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2023年1月17日火曜日

債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)

  前稿に続き,クナップ『貨幣の国家理論』を検討する。


<クナップは表券主義をもとに貨幣流通の根拠を論じているか>

 クナップは貨幣とは表券的支払手段であり,法秩序の創出物であるとする。しかし,前稿で見たように,クナップが本書を通して証明したことは,価格標準は国家が制定するものであるということに他ならない。このことがクナップの功績であり,逆に,このことから貨幣の本質まで論じることがクナップの限界であると思う。

 クナップが,国家権力の力によって貨幣が通用すると考えていることは間違いない。その最大の根拠は,価格標準は国家が制定するしかないものだからだというところにある。しかし,価格標準を国家が制定したからと言って,人々がそれを受け入れ,国家の貨幣を受け入れるとは限らない。では,なぜ貨幣は流通するのか。クナップは,そこを積極的に説明しているようでもあり,していないようでもある。

 ここで注目すべきは,クナップが,「素材的価値のない表券箇片に対する非難」に第1章で反論しようとしていることである(邦訳52-57ページ)。まずクナップは大胆にも,「たとえ箇片の文言が『債務証券』となっていても,その債務が償還されないものなら債務ではない」とし,紙券が国家の債務証書であることを否定する。しかし,「実際,債務から解放されるのなら,自分は何か材料を受け取ったかどうかなど考えなくてよい。とくにこの貨幣は国家に対する債務から解放してくれる。国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」として,国家が課す債務は,国家の発行する貨幣による支払いで解消されるという,相殺機能の有効性を主張するのである。

 しかし,クナップは,この機能を貨幣が人々に受け入れられる根拠とまで特定しているようには読めない。そこは「租税が貨幣を起動する」と断定する今日のMMT,例えばランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』とは異なるように私には思える。MMTがクナップを自らの祖先とするのは理由のあることであるが,「租税が貨幣を起動する」という自らの主張をクナップのものだと解釈するのは行き過ぎではないか。クナップは,国家が貨幣を創造したことを前提に,国家が貸す債務を解消する機能の有効性を指摘しているように,私には思える。


<債権債務の相殺は手形取引に由来する>

 ただ,ここでは敢えて一歩譲り,国家が課す債務を解消できることが,貨幣を人々が受容する最深の根拠になるのかどうかを検討しておきたい。結局,この機能の有効性を貨幣流通の根拠に高めることによってMMTの論理が構築されたことが,クナップ説復権の理由になっているからである。

 さて,クナップは「国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」とするが,「発行者だから受け取らざるを得ない」という言い方は,いま一つ説得力が弱い。これは債権と債務の相殺だから可能なのだとみなすべきである。国家の貨幣で租税等を支払うのは,国家が課した債務を,国家に対する債権で相殺しているのである。前述のように,クナップは「償還されないものなら債務ではない」として,貨幣が債務証券であることを否定する。国家に金や財貨での支払いを要求できなければ債務証券ではないと言う意味であろう。今日では,MMTや信用貨幣論を論難する側の人々が言いそうなことである。しかし,相殺による決済に用いることが可能であり,また発行者に対する債務を返済することに使えるのであれば,債務証券という性質は,少なくとも全否定されないと見るべきである。だから,クナップは当該箇所の言説と裏腹に,事実上,貨幣の債務証券的性質を認めていると言ってよい。

 次に問題なのは,債権債務の相殺とは,そもそも課税と納税に由来することなのかということである。ここで「由来」というのは,時間的に過去にさかのぼって見つけられるべき歴史的起源ではない。つまり,ここで前近代における貨幣史を根拠にしてあれこれ論じるのは適切ではない。問題は,現代の資本主義経済における「由来」である。つまり,資本主義経済の構造において,より根本的なものは何かというところでの「由来」である。債権債務の相殺は民間にもあるし,課税・租税の関係にもある。それでは,クナップが言うように,債権債務の相殺とは課税と納税に由来するのであろうか。課税と納税がひな型となって,民間がそれに倣うようなものなのであろうか。

 明らかに異なると私は思う。債権債務の相殺とは,商品流通の発達を前提に,商品の買い手によって手形が発行され,流通するようになったことで可能になったと見るべきである。手形は貨幣の支払手段機能が自立した債務証書であり,発行者の信用度に応じて満期日まで流通する。ここではもちろん商品の買い手=手形の発行者が債務者であるが,もし誰かが発行者に対して債務を負うことがあれば,その債務をこの手形で相殺して償還することが可能である。また,多数の手形について債権債務を相殺し,残った差額のみを貨幣で支払うという取引も可能になる。手形流通によって債権債務の相殺という取引が可能になり,それを基礎にして銀行券=銀行手形の流通,銀行預金を用いた振替決済も可能になる。発券集中がなされた暁には,中央銀行の預貸と決済のシステムが成立する。

 このように,商品流通と資本主義的生産が行われている今日の経済を論じる際には,債権債務の相殺は商品流通そのものの発達,ありていに言えば民間経済に根拠を持つと言わねばならない(※)。手形と銀行券の流通・決済の方がひな型であり,課税と納税の方を派生的なものとして理解すべきである。


