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2022年2月24日木曜日

成長と分配はどちらが大事か:動画・現代資本主義におけるマクロ経済政策第18-19回

 ある経済が失業を抱えている時と成長の天井に近い状態にある時とでは,成長と分配の関係は異なる。何度も言うが,「いつでもまず成長だ」ということもなければ,「いつでもまず分配だ」ということもない。何度も何度も言うが,いつでも「とにかく成長しないと話にならない」ということもなければ,これからずっと「もう成長などしなくていい」ということもない。何度も何度も何度も言うが,「分配を重視する奴は,イデオロギーと感情に流されるいかがわしい奴に違いない」ということもなければ「いまどき成長が必要だなどと言う奴は古臭い」ということもない。

 一種類の価値判断だけを吐露して精神的に楽をしたいという誘惑に負けず,「場合による」と言い続けることが大事である。

 と偉そうに言ったが,ここでのロジックはほぼ松尾匡氏に依拠しており,オリジナルではない。


成長と分配はどちらが大事か 現代資本主義におけるマクロ経済政策⑱




成長と分配はどのように関連しているか 現代資本主義におけるマクロ経済政策⑲




2022年2月23日水曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第8回

 マルクス説の不足と補充の必要性(2)。政治革命後にアソシエーションの経済を構築しなければならないが,集権的計画経済の失敗を経た今,個人的所有を再建する仕組みとはどのようなものなのかはまだ明らかになっていない。詳細は,実際にやりながらでないとわからないにしても,概要くらいわからないと経済思想として成り立たない。

 もちろん現実には,社会主義運動が強まり,その勢力が政権を取ることがあるとしても,相当な長期間,商品・市場・貨幣を用いた経済計算に依拠しつつ,その弊害を改めていくことにならざるを得ないだろう。そしてその経験が国際的に広がるにはさらに長い道のりとなる。政治転換における「革命」はあり得るとしても,アソシエーションへの経済改造は漸進的なものにならざるを得ない。

 しかし,理論と思想としては,未来のアソシエーションとは,資本主義とどう異なる社会であり経済であるかを構想できていなければならない。とくに,経済学者には有名な問題として,1)商品と市場と貨幣に依拠しない経済計算がどのように可能になるのか,2)生産手段が社会的所有であり,大規模組織による生産が行われる条件下で,個人的所有,大雑把に言えば生産の意思決定の民主化と自己労働に基づく取得をどう実現するのかが難問である。ここではその課題の指摘のみにとどめたし,私自身が答えを発見しているわけでもない。

 もう一つ,近年ではどうしても見過ごせないのは,マルクスが機械と大工業の生産力をおおむね未来社会に継承できるとみなしていることだ。しかし,汚染にせよ地球温暖化にせよ,技術と労働の関係そのものを改編しないと対処できないことは明らかである。生産関係を変えるとともに,生産力の質的性格を変えていかなければ,環境破壊は手遅れになるだろう。だから,具体的にどの分野の技術をどうするか,そのための規制や誘導の手段,その背後にある思想は何かは大事なのである。

 なお,動画で「マルクス自身も『資本論』を書いた後で,もっとエコロジストになったという研究もある」と言っているのは,もちろん斎藤幸平氏のことである。ただ彼の研究については『人新世の「資本論」』だけでなく,主著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読まないと判断できないので,それ以上触れていない。同書は積ん読状態なので,いい加減読まねばならない(2022/9/9補記。読みました。「斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年7月27日)。


資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか



2022年2月21日月曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第7回

 マルクス説の不足と補充の必要性その1。これは経済学入門の講義なので,政治的価値判断ではなく経済学として考える姿勢で臨む。またいろいろ言い出すときりがないので,『資本論』第1巻の範囲内で,もっとも根源的と私が思うところを述べる。それは,資本主義的生産様式の発展が,スキルの平準化された労働者階級を生み出すという捉え方の問題点である。

 マルクスは「発達した機械の体系」の下での協業を生産様式の最高の発展と見ており,この生産様式が資本主義下で発展すると,小経営をネグリジブルなほどに極小化し,管理・監督者をごく一握りの存在として労働者階級を多数派とし,労働者の特殊なスキルを不要なものとすると考えていた。こうして労働者階級は搾取されるが,それゆえにこそ誰もが平等に経済運営に参加できる新時代が準備されるとも考えていた。生産力と生産関係の捉え方として,ここには過度の単純化,あるいは機械制大工業の作用の過大評価があったと思う。

