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2020年8月21日金曜日

川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感

 川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感。

 私がオーウェルを読みふけったのは大学院生の頃であり,つまりは社会主義というものを単純にではなく,もっと様々な角度から理解しなければならないと思っていた頃である。今は時代と人生が一回りして,かえってプリミティブなことを赤面もせずに書くようになったが,当時は一応,物事は単純ではないという方向に頭が向いていた。『1984年』は最初,自分の持ち物でないハヤカワ文庫で読み(SF研の部室にあったのかもしれない),その後に早川書房のハードカバーを蔵書にした。本棚にオーウェルコーナーをつくるくらいには大事にしていた。だが,文庫本の棚に入れていた角川版『動物農場』を失くしてしまったのが痛い。

 川端氏(親戚ではない)の著書はオーウェルの伝記としてコンパクトながら詳細である。今回読んだおかげで,自分がオーウェルを読んで何をどう思ったのかをいくらか思い出せた。本書がオーウェル研究史の中でどういう位置にあるのかは,残念ながら私にはわからない。

 この書物は,副題にある通りオーウェルの思想を「人間らしさ」への賛歌に代表させている。ここで「人間らしさ」というのはdecencyである。イギリス英語の文脈は私には全く分からないが(本当に教養がない),話としてはうなずける。しかし,腑に落ちないのは,本書が『動物農場』や『1984年』に見られる,「ディストピアの言語学」,「言語決定論」,つまりは言語による思想支配に対して,「人間らしさ」を対置して終わりとしているように見えることだ。対置すれば言語による支配を免れるというものだろうか。

 著者はわざわざ「ニュースピークの実現(不)可能性」という項を設けて,「権威主義的言語がいかに『単声』たることをめざしても,それがこの小説の形によって権威をはぎとられる」として,オーウェルは「ディストピア世界を描きながら,その裂け目を広げる道を示唆している」という。それは,確かにそうだろう。しかし私には『1984年』は,それがどんなに困難な道であるかをも示した作品だと思える。言語による思考と感情のコントロールは,拷問によってウィンストンに心にもないことを言わせるのではなく,本心からビッグ・ブラザーを愛するところまで持っていくのである。「人間らしさ」も,党は党なりに定義してこれを回収しようとするだろう。そうした権力と言語の結合が,当時のソ連のみならず,現在でも世界に広く行き渡って一定の威力を発揮しているのはなぜなのか。何にどう依拠すれば,そこに裂け目が見つかるのか。どうすればそれは押し広げられるのか。それは,私には非常に困難な課題であり,悲観的にならざるを得ない課題のように思える。正直,「人間らしさ」でどうにかなるならば,ソ連も中国も北朝鮮もトランプも安倍晋三も何とかできただろう。それが容易でないから,どう容易でないのかを考える必要があるのではないか。

 本書は,おそらく精緻なオーウェル伝として優れているのだろう。けれど,私個人の読後感としては,言語のディストピアに対して「人間らしさ」で歯が立つような気がしなかったのだ。



靖国神社への閣僚参拝は「中韓から言われること」だ

  靖国神社に参拝した衛藤晟一領土問題担当相が「われわれの国の行事として慰霊を申し上げた。中国や韓国からいわれることではないはずだ」と発言したそうだ(「衛藤担当相 靖国参拝「中韓からいわれることではない」 記者に反論」『産経新聞』2020年8月15日)。

 何を言っているのだろうか。靖国神社は中立的な慰霊の場所ではない。大日本帝国が行った戦争を自衛のためのやむを得ざるものと肯定する特定の歴史観を宣伝する団体である。大日本帝国に尽くした軍人・軍属だけを祀る神社である。

