限り,労働価値を持たない土地や株式や債券について流通必要金量を認めることはできないと考えるが,今の主要問題はそこではないので,いったん脇に置く。要は建部氏の言うバブルとは,インカムゲインの資本還元を超えるような土地・金融資産価格の高騰のことであろう。これはこれで,一つの根拠を持つ見解であるとは思う。
7.インフレもバブルも過剰な貸付けで起こるとする建部説の問題点
しかし,建部氏がインフレとバブルを総合して次のように言う時,再び問題が生じる。「インフレーションもバブルもじつは同じ根っこから発生する現象に他ならないというわけである。過剰な貨幣が商品の購買にまんべんなく振り向けられるならば,インフレーションが発生し,それが資産の購買に特化して振り向けられるならば,バブルが発生することになる」(p. 82)。果たしてそうか。インフレとバブルは理論的に同根か。私はそうではないと思う。
繰り返し述べるが,企業が銀行から借り入れを行い,その預金やそれをおろして得た日銀券で設備投資や在庫投資を行ったり,運転資金を借り入れて仕入れ代金や賃金を支払ったりする分には,貸し出しは過剰になる余地はなく,インフレーションは起こらない。もし景気が過熱して借り入れが盛んになり,財・サービスが需要超過となったとしても,また日銀が銀行の盛んな貸し出しを「見落としないし追認」していたとしても,それは日常用語ではインフレーションだが,建部氏も私も共有するマルクス的定義ではインフレーションではないはずである。短期的には,価格の価値からの上方への乖離に過ぎない。そして資材や人材のひっ迫によってついに生産費が高騰すれば,それは商品の労働価値が増大するという実質的物価上昇である。国家紙幣の過剰投入による名目的物価上昇=インフレーションではないはずである(※2)。
こうして,建部氏はインフレでないものを無理くりインフレ扱いしてしまっている。そうしなければならなかったのは,不換制下の預金貨幣や日銀券を不換国家紙幣扱いしてしまったからであろう。預金も日銀券も伸縮性を持ち,内生的に供給されると認めているのだから,これを素直に信用貨幣であるとみなすべきだったのである(※3)。
他方,バブルについては,建部氏の見解にも一理ある。企業や家計が,キャピタルゲインの獲得を目的として銀行から借り入れを行った場合,この通貨は商品流通を媒介しない。マルクス的な表現では遊休貨幣になり(※4),とりあえずは預金やたんす預金の形態をとる。しかし,預金や日銀券のままで遊休するとは限らず,価格が高騰した土地や株式という,労働価値の裏付けがない架空資本の購入に向かうことがある。手放された通貨は土地や株式の売り手に移り,買い手は架空資本価値を手に入れる。マルクス経済学の架空資本規定からは,こう理解できる。この場合,売りより買いが強ければ架空資本価値は高騰する。その価格形成にも,もちろん一定の法則は働くが,労働価値の裏付けがないために,何らかのきっかけで需給バランスが崩れ,暴落することもあり得る。その際,インカムゲインの資本還元価格は,おおむね底値となるだろう。この架空資本価値の高騰は,たしかに不換制のもとで,銀行の過剰な貸し出しによって起こり得るのである。
8.おわりに:銀行貸出によるインフレは起こらないがバブルは起こる
以上,建部氏の見解について,批判を述べるとともに,共有できる部分を明らかにした。最後に拙論を対置しよう。
マルクス経済学的に思考するならば,同じく持続的な物価上昇であっても,1)インフレーションという名目的物価上昇,2)価格の価値からの一時的乖離,3)実質的物価上昇は区別しなければならない。またA)労働価値を持つ商品の世界に生じるインフレーションと,B)架空資本価値の世界に生じるバブルは区別しなければならない。
不換制下であっても預金貨幣や日銀券は信用貨幣である。銀行システムを通した通貨供給は商品流通の拡大にしたがう内生的なものであり,伸縮性を持つ。しかし,内生的に供給された通貨は,遊休貨幣となり得る。遊休貨幣が金融資産購入に買い向かうと架空資本価値の肥大化が起こり,バブルが生じる。
不換制下であっても,民間の信用制度はインフレーションを起こさない。景気過熱時に生じる物価上昇は,価格の価値からの上方乖離や実質的物価上昇である。しかし信用制度は,バブルは起こし得るのである。
