フォロワー

2024年10月3日木曜日

BISによる「プロジェクト・アゴラ」とは何なのか:どうやってホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)で国際決済を行うのか

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)にはリテール型とホールセール型がある。リテール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)とは,要するに中央銀行券をデジタル化し,専門的な用語で言えばトークン化したものである。他方,ホールセール型CBDCとは,中央銀行への預金をより高度なIT技術を使って効率化し,さらに金融機関のみならず民間の経済主体も使えるようにしたものである。

 リテール型は,いま紙であるものいがデジタル信号のまとまりになるわけで,その変化は分かりやすい。個人が支払うときの感覚だと,現金で払っていたものがバーコード決済での支払いや知人への送金になる感覚で理解して,そう間違いない。一方,ホールセール型とは,割り切っていえば単に中央銀行預金が便利になり,民間人も使えるようになるものであるから,どういう意味があるのかわかりにくい。

 現在,ホールセール型CBDCを使って国際決済を便利にしようという「プロジェクト・アゴラ」が国際決済銀行(BIS)によって推進されている。現在の国際決済にはコルレス・バンキングが用いられており,その手続きをSWIFTというしくみで簡素化して迅速化を図っている。しかし,それでも煩雑だということで,新プラットフォーム上で素早く決済するのだという。強引に簡略化していえばそうなる。民間企業も中央銀行に口座を持って,中央銀行間が連携し,情報技術の活用で素早く決済しようということではないかと推測できる。

 一見,わかりやすそうな話であるが,私にはまだ理解できない大きな謎がある。「どの時点でどのように両替するのか」である。現代世界経済には統一通貨はない。払うとすればドルとかユーロとか円とか元とかで払うしかない。例えば日本企業が日銀に口座を持つとして,円建ての日銀預金でどうやってアメリカのFRBやアメリカ企業に払うのか。

 考えられることは三つくらいある。

1.どこかの時点で外貨に両替し,CBDC化したドル現金を入手してバーチャル送金する。イメージとしては,デジタルドルを入手し,支払元が日本で持っている端末から,支払先がアメリカで持っている端末に送るようなものである。CBDC化したドル現金に両替することは確かに考えられる。しかし,それならばリテール型CBDCを使うことになり,ホールセール型の出番はない。

2.ドル預金をアメリカの銀行に持つことで払う。支払元はドル預金口座をアメリカの銀行(US-A行とする)に持ち,そこから支払先の取引銀行(US-B行とする)の口座に振り込んでもらう。A行とB行の銀行間決済はFRBの当座預金にバックアップしてもらう。しかし,これならば従来のコルレス・バンキングそのものであり,情報技術でスピードアップする以外は何も新しいことはない。

3.ホールセール型CBDCに積極的役割を持たせるとすれば,次のようになるのかもしれない。支払元の日本企業が日銀とFRBの両方に中央銀行預金(ホールセール型CBDC)を持ち,支払先のアメリカ企業はFRBに中央銀行預金を持っている。そして,日本企業は中央銀行預金を引き出してドルに両替し,ただちにFRBに預け,FRB内の預金振替でアメリカ企業に払う。これならば,ホールセール型CBDCが生きるし,確かにコルレスバンキングよりは手順は簡素になるかもしれない。ただし,各国中央銀行には非常に大きな負荷がかかる。日本からアメリカへのあらゆる大口送金について,FRBが自ら振替処理をしなければならないからだ。そんなことが可能なのだろうか。これを可能にする新しいプラットフォームを作るということだろうか。

 これまでのところ一番詳しいBISの報告は,2023の国際決済銀行(BIS)年次経済報告第3章「Blueprint for the future monetary system: improving the old, enabling the new」だと思うのだが,これを読んでも,決裁を迅速にするトークン技術の新しさが解説されているだけで,ここでの疑問である「どの時点で外貨両替するのか」が一言も書かれていないように見える。だから上記の3であるのかどうか,確証が持てない。

 このように,「アゴラ・プロジェクト」とは,国際決済としてどこをどう新しい仕組みにするのか,まだ私には謎である。BISのページを見ただけではよくわからない。現在,この領域を対象としているゼミの院生が文献を調査しているところだ。

BISの実験プロジェクト『アゴラ』への日本銀行の参加について,日本銀行,2024年4月4日

Project Agorá: central banks and banking sector embark on major project to explore tokenisation of cross-border payments, April 3, 2024, BIS.

2024年10月1日火曜日

岡橋保の貨幣・信用論はなぜ少数派だったのか?この説を継承・発展させるためには何が必要か?