 現代社会において「金持ちとそれ以外」という点では,1%と99%の対立は確かに進行している。しかし,99%の側に階級的・階層的等質化は進行しておらず,その根拠としてのスキルと知識の底上げと平等化が進行していない。現代の技術は,分散的な経営組織を経済の周辺部において生み出してはいるが,いまなおスキルと知識の階層性に対応した形での組織運営が中核的存在である。その一方,小経営は資本主義社会においても頑強に存在しており,その再生産は様々な家族関係によって支えられている(講義のこの箇所では述べなかったが,賃労働者の再生産にも家族関係が作用している)。

 私たちは,この現実を踏まえ,技術と労働と組織と家族の関係について,現実の作用は何であり,未来に向かって準備されていることは何であって,したがって現在の人間には何ができるのかを,考えていくよりない。「生産力ーその具体的形態としての生産様式ー生産関係との対応」というマルクスの枠組みは,そうした構想力を呼び覚ます助けになる。それは,マルクスの,ときに古くなっている記述内容とは区別して活用されるべきだ。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか



2022年2月19日土曜日

人類史の段階区分:資本主義への道,アソシエーションへの道 第6回

  マルクスは人類史をどのように段階区分したと見るべきかという無茶苦茶にデカい話を,何のためらいもなく数分で行う。前回も言ったが,そうせずに考え込み過ぎると,授業が終わる前に一生が終わるからである。

 この講義では,教科書の著者大谷禎之介氏とともに人格依存ー物象依存―自由な諸人格の連合という3段階区分,そしてアソシエーションという概念を肯定しつつ,より具体的には生産様式による区分を採用している。ただし,伝統的な5段階区分(原始共同体ー古代奴隷制ー封建制ー資本主義ー共産主義)やアジア的生産様式を加えた5段階区分(アジア的ー古典古代的ー封建的ー資本主義的ー共産主義的)ではない。原始共同体と資本主義の間はすべて前資本主義で一括する「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」の生産様式による4段階区分である。これも大野節夫説に倣ってのものである。

 歴史学においては,前資本主義の社会をみな奴隷制か封建制にあてはめて理解しようとする理解は,早くも1960年代には批判にさらされ,いまでは学術的にはほとんど支持を得ていない。つまり,前資本主義社会は多様である。この伝統的5段階区分批判がそのままマルクス批判や「進歩史観」批判としてなされることもしばしばである。しかし,むしろ多様であること自体の根拠がマルクスの理論に見いだせるというのが,大野説をもとにしたここでの解釈である。

 生産様式は,何らかの生産諸関係に包摂されている(日常用語でいえば,技術と労働は社会の中に存在している)。そして生産様式と生産関係にはフィットしやすい組み合わせとそうでない組み合わせがあり,よくフィットした生産関係が生産様式の呼称となる。「発達した機械の下での協業」という生産様式は資本主義との適合性が極めて強いために「資本主義的生産様式」なのである。マルクスがしばしば「生産様式とこれに対応する生産諸関係」という表現を使ったのはこの意味である(大野説)。

 前資本主義における生産様式の代表は小経営的生産様式である。小経営の特徴は,様々な生産関係と両立することである。小経営主が奴隷を支配下に置くこともできれば,封建領主が小経営に吸着して余剰を吸い上げることも可能である。小経営は発達すれば自由な小経営・小商品生産となるが,そうであっても小経営内の家族のありようはさまざまである。また小経営はそれ自体で再生産を完結させられないため,相当な規模の共同組織を必要とし,したがって様々なタイプの共同体によって補完される(時代をさかのぼるほど,小農家の農業経営は村落の共同作業や秩序なしに完結しない)。だから,小経営は特定の生産関係によって呼称されず,「小経営的生産様式」であり,敢えて言えば原始共同体以外は実に多くの生産関係と結びつく「前資本主義的生産様式」なのである。この小経営理解は,いまだ十分ではないとはいえ,栗原百寿説と安孫子麟説を私なりに理解したものである。

 以上のことから,マルクスの個々の記述でなく理論的枠組みに基づくと,生産様式による段階区分は「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」になるというのが,ここでの解釈である。

 なお,以上は過去に向かっての話であるが,未来に向かっては,「アソシエーション的生産様式とはどのようなものか」という難問がある。マルクス本人は,「発達した機械の下での協業」が発展すれば,そのままアソシエーションの生産関係ともフィットする生産様式になると考えていた節がある。21世紀に暮らす者の後知恵ではあるが,これは無理というものだ。20世紀の経験を踏まえるならば,発達した機械の下では,どこまで行っても技能の階層性と組織の階層性はほぼ不可避である。アソシエーションがもしあり得るならば,それを可能とする生産様式,日常用語では技術と労働のありかたが見出され,開発されねばならない。だが,マルクス解釈として言えるのはここまでで,それなら電化は,再生可能エネルギーは,コンピュータは,インターネットは,AIはどのような可能性を開いているのかは,より具体的な次元の問題である。