それでは,マルクス的意味のインフレーションは,何によって起こり得るのか。それは,信用制度,日常用語では金融システムによる内生的通貨供給によっては起こりえない。財政システムによる外在的通貨供給によって起こるのである。その説明は,また別のまとまった話となる(※5)。
※1 流通必要金量は重量でしか表現できないので,厳密には,金の重量と価格の度量標準が関係づけられ(金1g=X円などというように),それによって流通必要貨幣量が価格タームで決まり,それを超える分が「過剰」とされる,というべきだろう。
※2 あるいは,建部氏は貸し倒れが頻発して商品流通が停滞し,不良債権だけが残る場合を想定しているのかもしれないが,まったく説明されていないので何とも言えない。
※3 より立ち入って言うと,「金支払約束だから信用貨幣」「金と交換されないから国家紙幣」という建部氏の定義の仕方に問題があると思う。別に金と交換されなくても,手形は信用貨幣という性質を失わない。手形決済は,金での支払いだけによってなされるのではないからである。手形は,手形を振り出した者への債務返済に用いることができる。また手形は多角的な相殺によっても決済できる。手形を,より信用度の高い債務によって決済することも可能である。不換制で否定されるのは正貨での決済だけであり,種々の相殺と信用代位の機能は何ら否定されない。よって,手形が手形でなくなるわけではないのである。この点は岡橋保,村岡俊三両氏の見解による。
※4 銀行に眠っている預金やたんす預金は,商品流通界からは出ていない。しかし,商品流通を媒介せずに一時遊休しているのである。よって,流通外の蓄蔵貨幣ではないが,遊休貨幣である。この点は,岡橋保氏の見解をヒントに拡張した。
※5 説明が十分とは言えないが,さしあたり以下をごらんいただきたい。
「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」Ka-Bataブログ,2020年11月19日。
『日経』は大丈夫か。この記事は電子版では会員限定だが,紙版では1面だ。1面から思い切り間違ったことを書いている。念のため言うが,思想が偏っているから悪いとかいう話ではなく,まるきりテクニカルな問題である。
見出しは良い。「円の実力低下」「弱る購買力」である。過度な円安により,円の購買力が下がっていることのマイナス面を論じたいのであろう。それはわかる。
ところが,「日本の物価が安いのがまずい」という,全然別の観点が紛れ込んでいるために,わけのわからない記事になっている。それは,ビッグマック指数の見方に現れている。
ビッグマックが,いま現に日本では390円で,アメリカでは5.65ドルで売られているのであれば,ビッグマック為替レートは390/5.65=69.03により,1ドル=69.03円である。このレートならば,ドルと円の購買力は同じとなる。ところが実際には1ドル=115円なので,69.03/115=0.6で,ほんらいの60%の購買力しかなくなるほどに円は過小評価されていることになる。これが,ビッグマック指数のほんらいの考え方である。
ところがこの記事は,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと価格差を埋められない」などと,あたかも,価格が安いことがまずいかのように書いてしまっている。それでは,読者は「え,安くて何が悪いの?」と思って混乱するだろう。ここは,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと,購買力の格差を埋められない」と書くべきだった。円の購買力が低いことと,日本の物価が安いことを混同しているからこんな書き方になったのである。
「円の実力低下、50年前並みに 購買力弱まり輸入に逆風」『日本経済新聞』2022年1月21日。
満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年。非常な興奮を持って読んだ。教科書として書かれたものなので,歴史的叙述のところどころに該当する理論解説が入るという形になっているが,非常に書き込まれた近現代史であると思う。私は流通史研究の素人なので,先行研究との関係はわからないのだが。