<とりあえずの結論>

 前稿で述べたように,価格標準とは国家が定めるものだというのは,クナップの言うとおりである。このことを多面的に,詳細に,説得力を持って明らかにしたのがクナップの功績である。しかし,債権債務の相殺という取引は,商品流通と資本主義経済内部の取引から発生するものである。以上がクナップ説に対する私の見解である。

 そして,ここから派生して,今日の信用貨幣の流通根拠を論じる際に,課税と租税から論じるよりは,商品流通の発達を前提とした手形の発生と発展から論じる方が妥当である,と私は主張する。これが,MMTの「租税が貨幣を起動する」という説に対する,私の見解である。

※ なお,先行するクナップ批判として岡橋保によるものがあり,参考にしたことを記しておく。
「クナップの支払手段理論 (Lytrologie) にあっては,国家は自由に金の貨幣名を決定しうるという価値単位の名目性と,その規定するところの支払手段により貨幣債務はいつでも弁済されるという貨幣債務の名目性とから,貨幣をも 国家の規定する記号と形態とをそなえた個片,すなわち定形的公布的支払手段 (表券的支払手段)であるとされている。これは,クナップが,債権債務の錯綜による手形の流通,手形の貨幣化(商業貨幣流通から銀行券あるいは預金貨幣の流通)の経済的背景である価値関係を看過し,その法律的表現のみをとらえたことによるものである。手形の流通は商品流通の発展の結果であり,債権債務の錯綜が,ここに,手形をして満期日までのあいだ,ふたたび, 支払手段として流通することを可能にするものであって,これら手形の割引によって,これにかわって現われた銀行や預金貨幣が,代用貨幣として流通しうる根拠も,かかる債権債務にもとづく価値関係の存在にある。したがって 貨幣の支払手段機能は,商品流通,したがって貨幣の流通手段機能とともに,価値の尺度としての機能を前提する。」(岡橋保『貨幣論 増補新版』春秋社,1957年,37ページ)。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

前稿「価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)」Ka-Bataブログ,2023年1月16日



2023年1月16日月曜日

価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)

  クナップ『貨幣の国家理論』を読み終わった。もっとも気になる点について,2回に分けて書き留めておきたい。


<クナップによる貨幣の規定>

 クナップ説を一言で言えば,貨幣は表券的支払手段だということである。もう少し言えば,「価値単位であらわされる債務は,メダルでも紙片でもいいが,標識のついた箇片で弁済され,その箇片は法秩序によって一定の価値単位の通用力を持つ。そのような箇片を表券的支払手段と言う。通用力は箇片の内容に依存しない。法秩序は国家から発せられ,それゆえ貨幣とは国家的仕組みと言うべきものである」(原著第2版第2節要旨。訳書300ページ)。

 金や銀の一定量からどれほどの貨幣が製造され,それを何百ドルとか何円とか呼ぶという形で成立している貨幣は,クナップの用語では貨幣素材発生的かつ正範的な貨幣であり,正貨である。また国が支払いに用いる貨幣が本位貨幣である。そして,法により他の貨幣に変えられず,最終的に受け取らざるを得ない貨幣を最終的貨幣と呼ぶ。

 クナップ説では,たとえば同書の発行当時である1905年には各国で広く見られた,正貨であって本位貨幣であって最終的貨幣であるような金貨は当然貨幣である。しかしまた,「国家が,これこれの外観の箇片は公布により通用する」としたもの,例えば不換の政府証券なども貨幣なのである。なので,クナップ説は,現代の貨幣,つまり兌換が停止され,それ自体は「標識のついた箇片」に過ぎないとも言える中央銀行券や,あげく特定単位の数値でしかない預金貨幣を包含する学説であり,それゆえに再評価されているわけである(※1)。とくに,その表券主義は現代貨幣理論(MMT)の,「貨幣は,国家への支払に用いられるが故に通用する」という主張に採用されている。


<価格標準の国家理論としてのクナップ説>

 さて,私が思うには,クナップ説の核心は「価値単位」の「評価」理論であり,日本のマルクス経済学が使い慣れた用語でいえば「価格の度量標準」または「価格標準」理論であるように思う。

 よく言われる貨幣の基本的機能に即して言うと,クナップは価値尺度論は論じておらず,価格標準論に力を集中している。支払手段論にも力を入れているが,流通手段論と支払手段論を含めて「支払い手段」と呼んでいるように見える。価値保蔵機能や世界貨幣機能には事実上触れているが,理論化はしていない。クナップは,価格標準を国家が制定することをもって価値尺度機能を否定している。例えば金は価値尺度ではないとはっきり言っている。貨幣素材自体の価値を認めない以上,価値保蔵機能や世界貨幣機能も理論的にはないということだろう。

