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2019年5月2日木曜日

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第5,6節)(完)


5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り

 以上の検討結果は,「非伝統的金融政策」が効かない理由を説明するとともに,この政策の正当性を主張したリフレーション派の主張が現実を説明できず,適切な金融政策を提言できていないことを示している。「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,「マネタリーベースを増やせば,貨幣乗数がプラスである以上,マネーストックが増えてインフレ率が上がる」,さらに「ゼロ金利の下であっても,マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,といった主張は,いずれも誤っている。「中央銀行は,その行動一つで民間に対する通貨供給量を増やすことができる」というリフレーション派のモデルは,不換紙幣・預金先行モデルに依拠しており,それ故に,発券集中と管理通貨制の下での,中央銀行券の通貨としての流通を説明することができないのである。
 また,期待の理論を加味して,「人々の期待に働きかけることで,まず予想インフレ率を上げ,それによって現実のインフレ率を上げることができる」という議論(白川前掲書に倣って「期待に働きかける」派,略して「期待派」と呼ぶ),そこから導き出された「中央銀行がインフレ目標を設定してコミットすることでインフレ期待を発生させ,実質利子率を下げて投資を盛んにし,デフレを克服する」という意味でのインフレ・ターゲティング論も,リフレーション論の応用であって,同一の問題がある。
 もしこれが,「金融緩和によって現実の借り入れ需要を刺激し,インフレ率を上げる」という議論であれば,どちらのモデルに立っても合理的である。そこまでは何も問題はない。「期待派」の理論はそういうものではなく,現実の需要とは独立に,まず期待インフレ率を向上させ,それによって実質利子率を下げようというものであった。
 しかし,現実のインフレと独立に将来のインフレ予想が発生するという主張は,中央銀行のコミットメント一つで通貨供給量を増やすことができる,という前提に立っているのであり,繰り返し指摘するようにそこが間違いなのである。ありもしない前提を市場関係者に信じ込ませることによってインフレ期待を発生させようというのは不可能である。このような主観的に過ぎる議論が,経済学の「常識」に立って生み出され,一時は日本銀行の正式方針に採用されたことは深刻と言わねばならない。経済学の「常識」である「中央銀行は,その意志によって民間に対する通貨供給量を増やすことができる」という不換紙幣論こそが,現実と極度に乖離しているのであり,効きもしない政策を正当化するために用いられてきたのである。
 金融緩和によって通貨供給量が増えるのは,現実の需要が増えて通貨が必要になるときだけである。だから,輸入品価格の変動などの外生的要因を捨象し,他の条件を等しいものとみなすならば,予想インフレ率が上昇するためには,前提として,現実の需要が増え,現実のインフレ率が上昇しなければならないのである[15]
 もしどうしても期待の作用に注目すべきというのであれば,政府が適切な財政政策,産業政策,社会政策によって,企業利潤や,個人の所得や支出に関する期待を変え,企業の期待利潤率を高め個人の消費性向を高めるという方が,はるかに根拠がある。リフレーション派や期待派は,財政政策で行うべきことを,金融政策でできるのだと誤って強弁してきたのである。

6.結論と残された課題としての財政政策論

 管理通貨制の下での通貨と銀行の仕組み,企業と民間銀行と中央銀行の関係を無理なく理解しようとすれば,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論が妥当である。不換紙幣・預金先行モデルによる外生的貨幣供給論は,経済学的な「常識」であるにもかかわらず,不適当である。そのポイントは,中央銀行と民間銀行の関係を銀行と銀行の関係として把握できるかどうか,マネタリーベースとマネーストックの関係を説明できるかどうかである。
 「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由は,不換紙幣・預金先行モデルに依拠して,「中央銀行はその行動によって通貨供給量を増やすことができる」と想定しているからである。それが不可能であることは,信用貨幣・貸付先行モデルによって実務と整合的に説明できる。日本の金融政策論における「リフレーション派」と「期待派」は,いずれも不換紙幣・預金先行モデルの上に立っており,それ故に現実理解を誤り,実行不可能な政策を提言したのである。以上が,本稿の結論である。
 本稿では金融政策のみを論じ,また,もっぱら金融緩和によって通貨供給量を増やし,インフレを発生させ,景気を浮揚させようとした政策論についてのみ論じた。しかし,金融緩和が,国債発行による赤字財政の拡大とともに用いられ,中央銀行による買いオペレーションが国債の発行を事実上支えている場合の通貨や信用の動きについては,独自の考察が必要である。この点は,今後の課題としたい。
 また,ケインズ派やMMTによる信用貨幣論の内容を確認し,検討することも今後の課題である。さらにその先においては,MMTによる財政政策論を検討しなければならないだろう。




[15] 興味深いことに,リフレーション派であり期待派であった岩田規久男前日銀副総裁は,副総裁就任当初は予想インフレ率を高める「リフレレジーム」の構築を目指したが,それが困難に陥ると「まず現実のインフレ率を高めねばならない」と考えるようになったと回顧されている。岩田規久男『日銀日記』(筑摩書房,2018年)を参照。


(完)
第4節はこちら
書き終えての感慨

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第4節)


4.「非伝統的金融政策」はなぜ効かないか

(1)問題の所在

 中央銀行は,国債など金融資産の売買オペレーションや,民間銀行への貸付金利の操作によって短期金利を調整する。金利を調節することが,金融政策の基本線である。ここまでは,信用貨幣論と不換紙幣論に対立はない。
 問題はこの先である。現在,日本をはじめ各国で行われている「非伝統的金融政策」においては,ゼロ金利のように金利引き下げが困難な時においても,中央銀行預金を積み上げることで金融を緩和しようとしている。これを一層促進する議論として,「金融政策により通貨供給量を増やして適度なインフレーションを誘発すべきだ」というリフレーション理論が唱えられている。
 日本の場合,「非伝統的金融政策」を始めた日本銀行に対して,リフレーション派や,後述する「期待に働きかける」派(期待派)は激しい非難を浴びせかけた。しかしそれは本質的に,「非伝統的金融政策」が必要だという共通理解の上で,そのやり方が不十分だという批判であったというのが,ここでの解釈である。白川方明『日本銀行』東洋経済新報社,2018年が述べるように,日本銀行は,マネタリーベースを増やすとマネーサプライが増えるメカニズムや,インフレ率へのコミットメントが物価を引き上げるメカニズムに確信を持てないままに「非伝統的金融政策」を開始した。これに対してリフレーション派や期待派は,そうしたメカニズムは確固として存在するとして,日本銀行にこのことを認めよ,政策強度を高めよと要求したのである。ここでは根本的には「非伝統的金融政策」が効かない根拠を現実の解釈として示しつつ,この政策を理論的に正当化したリフレーション派と期待派を学説として批判することを試みる。

