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2021年7月15日木曜日

Book review: Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020

Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020 (The reviewer read the Japanese version translated by Eri Kosaka, published by Misuzu Shobo). This book has two theoretical backbones. One is "The General Theory of Employment, Interest and Money" by J. M. Keynes. The other is "Imperialism" by J. A. Hobson. Especially the author respects the latter. The book opens with a quote from Hobson, and the preface praises Hobson's insights.

 Why Hobson? Using the examples of China and Germany (and with Japan in mind), the author unravels the secret of the persistence of current account surpluses by using the term I-S balance, but differently than in conventional macroeconomics.

 The logic of the book, with some interpretation of mine, can be summarized as follows.

 A persistent savings surplus cannot be explained as the result of individuals saving and depositing. It should be seen as the result of the suppression of consumption in the country due to distributional inequality.

 The persistent current account surplus cannot be understood from the perspective of merchandise trade itself. First, excess savings are invested outward. Excess savings is what Hobson calls an "excess capital”. They create excess demand as unhealthy investment projects are carried out abroad. Excess demand, in turn, creates excess exports at home. Capital exports support commodity exports, not the other way around.

 Therefore, it is essential to raise people's income and revise inequality in countries with current account surplus, such as China, Germany, and Japan, to eliminate structural imbalances. Such measures increase domestic consumption and eliminate excess savings. This solution is just what Hobson emphasized.

 The arguments in this book are clear and persuasive. In particular, the reviewer thinks that the perspective of excess capital leads to meaningful insight. First, capital with no domestic investment destination is invested overseas, and then the purchasing power generated by that investment leads to commodity exports. This perspective reverse traditional thinking that commodities are exported first, and then the surplus is invested overseas. This book gives us a new approach to analyzing the world economy based on macroeconomic balance.

 Of course, some points need to be reconsidered. The emphasis on the active role of outward investment from surplus countries may lead to undervaluation of the role of financial institutions and corporations in organizing investment for unsound projects in deficit countries, such as the United States. Theoretically speaking, excess savings wandering around in search of investment is not a sole financing measure for investment. Money creation by bank loans is also an important measure.

 In addition, the author may be torn between the view that "investment generates the same amount of savings" and the view that "volume of saving limits investment." 

 However, even those questionable points are stimulant for readers. This book makes us aware of the importance of these theoretical issues to analyze the current world economy. It will be the mission of subsequent studies to solve the remaining puzzles.




マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年を読んで

 マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年。本書を理論的に導くのはJ・M・ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』とともにJ・A・ホブスン『帝国主義論』,とくに後者である。私が勝手に言っているのではない。本書冒頭にはホブスン(訳書表記はホブソン)からの引用が掲げられ,序文ではホブスンの洞察力が称えられている。

 なぜホブスンか。著者は,中国とドイツを例に(日本も念頭に置いて),経常収支黒字が継続することの秘密を,I-Sバランスの用語を用いて,ただし通常のマクロ経済学とは異なる仕方で用いて解き明かしているのだ。

 本書の論理を,多少の解釈を加えて強引に要約すると以下のようになる。

 継続的な貯蓄余剰は,個人がせっせと節約して預金した結果としては説明できない。分配の不平等により,その国の消費が抑圧された結果と見るべきである。

 継続的な経常収支黒字は,商品貿易それ自体からでは理解できない。まず過剰貯蓄が対外投資される。ホブスンの言う「資本の過剰」である。それによって不健全な投資プロジェクトが海外で実行されることで超過需要が生まれ,それによって自国の輸出超過が生じる。資本輸出が商品輸出を支えるのであって,逆ではないのだ。

 したがって構造的不均衡をなくすためには,中国,ドイツ,日本など経常収支黒字国での賃金抑圧をはじめとする不平等な分配を改善して国内の消費を高め,過剰貯蓄を解消することが不可欠である。これもホブスンが強調したことにほかならない。

 本書の主張は極めて明快であり,説得力は強力だ。とりわけ,「まず商品が輸出され,その黒字が海外投資される」のではなく,「まず国内に投資先のない資本が海外投資され,そこで生み出された購買力が商品輸出をもたらす」という視点は,マクロバランスに基づく世界経済分析を刷新するものだと思う。

 むろん検討すべき点はある。経常収支黒字国側の対外投資の能動的役割を強調し過ぎると,アメリカを代表とする経常収支赤字国の側において,不健全なプロジェクトへの投資を組織する金融機関と企業の役割を過小評価することになるかもしれない。理論的に言えば,投資をファイナンスするのは,投資先を求めてさ迷う貯蓄だけではない。信用創造を通した借り入れによる通貨膨張によってもファイナンスされるはずだ。さらに言えば,著者は「投資が同額の貯蓄を生み出す」と見る見地と「現存する貯蓄が投資の量を制約する」という見地の間で迷っているようにも見える。

 しかし,これらの問題点すら読者の思考を刺激してくれる美点である。これらの理論的諸問題が現状分析にとって持つ重要性に気づかせてくれること自体が,本書の功績なのだ。残されたパズルを解くのは後に続く研究が負うべき使命である。



2021年5月19日水曜日

Q&A 管理通貨制下における信用貨幣・現金・貨幣的インフレーション

 学生との対話用メモ。

Q:「管理通貨制のもとでは債務が正貨で返済されない」「債務をより信用度や通用性の高い上位の債務に置き換えて返済することしかできない」とはどういうことか。それでは債務はどこまでいってもなくならないのではないか。

A:債務を返済する際に,管理通貨制のもとではそれ自体価値を持つ金貨や銀貨(=正貨)で返すことができない以上,返すときも債務証書しか使えません。自分が誰かに100万円借金をしている時,貸しては自分の100万円の債務証書(借用書)を持っています。これを返すときに,自分の借用書100万円を書いて,「これで返すから」と言っても「馬鹿か」と怒られます。しかし金貨で返すわけにもいきません。そこでどうするかというと,自分よりは信用度が高く,流通性のある債務(証書)で返すわけです。すなわち,預金への振り込み(銀行の債務)100万円か,日銀券(日銀の債務証書)100万円です。これなら貸し手は受け取ってくれるでしょう。かわりに私は自分の100万円の債務証書を取り戻し,無効化して(破って捨てていい)終了です。これが「債務の返済の時には,より上位の債務(証書)で返す」ということであり,別の言い方をすると「貸し手が持つ自分の債務証書を,より上位の債務(証書)と引き換えに取り戻す」ということです。

Q:債務をより上位の債務で返済するのはいいとしても,一番上位の債務はどうやって返済するのか。具体的には,金兌換が停止されると,中央銀行の債務は返済されないことになるが,それで問題は起こらないのか。返済されない債務証書である中央銀行券が,どうして現金として使えるのか。

A:金兌換が停止されているので,中央銀行や一般政府よりも上位の債務は一国内にありません。なので,上位の債務に置き換えて支払うということができません。
 では,中央銀行が債務を負って,返済しなければならないときに問題は起こらないのはなぜか。具体的には,金に換えられない中央銀行当座預金や中央銀行券が使用されるのはなぜか。これは非常に大きな問題です。
 その理由は,第一に,債務証書は,「発行人に対する債務の返済に使える=発行人の債務と発行人の債権は相殺できる」ことによります。私がAさんから100万円借りているとして,何かのはずみでAさんが別のどこかで発行した100万円の借用証書を手に入れたら,それをAさんに渡すことで私の返済は完了するでしょう。同じように,中央銀行券や中銀当座預金は,少なくとも中央銀行からの債務の返済に使えます。そして第二に,中央銀行券や中銀当座預金は,そもそも中央銀行が銀行に貸し出すときに発行されているので,銀行にとって中央銀行への返済に用いることができるのは,非常に大きな意味を持つのです。第三に,中央銀行は広い意味の政府の一部なので,中央銀行券や中銀当座預金は一般政府への支払い=納税にも使えるということです。この三つの事情が,金と交換できない中央銀行券や中銀当座預金が支払い手段であり得る根拠です。そして,この支払い手段としての成り立ちを基礎にして,中央銀行券は一般的支払い,つまり日常用語でいう現金払いにも使える流通手段にもなってるのです。
 しかし,中央銀行券や中銀当座預金は正貨と異なり,それ自体が価値を持っているわけではありません。そのため,減価=貨幣的インフレーションを起こすことがあり得ます。

Q:貨幣的インフレーションとはどういうことか。

A:中央銀行債務が財・サービスに対して過大に供給されることにより,その一単位当たりが代表する価値量が減少することです。財・サービスに対する需要超過で生じる価格上昇とは理論上は区別されます。

Q:貨幣的インフレーションはどのような時に起こるのか。

A:貨幣的インフレーションは,中央銀行-銀行ー企業の貸し出し・返済のシステムを通した通貨供給ルートでは,通常は起こりません。民間経済に供給される主要な通貨は銀行の預金通貨であり,それを下ろした場合に必要な中央銀行券ですが,これらは経済の必要に応じて貸し出されるし,返済によって消滅するからです。つまり内生的に供給されるからです。これに対して,一般政府ー企業・家計の財政支出・課税のシステムを通した通貨供給ルートでは,一般政府の政策により通貨が外生的に供給されます。そのため,財政赤字によって通貨が供給されると貨幣的インフレを起こす圧力が生じます。貨幣的インフレが生じるかどうかは,その通貨供給が財・サービスの生産を拡大するかどうかと,供給された通貨が財・サービスの購入に向かうかどうかに依存します。

Q:どういう場合には何が起こるのか。

A:まず,財政支出が生産を刺激すれば,財・サービスの量が増えるのでインフレ圧力は相殺されます。赤字を伴う財政政策で景気が回復した場合などはこれに当たり,生産の拡大とゆるやかな物価上昇が生じます。この時の物価上昇が貨幣的インフレなのか需要超過による価格上昇なのかを区別するのは難しくなります。
 赤字財政支出が生産を刺激せず,しかし供給された通貨は財・サービスの購入に向かえば貨幣的インフレーションが生じます。景気が過熱して生産余力がないときや,戦争直後など生産力が壊滅しているときに,財政支出で雇用や経営を支えようとすると起こることがあります。
 財政支出によって供給された通貨が,財・サービスの流通を媒介せずに預金や手持ち現金のまま遊休したり,金融資産の購入に向かってしまう場合もあります。遊休や金融的流通に向かっている通貨は貨幣的インフレ圧力をもたらしませんが,需要も増加させません。財政赤字を増やしても人々の預金が増えるばかりであったり,景気が回復しないのにバブルになってしまうことなどをイメージしてください。
 なお,供給された通貨が金融的流通に向かうのは,中央銀行-銀行-企業という供給ルートでも起こり得ることにも注意が必要です。企業が金融資産購入のためにお金を借り入れるとこれが起こります。


2021年5月16日日曜日

コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに

 信金中央金庫 地域・中小企業研究所から発行された峯岸(2021)は,この1年間の新型コロナ対策をマクロ経済政策として評価する上で,貴重な分析を提供してくれている。このレポートを基礎に,コロナ対策の家計と企業への影響を整理してみた。なお,峯岸(2021)が主に使用した日銀『資金循環統計』から部門別資金収支の推移を表すグラフを貼り付けておく。このグラフが全体状況を最も集約的に表現しているからだ。


1.一般政府は赤字国債発行で財源を賄ったコロナ対策により,大幅に債務を増加させた。日銀や政府の資金供給・財政支出はマクロ的には相当な影響力を持っていた。

2.家計は,全体としてみれば資産を増加させている。その主要因は預金増である。雇用者報酬は減少したが,これを上回る消費減+経常移転(給付金等)+社会給付(雇用保険給付,生活保護等)+税・社会負担の減があったからだ。峯岸(2021, pp. 6-8)はこの関係をはっきりと示している。
 しかし,失業者は29万人増加,休業者は80万人増加し,とくに非正規労働者,低所得者の状態は悪化している(総務省「労働力調査」)。零細自営業者,フリーランスも業種により苦境に直面している。よって,家計内部に格差が進行している恐れがある。