 ここ数年,再評価作業を行っている岡橋保氏の貨幣・信用論であるが,学界では当人の生前から少数派にとどまっていたようである。その原因を考えてみると,四点ほど思い当たることがある。

 第1に,その叙述スタイルである。まず前提として,岡橋氏が活躍した時代は,雑誌論文よりも著書が主要な研究成果発表形態であったことを踏まえておく必要がある。岡橋氏の著書は,1957年の『新版 貨幣論』までは,自己の理論を体系的に叙述するスタイルであった。しかし,その後の著作では,歴史書である『銀行券発生史論』を除いて,冒頭では自己の見解を要約し,その後は論敵に対して批判を行う形で記述されるようになった。取り上げられた論客は,当初は不換銀行券を信用貨幣でなく国家紙幣とみなす飯田繁,麓健一,三宅義夫の各氏であり,信用インフレーションを説く川合一郎氏であり,新しいインフレーションを説く高須賀義博氏であり,ドルを国際通貨とみなす岩野茂道,木下悦二,深町郁彌の各氏であり,信用を現金の貸し付けとみなす宇野弘蔵氏であり,最後は預金貨幣を貨幣と認めず,また経済法則の適用対象を国民経済でなく経済一般とみなす村岡俊三氏であった。批判を中心とした岡橋氏の叙述スタイルは,当時としては論点をビビッドに取り出すものであったのだろうが,後年の読者からすると,その積極的見解をわかりにくくし,また過去の議論とみなされやすくしたことは否めない。また批判の方法が,一方では相手の論旨を「というのである」「ということになる」とその帰結までたどる丁寧なものであったのだが,後年の読者が読むと,どこまでが相手の議論の紹介でどこからが岡橋氏の見解がわかりづらくなったことは否めない。他方で,批判の表現は,今日ではもちろん,おそらく当時の基準でもあまりにも苛烈であったために,その理論的内容が素直に受け取られにくかったことも想像に難くない。

 第2に,金でなければ本来の貨幣にならず,価値尺度にならないという主張を貫いたことである。これは,マルクスその人の貨幣論を素直に継承したものなのであるが,多くのマルクス経済学者はこの規定がリジッドに過ぎて管理通貨制下の資本主義を分析する際の障壁になるとみなし,多かれ少なかれ修正しようとした。しかし,岡橋氏はまったく譲ることがなく,ほんらいの貨幣は金でなければならないとし,その一方で,金が流通しなくなり,公定価格標準が廃止された現実を現実としてそのままみとめたのである。岡橋氏は,特定の商品貨幣が流通して直接の価値尺度機能を果たすことはもはやなく,代用貨幣のみが流通し,中央銀行券と中央銀行当座預金が最終決済手段になっていると,事実上主張していた。ここにはマルクス経済学の中核的命題を維持しながら現実の説明を可能とする理論的発展の手掛かりがあったはずである。しかし,岡橋氏はこのことについてまとまった説明を与えなかったために,読者にはその主張が十分に伝わらなかった。

 第3に,不換の預金貨幣や銀行券を信用貨幣とみなし,マルクス経済学を含む通念に真っ向から反対したことである。岡橋氏は,不換制の下での預金貨幣や銀行券・中央銀行券を,兌換制のもとと変わらず信用貨幣であるとした。しかし,当時,マルクス経済学を含めて信用貨幣とは金債務であるとするのが常識であった。つまり<銀行券などは金で支払われるから信用貨幣なのであり,不換制の下では国家紙幣になる>というのである。岡橋説は論敵の三宅義夫氏をして「岡橋教授の所説はおそらく教授以外の何人も納得しえないものと思われるが」と言わしめたほど少数派であった。しかし,その三宅氏もすぐ続けて「こんにちの不換制下においても,日銀のバランス・シートでは発行銀行券は『負債の部』に計上されている。これをどう説明するかはエレガントなパズルと言えよう」(三宅「兌換銀行券と不換銀行券:岡橋・飯田両教授の所説に寄せて」『経済評論』1957年3月号)と認めざるを得なかった。岡橋氏は,不換制のもとでも商業信用が執り行われ手形が存在する以上,銀行券・中央銀行券を手形と認めないのは不整合であることや,不換銀行券の流通量は伸縮しうること,返済を含む債権債務相殺の機能は生きていることを述べて,自説を主張した。しかし,金債務説がもっとも問いたいであろう,<中央銀行券が金債務でないというのならば,何によってどのように支払われるのか>については,岡橋氏は中央銀行券が最終支払い手段になったのだという以外のことは述べなかった。このため,岡橋説にあっては,中央銀行券・中央銀行当座預金の信用貨幣としての流通根拠が,今一つ積極的に説明されないままにとどまった。