 だから,閣僚がそこに参拝することを中国や韓国が批判するのは当たり前である。仮にそれが正しいと認めるかどうかは別にしても,「中韓からいわれること」なのである。衛藤担当相は,批判が間違っていると思うならば,「靖国神社の戦争観が正しい。大東亜戦争は自衛戦争であった」と堂々と言ってみてはどうか。それがさすがに無理だから,靖国神社に特定の価値観はないかのように言い張ってごまかしているのではないのか。


教育基本法第9条2項の規定を教員の解雇を制限する根拠とした奈良地裁判決

 田中圭太郎「奈良学園大学、学部再編失敗し教員大量解雇…無効判決で1億円超支払い命令、復職を拒否」Business Journal,2020年8月16日。

 ・この報道の通りだとすれば,教育基本法第9条2項の規定を教員の解雇を制限する根拠とした点で重要な判決と思う。

・ただ,専任教員と再雇用教員で判決が異なった理由はよく検討する必要があると思う。職責の区分ならばあり得るが,正規・非正規の身分差によるのであれば問題が残る。

・私学の理事会であれ国公立の理事会であれ,「ガバナンス改革」と称して裁量的経営を推進するのは経営学のイロハを知らない所業である。確かに経営者には一定の権限が必要だ。しかし,経営者は組織の主権者ではない。だから営利企業でも,株主主権なのか利害関係者統治なのかが問題になる。大学においても,経営者の経営裁量を誰がどうチェックすべきか問われねばならない。教員という専門家集団によるチェックは,依然として必要である。

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教育基本法

第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。


2020年8月13日木曜日

PCR検査を拡充すべき範囲と拡充すべきでない範囲

  何だか報道の様子がおかしいので(FNN「グッディ!」のこと。FNNプライムオンライン,2020円7月30日。),もう一度思考を整理したい。素人談義をしたくないのだが,それにしてもこの報道は混乱しすぎていると思う。


PCR検査を拡充すべき範囲
*感染が流行している地域でPCR検査のキャパシティを上げるのは当然だ。
*医療従事者などハイリスクの職場で働く人に定期検査をするために検査を拡大するのも,よい。
*「かかりつけ医が必要と認めた人全員に検査する」のも必要だ。東京都医師会が地域PCR検査センターでやっているのはこれである。

 これだけでもかなりの拡充が必要なことは,東京都医師会の奮戦ぶりから分かる。それは意味のある拡充だ。

PCR検査を拡充すべきでない範囲
*「住民全員に検査をする」という目標は不適切だ。だから世田谷区が「誰でも,いつでも,何度でも」をめざすのは適切でないと思う。

理由

*感染者は超大まかに二つの観点で分けられる。
1)a)8割の感染者は人にうつさず,b)2割のスプレッダーがうつす。
2)c)症状があって苦しんでいる感染者と,d)無症状の感染者がいる。無症状でも人にうつすことはある。
*1)では,a)8割の方を検査で判別しても,その人は治療できるが,感染拡大防止という点では効果がない。b)2割の方を見つけて,初めて拡大が防止できる。2)については,当たり前だが症状があって苦しんでいる人に適切な治療しなければならない。
*医者の前にいる一人の患者に症状があって感染が疑われた場合,まずc)の感染者かどうかを検査で確認するが,それだけではa)の8割かb)の2割かわからない。しかし,感染拡大地域ではb)であることを疑う価値がある。
*だから,PCR検査で発見しなければならないのは何よりもb)と,感染拡大地域でのc)である。そのために必要なPCR検査とは,第1にクラスターの発見と追跡のための検査,第2に医師が「感染しているかも」と判断した患者への検査だ。そこまでできるように政府・自治体は全力を挙げるべきだ。
*しかそれ以外のところに検査を広げるために,人と金と労力を投入すべきではない。そんなことをすれば行なうべきクラスター追跡や発見すべき患者の発見に集中できなくなる。検査を進めれば陽性率は下がるし,a)の8割かつd)の無症状の人を発見することになり,その人たちの隔離・治療に力を取られるからだ。感染拡大防止にはb)の2割の発見と隔離が大事なのに。その上,医師の診断を抜きに検査すれば偽陰性の率も上がり,「偽りの安心」問題に対処しなければならなくなる。
*前にも書いたが,PCR検査は簡便な市販薬のようなものでなく,処方薬のようなものだ。処方薬は医師が「この人病気だからこの薬を出しましょう」と決めるから役に立つ。PCR検査も医師やクラスター対策班が「この人(集団)が危ういから検査しましょう」と決めて役に立つのだ。「全員PCR検査しろ」は,薬に例えて言うと,処方薬なのに「医師の診断など要らないから,飲みたい人全員が飲めるように薬を店に置け。病院と薬局の他の仕事を止めてでも,そのことに金と労力を割け」と言っているのと同じであると思う。