(2)借り入れ需要とも利子率とも独立に通貨供給量を増やそうとする誤り

 「非伝統的金融政策」は事実上,リフレーション理論は明確に,中央銀行預金を積み上げれば通貨供給量を増やすことができると想定している。「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増える」というのである。これは,「中央銀行が不換紙幣を流通に投じる」という不換紙幣論・外生的貨幣供給論の抽象モデルと軌を一にした主張であり,論者が意識していようといまいと,このモデルに立たない限り成り立たない主張である。
 しかし,「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増える」という見解は,中央銀行と民間銀行が,銀行と銀行の関係であることを踏まえないものである。中央銀行が買いオペレーションをいくら行い,民間金融機関への貸し付けをいくら行っても,それでは民間金融機関が中央銀行に持つ預金,日本の場合は日本銀行当座預金が増えるだけである。中央銀行預金は,マネーストックには含まれない。
 「非伝統的金融政策」は,「マネタリーベースを増やせば,それに連動して信用創造が盛んになってマネーストックが増える」と想定しているし,リフレーション理論は明確にそのように主張している。しかし,銀行は,貸し出しを増やす際に中央銀行預金を下ろして貸しているのではないし,そのようにする必要もない。銀行は,自ら預金通貨を創造することによって企業に貸し付けるのである。
 日銀預金の積み上げが貸し出しを促進する場合もあるにはある。企業の借り入れ需要がきわめて強いときである。この時,マネタリーベースが増えれば,銀行は流動性を確保しやすいので,貸し出しをしやすくなるかもしれない。しかし,そのような場合はそもそもゼロ金利ではありえないから,金利を調節する伝統的金融政策が行われるだろう。そして,借り入れ需要が強くなく,銀行が流動性確保に不自由していない時は,マネタリーベースが増えても貸し出しが増える理由はない。いくら銀行が流動性を持っていようと,企業が借りたくもないお金を無理に貸すことはできない[12]
 「貨幣乗数がプラスでありさえすれば,マネタリーベースを増やすことでマネーストックを増やせるはずだ」という主張があるかもしれない。しかし,マネタリーベースを増やした後にマネーストックが増えたとすれば,それは利子率が下がった場合か,あるいはまったく別の要因によって企業の投資意欲が喚起されて,企業の借り入れ需要が増えた場合である。貨幣乗数とは,単なる計算結果であり,マネタリーベースとマネーストックが連動している証拠ではない。通貨供給量(マネーストック)が増えるのは,民間の需要が伸びて流通に必要な貨幣量が増える場合である。利子率と独立に,借り入れ需要の刺激とも独立に,中央銀行の行動一つで通貨供給量を増やすことなどできないのである。
 このように,中央銀行と銀行の関係を素直に観察すれば,あくまで民間経済の必要に応じて通貨が供給され,必要がなければ供給されないのであって,中央銀行の金融調節によって,この関係を変えることはできない。必要とされていない貨幣を一方的に供給することはできないのである。以上が「非伝統的金融政策」では通貨供給量を増大させられない理由である。

(3)ポートフォリオ・リバランシング論の一面性

 それでもなお,「非伝統的金融政策」を支持する論者は,ポートフォリオ・リバランシング論によって自らを正当化しようとするかもしれない。低利,または無利子,場合によってはマイナス金利の中央銀行預金が積みあがれば[13],民間銀行はより高い収益性を追求するためにポートフォリオを組み替え,この預金をおろしてよりハイリスク,ハイリターンの運用先を探すはずだというのである。日本における日銀当座預金のマイナス金利も,これを狙った政策であった。
 しかし,この政策に効果があるとすれば,サーチの効果だけに限られている。金利が一定の下で(例えばゼロ金利の下で),もともと潜在的な収益機会が株式や社債に対する投資があって,ただそれが市場の不完全性により銀行に発見されていなかった場合には,効果があるかもしれない。つまり,積みあがる中央銀行預金の収益性の低さに追い詰められ,銀行が懸命にサーチを行い,見失われていた収益機会を発見した場合だけである。しかしこれは,もとから存在したが,市場の不完全性のゆえに発見されていなかった需要が発見されただけのことであり,効果は限られている。
 その上,副作用もある。金利一定で,銀行のポートフォリオの収益性を低めるのであるから,銀行はそれ以前よりも低収益な運用方法やハイリスクな運用方法を採用せざるを得ない。しかし,そのような運用方法で,銀行経営に必要な利益率が得られるという保証はどこにもない。低収益またはハイリスクな方法では経営を保てないと判断したら,銀行はいくらリバランシングを期待されようと,単に中央銀行預金を積んだままにするので,効果はないであろう。それでもリバランシングを促そうと中央銀行が中央銀行預金のマイナス金利を強めれば,銀行経営を危機に追いやるだけであろう[14]





[12] このことにより,安倍政権,黒田総裁の下での「量的・質的金融緩和」の下で,マネタリーベースが急拡大したのに対して,マネーストックは一向に伸びなかったという事実を理解可能である。
[13] 日本の場合,日銀当座預金は,以前は無利子であったが,やがて付利されるようになり,その後,一定条件の下で積み増した分はマイナス金利になって,有利子,ゼロ金利,マイナス金利の部分が併存する状態へと変化した。
[14] 日本における日銀当座預金積み増し分へのマイナス金利が,長期金利の引き下げとあいまって,銀行経営を窮地に追い込んだこと,それ故に日銀がイールドカーブ・コントロールという形で政策の修正を余儀なくされたことは,この論理で説明できる。


(続く)
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信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第3節)


3.管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮の説明

 本節では,二つの通貨・銀行モデルによって現実の中央銀行のオペレーションや銀行業務を理解することを試みる。とくに,通貨供給量の伸縮のメカニズムをどのようにとらえるかを比較分析することで,モデルの解像度,現実解釈への有効性を判定していく。