 第4に,マルクスの「貨幣流通法則」と「紙幣流通の独自法則」を厳密に解釈した結果,現状分析の上で,1960年代から1975年にいたるまで,日本には厳密な意味でのインフレーションは起こっていなかったと主張したことである。岡橋説によれば,価格標準の切り下げによる名目的物価上昇としてのインフレーションは,公定価格標準(金平価)の切り下げか,財政赤字による投げ込み的(今日的に言えば外生的)貨幣投入によって生じる。一方,銀行貸付の肥大化による通貨供給は,商品流通量の増大に伴う,貨幣流通法則に沿った(今日的に言えば内生的な)供給であり,貸付・返済によって伸縮するものであるから,景気を過熱させることはあってもインフレーションを起こすものではない。したがい,岡橋氏から見れば,戦時中の物価上昇は厳密な意味でのインフレであったが,高度成長期から1975年までは日本の財政は赤字ではなかったので,インフレも生じなかった。岡橋氏は,高度成長期や過剰流動性期の物価上昇を,景気の過熱による一時的及び実質的物価上昇だったとみなしたのである。岡橋説では,また,1970年代には,アメリカの物価高騰や,オイルショックによる原燃料価格の高騰を反映して「輸入インフレ」と呼ばれる事態が生じたが,岡橋はこれも円の相対的価値の低下による不等価交換とみなし,やはりインフレーションとはみなさなかった。この,日常用語としては誰もが「インフレ」と呼んでいたものを,厳密にはインフレではないと言い切った岡橋説は,マルクス経済学者を含めて極論とみなされたのである。

 以上を踏まえると,岡橋説の現代的意義を主張する際には,これらの論点に対応した解明が必要である。第一に,岡橋貨幣・信用論の体系をわかりやすく再現する説明を行うことである。第二に,資本主義における貨幣システムの発展を,本来の貨幣としての金属貨幣=商品貨幣の流通を排し,代用貨幣によって代える傾向を持つものとして叙述することである。そしてその発展が,資本主義発展をどのように媒介し,どのように矛盾を蓄積させているかを明らかにすることである。第三に,不換の預金貨幣や中央銀行券が信用貨幣であることについて,その支払い能力がどう担保されているかの適切な説明を行うことである。第四に,日常用語として「インフレ」とされている現象について,厳密な意味でのインフレーションであるか,そうでない物価上昇であるかについて納得のいく説明を行うことである。これらは実は,1990年代以後の「デフレ」やポスト・コロナの「インフレ」,「異次元の金融緩和」とその解除の意味を問ううえでも必要な論点であり,その解明は歴史的にも現代的にも意義を持つと,私は考える。

(写真は,ようやくそろった岡橋の全著書・編著と追悼文集)




2024年9月25日水曜日

論文「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」を公開しました

 拙稿「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割:ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究」が『アジア経営研究』30-1号に掲載されました。J-Stageにアップされましたので,ダウンロードいただけます。

 2020年4月に科研費をとってベトナム鉄鋼業における外資企業成功の条件に関する研究を始めました。しかし,コロナ禍で海外調査ができなくなり,研究対象を共英製鋼に絞って国内取材から始め,2023年にようやく現地調査を再開して,本稿を完成させるに至りました。

 本稿は技術移転論と中堅企業論で,ビナ・キョウエイ・スチール(VKS)社の事例を解釈しています。共英製鋼が1990年代にベトナムに移転したのは,当時の現地で必要とされていた鉄筋用棒鋼の生産技術でした。当時のベトナム進出はハイリスクでしたが,共英製鋼は創業家高島一族の果敢な行動と組織の力を結合させて実行しました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは成功し,経営を軌道に乗せることができました。しかし,まもなく鉄筋用棒鋼の生産は他の企業もできるようになりました。また共英製鋼の弱い財務基盤は,バブル崩壊後の建設不況の下で経営危機を引き起こしました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは21世紀突入とともに激しい競争にさらされることになりました。保有していた技術の意義と限界,中堅企業としての強さと弱さがこの事例を特徴づけていたのです。

 21世紀になってからの共英製鋼のベトナム事業については,別の雑誌に投稿中です。

川端望(2024)「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」『アジア経営研究』30-1,77-92。

2024年9月18日水曜日

『アジア経営研究』第30-1号発行

 『アジア経営研究』第30-1号が発行されました。拙稿「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割―ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究―」も掲載されています。11月くらいにはJ-Stageで無償公開されるはずです。

 『アジア経営研究』はアジア経営学会が発行する査読付き学術誌です。アジア経営学会入会のご案内はこちら↓
https://www.asiakeieigakkai.org/nyukai.html