※東京都医師会が行っているPCR検査が画期的なのは,「帰国者・接触者 電話相談センター」を通さなくても,かかりつけ医の判断によってPCR検査を実行できることだ。ただし勘違いしてはならないのは,医師をすっ飛ばして誰でも検査を受けられるものではないということだ。
概念図
https://www.tokyo.med.or.jp/wp-content/uploads/application/pdf/20200527-taiou.pdf

「PCR検査を「誰でも いつでも 何度でも」社会活動継続のための検査体制を独自に目指す…大注目の“世田谷モデル”とは?」FNNプライムオンライン,2020年7月30日。
https://www.fnn.jp/articles/-/68692

2020年7月30日木曜日

PCR検査の要諦は「よく索敵して,敵がいそうなところを集中的に打て」「索敵能力のあるやつを育てろ」ではないか

素人談義を承知で,「専門家が言いたいことの話の筋はこうなのではないか,マスメディアがやっているPCR検査の議論は,そこから脱線しているのではないか」という推定をする。

 専門家が何度も言っているのにメディアが無視していることが二つあると思う。

 1)PCR検査は事前確率の高い,不正確を承知でおおざっぱに言えば「専門家が『感染していそうで危うい』と思った」集団に対して行わないと意味も効果もない。

 2)『危うい』集団を見つける専門家をふやさねばならない。まずは専門医だが,それだけでなく実地疫学専門家。これも不正確を承知でおおざっぱに言うと,「厚労省や保健所にいてクラスター・濃厚接触者追跡ができる人」。国立感染症研究所の実地疫学専門家養成コース(Field Epidemiology Training Program:FETP)で育成される。医師でなくとも看護師,臨床検査技師,薬剤師なども受講できる。

 感染してそうな「危うい集団」をみつけてPCR検査する。そういう集団を見つけられる専門家を増やす。本来,単純な話である。ところがメディアは「危うい集団を見つける」「見つけられる人を増やす」ことの重要性を話題にせずにPCR検査を「増やす,増やさない」の話をする。これでは話は頓珍漢な方向に飛ぶ。

 あえて,もっとおおざっぱに言う。ここが戦場で,ウイルスが隠れている敵だとする。普通,敵がどこにどれほどいるか見当をつけて,弾丸という名の検査を撃つし,射撃の規模や,弾丸の補給の見通しも考えるだろう。「敵がどこにどれほどいるか」という話をせずに「もっと撃つべきか,撃たざるべきか」という議論をしては駄目なのはすぐわかる。

 「敵が増え続けているらしいが発見できない」というときに,「とにかくたくさん撃て」「今の10倍撃て」「100倍撃て」では,当たりもしないし弾切れを起こすだろう。緊急には「よく索敵しろ」だろう。そして必要なら「敵がいそうなこの方向に集中して撃て」だ。そして,もう少し長いスパンでは「補給線を太くしろ」と「索敵能力のあるやつを育てろ」だろう。

 マスメディアの議論は,肝心なところから脱線して,余計な論点をぐるぐる回っているように,私には見える。私は,詳細な論点を正確に論じる力はないが,この脱線だけはしたくないし,メディアには何とかしてほしいと思う。

