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2020年7月30日木曜日

PCR検査の要諦は「よく索敵して,敵がいそうなところを集中的に打て」「索敵能力のあるやつを育てろ」ではないか

素人談義を承知で,「専門家が言いたいことの話の筋はこうなのではないか,マスメディアがやっているPCR検査の議論は,そこから脱線しているのではないか」という推定をする。

 専門家が何度も言っているのにメディアが無視していることが二つあると思う。

 1)PCR検査は事前確率の高い,不正確を承知でおおざっぱに言えば「専門家が『感染していそうで危うい』と思った」集団に対して行わないと意味も効果もない。

 2)『危うい』集団を見つける専門家をふやさねばならない。まずは専門医だが,それだけでなく実地疫学専門家。これも不正確を承知でおおざっぱに言うと,「厚労省や保健所にいてクラスター・濃厚接触者追跡ができる人」。国立感染症研究所の実地疫学専門家養成コース(Field Epidemiology Training Program:FETP)で育成される。医師でなくとも看護師,臨床検査技師,薬剤師なども受講できる。

 感染してそうな「危うい集団」をみつけてPCR検査する。そういう集団を見つけられる専門家を増やす。本来,単純な話である。ところがメディアは「危うい集団を見つける」「見つけられる人を増やす」ことの重要性を話題にせずにPCR検査を「増やす,増やさない」の話をする。これでは話は頓珍漢な方向に飛ぶ。

 あえて,もっとおおざっぱに言う。ここが戦場で,ウイルスが隠れている敵だとする。普通,敵がどこにどれほどいるか見当をつけて,弾丸という名の検査を撃つし,射撃の規模や,弾丸の補給の見通しも考えるだろう。「敵がどこにどれほどいるか」という話をせずに「もっと撃つべきか,撃たざるべきか」という議論をしては駄目なのはすぐわかる。

 「敵が増え続けているらしいが発見できない」というときに,「とにかくたくさん撃て」「今の10倍撃て」「100倍撃て」では,当たりもしないし弾切れを起こすだろう。緊急には「よく索敵しろ」だろう。そして必要なら「敵がいそうなこの方向に集中して撃て」だ。そして,もう少し長いスパンでは「補給線を太くしろ」と「索敵能力のあるやつを育てろ」だろう。

 マスメディアの議論は,肝心なところから脱線して,余計な論点をぐるぐる回っているように,私には見える。私は,詳細な論点を正確に論じる力はないが,この脱線だけはしたくないし,メディアには何とかしてほしいと思う。

2020年7月15日水曜日

中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的

 『日本経済新聞』2020年7月15日付報道COINPOST同日付記事によれば,日本政府は,中央銀行デジタル通貨(CBDC)の発行を検討することを「骨太の方針」に盛り込むとのこと。実は今月2日には日本銀行決済機構局から「中銀デジタル通貨が現金同等の機能を持つための技術的課題」というレポートも出ている。
 大いにやればいいと思うのだが,CBDCについての経済学的検討がどのくらいなされているのかが不安である。不安になる理由は,上記のレポートも含めて,CBDCには「口座型」と「トークン型」があると,両者が対等に扱われているからだ。私の意見では,両者にはすさまじい差がある。口座型(預金のデジタル化)はまったく不合理であり,CBDCはトークン型(現金のデジタル化)に絞って検討すべきだと思う。
 口座型とは,要は個々人が中央銀行に直接口座を開設し,デビットカードや,デビットカード式電子マネーで買い物をするということである。技術とプライバシーについては,そんな集権的口座管理ができるのか,望ましいのかという問題がある。また経済的には,これは,事実上,民間銀行の個人向け預金業務を準国営化(中央銀行への集中)するものである。これをわかった上で議論したり記事にしたりするならいいのだが,おそらく気づいていない人が多い。なぜデジタル化のついでに預金を国営化する必要があるのか。
 対してトークン型とは,要は現金が電子信号化されて,スマホに入れて持ち歩けるというものである。技術とプライバシーについては,分散型台帳が必要であり,プライバシーを守りつつ頑強なしくみをどうつくるかが課題である。経済的には,リテールの口座振り込みやクレジットカード払いが激減して現金取引が激増することが予想される。スマホに入っているトークンを簡単に送金できるからだ。しかし,そういう変動はあっても,民業との競合や国営化とかの問題はない。