『アジア経営研究』第30-1号目次

第1部 統一論題論文

分断化する世界経済の中でのサプライチェーンの変容 ―半導体産業を事例に―(中原裕美子)

第2部 論文 

ローソンの国際化戦略の特徴と影響要素―歴史的な側面からの考察―(鍾淑玲)
ジョブ型雇用社会におけるインターンシップの役割についての考察―台湾の企業と大学のヒアリング調査分析から―(國府俊一郎)
三菱重工の航空機事業の撤退にみる組織能力と構造的慣性に関する一考察 (安田賢憲,江崎康弘)
インド鉄鋼企業の再編とArcelorMittal/日本製鉄連合の進出についてー企業経営分析からの検証― (井上修,石上悦朗)
ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割―ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究―(川端望)
アジアを起点とした米麺文化の移植可能性―アフリカ・ガーナにおける米麺の潜在需要― (黒川基裕,グエン・ティ・ホアン・ハー,グエン・ティ・ハイ,タ・ティ・ホアイ)
新興国市場のボリュームゾーンと競争行動―インドオートバイ市場の事例―(三嶋恒平)
日本企業のアジア展開の変容―経済安保を踏まえたサプライチェーンへの影響低減の観点から―(酒向浩二)
新興国自動車産業のキャッチアップ戦略―制約と機会(李澤健)
ネパールにおけるカースト階級に基づく社会的排除と貧困問題 (シャム クマル カルキ)
中国電気自動車・車載電池企業の成長と競争力―エコシステムの視角から観察・分析―(陳晋)
在日韓国人企業家の事業動機と行動様式―重光武雄を中心に―(柳町聡)
Empirical insights into foreign-led tech startups in Japan (Idrissova Ainash)
経済自由化後のインド機械系ものづくり企業の成長 ―急成長する部品製造企業の過程追跡型事例研究―(清水雅巳)

第3部 研究ノート 

自動車メーカーのバリューチェーン拡大戦略とその課題―中国とインドネシアのトヨタグループ事例を中心に―(垣谷幸介)

第30回全国大会報告(三嶋恒平)
編集後記(井口知栄,金綱基志)




2024年9月16日月曜日

「メンバーシップ型雇用」正社員の世界で「解雇規制緩和」をすると何が起こるか

  自民党総裁選で解雇規制見直しが争点となっている。解雇規制というのは判例で確立している整理解雇の4要件であり,この4要件が労働契約法第16条「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」の内容とされていることだろう。規制の具体的内容が判例で確立しているので,首相が「解雇規制を緩和したい」と言ったとして,具体的に何をするのかが,そもそも定かではない。労働契約法を改正するのか,法の行政解釈を変えるのか。そこは注視する必要があるだろう。

 しかし,それよりも深刻なのは,岸田内閣の下では一応「ジョブ型雇用」の推進がうたわれていたはずなのに,そのことは無視されて「解雇規制」だけが取り上げられていることである。この二つは別なことのようでいて,実は強い関係を持っている。ここでは,「ジョブ型雇用」の拡大抜きに「解雇」を促進するとどうなるかを論じる。

 雇用類型が日本の正社員のように「メンバーシップ型雇用」,すなわち「組織の一員として雇用する」場合と,世界の多くの労働者や日本の非正規労働者のように「ジョブ型雇用」,すなわち「一定の仕事をしてもらうために雇用する」場合とでは,解雇の意味は全く異なる。もはや言うまでもないかもしれないが,この二つの雇用類型の区分は濱口桂一郎氏の定式化によって普及したものである。

 「人が余剰だから解雇するか,仕事ができないから解雇するのだから,どこでも同じではないか」と人は言うかもしれない。とくに経済学者がそういうかもしれない。しかし,そうではないのである。「メンバーシップ型雇用」では,人が先にいて後から仕事を割り当てる。「大切なメンバー」がもういるのだから,メンバーが遂行できる適切な仕事を持ってくるのは経営者の方の責任になる。だから,多少会社の業績が悪化しているとしても,解雇を避けることが経営者の義務となる。

 それでも解雇を強行しようとすれば,解雇しないと会社が倒産するという事態であるところまで論証するか,そうでなければ当該正社員が「組織の大切な一員」であることを否定しなければならない。そのため会社は正社員を解雇する場合は,当該正社員が「会社の一員」にふさわしくない人間であることを証明しようとする。当該正社員がいかに無能で何の仕事もできないか,会社の秩序に反抗的か,あるいは素行が悪く無規律で堕落しているか,ということを主張する。つまり,「メンバーシップ型雇用」における解雇とは,「組織の一員としてふさわしくない,なにもできない,人格的に問題ある人物」という烙印を押すことに近いのである。ここで問題なのは,実際にはそのようなことを言われる筋合いのない高潔な人物であっても,そう扱われることである。本当は会社にとっても仕事上の余剰人員が存在するから解雇するのであっても,何しろ雇用の論理が「組織の大切な一員だから雇う」になっているので,会社としては「組織の一員としてふさわしくないから解雇する」と言わねば解雇できないのである。だから無理くりに言う。