2020年7月15日水曜日

中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的

 『日本経済新聞』2020年7月15日付報道COINPOST同日付記事によれば,日本政府は,中央銀行デジタル通貨(CBDC)の発行を検討することを「骨太の方針」に盛り込むとのこと。実は今月2日には日本銀行決済機構局から「中銀デジタル通貨が現金同等の機能を持つための技術的課題」というレポートも出ている。
 大いにやればいいと思うのだが,CBDCについての経済学的検討がどのくらいなされているのかが不安である。不安になる理由は,上記のレポートも含めて,CBDCには「口座型」と「トークン型」があると,両者が対等に扱われているからだ。私の意見では,両者にはすさまじい差がある。口座型(預金のデジタル化)はまったく不合理であり,CBDCはトークン型(現金のデジタル化)に絞って検討すべきだと思う。
 口座型とは,要は個々人が中央銀行に直接口座を開設し,デビットカードや,デビットカード式電子マネーで買い物をするということである。技術とプライバシーについては,そんな集権的口座管理ができるのか,望ましいのかという問題がある。また経済的には,これは,事実上,民間銀行の個人向け預金業務を準国営化(中央銀行への集中)するものである。これをわかった上で議論したり記事にしたりするならいいのだが,おそらく気づいていない人が多い。なぜデジタル化のついでに預金を国営化する必要があるのか。
 対してトークン型とは,要は現金が電子信号化されて,スマホに入れて持ち歩けるというものである。技術とプライバシーについては,分散型台帳が必要であり,プライバシーを守りつつ頑強なしくみをどうつくるかが課題である。経済的には,リテールの口座振り込みやクレジットカード払いが激減して現金取引が激増することが予想される。スマホに入っているトークンを簡単に送金できるからだ。しかし,そういう変動はあっても,民業との競合や国営化とかの問題はない。

 だからトークン型の方がはるかに合理的だというのが私の意見である。


私見について,詳しい検討はこちらをどうぞ。


2020年7月10日金曜日

国債発行はカネのクラウディング・アウトを起こさないが、都債を含む地方債発行は起こし得ることについて

 国債発行による中央政府の支出増は,カネのクラウディング・アウト(金利の上昇)を起こさない。このことはMMTの信用貨幣論に即して,以前に論じた()。他方,地方自治体は通貨発行権を持っていないので,地方債の発行による資金調達は民間資金需要と競合し,カネのクラウディング・アウト(金利の騰貴)を起こす可能性がある。ここではこの違いを考察する。
 中央政府の場合,政府が国債を発行して銀行に引き受けてもらうと,銀行の日銀当座預金(超過準備)が減少し政府が日銀に持つ政府預金(国庫)が増大する。そして,政府が赤字支出をするとマネー・ストック(通貨供給量)が増える。具体的には政府がモノ・サービスを購入するので,販売した企業の銀行預金が代金分だけ増え,銀行が政府から代金を取り立てる。取り立てると銀行の日銀当座預金が増えて政府預金が減る。結果,日銀当座預金はプラスマイナスゼロとなる。インターバンクの短期金融市場にも,もちろん民間の金融市場でも需要超過はないので金利は高騰しない。
 地方自治体の場合はこれと異なる。地方自治体は日銀に口座を持っておらず,市中銀行と取引をしている。自治体が地方債を発行して銀行に引き受けてもらうと,自治体が銀行に持つ預金口座にお金が振り込まれる。この時,銀行は資産側に地方債,負債側に預金を加えてバランスシートを膨らませる。預金通貨が増えるのでマネー・ストックは増える。自治体が赤字支出をすると,自治体の預金は減り,モノ・サービスを販売した企業の預金が増える(単純化のために自治体と企業は同じ銀行に口座を持つとする)。
 地方自治体が地方債を発行して赤字支出をした場合,マネーストックが増えるところは政府の場合と一緒だが,理由が異なる。マネーストックが増えるのは,政府の場合は赤字支出したこと自体が理由であるが,地方自治体の場合,銀行が地方債の代金として預金通貨を創造したからである。銀行の貸し出し金額や債券購入額には,借り手のリスクの存在や銀行の流動性調達能力に制約されて上限がある。このため,地方自治体による借り入れと民間の借り入れは同一次元で競合する。つまり,地方債発行による赤字支出は,カネのクラウディング・アウトを起こし得るのである。
 政府の借り入れと地方自治体の借り入れではこんなにもお金の流れが違っている。その本質的な理由は,通貨発行権を持つ政府は,自分=統合政府=中央銀行の手形を切り,政府の債務を増やすことで支出できるのに対して,地方自治体は銀行から貸し付けてもらい,預金という銀行の手形を手に入れなければ支出できないからである。政府が自分の手形を切る行為は誰とも競合しない。しかし,地方自治体が銀行の手形を手に入れる行為は銀行の手形を欲しがる他の民間の主体と競合するのである。