<参考文献>
大谷禎之介『図解 社会経済学』 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年。
大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年。
栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年。
安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑥人類史の段階区分



2022年2月14日月曜日

アソシエーションの下での個人的所有の再建(2):資本主義への道,アソシエーションへの道 第5回

 「アソシエーションの下での個人的所有の再建」の内容。ここでのマルクス理論史上の問題は,『資本論』においてアソシエーション,端的には共産主義社会への変革が「私的所有を再建しない」が「個人的所有を再建する」と断定していることをどう理解するかである。これに対する理解でもっともありふれたものは,共産主義社会では「生産手段は社会的に所有され,生活手段は個人的に所有される」というものである。しかし,これでは字面の上でも,『資本論』が「私的」と「個人的」を対比していることの意味を理解できない。また個人の生産へのかかわり方についてのマルクスの思想がまったく読み取れない。この二点について,もっと深く読み取るべきではないかという問題意識から,様々な研究が行われた。これはもちろん,個人が尊重されていない旧社会主義国の現実を念頭に置きながらの議論であった。

 私が大野節夫氏や有井行夫氏の研究から自分なりに理解したところでは,こうである。

 まず前提として,個人的所有が「否定の否定」によって「再建」されるという時に,「否定」される前とはどの時点なのかを確定しておかねばならない。これは,自由な小生産の時点である。自由な小生産は,生産関係としては単純商品流通に対応している。「第一の否定」によって自由な小生産が否定され,資本主義的生産の確立する。

自由な小生産→第一の否定→資本主義的生産→第二の否定→アソシエーション

というシェーマである。だから第一の否定は,生産者と生産手段を切り離す本源的蓄積過程とイコールではなく,もっと短いスパンの過程である。

 さて,所有は本来社会的関係の中に存在している。しかし,そこから孤立した,社会とのつながりを極小化された,とにかく排他的権利が法認されているというだけの所有も考えられる。この次元での所有とは,小生産においては生産手段の私的所有である。それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者が生産手段を所有しないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては再建されない。

 それでは,再建される「個人的所有」とは何かというと,二つの側面がある。ひとつは,「意思決定過程に関与することとしての所有」である。諸個人が生産物や生産方法の決定に参画できることである。これは,自由な小生産においては,個人個人がまったくばらばらに行う形で確立される。資本主義的生産においては,それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者は生産物も生産方法も決定できないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては,連合した諸個人が社会的組織を通して意思決定を通して行うという形で再建される。つまりは,民主的に運営されていてメンバーの意志が尊重されている協同組合のような状態である(この授業で私が何度も言ったのは,アソシエーションの理想とは,うまく運営されている生協のようなものであるということだった)。

 もうひとつは,「生産物の取得様式としての所有」である。自由な小生産においては,自己労働に基づく取得が実現する。それは資本主義的生産においては建前だけのものになり,搾取すればするほど多く搾取できるという資本主義的取得法則に歴史的に転化する。そして,アソシエーションにおいては自己労働に基づく取得が再建され,低い段階では「労働に応じた取得」,高い段階では「必要に応じた取得」が実施される。

 マルクス解釈としては,これでよいと思う。問題は,社会的組織を通して行う意思決定が「自分で生産物や生産方法を決めている」という実質を持ちうるにはどういう運営がされねばならないか,また社会的組織の中で働いて「自己労働に基づく取得」という内実を持つしくみとはどのようなものであるか,そして,それらはどうすれば実現できるかというところにある。それらは,どのような労働手段を基礎にしてどのような経営様式によって成り立つのかということである。これらは難問であるが,マルクス解釈から答えが出る問題ではない。より具体的な次元での難問である。

<参考>

大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年
有井行夫『新版 株式会社の正当性と所有理論』桜井書店,2011年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑤アソシエーションの下での個人的所有の再建(2)





2022年2月12日土曜日

資本主義の発展と消滅。アソシエーションの下での個人的所有の再建(1):資本主義への道,アソシエーションへの道 第3回、第4回

 「個人的所有の再建」。さすがにこれを避けると授業が終わらないので,歯が立とうが立つまいが,やる。まずはとりあえず,それは「いろいろな事情で:今までの社会主義国では成り立たなかった」と言っておく。「それだけかい!」と突っ込みが入って当然だが,ここで「まずその前に,これまでの社会主義と称するものが××だった理由について○○し,マルクスの問題点を■■しなければならないのではないか。そうすることなしに++を語ることはできないのではないか」とか言っていると授業が終わる前に一生が終わるので,まずは原典解釈を淡々と進めることとする。マルクスの問題点は第7回以降にまとめて論じる。「個人的所有の再建」の内容は次回。