 「実際にいまの仕事ができていない人をどうして解雇できないのか」と思う人がいるかもしれない。それは,特定の仕事を遂行するために雇っているのではないからである。「組織の大切な一員」とみなして採用した以上,特定の仕事ができないからと言って解雇するのはすじに合わない。なぜなら別の仕事ならできるかもしれないからである。配置転換を含めて別な仕事を社内で割り振るのが経営者の責任である。解雇したければ,当人が「社内のどの仕事もできないので解雇するよりない」と証明しなければならないのである。

 「メンバーシップ型雇用」の正社員を解雇するのはたいへんな摩擦を伴う。だから通常,日本の企業は退職金上乗せや再就職支援付きの希望退職募集や退職勧奨,あるいはインフォーマルな「肩たたき」によって,少なくとも表面上は円滑に,正社員の能力全般や人格を否定することなく辞めてもらおうとするのである。「もう社内にはあなたにやってもらう仕事がない」「次を考えませんか」という風にである。

 裏返すと,「メンバーシップ型雇用」における人事管理とは「あなたは会社の大切な一員ですから,よほどのことでもなければ雇い続けますよ」というメッセージを中心に組み立てられており,それが正社員の組織へのコミットメント,もっとはっきり言えば忠誠心の土台となっているわけである。

 さて,このような雇用方式をそのままにして解雇規制を緩和するとどのような事態が生じるだろうか。これまでの説明からおわかりだろう。多くの会社が大勢の正社員に「何もできない,会社にふさわしくない,人格的に問題ある人物」という烙印を押す。解雇された側の心は深く傷つけられることになる。また,「メンバーシップ型雇用」では,キャリア採用の際も,正社員として解雇されたことのある人物を「何か人として問題があるのではないか」と疑う。繰り返すが,実際にそうではない人も,「メンバーシップ型雇用」が中心の社会ではそのように疑われやすいのである。再就職も至難の業になり,ますます心が折れそうになる。

 一方,企業内の労働関係は「いつ能力全般と人格を否定されるかわからない」ものになる。むしろ経営側は,これまでにもある程度あったことだが,「お前の能力と人格などいつでも否定できるのだからな」という脅しで人事管理する度合いを強めるだろう。日本企業のメインストリームがブラック企業化する。

 確かに解雇規制を緩和すれば労働市場が流動化し,解雇も増え,採用も増えるかもしれない。しかし,それでめでたしめでたし,とはなりそうにない。解雇のたびに人の心を折るからである。それはカウンセリングや自己啓発や「物事を悲観的にとらえない」「前向き」な「気持ちの切り替え」で何とかなるものではない。また「とにかく市場の力を強めたから,これまでより良くなるに決まっている」と言ってよいものでもない。市場取引は効率性と動機付けを促進しているかどうかが大事である。また,市場経済で取引する際には,権利義務を設定し,その境目を明らかにすることが必要である。日本の雇用の「組織の一員として雇用する」「組織の一員としてふさわしくないから解雇する」という線引きの仕方が,解雇のたびに労働者のモチベーションにいちいち打撃を与えるようになっているのである。

 このように「メンバーシップ型雇用」と「解雇規制緩和」は相性が悪く,社会的に破滅的な結果を招きかねないのである。

 それでは,労働市場を,もっと望ましい形で作動させる道はないのか。「メンバーシップ型」がだめなら「ジョブ型雇用」であれば「解雇規制緩和」をしてもよいのだろうか。これが次の問題である。

2024年9月13日金曜日

「貨幣分類論」を東北大学経済学研究科のディスカッション・ペーパーとして公開しました

 先にこのブログに分割投稿した「貨幣分類論」を修正し,東北大学経済学研究科のTERG Discussion Paper, 490として公開しました。思考の整理のためにDPにしましたが,先行研究をサーベイせずに教科書風の解説だけ述べているので,雑誌論文として投稿するには苦しいかもしれません。しかし,それだけに読みやすいはずです。貨幣論にありがちな衒学的表現を全く使わずに,用語を定義し,対象を分類して,何を言いたいのか明確にすることに努めました。先に公開した「通貨供給システムとしての金融システム」ともども,ご批判をお待ちしています。