2020年7月4日土曜日

公立小中高でオンライン授業がほとんどできなかったことを深刻に受け止めるべき

 横山耕太郎「忖度ばかりの学校現場、教師が激白『オンライン導入は永遠に潰され続ける』」Business Insider, 2020年6月25日によせて。申しにくいのですが,あえて書きます。
 大学は改革疲れで疲弊しているのですが,コロナ危機に際して,多数の教員がオンライン授業をしなければと思い,実際に行いました。国に無理くりやらされたのではなく,各大学で何とかしなければと思って実行しました。不十分なことはわかっていますが,とにかく正規の授業を止めずに実施しました。文科省がオンライン授業を規制しないかと心配しましたが,それでも半ば勝手に始めました。これからも不安材料はいっぱいですが,ほんの少しは自慢したいです。
 対して,ほとんどの公立の小中高ではオンライン授業ができなかったそうです。やる気のある先生や学校が自発的にやろうとすると「教育委員会に相談すると、『一校だけ先行するのはよくない』と言われました」と止められたのだそうです。
 しかし,この時代,オンライン授業ができないというのは「感染症が流行しているから仕方がない」といって良いのでしょうか。私は違うと思います。ハードやソフトやスキルが神様みたいになくても,できるのです。これは,「やるべきことをやっていない」状態ではないでしょうか。いや,もちろん,いま現在の学校の体制や設備では,がんばってもできなかったことも多かったでしょう。そういう学校や,そこで働く先生を責めてはならないと思います。でも,「このままではダメだ」「二度と同じことをしてはならない」と確認する必要があると思います。
 大学では一応できて,公立の小中高ができなかったという違いは,大々的に取り上げねばなりません。公立学校でオンライン授業ができないのはダメなことであり,日本の教育にとって許されない一大事であり,お金も人も配分して改善しようという社会的合意を作る必要があります。なぜ大学ではできて公立の小中高でできないのか。何が足りないのか,どう補わねばならないのか,直ちに政策化する必要があります。
 それさえできずに休校のあり方,入試の日程ばかり議論するというならば,日本はもはや教育熱心な国とは言えないでしょう。


2020年6月22日月曜日

ジョブ型雇用を妨げているのは労働時間管理ではない:『日経』の記事について

本日の『日経』1面(有料記事だが登録すると月10本無料で読める)「ジョブ型」労働規制が壁」(林英樹記者)

 たいへん申しにくいが,「働き方改革」について,ここ2,3年の『日経』本紙の記事はおかしい。別にリベラルや左派でないから悪いとか言っているのではない。制度の理解があさっての方向に外れている。しかもそういう記事がしばしば1面に載っている。