何よりも,楽しい。学術的に産業を描写する際の難しいことの一つは,論理的・実証的に厳密に書くことと,学生や一般の読者が,書かれていることを具体的な光景としてイメージしやすく書くことが矛盾することだ。ところが,本書はこの矛盾がほとんどなく,小売店舗が営まれ,人々が買い物をする光景を生き生きと思い浮かべながら,丁寧で,学術的裏付けのある記述を読むことができるのである。どうすればこのように書けるのだろうか。
一方,古くさく大上段な言い方をすれば,「本書は日本資本主義論である」と思う。どこがそうかというと,著者が日本型流通の成立・展開・変質を歴史的に把握しているところであり,また流通における資本主義原理の貫徹と日本的独自性の統一として把握しているところである。そして,小売業という,圧倒的多数が自営から出発した世界から見ることによって,日本資本主義を深くとらえることができるのである。
著者によれば,日本型流通を特徴づけるのは卸売業の多段階性と,小売業の小規模稠密性である。この二つの特徴は,明治時代から1940年代までに成立し,1950年代から80年代初頭までに展開し,それ以降,変容を遂げつつある。
著者によれば,日本型流通が根強く維持されてきた原因は,単に大規模店舗が規制されていたからではない。一方では地域性豊かな消費市場の構造が,画一的な大量流通になじまない状況が長く続いたからであり,他方では家族経営の自営業が頑強に再生産され続けたからである。再びあえて大上段な用語法で読み解くと,ある時期,資本主義的大量流通と自営業の原理は抱合さえしていたことが,スーパーやコンビニエンス・ストアの発展過程から読み取れる。例えば,コンビニエンス・ストアの本部は大量仕入れと小口配送,情報化による単品管理を行い,FCオーナーは家族総出で24時間営業を支え,丁寧なサービスを支え,両者が補完し合ってコンビニは発展したのである。
しかし,やがてモータリゼーションと情報化によって小売店舗の立地が大きく変わり,また調整機能における多段階・小規模稠密性の優位が失われていくことで,今日私たちが目の当たりにしているような専門量販店とショッピングセンターの優位,Eコマースの成長,そして商店街の苦境が訪れる。そして,気が付けば商店街の苦境を取り仕切るのは中高年の男性たちであり,女性は背後に置かれており,後継者は見つかりにくいのである。
著者は,日本流通史から「望ましい流通のあり方はただ一つに決まるものではない」という命題を引き出して強調する。そのとおりだろう。しかし,私は著者はそのことに加えて,「流通は,その社会の歴史から逃れられない」ことと,とくに「資本主義は自営業のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということを明らかにしたように思う(おそらく著者も自覚されているが,そんな暗くて重い言い方をすると学生が「引く」と思って書かないのだろうと,私は邪推する)。後者をもっと敷衍すれば,「資本主義はその社会の家族のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということでもあると思う。このことは,かつて農業を念頭に置いて行なわれた日本資本主義史研究では常識であった。しかし,農業だけでなく,自営業と家族のあり方を念頭に置くべきなのだろう。
著者も触れているが,私達は上述した流通業態の変化とともに,自営業主が減少し,その分だけ非正規雇用者が増える変化の中にある。このことは何を意味するだろうか。多くの人は,肯定的にであれ否定的にであれ,大資本の力と市場原理の強化として把握するだろう。もちろんその通りなのだが,それはことの半面に過ぎないのではないか。日本の資本主義に対する自営業からの作用が弱体化し,ついに社会編成に質的変化をもたらしたととらえるべきではないか。この変化をとらえるために必要な一つの切り口はもちろん労働であるが,実は小売りも重要な切り口だったのである。本書からはそのような示唆を得ることができると,私は思う。
管理通貨制度下における通貨供給,金融政策,財政政策について解説する,学部生向け講義動画を限定的に公開します。管理通貨制度下において信用貨幣が全面的に意義を持つことを述べ,そのことを前提に金融政策と財政政策の原理を論じています。
この講義は,理論的に十分精緻なものとは言えませんが,以下のようにマルクス派とケインズ派を踏襲しているつもりです。