目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 外形的分類
Ⅲ 本質分類
Ⅳ 形態分類と物的定在分類
Ⅴ 通用根拠分類
Ⅵ 機能分類
Ⅶ 支払い方法分類
Ⅷ 供給領域による分類
Ⅸ 供給の内生性,外生性による分類,そして兌換と不換
Ⅹ 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合
Ⅺ おわりに

以下の2か所からダウンロードいただけます。
researchmap
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170/attachment_file.pdf

東北大学機関リポジトリTOUR
https://doi.org/10.50974/0002002578






2024年9月8日日曜日

カネゴンがお金を食べるのと人間がお金を貯めるのはどう違うのか:代用貨幣の蓄蔵可能性をめぐって

 『ウルトラマンアーク』第8話「インターネット・カネゴン」。AIのバーチャル配信者カネゴンが人気がありすぎて,地域電子マネーのほとんどがカネゴンへの投げ銭に費やされてしまう。カネゴンはお金を貯めることだけが目的なので,地域電子マネーが流通しなくなり,地域経済が不況に陥るという話である。

 今度のカネゴンは,『ウルトラQ』で初登場した時とはいろいろ違いがある。リアルではなくバーチャルな存在であるし,食べるものは硬貨でなく地域電子マネーである。しかし,もう一つ重要な違いは,食べたお金を消化するのではなく,貯めこんでいることである。ここから,今度のカネゴンは経済学上の理論問題にかかわって来る。

 地域通貨は,国家貨幣や補助硬貨と同じく,それ自体は価値を持たない代用貨幣であり価値章標(シンボル)である。地域経済が必要とする最小限,つまりはどのみち受け取ったらすぐ使わざるを得ない量の範囲では,住民の信認があれば流通する。しかし,商品流通界では役に立っても,その外に出れば無価値である。したがい,金貨のように蓄蔵されることはない。これが貨幣論の古典的命題である。

 しかし,人々がカネゴンのように行動すればどうだろう。今回のカネゴンは「星元ペイ」という地域電子マネーをため込み,決して使おうとしない。これは代用貨幣を蓄蔵していることにならないのだろうか。代用貨幣も,お金を貯めたいという気持ちが人々に強ければ蓄蔵されるのではないだろうか。これが問題である。

 さて,カネゴンの行動原理は独特である。価値のない代用貨幣に絶対的価値を見出しているか,あるいは代用貨幣に「美味しい」という独特の使用価値を見出しているために,お金をひたすらため込むのである。カネゴンはため込んだお金を使わない。だから,もしインフレが起こってもカネゴンにとっては1万円は1万円であり,価値が目減りしたとは感じないだろう。商品と交換することがないからである。

 これに対して人間が代用貨幣をため込むのは,ため込むこと自体に意義を見出しているのでもないし,美味しいからでもない。まず背景として,お金が流通しにくくなり,個々人や企業の手元で遊休するのは不況だからであり,企業が生産的に資本を投下しても利潤を得られないからである。実物資産に投資して事業を行っても利潤を得られそうに社会状況であるからこそ,個人や企業は,他の形態でなく,いざとなればなんにでも転換できる貨幣のままで財産を保持しておこうとする。これを経済学では「流動性選好」と呼ぶ。しかし,これは結局何かに転換しようとしているから持っているのであって,経済が本格的に回復しなくてもわずかなきっかけがあれば,個人は貨幣を他の形態の財産に移し替えたり消費したりしてしまうだろう。その際に,インフレで目減りするリスクにもおびえざるを得ない。流動性選好とは結局は使うために貨幣を持つことであり,このとき代用貨幣は商品流通界内で一時的に休息しているだけと言ってよい。

 ただ,事態はもう少し複雑だ。流動性選好によって代用貨幣を保有するとしても,代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,その通貨価値は常に変動リスクにさらされている。一方,資本主義経済では,実体経済に投資しなくとも金融資産で稼ぐことが可能である。そのため個人や企業は,金融資産の保有と売買による価値増殖を図る。これが「金融資産選好」である。金融資産価格が上昇し続けている間は,代用貨幣は金融資産の買い手と売り手の間だけを行き来し,いわゆる金融的流通に閉じ込められる。しかし,金融資産価値の価値は擬制的なものである。正確に言えば,もともと実体的な価値の裏付けを持つが,膨張するにつれてその基礎から離れていくものである。実体経済の収入が資本還元されて擬制的価値を持つ証券となり,さらに証券市場での売買によって擬制的価値は増殖する。証券が担保となってされに別種の証券が発行されるといった具合である。擬制資本価値は投機によって増殖するが,行き過ぎればどこかで崩壊せざるを得ない。崩壊とともに代用貨幣は金融的流通からはじき出され,やはり商品流通界に戻らざるを得ない。

