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2020年6月8日月曜日

あまりにも機能しないIT業界の多重下請けシステム

 IT業界における多重下請けシステムの機能不全が指摘され始めたのはいつからなのだろうか。アプリの世界ではすでにアジャイル開発が普通になっているのに,SIerを頂点とするシステムベンダーの世界はあまりに変わっていないように見える。
 多重下請けは製造業にも存在するし,ユーザーや元請けの側に交渉力があって下請けの負担が重いことは,日本のどこでも同じである。しかし,自動車部品などでは系列・下請け関係の中で製品のQCDと産業競争力が向上し,また1次サプライヤーが設計開発能力,さらには研究開発能力を磨いてきたことも事実である。IT業界は今後の産業構造変化をリードする立場なのに,QCDの面で下請けの負の側面ばかり目に付く。どうしてこうなるのか。学部の講義で系列・下請けの構造と変容を扱っているが,それは主に自動車部品を対象としており,いわば機能している下請けの話である。それと対比する意味で覚書にしておきたい。
 ひとつはユーザー側のIT部門が弱い。記事にもある通り,ユーザーの側で投入労働量が平準化できないことと終身雇用慣行の矛盾があって,人数をぎりぎりに絞っている。さらに社内および役所内でのIT部門の立場が弱く,ビジネスプロセス全体をITを使って変革する主導権を持たされていないし(国立大学大学で言うとハンコを失くす業務改革権限を持たされていないとか!),最悪,ビジネスプロセスがわからないのに要件定義をして発注する。その発注が開発コンペになっているのかどうかがよくわからない。役所では競争入札をして価格で決定しているのではないか。
 ここで元請けたる1次ベンダーがしっかりしていればいいのだろうが,1次ベンダーも人数をぎりぎりに絞っているために外注することになる。以下同じ。つまり,外注を「専門家に頼む」のではなく「投入工数の調整」を主要因として行っている。なので,本来ワンチームで行った方が効率的かもしれないところまで分割して外注し,ウォーターフロー式で開発する。そして,仕事があれば出し,なくなれば切るので,金の切れ目が縁の切れ目になりやすい。
 ウォーターフロー式とは開発の流れ作業であるから,仕様が確定していて不確実性がない場合は機能する。ところが,仕様変更,設計変更が頻繁に生じる。そこには,アプリの世界はもともと開発しながら新しいことを考え,使用も設計を変更していった方がよいものができるという積極的要因と,ユーザーの力がなくて要件定義のところが詰められていないという消極的要因がある。後者もあるとはいえ,アジャイル方式とオープンソースならば開発者の創意工夫によって提案され,開発プロセスにすぐ反映される。しかし,ウォーターフォール式かつ多重下請けなので,二つの欠点が起こる。一つは修正に時間と手間ばかりかかること。もう一つは,元請けから下請けへの一方的押し付けを通して変更が実行されることだ。コストは下請け持ちである。
 ユーザーと1次ベンダーの開発能力が量・質ともに低いということは,ユーザーとつきあい,1次ベンダーと付き合っても働かされるだけで勉強にならないということである。そしてアプリの世界ではユーザーと直接接していないとよいものがつくれない。なので,下請けシステムには学習機能がうまく働かない。
 それでもユーザーが1次ベンダーに発注して多重下請けに頼るのは,開発者が名目上は大手でないと不安だとユーザーが判断するからだ(『日経』の方の記事参照)。1次ベンダーは大手企業であり,トラブルに対する耐久力が強い。だから受注できる。仕事の質ではなく,規模によって受注できてしまうのだ。

シェア先
中島聡「なぜ、日本政府が作るソフトウェアは使えないモノばかりなのか?」MAG2NEWS,2020年6月3日。
https://www.mag2.com/p/news/453485

「コロナ接触確認アプリ、導入1カ月遅れの曲折」『日本経済新聞』2020年6月1日。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59771810Z20C20A5TJC000/

私には,オンライン講義において学生に重い課題を課す余裕などない

 この記事に書いてあることは,わかるようでわからない。
 私はもともとゼミ至上主義なので,大学院ゼミ・学部ゼミ・プレゼミには常日頃から重い課題を出すが,大講義では期末試験以外に重い課題を課したことはない。今回のコロナ騒動では,2月からオンライン講義の予感はしていたものの,実際に成り立つかどうか自体が不安だったので,重めの課題を課すことなどとてもできなかった。そもそも円滑に配信できるか,学生は視聴できるか,双方向対話できるかが見当もつかないところで,学生と教員の時間を長時間自動的に拘束するような課題を設定したら破滅だと思ったからだ。なので,出席点代わりの受講確認に自己申告受講確認アンケートとクイズだけを出すことにした。クイズの答えのところだけ動画を見て「受講しましたか」「はい」と答えるモラル・ハザードは可能だが,アンケート回答数とYouTubeアナリティクスを突き合せた感じでは,せいぜい210名中10-15名だろう。そのくらいはやむを得ない。
 そして,案の定,やってみたらオンデマンド型講義は,90分の講義それ自体の時間に加え,動画編集と配信設定で1回あたりで2時間程度余分な作業が必要になる。私の主担当講義は4単位なのでこれを週2回である。さらに,本来幸福なことであるが,意欲のある学生がリアル講義の5-10倍くらい質問・意見を出してくる。「手を上げる」とか「教壇にいる教員のところに歩み寄る」より「Google Formに書き込む」の方がずっとハードルが低いのだろう。それに答えるだけで毎週数時間を要する。いまもようやく先週金曜日の分へのリプライを書ききったところだ。この上,全員に回答させる課題など出すのは不可能である。