・管理通貨制度の下で,初めて信用貨幣の原理が全面的に貫徹すると考えている点ではマルクス派内マイノリティです。貨幣は本源的には価値物であることが必要だけれど,制度の発展により価値シンボルや手形で代用されると理解するところがマルクス派で,信用貨幣論に基づき金融において内生的貨幣供給論,財政において外生的貨幣供給論を取るところがマイノリティです。
・資本主義において失業の発生を不可避と見る点はマルクス派とケインズ派に従っています。
・現代の貨幣を信用貨幣と理解するところはマルクス派内マイノリティでもあり現代貨幣理論(MMT)と同じでもあります。そこから,財政赤字が傾向的に増えることを不可避としています。
・利子は投資と貯蓄を裁定しないこと,閉鎖系では純投資が貯蓄を決定すること,資本の限界効率によって投資の不確実性が発生することなどは,オールド・ケインジアンに従っています。
(2022/1/7追記)まず第1-7回を公開します。Youtubeにリンクしています
第3回 債務は債務でしか支払えない:金貨で支払うことのない世界
第4回 銀行は,すでに存在する預金を貸し付けるのではなく,預金を無から創造して貸し付ける:そのことによって通貨が生まれる
第5回 金融システムは貸付・返済により,財政システムは支出・課税により通貨供給を調整する
第6回 金融システムを通して内生的に,財政システムを通して外生的に通貨が供給される
第7回 なぜ政府は,金融・財政政策によって経済に介入しなければならないのか
以下は第1-7回のロングバージョンです。
全ての動画を掲載しているチャンネルです。
鉄鋼業をカーボン・ニュートラル化するためには,鉄鉱石を炭素で還元する製造法を改めねばならない。これは,世界の鉄鋼業が等しく直面している難題である。現存技術でこれに貢献できるのは,すでに鉄鋼となって存在している鉄スクラップを電気炉で溶解精錬するスクラップ・電炉法である。もちろん発電でCO2を出さないことが必要であり,発電を再生可能エネルギーで行ったうえで電炉で精錬するということになるだろう。今後,世界の鉄鋼業で電炉法のシェアが高まることは確実である。しかし,それだけで世界の需要をまかないきれるわけではない。どうしても,鉄鉱石を製錬する製造法の脱カーボン化が必要である。いまのところ,その最終的な解決は,炭素でなく水素で鉄鉱石を還元することと想定されている。
この,水素製鉄に向けての技術選択について,日本とヨーロッパで異なる経路が生じつつある。本稿では,このことの意味を考えてみたい。
日本鉄鋼連盟や日本製鉄,JFEスチールのゼロカーボン・スチール構想では,最終目標は水素直接還元製鉄とされている。しかし,両者も日本鉄鋼連盟も,その実用化には時間がかかると考えて,当面は高炉での水素利用,カーボンリサイクル高炉,高炉+CCS/CCU(CO2貯留・有効利用)の開発に注力している。これに対して,自然エネルギー財団の「鉄鋼業の脱炭素化に向けて 欧州の最新動向に学ぶ」(2021年12月14日公開)によれば,ヨーロッパでは,まず天然ガスで還元する大型の直接還元製鉄炉(製鋼は電気炉)を2025-2030年に立ち上げ,これを水素還元に切り替えていくというプロジェクトが次々と立ち上がっている。ヨーロッパメーカーは,早々に製鉄法を直接還元法に切り替えようというのである。
製鉄法が高炉法と直接還元法に分かれると,製鋼法もまた分かれる。高炉法では製造される銑鉄が溶融状態なので,精錬には,酸素を吹き付けるだけで脱炭できる転炉を用いるのが効率的である。一方,直接還元炉で製造されるのは固体としての還元鉄であるため,精錬には加熱・溶解が必要なため酸素転炉が使えず,電炉を使うことになる。高炉は転炉と,直接還元炉は電炉とセットなのである。
高炉・転炉法は現状では非常にエネルギー効率が良い製造技術であり,それ故高炉・転炉法の技術を蓄積している日本の高炉メーカーは,現在に至るまで競争力を維持できている。しかし,もし水素還元が早期に確立すると,直接還元・電炉法の方がCO2削減効果が大きくなる可能性がある。なぜなら,高炉法では,炉内の装入物の荷重を支え,還元ガスや溶けて降下する鉄の通路を確保するために固体のコークスが不可欠であり,これを,気体である水素に完全に置き換えることができないからである。一方,直接還元炉は還元をガスによって行うことができるので,この制約がない。