3.企業は,休廃業は増加しているものの倒産は増えておらず,現時点で全体としては大規模資金ショートは起こしていない。そして,意外にも金融資産を増加させた。なぜそうなったのかについて,峯岸(2021, pp. 12-15)の記述を再構成すると,次のように言えると思う。
 企業利益は縮小したが,赤字により内部留保積み上げがマイナスになることはなかった。一方,設備投資や運転資金への投下は縮小したので,投資のために負債を増やす必要はなかった。にもかかわらず,企業は金融支援を活用して,世界金融危機時に比べても借入金を大幅に増やした。一方,世界金融危機時と異なり,借り入れを上回る返済に追われてはいない。そのため,調達した資金の多くは手持ち現預金として積み上げられている。一部は金融資産購入に充てられているが,過去数年と比べて大きくはない。大企業では,M&Aを含む関係会社株式購入が従来の趨勢の延長線上で生じている。

4.以上からコロナ対策の影響を総括しよう。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けて「投資をためらい,現預金を積み上げ,一定のM&Aを行う」という,アベノミクス期の延長線上での動きをしつつあるのだ。

峯岸直輝(2021)「日本の経済主体別にみた資金需給と金融資産・負債の動向」『内外経済・金融動向』No. 2021-2,信金中央金庫地域・中小企業研究所,1-23。




2021年3月8日月曜日

日銀がETFを購入するとマネーストックは増えるのか

 講義用Q&A

Q:日銀のETF購入も金融緩和としてなされていますが,日銀がETFを購入するとマネーストックは増えるでしょうか。

A:場合によります。日銀がETFを購入する時には,信託銀行に対して金銭を信託することによって行います。なので,まず日銀は信託銀行が持つ日銀当座預金口座にお金を振り込みます。信託銀行はこれをいったん引き出し,預金とは別の信託勘定に移します。これを用いてETFを購入して保管しますが,これは日銀の資産として記帳されます。

 信託銀行がETFを購入するときは証券会社に発注します。証券会社は株式バスケットを入手し,運用会社に預けてETFを設定してもらいます。このとき,信託銀行の信託勘定にある現金は,証券会社に移動しなければなりません。
 ここで,証券会社が日銀に当座預金を持っていれば,証券会社名義の日銀当座預金として預け入れられます。結果として,日銀当座預金だけが増えていますからマネタリーベースは増えてマネーストックは増えません。もちろん,証券会社が増えた当座預金という資産を運用する仕方によっては増えます。

 証券会社が日銀に口座を持たない会社であれば,預金は以下のように移動します。

・信託銀行の信託勘定で現金減
・証券会社の持つ現金増。預け入れにより銀行に持つ当座預金増
・その銀行が日銀に持つ日銀当座預金増

 この場合,結果が異なります。日銀当座預金残高のみならず,証券会社が銀行に持つ当座預金という預金通貨も増えていますから,マネタリーベースとマネーストックは両方増えることになります。

Q:日銀のETF購入で株価が上がったとすれば,投資家の手持ちマネーは増えるわけですが,この時,マネーストックは増えるでしょうか。

A:直接的には,ある一つの場合を除いて増えません。日銀のETF購入で株価が上がったとして,上がった株は誰かが売って,誰かが買っています。この時,株式の買い手は買うお金を持っていたはずです。自分のものであったり,銀行以外の誰か(個人や証券会社やノンバンク)から借りた場合は,そのお金はもともと経済内部で流通していた,マネーストックに含まれていたお金です。なので,そのお金で株式を買ってもマネーストックは変動しません。株価が高くなるというのは,株式と交換されるマネーの金額が増えるだけです。
 ただし,投資家が銀行からお金を借りて株式を買った場合だけは,信用創造によって預金通貨が増えるので,直接的にマネーストックが増えます。
 また,株価の上昇が実物資産への投資を活発にし,それによって信用創造が盛んになった場合には,間接的にマネーストックが増えます。

 ETFの購入は金融緩和としての効果は限られています。むしろその役割は,上場企業の株価を底支えすることであって,そういうものとして是非を考えるべきと思います。これについての私の意見は以下の記事をご覧ください。


「日本銀行がETFを買うお金はどこから来るか?:日銀のETF購入(1)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf1.html

「日銀のETF購入は上場企業優遇の財政政策ではないのか:日銀のETF購入(2)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html

「日銀がETFで損失を出すとはどういうことか:日銀のETF購入(3)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf3.html

※2024年1月30日。ETFが信託であることを踏まえて記述を訂正。


2021年2月1日月曜日

銀行はキーストロークで通貨を創造できるが,政府はそうではない:過度な「統合政府」論に反対する

 私は管理通貨制下の通貨を信用貨幣と理解する点でMMTに賛同するし,この「政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」という記事でケルトン教授が13歳のエイミーさんに解答していることのうち2番目と3番目に特に異論はない。つまり,課税の本質のひとつはインフレ対策であり,政府債務はインフレが起きそうになるまでは拡大して良く,インフレを起こさないためには人や設備,生産力を確保しなければならない(※1)。しかし,以下の1番目の回答はおかしいと思う。

(引用)--

Q:政府は好きなだけお金を作る(刷る)ことができるのか?

A:政府が扱うお金とは、概ねキーボードでコンピューター上に打ち込むものに他ならない。例えば、空母が必要だとすれば、空母を作る人たちにお金を打ち込むだけで、その金額分のお金をいちいち刷っているわけではない。

 なので、この質問は「政府は欲しいものを買う余裕があるのか」と言い換えることができ、それに対する答えは「イエス」。

--

 ケルトン教授は,政府がキーストロークで通貨を創造して,それで支出を行うことができるという。これは政府と中央銀行を合体して統合政府とみなせるならば正しい。MMTに限らず,一定の事項について,一定の条件下で統合政府を語ることは理論的にもっともだ。しかし,現実のほとんどの国において,政府と中央銀行は別組織である。両者が別建てであることは,財政支出を考えるときどうでもよいことではない。

 中央銀行は,確かにキーストロークで通貨を創造できる。そして,それは自己の資産を創造するのではなく,自己宛ての債務,具体的には中央銀行預金を創造するのであって,その支出は金融取引,つまりは貸し出しや債券の購入に限られている。例えば民間銀行に貸し出しをし,民間銀行から国債を買う。中央銀行は,銀行であるがゆえにこうした「自己宛て債務による信用供与や信用代位」が当然に可能なのである。

 対して,中央銀行ではない狭義の政府は,多くの場合,通貨創造の主要な担い手ではない。もちろん硬貨や政府紙幣を発行することはできるが,その形式は多様である。理論的には,政府は硬貨・政府紙幣に強制通用力を付与し,架空の資産価値を付与して発行することもできるし,政府債務として発行することもできる。日本政府のように,硬貨は政府にとって資産価値を持つものの,生み出した硬貨で財政支出することはできない仕組みになっている場合もある(※2)。このように,狭義の政府による通貨発行権は多様であるが,しばしば制限されている。なぜ制限されていてかつ多様なのかというと,たいていの場合,通貨発行の主要な担い手は中央銀行と想定されているからであり,また狭義の政府は銀行の原理で動いていないからである。

 ケルトン教授は,この違いを本質的でない,どうでもよいものとみなしている。だが,私にはそうは思えない。政府と中央銀行は,一定の条件下では統合政府とみなしてよいものの,別の役割を持つ,別の性質を持つ組織とみなすべきだ。中央銀行は,キーストロークで当然に通貨を創造できる。それはよい。しかし,狭義の政府は当然にはそれはできないとみなすべきだろう。

 だから,狭義の政府が大砲に対してであれバターに対し手であれ支出しようとすれば,その支出は,硬貨や政府紙幣ではなく,中央銀行券か中央銀行預金で支払わねばならない。現実を説明するモデルでは,まずもってそう想定すべきだ。この場合,たとえば政府は小切手で業者に1億円を払うことはできる。しかし,その小切手は大砲メーカーまたばバターメーカーが民間銀行に持ち込み,民間銀行は政府に支払いを要求し,中央銀行が,1億円を中央銀行に政府が持つ預金から民間銀行が持つ預金へと移動させるだろう。だから,政府預金が無尽蔵にあるのではない限り,狭義の政府は,歳入を超える支出のためには,国債を発行して資金調達しなければならないのである。

 国債発行によって政府債務が増大する。民間銀行は低成長時代には過剰準備となっている中央銀行当座預金を取り崩して国債を引き受ける。それが難しそうならば,中央銀行が事前に既発債を購入するか事後に引き受け銀行から購入して,キーストロークで必要な当座預金を供給するだろう。この政府債務が国内通貨建てである限りデフォルトしないことは,MMT派とケルトン教授の言う通りである。

 しかし,債務がデフォルトしないからと言って,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」のではない。「中央銀行が過去または現在にキーストロークで創造した通貨が裏付けとなれば,政府が赤字支出し続けられる」というべきであり,これ以上省略して中央銀行と政府を一体とみなすことは適切ではない。中央銀行と狭義の政府は別の原理で動く別組織である。確かに両者は,多くの場合は協調する。しかし,それぞれの制度的制約の中でそうするのであり,またいつでもどこでも100%協調する保証はないのである。

 MMTが,理論的にそうみなすべき時に統合政府を持ち出すのは良いとしても,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」というのは過度な単純化であり,現実の財政を論じる際には不適切だろう。

※1 ただし,インフレまたはバブルになるまでは,というべきだろう。バブルも警戒しなければならない。

※2 日本政府は発行した硬貨を日銀に交付する。このとき,政府の日銀に対する預金は増えるが,これは政府当座預金とは別口の預金になり,政府が財政支出に用いることはできない。以下を参照。
渡部晶(2012)「わが国の通貨制度(幣制)の運用状況について」『ファイナンス』8, 18-31。


「13歳の疑問に対する,経済学者のまさかの回答 政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」COURRIER Japon, 2020年1月30日。



2021年1月6日水曜日

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年を読んで

 ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。原題もGerald A. Epstein, What's wrong with modern money theory?なので邦題は間違っていないのだが,内容はタイトルとちょっと違う。もともとあったのに邦訳では省略された副題A policy critiqueというニュアンスが重要だ。本書は実際には,「実際の経済政策に応用しようとしたらMMTには何が足りないのか?」を明らかにしようとしているのである。著者は進歩主義的マクロ経済政策の研究者であり,公共投資と社会保障のために必要な財政支出は行うべきという立場を取っている。その点においてはMMTと同じ方向を向いている。しかし著者によれば,MMT論者は,制度的要因を無視して抽象理論から政策的主張をいきなり導いたり,本来自ら持っている理論的枠組みを当面の政治的主張のために無視したりするという問題を持っており,その弊害は無視できないというのである。

 詳細は本書にぜひ当たっていただきたいが,私は著者のMMT政策論批判は,おそらく妥当であると思う。おそらく,というのは,私がMMTの研究者がアメリカでどのように政策を論じ,とくに政治的な論戦の場でどのように対抗理論と切り結んでいるかについて詳しい知識を持たないからである。しかし,著者がMMT論者の主張を正確に読み取っている限りにおいて,その批判は正しいように思える。私は,MMTについて,貨幣の本源的理解は同意できないものの(※),信用貨幣論と内生的貨幣供給論による中央銀行券論を肯定している。にもかかわらず著者に賛同できるのは,著者もまたMMTの貨幣理論や銀行理論を根本において否定していないからである。その上で,著者がMMT論者の,抽象理論から規範的な政策論を導く際の論理と実証の弱さを批判していることは,もっとなように思えるのだ。