 クナップが否定する価値尺度機能を強調するのは,彼の用語では金属主義学説,後に使われるようになった言葉では商品貨幣論である。クナップは具体的学派名を上げていないが,例えばマルクス派もここに含まれる。金属主義または商品貨幣説の意味は,それ自体が価値を持った貨幣商品(歴史的には銀や金などの金属)が貨幣だということである。商品貨幣論においては,金も一般商品と同じく価値を持っており,ある量の金は,それと同量の価値を持つ商品Aに等しい。ということは,その5倍の量の金は,商品A5個分や,商品Aの5倍の労働価値を持つ商品Bに等しいという風に価値が尺度される。これが価値尺度ということである。クナップは,理論的には価値尺度機能を否定したうえで,こうした論理は,金属重量測定制という原初的な制度でのみ用いられると局所化している。

 さて,価値尺度機能があろうとなかろうと,貨幣素材を用いる場合,測定するには必ず何らかの単位が必要であり,通常は重量単位が用いられる。そして重量単位,たとえばグラムを価格の単位,たとえば円によって評価し,Xグラムの金イコール1円などと定める。これが価格標準であり,こうして貨幣素材について価格標準が定められた貨幣が正貨である。クナップはこの価格標準を,金が価値を持つからではなく,国家が権力的に制定したから成立するのだとする。極論すれば,クナップが本書全体を通して述べていることは,一国内の貨幣の価値や国際的な交換比率というものは,そもそも国家が正貨について価格標準を定めたことによって成立するのだということである。

 価格標準を国家が定めるという命題は,実は商品貨幣論に立っても成立する。貨幣商品が価値尺度機能を果たすとしても,Xグラムの金を1円と呼ぶか1クレジットと呼ぶか,あるいは0.239Xグラムの金を1円と呼ぶかは,自然発生的な商品交換からは決まらない。この価格標準を誰かが人為的に与えなければ決まらないのである。商品貨幣論をとるとしても,価値尺度論は商品交換から自然に成立するものとして論理構成できるが,価格標準論では国家の機能を想定せざるを得ないのである。なので「価格標準は国家が定めるものである」という命題自体には非常な説得力がある。この命題を証明したことが,クナップの最大の功績であるように,私には思える。

 では,上記の考察から見れば,現代の管理通貨制度とはどのようなものか。クナップの規定を拡張して適用すればいい。現代の管理通貨制とは,「国家が正貨を定めず,したがって商品貨幣についての価格標準の単位は定めても水準をもはや定めない」制度だということになる。

 管理通貨制度のもとでも,国家は価値単位を定めて国内に強制してはいる。日本では「円」,アメリカでは「ドル」という単位が使われる。しかし,国家は,金属材料に対する評価は止めてしまっており,価値単位は名目的なものになっている。1円が金何グラムであるかは公定されず,固定もされていない。また金や銀も,もっぱら貨幣商品であることを止め,工業材料としての需要やポートフォリオの一つとしての需要から価格が変動している。

 したがって,価格標準は「円という価値単位を使うと国家が決めた」と言う意味では存在している。しかし,金1グラムイコールx円という形で貨幣商品と一般商品を特定の量的関係に置き,金を貨幣商品として機能させるという意味では,もはや存在しなくなっているのである。価格標準の「単位」はあるが「水準」が失われているのが管理通貨制である。管理通貨制というと,通念では「紙幣が金兌換されない不換制」が思い浮かべられるが,それよりも,この方が根本的な特質ではないか。このような含意を引き出せることが,クナップ説の現代的意義であると,私は思う(※2)。

 さて,次の問題は,価格標準が名目的であることをもって,貨幣は国家の権力的行為の創造物としてよいのかということである。この論点こそ,クナップ説が現代に復権している理由なので放置はできない。ここではクナップをより批判的にとらえることになり,間接的にMMTの主張を検討することにもなる(続く)。


※1 もしかすると,「○○は名目的存在であり,誰かがそう名付けたから○○なのであって,内在する本質から○○であるわけではない」という論法が,現代の哲学潮流にもなじむが故にクナップ説が復権しやすいのかもしれないが,そのこと自体にはあまりかまいたくない。

※2 ここでの本題ではないが,商品貨幣説に対しては,「正貨がなくなった管理通貨制度では,価値尺度機能は停止するのか」という疑問が投げられるだろう。これに対してできる限り簡素に答えるならばこうなる。商品流通には商品貨幣の価値尺度機能がもともとは必要である。しかし,資本主義経済は,その発達とともに商品貨幣の代理貨幣として,手形,銀行券,預金貨幣,補助貨幣,中央銀行券,中央銀行預金貨幣を発達させる。そのことによって,正貨を実際には用いなくても資本主義経済は機能するようになるのである。正貨の代理物によっても,価値尺度機能は,間接的に,相当なブレと不正確さを伴いながら作用しているのである。だからこそ,無数の商品の相互関係が成り立っており,ある商品の価値は別の商品のX倍だとか1/Xだと言いうるのである。異論はあるだろうが,少なくともこう見ることは不可能ではない。
 だからと言って私は,正貨の存在する制度と管理通貨制度に何の違いもないと言っているのではない。価値尺度機能と価格標準の「単位」設定機能は停止していないが,価格標準の「水準」設定機能は停止しているのが管理通貨制度だというのが,ここでの私の見解である。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