(1)信用貨幣・貸付先行モデルの説明

 信用貨幣・貸付先行モデルは,貨幣供給の内生性・外生性については,内生的供給論になる。つまり,中央銀行券や預金通貨は流通に必要な量の伸縮に応じて拡大し,また収縮する。必要に応じて拡大することは前節とここまでの説明から明らかなので,収縮のルートを見ていこう。
 預金形態での貸し付けが企業から返済されれば預金はその分だけ縮小する。中央銀行券は返済によって銀行に戻ってくる。また,企業活動や個人の経済活動を含めて,当面は必要のない現金も銀行に預金される。預金が増加するとともに,中央銀行券は銀行が保有する。こうして,流通に必要とされない通貨は銀行に還流するのである[8]。これは市場の自律的な作用として可能である。
 ちなみに,民間銀行と中央銀行との間でも,中央銀行券や預金は収縮しうるが,そのあり方には民間銀行の方針や中央銀行の金融政策が反映される。銀行は手元の中央銀行券を禁輸し用品の購入に回すこともできるが,準備金として必要な分は現金のままで持ったり,中央銀行預金を積み増して保有したりする。中央銀行預金は,民間銀行から中央銀行券が預けられた場合は増加し,銀行が中央銀行に債務を返済したり,中央銀行が売りオペレーションをしたりすれば縮小する。現金としての中央銀行券は,このいずれの場合も中央銀行に戻って来て,そこで消滅する。中央銀行券は,民間銀行では資産となりうるが,発行主体である中央銀行券ではなりえない。自己宛の手形は,発行主体に回収されたら消滅するのである。
 このように,信用貨幣・貸付先行モデルによれば,中央銀行券と預金通貨が,流通に必要とされない場合は,流通から出ることが理解できる。貸し付けによって拡大した民間銀行の預金通貨は返済によって縮小しうる。中央銀行券は民間銀行の手持ち現金となって蓄蔵されるか,中央銀行預金が増加するなどした際に中央銀行に還流することにより消滅する[9]。こうして通貨供給量(マネーストック)は民間経済の自律的作用により収縮する。信用貨幣は流通に必要とされるならば流通に入り,不要になれば出てくるのである。そして,マネタリーベースの動きはマネーストックはまた別である。

(2)不換紙幣・預金先行モデルによる説明の困難

 不換紙幣・預金先行モデルは,内生的貨幣供給も外生的貨幣供給もありうるモデルである。このモデルでは,企業の必要に応じても信用創造はなされるが,その必要を超えて,政府・中央銀行が通貨供給量を拡大することができるからである。では,このモデルにおいては,民間経済が必要としない通貨は収縮しうるだろうか。
 不換紙幣・預金先行モデルにおいても,貸し付けの返済によって預金通貨が縮小し,不換紙幣が民間銀行の手元に戻ること,企業や個人による貯蓄性預金の増加によって不換紙幣が民間銀行に預け入れられることは変わらない。その意味では,通貨供給量は,一見,自律的に縮小しうるようにも見える。
 しかし,このモデルでは,政府または中央銀行と民間銀行の関係が理論化されていないため,民間銀行の手元準備金と,中央銀行預金の性格がモデルに含まれておらず,この二つが通貨供給量に含まれるのか含まれないのかが理論的に判然としない。ここが大きな問題である。
 不換紙幣・預金先行モデルが,中央銀行を政府と本質的に同等とみなし,政府と民間の二分法でモデルを設定する限り,手元準備金と中央銀行預金は,根拠は不明ながらも漠然と民間の側に含ませられることが多い。なぜならば,手元準備金も中央銀行預金も,政府または中央銀行から見ればすでに供給済みなのであって,民間側にあると考えるのが,このモデル内部では自然だからである。だから,不換紙幣・預金先行モデルは,マネタリーベースとマネーストックの区別が本来的にあいまいであり,両者とも理論的には通貨供給量を表示するのだと認識される。マネタリーベースとマネーストックは貨幣乗数を介して連動するのだから,両者をひっくるめて通貨供給量とみなしてよいだろうというのである。
 ところが,返済や貯蓄性預金の増加によって収縮するのはマネーストックだけであり,マネーストックが縮小してもマネタリーベースは自動的には縮小しない。この現実を前にすると,不換紙幣・預金先行モデルは,民間経済の自律的作用によって通貨供給量が収縮するのか,しないのかをはっきりと言い切ることができなくなる。その一方,前述の通り政府または中央銀行が不換紙幣を,その決定に従って投じることができると想定している。こうして,不換紙幣・預金先行モデルは理論的な空白の部分で動揺しながらも,管理通貨制をインフレーションになりやすいシステムとみなすことになる[10]。翻って,政府または中央銀行の行動次第でインフレーションを起こすことができるシステムとみなすことにもなるのである[11]
 もちろん,このモデルを採る経済学者であっても,実務を考慮する際はマネタリーベースとマネーストックに違いがあることを考慮する。しかし,両者の違いを概念化することが,そのモデルの制約故にできないのである。

(3)信用貨幣・貸付先行モデルの優位性

 このように,管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮,マネーストックとマネタリーベースの動きの相違は,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論によれば整合的に説明可能である。しかし,不換紙幣・預金先行モデルによる外生的貨幣供給論では,マネーストックとマネタリーベースの関係について,理論的な空白が残るのである。理論的な空白は,大きな幅のある解釈と動揺をもたらす。
 理論的に整合しており,実務を無理なく説明できるのは,経済学上の「常識」に反する信用貨幣・貸付先行モデルである。そのポイントは,中央銀行預金の理解,言い換えるとマネタリーベースとマネーストックの関係の理解である。信用貨幣・貸付先行モデルは,中央銀行と民間銀行との関係を銀行と銀行の関係ととらえるので,これらを無理なく説明できる。とくに,マネタリーベースにのみ含まれる中央銀行預金の増減と,マネーストックにのみ含まれる預金通貨の増減は直接に連動するものではないことも,モデル内に含まれている。しかし,不換紙幣・預金先行モデルは,政府または中央銀行と民間銀行の関係がモデル内において明瞭ではない。とくに,マネタリーベースとマネーストックの区別がモデル内において明瞭でない。そのため,両者が本質的に同一の通貨供給量であり,一方が拡大すれば他方も拡大すると強弁されるのである。
 以上のことから,本稿は現実を説明するうえで,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論に優位を認める。そして,このモデルによって現実を説明することで,「非伝統的金融政策」が効かない理由も明らかになると考える。





[8] ここで,銀行が準備金として自ら保有する現金は,流通に必要な通貨から除かれたものとみなしている。この考え方は日本の実務においても採用されており,現金通貨の流通量を計算する際には,民間金融機関が保有する現金が控除される。
[9] この時,民間銀行が持つ現金としての準備金と中央銀行に持つ預金が積みあがったとすると,これらは流通から退出させられたが消滅はしていない。つまり民間経済の自律的作用でマネーストックは収縮したが,マネタリーベースは収縮していない状態である。民間銀行が中央銀行に債務を返済したり,中央銀行が売りオペレーションを行ったりすると,マネタリーベースも縮小する。
[10] 例えば,日本のマルクス経済学における,金兌換が行われない管理通貨制の下での中央銀行券は不換紙幣であるという見解は,このように考えてきたのである。
[11] 後述するリフレーション派や期待派はこのように考えているのである。


(続く)
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信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第2節)