 だからトークン型の方がはるかに合理的だというのが私の意見である。


私見について,詳しい検討はこちらをどうぞ。


2020年7月10日金曜日

国債発行はカネのクラウディング・アウトを起こさないが、都債を含む地方債発行は起こし得ることについて

 国債発行による中央政府の支出増は,カネのクラウディング・アウト(金利の上昇)を起こさない。このことはMMTの信用貨幣論に即して,以前に論じた()。他方,地方自治体は通貨発行権を持っていないので,地方債の発行による資金調達は民間資金需要と競合し,カネのクラウディング・アウト(金利の騰貴)を起こす可能性がある。ここではこの違いを考察する。
 中央政府の場合,政府が国債を発行して銀行に引き受けてもらうと,銀行の日銀当座預金(超過準備)が減少し政府が日銀に持つ政府預金(国庫)が増大する。そして,政府が赤字支出をするとマネー・ストック(通貨供給量)が増える。具体的には政府がモノ・サービスを購入するので,販売した企業の銀行預金が代金分だけ増え,銀行が政府から代金を取り立てる。取り立てると銀行の日銀当座預金が増えて政府預金が減る。結果,日銀当座預金はプラスマイナスゼロとなる。インターバンクの短期金融市場にも,もちろん民間の金融市場でも需要超過はないので金利は高騰しない。
 地方自治体の場合はこれと異なる。地方自治体は日銀に口座を持っておらず,市中銀行と取引をしている。自治体が地方債を発行して銀行に引き受けてもらうと,自治体が銀行に持つ預金口座にお金が振り込まれる。この時,銀行は資産側に地方債,負債側に預金を加えてバランスシートを膨らませる。預金通貨が増えるのでマネー・ストックは増える。自治体が赤字支出をすると,自治体の預金は減り,モノ・サービスを販売した企業の預金が増える(単純化のために自治体と企業は同じ銀行に口座を持つとする)。
 地方自治体が地方債を発行して赤字支出をした場合,マネーストックが増えるところは政府の場合と一緒だが,理由が異なる。マネーストックが増えるのは,政府の場合は赤字支出したこと自体が理由であるが,地方自治体の場合,銀行が地方債の代金として預金通貨を創造したからである。銀行の貸し出し金額や債券購入額には,借り手のリスクの存在や銀行の流動性調達能力に制約されて上限がある。このため,地方自治体による借り入れと民間の借り入れは同一次元で競合する。つまり,地方債発行による赤字支出は,カネのクラウディング・アウトを起こし得るのである。
 政府の借り入れと地方自治体の借り入れではこんなにもお金の流れが違っている。その本質的な理由は,通貨発行権を持つ政府は,自分=統合政府=中央銀行の手形を切り,政府の債務を増やすことで支出できるのに対して,地方自治体は銀行から貸し付けてもらい,預金という銀行の手形を手に入れなければ支出できないからである。政府が自分の手形を切る行為は誰とも競合しない。しかし,地方自治体が銀行の手形を手に入れる行為は銀行の手形を欲しがる他の民間の主体と競合するのである。





2020年7月4日土曜日

公立小中高でオンライン授業がほとんどできなかったことを深刻に受け止めるべき

 横山耕太郎「忖度ばかりの学校現場、教師が激白『オンライン導入は永遠に潰され続ける』」Business Insider, 2020年6月25日によせて。申しにくいのですが,あえて書きます。
 大学は改革疲れで疲弊しているのですが,コロナ危機に際して,多数の教員がオンライン授業をしなければと思い,実際に行いました。国に無理くりやらされたのではなく,各大学で何とかしなければと思って実行しました。不十分なことはわかっていますが,とにかく正規の授業を止めずに実施しました。文科省がオンライン授業を規制しないかと心配しましたが,それでも半ば勝手に始めました。これからも不安材料はいっぱいですが,ほんの少しは自慢したいです。
 対して,ほとんどの公立の小中高ではオンライン授業ができなかったそうです。やる気のある先生や学校が自発的にやろうとすると「教育委員会に相談すると、『一校だけ先行するのはよくない』と言われました」と止められたのだそうです。
 しかし,この時代,オンライン授業ができないというのは「感染症が流行しているから仕方がない」といって良いのでしょうか。私は違うと思います。ハードやソフトやスキルが神様みたいになくても,できるのです。これは,「やるべきことをやっていない」状態ではないでしょうか。いや,もちろん,いま現在の学校の体制や設備では,がんばってもできなかったことも多かったでしょう。そういう学校や,そこで働く先生を責めてはならないと思います。でも,「このままではダメだ」「二度と同じことをしてはならない」と確認する必要があると思います。
 大学では一応できて,公立の小中高ができなかったという違いは,大々的に取り上げねばなりません。公立学校でオンライン授業ができないのはダメなことであり,日本の教育にとって許されない一大事であり,お金も人も配分して改善しようという社会的合意を作る必要があります。なぜ大学ではできて公立の小中高でできないのか。何が足りないのか,どう補わねばならないのか,直ちに政策化する必要があります。
 それさえできずに休校のあり方,入試の日程ばかり議論するというならば,日本はもはや教育熱心な国とは言えないでしょう。