続稿「債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)」Ka-Bataブログ,2023年1月17日。





2023年1月15日日曜日

松本清張『日本の黒い霧(上)(下)』は歴史的な書物として読むべき

  NHKスペシャル未解決事件で帝銀事件が取り上げられたためか,松本清張『日本の黒い霧(上)(下)』の評判が上がっている。版元の文藝春秋社も文庫にNスペの帯を付けて売り出しているようだ。

 しかし,『日本の黒い霧』の中には,その後の研究・調査の積み重ねで覆されている箇所も少なくない。私は松本清張を好んで読みもするし(とはいえ30冊程度で初心者級だが),その近現代史研究の中でも『昭和史発掘』からは学ぶところも大きかったが,戦後史に関心を持つ研究者としては,むやみに『日本の黒い霧』を,いまでも真実であると持ち上げることには同意できない。

 私個人の関心から言うと,「帝銀事件の謎」,「推理・松川事件」,「追放とレッド・パージ」は今なお戦後の裏面史をえぐっているし,「下山国鉄総裁謀殺論」,「『もく星』号遭難事件」,「征服者とダイヤモンド」も,結論や松本氏のその後の論のふくらませ方(たとえば小説『一九五二年日航機「撃墜」事件』)には同意できないが,問題の所在を鋭く提起した歴史的価値があると思う。

 対して,「白鳥事件」「革命を売る男・伊藤律」は,今日ではまったく誤りであることが渡部富哉『白鳥事件 偽りの冤罪』『偽りの烙印』などによって証明されている。文春文庫版では,いまでは「作品について」(2013年)という文が掲載されて,伊藤律スパイ説は認めがたいと記されている。そして終章の「謀略朝鮮戦争」も,朝鮮戦争がアメリカによって一方的に計画され,日本国内の数々の謀略もその伏線であったとみなすものだ。北朝鮮が能動的に開戦を準備したことがわかっているいまでは,一面的に過ぎる主張と言わざるを得ない。

 『日本の黒い霧』は,今でもそれが真実だというものとしてでなく,当時,松本清張氏がこのように考えて書いたのだという,歴史的な書物として読むべきだろう。


文春文庫 松本清張『日本の黒い霧』上・下https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167106973
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167106980



2023年1月11日水曜日

忍者っ娘萌えか,ネタ切れか:光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年からの発見

 光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年。以前にとりあげた『光瀬龍 SF作家の曳航』ラピュータ,2009年と対になる本だが,ISBNなしの直販品なので,ごく最近まで気づかなかった。

 単行本未収録作品14点が収められているが,最初の3点からは驚愕の事実が明らかになる。

『夕映え作戦第2部 指令B-3を追え』:再び現代に召喚された風祭陽子の活躍(死んでなかったんかい)
『ダッシュ9.9』:江戸時代からやって来た少女忍者「ふう」の活躍
『花冠作戦(ジ・オペレーショ・カロライン)』:過去からタイムスリップしてきた少女忍者「きららぎ」の……。

 つまり,「少女忍者現代に現る」物は,大ヒットしてNHK少年ドラマにもなった『夕映え作戦』だけではなかった。それ以降,少なくとも3作あった。光瀬先生は,強度の「忍者っ娘」萌えであったか,当時ネタに詰まっていたらしい。おそらく両方ではなかろうか。

直販サイト




2023年1月6日金曜日

黒木亮『兜町の男:清水一行と日本経済の80年』毎日新聞出版,2022年を読んで

  黒木亮『兜町の男:清水一行と日本経済の80年』毎日新聞出版,2022年。経済小説家・清水一行の生涯を描くノンフィクションである。清水氏は,今では2世代位前の経済小説家というところだろうか。学生時代に,指導教官の金田重喜教授が,世の中は欲望と怨念で成り立っていると知ることができると推奨していたことを覚えている。だが,結局私は日本の経済小説は今世紀になってから読むようになり,池井戸潤氏や,本書の著者黒木氏のものになじみがある一方,清水氏のものはほとんど読んでいない。酒と女と飲み屋とバーとホテルと総会屋と組織への忠誠心の世界は,松本清張氏で腹いっぱいであるからかもしれない。

 そうした事情もあり,本書は私には,清水氏の波乱に満ちた生涯がひととおりわかる,清水一行入門として面白く読めた。しかし,黒木氏のタッチはあまりにも淡々としており,作者の視点はほとんど記述に現れない。黒木氏が清水氏をどのようにとらえているのか,よくわからなかった。以前,川崎製鉄の西山弥太郎社長を描いた『鉄のあけぼの』を読んだ時も同じように思った。私に黒木氏の叙述を深く読む力ないのか,黒木氏が,ノンフィクションとは事実経過を淡々と描くものだと考えているかの,どちらかだろう。しかし,ノンフィクションも,対象となる事実をどう選び,どう書くかが問われるものではないだろうか。

