原油価格の上昇により,「スタグフレーション」が到来するのではないかと話題になっている。この用語にはいささかの問題があるのだが,物価上昇と不況が同時に起こるのではないかと言う懸念は日々高まりつつある。その場合に,高市政権の経済政策の役割はどう変わるだろうか。また,物価上昇と不況に対して,経済政策はどう調整されるべきだろうか。
1 コスト・プッシュ不況の到来か
日本経済はコスト・プッシュに見舞われつつある。これは正確に言うとインフレーションつまり名目的・全般的物価上昇ではない。一時的ないし実質的物価上昇である(川端,2025)。インフレーションとは,貨幣の過剰発行による名目的・全般的物価上昇であり,特定部門のコストを引き上げるものではないし,日本全体の実質所得を低下させるわけではない。また,いったん上がった物価は二度と元に戻らない(これをインフレ・デフレの非対称性という)。一方,一時的・実質的物価上昇は,特定部門のコストを実際に引き上げるものであり,輸入物価を起点とする場合は日本全体の実質所得を低下させる。そして,おおもとになった原油価格の引き上げが一時的か恒久的かどうかに応じて,物価上昇も一時的か恒久的かが決まってくる。端的に原油供給が元に戻れば収まることもあり得る。
さて,実質的物価上昇は特定部門の価格を引き上げると言っても,起点が原油であるため,その影響は産業連関に即して原燃料から製品へ,資本財・生産財から消費財へ,産業から家計へと広がっていく。原油の販売先構成から言って(alterne, 2026年3月16日),原油→ガソリン・軽油→自動車を用いる企業と家計のルートがメインであるが,他にも原油→ナフサ→エチレン→化学製品(包装材,自動車部品,洗剤,医療機器など。『日本経済新聞』2026年3月24日)があるし,原油→重油→電力→産業と家計というルートも,かつて石油火力発言が主流だったころほどではないが,今でもある。価格転嫁に川下の産業や家計が耐えられなくなれば産業の利潤率低下による生産停滞,ないしは家計の買い控えによる最終消費停滞が生じて,不況となる。円安を利用した輸出は可能だが,現状,アメリカにはむやみと輸出できず,中国の景気がいまひとつであるため,そこには限界がある。非常に難しい状況であるが,未曽有の事態ではなく,いくつか異なる要素はあるとはいえ,1970年代に起こったことでもある。
このように経済情勢が激変した場合,現行の経済政策の意味が変化する可能性がある。何度か述べてきたように,植田日銀の金融政策は,金融市場の正常化を図り金利の機能を回復させるために緩やかに短期金利引き上げを行うものである。それはもっともなことであった。また,高市政権の経済政策はインフレかつ過熱気味の経済を維持しながら産業の国内投資を促進して,競争力を高め供給の天井を引き上げようとするものである。そこにはインフレ昂進,インフレ税による市民から政府への所得移転,円安による輸入物価高放置,長期金利上昇リスクという問題があった(川端,2026.2.27)。しかし,政策環境の激変によって,同じ政策が良かれ悪しかれ別な意味を持ってくる可能性がある。そうすると,これに対置されるべき望ましい経済政策も異なって来る。
2 マクロ経済政策のジレンマ
(1)金融政策
まず金融政策。これまで,過度に低い金利を是正するために,日本銀行がじわじわと利上げするのはもっともなことであった。しかし,ここから先は話が違ってくる。
一方において,金利引き上げは不況を加速する。原油価格引き上げが起こすのはインフレではなく実質的物価上昇だ。日本のような原油輸入国にとって,原油価格の高騰は購買力の流出をもたらし,総所得を減退させる。したがい,ここで金融を引き締めれば,不況への突入を後押しすることになる。物価だけを下げることはできない。過熱した景気を覚ますどころではなくなる。
他方において,金利を据え置くことの弊害もなくなってはいない。円安がいっそう進行し,いよいよもって輸入物価が上昇するからである。それでも輸出産業は利益を上げるだろうが,おそらくそのGDP押し上げ効果より輸入価格高騰による押し下げ効果の方が大きいだろう。いまや主要企業を日本を輸出拠点としておらず,海外拠点で投資収益を稼ぐようになっているからである。
つまり,物価上昇と不況が同時発生すると,日銀は,2022年頃のような,しかし帰結がやや異なるジレンマに逆戻りしてしまう(川端,2022.6.20,2022.6.26,2023.7.8)。金利を引き上げればコストプッシュ下で需要を減退させることにより,不況への突入を後押しする。金利を据え置いても円安による輸入物価高騰を招き,コストプッシュをさらに加速する。なぜこのようなジレンマに見舞われるかと言うと,アベノミクス期の「過剰に金融緩和していたが景気はたいして良くならなかった」という状態から出発したためである。このジレンマは,金融政策だけでどうにかできるものではない。
(2)財政政策