 「ジョブ型雇用」を「企業が職務内容を明確にして」処遇するというのはいいが,「成果で社員を処遇する」が余計である。ジョブ型かメンバーシップ型かは成果主義かどうかとは関係ない。仕事内容をマニュアル化して,これをやったら時給いくらだよという単純な時間給アルバイト雇用もジョブ型である。そのポイントは成果主義ではなく,「誰がやっても同じ賃金」ということであり,年齢,勤続,学歴,正社員か否か,いわんや性別に一切無関係に支払われるということだ。ジョブ型かつ成果給だと「誰が挙げても成果は成果」となる。そのポイントも「誰があげたのかは関係ない」という匿名性であって,労働時間とはまた別のことだ。

 次に,「成果より働いた時間に重点を置く日本ならではの規制」というのもおかしい。先進国や発達した新興国で,労働時間規制がない国などないし,日本が無闇に厳しいわけでもない。
 確かに時間管理が難しい仕事はある。冒頭に出てくるIT企業に勤める女性が「パソコンやスマートフォンの操作履歴を会社に把握され,午後5時の就業後にメール1本遅れなくなった」は,テレワークで課題になる,働いたり休んだりが細切れになり,夕方以後にも発生する場合への対処である。しかし,これは新たな時間管理方式が必要だということであって,時間管理をなくすべきだということではない。時間管理がない状態では,企業側は遠慮会釈なくノルマを課せるので,長時間労働はひどくなるだろう(学生さんのための例示をすると,オンライン講義において,総勉強時間の管理がない下で課題を出され放題の学生のような状態だ)。

 あらゆる職種に高度プロフェッショナル制や裁量労働制を導入しろというのも,制度をはき違えている。高プロや裁量労働制のポイントは「プロフェッショナル」と「裁量」であり,その意味は指示・命令がそぐわない仕事ということである。だから,時間を含めて自分で働き方を決めた方がいいということだ。それにふさわしい仕事には導入したらよかろう(本学の教員は専門業務型裁量労働制であり,私はそれでいいと思っている)。指示・命令により労働者を拘束して働かせる仕事は,たとえ「時間と成果が比例しない」にしても,拘束して働かせたことに対価を払わねばならず,拘束を過剰にして労働者の健康を損なってはならない。指示・命令を受ける仕事に高プロや裁量労働制を導入したら,長時間労働はひどくなる一方だ。現に裁量労働制なのに出勤時間があり,遅刻すると処罰される不適切制度も横行している。

 テレワーク下での労働時間管理は確かに難しく,改革しなければならない。成果主義がふさわしい仕事に成果給を導入して給料を上積みし,裁量的な仕事には裁量労働制を導入して自由裁量で働けるようにする必要はあるだろう。しかし,何もかも労働時間管理のせいにしてそれをなくしてしまうのでは,筆者が労基法のせいにしている「長時間労働を美徳とする企業文化」はますますひどくなるだろう。


2020年6月15日月曜日

鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年を読んで

 鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年。「特撮の神様」円谷英二による特殊撮影によって名高い『ハワイ・マレー沖海戦』とその前後の戦時東宝特撮映画の系譜を描いた著作である。

 本書の主人公は特殊技術担当の円谷英二,東宝映画株式会社取締役の森岩雄,監督の山本嘉次郎であり,その周囲を,この映画に携わった様々な人々が取り巻いている。「働き盛りの男達が国家や軍部といった強大な力を有する相手を向こうに廻して,映画作りに奮闘する様子を追いかけていくのが本稿の主題となる」(7ページ)。と同時に本書は,その戦時という時代背景を書き込み,『ハワイ・マレー沖海戦』の前後の事情をも明らかにする。すなわち,戦争映画の製作によって東宝の特殊技術部門が拡大し,『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめとする戦意高揚映画が全盛期を迎え,敗戦とともに一瞬で消滅して戦後へと変転していく過程を描いている。主人公たちは,その波を積極的に担いながら,波に翻弄されるのである。