 だから,人間は金貨は蓄蔵できても,カネゴンのように代用貨幣を蓄蔵することはできない。その理由は,カネゴンは代用貨幣にも絶対的な価値を見出せるが,人間は代用貨幣それ自体には価値がないという事実に振り回されるからである。流動性選好によってお金をため込むことはできても,それはやがて使うためであるし,インフレにも警戒しなければならない。金融資産選好によってお金をため込むことはできても,擬制資本価値はいつ崩壊するかわからない。代用貨幣は蓄蔵されるのではなく,商品経済界に戻る機会をうかがいながら,一時的に遊休するか,金融的に流通しているのである。





2024年9月6日金曜日

日本製鉄のUSスチール買収によってアメリカの安全保障が脅かされるのか?:ミッタル・スチールという前例から

 アメリカ政府の対米外国投資委員会は,日本製鉄のUSスチール買収が,国家安全保障上のリスクを生じさせるとする書簡を両社に送っていたという。日米同盟の絆と言われるものは,経済ナショナリズムとそれを利用した大統領選挙の都合によって簡単に覆されてしまうのだと,言わざるを得ない。

 いや,鉄鋼供給を外国企業に握られることに脅威を感じるのはもっともだという人がいるかもしれない。しかし,21世紀初頭にミッタル・スチール(現アルセロール・ミッタル)がアメリカで大規模買収を行った際,インド人オーナー一族がルクセンブルクに本社を置く企業であることによって,アメリカの安全保障は脅かされただろうか。当時買収されたのは,インランド・スチールとインターナショナル・スチール・グループ(ISG)であった。ISGの傘下にはベスレヘム・スチール,LTVスチール,ウェアトン・スチール,アクメ・スチールがあった。ちなみに売り払ったISGのオーナーはウィルバー・ロス氏であり,彼は後にトランプ政権の商務長官となって海外鉄鋼メーカーを非難する側に回った。

 大規模な前例から明らかだ。21世紀の今日,自動車用鋼板やブリキ鋼板や建設用鉄骨を製造する鉄鋼メーカーが友好国企業に買収されたところで,アメリカの安全保障に問題が生じるわけではない。あくまで問題だと言い張るならば,それは政治的都合にすぎない。

 日米同盟が,アメリカから見てどの程度のものであるのかを,私たちは冷静に見極める必要がある。

2024年9月5日木曜日

日本製鉄がUSスチール買収完了後のガバナンス方針を発表:買収が成立しても種々の問題は続く

 日本製鉄が,USスチール買収完了後のガバナンス方針を発表した。USスチールを買収しようとする場合,雇用維持,米国内での設備投資,地域社会との共存等々を求められることは最初から見えていたが,トランプ,ハリス両大統領候補やバイデン政権の反対方針が伝えられるに及び,一層強いコミットメントを発せざるを得なくなったようだ。以下,発表とは順序を変えながらコメントする。

 「日本製鉄はUSスチールに高度な生産および技術能力を供与します。これには、高炉におけるCO₂排出削減技術も含まれます」。これは約束するまでもなく当然そうするつもりであったろう。とくにハリスが大統領になった場合,アメリカはパリ協定にとどまり続け,高炉のCO2排出削減は強く求められるであろうからだ。

 「日本製鉄は、米国の鉄鋼市場において、USスチールの米国国内生産を優先します」というのは,日本から輸出ドライブはかけないという意味であろう。そのためにはUSスチールの生産拠点を強化しなければならない。

 「USスチールの既存の生産拠点への大規模な投資の実行」のうち,老朽化したモンバレー製鉄所への投資は負担になる。ただ,圧延・加工工程への投資に見えるので,とくに老朽化の激しいコークス工場や高炉・転炉のリフレッシュを約束させられるよりは経営合理性があるだろう。ゲイリー製鉄所の第14高炉改修は,もっとも健全な高炉一貫製鉄所をリフレッシュするわけだから,まず問題ない。なお,ここに書いていない大規模製鉄所だが,ビッグ・リバー・スチールはもとより最新鋭の高級鋼材も作れる大型電炉ミルであるから言及するまでもないのであろう。あと二つ,ナショナル・スチールから買収したグレートレークス製鉄所とグラニットシティ製鉄所があるのだが,前者はコロナ禍以来,高炉・転炉が休止されている。後者は高炉・転炉も動いているが年産200万トン以下である。言及してないということは,これらの扱いは争点になっていないのだろう。