日本の高炉メーカーは,現存する高炉・転炉による一貫製鉄所の設備と,国内に蓄積されている高炉・転炉法の技術・ノウハウを活用する方が,技術的にも手を付けやすく,また当面は低コストであるために,次世代技術の第一弾として高炉での水素利用を選択しているのだと思われる。対してヨーロッパメーカーは,高炉・転炉法のレガシーが強力でないがために,当初より水素直接還元製鉄を目指していると解釈できる。
もし高炉の水素利用を早期に確立できるならば,当面は日本メーカーが優位に立つかもしれない。高炉・転炉を座礁資産にせずに,長く使うことも可能になるだろう。しかし,技術発展の経路が高炉・転炉法にロックインされると,水素直接還元製鉄技術の最終的確立,CO2排出規制への対応において,ヨーロッパメーカーに遅れを取るかもしれない。
水素直接還元製鉄は,しばらくの間,エネルギー効率においては高炉・転炉法に追い付かず,したがって通常の意味での生産コストは高いだろう。しかし,CO2排出規制への適応性が高いために,カーボン・プライシングのレベルによっては不利は相殺されるかもしれない。CO2排出の社会的費用を含んだ生産コストでは,水素直接還元製鉄が,早々に優位に立つかもしれない。
かつて製鋼技術が平炉から純酸素転炉に置き換わる際に,アメリカ高炉メーカーは,すでに巨額の設備投資を行っていた平炉法の維持・改善に固執して転炉導入に後れを取り,そのことがコスト高・競争力喪失につながった。鉄鋼業の脱カーボン化において,日本メーカーは同じ轍を踏まずに済むだろうか。脱カーボン製鉄技術の選択については,エンジニアリングの側面だけでなく,経済の側面からもよく検討する必要があるだろう。
これをやや一般化して言うならば,既存大企業は,保有する現存の設備・技術を自ら陳腐化させるカニバライゼーションをためらい,従来技術の延長線上にある持続的イノベーションで環境規制に対応しようとする。その分だけ,市場における挑戦者企業よりも新技術採用で後れを取る危険がある。一方,挑戦者企業はレガシーの重みがないために,果敢に新技術に挑戦する。新技術は,しばらくの間は,従来の市場における基準ではパフォーマンスが劣る。しかし,環境規制への適合性が高いために,まず規制や世論による環境基準が高い市場の一部で支持される。その支持を足場にして,挑戦者企業は生産を拡大して生産性とコストを改善する。並行して,技術それ自体も洗練されていく。そして,ついには新技術が従来技術にとってかわり,挑戦者企業が既存大企業にとって代わるかもしれない。クレイトン・クリステンセンの言う「イノベーターのジレンマ」は,カーボン・ニュートラルをめざす環境技術においても生じ得るのである。
本件は,まだデータによって裏付けられる話ではなく,あり得る可能性についての問題提起と注意喚起にとどまる。しかし,関係者がそれぞれの立場から検討すべき論点であることは,間違いないと思う。拙論への賛否を問わず,生産的な討論が起こることを切望する。
2022/4/16 語句修正。
山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年について。日本的経営等についての周辺的な話も交じってはいるが,貨幣制度改革論を中心とした本であり,MMTを批判し大きく異なる通貨改革案を正面から主張しているので読んでみた。
1.主張
著者たちは以下のことを主張している。
1)現在の貨幣システムは,大部分を債務貨幣が占める債務貨幣システムである。
2)債務貨幣システムのもとでは不況やバブルを克服できないし,累積した債務の利払いを通して富が銀行資本に吸い上げられる。
3)貨幣システム改革の決め手は公共貨幣システムである。
著者の言う債務貨幣とは,より一般的な言葉で言えば信用貨幣である。また著者の言う公共貨幣とは,債務ではなく資産とみなされる貨幣であり,日本政府の発行する硬貨はこれに当たる。より一般的な言葉で言えば,政府貨幣や,その電子化されたものである。ただし,資産と見なされると言っても固有の価値を持つ商品貨幣ではなく,古典的用語では価値標章,日常用語で言えばシンボルとしての貨幣である。
著者の主張する公共貨幣システムとは,簡単に言えば次のようなものである。
A)日本銀行を財務省と合併させて政府機関の「公共貨幣庫」とする。つまり,名実ともなる統合政府論である。