 とくに私は,日本のMMT論者の政策的主張でも手薄なところについての著者の批判を重視したい。列挙してみよう。
 第一に,MMTが抽象的な次元で統合政府を論じるのは良いとして,現実の制度の上で政府と中央銀行の間の政策協調が実現するかどうかは別問題だということである。当然,個々に制度分析と制度改革論が必要になる。
 第二に,財政拡張がインフレを招いた場合に,どのようにして支出削減や増税という政策転換を行うのかということである。安定した税の制度と運用を確保しながらこれを行う方法を開発しないと,こうしたファイン・チューニングは実行できないだろう。
 第三に,MMT論者は変動相場制の自動調整機能を信頼し過ぎている。発展途上国の通過に対して,投機的な資金の動きがインフレ率と乖離した為替相場の急落をもたらすおそれについて無警戒過ぎる。
 これは第四に,米ドルについてさえいえる。在外ドル資産がどれほどあり,それらを他の通貨で持ち替えようと動きがどれほどあるかによって,ドルの地位も左右される。
 第五に,MMT論者はミンスキーの支持者であるにもかかわらず,「金融不安定仮説」に無頓着である。これは通貨発行権を持つ政府の債務創出はヘッジ金融にしかならずポンツィ金融になる心配がないと考えるからかもしれないが,だからといって通貨供給量の拡大が民間におけるバブルに結びつく危険性は無視できない。MMTは,理論的にはその危険性を認識しうる枠組みだが,政策的考察が弱い。第三,第四の点とあわせて言えば,MMTでは金融規制への関心が弱い。
 第六に,MMT論者は,その理論的枠組みにおいてはフリーランチがありえないことを認識しているのに,政治的主張の場でそうでないかのように主張している。MMTにしたがっても,財政拡張によって完全雇用に達した後は資源を何に用いるかについてトレードオフとクラウディング・アウト(その表現としてのインフレ)が生じる。ところがMMT論者は,政治的主張の場において,あたかも財政赤字が誰にも何の犠牲ももたらさずに利益だけを実現できるかのように主張している。

 以上,やや大胆に著者によるMMTの政策論批判を要約した。著者の批判は破壊的批判でなく,MMTが実践に寄与するためには何を充実させねばならないかを指し示した,建設的批判である。MMTの理論に立って政策論を構築しようとする際に,聴くべき重要な警告であると思われる。

※MMTは歴史的にも理論的にも貨幣は最初から信用貨幣であったとみなす。私はマルクスに従い,資本主義社会における貨幣を理論的に理解するにあたっては,まず本源的に金を典型とする商品貨幣のモデルで理解した上で,その発展形として銀行券や預金通貨の存在するモデルで理解し,さらに管理通貨制という条件下のモデルで理解すればよいと考える。

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。



2020年12月5日土曜日

民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する

  貨幣論の講義を終えての理論的反省。昔からある話だが,マルクスの貨幣理論を古典的理解のままさほど改変せずに入門講義をしようとすると,管理通貨制を説明できるかという問題に突き当たる。私見では,これは大きく二つの領域に分かれる。

1)「流通必要金量」概念とそれによる論理構成は維持できるか。管理通貨制の下で,何らかの商品貨幣の物量によって貨幣の流通必要量を定め,それに対する紙幣や銀行券の代表量を論じる構成は維持できるか。

2)貨幣流通法則と紙幣流通法則の区別は現実性を持つか。不換銀行券や補助硬貨がすべて紙幣流通法則にしたがうのであれば,貨幣数量説とマルクス理論は区別されるのか。

 1)の方が難問である。あっさり否定するのは簡単であるが,そうすると色々な論理構造を連動して変えねばならず,非常に複雑な作業となる。かつて私が院生の頃,研究科内で田中素香教授と村岡俊三教授の見解が真っ二つに割れたことを覚えている。両方のゼミに出ていた院生はたいへん張り詰めた空気を感じざるを得なかったという(私は村岡ゼミにしか出ていなかったので,緊張は半分で済んだ)。いわゆる価値尺度商品の想定の問題であり,正直,私にもこちらはまだ整理がまだつかない。正直に言うが,スラッファ理論の訓練を受けなかったのがたたっており,現代的な議論についていけそうにない。

 私にとっては,2)は1)に比べれば何とかなりそうだと思っている。マルクスの言葉で貨幣流通法則にしたがうとは,現代の言葉では,内生的貨幣供給とほぼ等しい。紙幣流通法則はその逆で,貨幣の外生的供給の論理である。どのような通貨のどのような供給が貨幣流通法則にしたがい,したがって貨幣的インフレーションを起こさないのか,何が紙幣流通法則にしたがい,貨幣的インフレーションを起こすのかは,何とか論じられると思う。それが先日の投稿「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」である。これでもまだ不十分な点はあるが(国債発行の際の通貨供給増を中央銀行券の増発と単純化しているが,これでは預金通貨の動きをカバーしない),説明不可能に陥る危険は今のところ感じない。

 しかし,この整理によって,私はマルクス経済学の多数の解釈とも,また今まで基本的に従って来た不換銀行券=信用貨幣説の先達,すなわち岡橋保教授と村岡俊三教授ともある点で異なる見地に立つことになった。それは,国債を民間銀行が引き受けた場合にも,通貨供給量は一方的に増大するとみる点である。

 マルクス経済学者は,不換銀行券=国家紙幣説であれ不換銀行券=信用貨幣説であれ,国債を中央銀行が引き受けた場合には紙幣流通法則が作用し(=紙幣が外生的に供給され),通貨供給量が一方的に増加して,貨幣的インフレ作用が生じると考える。私の知る限り,ほぼ例外はない。しかし,逆に国家紙幣説であれ信用貨幣説であれ,国債を民間銀行が引き受けた場合には,流通界から政府が紙幣を引き上げ,再び投入すると考える。この場合,流通法則をどちらで考えるかは別として,通貨供給量は変化しないと考えるのが通説である。岡橋教授は明らかにそうであるし,村岡教授は書き記してはいないかもしれないが,口頭の議論からは同様であったと私は理解している。

 しかし,そうではないと私は考えるに至った。中央銀行が引き受けようが民間銀行が引き受けようが,通貨供給量は増えるのである。以下,中央銀行券と預金の動きを説明する。

・中央銀行引き受けの場合

1a)政府が中央銀行券で支出すれば,「政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支払→支出先企業の中銀券増」

1b)政府が銀行振り込み支出すれば,「政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。明らかに通貨供給量が増えている。

・民間銀行引き受けの場合

2a)政府が中央銀行券で支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支出→支出先企業の中銀券増」

2b)政府が銀行振り込み支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。これも通貨供給量は増えている。2a)ではかわりに中央銀行当座預金が減っているが,企業が中央銀行券を預金すれば準備も回復し,その圧力はなくなる。2b)では中央銀行当座預金が減りもしない。

 通説が誤っているのは,国債を民間銀行が引き受けると,通貨が民間から引き上げられる(よく使われる表現では民間貯蓄が吸収される)とみなしているところである。そうではない。国債の代金は流通の外にある(マネタリーベースに含まれるがマネーストックに含まれない)中央銀行当座預金から政府預金に振り込まれるのである。なので銀行が国債を引き受けても通貨は民間から引き上げられず,民間貯蓄は吸い上げられないのである。もちろん,民間銀行からさらに民間投資家に売却されれば別である。この場合,投資家の持つ中央銀行券や預金が減少するために通貨は引き上げられる。

 この見解の帰結は,重大な問題を派生させる。この見解に従えば。国債が中央銀行によって引き受けられようが民間銀行によって引き受けられようが,紙幣流通法則が作用し(通貨が外生的に供給され),貨幣的インフレ圧力が生じるはずだからである。現実にはどうか。日本をはじめとする先進諸国が財政赤字を出し続けているにもかかわらず,1980年代以降,物価上昇率は下落の一途をたどり,ついには物価上昇率を引き上げよという政策的主張が交わされるに至ったのである。一体,このことをどう理解すればよいのか。これが次の問題となる。

 なお,貨幣の種別と流通法則をまとめた表を,政府の財政赤字で預金が増加した場合を含めて書くと以下のようになる。

2021年2月19日。加筆。




2020年11月19日木曜日

管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか

 (要約)

 管理通貨制下での不換の中央銀行券や預金通貨は信用貨幣であり,貸し付け・返済や信用代位で流通に入る際は,貨幣流通法則にしたがう。これは従来のマルクス経済学の『不換銀行券=信用貨幣』説と同じである。だが,同じ不換銀行券や預金通貨が財政赤字の拡大によって流通に投入される際は,紙幣流通法則にしたがう。国債が民間銀行によって引き受けられても,中央銀行によって引き受けられても同じである。これは,少なくないマルクス経済学者が,民間銀行によって引き受けられる場合には貨幣流通法則にしたがうとしていることと異なる。国債の中央銀行引き受けも民間銀行引き受けも,この点では区別はない。いずれも貨幣的インフレーションを引き起こす可能性を持つ。


1.貨幣流通法則と紙幣流通法則

 労働価値説を採るマルクス経済学では,もっとも抽象的なモデルでは貨幣はそれ自体労働価値を持っていると想定する。これを商品貨幣説ということができる。典型的には金や銀が商品貨幣になりうる。もちろん,現代が管理通貨制であることはどんなマルクス経済学者も認めている。また,貨幣史において早い時期から信用貨幣が用いられていたという説があることも今では認められている。しかし,経済原論の抽象モデルにおいては,マルクス経済学は商品貨幣を出発点に置いている。

 さて,こうして商品貨幣から出発すると,貨幣の流通について二つの流通法則を区別する必要が出てくる。貨幣流通法則と紙幣流通法則である。貨幣流通法則を要約的に言えば,商品の総量と貨幣の流通速度によって必要流通貨幣量が価格タームで決まるのであって,逆ではないという法則である(※1, 2)。

 流通に必要とされない貨幣は流通外で遊休し,蓄蔵貨幣のプールを形成する。流通に必要な貨幣量が増えた場合は,蓄蔵貨幣のプールか,貨幣商品の生産地(例えば産金部門)から流通に入っていく。

 紙幣流通法則とは,価値を持たず国家の強制通用力によって流通する国家紙幣や補助硬貨に働く特殊な法則である。価値を持たない国家紙幣は蓄蔵されないので,商品の運動に従って流通に出入りすることができない。むしろ,国家が流通外から投入し,また回収することによって流通に出入りする。これが紙幣流通法則の内容である。国家が何らかの理由により,価格タームでの流通に必要な貨幣量を超えて流通外から国家紙幣・補助硬貨を投じると,それを回収しない限り,紙幣の代表する貨幣商品量が切り下がり,価格は騰貴する。これが,労働価値説ベースでの貨幣的インフレーションの基本規定である。

 国家紙幣・補助硬貨は国家が回収しなければ流通から出られないために,蓄蔵貨幣のプールを形成しない。

 労働価値説ベースの貨幣的インフレーションは,日常用語でいうインフレーションに比べると,かなり限定されものである。財・サービスの需給ひっ迫によるインフレ,原燃料の生産費高騰によるインフレ,民間経済に原因を持つ賃金高騰の価格転嫁によるインフレは,貨幣的インフレではない,別の現象である。

 以上のことについて,マルクス経済学の,労働価値説をベースにした古典的解釈では,多くの研究者に合意が存在する。しかし,管理通貨制の下での銀行券,中央銀行券,預金通貨については意見は分かれる。私見は以下のとおりである。

