川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感。
私がオーウェルを読みふけったのは大学院生の頃であり,つまりは社会主義というものを単純にではなく,もっと様々な角度から理解しなければならないと思っていた頃である。今は時代と人生が一回りして,かえってプリミティブなことを赤面もせずに書くようになったが,当時は一応,物事は単純ではないという方向に頭が向いていた。『1984年』は最初,自分の持ち物でないハヤカワ文庫で読み(SF研の部室にあったのかもしれない),その後に早川書房のハードカバーを蔵書にした。本棚にオーウェルコーナーをつくるくらいには大事にしていた。だが,文庫本の棚に入れていた角川版『動物農場』を失くしてしまったのが痛い。
川端氏(親戚ではない)の著書はオーウェルの伝記としてコンパクトながら詳細である。今回読んだおかげで,自分がオーウェルを読んで何をどう思ったのかをいくらか思い出せた。本書がオーウェル研究史の中でどういう位置にあるのかは,残念ながら私にはわからない。
この書物は,副題にある通りオーウェルの思想を「人間らしさ」への賛歌に代表させている。ここで「人間らしさ」というのはdecencyである。イギリス英語の文脈は私には全く分からないが(本当に教養がない),話としてはうなずける。しかし,腑に落ちないのは,本書が『動物農場』や『1984年』に見られる,「ディストピアの言語学」,「言語決定論」,つまりは言語による思想支配に対して,「人間らしさ」を対置して終わりとしているように見えることだ。対置すれば言語による支配を免れるというものだろうか。
著者はわざわざ「ニュースピークの実現(不)可能性」という項を設けて,「権威主義的言語がいかに『単声』たることをめざしても,それがこの小説の形によって権威をはぎとられる」として,オーウェルは「ディストピア世界を描きながら,その裂け目を広げる道を示唆している」という。それは,確かにそうだろう。しかし私には『1984年』は,それがどんなに困難な道であるかをも示した作品だと思える。言語による思考と感情のコントロールは,拷問によってウィンストンに心にもないことを言わせるのではなく,本心からビッグ・ブラザーを愛するところまで持っていくのである。「人間らしさ」も,党は党なりに定義してこれを回収しようとするだろう。そうした権力と言語の結合が,当時のソ連のみならず,現在でも世界に広く行き渡って一定の威力を発揮しているのはなぜなのか。何にどう依拠すれば,そこに裂け目が見つかるのか。どうすればそれは押し広げられるのか。それは,私には非常に困難な課題であり,悲観的にならざるを得ない課題のように思える。正直,「人間らしさ」でどうにかなるならば,ソ連も中国も北朝鮮もトランプも安倍晋三も何とかできただろう。それが容易でないから,どう容易でないのかを考える必要があるのではないか。
本書は,おそらく精緻なオーウェル伝として優れているのだろう。けれど,私個人の読後感としては,言語のディストピアに対して「人間らしさ」で歯が立つような気がしなかったのだ。