B)公共貨幣は政府が創造する,政府にとって債務でなく資産となる通貨である。つまり,中央銀行発行の信用貨幣を廃絶し,シンボル貨幣としての政府貨幣に置き換える。
C)民間銀行の法定準備率を100%とする。つまり,準備金の範囲でしか貸し出せないようにし,無から貸し付けて預金を生み出す信用創造を禁止する。ナローバンク論の一種である。
これによって,バブルは根絶され,利払いによる銀行の支配もなくなり,通貨発行がゼロサム(MMTの言う「誰かの負債は誰かの資産」)ということもなくなって,通貨発行の度に国全体の金融資産が増え,通貨は民主主義的統制のもとに置かれる,と言うのである。著者は,これが大恐慌下でアービング・フィッシャーらによって提案された「シカゴ・プラン」を継承するものだと自負している。だから,経済学的にはシカゴ学派に近いのだが,銀行の利益と権力を排除して民主主義を拡張することを志向しているためか,リベラル側の社会活動家でも肯定的に見る人がいるようだ。
2.批判
(1)デフレ不況を引き起こする金融システム:信用創造の禁止は,実体経済が要求する通貨供給を不可能にする
まず重要なことは,著者が,現実の貨幣システムが信用貨幣システムだと認めており,現実の説明としては主流派経済学の外生的貨幣供給論より,MMTを含む信用貨幣論の内生的貨幣供給論が正しいと認識していることである。このため,現実の説明の部分は私にも抵抗なく読めた。
しかし,著者の提案する公共貨幣システムには問題があると思う。最も大きな問題は,信用創造の禁止により,民間実体経済の要求に対応した柔軟な通貨供給が不可能になるということである。
現実の信用貨幣システムにおいて,政府の財政支出を別とすれば,民間経済に通貨が供給されるのは,企業が銀行から借り入れを行い,銀行が無から貸付金と預金を創造するからである。それに対応した一定の準備金は中央銀行が銀行に供給する。これが唯一のルートである。こうして預金通貨が供給され,それが引き出されると中央銀行券となる。これらの通貨は,流通に不要となれば預金やたんす預金として遊休することもあるが,企業が倒産などしなければ,結局は,貸付金の返済を通して流通から出て消滅する。経済成長とともに財・サービスの流通に必要な通貨が増える時は,主要には貸付けが返済を上回ること,副次的には遊休している預金やたんす預金の流通への復帰によって賄われる。
ナローバンクシステムでは,この機能が果たせない。貸出が準備金の範囲までと厳しく制限されている以上,経済成長に対応した預金通貨が供給されないのである。それどころか,運転資金や決済資金が一時的に不足する際の,支払い手段としての通貨についても供給に弾力性がない。したがって,経済成長期には投資のための通貨供給が不足し,経済危機の際には運転資金や決済資金が不足して,恒常的なデフレ不況圧力がもたらさせるだろう(※1)。
それを防ごうとしたら,政府が公共貨幣を増発して銀行に準備金を供給しなければならないが,政府は基本姿勢としてそれを抑制するだろう。なぜならば,もともとこのシステムは,企業と銀行の取引を通した信用創造がバブルを生むから抑制するという思想で設計されているからである。銀行の貸出量は厳格に制限される方向で運用されるだろう(※2)。
「手形を振り出し,その手形を与えて貸し付ける」ことによる信用貨幣の伸縮性を否定し,シンボル通貨で金融システムを運用しようとすると,確かにバブルは防げるだろうが,肝心の実体経済が必要とする通貨供給が満たされず,不況を引き起こしてしまうのである。
(2)インフレへの歯止めがない財政システム:財政赤字も利払いもなくなるが支出の歯止めもなくなる
さて,公共貨幣とナローバンクの下では,経済はデフレ不況気味に推移するだろう。金融システムでの拡張はナローバンクの趣旨からいって限度があるだろうから,デフレ不況に対抗しようとすれば財政を拡張するよりない。すると,今度はインフレの制御が,現行の信用貨幣システムよりも難しくなるし,公共貨幣論は主流派経済学やMMTよりもそれに対して脆弱である。これが副次的な問題である。