2.二つの通貨・銀行モデル

(1)信用貨幣論と不換紙幣論

 信用貨幣論とは,預金通貨を銀行の債務であり,銀行券を銀行が発行した債務証書であるとした上で,それらが通貨として流通しているのだという見解である[5]。その上で,本稿が取るもう少し限定された見地は,「銀行が企業に貸し付けることによって預金貨幣や銀行券という通貨が創造される」と認識する議論である。
 貨幣と信用の成り立ちについて,信用貨幣論は経済学の常識的な議論と鋭く対立している。以下,常識的な議論としての不換紙幣論との対比でこれを見ていこう。見るべきは,通貨の本質と,中央銀行及び民間銀行の信用システムがどのように構築されており,通貨がどのように発行され,その供給量がどのように調節されるかである。これを通貨・銀行モデルと呼ぼう。想定されるのは,現代社会の典型的な通貨体制である。つまり,中央銀行だけが銀行券を発行する発券集中が実施されていて,中央銀行券が通貨として流通しており,かつ金兌換が停止された管理通貨制である。単純化のために,硬貨の流通は捨象する。また,日本の通貨法のように硬貨のみを貨幣と呼ぶ限定的な呼称はしないこととする。つまり,紙幣も貨幣の一種とみなす。

(2)信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行

 信用貨幣論は,銀行券も預金通貨も流通する銀行債務であり,信用貨幣だと考える。銀行券は銀行の手形である。商業手形が財とサービスの取引を基礎として発生するものであり,貨幣の支払手段機能を果たすものであるように,銀行券の流通と預金の振替操作によってより支払手段機能が果たされ,債権債務の相殺による決済が可能とされる。期日が指定されない一覧払で,債権債務の広範な決済を可能にするのが銀行券と預金通貨の特徴である。このことは中央銀行による発券集中が行われ,中央銀行券が法定支払手段となっても変わらない。中央銀行券は中央銀行への支払手段として用いることもできるし,納税にも用いることができるので,むしろ支払手段としての性格は強まる。そしていったん支払い手段として確立し,信用が強力な中央銀行券は,民間経済での流通手段としても用いられるようになる。その点では不換紙幣に類似して来るが,元来信用貨幣であることは変わらない。
 そして,金兌換が停止されて管理通貨制となっても,信用貨幣としての性質は一切変わらない。金兌換の停止によって失われるのは,銀行手形が金と交換されて銀行に還流するルートだけである。金で支払われずとも手形は手形として流通し,債権債務の相殺に用いられ,中央銀行と政府は法定支払手段としてこれを受け取るからである。
 信用貨幣論は銀行論においては貸付先行説であり,したがってこのモデルは「信用貨幣・貸付先行モデル」と呼ぶことができる。このモデルによれば,預金通貨は,銀行が企業の必要に応じて貸し付けを行うことにより創造される。ここで,信用創造の一般的理解とは異なり,本源的預金は必要ない。あらかじめ預金として存在する不換紙幣を貸すことによって預金通貨が生まれるのではない。そもそも,貸し付けることによって預金が生まれ,流通に必要な通貨が供給されるのである。
 経済活動が順調に拡大すれば,貸し付けたことによって生まれる預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これらは具体的には当座預金の他に種々の貯蓄性預金の形も取る。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預金される。
 中央銀行と銀行の関係も,基本的に銀行と銀行の関係であり,信用供与によって成り立っている。中央銀行は民間銀行に対して貸し付けることによって,あるいは民間銀行の持つ国債などの金融資産を購入することによって中央銀行預金を創造し,増加させることができる。民間銀行が中央銀行預金を引き出せば,中央銀行券が発券される。
 民間銀行の貸し付けは預金の創造によって行われるが,預金は随時引き出されることがある。だから,民間銀行は準備金を中央銀行券という現金の形で持たねばならない。その現金は,いったん中央銀行券が十分な流通を始めてしまえば,貸し付けられた中央銀行券が預金として還流して来ることによって確保できるし,また個々の銀行にとっては短期金融市場での準備金の貸し借りによって相互に融通しあえるものである。しかし,銀行システム全体として,本源的には,中央銀行から供給されねばならない。民間銀行は,前段の方法で中央銀行預金をおろすことによって中央銀行券を確保する。
 ただし,民間銀行は,中央銀行預金を,現金流動性としての中央銀行券が必要だから引き出すのであって,信用拡大のためには引き出す必要はない。前述のように,自ら預金通貨を創造して貸し付けを拡大すればよいのであって,中央銀行預金は現金流動性確保のためのバッファーに過ぎないのである。言い換えると,中央銀行預金を含むマネタリーベースが拡大することは,民間銀行にとって,企業の借り入れ需要が大きいときの現金流動性確保を確実にするものである。だから,借り入れ需要が強いときは,マネタリーベースの拡大が銀行による貸し付けの拡大をやりやすくし,マネーストックの拡大につながる。しかし,貸し付け需要が強くない時には,マネタリーベースが何らかの理由で拡大しても,貸し付けが拡大せず,したがってマネーストックが拡大しないこともありうる。
 このように,信用貨幣・貸付先行モデルは,中央銀行券が銀行券であることを本質的条件として含んでいる。そのため,政府と中央銀行には本質的な違いがあり,通貨供給が銀行信用の仕組みを通して行われることを捨象しない。中央銀行預金はモデル内に含まれているので,マネタリーベースとマネーストックの相違もまたモデル内に含まれている。
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,企業の借り入れ需要にこたえて民間銀行が貸し付けることによって預金通貨を創造するところから通貨が発生する。そして,必要な現金は,本源的には中央銀行から民間銀行に供給されるのである。中央銀行は,必要に応じ,民間銀行への貸し付けや買いオペレーションを通して,民間銀行に通貨を供給する。ただし,中央銀行が直接にできるのは,中央銀行預金を増加させるところまでである。そこまでは,基本的に限度なく供給することができる。しかし,中央銀行から民間の流通に直接中央銀行券を投じることはできない[7]
 以上が信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。このモデルのポイントは,通貨は銀行によって創造されるという点であり,そこが経済学の「常識」と大きく異なる。次に,経済学の「常識」に沿った不換紙幣論のモデルを見よう。