 それでも,日本共産党との出会いと別れは比較的明瞭な筆致で描かれている。五十年問題総括の過程での日本共産党の側の自己批判書や,1990年代の松本善明氏の訪問をめぐる記述は、清水氏のこの党への思いの振幅を感じさせるものだ。他方,清水氏が経済小説に求めたものは何であったのか,清水氏は,労働運動では見つけられなかった何を,その対極とも言えるビジネスの世界に見つけたのかが,もう一つ伝わって来ない。また,甲山事件の捜査を題材にした小説をめぐって,同事件の原告の支援者たちから訴訟を起こされ,敗訴したことについても,清水氏が何を守ろうとしたのかが,もう一つ明らかにならない。

 繰り返すが,本書は「清水一行入門」として役に立つ。作者の乾いた描き方は,やはり清水氏の小説も読んで自分で確かめてみようと思わせてくれる分にはいい。しかし,本書には清水氏の姿はあっても,これを描く黒木氏の姿が見えなさすぎることが,いささか残念であった。

出版社サイト
https://mainichibooks.com/books/social/80-2.html



2023年1月3日火曜日

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年を読む

 萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。新装版だの豪華特典付き××版だのは基本的に買わないのだが,これは例外中の例外で購入した。エッセイやインタビューが付け加えられているからだ。

 私は,この作品について以前から知りたいことがあった。それは,原作になくマンガにのみある部分は,どういうルールの下で誰が創作したのかということだ。今回,「萩尾望都に聞く「SF100の質問」」で,エルカシアの巫女ユメは萩尾先生の創作であったことはわかった。また,これまで読んだものの中に,光瀬先生がマンガのストーリーに介入された形跡がないので,おそらくマンガにのみある部分は,萩尾先生の創作によるものなのだろう。

 大きな展開での違いを見ると,原作では都市ZEN-ZENはアスタータ50にあって,そこの首席はユダではないが,マンガではゼン・ゼン市は別の場所にあり,そこの首席は惑星開発委員会のマインド・コントロールを受けたユダだ。原作ではアスタータ50から最後の目的地に一気にジャンプするが,漫画ではゼン・ゼン市から一度トバツ・シティーへ移動し,弥勒像の口からアスタータ50へとジャンプ,それから最後の場所に向かう。

 私にとって気になるのは登場人物の方で,当然かもしれないが漫画の方が阿修羅王もオリオナエもシッタータも表情が多面的で豊かであり,また重要なセリフも付け加えられている。

 阿修羅王の「私は相手が何者であろうと戦ってやる。この 私の住む世界を滅ぼそうとするものがあるなら,それが神であろうと戦ってやる」というセリフ,オリオナエの「わしはアトランティスの生き残りだ」「神と信じあがめていたものが我々に与えた裁きを忘れないぞ」というセリフは,原作にないものだ。また,原作では阿修羅王の幻覚の中でしか活躍しない帝釈天が,漫画では阿修羅王に対峙するトバツ・シティの軍事指導者として現れる。破滅を運命として受け入れる者の代表として。しかし,戦い続ける阿修羅王に関心を寄せるものとして。「あの極光の下に阿修羅王がいる。阿修羅王……が……。美しいものであろう,太子。あれの心のように微妙に移り変わる……」。しかし,阿修羅王は決して戦いをあきらめない。首を振って言う。「あなたは老いた,帝釈天」。帝釈天は言う。「勝てるのか!神と戦って!シと戦って!あなたはおのれの死と戦って勝てるか!」。その表情は悲しげに変わる。「…もう戦うことをやめぬか,阿修羅。おまえは勝てない…勝つことはできないのだ。」。阿修羅王の右目を涙がつたう。これらも,みな原作にないものだ。

 しかし,こうした原作にない部分が私にとっては印象深く,原作よりも漫画の方を繰り返し読む理由になった。10-20代の頃には阿修羅王がこの上なく美しく見えたし,いまでは帝釈天の阿修羅へのまなざしも,わかりたくはないがわかるような気がする。

 今回も直接には謎は明かされなかったが,おそらくこれらの部分も萩尾先生が創作されたのだと思われる。複数のインタビューや今回のQ&Aからは,萩尾先生の興福寺阿修羅王像に対する思いがとても深いものであることがわかる。「あの像の中にすべてが収まっていますね。運命も。宇宙も。永遠も」。「あのお顔と身体がなかったら,あの阿修羅は生まれませんでした」。数々の追加シーンも,先生の阿修羅王への思いの産物であり,それが他の登場人物にも反射したものだったのであろう。

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。




2022年12月31日土曜日

タイパって,企業はむかしからやっていることですよね

 タイパ。学生に感想を求められたらこう答えよう。

 「タイパ?タイムパフォーマンスですか。個人が自由に行動を選択できる消費場面では,それぞれ好きにすればいいんじゃないですか。楽しそうですね。ただし,忘れてはいけないのは,企業は産業革命以来,企業にとってのタイムパフォーマンスを徹底追求してきたということです。手工的熟練に依存した作業であればそれを徹底的に科学的に研究して無駄のない動作を見つけ出して標準化し,それを実現した場合にだけよい待遇を与えるようにしました。科学的管理法について学びましょう。機械化された作業であれば,その標準化は機械の構造に従って行なうようになりましたし,機械の速度を操作することで労働者にぎりぎり精いっぱいの仕事をさせることも可能になりました。繊維工業については産業革命の工場制度,多数の部品を用いた耐久消費財についてはフォード・システムを学びましょう。わが日本でも,機械が止まっている時間のムダ,人が付加価値を生み出していない時間のムダ,モノが付加価値を与えられていない時間の無駄というものを徹底して削減するしくみとしてトヨタ生産方式があります。素晴らしい技術と管理の発展です。さあ,生産過程におけるこれらの現実をよく学びましょう。これがタイパです。みなさん,どうしてそんな嫌そうな顔をするんですか。え,聞いてて辛い?そうですか。でも知っておかねばならないことです。」