財政システムにおいては,信用貨幣であれ公共貨幣であれ,課税と支出のバランスによって追加供給量が外生的に決まることは同じである。しかし,公共貨幣システムでは金融システムが実体経済の通貨要求に柔軟に反応できない分だけ,財政拡張の必要は強力になる。また,少なくとも本書では,公共貨幣論は財政支出の質に関する理論を示していない。例えば,インフレにならないように財の購入より失業している労働者の雇用に重点を置くと言った話がない。そして,公共貨幣は政府の決定一つで資産として発行できるので,財政赤字もなければ利子を銀行に持っていかれる心配もない代わりに,通貨価値を維持する見地から通貨供給量をチェックするしくみもない。これでは公共貨幣の信認は信用貨幣の信用より揺らぎやすく,通貨価値下落=インフレの圧力は現行システムよりもはるかに強くなる。インフレなき完全雇用実現への道は遠いであろう。
(3)通貨供給の中央集権化による硬直性
以上のように,著者の主張する公共貨幣システムとナローバンクは,金融システムとしてはデフレ不況を促進するバイアスを持ち,それを補おうとすると財政システムがインフレ促進バイアスを持つ。そのため,マクロ経済の問題を何ら解決しないと,私には思える。
著者は,政府・公共貨幣庫に対する民主主義的統制と効率的行政によって,必要なだけの公共貨幣を政府が創造し,準備金不足にも対応すれば,財政が膨張しすぎないようにコントロールもするのだと主張するのかもしれない。しかし,準備金供給に関する政府の委員会決定や財政に関する年次での国会での議決だけに通貨供給を委ねるのはあまりに中央集権的であり,日々の企業活動に対する柔軟な反応を期待できない。いかに銀行の行動に問題があろうとも,資本主義経済のままで改革を行うのであれば,銀行による,私的で分権的な預金通貨の供給量調整は認めざるを得ないであろう。率直に言って,公共貨幣システムでの通貨供給の硬直性は,シカゴ学派に由来する提案にもかかわらず,集権的計画経済の硬直性に類似していると思う(※3)。
(4)公共貨幣論の幻想はどこから生まれるか:信用貨幣システムへの不信
なお,公共貨幣論が有効に見えることがあるとしたら,それは現実の信用貨幣システムが機能不全になっている瞬間を切り取り,それと公共貨幣システムを対比すると後者の方がましだと思えるからである。具体的には,世界大恐慌下の信用収縮を前にすれば,必要な貨幣を民主国家が自ら供給できればこの事態を解決できるかのように見えるだろう。シカゴ学派が,通貨供給量の確保を求めてシカゴプランを提示したというのはこの文脈でであろう。またバブル経済とその崩壊を前にすれば,経済を不安定化させる信用創造がない仕組みの方がよいように見えるだろう。1980年代以来,ナローバンク論が時おり唱えられる理由はここにあるだろう。しかし,これは錯覚であり,政策提案としてはすりかえである。公共貨幣システムは,政府介入によって大不況の時に通貨供給を緊急に増加させたり,バブルを制度的に起こりにくくすることだけはできるかもしれない。それはそれでよい。しかし,通貨システムは,非常事態に対処できればよいというものではないし,バブルさえ起こらなければよいというものでもない。恒常的に多方面にわたって機能するかどうかが重要なのである。公共貨幣システムは,金融システムにおいては信用を収縮させてデフレ不況を引き起こす傾向を持ち,これを反転させようと財政拡張を行えば供給過剰=インフレになるものであり,機能しないであろうと,私は考えるのである。
3.MMT批判のインプリケーション:銀行改革の課題
さて,批判としてはここまでだが,本書の批判を通して浮き上がってくる理論的インプリケーションがある。それは,本書のMMT批判が,批判としては重要な論点を含んでいることである。
第一に,利払いの問題である。著者は,MMTが利付き債務の設定を通して貨幣が供給される信用貨幣システムを肯定したまま,マクロ経済政策の改革を行なおうとすることを批判する。財政赤字の累積とともに国債の利払いもまた累積していき,銀行をもうけさせるだけではないかというのである。これはMMTに対する誤解であって,MMTは主流派マクロ経済学とともに,経済成長率が金利を上回ることは必要だと認めているのである。しかし,この批判は,MMTの制約を示してはいる。つまり,MMTは雇用創出を何より重視するのであるが,利払いを賄う程度の経済成長は実現しなければならないし,利子と言う不労所得が発生することは認めざるを得ないのである。MMTは,その面では革命的でなく穏当なマクロ経済政策の改革論なのである。