次に財政政策。これまで高市政権は,景気が過熱気味で労働力と設備の供給制約に突き当たりつつあるのもかまわずに,積極財政に進もうとしていた。これはリスクの高いナローパスへの賭けであった(川端,2026.2.27)。しかし,輸入価格高騰というコストプッシュによる不況が発生し,遊休設備と失業・不安定就業の増加が生じた時には,話が違ってくる。積極財政は一面では合理的となる。物価高対策の給付や減税も,インフレを加速せずに行える余地が広がるからである。だから赤字財政自体への批判は当たらなくなる。もちろん,支出を何に使うか,つまり子育て支援やグリーン投資支援に回すか,軍事費拡張に回すかは,また別の問題である。
しかし,この場合の財政赤字拡大は,国債消化,またその反面であるが利払い急増の問題を引き起こす。アベノミクス期と異なり,長期金利が財政赤字に反応して上昇する動きを見せているからである。これを防ぐもっとも単純な手立ては国債発行の規模を抑制することである。限られた規模で何を優先するかが問われるだろう。それでは不況を緩和できないというのであれば,財政出動を拡大しながら金利上昇を緩和するために,いまは減額中である日銀による国債の買い上げを,再び増額することが必要になるだろう。日銀による国債買い上げは,同時にマネタリーベースの拡大であり金利の引き下げである。これは,国際的に日本が突出して行うことになる可能性が高く,そうすると円安はますます進む恐れがある。
アベノミクス期と異なり,物価の上昇傾向が明らかなので,賃金をまったく抑え込むわけにはいかない。企業は,エネルギーと賃金の双方のコストプッシュの価格転嫁,債務者利得を利用した借入増,生産水準の維持を図ると予想される。すると,物価はさらに上昇する。
積極財政は,不況に転じた場合には本来妥当である。ところが,これからコストプッシュ不況が起こった場合に適用すると,物価を引き上げてしまう公算が高い。なぜかというと,すでに円安,輸入物価高騰,ホームメイドインフレ,賃上げ復活が起こっているため,アベノミクス期と企業行動がかわってしまっているからである。
物価上昇が小幅にとどまる道があるとしたら,財政を引き締めるか,企業が「不況になったので賃上げどころではない」という姿勢に転じて賃金を再び徹底的に抑え込む場合であるが,その結果は消費が停滞し,さらなる不況となるだろう。
3 産業政策の方向性
日本経済がこのような苦しい状態になるとすれば,その直接の主要因は原油価格急上昇による実質所得の減退である。だから,これを解決するには,原油価格上昇に影響されない経済,あるいはエネルギー価格高騰化に強い日本産業という経済のけん引力を作り出すしかない。これは1970年代のことを思えば,わかりやすい課題である。
そこで産業政策である。これまでの高市政権のように,17分野を総花的に手掛けて,成長のスイッチを押している場合ではなくなるだろう。肝心なのは脱石油・脱化石燃料,省エネルギーであり,これを促進できる産業の競争力向上,またエネルギー消費に左右されない産業の競争力向上を最優先させることである。すると,やはり再生可能エネルギー,EV,スマートシティ,断熱建築,それらと関連した材料,半導体,機器,二次動力,サービス,AIを含むシステムである。AIとデータセンターの省エネルギーも必要である。いまさら何をと言うだろうが,結局,そこなのである。
これらの技術の大規模導入は,日本においては,住民合意を無視した環境破壊を伴う発電所建設や,EVのコスト低減の遅れにより,障壁に突き当たっている。2100年の気温上昇幅より今の生活だという感覚からの反発もある。しかし,問題はいまや2100年だけではない。目の前のエネルギーコストの急上昇であり,まさに今の生活なのである。極論すれば,地球温暖化に関する価値判断は人により,政治勢力により分かれていても,省エネルギーの課題を共有すべきだろう。1970年代の環境投資も,一方では公害防止運動の成果であったが,他方ではコスト低減を求める企業の省エネ運動の成果であったことを思い出すべきだ。例えば自動車の燃費改善や製鉄所の熱回収は両方の成果であった。正直,やや手遅れの感はあるものの,開発規制を強めた上で再エネは推進すべきだし,EVのコストを下げて効率を引き上げることを支援すべきだし,都市のエネルギーマネジメントシステム,データセンターの省エネに投資すべきなのだ。
ここで技術選択についての議論が必要になる。日本の政府と産業界が現にとっている方向は,原子力発電や石炭火力発電のアンモニア吹込,ハイブリッド技術の改良でまだ対処できるというものだ。これらの技術を全面否定するつもりはない。それらも同時に推進しても良い。だが,これらは現存技術の改良であり,原発と石炭火力発電については,この技術を現存老朽施設を長期間使用するとコスト安になるという次元のものである。これらの技術の発展経路が将来に至って長く続くとは思えない。原発もハイブリッド車もアンモニア発電も,あくまで将来へのつなぎ技術であって,これが本流だ,日本式だと自慢気に依存するものではないのである。