2020年6月22日月曜日

ジョブ型雇用を妨げているのは労働時間管理ではない:『日経』の記事について

本日の『日経』1面(有料記事だが登録すると月10本無料で読める)「ジョブ型」労働規制が壁」(林英樹記者)

 たいへん申しにくいが,「働き方改革」について,ここ2,3年の『日経』本紙の記事はおかしい。別にリベラルや左派でないから悪いとか言っているのではない。制度の理解があさっての方向に外れている。しかもそういう記事がしばしば1面に載っている。

 「ジョブ型雇用」を「企業が職務内容を明確にして」処遇するというのはいいが,「成果で社員を処遇する」が余計である。ジョブ型かメンバーシップ型かは成果主義かどうかとは関係ない。仕事内容をマニュアル化して,これをやったら時給いくらだよという単純な時間給アルバイト雇用もジョブ型である。そのポイントは成果主義ではなく,「誰がやっても同じ賃金」ということであり,年齢,勤続,学歴,正社員か否か,いわんや性別に一切無関係に支払われるということだ。ジョブ型かつ成果給だと「誰が挙げても成果は成果」となる。そのポイントも「誰があげたのかは関係ない」という匿名性であって,労働時間とはまた別のことだ。

 次に,「成果より働いた時間に重点を置く日本ならではの規制」というのもおかしい。先進国や発達した新興国で,労働時間規制がない国などないし,日本が無闇に厳しいわけでもない。
 確かに時間管理が難しい仕事はある。冒頭に出てくるIT企業に勤める女性が「パソコンやスマートフォンの操作履歴を会社に把握され,午後5時の就業後にメール1本遅れなくなった」は,テレワークで課題になる,働いたり休んだりが細切れになり,夕方以後にも発生する場合への対処である。しかし,これは新たな時間管理方式が必要だということであって,時間管理をなくすべきだということではない。時間管理がない状態では,企業側は遠慮会釈なくノルマを課せるので,長時間労働はひどくなるだろう(学生さんのための例示をすると,オンライン講義において,総勉強時間の管理がない下で課題を出され放題の学生のような状態だ)。

 あらゆる職種に高度プロフェッショナル制や裁量労働制を導入しろというのも,制度をはき違えている。高プロや裁量労働制のポイントは「プロフェッショナル」と「裁量」であり,その意味は指示・命令がそぐわない仕事ということである。だから,時間を含めて自分で働き方を決めた方がいいということだ。それにふさわしい仕事には導入したらよかろう(本学の教員は専門業務型裁量労働制であり,私はそれでいいと思っている)。指示・命令により労働者を拘束して働かせる仕事は,たとえ「時間と成果が比例しない」にしても,拘束して働かせたことに対価を払わねばならず,拘束を過剰にして労働者の健康を損なってはならない。指示・命令を受ける仕事に高プロや裁量労働制を導入したら,長時間労働はひどくなる一方だ。現に裁量労働制なのに出勤時間があり,遅刻すると処罰される不適切制度も横行している。

 テレワーク下での労働時間管理は確かに難しく,改革しなければならない。成果主義がふさわしい仕事に成果給を導入して給料を上積みし,裁量的な仕事には裁量労働制を導入して自由裁量で働けるようにする必要はあるだろう。しかし,何もかも労働時間管理のせいにしてそれをなくしてしまうのでは,筆者が労基法のせいにしている「長時間労働を美徳とする企業文化」はますますひどくなるだろう。


2020年6月15日月曜日

鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年を読んで

 鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年。「特撮の神様」円谷英二による特殊撮影によって名高い『ハワイ・マレー沖海戦』とその前後の戦時東宝特撮映画の系譜を描いた著作である。

