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2021年7月15日木曜日

Book review: Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020

Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020 (The reviewer read the Japanese version translated by Eri Kosaka, published by Misuzu Shobo). This book has two theoretical backbones. One is "The General Theory of Employment, Interest and Money" by J. M. Keynes. The other is "Imperialism" by J. A. Hobson. Especially the author respects the latter. The book opens with a quote from Hobson, and the preface praises Hobson's insights.

 Why Hobson? Using the examples of China and Germany (and with Japan in mind), the author unravels the secret of the persistence of current account surpluses by using the term I-S balance, but differently than in conventional macroeconomics.

 The logic of the book, with some interpretation of mine, can be summarized as follows.

 A persistent savings surplus cannot be explained as the result of individuals saving and depositing. It should be seen as the result of the suppression of consumption in the country due to distributional inequality.

 The persistent current account surplus cannot be understood from the perspective of merchandise trade itself. First, excess savings are invested outward. Excess savings is what Hobson calls an "excess capital”. They create excess demand as unhealthy investment projects are carried out abroad. Excess demand, in turn, creates excess exports at home. Capital exports support commodity exports, not the other way around.

 Therefore, it is essential to raise people's income and revise inequality in countries with current account surplus, such as China, Germany, and Japan, to eliminate structural imbalances. Such measures increase domestic consumption and eliminate excess savings. This solution is just what Hobson emphasized.

 The arguments in this book are clear and persuasive. In particular, the reviewer thinks that the perspective of excess capital leads to meaningful insight. First, capital with no domestic investment destination is invested overseas, and then the purchasing power generated by that investment leads to commodity exports. This perspective reverse traditional thinking that commodities are exported first, and then the surplus is invested overseas. This book gives us a new approach to analyzing the world economy based on macroeconomic balance.

 Of course, some points need to be reconsidered. The emphasis on the active role of outward investment from surplus countries may lead to undervaluation of the role of financial institutions and corporations in organizing investment for unsound projects in deficit countries, such as the United States. Theoretically speaking, excess savings wandering around in search of investment is not a sole financing measure for investment. Money creation by bank loans is also an important measure.

 In addition, the author may be torn between the view that "investment generates the same amount of savings" and the view that "volume of saving limits investment." 

 However, even those questionable points are stimulant for readers. This book makes us aware of the importance of these theoretical issues to analyze the current world economy. It will be the mission of subsequent studies to solve the remaining puzzles.




マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年を読んで

 マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年。本書を理論的に導くのはJ・M・ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』とともにJ・A・ホブスン『帝国主義論』,とくに後者である。私が勝手に言っているのではない。本書冒頭にはホブスン(訳書表記はホブソン)からの引用が掲げられ,序文ではホブスンの洞察力が称えられている。

 なぜホブスンか。著者は,中国とドイツを例に(日本も念頭に置いて),経常収支黒字が継続することの秘密を,I-Sバランスの用語を用いて,ただし通常のマクロ経済学とは異なる仕方で用いて解き明かしているのだ。

 本書の論理を,多少の解釈を加えて強引に要約すると以下のようになる。

 継続的な貯蓄余剰は,個人がせっせと節約して預金した結果としては説明できない。分配の不平等により,その国の消費が抑圧された結果と見るべきである。

 継続的な経常収支黒字は,商品貿易それ自体からでは理解できない。まず過剰貯蓄が対外投資される。ホブスンの言う「資本の過剰」である。それによって不健全な投資プロジェクトが海外で実行されることで超過需要が生まれ,それによって自国の輸出超過が生じる。資本輸出が商品輸出を支えるのであって,逆ではないのだ。

 したがって構造的不均衡をなくすためには,中国,ドイツ,日本など経常収支黒字国での賃金抑圧をはじめとする不平等な分配を改善して国内の消費を高め,過剰貯蓄を解消することが不可欠である。これもホブスンが強調したことにほかならない。

 本書の主張は極めて明快であり,説得力は強力だ。とりわけ,「まず商品が輸出され,その黒字が海外投資される」のではなく,「まず国内に投資先のない資本が海外投資され,そこで生み出された購買力が商品輸出をもたらす」という視点は,マクロバランスに基づく世界経済分析を刷新するものだと思う。

