稲葉振一郎『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』。稲葉教授はたいへんな博学で,本書に登場する書物には,私が読んでいないものも少なくない。著者は様々な経済思想を博覧強記に,かつ平易に解説し,自らの思想の見取り図にはめ込んでいく。ただ,正直に言って,私は稲葉氏の見取り図が読み取りにくく,また納得しづらかった。それでも何とか読み取ろうとしたうえで,何が納得できないのかを記しておきたい。
1.本書は,新自由主義とは何であるかということを前面に掲げつつ,近現代の社会経済思想史を描こうとしたものだと思う。
しかし,この二つがどうかみ合っているのかがわからない。冒頭の章をはじめとする新自由主義論は,なぜか多くがマルクス主義者の新自由主義論を批判する形をとっており,それが新自由主義自体を正面から論じることを妨げており,論旨をとりにくくしている。
著者の主張ではっきりわかるのは,(1)マルクス主義者が新自由主義を資本主義の新段階とするのは,資本主義から社会主義への移行の中で発展段階を論じるはずのマルクス主義にとって自己矛盾ではないかという批判と,(2)新自由主義は包括的な世界像を提示するようなまとまりに欠けているものだ,ということだ。(1)は,社会主義が破綻したからマルクス主義も全部だめだという乱暴な否定のバリエーションに見えるし,(2)は賛成できるものの,さほど切れ味がよい話とも思えない。そもそも著者がやたら(1)のマルクス主義批判に重点を置く理由がよくわからない。いや,新自由主義批判をするのは確かに左派やリベラル派ではあるが,マルクス主義者に限らない。誰もが社会主義への展望を考えているわけではないのだから,社会主義移行論の無効化を理由に新自由主義批判を批判するというのは,あまり生産的とは思えないのだ。
2.もう少し原理原則的に言うと,著者の理論批判の方法,つまり理論を理論によって評価するのか,理論を現実と照応させて,正確に言えば理論を,現実に対する自らの認識に照らして評価するのかがはっきりしない。上記のマルクス主義者批判では,著者はマルクス主義の理論的整合性を問う形で,つまり理論を理論によって批判している。他方,本書の随所ではマルクス主義,産業社会論,そして著者の言う「実物的ケインジアン」の有効性低下を論じるところでは,1980年代以後,市場競争と営利企業が技術革新を促進し,担うことになったという,現実(に対する著者の認識)を根拠としている。このような理論評価の方法の分裂はほかの箇所にも見られ,本書が何を基準として話をしているのかをわかりづらくしている。
3.もっとも,より具体的な,理論の成否を測る物差しとなると,本書全体に共通する軸がないわけではない。それは,著者の言葉を借りるならば「貨幣的ケインジアン」の理論によって種々の学説を裁断していることだ。私なりに言い換えると,ケインズのリフレ派的理解である。つまり,失業,有効需要不足の主原因は貨幣,流動性の不足であり,それへの処方箋は金融政策でのインフレ誘導だということである。対して著者によれば「実物的ケインジアン」とは,失業,有効需要不足の主原因として価格の硬直性を問題にするものであり,これは本来のケインズの論点ではないと著者は言う。マルクス主義,産業社会論,実物的ケインジアンに対して本書は様々な批判を投げつけるが,共通しているのは,貨幣の重要性とマクロ経済の領域を軽視したからだという批判だ。その批判の根拠は貨幣的ケインジアン,つまりケインズのリフレ派的理解であり,流動性を十分に供給すれば自由な市場経済は完全雇用を達成できるのであり,技術革新も担えるのだということらしい。
となると,著者の現代資本主義評価というのはこういうことなのだろうか。新自由主義論のように,市場と競争が強烈すぎると批判するのは的外れである。そうではなく,何らかの理由で流動性が十分供給されずに経済停滞や失業が起こることと,完全雇用が達成されたとしても存在する社会問題が肝心だ,と。
その成否はともかく,本書は,ケインズのリフレ派的理解という物差しに強く依拠している。しかし,他書に委ねるということなのか,そもそもケインズのリフレ派的理解について,さほど丁寧な説明をされていない。そのため,本書は,わかりにくいという声が出るかもしれないことを別にすると,リフレ派ならば賛成でき,リフレ派でなければ賛成できないという風に,はっきりと読者を選んでしまっていると思う。それでいいのだろうか。
4.私見では,著者は「実物的ケインジアン」を矮小化しすぎており,その結果,著者からみれば古い発想なのだろうが,市場の自己調整機能を過大評価していると思う。私の理解は以下のとおりだ。