 本書の主人公は特殊技術担当の円谷英二,東宝映画株式会社取締役の森岩雄,監督の山本嘉次郎であり,その周囲を,この映画に携わった様々な人々が取り巻いている。「働き盛りの男達が国家や軍部といった強大な力を有する相手を向こうに廻して,映画作りに奮闘する様子を追いかけていくのが本稿の主題となる」(7ページ)。と同時に本書は,その戦時という時代背景を書き込み,『ハワイ・マレー沖海戦』の前後の事情をも明らかにする。すなわち,戦争映画の製作によって東宝の特殊技術部門が拡大し,『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめとする戦意高揚映画が全盛期を迎え,敗戦とともに一瞬で消滅して戦後へと変転していく過程を描いている。主人公たちは,その波を積極的に担いながら,波に翻弄されるのである。

 類書をそれほど読み込んだわけではない私にも,本書は2点において重要な意義を持っているように思える。

 ひとつは,『ハワイ・マレー沖海戦』の製作過程を,キーパーソンの行動に即して明らかにし,とくにこれまで不明であった軍との関係を解明したことである。とくに著者は,本作品に関して語られる様々な「伝説」について詳細に資料を検討して,ある時はこれを覆し,あるときは裏を取り,ある時は新たな文脈に置きなおしている。例えば「軍事機密の関係で海軍側からの資料提供が得られなかったために,新聞に掲載された報道写真を参考にして真珠湾軍港のミニチュア・セットが作られた」という伝聞は誤謬であるという。一方で,確かに軍事機密の壁にぶつかったことも事実であるが,他方で,軍人にハワイのミニチュア作成の指導に当たってもらっていたのである。こういう,一見相反することが,どのようにして起こったのかが,製作過程に即して解明されている。著者のこうした考察は,軍艦資料の入手からミニチュアの縮尺率,さらに「1億人が見た!」と言われることの実情に及ぶ。とくに厄介なのは,円谷や山本自身の文章にも相矛盾することが書かれている場合であり,著者は当人の証言だからと言ってうのみにせずに検証していく。また,軍との協力に関する事実関係は,映画関係資料だけからではなく,軍の関係者が残した手記や伝記の方からも探求されていて,資料を多面的に用いることの重要性も感じさせてくれる。例えば上記のミニチュア作成の指導の件は,原田種寿・村上令『予科練教育―ある教官と生徒の記録』新人物往来社,1974年によって確認されたのだ。

 もうひとつの意義は,戦時東宝特撮の生成から消滅,そして戦後への変転を時間の経過に即して一気に描き切ることで,その短期間での変転の激しさ,異様さ,それを担いながらそれに翻弄された人々の複雑な思いを読者に提示したことである。当たり前のことだが,1942年12月の『ハワイ・マレー沖海戦』封切りから1945年8月のポツダム宣言受諾までは2年8か月,1948年3月の第三次東宝争議までは5年4か月しかたっていない。しかし,戦後に生まれ育った私のような人間は,社会科学者のつもりであっても戦時と戦後の断絶という「常識」的感覚のもとで生きており,戦時と戦後を,まったく異なる時代のように思ってしまうくせがついている。そうではなく,わずか5年の間に戦時特撮は高揚し,滅びて戦後に突入したのだと,本書はいやおうなくわからせてくれる。戦意高揚映画を作り続けていた数年後,山本監督は組合委員長に推挙されながら戦争責任を問われて辞することになり,屈折の中で生きる。宮島義勇カメラマンは一転して組合急進派となる。取締役の大沢善夫は,近代的な経営を目指して組合と対峙するようになるのである。翻弄されながら身を転じていくその姿を,著者は告発するでもないし,特撮技術が発達したからそれでよかったと肯定するだけでもない。森や山本や円谷がどのように時代の変化と,それをめぐる人間の態度の変化を受け止めていたのかを,その行動と残された証言から再構成し,『ハワイ・マレー沖海戦』の重みを明らかにしながら,その後ろめたさをも照射するのだ。とはいえ,森岩雄と円谷英二については,その寡黙さの前に,著者も立ちつくしているようにも見えるのだが。