 むろん検討すべき点はある。経常収支黒字国側の対外投資の能動的役割を強調し過ぎると,アメリカを代表とする経常収支赤字国の側において,不健全なプロジェクトへの投資を組織する金融機関と企業の役割を過小評価することになるかもしれない。理論的に言えば,投資をファイナンスするのは,投資先を求めてさ迷う貯蓄だけではない。信用創造を通した借り入れによる通貨膨張によってもファイナンスされるはずだ。さらに言えば,著者は「投資が同額の貯蓄を生み出す」と見る見地と「現存する貯蓄が投資の量を制約する」という見地の間で迷っているようにも見える。

 しかし,これらの問題点すら読者の思考を刺激してくれる美点である。これらの理論的諸問題が現状分析にとって持つ重要性に気づかせてくれること自体が,本書の功績なのだ。残されたパズルを解くのは後に続く研究が負うべき使命である。



2021年7月1日木曜日

『未来をつくる!日本の産業(全7巻)』ポプラ社のうち2巻を産業学会が監修しました

 『未来をつくる!日本の産業(全7巻)』ポプラ社刊。一体何事だとお思いでしょうが,産業学会で「4 軽工業」と「5 重化学工業・エネルギー産業」の2冊を監修したのです。でも,私がやったわけではなく,他の理事の先生が苦労されました。

出版社サイト
https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/7223.00.html





2021年6月27日日曜日

川端望・銀迪「現代中国鉄鋼業の生産システム: その独自性と存立根拠」を『社会科学』(同志社大学人文科学研究所)に発表しました

 同志社大学人文科学研究所発行の『社会科学』誌に,院生の銀迪さんとの共著論文を発表しました。極度の鉄鋼オタク論文ですが,一応,生産システムの理論的考察を深めたつもりです。また実証的には,21世紀初めの中国鉄鋼業の爆発的成長は大型高炉一貫システムだけによって担われたものではなく,むしろその中心には,中低級品の需要に対する中小型高炉一貫システムによる供給があったこと,誘導炉によるインフォーマル極小ロット生産も相当な寄与をしていたことを明らかにしました。それは技術水準が低かったことをあげつらっているのではなく,その逆で,これらの中小型システムが需要に応えたのだから経済的には合理的だったと評価しています。

 次の問題は,企業・産業レベルで視た場合にはどのような企業が鉄鋼生産を担っていたかということです。そして,このように建設用を中心とした中低級品の需要に民営企業が応えようとしていた時に,政府が実行した産業政策はどのような目的と内容を持ち,どのような役割を果たしたかです。これらは,銀さんが主要著者となって論じる予定で,前者はディスカッション・ペーパー,後者は学会報告までできています。私は,これらの研究が論文として仕上がるように,ここからは支援に徹します。


川端望・銀迪(2021)「現代中国鉄鋼業の生産システム: その独自性と存立根拠」『社会科学』51(1), 同志社大学人文科学研究所,1-31。 

こちらが続編のDP版
銀迪・川端望(2021)「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」TERG Discussion Paper, 452, 1-34。



2021年6月15日火曜日

日本製鉄における国際競争の論理:伸びる市場と縮む市場

  日本製鉄の橋本英二社長が中国鉄鋼業との競争の厳しさを盛んに訴えているが,日本国内では反応が鈍い。これは,他の産業と異なり,中国製鋼材に日本市場にあふれているわけではないからだろう。実は,中国政府自体も貿易摩擦を警戒するのと脱炭素のため,鉄鋼輸出を抑制しているの現実だ。

 それでは中国鉄鋼業との競争とは虚構の煽り文句なのかというと,そうではない。中国製品が海外にあふれるというのとは違う形で起こっているのだ。以下のグラフでお分かりの通り,コロナ以前から鉄鋼需要は中国とインドで伸びていて,日本やその他の地域計では伸びていない。そして,中国とインドの鉄鋼業は,すでに伸びた需要の分を国産化するくらいの競争力は持っている。ということは,他国の鉄鋼業が,拡大する中国とインドに割り込みにくくなっているということである。しかし,それ以外の地域は成長していない。これが,中国およびインド鉄鋼業との競争である。