2.銀行券・中央銀行券・預金通貨:貸し付け・返済と信用代位によって流通に出入りする場合

 管理通貨制下の銀行券と預金通貨(ここでは要求払い預金に限る。日本で言えばM1に含まれる預金通貨のことである)が流通に入る基本的なルートは銀行による貸し付けまたは信用代位(手形や債券の購入)である。また流通から出る基本的なルートは返済である。銀行券や預金通貨は銀行の債務であるから,返済されれば消滅する。そして,貸し付けと返済は民間企業,すなわち商品流通の世界の要求によってなされる。したがって銀行券と預金通貨は,貨幣流通法則にしたがう。端的に,民間の貸し付け,返済によっては,貨幣的インフレは起こらない。銀行券はそれ自体に価値を持たないにもかかわらず,ここまでは商品貨幣と類似の運動をするのである。

 ただし商品貨幣と異なるのは,銀行券と預金通貨は蓄蔵貨幣のプールを形成しないことである。貸し付けられて回収された銀行券や預金通貨は消滅するからである(ここでは利子の動きは捨象し,元本のみを考える)(※3)。

 では中央銀行券はどうか。貸し付け・返済や債券購入・売却によって流通に投じられ,流通から引き上げられて消滅することは銀行券一般と全く同じである(※4)。そのため,中央銀行券もまた貨幣流通法則にしたがう。また中央銀行券は蓄蔵貨幣のプールを形成しない。中央銀行は流通界と直接接することがなく,中間に民間銀行が入るために,中央銀行券の運動は複雑になるが,運動法則の基本は変化しない。

 ただし,中央銀行の要求払い預金(日常用語でいう中央銀行当座預金)は,いささか異なる。貸し付け・返済と信用代位という形で形成され,消滅することは民間銀行の預金と同じであるが,中央銀行当座預金は財・サービスの流通を媒介しない。民間の商品が中央銀行当座預金によって流通することはない(※5)。また,中央銀行当座預金は,民間銀行の預金残高と連動して独自の動きをする。中央銀行当座預金は,直接流通に入る通貨ではないので,抽象的な貨幣流通法則や紙幣流通法則が直接には作用しない存在である。

 以上のように,管理通貨制下の銀行券,中央銀行券,民間銀行預金通貨は,金融システムを通して運動する限り,いずれも貨幣流通法則にしたがう。それ自体が価値を持たない銀行券や預金通貨であっても,そして金兌換が行われていなくても,貨幣流通法則にしたがうのである。

 この主張は,「不換銀行券=信用貨幣」説に立つ論者であれば,無理なく認められるものである。「不換銀行券=国家紙幣」説に立つ論者であれば認めないであろうが,それは認めない方が間違っているのである。金と交換されないからという理由で,貸し付け・返済によって銀行券や預金通貨が伸縮することがなくなるというのは,原因と結果がつながらない。

3.銀行券・中央銀行券・預金通貨:財政赤字によって流通に投じられる場合

 さて,不換の中央銀行券や預金通貨は,政府が財政赤字を出す場合にも流通に投じられる。これらは,貸付・返済や信用代位による場合とは別に考察する必要がある。

 財政赤字を出しつつ支出する際に政府は国債を発行するが,国債は中央銀行が引き受けることも民間銀行が引き受けることもあり得る。この二通りをそれぞれ考えよう。

 まず中央銀行が直接国債を引き受ける場合は,国債の代金は中央銀行に政府が持つ預金に振り込まれる。政府はこれを引き出して,政府調達や公的部門給与などの形で支出する。中央銀行券で引き出して支払うこともありうるし,支払先企業が民間銀行に持つ預金口座に代金を振り込むこともあり得る。後者の場合は民間銀行が政府に対する債権を持ち,これは政府がもつ中央銀行預金から民間銀行がもつ中央銀行当座預金への振り込みによって決済される。いずれにせよ,通貨供給量は増大する。そして,ここで追加供給された中央銀行券は,貸し付けられたわけではないので,返済によって内生的に流通から出ることがない。国家の措置,すなわち課税強化などがなければ流通から出ないのである。つまり,中央銀行の国債引き受けによって流通に投じられた中央銀行券は,紙幣流通法則にしたがう。そのため,貨幣流通速度は不変とすれば,政府の赤字支出に連動して流通する商品総量が増加した場合は物価は不変であり,商品総量が不変または減少した場合には(※6),貨幣的インフレーションが生じる。

 ここまでは,マルクス経済学者はもちろん,他の学派の経済学者でも多くが認めることである。

 では,民間銀行が国債を引き受けた場合はどうか。国債の代金は,民間銀行が持つ中央銀行当座預金から政府預金に振り込まれる。この点が,中央銀行引き受けと異なるところである。しかし,ここから先は同じである。政府はこれを引き出して,政府調達や公的部門給与などの形で支出する。そして,通貨供給量は増大する。そして,ここで追加供給された中央銀行券は,貸し付けられたわけではないので,返済によって内生的に流通から出ることがない。国家の措置,すなわち課税強化などがなければ流通から出ないのである。つまり,民間銀行の国債引き受けによって流通に投じられた中央銀行券は,紙幣流通法則にしたがう。そのため,貨幣流通速度は不変とすれば,政府の赤字支出に連動して流通する商品総量が増加した場合は物価は不変であり,商品総量が不変または減少した場合には,貨幣的インフレーションが生じる。

 これは,マルクス経済学者はもちろん,他の学派の経済学者でも多くが認めない,通説に反する主張である。多くの経済学者は,民間銀行が国債を引き受けた場合には,流通している貨幣がいったん引き上げられ,再度政府によって流通に戻されると考える。流通する貨幣量,すなわち通貨供給量は変化しないので,それが国家紙幣であれ中央銀行券であれ,貨幣的インフレーションを引き起こす作用はないとするのである。

 だが,これは通説が間違っている。間違いのもとは,中央銀行当座預金の運動を無視しているからである。民間銀行は国債の代金を中央銀行当座預金から振り込む。そして,中央銀行当座預金は,元々流通内には存在しない。したがって,中央銀行当座預金→政府預金→流通界というように預金や中央銀行券が移動すれば,通貨供給量は増える。もちろん,中央銀行当座預金は銀行の準備預金であるから,これが減少すれば銀行の貸し出しは制限されることになる。しかし,この場合,中央銀行当座預金は,国債購入によって減少するものの、,政府の支出によって,支出先企業が持つ銀行預金が増えることを通して増加するので,結局はプラスマイナスゼロになる。よって銀行の貸し出しは制限されず,金融はひっ迫しないのである。

4.結論

 まとめよう(図)。マルクス経済学の通説が述べるように,商品貨幣は貨幣流通法則にしたがい,国家紙幣・補助硬貨は紙幣流通法則にしたがう。貸し付け・返済や信用代位によって流通に出入りする銀行券,民間の預金通貨は貨幣流通法則にしたがう。しかし,財政赤字によって流通に投じられる中央銀行券は,その際に国債が中央銀行によって引き受けられると民間銀行によって引き受けられるとを問わず,紙幣流通法則にしたがうのである。

 ただし,紙幣流通法則にしたがうからと言って,財政赤字で投じられた通貨がただちに貨幣的インフレーションを引き起こすとは限らない。公共事業によって投じられた通貨に見合っただけ,財・サービスの流通量が増えれば物価は上昇しない。また,財政支出された補助金や給付金が財・サービスに買い向かうことがなく,貯蓄として眠り込んだ場合も,当面は物価は上昇しない。赤字によって投じられた通貨が,生産拡大を引き起こすよりも既存の財・サービスに買い向かった場合にのみ貨幣的インフレーションが生じるのである。この点には十分注意が必要である。

 

※1貨幣流通速度を一定とすれば,商品総量の労働価値により,これを流通させるのに必要な貨幣商品の総労働価値が決まり,したがって特定の貨幣商品の量が決まる。すると,この貨幣商品について定まっている価格標準(金1g=X円など)に応じて,必要流通貨幣量も価格タームで決まる。

※2 以下のマルクス経済学解釈は,現状の貨幣の運動分析についてMMT(現代貨幣理論)に近い結論を導く。ただし,マルクス経済学は抽象モデルにおいて労働価値説と商品貨幣論から出発して,具体的モデルにおいて信用貨幣論に至る。MMTの理論は最初から表券主義的な信用貨幣論による。ここには違いがある。

※3 ただし,ここでは貯蓄性預金を考慮していない。貯蓄性預金の動きについては別途考察する必要がある。

※4 実務においても,1万円札は日本銀行に戻ってくると1万円の資産になるのではない。単なる紙としての資産になるのである。

※5 実務においても,中央銀行当座預金はマネタリーベースを形成するがマネーストックには含まれない。

※6 不変なのは,例えば公的部門賃金が上がった場合や政府調達価格が引き上げられた場合,減少するのは例えば軍事調達された商品が流通から引き上げられ,戦争で消耗した場合などである。



2022/9/5 一部改訂。





2020年9月16日水曜日

「財政赤字になってもいい」は背景に過ぎない。「インフレとバブルを起こさないように失業をなくせ」がMMTのコアである

  今後,失業の問題が厳しくなると思います。その際,再度MMTの妥当性が問われる事態になると思うので,ここで頭出しとして私の理解を述べておきます。解釈を明示することがポイントなので厳密な表現ではないかもしれませんがご容赦ください。

 日本のMMT論者の中には,財政拡張を用途を問わない打ち出の小づちのようにみなす人がいるのは事実です。しかし,私がL.ランダル・レイの『MMT 現代貨幣理論』を読んだ限り,「財政赤字になってもいい」はMMTの主張の背景であって主張のコアではありません。MMTは本来インフレとバブルを非常に警戒した理論であり,そのニュアンスは「赤字になってもいいがインフレとバブルを起こすな」の「インフレとバブルを起こすな」の方にあるのです。

 このインフレへの警戒は,(高齢の方ならご記憶と思いますが)1970年代にいくら財政刺激をしても乗数効果も加速度効果も効かず,インフレになるばかりで効果がなかったというジレンマを念頭に置いています。この時,先進国のマクロ経済政策論が引き出した教訓は,「呼び水による高成長などもう無理だ。インフレになる」でした。そこまでは共通です。分かれるのはこの先です。世間の主流が,当時マネタリストが唱えた,財政赤字が悪い。失業は民間活力で防ぎ,政府は財政でなく金融政策で調整しようという方向であったことは,よく知られている通りです。対して,MMTが目指したのは,「赤字はいいがインフレになる支出の仕方が悪い。最低賃金レベルの大規模政府雇用で失業を失くし,科学研究や環境対策など外部性をカバーする事業をせよ」でした。

 MMTは,確かに貨幣・信用理論として「自国通貨建て財政赤字はそれ自体は問題ではない」としているし,ケインジアンとともに「財政赤字をある程度出さないと完全雇用は達成できない」と考えています。しかし,それは背景であって,コアな主張はそこではない。そして,赤字による呼び水的公共事業には本来懐疑的なのです(レイははっきりそう言っている)。コアな主張は日本の政策用語で言えば「大規模失業対策事業」なのです。

 私は,賛否の前に,MMTを先ずこのように理解すべきだと思います。レイ以外の議論を確認できてないのですが,たぶんまちがいではない。そして,このように理解した上で,批判すべきだと思います。私自身も,MMTの貨幣・信用論を受け入れましたし,政府雇用拡大には大いに意義があると思います。しかし,その運営は容易でないと予想しています。この論点は,今後,現実の雇用政策を考える上でリアルなものとして浮上する可能性があると思います。