 類書をそれほど読み込んだわけではない私にも,本書は2点において重要な意義を持っているように思える。

 ひとつは,『ハワイ・マレー沖海戦』の製作過程を,キーパーソンの行動に即して明らかにし,とくにこれまで不明であった軍との関係を解明したことである。とくに著者は,本作品に関して語られる様々な「伝説」について詳細に資料を検討して,ある時はこれを覆し,あるときは裏を取り,ある時は新たな文脈に置きなおしている。例えば「軍事機密の関係で海軍側からの資料提供が得られなかったために,新聞に掲載された報道写真を参考にして真珠湾軍港のミニチュア・セットが作られた」という伝聞は誤謬であるという。一方で,確かに軍事機密の壁にぶつかったことも事実であるが,他方で,軍人にハワイのミニチュア作成の指導に当たってもらっていたのである。こういう,一見相反することが,どのようにして起こったのかが,製作過程に即して解明されている。著者のこうした考察は,軍艦資料の入手からミニチュアの縮尺率,さらに「1億人が見た!」と言われることの実情に及ぶ。とくに厄介なのは,円谷や山本自身の文章にも相矛盾することが書かれている場合であり,著者は当人の証言だからと言ってうのみにせずに検証していく。また,軍との協力に関する事実関係は,映画関係資料だけからではなく,軍の関係者が残した手記や伝記の方からも探求されていて,資料を多面的に用いることの重要性も感じさせてくれる。例えば上記のミニチュア作成の指導の件は,原田種寿・村上令『予科練教育―ある教官と生徒の記録』新人物往来社,1974年によって確認されたのだ。

 もうひとつの意義は,戦時東宝特撮の生成から消滅,そして戦後への変転を時間の経過に即して一気に描き切ることで,その短期間での変転の激しさ,異様さ,それを担いながらそれに翻弄された人々の複雑な思いを読者に提示したことである。当たり前のことだが,1942年12月の『ハワイ・マレー沖海戦』封切りから1945年8月のポツダム宣言受諾までは2年8か月,1948年3月の第三次東宝争議までは5年4か月しかたっていない。しかし,戦後に生まれ育った私のような人間は,社会科学者のつもりであっても戦時と戦後の断絶という「常識」的感覚のもとで生きており,戦時と戦後を,まったく異なる時代のように思ってしまうくせがついている。そうではなく,わずか5年の間に戦時特撮は高揚し,滅びて戦後に突入したのだと,本書はいやおうなくわからせてくれる。戦意高揚映画を作り続けていた数年後,山本監督は組合委員長に推挙されながら戦争責任を問われて辞することになり,屈折の中で生きる。宮島義勇カメラマンは一転して組合急進派となる。取締役の大沢善夫は,近代的な経営を目指して組合と対峙するようになるのである。翻弄されながら身を転じていくその姿を,著者は告発するでもないし,特撮技術が発達したからそれでよかったと肯定するだけでもない。森や山本や円谷がどのように時代の変化と,それをめぐる人間の態度の変化を受け止めていたのかを,その行動と残された証言から再構成し,『ハワイ・マレー沖海戦』の重みを明らかにしながら,その後ろめたさをも照射するのだ。とはいえ,森岩雄と円谷英二については,その寡黙さの前に,著者も立ちつくしているようにも見えるのだが。

 「現在ではクールジャパンの代名詞の一つとして扱われる『特撮』も『アニメーション』も,ともに誕生した直後には,そうしたきな臭い時代の風を満帆に受けることで技術的な躍進を果たしてきた事実」(8ページ)は消えない。そのことの受け止めについては,容易に結論を出せるものでもなければ出すべきでもないだろう。なので,その時代を生きた人々の歩みの複雑さを,複雑さとして受け止めることから始めねばならない。本書はそのための重要な,確固たる礎石であるように思う。

出版社サイト。
https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21687-4.jsp

『ハワイ・マレー沖海戦』Amazon Prime。



大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...