 この壁を超える方法はクロスボーダーM&Aである。つまりインドか中国で生産拠点と販売ルートを手に入れてしまえばいい。しかし,中国は鉄鋼業への過半数出資禁止を解除したばかりであり,政治情勢から見ても入りにくい。だからこそ日鉄はアルセロール・ミタルと共同でインドのエッサールを買収して,AM/NS Indiaを設立したのである。これにより合弁ながら粗鋼生産能力960万トンを獲得した。一方,コロナ危機を経て日本では2025年度までに1000万トンを削減すると発表している。瀬戸内製鉄所(旧呉製鉄所)は丸ごと廃止され,九州製鉄所八幡地区小倉(旧小倉製鉄所)も非一貫化する。鹿島も高炉1基が止まる。伸びる市場を獲得し,すぼむ市場からは足を抜いていく。日鉄の目指すところは国内生産4400万トン,海外生産5000万トンという内外逆転である。



『産業学会研究年報』第36号刊行

 『産業学会研究年報』第36号,発行されました。今号は,査読制度改革後の最初の号です。「招待論文」「投稿論文」のそれぞれの性格を明確にしました。また書評選考プロセスを改革し,NDL-ONLINEを用いて会員著作を見逃さないようにしました。論文10本,書評15本が掲載されています。

 編集委員長になってから3冊目を無事に発行出来て一安心です。なお,昨年発行の第35号はJ-Stageで公開されました。
■ 招待論文
□ ふくしま医療機器クラスターの現状と課題,今後の動向(石橋毅)
■ 投稿論文
□ 日本における介護ロボットの普及課題-ビジネス・エコシステムの視点に基づいて-(北嶋守)
□ 医療機器におけるAM技術の普及-中小製造業を事例にして一(藤坂浩司)
□ テスラの事業戦略研究・序説(佐伯靖雄)
□ カーエレクトロニクス部品の国内需要に関する試算-産業連関表におけるデバイス製品からの推計-(太田志乃)
口 自動車部品ビジネスにおけるトップ・セールスの有効性について-人脈による企業間関係構築の媒介性と速度感の視点からの考察-(宮川正洋)
□ 日本の法人向け自動車販売における企業間関係(岸田淳)
□ 周辺地域における航空機部品受注と次世代航空機への対応一秋田県を事例として一(山本匡毅)
□ ファーストリテイリングのSDGsに向けての未来戦略(畑中艶子)
□ デザイン経営における感性のマッチング-岩手県内中小企業における実験的取組みに基づく実証研究からの考察-(三好純矢・近藤信一)
■書評
塩地洋・田中彰編著『東アジア優位産業:多元化する国際生産ネットワーク』中央経済社,2020年3月(赤羽淳)
前田啓一・塩地洋・上田曜子編著『ASEANにおける日系企業のダイナックス』晃洋書房,2020年10月(肥塚浩)
明石芳彦『進化するアメリカ産業と地域の盛衰』御茶の水書房,2019年3月(川端望)
公文溥・糸久正人編著『アフリカの日本企業:日本的経営生産システムの移転可能性』時潮社,2019年3月(小林哲也)
中島裕喜『日本の電子部品産業』名古屋大学出版会、2019年2月(佐伯靖雄)
山﨑朗編著『地域産業のイノベーション・システム:集積と連携が生む都市の経済』学芸出版社,2019年2月(松原宏)
奧山雅之『地域中小製造業のサービス・イノベーション : 「製品+サービス」のマネジメント』ミネルヴァ書房,2020年5月(山﨑朗)
加藤秀雄・奧山雅之『繊維・アパレルの構造変化と地域産業 : 海外⽣産と国内産地の行方』文眞堂,2020年8月(杉田宗聴)
赤松裕二『フルート製造の変遷 : 楽器産業の製品戦略』大阪公立大学共同出版会,2019年11月(中道一心)
久保隆行『都市・地域のグローバル競争戦略-日本各地の国際競争力を評価し競争戦略を構想するために-』時事通信社、2019年1月(杉浦勝章)
李澤建『新興国企業の成長戦略: 中国自動車産業が語る"持たざる者"の強み』晃洋書房,2019年11月(上山邦雄)
石鋭『改革開放と小売業の創発:移行期中国の流通再編』京都大学学術出版会,2020年3月(田中彰)
十名直喜『人生のロマンと挑戦 : 「働・学・研」協同の理念と生き方』社会評論社,2020年2月(熊坂敏彦)
中瀬哲史・田口直樹編著『環境統合型生産システムと地域創生』文眞堂,2019年3月(中山健一郎)
日野道啓『環境物品交渉・貿易の経済分析 : 国際貿易の活用による環境効果の検証』文眞堂,2019年12月(堀井伸浩)