(3)不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行

 ここで説明するのは,管理通貨制の下での中央銀行券を不換紙幣とみなすモデルである。このモデルの銀行論においては不換紙幣でなされる預金が先に存在して,それが貸し付けられる。そこでこのモデルは「不換紙幣・預金先行モデル」と呼ぶことができる。
 主流派経済学であれマルクス経済学であれ,経済学の常識的な抽象モデルは,管理通貨制のもとでの通貨を不換紙幣とみなす。つまり,それ自体は価値を持たないが,使用者に共通する信認や国家による強制通用力の付与によって一般的流通手段となる貨幣だということである。強制通用力を強調する場合は国家紙幣と呼ばれる。このモデルでは,中央銀行券は形式的には中央銀行の債務証書であり手形であるが,金兌換が不可能なもとでは,実質的に不換紙幣とみなされる。
 不換紙幣モデルにあっても預金通貨は想定されており,これが信用貨幣であることは否定されていない。つまり不換紙幣・預金先行モデルでは,中央銀行券=不換紙幣,預金貨幣=信用貨幣である。
 不換紙幣・預金先行モデルにおいては,銀行は,民間に流通している中央銀行券=不換紙幣で預金を集め,一定の準備金を確保した上で,残りを貸し出す。貸し出した不換紙幣の一部はまた預金されるので,再び一定の準備金を確保した上で,さらに貸し出しを行う。こうして,本源的預金をはるかに超える貸し付けが可能になるという意味での信用創造が行われる。ただし,本質的には,本源的預金を出発点に,銀行の手元にある不換紙幣が貸し付けられては銀行に戻り,貸し付けられては戻っているのである。これは,一般的に理解されている信用創造の論理である。
 経済活動が拡大すれば,本源的預金や貸付金の一部の再預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預けられる。
 このモデルでは本源的預金が存在するために,銀行は常に準備金を保持している。しかし,そもそも本源的預金が不換紙幣でなされるためには,不換紙幣が政府または中央銀行から民間に供給されねばならない。不換紙幣・預金先行モデルでは,発行主体としての政府と中央銀行に本質的な区別はない。中央銀行券は不換紙幣と抽象されて把握されているので,政府または中央銀行は不換紙幣を発行し,直接に流通に投じることができると仮定され,投じる方法は理論的に限定されない。もちろん,このモデルを取る経済学者でも,現実には政府ならば財政支出,中央銀行から民間銀行への貸し付けや買いオペレーションや準備率規制を行うことを知っていて,マクロ経済学の教科書ではそのように解説される。しかし,中央銀行を不換紙幣として抽象化しているため,その供給ルートは本質的でなくなる。マクロ経済学の教科書では,中央銀行が直接供給できるマネタリーベースと,そうでないマネーストックの違いは書かれているが,その区別は理論的に本質的なものとみなされていない。中央銀行預金が前者にだけ含まれ,預金通貨が後者にだけ含まれることにも,何の理論的意味も見出されていない。だから,マネタリーベース増加率に貨幣乗数をかけるとマネーストック増加率になるというように,前者が増えれば後者も増えるので,結局は中央銀行が通貨供給量をコントロールできるという風に叙述される[3]
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,民間銀行は流通している不換紙幣を預金として受け入れ,それを貸し出す。貸し出すことでまた預金が生まれるので更なる貸し出しが可能になり,こうして預金通貨が膨張するのである。そして,現金通貨については,政府または中央銀行が直接に不換紙幣を民間に供給する。政府または中央銀行は,通常,民間の必要に応じて不換紙幣を供給するものの,それ以上に供給することもできる。何らかの形で不換紙幣を一方的に供給することは,理論的に可能とされている。
 以上が不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。

(4)二つのモデルの相違点

 このように,不換紙幣論の通貨・銀行モデルと信用貨幣論のそれとでは構造が大きく異なっている。中央銀行と政府の本質的区別はないのか,あるのかという点,現金として用いられる中央銀行券は本質的に不換紙幣か,形式的にも本質的にも中央銀行の債務証書かという点,まず政府・中央銀行によって通貨が供給された上で銀行が活動するのか,まず銀行が通貨を供給したうえで,必要な現金が中央銀行から供給されるのかという点,本源的預金が存在したうえで信用創造が行われるのか,信用によって通貨と預金が同時に創出されるのかという点,中央銀行が直接民間に通貨を供給することはできないのかできるのかという点など,多岐にわたって相違がみられる。
 これらの相違が,現実の通貨と銀行,銀行と中央銀行のあり方の理解にどのような影響を及ぼすかを,次節で考えていく。




[5] この時点で日常用語との関係で一つ,注意が必要である。単に,人々が信認することによって通用している貨幣を信用貨幣と呼んでいるのではない。ここではそのような用語法を取らない。信用貨幣はあくまでも債務証書が貨幣化したものであり,債権・債務関係を前提としたものである。したがって,本稿では不換紙幣は信用貨幣ではない。
[6] したがって,しばしば思考実験として語られる「ヘリコプターマネー」は,このモデルにおいてはあり得ない。銀行は金融取引によって銀行券を発行するのであるから,中央銀行が企業や個人に無償で銀行券を給付することなどありえない。
[7] このモデルにおいては,「ヘリコプターマネー」は理論的にあり得ることとなる。モデルの本質において,政府や中央銀行が不換紙幣を発行して,民間人に無償供与することが排除されていないからである。

(続く)
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信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)

<目次>
1.はじめに
2.二つの通貨・銀行モデル
3.管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮の説明
4.「非伝統的金融政策」はなぜ効かないか
5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り
6.結論と残された課題としての財政政策論 (5と同一ページ)

書き終えての感慨

1.はじめに

(1)問題意識と課題

 21世紀に入ってからの中央銀行の金融政策を論じる場合,「非伝統的金融政策」の成否についての評価は回避できない論点である。日本では日本銀行が2001年に「量的金融緩和」を開始して以降,「包括的金融緩和」,さらに2013年以後は「異次元緩和」とも呼ばれた「量的・質的金融緩和」,「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」が実施されてきた。これらは,伝統的な金融政策が政策的な金利操作を中心としていたのに対して,短期金利をゼロとすること,政策目標を中央銀行預金の量的拡大に置くこと,オペレーションの対象を拡張し,国債のみならずコマーシャル・ペーパー(CP),上場投資信託(ETF),不動産投資信託(REIT)などお金融資産を購入すること,中央銀行預金についてマイナス金利とすることなどの点で「非伝統的」とされている。「非伝統的金融政策」は,方向としては金融緩和の方向を向いており,とくに金利がほぼゼロとなってそれ以上の金利操作が困難となったもとで,どのように金融緩和をし,穏やかなインフレを起こし,需要を刺激して経済を上向かせるかという問題意識から開発されたものである[1]
 「非伝統的金融政策」は,その直接の目的として,金利が一定の下で,具体的にはゼロ金利であっても,通貨供給量を増やすことが設定されている[2]。しかし,日本の場合,とくに安倍政権・黒田総裁のもとで採られた「異次元緩和」の下では,その効果は芳しくない。日銀当座預金を積み上げてマネタリーベースを増加させても,マネーストック,すなわち民間に出回る通貨供給量が増えないという現象が顕著になっているからである[3]。このことが,政府・日銀が目標としてきた物価上昇率の達成を阻む一つの重要な要因であることは間違いない。
 本稿はここに注目して,「非伝統的金融政策」が,なぜ通貨供給量を増加させることに失敗しているのかを,通貨と銀行の原理的モデルによって理論的に明らかにしようとするものである。結論から言えば,「非伝統的金融政策」やこれを支持・唱道する「リフレーション」派,「期待に働きかける」派の政策論は,管理通貨制の下での通貨および銀行を不適当なモデルでとらえており,原理的に不可能なことを実行しようとしていること,その不適当なモデルとは中央銀行券を不換紙幣ととらえ,銀行の機能を預金された現金を貸し出すものとみなし,中央銀行による外生的貨幣供給を可能とするモデルであること,現実を適切に理解するためには中央銀行券を信用貨幣ととらえ,銀行の機能を貸し付けによって通貨を創造するものとみなし,中央銀行による貨幣供給は内生的であるとするモデルが妥当であることを示す。