 「現在ではクールジャパンの代名詞の一つとして扱われる『特撮』も『アニメーション』も,ともに誕生した直後には,そうしたきな臭い時代の風を満帆に受けることで技術的な躍進を果たしてきた事実」(8ページ)は消えない。そのことの受け止めについては,容易に結論を出せるものでもなければ出すべきでもないだろう。なので,その時代を生きた人々の歩みの複雑さを,複雑さとして受け止めることから始めねばならない。本書はそのための重要な,確固たる礎石であるように思う。

出版社サイト。
https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21687-4.jsp

『ハワイ・マレー沖海戦』Amazon Prime。



2020年6月8日月曜日

あまりにも機能しないIT業界の多重下請けシステム

 IT業界における多重下請けシステムの機能不全が指摘され始めたのはいつからなのだろうか。アプリの世界ではすでにアジャイル開発が普通になっているのに,SIerを頂点とするシステムベンダーの世界はあまりに変わっていないように見える。
 多重下請けは製造業にも存在するし,ユーザーや元請けの側に交渉力があって下請けの負担が重いことは,日本のどこでも同じである。しかし,自動車部品などでは系列・下請け関係の中で製品のQCDと産業競争力が向上し,また1次サプライヤーが設計開発能力,さらには研究開発能力を磨いてきたことも事実である。IT業界は今後の産業構造変化をリードする立場なのに,QCDの面で下請けの負の側面ばかり目に付く。どうしてこうなるのか。学部の講義で系列・下請けの構造と変容を扱っているが,それは主に自動車部品を対象としており,いわば機能している下請けの話である。それと対比する意味で覚書にしておきたい。
 ひとつはユーザー側のIT部門が弱い。記事にもある通り,ユーザーの側で投入労働量が平準化できないことと終身雇用慣行の矛盾があって,人数をぎりぎりに絞っている。さらに社内および役所内でのIT部門の立場が弱く,ビジネスプロセス全体をITを使って変革する主導権を持たされていないし(国立大学大学で言うとハンコを失くす業務改革権限を持たされていないとか!),最悪,ビジネスプロセスがわからないのに要件定義をして発注する。その発注が開発コンペになっているのかどうかがよくわからない。役所では競争入札をして価格で決定しているのではないか。
 ここで元請けたる1次ベンダーがしっかりしていればいいのだろうが,1次ベンダーも人数をぎりぎりに絞っているために外注することになる。以下同じ。つまり,外注を「専門家に頼む」のではなく「投入工数の調整」を主要因として行っている。なので,本来ワンチームで行った方が効率的かもしれないところまで分割して外注し,ウォーターフロー式で開発する。そして,仕事があれば出し,なくなれば切るので,金の切れ目が縁の切れ目になりやすい。
 ウォーターフロー式とは開発の流れ作業であるから,仕様が確定していて不確実性がない場合は機能する。ところが,仕様変更,設計変更が頻繁に生じる。そこには,アプリの世界はもともと開発しながら新しいことを考え,使用も設計を変更していった方がよいものができるという積極的要因と,ユーザーの力がなくて要件定義のところが詰められていないという消極的要因がある。後者もあるとはいえ,アジャイル方式とオープンソースならば開発者の創意工夫によって提案され,開発プロセスにすぐ反映される。しかし,ウォーターフォール式かつ多重下請けなので,二つの欠点が起こる。一つは修正に時間と手間ばかりかかること。もう一つは,元請けから下請けへの一方的押し付けを通して変更が実行されることだ。コストは下請け持ちである。
 ユーザーと1次ベンダーの開発能力が量・質ともに低いということは,ユーザーとつきあい,1次ベンダーと付き合っても働かされるだけで勉強にならないということである。そしてアプリの世界ではユーザーと直接接していないとよいものがつくれない。なので,下請けシステムには学習機能がうまく働かない。
 それでもユーザーが1次ベンダーに発注して多重下請けに頼るのは,開発者が名目上は大手でないと不安だとユーザーが判断するからだ(『日経』の方の記事参照)。1次ベンダーは大手企業であり,トラブルに対する耐久力が強い。だから受注できる。仕事の質ではなく,規模によって受注できてしまうのだ。

シェア先
中島聡「なぜ、日本政府が作るソフトウェアは使えないモノばかりなのか?」MAG2NEWS,2020年6月3日。
https://www.mag2.com/p/news/453485

「コロナ接触確認アプリ、導入1カ月遅れの曲折」『日本経済新聞』2020年6月1日。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59771810Z20C20A5TJC000/