2021年5月21日金曜日

銀迪・川端望「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」を公表しました。

 ゼミ生の銀迪さんが第一著者のディスカッション・ペーパーを発刊しました。このペーパーは,私を第一著者としてまもなく『社会科学』(同志社大学人文科学研究所)に出る論文と対をなし,高成長期中国鉄鋼業の生産システムと企業・産業構造を論じます。画像は本稿の分析枠組みを示すもので,6ページに掲載されています。



銀迪・川端望(2021)「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」TERG Discussion Paper, 452, 1-34。



2021年5月19日水曜日

Q&A 管理通貨制下における信用貨幣・現金・貨幣的インフレーション

 学生との対話用メモ。

Q:「管理通貨制のもとでは債務が正貨で返済されない」「債務をより信用度や通用性の高い上位の債務に置き換えて返済することしかできない」とはどういうことか。それでは債務はどこまでいってもなくならないのではないか。

A:債務を返済する際に,管理通貨制のもとではそれ自体価値を持つ金貨や銀貨(=正貨)で返すことができない以上,返すときも債務証書しか使えません。自分が誰かに100万円借金をしている時,貸しては自分の100万円の債務証書(借用書)を持っています。これを返すときに,自分の借用書100万円を書いて,「これで返すから」と言っても「馬鹿か」と怒られます。しかし金貨で返すわけにもいきません。そこでどうするかというと,自分よりは信用度が高く,流通性のある債務(証書)で返すわけです。すなわち,預金への振り込み(銀行の債務)100万円か,日銀券(日銀の債務証書)100万円です。これなら貸し手は受け取ってくれるでしょう。かわりに私は自分の100万円の債務証書を取り戻し,無効化して(破って捨てていい)終了です。これが「債務の返済の時には,より上位の債務(証書)で返す」ということであり,別の言い方をすると「貸し手が持つ自分の債務証書を,より上位の債務(証書)と引き換えに取り戻す」ということです。

Q:債務をより上位の債務で返済するのはいいとしても,一番上位の債務はどうやって返済するのか。具体的には,金兌換が停止されると,中央銀行の債務は返済されないことになるが,それで問題は起こらないのか。返済されない債務証書である中央銀行券が,どうして現金として使えるのか。

A:金兌換が停止されているので,中央銀行や一般政府よりも上位の債務は一国内にありません。なので,上位の債務に置き換えて支払うということができません。
 では,中央銀行が債務を負って,返済しなければならないときに問題は起こらないのはなぜか。具体的には,金に換えられない中央銀行当座預金や中央銀行券が使用されるのはなぜか。これは非常に大きな問題です。
 その理由は,第一に,債務証書は,「発行人に対する債務の返済に使える=発行人の債務と発行人の債権は相殺できる」ことによります。私がAさんから100万円借りているとして,何かのはずみでAさんが別のどこかで発行した100万円の借用証書を手に入れたら,それをAさんに渡すことで私の返済は完了するでしょう。同じように,中央銀行券や中銀当座預金は,少なくとも中央銀行からの債務の返済に使えます。そして第二に,中央銀行券や中銀当座預金は,そもそも中央銀行が銀行に貸し出すときに発行されているので,銀行にとって中央銀行への返済に用いることができるのは,非常に大きな意味を持つのです。第三に,中央銀行は広い意味の政府の一部なので,中央銀行券や中銀当座預金は一般政府への支払い=納税にも使えるということです。この三つの事情が,金と交換できない中央銀行券や中銀当座預金が支払い手段であり得る根拠です。そして,この支払い手段としての成り立ちを基礎にして,中央銀行券は一般的支払い,つまり日常用語でいう現金払いにも使える流通手段にもなってるのです。
 しかし,中央銀行券や中銀当座預金は正貨と異なり,それ自体が価値を持っているわけではありません。そのため,減価=貨幣的インフレーションを起こすことがあり得ます。