(2)分析視角と研究方法

 本稿が用いるのは,日本のマルクス経済学の潮流において論じられてきた信用貨幣論の枠組みである。この理由は,著者の身に着けた理論の範囲が限られていることによるという個人的事情にもよるが,本質的にはマルクス経済学の枠組みの拡張による通貨・銀行モデルが,この課題を果たすのに適切と思われるからである。そして,研究状況とのかかわりでは,そのことが学界にも一般にもよく知られておらず,確認しておく意義があるからである。
 本稿の研究方法は,発券集中と管理通貨制の下での信用貨幣論・貸付先行説の通貨・銀行モデルを設定して通貨供給と通貨供給量伸縮のメカニズムを明らかにするとともに,これを不換紙幣論・預金先行説のモデルおよびメカニズムと対比するものである。演繹的分析と比較分析により,整合性,モデルの精度,現実に対する説明力において信用貨幣論・貸付先行説のモデルが優位にあることを示す。その上で,信用貨幣・貸付先行モデルによって「非伝統的金融政策」が有効でない理由を説明し,この政策を唱道する諸説の問題点が,不換紙幣論・預金先行モデルに依拠しているがためであることを示す。

(3)先行研究との関係

 本稿にとっての先行研究は,日本のマルクス経済学において行われた,不換銀行券の性質をめぐる研究,および発券集中をめぐる研究である。しかし,残念ながら,本研究についての著者の知識は限られており,日本のマルクス経済学における研究史に限っても,一定の理解を持っているのは岡橋保氏と村岡俊三氏の見解に限られる。著者は,学生・院生時代に村岡俊三教授のゼミナールで両氏の見解を学んだが,貨幣・信用論を専門としておらず,現時点では関連文献をすべてサーベイすることができない。そのため,本稿は著者の見解の説明を行うことを中心とせざるを得ず,個々の論点についての先達の見解を一つ一つ確認する文献注記を行うことはできない。本稿の叙述が,岡橋,村岡の両氏を含めて先達の著作に似通っている場合,プライオリティは当然にそれらの方々にある。
 本稿にとって最も直接的な先行研究である岡橋氏と村岡氏の見解についてのみ述べておくと,本稿に関わる論点についての見解,共通点と相違点は,さしあたり,岡橋保『信用貨幣の研究』春秋社,1969年,同『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,同『世界経済論』有斐閣,1988年で確認できる。両氏は,1)管理通貨制の下での中央銀行券が信用貨幣であるとする点は一致している。また,2)中央銀行券の流通根拠を手形であることに見る点も一致している。ただし,3)手形であることの内容として,岡橋氏は銀行手形の債権債務相殺機能を重視し,村岡氏は銀行手形による貸し付けが預金を先取りし,蓄蔵貨幣の活用を促進する機能を重視している。また,4)銀行券の本来的な発行ルートを,岡橋氏が手形割引に置くことに対して,村岡氏は企業に対する預金先取的な貸し付けに置いている。5)預金によって民間銀行に預けられた中央銀行券は,岡橋教授によれば一時休息しているだけで流通内にあるが,村岡教授によれば流通から引き揚げられた蓄蔵貨幣である。各論点についての本稿の見地をあらかじめ述べておくと,1)2)については両氏と同一であり,3)については岡橋氏,4)5)については村岡氏と同一である。
 岡橋氏と村岡氏は発券集中や管理通貨制度についても考察を行ったが,両者の下で,民間銀行が発券を行えず,したがって預金通貨は創造できるが銀行券は創造できないという現代的制度の下で,民間銀行による信用,中央銀行と民間銀行の関係がどのようなものになるか,預金通貨と中央銀行券がどのように発行され,その供給量がどのように伸縮するかをモデル化して考察することは行わなかった。この問題についての分析,その結果としての貸し付けによる預金通貨の創造の重視,中央銀行預金の理解の重視は,両氏に対する本稿の独自性である。
 なお,マルクス経済の外に出た場合,残念ながら著者の知識はさらに限られる。おそらくこの問題に関連しているであろう,ケインズ理論のミンスキー的解釈や,近年(20195月上旬現在),金融・財政政策論に関して話題となっているMMT(Modern Monetary Theory)について通じていない。MMTについては,ビル・ミッチェルのブログと関連研究者の解説記事に基づく覚書は記したものの[4],まだまだ理解がおぼつかない。研究論文をこれから確認しなければならない。しかし,私は,日本のマルクス経済学の成果を用いても,この課題には十分に迫れると考えている。かつ,学派が異なっても共有できるような用語とロジックで論じることも可能だと考えているのである。本稿はそのような試みである。
 日本でのMMTの紹介の仕方は,財政政策をめぐる論点に集中している。しかし,私の限られた知識から見てもまちがいないのは,MMTとはその名の通り,根本において貨幣論であり,信用貨幣論だということである。そこからの具体化として金融政策論があり,また信用貨幣論と統合政府論が合わさって財政政策論ができているのだと思われる。したがって,MMTについての論議は,まず信用貨幣理論から始めるのが妥当な手順だと思われる。より伝統的な理論による信用貨幣論の構造と,それによる政策論を論じておくことは,今後盛んになるであろうMMTと,その政策論をめぐる論議にも役立つはずである。

(4)以下の構成

 以下,2において信用貨幣論を定義的に説明し,不換紙幣論と対比し,さらに通貨と銀行の基本モデルについての,信用貨幣・貸付先行モデルと不換紙幣・預金先行モデルを祖述して対比する。次に3において,管理通貨制と発券集中の下での通貨供給量の伸縮を,信用貨幣・貸付先行モデルでは十分に理解できるが,不換紙幣・預金先行モデルでは理論的空白が残ることを示す。以上から,信用貨幣・貸付先行モデルの優位性が主張される。4においては「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由を論じ,5においては「非伝統的金融政策」を支えるリフレーション派と期待派の理論が,不換紙幣・預金先行モデルを前提としたものであり,そのモデルとともに誤っていることを示す。6では結論を述べる。