 今までSNSでも講義でもこの話をあまりしなかったのは,MMTの論文を多数読んで裏取りする時間が取れないこともありましたが,日本には「全部雇用」という特有の条件があるために,直接適用しにくかったからです。日本は専業主婦と自営業の比率の高さのため,これまで不況でも失業率が低かった。そのため,格差や貧困や低処遇雇用の問題は,「失業率が高いからだ」という論点に収斂せず,解決策も「雇用をつくれ」が中心にならなかった。近年は,雇用は増えて失業率は極小化したにもかかわらず,非正規労働者が増え,その収入では家計を支えられないということが問題になっていました。この場合,政府雇用は解決になりにくいので,持ち出さなかったのです。

 しかしコロナ危機で,今のところ雇用調整助成金で抑えられている失業率が,今後上昇するおそれがあります。その時には雇用創造が政策的論点として正面に出ざるを得ません。公的機関が直接雇用を増やすべきかどうかも問題になるでしょう。それに際して,MMTの本来の主張を確認しておくことが必要になると思ったのです。


2020年8月23日日曜日

「日本経済」講義におけるマクロ経済政策論の反省

 メモ。今回の「日本経済」講義内容で不足していた点の反省。

 アベノミクスが,事実上金融緩和一本やりで景気を浮揚させようとして,どこまで効果があり,どこから効果がなかったのかは明確にした。ケインズの流動性選好論と資本の限界効率の不確実性論を用いて,企業が投資をせずに現金・有価証券を積み上げ,個人が消費をしない(ただし低所得層については,端的に消費するお金がない)現状を示した。

 これ以上のことは金融政策ではできず,「低成長・人口減少・高齢社会」への不確実性と不安を和らげるような財政・社会政策が必要になる。財政は常時赤字でも問題はなく,プライマリー・バランス黒字化という政策目標にこだわる必要はない。ただし,それにかわって悪性インフレとバブルを起こさないための政策目標が必要である。

 ここまでは丁寧に講義した。問題はこの先だ。

 財政政策を用いるとしても,財政の量的拡張と質的組み換えは異なる。たまたまコロナ危機が襲来したために量的に拡張するしかない情勢となったが,コロナ危機以前の状態で,本来はどちらが重要なのかは重要な論点であった。そこがうまく言えなかった。

 注意しなければならないのは,アベノミクス下の「実感なき景気回復」では完全雇用は達成されていないのに,有効求人倍率は失業率は低いということだ。これは日本社会が高成長期以来一貫して「全部雇用」であることによる。大企業の雇用保蔵,家庭とパートを行き来する女性や高齢者,先進国最大の比率を持つ自営業セクターのため,不況になっても,景気回復が不十分でも失業率は低いのである(野村正實『雇用不安』)。

 失業率が低いということは,雇用の量的拡大策が有効に作用しないということを意味する。だから,ダムが無駄がどうかは別にしても,公共事業を拡大しても効果は薄い。現に昨年までそうなっていたように,人手不足なのに賃金が上がらず,非正規の賃金で生計を立てざるを得ない世帯は増え続け,貧困は拡大してしまう(これは雇用対策として効果が薄いという意味であって,老朽インフラのメンテなど有意義な公共事業もあることを否定していない)。

 こうなると,MMTが主張する雇用保障プログラム(JGP)も容易ではない。失業対策事業を政府が行なうと言っても,そもそも失業者があまりいなかったからだ(もっともコロナ危機で増えるとすれば,この方策は有効性を持つかもしれない)。

 このような状態では,財政政策を拡張するにしても,有効なのは公共事業による雇用創出策ではない。そうではなく,教育や医療や介護の負担を下げることや,非正規労働者の状態を改善することや税の累進性による再分配強化などにお金を使わねばならない。となれば,財政は量的にも拡張するとしてもそれは結果であり,むしろ重要なのは質的転換である。そういう風に理解するならばワイズ・スペンディングという言葉も的外れではない。

 せっかく全部雇用論や非正規拡大の傾向について論じたのだから,それによって有効な財政政策の中身が決まってくることを,もっと労働市場論と財政政策論を整合させる形で言うべきであった。そこが不十分だった。

 もう一つの問題は,このような政策による支出増と歳入の関係であった。必要な政策が公共事業拡張ではないとすると,(コロナ対策の給付金やや一時的減税は別として)むしろ恒常的な医療・教育・福祉・労働改革としてやるべきことが多い。そこに追加支出を伴うとすれば,それは景気対策としての一時的支出でなく,恒常的な支出になるということに注意しなければならない。景気循環に関わらない恒常的な支出と歳入の関係をどう設計するかだ。これは,MMTの財政赤字容認論に立つとしても,考える必要がある。

 なぜか。政府債務が存在し,増え続けること自体は問題ではない。債務を完済する必要もない。しかし,インフレ(為替レート下落を含む)とバブルは,歳入増・支出減によってチェックしなければマクロ経済は安定しない。MMTに立つとしても,財政を緩めるべき時に緩め,引き締めるべき時に引き締めるという必要性は変わらないのである。とすれば,恒常的な支出増を赤字国債で賄うことは慎重であるべきだ。景気循環を通して赤字を構造化させてもよい範囲というのは,理論的には存在する。しかし,実際にその許容水準をどう設定するかは非常に難しく,その検討を慎重に行わねばならない。

 この問題の難易度を下げるためには,反循環的税制により,好況期の税収増/支出減・不況期の税収減/支出増というビルト・イン・スタビライザーを強く作用させる必要がある。税の累進性や資産課税を議論する際に,再分配効果とともに景気循環への作用も考えねばならない。

 財政赤字容認論に立つにしても,景気対策の一時的支出増と恒常的支出増を区別した次元で論じることが不十分であった。

 もっとも,ここまでの答えを講義で述べていないからこそ,今後の財政・金融政策を考えさせるレポート課題を出すことができたともいえる。唯一正解のない話でも,授業で教員が自分の思う答えを言いすぎると,学生はその通りに答案を書いてしまう。あるところから先は自分で考えてもらう方がよい。その見極めが難しい。

2020年8月21日金曜日

ついに通貨供給量が増え始めたが,アベノミクスが成功したからではない

 アベノミクスが狙ったメカニズムのうち,もっとも主要なものでありながらもっともうまくいかなかったのが,通貨供給量の増大である。いくら日銀に国債を買い上げてもらっても,市中に通貨が供給されず,日銀当座預金が積まれたままになったのだ。これを金融用語でいうとマネタリーベースは増えたがマネーストックが増えなかったということになる。

 ところが,ここへ来てマネタリーベースとマネーストックがともに急上昇している。2020年7月の前年同期比伸び率が,マネタリーベースは9.8%,マネーストック(M2)は7.9%に上った。過去,これを上回る伸び率が記録されたのは,マネタリーベースは2017年12月にさかのぼり,マネーストックに至っては1990年12月である。マネーストックのうち預金は14.1%も伸びており,企業が法人預金を増やしており,個人や商店にも給付金が支給されたために預金が増えているということによると思われる。もっとも,現金も5.6%伸びている。

 ついに通貨供給量は伸びたのであるが,アベノミクスがついに聞いたわけでもないし,これで物価が上昇するどころではない。マネーストックの伸びは,主に法人も個人も流動性確保のために預金を積んでいる動きの方を反映しているので,要は不況の悪化に身構えているのだ。給付金が支出されたために伸びた部分もあるだろうが,そちらはマイナー要因だ。前者はデフレにつながり,後者はインフレにつながるが,前者の方が強い。

 しかし,日銀当座預金だけが積みあがって市中にお金が出回らなかったこれまでの7年半とは異なる動きが,マネーに生じていることは確かであり,今後とも注意を要する。通貨供給量が増えたと言っても,その増え方次第でデフレ要因ともなり,インフレ要因ともなり,バブル要因ともなるからだ。


2020年7月10日金曜日

国債発行はカネのクラウディング・アウトを起こさないが、都債を含む地方債発行は起こし得ることについて

 国債発行による中央政府の支出増は,カネのクラウディング・アウト(金利の上昇)を起こさない。このことはMMTの信用貨幣論に即して,以前に論じた()。他方,地方自治体は通貨発行権を持っていないので,地方債の発行による資金調達は民間資金需要と競合し,カネのクラウディング・アウト(金利の騰貴)を起こす可能性がある。ここではこの違いを考察する。
 中央政府の場合,政府が国債を発行して銀行に引き受けてもらうと,銀行の日銀当座預金(超過準備)が減少し政府が日銀に持つ政府預金(国庫)が増大する。そして,政府が赤字支出をするとマネー・ストック(通貨供給量)が増える。具体的には政府がモノ・サービスを購入するので,販売した企業の銀行預金が代金分だけ増え,銀行が政府から代金を取り立てる。取り立てると銀行の日銀当座預金が増えて政府預金が減る。結果,日銀当座預金はプラスマイナスゼロとなる。インターバンクの短期金融市場にも,もちろん民間の金融市場でも需要超過はないので金利は高騰しない。
 地方自治体の場合はこれと異なる。地方自治体は日銀に口座を持っておらず,市中銀行と取引をしている。自治体が地方債を発行して銀行に引き受けてもらうと,自治体が銀行に持つ預金口座にお金が振り込まれる。この時,銀行は資産側に地方債,負債側に預金を加えてバランスシートを膨らませる。預金通貨が増えるのでマネー・ストックは増える。自治体が赤字支出をすると,自治体の預金は減り,モノ・サービスを販売した企業の預金が増える(単純化のために自治体と企業は同じ銀行に口座を持つとする)。
 地方自治体が地方債を発行して赤字支出をした場合,マネーストックが増えるところは政府の場合と一緒だが,理由が異なる。マネーストックが増えるのは,政府の場合は赤字支出したこと自体が理由であるが,地方自治体の場合,銀行が地方債の代金として預金通貨を創造したからである。銀行の貸し出し金額や債券購入額には,借り手のリスクの存在や銀行の流動性調達能力に制約されて上限がある。このため,地方自治体による借り入れと民間の借り入れは同一次元で競合する。つまり,地方債発行による赤字支出は,カネのクラウディング・アウトを起こし得るのである。
 政府の借り入れと地方自治体の借り入れではこんなにもお金の流れが違っている。その本質的な理由は,通貨発行権を持つ政府は,自分=統合政府=中央銀行の手形を切り,政府の債務を増やすことで支出できるのに対して,地方自治体は銀行から貸し付けてもらい,預金という銀行の手形を手に入れなければ支出できないからである。政府が自分の手形を切る行為は誰とも競合しない。しかし,地方自治体が銀行の手形を手に入れる行為は銀行の手形を欲しがる他の民間の主体と競合するのである。