第二に,バブルの問題である。著者は,MMTは銀行の信用創造に手を付けないからバブルを防げないではないか,と批判する。これは,ある意味もっともな批判だと私は思う。MMTは,成長率と金利の関係,インフレ,為替レート下落,そしてバブルを指標として財政支出をチェックすべしとする。このうち,バブルの発生を防止する手法の開発が最も難しいであろう。実体経済の好況とバブル,実体経済のための通貨供給と金融的流通に回る通貨供給を区別してコントロールしなければならないが,両者を区別して可視化し,制御することは,確かに難しいからである。この問題への有効な対処を開発することは,MMTにとって深刻な課題であろう。その意味では,著者の批判は批判として成り立つ。
第三に,より根本的に,通貨発行量に関する意思決定の問題である。著者は,MMTが,銀行と企業が信用供与に関する私的意思決定を認めていることを,バブルと不況期の通貨収縮を生むものとして批判する。確かに,MMTはこの私的意思決定自体はやむを得ないものとしている。その点でもMMTは革命的社会改革を唱えるものではなく,資本主義の下での現実的マクロ経済政策を唱える理論であることは確かである。著者がこれを民主主義の見地から批判するのは,政治論として一理あるだろう。
このように,本書はMMTに対して,銀行批判,具体的には不労所得批判,バブル批判,通貨供給の私的意思決定批判が弱いではないかと批判し,それによって,MMTが根本的な銀行改革案を持つものではないことを浮き彫りにした。MMTや他の政策論が解かねばならない問題がここに残っていることが明らかになった。
しかし,著者による対案は,問題を解決せずに悪化させるものであった。バブルは食い止めても,肝心の実体経済への通貨供給を危うくするものであった。政治的に議会の権限を強めるかもしれないが,経済を機能させえないものであった。信用創造の全否定は,いわばお湯といっしょに赤ん坊を流すものだったのである。不労所得を減らし,バブルを失くし,民主的意思決定領域を広げるという,政治的に魅力的に見える提案であっても,必ず経済的に望ましい結果が得られるとは限らない。公共貨幣論は,地獄とまででは言わないが,苦難への道を善意で敷き詰めるものであった。同様のことはどのような通貨改革論にも起こり得るのであり,規範的に経済政策を論じる際に,十分心しなければならないことであろう。
※1 著者らの場合は異なると思うが,ナローバンク論の中には,企業は銀行から借りられなくとも,証券発行や投資銀行経由の金融仲介で資金調達できるだろうという意見がある。これはとんだ勘違いである。証券購入や投資銀行経由で投資しようとしている投資家のお金はどこから来たのか。もともと,経済のどこかで,どの時点かで,企業が銀行から借り入れたから存在しているのである。信用創造を統制すれば,証券投資に回るべき遊休資金もやがて枯渇する。
※2 政府がデフレ不況を防ごうと,節を曲げて銀行への準備金供給を増加させるとどうなるだろうか。その場合,不況から脱出できるかもしれないが,当然バブルの可能性も再燃するので,何のために公共貨幣システムに移行したのかわからなくなる。
※3 本書が述べているわけではないが,準備金増減については,裁量的に調整するかわりにミルトン・フリードマンが通貨供給量について主張した「X%ルール」のようにルール化してはどうかという意見があるかもしれない。「X%ルール」は,公共貨幣システムでも信用貨幣システムでも,借り入れ需要を「伸び率X%」に抑制するためには有効である。つまり,景気過熱,悪性インフレ,バブルを抑制する際には有効であろう。マネタリストが1970年代に勢いを増したのももっともであった。しかし,借り入れ需要が弱いときに通貨供給量を「伸び率X%」まで増やそうとしても無理である。企業に借り入れ意欲がなければ準備金が積み上がるだけに終わるだろう。アベノミクス期の量的金融緩和と同じである。なので,公共貨幣システムがいったん景気をデフレ不況に冷え込ませてしまい,借り入れ需要が低迷すると,これを「X%ルール」で救うことは不可能である。
大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。 本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...