[1] 伝統的には需要を刺激し,その結果として穏やかなインフレを起こすという因果関係が想定されていると見るべきだが,「非伝統的金融政策」の支持者たちの場合は,必ずしもそうではない。むしろ,デフレであることから不況がひどくなるのであって,予想インフレ率を高めることによってその弊害を除去し,需要も拡大させるという因果関係が想定されている。この想定の立脚するモデルと問題点については,後段で述べる。
[2] それ以外の目的がないわけではない。例えば,ETFREITCPの購入の目的は,通貨供給量を増大させるとともに,リスク・プレミアムを引き下げることとされている。
[3] 日本において,マネタリーベースとは日本銀行券発行高,貨幣流通高,日銀当座預金残高の合計である。マネーストックにはM1, M2, M3,広義の流動性があるが,M1について言うと,日本銀行券発行高,貨幣流通高の合計から金融機関保有現金を差し引いたものに,預金通貨を加えたものである。
[4] MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書」Ka-Bataブログ,2019321日(https://riversidehope.blogspot.com/2019/03/mmtmodern-monetary-theory.html)。


(続く)
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2019年5月1日水曜日

明仁氏と日本国憲法と私たち

 1989年1月9日。明仁氏は天皇として即位された際に,「皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません」と言われた。

 2019年4月30日。明仁氏は天皇の位から退位するにあたり,「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に心から感謝します」と言われた。

 ここからわかるのは,明仁氏が,自らの地位を日本国憲法にしたがって理解し,日本国憲法に定められた象徴としての任務を果たそうと考えてきたということだ。彼は,憲法以外の,たとえば「日本の伝統」のようなもののために自らが天皇なのではなく,日本国憲法があるから天皇なのだと考え,そのことを肯定して来た。

 もっとも,気をつけなければならないのは,彼が,憲法で定められた国事行為を拡大解釈し,憲法が命じたよりも広い範囲の行動をとったことだ。ただし,その行動において,憲法の理念に沿うような行動をとろうとしたこともまた認められる。明仁氏の歩みや,その後世への影響については様々な議論が可能であるし,議論しなければならない。

 そしてまた,日本国憲法が認めたからと言って,天皇制という制度が現代社会にふさわしいものであるかどうか,天皇という存在と国民主権は矛盾しないのかという,根本的な問いは残っている。

 しかし,もうひとつ考えねばならないのは,本来,日本国憲法の理念に沿うように行動しなければならないのは日本国政府であり,政府がそのように行動するよう不断の努力でもって促し,監視するのは日本国民の役割であり,憲法の理念を生活に生かすべきなのもまた日本国民だということだ。日本国憲法をどちらかと言えば肯定する人々にとっては,そういうことになる。

 とすれば,私を含むそうした人々は,「平成」として区切られたこの30年間に,結果として,多くのことを明仁氏に頼ってしまわなかったかと,自問してみるべきかもしれない。憲法の理念を能動的に実現することは国民の責務であって,天皇はそうした国民を象徴するものだ。象徴たる個人が国民に範を垂れるべきものではないのであって,そうなってはかえって憲法の理念を否定することになる。

 私たちは,この30年間,自分たち自身の力で日本国憲法を実現してきたのだろうか。明仁氏が退位される今日,このことを考えねばならないと思った。

(4月30日23時57分記す)

2019年4月29日月曜日

思想犯って……いま本当に平成?まもなく令和?それとも昭和前半にもどった?

 おいおい,日本国憲法下でも,思想が犯罪とされるようになったのか。いまは昭和の前半なのか。治安維持法とか、思想犯保護観察法とかが今でもあると思っているのか、警視庁捜査関係者とやら。何も突っ込まないのか、朝日新聞社の記者。

週刊朝日「悠仁さまの机に刃物、思想犯を重点捜査  内部事情に詳しい者の犯行か?」AERA.dot,2019年4月27日。



2019年4月23日火曜日

「ジョブ型」通年採用は「仕事に即した処遇」と「年齢不問」を意味することは認識されているか:「採用と大学教育の未来に関する産学協議会の中間とりまとめと提言」を検討するにあたって

 経団連と,就職問題懇談会座長,国大協会長や私大連会長などがつくる「採用と大学教育の未来に関する産学協議会」が中間とりまとめと共同提言を発表した。全体として,前向きに検討すべき点を多く含んでいるが,現時点でどのメディアも報道していない,「もしかして忘れてない?大丈夫?」という点が二つあるので,まずそれだけ大急ぎで述べておきたい。

1.「ジョブ型採用」の意味
 「今後の採用とインターシップあり方に関する分科会」の中間とりまとめは,「ジョブ型採用」を「新卒,既卒を問わず専門スキルを重視した通年での採用,また留学生や海外留学経験者の採用」としている。

 やや,ずれている。

 「ジョブ」型採用とは,技能=skillでなく,job=職務を指定した採用だ。つまりは,範囲はいろいろあるとしても,やるべき仕事を指定した採用だ。やるべき仕事を指定しているから,それに必要な専門スキルによって選考するのだ。それがわかっているならいいのだが,どこにもそう書かれていないので,不安を覚える。
 スキルを指定して採用したあげく,どの仕事に就けるかは白紙で会社が決めて,協調性と努力主義を評価しながら年功的に処遇するという,今までと同じ方式ではどうしようもない。
 普通に考えれば,ジョブ型で採用すれば,ジョブ型で処遇するのが整合的だ。すなわち,1)ジョブ=職務のグレードと職務の成果に対応した給与とし,2)ジョブが変わらない限り昇進や配置転換や転勤はなく,3)ジョブが存在してそれを当該労働者が正常に遂行できる限り雇用され続けるが,4)ジョブが消滅する場合は解雇される。現在,日本企業の大半では,そのような人事管理を正社員に対して行っていない(非正規には,差別的低賃金で,かつ3)を除いて適用している)。ジョブ型の処遇に踏み込むつもりはあるのだろうか,ないのだろうか。

2.「ジョブ型採用」は年齢差別禁止
 中間とりまとめも共同提言も,「新卒,既卒を問わず」とは書いているものの,基本的に大学生や,大学を卒業してまもない者しか念頭に置いていない文章になっている。

 大丈夫か。

 多くの人が普段忘れているが,わが日本には雇用対策法により採用の年齢制限禁止が規定されている。「ハードな重労働!高齢者には到底無理! 40歳以下で募集します」も「若者向けの洋服の販売スタッフなので30歳以下で募集しても問題ないよね?」も「社長が40歳、その他のスタッフも皆30代以下。業務上指導しづらいし、中高年齢者は浮いてしまうので、30代以下しかとれない!」も「PC操作や夜間業務もたくさんスキルや体力面で、高齢者は不安なので若い人を募集」も,採用条件に年齢を入れたら最後,すべて違法なのである(「その募集・採用。年齢にこだわっていませんか?」厚生労働省リーフレット)。

 ただ,「長期勤続によるキャリア形成を図る観点から、若年者等を期間の定めのない労働契約の対象として募集・採用する場合」は,1)対象者の職業経験について不問とすること,2)新卒者以外の者について、新卒者と同等の処遇にすることを条件として例外的に許されているのだ。だから,「20○○年3月大学卒業見込みの者」に限った新規学卒採用が行えるのだ。