2020年5月31日日曜日

「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」ことを可能にする制度的基礎について

 マクロ的な設備投資と在庫投資を「投資」とした場合,「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」。なぜそのようなことが可能なのだろうか。
 I=Sは誰もが認める恒等式である。もう少し進むと,ケインジアンは「投資が独立に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」と理解する。この時点で拒絶する人もいるかもしれないが,認める学者も少なくない。しかし,これを理論構築のための仮想と考えるか,実際の因果関係と見るかは,わかれると思う。
 実際の因果関係と見ると,当然,次のようにも言えてしまう。「事前に貯蓄があるから投資できるわけではない」ことになる。中間に利子率を入れると,「貯蓄が豊かにあれば(利子率が下がって)投資を促進するという関係は存在しない」ということになる。さらに,社会全体として「事前に貯蓄がなくても投資できる」ことになる。こうなると拒絶する学者,少なくとも現実をそのように説明しない学者も多いだろう。例えば,「日本の高度成長期には,豊かな個人貯蓄が企業の投資を支えた」という人は,事実上,投資先行決定を否定しているのである。
 しかし私は,投資の先行決定は単なる仮想ではなく,実際の因果関係だと理解している。それは,一定の制度的基礎と結び付ければ理解できる。
 その制度的基礎とは信用貨幣と銀行である。投資を,それまでに存在せず,あらたに創造された通貨で行うならば,ミクロ的には事前の預金,社会的には事前の貯蓄にまったく左右されずに投資が可能になる。つまり,マネーストックに含まれる(中央銀行や市中銀行の手元に眠っていない)発行中央銀行券か,市中銀行預金,(それが存在する国では市中銀行券)が,「必要に応じ,信用供与の際にゼロから創造される」ならば,企業が銀行から借り入れることによって投資を先行決定することができる。
 しかし,実務家はともかく,経済学者の過半数はこのように銀行を理解することに同意していない。多くの経済学者は(主流派であれマルクス派であれ),銀行を「事前に集めた預金を貸し出す」というモデルで理解している。信用創造を認める場合でも,まず本源的預金があって,その何割かを貸し付け,するとその一部がまた預金となり,またその何割かを貸し付ける,と理解する。
 だが,そこがちがう。私個人が違うと思うだけでなく,学説的には信用貨幣論,内生的貨幣供給論,銀行の「貸し付け先行説」によれば,違う風に通貨と銀行を理解できる。銀行は,もともと預金がなくても,貸し付けることによって,貸付先企業の預金を創造することができる。この行為により,預金通貨は増加する。もちろん,預金の引き出しに備えた手元流動性がなければ貸せないが,銀行が手元にもっている中央銀行券は,中央銀行当座預金をおろすことで入手したものであり,民間から集めた預金に由来するのではない。だから,銀行の貸付は,事前に預金がなくても実行できるのであって,むしろ貸し付けによって預金が創造されるのである。
 これは,企業が手形を発行して物を買うのと同じであり,何も神秘的なことではない。銀行は預金という手形(自己宛て債務)を発行して,貸し付けるのである。債務を返済せよと言われたら(=預金をおろしたいと言われたら)中央銀行券で渡しているのだ(※)。
 このように,通貨を信用貨幣論で理解し,信用貨幣供給を内生的貨幣供給論で理解し,銀行を「貸し付け先行説」で理解すれば,事前に貯蓄がなくても企業への貸し付けが行われ,企業が投資することが可能だとわかる。「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」というマクロモデルを,単なる仮想でなく現実の因果関係であると了解できるのだ。
 こうして考えると,常識的な観点もいくつか怪しくなってくる。例えば,「日本の高成長期の法人企業の投資超過=資金不足を家計の貯蓄が支えた」というのは間違いで,「企業が盛んに投資を行ったから家計に貯蓄が生まれた」ということになる。発達した資本主義国では,国内の貯蓄不足で投資が困難になるという事はないのである。
 ただ,対外関係が入ってくれば話は違ってくる。とくに発展途上国で国内の金融機構がぜい弱で信用創造が大規模にできない場合,投資の際に外貨による輸入が必要であったり,国内産業がぜい弱で投資が輸入の急増を招いてしまう場合などは,国内の信用創造だけによって投資を拡大することができない。海外からの借り入れや直接投資や援助によってこの制約を乗り越えていくことになる。ここに発展途上国の課題がある。ただ,このような状況は,通常は「国内貯蓄がないから海外からの借り入れもしくは援助が必要だ」と言われるが,これは不正確であろう。貯蓄がないからではなく,金融機構と国内産業がぜい弱だからというべきではないか。

※それでは中央銀行当座預金や中央銀行券という債務について,中央銀行に「返済せよ」とせまったらどうなるかというと,当座預金は中央銀行券で支払われ,中央銀行券は中央銀行券で払われるというトートロジーになるだけである。債務は,より信用度の高い債務で支払われる。管理通貨制の国の国内には,債務でない通貨はない。だから,最高の債務は何によっても支払われない。「債務証書でない,ちゃんとした本位貨幣で返済しろ」ということ自体が不可能なのが管理通貨制である。

2021年5月15日,最後の段落を改訂。

2020年5月19日火曜日

アベノミクスの結果:成長率は目標に遠く,内需,とくに消費が停滞しており,積極財政とも言えず,失業率は低下したが賃金は伸びていない

 講義用。ようやく最新数値まで図表化できた。別に難しくはないのだが面倒な作業で,コロナ騒ぎで停滞していた。アベノミクス下の経済成長率(2019年度第3四半期まで)需要項目別成長率(2018年まで),成長寄与度(2018年度まで),雇用・賃金変化(2019年まで)。
*目標に遠い成長率。
*輸出依存。
*設備投資もさほど伸びていないが,消費はもっと停滞している。
*公的需要は2013年度以外は伸びてない。アベノミクスは積極財政ではない。
*失業率は低下したが賃金が上がらない。

 など,よく言われる特徴がはっきりと出る。この状態からコロナ危機に突入する。






2020年5月7日木曜日

講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給

1.管理通貨制度と信用貨幣
 現代資本主義では,様々な形での本位貨幣制が停止され,管理通貨制度となっている。管理通貨制度の消極的特徴は本位貨幣が想定されないことであり,積極的特徴は,通貨が信用貨幣だということである。すなわち,価値物ではなく,何らかの主体の債務証書が貨幣として購買手段,流通手段,支払手段,価値保蔵手段として用いられるということである。
 この考えは,管理通貨制度についての通説的理解とは異なっている。通説的理解では,管理通貨制度においては,無価値の価値章票である不換紙幣,いわば価値のシンボルに過ぎない紙切れが流通しているとされる。流通する根拠は,国家の強制通用力,あるいは人々の共通の信認に基づくとされる。
 しかし,そうではない。管理通貨制度の下での通貨,すなわち中央銀行券や預金通貨は,手形の原理に基づいて流通しているのである。誰もが知っているように,企業の債務証書の一種である商業手形は企業に対する信用に基づいて流通する。まったく同じように,中央銀行の債務証書である中央銀行券は,中央銀行に対する信用にもとづいて流通するし,銀行の債務証書である預金は,銀行に対する信用に基づいて流通する。貸し出しによって債務証書の流通量,すなわち貨幣の流通量は増え,返済によって減少する。債務が返済された場合には,債務証書は効力を失う。日本銀行は債権回収や売りオペレーションによって得た日銀券を自分の資産とはできないし(単なる紙としてはできる),銀行は自行の預金証書を自らの資産とはできない。強制通用力説や単純な信認説では,そもそも預金通貨の存在が説明できないし,国家の行為ではなく銀行の貸付・返済によって貨幣流通量が増加・縮小することが理解できず,回収された債務証書が消滅するしくみを説明できない(岡橋保)。
 通貨が信用貨幣だということは,通貨は誰かの債務だということである。通貨供給量が増えるということは,誰かの債務が増えるということである。したがって,経済活動が拡大すれば,誰かの債務は必ず増大する。個々の主体の純債務はともかくとして,経済全体の総債務は必ず増大する。総債務の増大自体を不健全なことと考えるのは誤りである(井上智洋『MMT』)。
 債務の決済は,互いの債務の二者間,あるいは多角的な相殺と,より信用度の高い債務への置き換えによって決済される(※1)。本位貨幣,つまり正貨が存在しない以上,最終的に正貨で支払われることはない。信用度は,通常,個人より産業企業が高く,産業企業より銀行が高く,銀行より中央銀行が高い。だから企業の債務は銀行預金か中央銀行券で支払われ,銀行の債務は中央銀行当座預金か中央銀行券で支払われる(ランダル・レイ『MMT』)。例えば,企業が手形債務を決済するには,他の企業の手形と相殺するか,あるいは銀行預金を用いて支払うか,中央銀行券を用いて支払う。自社と支払先企業の取引銀行が異なっていて預金決済を行った場合は,銀行間に新たに債権債務が発生し,それは双方の銀行が持つ中央銀行当座預金を通して決済される。
 ここで注意すべきは,中央銀行の債務よりも上位には,正貨も債務も存在しないことである。したがって中央銀行の債務は中央銀行の債務で支払うしかない(レイ『MMT』)。これは奇妙な事態に見えるが現実である。本位貨幣制度の下であれば,発券銀行の債務証書としての兌換銀行券を持ち込めば,金や銀でできた本位貨幣と交換することができる。これは,銀行券という無期限一覧払債務を,金や銀という本位貨幣で返済したことになる。しかし管理通貨制度の下では,民間銀行は多くの国で銀行券を発券しない。発券するとしても,その不換銀行券を銀行に持ち込んだところで,交換してもらえるのは金貨や銀貨ではなく,中央銀行券である。そして中央銀行券を中央銀行に持ち込んで債務の返済を求めても,得られるのはやはり中央銀行券であり,意味がない。
 企業は債務を返済するために,自分と同等以上の信用を持つ企業の手形を入手するか,より高い信用を持つ銀行預金残高,または中央銀行券を入手しなければならない。銀行は債務を返済するために中央銀行預金残高または中央銀行券を入手しなければならない。これに対して中央銀行は,債務が自国通貨建てである限り,返済するためにより上位の債務証書を入手する必要がない。中央銀行当座預金を設定するか,中央銀行券を発券するかして支払えばよいからである。これが管理通貨制度の下での中央銀行の特異な位置である。
 ただし,対外債務がある場合は別である。基軸通貨国以外の中央銀行は,対外債務を返済する際には,自国通貨との交換により基軸通貨を調達しなければならないからである。

2.管理通貨制度における通貨供給
 管理通貨制度における通貨の基本構成は以下のとおりである。
 まず統合政府(中央銀行+中央政府)の債務が存在する。このうち中央銀行の債務は,金融機関が中央銀行に持つ預金と,紙で発行される中央銀行券である。中央政府の債務は,政府発行紙幣や補助貨幣である。
 次に銀行の債務が存在する。家計や企業が民間銀行に持つ預金と,国によっては民間銀行が発見する銀行券が存在する。
 預金通貨は中央銀行や銀行の債務であり,これらによって創造されたものであることに注意が必要である。中央銀行も銀行も,信用を供与することによって預金を創造する。もう少し具体的には,貸し付けを行うか,あるいは中央銀行の買いオペレーションや銀行の手形割引のように,債券・手形を購入して他者の供与した信用を代位することによって預金を創造する。これは,何の元手もなく可能な行為である。現時点で現金を持たない企業が手形を振り出してものを買うことができるように,中央銀行や銀行は自己宛て債務としての預金を元手なしに創造することができるのである。逆に言えば,銀行は,まず預金を集めて,預金を貸し出しているのではないということである。ただし,貸し付けを受けた企業が預金を引き出そうとする事態に備えて,銀行は中央銀行券を保有しておかねばならない (※2)。
 この信用供与,つまり貸し借りとその肩代わりの原理をとおして,信用貨幣は流通に投じられる。まず中央銀行は銀行に対して貸し出しを行い,また債権・手形の購入を行う。そのために必要な銀行券や預金は,わずかな費用で作り出すことができる。中央銀行による貸し付けや買いオペレーションによって中央銀行当座預金が増加し,返済や売りオペレーションによって減少する。
 ただし,これだけではまだ市中への通貨供給量は変動しない。無利子または低利子の中央銀行当座預金の増大が,民間銀行の貸出インセンティブを強化し,実際に貸し出しが増加すると,次に見る預金通貨が増大して通貨供給量が増大する。あるいは,市中銀行が紙の中央銀行券を必要とする事態になると,中央銀行当座預金の一部が中央銀行券で引き出され,それが市中に供給されて通貨供給量が増大するのである。つまり,中央銀行は金融取引を通して,間接的にのみ通貨供給量の増減に関与することができる。
 市中の銀行は,主に企業に対して,副次的には家計に対して貸し付けを行う。貸し付けはほとんどの場合,預金を創造してそこに貸し付けた金額を振り込むことによってなされる。この預金口座はわずかな費用で作り出すことができる。この貸し付けの返済は中央銀行券または他行の預金からの振り込みによってなされる。他行からの振り込みの場合,振り込み先銀行には振り込み元銀行への債権が発生し,これは両行が持つ日銀当座預金によって決済される。また銀行は,支払期限と宛先が限定されている商業手形を割り引いて,自らの無期限・一覧払債務である銀行預金に置き換えることができる。銀行は手形を持ち込んだものにかわって,手形債務を取り立てる。
 これらの銀行のオペレーションを通して通貨供給量は増減する。すなわち,貸し付けや手形割引によって預金通貨の供給量が増大し,返済や取り立てによって縮小する。
 これらとは異なる原理によって通貨供給量を増減させることができるのが,狭義の政府,つまり中央銀行とは区別される政府である。狭義の政府は,借り入れ・返済の原理の他に支出・課税の原理によって通貨供給に関与する。狭義の政府は企業や家計に対して,一方では財政支出を行う。財政支出を行うことによって政府債務が増大し,民間経済主体の銀行預金や手持ち中央銀行券が増大する。逆に課税を行うことによって政府債務は縮小し,民間経済主体の銀行預金や手持ち中央銀行券が縮小する。政府が支出のみを行えば通貨供給量は増加し,課税のみを行えば通貨供給量は縮小する(レイ『MMT』)。
 なお,狭義の政府は借り入れ・返済の原理でも通貨供給に関わることができる。政府が国債を発行して市中銀行がこれを引き受ける場合,市中銀行の中央銀行当座預金が減少して政府預金が増大する(※3)。政府債務が増大して市中銀行が債権者となる。また,国債を中央銀行が引き受ける場合は,中央銀行は政府預金を設定して国債代金を振り込む。政府債務が増大して中央銀行が債権者となる。ただし,これらのオペレーションは政府預金と中央銀行当座預金だけに関わっているので,直接には通貨供給量を増減させない。あくまでも,政府が支出することで通貨供給量が増え,課税することで減るのである。