Q:貨幣的インフレーションとはどういうことか。

A:中央銀行債務が財・サービスに対して過大に供給されることにより,その一単位当たりが代表する価値量が減少することです。財・サービスに対する需要超過で生じる価格上昇とは理論上は区別されます。

Q:貨幣的インフレーションはどのような時に起こるのか。

A:貨幣的インフレーションは,中央銀行-銀行ー企業の貸し出し・返済のシステムを通した通貨供給ルートでは,通常は起こりません。民間経済に供給される主要な通貨は銀行の預金通貨であり,それを下ろした場合に必要な中央銀行券ですが,これらは経済の必要に応じて貸し出されるし,返済によって消滅するからです。つまり内生的に供給されるからです。これに対して,一般政府ー企業・家計の財政支出・課税のシステムを通した通貨供給ルートでは,一般政府の政策により通貨が外生的に供給されます。そのため,財政赤字によって通貨が供給されると貨幣的インフレを起こす圧力が生じます。貨幣的インフレが生じるかどうかは,その通貨供給が財・サービスの生産を拡大するかどうかと,供給された通貨が財・サービスの購入に向かうかどうかに依存します。

Q:どういう場合には何が起こるのか。

A:まず,財政支出が生産を刺激すれば,財・サービスの量が増えるのでインフレ圧力は相殺されます。赤字を伴う財政政策で景気が回復した場合などはこれに当たり,生産の拡大とゆるやかな物価上昇が生じます。この時の物価上昇が貨幣的インフレなのか需要超過による価格上昇なのかを区別するのは難しくなります。
 赤字財政支出が生産を刺激せず,しかし供給された通貨は財・サービスの購入に向かえば貨幣的インフレーションが生じます。景気が過熱して生産余力がないときや,戦争直後など生産力が壊滅しているときに,財政支出で雇用や経営を支えようとすると起こることがあります。
 財政支出によって供給された通貨が,財・サービスの流通を媒介せずに預金や手持ち現金のまま遊休したり,金融資産の購入に向かってしまう場合もあります。遊休や金融的流通に向かっている通貨は貨幣的インフレ圧力をもたらしませんが,需要も増加させません。財政赤字を増やしても人々の預金が増えるばかりであったり,景気が回復しないのにバブルになってしまうことなどをイメージしてください。
 なお,供給された通貨が金融的流通に向かうのは,中央銀行-銀行-企業という供給ルートでも起こり得ることにも注意が必要です。企業が金融資産購入のためにお金を借り入れるとこれが起こります。


2021年5月16日日曜日

コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに

 信金中央金庫 地域・中小企業研究所から発行された峯岸(2021)は,この1年間の新型コロナ対策をマクロ経済政策として評価する上で,貴重な分析を提供してくれている。このレポートを基礎に,コロナ対策の家計と企業への影響を整理してみた。なお,峯岸(2021)が主に使用した日銀『資金循環統計』から部門別資金収支の推移を表すグラフを貼り付けておく。このグラフが全体状況を最も集約的に表現しているからだ。