私には,オンライン講義において学生に重い課題を課す余裕などない

 この記事に書いてあることは,わかるようでわからない。
 私はもともとゼミ至上主義なので,大学院ゼミ・学部ゼミ・プレゼミには常日頃から重い課題を出すが,大講義では期末試験以外に重い課題を課したことはない。今回のコロナ騒動では,2月からオンライン講義の予感はしていたものの,実際に成り立つかどうか自体が不安だったので,重めの課題を課すことなどとてもできなかった。そもそも円滑に配信できるか,学生は視聴できるか,双方向対話できるかが見当もつかないところで,学生と教員の時間を長時間自動的に拘束するような課題を設定したら破滅だと思ったからだ。なので,出席点代わりの受講確認に自己申告受講確認アンケートとクイズだけを出すことにした。クイズの答えのところだけ動画を見て「受講しましたか」「はい」と答えるモラル・ハザードは可能だが,アンケート回答数とYouTubeアナリティクスを突き合せた感じでは,せいぜい210名中10-15名だろう。そのくらいはやむを得ない。
 そして,案の定,やってみたらオンデマンド型講義は,90分の講義それ自体の時間に加え,動画編集と配信設定で1回あたりで2時間程度余分な作業が必要になる。私の主担当講義は4単位なのでこれを週2回である。さらに,本来幸福なことであるが,意欲のある学生がリアル講義の5-10倍くらい質問・意見を出してくる。「手を上げる」とか「教壇にいる教員のところに歩み寄る」より「Google Formに書き込む」の方がずっとハードルが低いのだろう。それに答えるだけで毎週数時間を要する。いまもようやく先週金曜日の分へのリプライを書ききったところだ。この上,全員に回答させる課題など出すのは不可能である。

「オンライン授業で『学生の負担』増える理由 その原理を解説したイメージ図に共感『ほんとそれ』」Yahoo!Japan (Jタウンネット発)2020年6月2日。

2020年5月31日日曜日

「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」ことを可能にする制度的基礎について

 マクロ的な設備投資と在庫投資を「投資」とした場合,「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」。なぜそのようなことが可能なのだろうか。
 I=Sは誰もが認める恒等式である。もう少し進むと,ケインジアンは「投資が独立に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」と理解する。この時点で拒絶する人もいるかもしれないが,認める学者も少なくない。しかし,これを理論構築のための仮想と考えるか,実際の因果関係と見るかは,わかれると思う。
 実際の因果関係と見ると,当然,次のようにも言えてしまう。「事前に貯蓄があるから投資できるわけではない」ことになる。中間に利子率を入れると,「貯蓄が豊かにあれば(利子率が下がって)投資を促進するという関係は存在しない」ということになる。さらに,社会全体として「事前に貯蓄がなくても投資できる」ことになる。こうなると拒絶する学者,少なくとも現実をそのように説明しない学者も多いだろう。例えば,「日本の高度成長期には,豊かな個人貯蓄が企業の投資を支えた」という人は,事実上,投資先行決定を否定しているのである。
 しかし私は,投資の先行決定は単なる仮想ではなく,実際の因果関係だと理解している。それは,一定の制度的基礎と結び付ければ理解できる。
 その制度的基礎とは信用貨幣と銀行である。投資を,それまでに存在せず,あらたに創造された通貨で行うならば,ミクロ的には事前の預金,社会的には事前の貯蓄にまったく左右されずに投資が可能になる。つまり,マネーストックに含まれる(中央銀行や市中銀行の手元に眠っていない)発行中央銀行券か,市中銀行預金,(それが存在する国では市中銀行券)が,「必要に応じ,信用供与の際にゼロから創造される」ならば,企業が銀行から借り入れることによって投資を先行決定することができる。
 しかし,実務家はともかく,経済学者の過半数はこのように銀行を理解することに同意していない。多くの経済学者は(主流派であれマルクス派であれ),銀行を「事前に集めた預金を貸し出す」というモデルで理解している。信用創造を認める場合でも,まず本源的預金があって,その何割かを貸し付け,するとその一部がまた預金となり,またその何割かを貸し付ける,と理解する。
 だが,そこがちがう。私個人が違うと思うだけでなく,学説的には信用貨幣論,内生的貨幣供給論,銀行の「貸し付け先行説」によれば,違う風に通貨と銀行を理解できる。銀行は,もともと預金がなくても,貸し付けることによって,貸付先企業の預金を創造することができる。この行為により,預金通貨は増加する。もちろん,預金の引き出しに備えた手元流動性がなければ貸せないが,銀行が手元にもっている中央銀行券は,中央銀行当座預金をおろすことで入手したものであり,民間から集めた預金に由来するのではない。だから,銀行の貸付は,事前に預金がなくても実行できるのであって,むしろ貸し付けによって預金が創造されるのである。
 これは,企業が手形を発行して物を買うのと同じであり,何も神秘的なことではない。銀行は預金という手形(自己宛て債務)を発行して,貸し付けるのである。債務を返済せよと言われたら(=預金をおろしたいと言われたら)中央銀行券で渡しているのだ(※)。
 このように,通貨を信用貨幣論で理解し,信用貨幣供給を内生的貨幣供給論で理解し,銀行を「貸し付け先行説」で理解すれば,事前に貯蓄がなくても企業への貸し付けが行われ,企業が投資することが可能だとわかる。「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」というマクロモデルを,単なる仮想でなく現実の因果関係であると了解できるのだ。
 こうして考えると,常識的な観点もいくつか怪しくなってくる。例えば,「日本の高成長期の法人企業の投資超過=資金不足を家計の貯蓄が支えた」というのは間違いで,「企業が盛んに投資を行ったから家計に貯蓄が生まれた」ということになる。発達した資本主義国では,国内の貯蓄不足で投資が困難になるという事はないのである。
 ただ,対外関係が入ってくれば話は違ってくる。とくに発展途上国で国内の金融機構がぜい弱で信用創造が大規模にできない場合,投資の際に外貨による輸入が必要であったり,国内産業がぜい弱で投資が輸入の急増を招いてしまう場合などは,国内の信用創造だけによって投資を拡大することができない。海外からの借り入れや直接投資や援助によってこの制約を乗り越えていくことになる。ここに発展途上国の課題がある。ただ,このような状況は,通常は「国内貯蓄がないから海外からの借り入れもしくは援助が必要だ」と言われるが,これは不正確であろう。貯蓄がないからではなく,金融機構と国内産業がぜい弱だからというべきではないか。