※1 カール・マルクス『資本論』は,銀行券の流通が手形を基礎としていると述べた。マルクス経済学者はこれを,商業手形の割引によって銀行券が発生するという意味に理解したが,ここではその理解を採っていない。マルクスに即して言うとすれば,<手形を基礎とする>とは,信用によって債務証書が流通し,債務は債務によって決済されるという意味に理解すべきである。村岡俊三の口頭での示唆による。
※2 ここで銀行の方が企業に貸し付けを行ったのであるが,その際,預金という銀行債務が設定されているので,銀行は債務も背負っているのである。預金を引き出すというのは,預金者が,預金という銀行の債務の返済を迫ることである。銀行は預金債務の返済のために,より信用度の高い中央銀行券を用いねばならないのである。
※3 <国債発行によって民間貯蓄が吸収される>という常識化した説明は,実は誤りである。国債が吸収するのは市中銀行が中央銀行に持つ当座預金である。その減少によって,市中銀行の貸出能力は原理的に制約を受けない。レイ『MMT』参照。個々の事情により銀行規制が課せられている場合は別であるが,それは一般的な理論モデルの問題ではない。

*在宅ワークの制約で,出所を厳密に注記していないことにご容赦をいただきたい。

2020年4月16日木曜日

日銀がETFで損失を出すとはどういうことか:日銀のETF購入(3)

(「日銀のETF購入」。承前)これまで,日銀が自ら作り出す預金と日銀券でETF(指数連動型上場投資信託)を購入していることを確認し,このオペレーションは実質的には特定企業の利害に日銀がコミットする財政政策であることを述べてきた。次の問題は,日銀がこのETFで損失を出した場合の負担をどう評価すればよいのかだ。

1. まず,直接の損失が政府・国民にどう及ぶかだ。ETFに含み損が出れば,日銀はバランスシートの負債・純資産側に引当金を積む。損失を確定する場合には,資産側からETFを,負債・自己資本側から引当金を同額だけ消去しなければならない。つまり,日銀のバランスシートが毀損され,自己資本比率は下がる。また,日銀の毎年度の利益(剰余金)が減少したり,マイナスになったりする。日銀は剰余金を政府に納付することになっているので,剰余金が減る。直接に起こるのはこういうことである。
 したがって,政府の側から見ると,ETFの損失を税金で穴埋めする必要はない(繰り返すがETFは税金で買っているのではない)が,日銀からの納付金が減って,国庫収入の減少につながる。日銀の国庫納付金は世界金融危機後の2010年度に落ち込み443億円,それ以後は5000億円台から7000億円台で推移している。2017年度は7265億円,2018年度は5576億円だ。まずこの国庫納付金の減少が,中央政府に与える直接の損害であり,その意味で国民負担となる。

2. 次の問題は,失われた機会についてだ。「その2」で述べたように,そもそも財政政策を日銀が行うのはおかしなことであり,ETFを購入するのに日銀が発行したお金(日銀当座預金と日銀券)は,もっと別のことのために発行すべきだったのかもしれないし,発行すべきでなかったのかもしれない。例えば,国債を買い支えて政府の支出拡大に貢献し,政府が国会の議決に基づいて財政拡張を行った方が,より優れた方法でデフレ脱却に寄与したかもしれない。そこまでいかなくとも,ETF購入などしなかった方が日本の産業構造転換を促せたかもしれない。最大の問題はこの,失われた機会である。ETFなど買わない方が,財政民主主義上も市場経済の運営上も望ましかった。日銀と中央政府を合わせた統合政府として見た場合,「お金の使い道を誤った」のである。
 コロナ危機に際してもそうである。コロナ危機に際して,ようやく金融政策の限度が認識され,債務が増大しても財政を拡張しなければならないことが諸国政府の共通認識になっている。政府と中央銀行が協調しており,インフレと為替暴落を起こさない限り,政府債務は持続的拡張できるのであって,財政支出の程度と中身は国会で与野党が争い,決めるべきだ。それが財政民主主義だ。失業者の救済,個人の生活と自営業者の営業の維持,企業の運転資金の確保,感染症対策にこそ,国債を発行してでもお金を使うべきだろう。日銀は,国債引き受けをせずとも,買いオペで政府を支えるだろう。
 これまでは,中央政府と国会が,財政赤字を拡大してはならないという呪文にとらわれているうちに,その背後で,日銀はETF購入のために通貨という政府債務を発行していた。そして今も,株式市場で抜き差しならなくなり,相場の下落の下で通貨を発行して買い向かっている。これは明らかにお金の使い方を誤っている。
 もちろん,財政民主主義も万能ではない。財政がお金の使い方を誤れば人々の不安は収まらず,感染症の流行は収束しない。また,各社会階層の代表が集合する議会においては経費膨張法則が働き,経済危機と感染症流行の後にも必要以上に財政を拡張してインフレを招くかもしれない。しかし,だからと言って国会とは別に,日銀が勝手に財政政策を行い,上場企業と株式投資家を優先的に救済するために通貨発行を行うことは,これまでもまちがっていたし,これからもまちがいだろう。この「お金の使い方の誤り」によって失われた機会,これから失われる機会こそが最大の損失である。

 なお,残された問題として,損失額が大きくなって日銀のバランスシートが毀損された場合に資本増強が必要になるか,なるとすればどのような手段によるのかということがある。これはかなりテクニカルな問題を含むので,続稿ないし別の機会としたい。

その1
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf1.html
その2
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html



日銀のETF購入は上場企業優遇の財政政策ではないのか:日銀のETF購入(2)

(「日銀のETF購入」承前)さて,日銀が自ら通貨を作り出して金融商品を購入していることはお分かりいただけたと思う。それでは,ETF(指数連動型上場投資信託)を購入することは,日銀の他のオペレーション,つまり銀行に貸し付けたり国債を購入したりすることとどのように違うのだろうか。日銀がETF,つまりは間接的にとは言え民間企業の株式を購入することは,金融政策の一環と認められるものなのだろうか。

 貸出・国債購入とETF購入と直接の違いは,銀行に貸し付けたり国債を購入したりするのは「信用を与える」,端的には「お金を貸し付ける」行為だというであるのに対して,金銭信託をしてETFを購入することは間接的に株式を買うことであり,特定企業の株主になる行為だということである(※1)。

 これらは,日本銀行の役割に照らすと,どう評価されるだろうか。日本銀行の役割は,金融システムと通貨の安定性を守り,通貨供給の調節を通して日本経済の安定と成長に寄与することにある。日本銀行は広い意味の政府の一部ではあるが,銀行という形をとり,銀行として機能するところが他の機関と異なる。したがって,議会のコントロールから自由ではないし,政府とのある程度の協調も求められるが,同時にある程度の独立性を持つ。金融システムと通貨の安定性は,特定の利害から中立でなければならないとされているからだ。

 さて,通貨を創造して信用を供与するという中央銀行の行為は,特定利害から中立的に金融システムと通貨の安定性を守るためにはなじみやすい。その第1の理由は,金利の水準を調節し,流動性を供給し,準備を確保させる行為を,民間銀行・金融機関に対して行う日銀の行為は,民間経済に対する間接的な働きかけだからだ。企業や家計に直接影響を与えるのは民間金融機関だ。第2の理由は,貸し付け,回収という行為は,誰に貸したのであれ,とにかく「期限まで金利を払い,元本を返せ」というものであって,それ以上に借り手の意思決定や行為に介入するわけではないからだ(借り手が経営破綻した場合などを除く)。

 ところが中央銀行が特定企業に出資するということになると,どうしても特定利害が発生する。特定企業の株主は,特定企業に利潤を増やし,配当を増やすか株価を上げるように促し,そして会社が存続し続けることを求める立場にある。日銀がまともに株主になるのであれば,特定企業の発展にコミットする行動をとらざるを得ない。しかし,それは日銀の業務範囲を大きく逸脱する。

 つまり,日銀が株式を買うということは,金融政策の範疇を外れており,敢えて言えば財政政策を政府の代わりに行っているのだ。財政政策ならば,政策的見地から特定産業や特定企業を支援することがありうる。ただし,それは国民を代表する国会の議決に則って行わねばならない。国会のコントロールが弱い日銀が特定産業・企業に肩入れしたり,逆に冷遇したりすることなどあってはならない。しかし,実際に起こっているのだ。

 もちろん,日銀もこの批判がありうることは承知の上であることは,白川前総裁の著書『中央銀行』からも明らかだ(※2)。特定利害にとらわれるものでないかのようなしくみも一応ある。ETFは東証株価指数(TOPIX),日経平均株価(日経225)またはJPX日経インデックス400(JPX日経400)に連動するよう運用されるものになっている。また議決権は日銀ではなく受託者が行使することとされている。

 しかし,これでETF購入が特定利害に中立的になるというのは強弁だ。ETF購入は株価の支えとなる。つまり,巨大な,買う一方のクジラ投資家を間接的に株式市場に登場させる効果を持つ。経営実態と関係なく上場企業の株式が上がるという価格形成の歪みが生じる。そして,その効果は上場企業にだけ及び,非上場の企業には及ばない。明らかな既存大企業優先である。これは日本の企業経営と産業構造の革新を遅らせる効果を持つ上に,非上場企業や,企業以外の主体,株式投資家以外の主体にに対する不公平な政策である。

 また,日銀が議決権を行使しないということは,意思決定に関与しない大株主が出現することになる。これは,経済合理的な意思決定を阻害する効果を持つ。受託者も困ることになる。日本の巨大企業に敵対的買収がかけられた場合や深刻な内紛が起こった場合,受託者は誰に味方して議決権を行使すればよいのか。一応,日銀の経済的利益を優先することになっているが,それだけですまないような安全保障案件や社会的イシューを伴う案件であったらどうすればいいのか。