1.一般政府は赤字国債発行で財源を賄ったコロナ対策により,大幅に債務を増加させた。日銀や政府の資金供給・財政支出はマクロ的には相当な影響力を持っていた。

2.家計は,全体としてみれば資産を増加させている。その主要因は預金増である。雇用者報酬は減少したが,これを上回る消費減+経常移転(給付金等)+社会給付(雇用保険給付,生活保護等)+税・社会負担の減があったからだ。峯岸(2021, pp. 6-8)はこの関係をはっきりと示している。
 しかし,失業者は29万人増加,休業者は80万人増加し,とくに非正規労働者,低所得者の状態は悪化している(総務省「労働力調査」)。零細自営業者,フリーランスも業種により苦境に直面している。よって,家計内部に格差が進行している恐れがある。

3.企業は,休廃業は増加しているものの倒産は増えておらず,現時点で全体としては大規模資金ショートは起こしていない。そして,意外にも金融資産を増加させた。なぜそうなったのかについて,峯岸(2021, pp. 12-15)の記述を再構成すると,次のように言えると思う。
 企業利益は縮小したが,赤字により内部留保積み上げがマイナスになることはなかった。一方,設備投資や運転資金への投下は縮小したので,投資のために負債を増やす必要はなかった。にもかかわらず,企業は金融支援を活用して,世界金融危機時に比べても借入金を大幅に増やした。一方,世界金融危機時と異なり,借り入れを上回る返済に追われてはいない。そのため,調達した資金の多くは手持ち現預金として積み上げられている。一部は金融資産購入に充てられているが,過去数年と比べて大きくはない。大企業では,M&Aを含む関係会社株式購入が従来の趨勢の延長線上で生じている。

4.以上からコロナ対策の影響を総括しよう。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けて「投資をためらい,現預金を積み上げ,一定のM&Aを行う」という,アベノミクス期の延長線上での動きをしつつあるのだ。

峯岸直輝(2021)「日本の経済主体別にみた資金需給と金融資産・負債の動向」『内外経済・金融動向』No. 2021-2,信金中央金庫地域・中小企業研究所,1-23。




2021年5月12日水曜日

新ウルトラマン(現:ウルトラマンジャック)はいつ初代ウルトラマンと別人になり,いつウルトラ兄弟になったのか

 『帰ってきたウルトラマン』最大の謎。それは,なぜ「帰ってきたウルトラマン」なのに初代ウルトラマンと別人なのか,逆になぜ別人なのにウルトラマンが「帰ってきた」ことにされているのかである。さらに,その設定はいつからできたのか,当時の視聴者は別人だと認識していたのか,ウルトラ兄弟という設定はいつできたのかという事である。

 この度,白石雅彦氏『「帰ってきたウルトラマン」の誕生』を上梓されたことで(画像),私はこのタイトルと別人設定の謎がついに明かされるかと期待していた。結果,確かに明かされたはしたが,その経過は期待したほど詳細には書かれていなかった。前作『「怪奇大作戦」の挑戦』までは事実確認のためにふんだんに用いられた上原正三氏の手帳が,1971年以降の分について未発見だからだろう。『帰ってきたウルトラマン』は,その名の通り以前に地球で戦ったウルトラマンが帰って来るという企画であり設定であった。なのにウルトラマンが別人になった次期は詳細不明であり,企画担当の満田かずほ氏もクランクイン直前まで考えていなかったこととしている。「そもそもウルトラマンが帰って来たという設定であったため,スーツは前のデザインで制作されていた。デザインの変更は,版権営業上の問題である」(136-137ページ)。版権を扱う会社,日音から「新しいウルトラマンが出せれば新たな契約ができる」(満田氏。137ページ。ただし『帰ってきたウルトラマン大全』からの引用)という話があったとのこと。まったく資本主義な大人の事情である。放映開始は1971年4月2日,クランクインは2月6日というから,たいへんな泥縄だったと言えるだろう。しかし,これが「ウルトラ兄弟」という設定を可能にしたのだから,何がどうなるかわかったものではない。


 では,これを視聴者はどう認識していたか。ここから個人的回想となる。

 『帰ってきたウルトラマン』は,私が最初にリアルタイム放映で視聴したウルトラシリーズであった。ときに1971年4月,小学校に入学する年のことであった。まだ眼鏡をかけていなかったので,ちゃんと子どもに見えた。自宅にあったのは白黒テレビであった。当時の私は上記の謎をどう認識していたか。