「「新語・流行語大賞」だけじゃない「今年の言葉」 「タイパ」「○○くない」「一生」…」読売新聞オンライン,2022年12月6日。


2022年12月30日金曜日

国家が所有し,党が支配するが,資本である「党国家資本」:中屋信彦『中国国有企業の政治経済学:改革と持続』名古屋大学出版会,2022年を読んで

 中屋信彦『中国国有企業の政治経済学:改革と持続』名古屋大学出版会,2022年を読了。他の仕事の合間,合間で読んだために時間はかかったが,読んでいる時はすらすらと読み進むことができた。これは,すらすら読み進めた理由を考えながらの感想である。やや個人的事情に基づくところがあることをお断わりしておく。

 私は中国鉄鋼業研究者であっても,中国経済・社会全体に向き合う地域研究者ではない。しかし,中屋氏が描き出した,政府ー国有有限会社ー株式会社という国有企業の所有構造と,その人事を背後から中国共産党が支配する構造には,すんなりと納得がいく。その理由は,もちろん,中屋氏が豊富な資料を動員して実証しているからであるが,他にも個人的事情がある。

 一つは,私は,もともと独占資本主義論から出発したアメリカ経済研究者だったので,市場経済化した中国の巨大国有企業も資本主義の類推で理解できるからである。発達した資本主義とは,形は様々であれ独占体や寡占体制が存在するものであるから,私は中屋氏が批判するような,中国が市場経済化されて「国有企業が民営化されて自由な資本主義になる」という期待を持ったことなど一度もない。「一部の株主や金融機関や機関投資家が大きなシェアと影響力を行使する巨大企業体制になるだろう」とはじめから思っていた。その通りとなった。そして,巨大企業の所有と支配に関する研究史を踏まえれば,所有構造の一番上にモルガンやらロックフェラーやらがいるのではなく政府がいるのだと考えると,なにも不思議なことではなく,中屋氏の主張をすんなり飲みこめる。

 もう一つは,私はマルクス主義から社会科学の学びを始めた者として,共産主義運動史にも多少は覚えがあったからである。共産党組織が政府や企業の組織を実効支配する際に,主として人事を通して行うことも,今初めて中国だけに起こった新現象ではなく,共産党のあるところ歴史的にあり得ることである。企業内には企業党委員会,国有資産監督管理委員会には国有資産監督管理委員会党委員会がある。まず党の会議が,企業の役職に就くべき党員を選出し,その後(例えば党の会議を午前に行った日の午後)に企業の会議が役員を正式に選出する。中屋氏によるこの構造と過程の分析などは,堅い叙述にもかかわらず政治的生々しさが感じられるが,共産主義運動の在り方としては典型的なので,これもまた私にはすんなり理解できる。

 とはいえ,私にとっても,国有企業が,国家資本のまま,かつその国家資本を党組織に実効支配されたたままで,これほどまでに営利企業としての内実を獲得できたことは予想外であった。逆に言えば,営利企業としての内実を獲得した企業を国家資本と党組織で支配し続けることができたというのは,やはり意外なことであった。しかし,それが現実であった。この独特な在り方が現存することを,古い言葉で言えば「所有・支配」論,現在の日常用語では「企業統治」論の視角から解明したことが,本書の最大の功績と思う。

 国有企業は,国家が所有し,党が間接支配する所有・支配構造をもっている。しかし,利潤追求のメカニズムは改革が進むにつれて,強く作動するようになっている。したがって,その性質は「党国家資本」だというのも,納得がいく。イデオロギーや思想として中国経済と中国共産党をどう評価するにせよ,党支配であり国家支配であるが,資本でもあるというのが,国有企業の現実を把握する適切な規定であろう。

 本書に残された課題があるとすれば,それは党員経営者,あるいは党官僚と経営者の兼任者の専門的能力とキャリアの形成に関する研究であろう。巨大株式会社の「所有・支配」,あるいは今風には企業統治を研究する際には,株式などの所有から出発して支配を検出する方法と,専門的職能としての経営・各級管理の生成から出発して支配を検出する方法とがあり,主としてアメリカ経済研究を通して形成された。前者は,A.A.バーリ&G.C.ミーンズの経営者支配論とこれに対する批判を含んだ諸研究(※1),後者は古くはJ.バーナム,やや新しくはA.D.チャンドラー,Jr.の研究(※2)を画期とする諸研究である。中屋氏の研究は,所有から出発する前者の研究潮流に属する。ちなみに,日本の古典的研究としては馬場克三(※3)が参照されている。残されるのは後者の視角からの研究であろう。党員経営者,あるいは党官僚と経営者の兼任者はどのようにキャリアを積み,企業経営と政治支配を含むどのような専門的能力を身に着けて,「党国家資本」の活動を成立させているのであろうか。ときに相反する複合的な能力が求められること故の矛盾はないのだろうか。これは,中屋氏に要求すべきことではなく,後学の課題となる。