なお,産業政策においては政策の方式も重要である。公的資金を特定企業に集中させて育成する方式はリスクも高ければ,モラル・ハザードによる停滞も生みやすいので回避すべきである。複数企業が競争できて,また新規参入が可能な方式をとらねばならない。周辺インフラに公費で支援するとか,スタートアップが公共調達に参加しやすくするといった形が望ましい。中国の政策を参考にするなら,特定企業に補助金を与えるのではなく,四輪EVの充電施設や,オートバイのカセット式バッテリー交換施設といったあたりに公的支援を行うのである。つまり,複数企業が競争のフィールドに乗りやすくし,フィールド上での競争を促すのである。円安を利用して日本企業の国内回帰と外資企業の対日直接投資を促進することも重要だ。関連機器やシステムがすべて輸入品になっては半ば失敗であるが,外資企業が日本で開発・製造することは,国内に雇用と所得を生むものであって有益である。何しろ日本企業も対外投資し,投資収益を海外で再投資しているためにお金が日本に還流しない現状である(唐鎌,2024)。それならば,むしろ外資企業に日本に投資し,収益も再投資してもらうことの価値に注目すべきだろう。
5 補足
(1)AIバブル崩壊との同時発生のリスク
以上は,経済危機のきっかけとして原油価格高騰のことだけを考えた場合の話である。AIバブルの崩壊が同時に来た場合には,より苦しい状態になることは言うまでもない。AIの開発とそのアプリケーションは,傾向としては確実に成長する。しかし,大規模エクイティファイナンスを通して投資を行っているために,アメリカを中心地としたバブルと崩壊というサイクルは避けられない。昨年以来AI投資はすでに過熱気味であったので,エネルギーコストが下降局面の引き金を引くことになってもおかしくはないのだ。
(2)スタグフレーションというべきか
今後到来する事態は,しばしば「スタグフレーション」と呼ばれている。スタグフレーションとはインフレーションと不況が同時発生する事態をさす用語とされている。私は,すでに述べたように,輸入品価格の上昇から生じる物価上昇は,厳密な意味でのインフレーション,つまり全般的・名目的物価上昇とは考えていない。特定産業での(ただしかなり広範な)実質的物価上昇である。したがい,輸入物価高騰から不況が生じることはコスト・プッシュ不況であり,これをただちにスタグフレーションと呼ぶのは正確ではない。そもそも持続的な物価上昇をすべてインフレと呼ぶ日常用語が定着してしまっている以上,これもまた日常用語としてはやむを得ないかもしれない。しかし,議論の正確性を損なう形で使用されるべきではなかろう。
なお,コスト・プッシュ不況対策で財政を拡張し,それが生産拡大・雇用確保に十分な作用を持たなかった場合や,逆に設備と労働力の余裕がなくなっても財政拡張が続けられた場合は,厳密な意味でのインフレが生じる。この時,不況から回復していなければ,不況と厳密な意味でのインフレが併存することになり,スタグフレーションと呼ぶこともおかしくない事態になる。
用語の正確さにこだわって何の意味があるのかと言われるかもしれないが,政策論議を誤らせないために必要なのである。安倍政権や黒田日銀は持続的物価下落をすべてデフレと呼んでいた。ところが岸田・石破政権以後は,物価が既に上昇に転じたのに,需要の弱さによる不況があればデフレだとして,「日本はまだデフレから脱却していない」と言い張るようになった。これではわけがわからない。このようなちぐはぐさをなくすためにも,物価変動分類論は必要なのである。詳細は川端(2025)を参照して欲しい。
唐鎌大輔(2024)『弱い円の正体:仮面の黒字国・日本』日経BP。
川端望(2025)「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492, 1-20。https://doi.org/10.50974/0002002920
川端望(2026.2.27)「高市首相の施政方針演説について:ナローパスに賭けるべきだろうか」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2026/02/blog-post_27.html
川端望(2023.7.8)「賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/2023.html
川端望(2022.6.28)「安倍晋三氏には「悪夢のような」現実を作り出した責任がある」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2022/06/blog-post_28.html
川端望(2022.6.20)「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2022/06/blog-post_20.html