 まず,そもそもインターネットも何もない時代,『帰ってきたウルトラマン』についてのまとまった事前情報を得られた唯一のルートは,子ども向け雑誌であった。私の場合,小学館の『小学二年生』であった。なぜ1年生なのに2年生向けの雑誌を読んでいたかというと,話はやや寄り道して前年の秋に遡る。幼稚園児だった私は,小学館の『幼稚園』ではなく講談社の『たのしい幼稚園』を買ってもらっていたが,ある時,書店で『小学二年生』が欲しいと言い張った。理由は,『たの幼』には載っていない『ドラえもん』が載っていたからである。すでに虫コミックス版『オバケのQ太郎』全12巻を読みつくしていた私は,藤子不二雄先生の次のマンガ『ドラえもん』に目を付けたのだ。さんざせがんで手に入れた『小学二年生』には,確か『ドラえもん』「人間あやつり機」が載っていた。今になって調べてみると,1970年10月号だったようである(発売は9月1日)。この成果に味をしめた私は,その後も『小学二年生』をねだり続けた。そして,1971年の初めに,『帰ってきたウルトラマン』の記事を見たものと思われる。放映前に,第1話についての記事を読んだ記憶がある。タッコング,ザザーン,アーストロンの3体の怪獣が出ることを知っていたし,「タッコングに食いちぎられ,ザザーンは死んでしまいます」という文面が記憶にある。ウルトラマンが出る前に死んでしまうのが妙に悲しく心に残ったのだろう。

 そうして1971年4月2日,第1話『怪獣総進撃』放映。記憶の混濁があるかもしれないが,主観的には「君にも見えるウルトラの星」という歌詞がたいへん印象的だったことを覚えている。問題は,このときに『帰ってきた』ウルトラマンが,以前のウルトラマンと別人だとすでに認識していたことだ。「あれ,模様が違うけど別のウルトラマンなのか」と思ったことは一度もない(別人という情報がなければ,理屈っぽい私がおかしいと言って回らないはずがない)。ということは,『小学二年生』で別人だとすでに知っていたという事になる。しかし,どのように知ったのか。長年,漠然とした考えはあったのだが,確証が持てなかった。

 手掛かりは,2003年に出た『ウルトラ博物館』にあった。これは小学館の学習雑誌にかつて掲載されたウルトラシリーズに関する記事を復刻した,大人のおもちゃもきわまれりという本である(ので当然,買っている)。残念ながら放映開始直前の『小学二年生』4月号や5月号は再録されていないが,『小学一年生』1971年4月号の記事が再録されていて,そこでは「まえのウルトラマン」「こんどのウルトラマン」のデザインが対比され,別人であることが示されている。おそらく他学年の雑誌でも同様の特集が組まれていたことだろう。だから私も周囲の子どもたちの相当部分も,放映前に「帰ってきたウルトラマンはウルトラマンと別人」と認識していたのだ。なにしろ,当時,低学年の小学生には,学習雑誌の影響力はたいへんなものであった。

 では,別人はよいとしてウルトラ兄弟という設定はいつできたのか。テレビの放映画面内でウルトラセブンが登場するのは8月6日放映の第18話「ウルトラセブン参上!」であり,その後,12月24日放映の第38話「ウルトラの星光る時」に初代ウルトラマンとウルトラセブンが登場する。この時,はじめて「初代ウルトラマン」という呼称が番組内で使われた。番組内においては,この時点で初代ウルトラマンと新ウルトラマンが別人であることがはっきりしたことになる。だが,ここまでは「ウルトラ兄弟」という呼称は登場しない。この呼び名が初めて番組内に登場するのは1972年3月31日の第51話=最終回「ウルトラ5つの誓い」であり,光の国侵略を狙うバット星人の口からである。