(1)まず,著者がおそらくセー法則と貨幣ヴェール観を否定していることはまちがいなく,それは理解できる。しかし,それならマルクスに対する評価はもっと上げるべきだと思う。金本位制にとらわれていたというのは,一応信用論を銀行券にまで立ち入って論じたマルクスや,マルクス学派の貨幣・信用論に対してあんまりではないか。
(2)次に,流動性が供給されれば完全雇用が達成されるという理解だが,それがたとえ客観的には正しくても,政策論としては,流動性選好が貨幣の供給によって有意に操作できなければならない。しかし,貨幣をはじめとする流動性を,人為的に,つまり市中からの需要とは独立に供給することには限度があるのではないか。市中からの需要に金本位制が答えられず,管理通貨制という知恵が必要だったというところまでは納得できる。しかし,いつでもどこでも,政府や中央銀行が貨幣供給量を自由に増やせるという理解はおかしくないだろうか。市中の需要がないところに貨幣を無理やり供給することは,少なくとも著者が重視する中央銀行券専一流通システムの下ではできないのではないか。現代日本で,マネタリーベースを拡大してもマネーストックは拡大しないという現象はどう説明するのか。いくら金利を引き下げてもインフレ率が高まらず,成長率がリーマン・ショック前のトレンドを回復しない先進諸国の現実をどう説明するのだろうか。
(3)流動性選好は重視するが,資本の限界効率の不確実性は無視するのはなぜなのか。ケインズは価格の硬直性だけを主張したのではない。資本の限界効率が不確実だと主張したのではないか。だから,いくら利子率を下げ,よしんば流動性選好が和らいだとしても,その分だけ自動的に投資が増えるとは限らないのではないか。利子率やインフレ期待という数字ではなく,産業や社会やライフサイクルへの見通しという,人間の持つ,形のある期待に働きかけることで,はじめて資本の限界効率は上昇するのではないか。
5.技術革新が市場競争によって促進され,営利企業によって担われるという現実への評価の仕方にも,疑問がある。この現実により,マルクス主義と産業社会論の一定の側面,つまり資本主義は技術革新を担いきれなくなるだろうという展望が否定されていることは,私も同意する。しかし,それ自体は社会主義計画経済の崩壊以来言い尽くされていることであって,いまさら新しい論点だとは思えない。
一つの問題は,技術革新が営利企業によって担われることをもって,ケインズの実物的理解を否定することはできないということである。技術革新が活発であるかどうかと,有効需要が足りて失業がなくなることは別だからだ。技術革新が活発な世界でも,いや場合によってはそれ故にこそ供給力が増大して,有効需要は不足するかもしれない。
また,著者に従って貨幣的ケインジアンの視線に発つとしても,それでめでたしめでたしとはならないはずではないか。なぜならば,市場競争と営利企業による技術革新は,バブル経済の生成,金融セクターの肥大化を通して促進されるからだ。ここには,金融工学のように,技術革新の金融部面への偏りという問題も生じる。これは実物的であれ貨幣的であれケインジアン的に見るなら,問題の残る成長の仕方ではないのか。
6.本書の末尾では現代日本の経済政策が論じられているが,ここで突如として著者は緊縮的財政政策を嘆いている。本書のここまでの流れからすれば,著者にとって重要なのは金融政策であろう。現に著者はアベノミクスの異次元の金融緩和は高く評価している。しかし,それで物価が上がらず,景気対策が十分でなく,財政拡張も必要だというのであれば,それは理論的に「金融緩和だけでは有効需要が十分に回復しない」という証拠であり,ここにケインズのリフレ派的理解の限界が示されているのではないのか。
以上,浅学を顧みず批判ばかり書き連ねたが,批判を通して自らの見解を再検討し,認識を深める訓練をさせていただけるという点では,本書はたいへんよい材料だった。著者に感謝したい。
稲葉振一郎[2018]『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』亜紀書房。
<関連>
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/20182018621.html
「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について (2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018616.html
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018-2018513.html
川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
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