※1 A. A. Berly & G. C. Means, The Modern Corporation and Private Property, The Macmillan Company, 1932(A. A. バーリ&G. C. ミーンズ著,森杲訳『現代株式会社と私有財産』北海道大学出版会,2014年)。その後の種々の研究を踏まえた総括として松井和夫『現代アメリカ金融資本研究序説:現代資本主義における所有と支配』文眞堂,1986年。

※2 J. Burnham, The Managerial Revolution: What is Happening in the World, John Day, 1941(J.バーナム著,武山泰雄訳『経営者革命』東洋経済新報社,1965年)。A. D. Chandler, Jr., The Visible Hand: The Managerial Revolution in American Business, The Belknap Press of Harvard University Press, 1977(A. D. チャンドラーJr.著・鳥羽欽一郎・小林袈裟治訳『経営者の時代:アメリカ産業における近代企業の成立(上・下)』東洋経済新報社,1979年。

※3 馬場克三『株式会社金融論』森山書店,初版1968年,増補改訂版1978年。

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2022年12月29日木曜日

日経金融PLUSの「デジタル円」論と対話する:「預金先行説」でなく「貸付先行説」で考えよう

 日経金融PLUSの「デジタル円」論だが,多くの論者が陥るのと同じ誤解をしていると思う。一つ一つ対話してみたい。


記事:
「CBDCは銀行預金を駆逐してしまう可能性がある。マネーは大きく預金と現金にわけられる。CBDCは基本的に現金をデジタルに置き換えるものだ。預金は銀行が破綻してしまうと手元に戻ってこない可能性があるが、現金は基本的に手元に残る。CBDCはスマホの中にある現金のようなもので、預金と違って原則的に消失リスクはない。そうなると、生活者はマネーを銀行預金から安全性の高いCBDCに置き換えていくだろう。」

コメント:
 使い勝手の良いCBDC=デジタル円ができれば,銀行預金が減ってデジタル円をスマホ等の中で持つ人が増える。その見通しには私も賛成だが,理由が少しずれている。デジタル円ができたとしても,人はそうしょっちゅう銀行の破綻を心配するわけではない。しかし,銀行の破綻が心配ないとしてもデジタル円の方が便利になる理由がある。それは,口座振り込みよりも,デジタル現金取引の方が便利になった場合である。もし口座振り込みにイノベーションがなく,現金がデジタル円になれば,人はみなスマホ操作でデジタル円を送金して取引するだろう。当座性預金を保持し続ける理由がない。企業の当座預金は利子がつかないし,個人の普通預金の利子も雀の涙だからである。これが,預金が流出する主な理由である。
 銀行がこれを防止したければ,口座振り込みをデジタル円並みに便利にするしかない。つまり,いまのデビットカードとネットバンキングの使い勝手を良くし,銀行を超えて手数料なしで支払いできるようにすればよいのである。これが銀行の課題となる。


記事:
「みえてくるのは、デジタル円を使って決済・送金サービスに特化する「ナローバンク」の誕生だ。CBDCの最大の利点は、安全・安価にスピード決済できることにある。」

コメント:
 デジタル円=デジタル現金と預金通貨が混同されている。預金が流出した場合に起こることは,決済がデジタル円で,個人や企業によって,銀行を介在せずに,スマホとスマホの間で行われるようになるということである。札束の持ち運びが要らない,現金取引のデジタル版である。
 だから,銀行からは決済・送金サービスが真っ先に流出する。銀行が「デジタル円を使って決済・送金サービス」をする必要そのものが失われるのである。繰り返すが,銀行がこれを防ぎたければ,口座振替をデジタル円よりも便利にするしかない。


記事:
「一方で多くの商業銀行は預金を徐々に失い、経済成長を支えてきた預貸ビジネスも見直しが必要になる。商業銀行は預金を集めるのではなく、市場で資金を直接調達して、それを元手に融資するようなノンバンクに近い形態になっていく可能性もある。CBDCが銀行システムの劇薬になりうるのはそのためだ。」

コメント:

 預金を集めなければ貯貸ビジネスができないというところがおかしい。商業銀行が預金を集めるとか,市場で資金を直接調達するというが,それは現金が大量に流通しているか,あるいは自行以外が預金を持っているから可能なことである。では,そもそも流通している現金や預金通貨とはどこから来たものなのか。金本位制であれば結局金鉱から金貨が来るように,現金や預金もどこからか来たはずである。
 その答えは,預金はどこかの銀行がどこかの企業,まれには個人に貸し付けた時に生まれたのであり,現金は,誰かが預金をおろした時に発行されたのである。まず預金が預けられ,銀行がそれをもとに貸し付けるのではない。銀行が貸し付ける時に預金も生まれるのである。預金とは銀行の手形であり,銀行貸付とは,「うちの手形は通貨として使えるほど信用があるので,これで貸してあげる」という行為なのである。この時,預金は必要ないが,もちろん,預金の現金引き出しや,他行への送金による引き出しや,貸し倒れリスクに備えた準備金は必要である。それは,準備預金=中央銀行当座預金を持つことによって確保される。そして,中央銀行当座預金もどこで生まれるかと言えば,中央銀行が銀行に与信することによって生まれるのである。
 だから,社会全体としては預貸ビジネスは決してなくならない。なくなったら通貨が供給できず,経済は成り立たないし,おろすべき預金がなければデジタル円も存在できない。銀行が企業に貸し付けることによって預金通貨が供給されるのは,デジタル円ができても同じなのである。違うのは,デジタル円が便利であるために,いったん供給された預金が,早期に大量に引き出されてデジタル円に変わるということである。
 預金が引き出される時,銀行は中央銀行当座預金を引き出してデジタル円を確保しなければならない。だから,資産側で準備預金が減り,負債側で預金が減る。このことは,銀行の貸し出し能力を制約する。社会全体で多くの銀行にこれが生じるが,程度は銀行によってさまざまであろう。預金流出に耐えられるような規模の大きい銀行,あるいはデジタル円に対抗できる口座振替サービス,さらにそれ以外の金融サービスを提供できて預金を保持してもらえる銀行には競争力があるが,それ以外にはないというように銀行間格差が広がる。これが実際に起こり得ることである。
 このとき,市場性資金を集めざるを得ない銀行は確かに発生する。しかし,それは,集めた資金を元手に融資するためではない。貸付自体は信用創造でできるのであって,必要なのは準備金である。準備金について日銀からの与信が制約された場合に,市場からの資金取り込みに依存することになるのである。また預貸ビジネスで劣後した場合に,市場性資金を取り込んで自ら証券市場等で運用すると言ったハイリスク・ハイリターンの行為に走ることになるのである。


記事:
「商業銀行とナローバンクへの銀行ビジネスの二分化は、それでも検討に値する。利点は金融システムリスクを和らげる効果だろう。」「CBDCを本格導入すれば銀行機能の二分化は避けられない。」

コメント:
 結論として,起こるのは商業銀行とナローバンクへの二分化ではない。銀行間の収益力格差による淘汰である。


 以上のように,この記事は多くの点で誤っているのだが,それでも有意義なことがある。それは,理論的根拠があって誤っているために,理論的示唆が得られるということである。この記事は,「銀行は,預金を受け入れて,それを原資に貸し付ける」という,多くの経済学者が採用している「預金先行説」に基づいており,それ故に誤っている。そのため,「預金先行説」を逆転させ,「銀行は,貸し付ける際に預金という自己宛て手形を創造する」という「貸付先行説」にすれば,整合的な予想が成り立つのである。この記事は,誤っている記述を通して,「預金先行説」の問題と,「貸付先行説」による現実理解や将来予測の必要性を示してくれているのである。

「デジタル円」は良薬か劇薬か 銀行システム、二分化へ(金融PLUS 金融部長 河浪武史)日本経済新聞,2022年12月12日。


2022年12月25日日曜日

ドル高・金利引き上げがもたらす,新興国外貨建て対外債務の危機

 UNCTADの第13回債務管理会議のレポート。多くの国が,パンデミック,地政学的不安定性,気候変動による債務負担に苦しんでおり,そこにアメリカの金利引き上げが追い打ちをかけている。欧米諸国がインフレ退治に集中することが,世界の反対側で公共政策を困難に陥れていることに注意しなければならない。

「国際通貨基金(IMF)の推計によれば,新興国の債務の70%,低所得国の債務の85%が外貨建てである。
 途上国政府は現地通貨で支出し,外貨で借り入れを行うため,この構造では,公共予算が大規模かつ予期せぬ通貨安に大きくさらされることになる。
 2022年11月末までに,少なくとも88カ国が今年になって対米ドル安を経験した。このうち31カ国では,下落率が10%を超えている。
 アフリカのほとんどの国で,このような減価は,アフリカ大陸の公衆衛生支出に相当するほどに債務返済の必要性を増額させると,Grynspan氏は述べた。」

 資本主義は,金と言う世界通貨の現送をなくすことによって,国際金融の規模を拡大した。しかし,そのことにより,国際貿易や貸借や資産保全を特定国通貨建てで行わざるを得ないという矛盾を抱え込んだ。アメリカが自国のインフレを抑制するために金利を引き上げると,途上国の対外債務が増大するのは,この矛盾の表れだ。理想的な国際金融システムがすぐに実現するとも思えないが,現にあるシステムが円滑で平坦で公平なグローバリゼーションをもたらすものではないことは知っておく必要がある。

World leaders call for stronger multilateral solutions to debt crisis, UNCTAD, December 5, 2022.


大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...