 しかし,ウルトラ兄弟という情報は,実は相当早くから流されていた。少なくとも私は,最終回よりも第38話よりも早く,ゾフィ―,初代ウルトラマン,ウルトラセブン,新ウルトラマンは兄弟,ただし血はつながっていないと認識していた。その理由について長い間,記憶に自信がなかったのだが,『ウルトラ博物館』に『小学二年生』1971年8月号(7月1日発売)の記事が再録されていたために,この情報の起源に確証が持てた。「ウルトラセブン参上!」放映以前で,まだベムスターの存在が明らかにされていない時点で発売されたこの号で(※1)「ウルトラマンにはきょうだいがいますか」「います。M78星雲で生まれた四人きょうだいです」と断言されていたのである(画像)。新ウルトラマンを「いちばん下のおとうと」と書いているところは私の記憶のとおりであり,まちがいなくこれを読んでいたのだ。ついでに「アーストロンはゴーストロンのおにいさんです」「シーゴラスはシーモンスのおむこさんです」,「ペギラはチャンドラーのおにいさんです」というささいな情報まで記されていた。同書収録の満田氏インタビューでは「ウルトラ兄弟の設定については学年誌が先行した企画ですね。そうした扱いをしたいとの問い合わせが当時の『小学二年生』の井川編集長からあってね,こちらとしては『まあいいでしょう』とご返事しました。ただ『本当の兄弟ではない』ことのエクスキューズは出してもらうようお願いしたと思います」とある。ウルトラ兄弟とは,『小学二年生』のアイディアだったのであり,私はその設定が明らかにされた最初の出版物を目にしていたのだった。


 それでもわからないことはある。まず,この7月時点での情報は,『小学二年生』以外でも展開されていたのかということだ。子どもたちのうち小学2年生だけが「ウルトラ兄弟」とか言い出せばおかしなことになるので,広く情報は流されたのではないか。他の学年誌では流されたのか。『週刊少年サンデー』や『別冊少年サンデー』は使われたのか。これはまだわからない。また,この『小学二年生』には血はつながっていないということは書かれていない。私は,この情報は別のところで得たことになるが,それに初めて触れたのがどこであったかはどうしても思い出せない。2017年に出た『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』小学館によれば,「4人を血の繋がった兄弟と設定したことに対し、円谷プロから抗議を受けた」「そこで『小学三年生』同年11月号で「ほんとうのの兄弟ではないけれども,とてもなかがよいので,みんなはこの4人のことを,4兄弟と呼んでいる」と修正を加えつつ、「ウルトラ兄弟」の名称を推し出していったという。なので「本当の兄弟ではない」は後から流された情報なのだろう。しかし,『小学三年生』を読んだ記憶はないので,私は何か別のソースから得たのだと思う。『小学三年生』11月号と同時に他のメディアでも展開されていったのだろうか。これはまだ謎である。

※1 兄弟紹介記事の下には「『帰ってきたウルトラマン』にはうちゅう怪獣や,星人が,出て来ないのですか」という質問に「もうすぐ出て来ます」と答える記事がある。ベムスターの存在はまだ明らかにしないが,第2クールで宇宙怪獣を出す路線は予告したのだろう。

※2 余談。ちなみに,ここで『ウルトラマン』最終回にしか登場しないゾフィーが,たいへん神秘的な存在として子ども心に植え付けられた。当時の小学館の雑誌では「ゾフィ」でなく「ゾフィ―」の表記が多かった。しかし『ウルトラマンタロウ』第18話のサブタイトルは「ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!」だった。

※3 余談。当時の学年誌のお楽しみは豪華付録だった。懐中電灯を光源にする簡易映写機のような付録がついていたことを覚えている。『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』によれば,『小学二年生』1971年12月号に「怪獣幻灯機」がついており,これだったかもしれない。ただ,この幻灯機は静止画を映し出すだけなのだが,私はタッコングが暴れる映像を3秒くらいカラー動画で見た記憶があり,それで強烈な印象を覚えたのだ。記憶の混濁なのだろうか。


白石雅彦『「帰ってきたウルトラマン」の復活』双葉社,2021年。

円谷プロダクション監修,秋山哲茂編『ウルトラ博物館: 学年別学習雑誌で見る昭和子どもクロニクル1』小学館,2003年。

円谷プロダクション監修,秋山哲茂編『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』小学館,2017年。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...