※それでは中央銀行当座預金や中央銀行券という債務について,中央銀行に「返済せよ」とせまったらどうなるかというと,当座預金は中央銀行券で支払われ,中央銀行券は中央銀行券で払われるというトートロジーになるだけである。債務は,より信用度の高い債務で支払われる。管理通貨制の国の国内には,債務でない通貨はない。だから,最高の債務は何によっても支払われない。「債務証書でない,ちゃんとした本位貨幣で返済しろ」ということ自体が不可能なのが管理通貨制である。

2021年5月15日,最後の段落を改訂。

2020年5月24日日曜日

大企業を救済するために無差別資本注入を行うことに反対する

 政府系金融機関による劣後ローンや優先株で大企業を救済する案について,私は基本的な観点を述べておきたい。
 経営者に責任のない災害による経営危機であるから,劣後ローンでの支援まではありうると思う。また,公共交通機関である航空会社など特定分野の企業については,オペレーション維持のための救済はありうるだろう。ただし,程度の差があれ公的規制が入るのは当然だ。
 一方,大企業への無差別資本注入は賛成できない。資本注入とは,出資先企業の存続にコミットすることだからだ。
 産業や企業は永遠のものではない。このコロナ危機を経て,産業構造は当然に変化するだろうし,変化すべきとさえ言える。インフラ維持と弱者救済はするとしても,どのような大企業が生き残るかは,市場で決めねばならない。大事なことは,将来の新産業構造を担う企業を興隆させることであり,現存する大企業をまるごと守ることではない。両者は異なるものだ。近い将来のビジネスの担い手は,まだ創業していないかもしれず,今は中小零細企業かもしれない。それらが伸びる可能性を摘まないためには,既存大企業に資本注入して政府がその存続にコミットしたりすべきではない。優先株として資本注入しながら何も発言しない無責任経営はもっと悪い。日銀のETF購入と類似の誤りである。
 労働者,自営業主,市民は人間であるからその存在そのものが守られねばならない。自営原理が浸透している日本の中小零細企業にも救済の余地がある。しかし,大企業は人ではなく,人に奉仕すべき組織である。守られるべきは既存企業ではなく,明日果たされるべき企業の役割だ。守るべきは人間であり,生き延びた人間に選ばれてこそ企業は生きるべきである。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...