 日銀というクジラ投資家が買う一方で,議決権を眠り込ませることは,株式市場を歪め,日本の企業統治を歪め,上場企業とそれ以外の間に甚だしい不公平を作り出すのである。しかも,何らかの目的によって国会が決定した法と予算の範囲ではなく,独立性を持った日銀の金融政策と称してである。

 百歩譲って,中央銀行が株式やETFを購入することがありうるとすれば,それは,そうしなければ金融システムが崩壊するような金融危機の場合だろう。しかし,それでもFRBが世界金融危機に際して行ったように長期国債,CP(コマーシャル・ペーパー),担保貸付証券などの債券に限られるのが普通であり,また危機が沈静化した後には中止されるべきものである。2010年から延々とETFを買い続けている日銀の政策は異常としか言いようがない。

 これは要するに,日本の民間経済,とくに上場している既存大企業が,日銀からの資金注入によって株価を引き上げてもらい,意思決定には介入せずに既存経営者に任せてもらい,企業の新陳代謝と産業構造の再編を免れて存続し続けていることを意味しているのである。これこそが,正当化できない「既得権益」ではないか。

 以上が日銀によるETF購入の位置づけである。さて,それではそのETF投資で損失が生じた場合,その負担は誰が負うのだろうか。前稿で述べたように税金で穴埋めするのでないことはわかっている。では,その負担はどこへ行くのか。そのことをどう評価すべきなのだろうか。これが次の問題となる(この項続く)。

※1 なお,国債を購入するのは,直接に政府にお金を貸すのではなく,前の持ち主に代わって国にお金を貸す主体になることである。これを信用代位などという。ETFも発行市場でなく流通市場の株式を買っているので,前の持ち主に変わって会社の株主になるのであり,いいわば出資の代位である。しかし,それでも国債を買えば政府に対する債権者になり,ETFを買えば株主になることには変わりはない。
※2 日銀がETFを買い始めたのは2010年の民主党政権下のことであり,アベノミクスで始まったことではない。しかし,アベノミクスで買取は強化されている。自民・民主両政権にまたがる根の深い問題なのである。

その1
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その3
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日本銀行がETFを買うお金はどこから来るか?:日銀のETF購入(1)

 2019年度もETF(指数連動型上場投資信託)購入は続き,2020年3月20日現在の帳簿価額は29兆3955億円に上っている。これはアベノミクス開始直前の2012年12月20日と比べると実に20倍である。バランスシート全体も,主に大量の国債購入により3.8倍に膨らんでいる。このETFが,いま株価の低落の下で含み損を発生させているのだ。しかし,日銀が含み損を出すとはどういうことなのか?それはいわゆる国民負担や税金での穴埋めの対象になるのか?これを知るには,ETFを日銀が購入する仕組みを知っておかねばならない。

 日銀は,信託銀行に金銭信託を行い,信託銀行がETFを購入している。では,日銀はどうやってETFを買う元手のお金を調達しているのか。政府から調達しているのかというと,そうではない。

 預金を創造するか,必要なら紙の日銀券を発行することによってである。預金創造はキーストロークと事務手続きで可能であり,日銀券は1枚17円の費用で発行できる。それでOKである。いわばタダみたいなものである。これは国債を購入する時も,銀行に貸し付ける時も同じである。

 タダみたいなもので国債やETFを購入することは,経済の原理に反していて国家権力の特権なのかというと,そうではない。これは中央銀行の力である。まず中央「銀行」の銀行としての力である。預金も日銀券も日本銀行の債務(証書)だ。預金創造や日銀券発行によって金融商品を購入するというのは,会社が「手形で財・サービスを買う」原理に依拠している。会社が手形を振り出せるように,銀行は銀行券や預金を創造できるのであり,中央銀行もできるのである。

 もちろん,信用のある会社しか手形を受け取ってもらえないように,中央銀行も信用がなければその債務(証書)を受け取ってもらえない。そこは「中央」銀行の「中央」の方が活きている。中央銀行の債務が受け取ってもらえる理由は二つある。ひとつは,政府と中央銀行への支払に用いることができることだ。もう一つは,当該社会の信用機構を「最後の貸し手」として支えているため,様々な債務の中で(個人の借用証書や特定企業の手形や特定銀行の預金通貨に比べて)最も通用性が高いからだ。

 しかし,債務は最終的に現金で支払われねばならないはずではないか,という疑問があるかもしれない。そうではあるが,そうでないともいえる。金属本位制を取らない管理通貨制の社会には,債務(証書)でない現金は存在しない。債務が現金なのだ。手形は銀行預金か日銀券で支払い,銀行間の債務は日銀当座預金か日銀券で支払うしかない(補助貨幣の話は,いま脇に置く)。そして,日銀の債務は日銀の債務で支払うしかない。トートロジーだが他に方法はない。逆に言うと,日銀は自分の借金を自分の債務証書で返せるという特権を持っているのである。したがって,原則的に破綻しない。

 これが,日銀が金融商品を買う原理である。だから,ETFであれ国債であれ,日銀は外部からお金を調達することなく大量に購入できるのである。

 日銀はほぼ無から有を作り出す。それでは,資産を一方的に貯めていくのかというと,そうではない。手形で買っている以上,買えば買うほど債務も積みあがる。国債やETFはバランスシートの資産側に積みあがり,日銀券発行高と金融機関が持つ日銀当座預金は負債側に積みあがるのだ。ただし,前述のように費用はタダみたいなものであり,金融資産から利子や配当の利益があがれば利潤は出る。これが,いわゆる「通貨発行益」である。

 それでは,株価下落によってETFに損失が出た場合はどうなるのだろうか。以上の話だけであれば,税金で穴埋めする必要はないことになる。それなら何の問題もないのかというと,そうではない。これはさらに説明を要する(続く)。

その2
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その3
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2020年3月27日金曜日

コロナ経済危機に対する実物経済面での経済対策メモ

コロナ経済危機に対する実物経済面での経済対策メモ。金融危機回避策はまた別。随時改訂。講義でも話すこと。

 この危機に立ち向かう上では,1)緊急に必要な,数日から数か月程度で実行されるべき政策と,2)景気を浮揚させるもう少し長いスパンの政策を区別する必要がある。

 1)の緊急対策の目的は,生活と営業を守り,雇用を守ることに尽きる。「需要」の規模は重要だが,必ず生活,営業,雇用に沿って行わねばならない。無関係なところでは,むやみに需要を刺激すべきでない。また,緊急対策はコロナウイルス感染症の流行下で行われる。感染症対策を妨げず促進すること,感染症への国民の不安を和らげることも需要な条件となる。

 2)では総需要と総供給の関係が問題になる。需要不足を防ぐと同時に,供給制約が現れてくることに注意しなければならない。

 ここでは1)についてコメントする。

 1)緊急に必要なのは,a)「企業の資金ショートの防止」,b)「家計の所得低下の防止」とc)「失業の防止」,d)「失業の救済」とe)「低所得者の生活維持」である。「企業の売上支援」は,1)の段階では目的にすべきではなく,b)c)d)e)の結果として実現するようにすべきだ。

 規模的に大盤振る舞いすべきであるが,抽象的に「需要増のための総額」を大盤振る舞いするだけでは不十分だ。b)c)d)e)によって,国民・住民の不安を緩和することができる。

・a)c)のため,流動性は無制限供給しなければならない。無担保・無保証・無利子融資を拡大する。後でゾンビ企業化するという懸念は,1)の段階で考えることではない。

・b)とe)のためには,現金給付も効果はある。やるなら10万円以上の規模で行うべきである。ただし,一時金をもらったところで,失業したり,今後数年間所得が低下するかもないという時には,不安は払しょくできない。何より失業しないことが肝心だ。b)にはもっと強力な対策が必要であり,さらにc)d)も必要だ。失業防止というマクロ経済政策の基本視点を忘れ,現金を配れば万能であるかのように語ることは適切でない。なお,貯蓄に回ることを防止するために商品券にすべきだという議論があるが,意味がない。貯蓄できる家計は,商品券を用いた分だけ現金を貯蓄に回すだろうからだ。また,国民の不安緩和という目的に対しては,現金と商品券では効果は段違いである。

・b)e)のために公共料金の緊急減免も効果がある。

・b)のためには,学校休校の影響で休業する人だけでなく,風邪程度の症状で休むすべての人と,そうした家族・同居人を看護するすべての人のための実質有給休暇の保障が必要だ。ただ,中小企業の経済的苦境にも配慮しなければならない。政府機関や独法には風邪症状で休める有給休暇を直ちに導入する(すでにかなり実施されているのはよい)。企業には,一時措置として同様の有給休暇を義務づけた上で,その負担は政府が全面的に企業を補填するそちをとる。あるいは無給休暇を義務づけた上で,事後的に労働者に減収分を全額給付する。いずれも技術的には企業の休暇記録と賃金台帳で簡単にできる。上記の実効性を確保するとともに,感染症対策に寄与するため,風邪症状のある労働者を出勤させることは労働契約法上の安全配慮義務違反であることを明示する。

・b) では個人事業主・フリーランスの所得補償も必要になる。水準の算定は要検討だが,課税証明から前年並みとするか,業種ごとに相場を決めるか,より一律の金額にするなどがありうる。

・b)e)のため,生活保護要件の緊急緩和と審査の迅速化を行う。中長期のモラル・ハザードを気にしている場合ではない。

・c)のため,雇用調整給付金の支給要件緩和をしているのは,緊急措置としては適切だ。長い目で見ると日本的雇用慣行の歪みを維持してしまう効果を持つが,この際,やむを得ない。

・d)失業給付の拡充が必要。モラル・ハザードを気にしている状況ではない。失業給付を拡充すると雇用主が安易に解雇しないかという疑問がありうるが,危機の時は問題にならない。失業給付の水準など考慮する余裕もなく解雇したり,倒産したりするからだ。

・b)e)を補強するため,法技術的に緊急に可能ならば消費税の一時減税が望ましい。緊急に軽減税率を全財・サービスに適用して5%とする。また,所得税についても,中低所得層を減税するか,マイナスの税額控除を導入して低所得層を支援することが考えられる。ただし,時間が不可避的にかかる措置は2)にまわす。

・a)について,イベント自粛や飲食需要停滞による損失に対しては一時金で支援する。1)の段階では,まちがっても,外食や旅行を促す商品券など配布してはならないし,高速道路を無料になどしてはならない(生活必需品を輸送する業者にはしてもよい)。それは密閉,密集,密接会話を避けよという感染症対策に正面から反する破滅的政策だ。2)の段階で検討すればよい。

・a)d)について,企業の売り上げと雇用をつくりだす需要刺激は,感染症対策と整合するように選別的に行うべきであり,感染症対策,医療体制の強化,病院以外の療養施設の緊急整備,国民の自宅療養支援(生活支援物資調達と宅配手配),テレワーク・遠隔授業の財政支援,宅配業者での雇用促進などがある。公共事業全般を拡大することは,1)の段階では適切でなく,内容によっては感染症対策に逆行する。

・中長期的に2)の段階では,サプライ・チェーンも傷んでいる現状ゆえに,景気対策の方法を誤るとボトルネックが発生してインフレが生じる恐れがある。しかし,これは2)の課題であるし,1)の国民生活防衛のところでは短期的には問題にならない。現時点では,国民の生活必需品の需要が延びてもすぐに物価が上昇する恐れは小さいし,多少上昇しても国民生活防衛のための給付をためらうべきでない。

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 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...