 「USスチールの生産や雇用の海外移転は行いません」「本買収に伴うレイオフ、工場休止・閉鎖は行いません」というのは,日本製鉄にとって負担となる。モンバレーの老朽製鉄所を閉鎖することが困難になるからだ。逆に言えば,中西部の鉄鋼関係者や製鉄所地域の人々にとっての勝利である。

 このことは,むしろ日本の関係者に問題を突き付けているだろう。日本製鉄は日本でレイオフこそ行わないものの,「生産や雇用の海外移転」「工場休止・閉鎖」を進めているからだ。現に瀬戸内製鐵所呉地区では,高炉一貫生産システムを丸ごと閉鎖した。日本製鉄は日本でよりも,アメリカでの方が,強く生産維持のコミットメントを発している。また,「工場を閉鎖せずリフレッシュし続けよ」という社会的圧力は,本国である日本よりアメリカで強くかかっている。むしろ,日本の鉄鋼関係者や製鉄所地域はそれでいいのかということが問われている。

 しかし,モンバレーを維持し,圧延・加工工程だけリフレッシュして,それでどうなるかという問題がある。コークス工場や高炉・転炉に競争力がないまま動かし続ければ,輸入品やミニミル品との競争に敗れることは必至である。そうすると次のコミットが意味を持ってくるかもしれない。

 「USスチールの取締役の過半数は、米国籍とします」と「USスチールの通商措置に関する意思決定に対して、日本製鉄およびNSNAによる干渉がなされないことを確実にするため、通商措置に関する決定は独立取締役の過半数の承認を必要とすることとします」の組み合わせは,日本製鉄の足かせとなる可能性がある。端的に,USスチールが日本製鉄に対してアンチ・ダンピング訴訟を起こすかもしれないからだ。そんな馬鹿なと思う人がいるかもしれないが,前例がある。かつてNKKはナショナル・スチール(現在はUSスチールの一部)を子会社としていたが,ナショナル・スチールは通商訴訟においてNKKを訴えていた。子会社は親会社を訴え,親会社は子会社の主張が間違っていると抗弁していたのだ。NKKは結局,ナショナル・スチールをコントロールしきれずに手放した。

 日本製鉄は当然このことを知っているので,同様の事態を避けたいはずである。しかし,仮に反対の政治的圧力を乗り越えて買収を実現したとしても,このコミットメントが摩擦の発火点になる恐れがある。

「日本製鉄によるUSスチール買収完了後のガバナンス方針について」日本製鉄株式会社,2024年9月4日。
https://www.nipponsteel.com/news/20240904_050.html



2024年8月25日日曜日

上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年を読んで

 上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年。政治学の観点から気候変動対策をめぐる国際関係を論じた著作である。以下で述べるように,内容には勉強になった点も疑問点もあるが,何よりも地球温暖化問題が国際政治の容赦ない利害関係と駆け引きの中にあることを知るという点で,有益な一冊であった。

 一応経済学者である私にとっては,「政治」という視点からはこう見えるのかというところが勉強になった。とくに印象的だったのは2点だ。ひとつは,アメリカの気候変動対策がオバマ政権の「クリーン電力計画」からトランプ政権を経てバイデン政権の「インフレ抑制法(IRA)」に着地するまでの政治力学の作用である。なぜ気候変動対策が「インフレ抑制」という看板に含まれているのかが理解できた。もうひとつは,温室効果ガス(GHG)排出削減政策が,対策がほどこされていないがゆえに価格が安い輸入品の増加を招いてしまう,いわゆる「カーボンリーケージ」についてである。具体的にはカーボンリーケージ対策としての国境炭素調整(BCA)と自由貿易との関係がまだついていないこと,さらにBCAの方式が国によって異なることから対立が生じやすいことが理解できた。

 惜しいのは,温暖化対策がもっぱら「コスト」として把握されていることだ。たとえば住宅断熱や再エネの拡大,次世代製鉄や次世代モビリティへの置き換えは「投資」でもあって需要を作り出すのだが,本書にはその観点がない。政治に即して言えば,温暖化をめぐる政治主体の行動が,主張の説得力で正当性を得て支持者を増やしつつ,コストは最小化したい,というものとしてとらえられている。しかし,各国の政治家は,温暖化防止スキームのもとでGHG排出削減のために生活切りつめを国民に求めるのではなく,グリーンな経済・社会開発を実現し,雇用と所得を確保することで支持を得ようとする。この動きを把握しなければならないのではないか。温暖化対策をコスト負担をめぐる政治とみてしまっているところが,本書の叙述をせまっ苦しいものにしていると,私には思われた。


出版社ページ

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/06/102807.html



大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...