資本主義への道,アソシエーションへの道③資本主義の発展と消滅



資本主義への道,アソシエーションへの道④アソシエーションの下での個人的所有の再建(1)



2022年2月11日金曜日

石原慎太郎氏は自分を省みなかった

 私は,ものごころついて以来,石原慎太郎氏が保守だ右翼だというのはわかりきったことなので,いちいち気にしたことはない。しかし,この人が,一切自分を省みないところは,受け入れられなかった。石原慎太郎氏こそ「ブーメラン」の人だと思う。

「ああいう人ってのは人格あるのかね」→自分の人格は問題ないのか。

「IQが低い」→自分は高いのか。

「“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ」→自分は有害じゃないのか。

「美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」→自分は78歳で都知事に当選しても何も問題はないのか。

「日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」→自分の我欲を天罰で洗い落とす必要は感じないのか。

……という風に,まったく納得できなかった。一切自分を疑わない人は,どういう思想の持ち主であれ,「どこかやっぱり足りない感じがする」と思う。それは「遺伝とかのせい」ではなく自らのありかたの問題だ。


2022年2月8日火曜日

個人的所有の生成と否定:資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 

 「経済学入門A」のオンライン講義最終回の抜粋,第2回。この講義は小経営的生産様式と自由な小商品生産を区別し,前者が基礎になって後者が成立するのは長い歴史的過程を経てのことであるという風に『資本論』を読んでいます。

 生産様式とは,一定の生産関係の中での生産諸力の運動形態であり,具体的には労働手段と労働の結合の具体的なあり方です。つまり,直接には生産力のありかたであって生産関係のあり方ではありません。しかし,どのような生産関係にフィットするかという適合・不適合があります。そして,もっともフィットする生産関係が名称について「封建的生産様式」「資本主義的生産様式」などと呼ばれるのです。

 小経営的生産様式は,小経営という生産関係にフィットしたものです。小経営は社会全体を長い時期にわたって支配する生産関係ではありません。むしろいろいろな前資本主義的生産関係の中にある経営様式であり,解体する共同体にかわり,また変容する共同体とともに,ゆっくりとはったつしてくる経営様式です。そして,発達し切ると,自由な小商品生産の下での小経営的生産様式になります。商品経済の中で独立した自営農民や独立した手工業者です。そのとき,生産手段の法的所有という意味でも,生産物の経済的取得様式という意味でも,個人的所有が発達します。

 しかし,自由な小商品生産は,社会全体を支配することなく,発達すればするほど資本主義的生産に転化してしまいます。そうすると,個人による生産手段の法的所有は法的建前に過ぎなくなり,大多数の直接生産者は生産手段を持たない賃労働者になります。また,経済的取得様式としての個人的所有は,他人を搾取すればするほどより多く搾取できるという資本主義的取得法則に転化してしまいます。これが個人的所有の第一の否定です。

 この見解は,大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年と栗原百寿『農業問題入門』青木書店(初版,1955年,有斐閣)に強く影響を受けてまとめたものです。いずれも今後アップする動画の第9回で文献リストに掲げています。

資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 個人的所有の生成と否定








2022年2月2日水曜日

小経営的生産様式の歴史的意義:資本主義への道,アソシエーションへの道 第1回 

 東北大学経済学部で2020年度第2学期に1年生向けに行った「経済学入門A」のオンライン講義から,2021年1月18日に行った最終回の後半部分を,9本に分割して配信します。講義内容はマルクス経済学の入門で,教科書に使用したのは大谷禎之介『図解 社会経済学 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年です。動画の内容は,教科書第1篇第10章「資本の本源的蓄積」第2節「資本主義的生産の歴史的位置」に相当する部分です。これは,カール・マルクス『資本論』で言えば,第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に相当する部分です。

 第1回は小経営的生産様式の歴史的位置づけを行ったものです。小経営的生産様式を重視するのは,ある意味では東北大学における経済学研究の伝統であり,これを定式化した業績は栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年に帰せられます。栗原理論の問題意識は安孫子麟氏に受け継がれ,その新たな定式化は,安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年などに示されています。また,これとは別に,平田清明氏の個体的所有論をめぐる討論から大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店が書かれました。私はこれらの業績から多くを学びました。

第1回 小経営的生産様式の歴史的意義





論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...