 「ジョブ型採用」を行った場合,この例外規定は適用されるだろうか。まともに考えれば,されないと思う。職務に対応した「専門スキル」を基準に採用し,通年で採用し,新卒,既卒は関係ないとする以上,年齢を制限できないと見るのが理屈だろう。「ジョブ型採用だけど若年層に限ってくれ」というのでは,理屈が立たず,中高年男女から差別だという訴訟が頻発するだろう。

 とすると,「ジョブ型採用」の場合,新卒者は,少し年齢が上の既卒者のみならず,数多くの,あらゆる年齢の,転職・中途採用希望者と,専門スキルで競争しなければならないのだ。

 それが良いとか悪いとか言っているのではない。制度の整合性を保とうとすれば,そうならざるを得ないのだ。

 経団連側は,またもっと心配なのは大学側は,さらにそれ以上に心配なのは報道しているマスメディアは,上記2点を分かったうえで「ジョブ型採用」の拡大について論じているのだろうか。心配である。

 皮肉でなく,この一文が杞憂であって,まともに議論が深まることを希望する。

採用と大学教育の未来に関する産学協議会「採用と大学教育の未来に関する産学協議会 中間とりまとめと共同提言」(2019年4月22日))経団連ウェブサイト。

<関連投稿>
「経団連の「就活ルール」廃止と「提案」をどう受け止めるか」Ka-Bataブログ,2019年2月22日。
「「事務職になりたい」は過去へのあこがれだが「転勤がないように働きたい」は未来への要求だ」Ka-Bataブログ,2018年11月6日。
「就活ルール廃止後に求められる改革の基本方向」Ka-Bataブログ,2018年10月11日。

2019年4月20日土曜日

株主にふさわしくないのにETFを買い続ける日本銀行

 2019年4月16日,黒田日銀総裁は国会で共産党の宮本議員に対して,「ETF(Ka注:指数連動型上場投資信託)買い入れは株価安定の目標を実現するために必要な措置の一つとして自らの判断で実施している」と発言。直後に「ETFの買い入れは物価安定の目標を実現するための措置として行っているものであり、株価の安定の目標ということではない。先ほどちょっと発言の誤りがあったので訂正する」と述べた。

 いや,まちがいではなく本音がポロリであろう。一応点検しておくと,日銀がETFを購入する公式の理由は,リスクプレミアム,以前の黒田総裁の説明によると「株のように変動するものと確定利付き債券のように変動しないものとのリターンの差」を低下させるためのものだ。公平のために言っておけば始まったのは2010年であり,白川総裁の頃だ。これで株式市場を活性化させ,景気を良くして物価を上げようというのだ。何のことはない。やっぱり株価を上げたいのではないか。

 現実にも,いまや日銀はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に次ぐ日本第2位の株主である。これほど大量に買い続ければ株価の安定・下支え・押し上げ作用があるのは自明であり,他の投資家が作用を期待するのも自明である。

 そして,そこまでやっているにもかかわらず,成果は芳しくない。以前の投稿「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」で示したグラフが示すように,アベノミクス開始時点では外国人投資家が期待をもって日本株を購入したが,いまでは売り越しに転じている。そして,個人株主は安倍内閣発足後,一貫して売り越しである。外国人も個人も日本株を評価せずに売り越していて,それを日銀とGPIFが買い支えているという構図ではないか。そこに無理はないのか。

 GPIFは受託者責任を持っているからまだいい。利益を上げるべき存在であり,損失が出たら追求されるべきだからだ。しかし,日銀は,運用益を目的にしてETFを買っているのでもないし,議決権を行使するわけでもない(議決権は信託銀行など,ETF組成会社が行使する)。つまり利益を出す気はない。しかし,株価が下がっても困る。誰かに受託者責任を負っているわけでもない。わけのわからない,どうふるまうべきかも決まっておらず,誰に責任を取るのかわからない株主である。株主としては不適切と言わねばならない。それが,株価を支える,日の丸の旗がついた二頭のクジラのうちの一頭なのである。

日高正裕「日銀総裁、ETF購入「株価安定のため」と言い間違え-直ちに訂正」Bloomberg, 2019年4月16日。

「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」Ka-Bataブログ,2019年2月5日。

2019年4月19日金曜日

日本語能力試験N4を基準に「特定技能」外国人労働者を受け入れるのは無茶だ

 外国人労働者受け入れ政策について,入管法改正成立以後,他の仕事に追われて詳しく調べられなくなった。なので,一つだけ,あまり言われていないことを言いたい。

 「特定技能」の在留資格を取り,日本で技能労働(ブルーカラー労働)をしようとする外国人労働者に対して,日本語能力を,「日本語能力判定テスト(仮称)」又は「日本語能力試験(N4以上)」しか求めないのは適切だろうか。

 この問題は,様々な立場のいずれからも提起されていないように見える(あるいは介護の現場からは提起されているかもしれない)。

 大学で学生を教えている私の経験から言えば,N4では,様々な場面で,たとえ双方に悪意がなくてもミスコミュニケーションは避けがたい。そして,相手に悪意があれば,抵抗することは難しい。当人がわかる言語での説明が付されていない限り,行政的な手続きも自分だけではできない。そして,雇い主や行政窓口や顧客とのトラブルに見舞われた時に,日本語で交渉することも困難だと思う。

 外国人を適切に受け入れ,かつその生活と権利を守りやすくするために,要件はN4ではなく,N3 にすべきではないだろうか。

 外国人とのトラブルを恐れて受け入れに消極的な立場からの論評は,「外国人全般」に否定的であるためにこの問題を具体的にみていない。逆に,外国人の人権を尊重する立場からは,受け入れを制限する方向の発言をしたくないという心性が働くのか,やはりこの問題に触れることが少ない。

 しかし,いったん受け入れた外国人の人権を守るためには支援制度を構築して運用すべきだが,そもそも,対処しきれないような規模と語学能力水準の人を受け入れてしまっては,現実的困難が大きくなりすぎる。受け入れる要件や速度,規模について考えることは,排外主義でもなんでもない。現に大学では留学生相手に行っていることだ。

 このままでは,多数の労使トラブルが発生する。その中には,本当に労使どちらかが法や就業規則に違反している場合もあれば,双方の誤解やすれ違いからくるものもあるだろう。大学でもそれに類似したことが多数生じている。N1を持つ大学院生との関係においてすら,生じる。

 経験的な感触からの設定で申し訳ないが,N4は無茶だと思う。N3にすべきではないか。あまり引き上げると,応募できる外国人が少なくなってしまい,漢字圏以外の人が応募できなくなるが,N3ならばその弊害は少ないと思う。そもそもこれまでのところ,N5やN4よりN3の方が受験者が多いのだ(日本語能力試験公式サイトのデータより)。

 皆さんは,いかがお考えでしょうか。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...