「オンライン授業で『学生の負担』増える理由 その原理を解説したイメージ図に共感『ほんとそれ』」Yahoo!Japan (Jタウンネット発)2020年6月2日。

2020年5月31日日曜日

「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」ことを可能にする制度的基礎について

 マクロ的な設備投資と在庫投資を「投資」とした場合,「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」。なぜそのようなことが可能なのだろうか。
 I=Sは誰もが認める恒等式である。もう少し進むと,ケインジアンは「投資が独立に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」と理解する。この時点で拒絶する人もいるかもしれないが,認める学者も少なくない。しかし,これを理論構築のための仮想と考えるか,実際の因果関係と見るかは,わかれると思う。
 実際の因果関係と見ると,当然,次のようにも言えてしまう。「事前に貯蓄があるから投資できるわけではない」ことになる。中間に利子率を入れると,「貯蓄が豊かにあれば(利子率が下がって)投資を促進するという関係は存在しない」ということになる。さらに,社会全体として「事前に貯蓄がなくても投資できる」ことになる。こうなると拒絶する学者,少なくとも現実をそのように説明しない学者も多いだろう。例えば,「日本の高度成長期には,豊かな個人貯蓄が企業の投資を支えた」という人は,事実上,投資先行決定を否定しているのである。
 しかし私は,投資の先行決定は単なる仮想ではなく,実際の因果関係だと理解している。それは,一定の制度的基礎と結び付ければ理解できる。
 その制度的基礎とは信用貨幣と銀行である。投資を,それまでに存在せず,あらたに創造された通貨で行うならば,ミクロ的には事前の預金,社会的には事前の貯蓄にまったく左右されずに投資が可能になる。つまり,マネーストックに含まれる(中央銀行や市中銀行の手元に眠っていない)発行中央銀行券か,市中銀行預金,(それが存在する国では市中銀行券)が,「必要に応じ,信用供与の際にゼロから創造される」ならば,企業が銀行から借り入れることによって投資を先行決定することができる。
 しかし,実務家はともかく,経済学者の過半数はこのように銀行を理解することに同意していない。多くの経済学者は(主流派であれマルクス派であれ),銀行を「事前に集めた預金を貸し出す」というモデルで理解している。信用創造を認める場合でも,まず本源的預金があって,その何割かを貸し付け,するとその一部がまた預金となり,またその何割かを貸し付ける,と理解する。
 だが,そこがちがう。私個人が違うと思うだけでなく,学説的には信用貨幣論,内生的貨幣供給論,銀行の「貸し付け先行説」によれば,違う風に通貨と銀行を理解できる。銀行は,もともと預金がなくても,貸し付けることによって,貸付先企業の預金を創造することができる。この行為により,預金通貨は増加する。もちろん,預金の引き出しに備えた手元流動性がなければ貸せないが,銀行が手元にもっている中央銀行券は,中央銀行当座預金をおろすことで入手したものであり,民間から集めた預金に由来するのではない。だから,銀行の貸付は,事前に預金がなくても実行できるのであって,むしろ貸し付けによって預金が創造されるのである。
 これは,企業が手形を発行して物を買うのと同じであり,何も神秘的なことではない。銀行は預金という手形(自己宛て債務)を発行して,貸し付けるのである。債務を返済せよと言われたら(=預金をおろしたいと言われたら)中央銀行券で渡しているのだ(※)。
 このように,通貨を信用貨幣論で理解し,信用貨幣供給を内生的貨幣供給論で理解し,銀行を「貸し付け先行説」で理解すれば,事前に貯蓄がなくても企業への貸し付けが行われ,企業が投資することが可能だとわかる。「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」というマクロモデルを,単なる仮想でなく現実の因果関係であると了解できるのだ。
 こうして考えると,常識的な観点もいくつか怪しくなってくる。例えば,「日本の高成長期の法人企業の投資超過=資金不足を家計の貯蓄が支えた」というのは間違いで,「企業が盛んに投資を行ったから家計に貯蓄が生まれた」ということになる。発達した資本主義国では,国内の貯蓄不足で投資が困難になるという事はないのである。
 ただ,対外関係が入ってくれば話は違ってくる。とくに発展途上国で国内の金融機構がぜい弱で信用創造が大規模にできない場合,投資の際に外貨による輸入が必要であったり,国内産業がぜい弱で投資が輸入の急増を招いてしまう場合などは,国内の信用創造だけによって投資を拡大することができない。海外からの借り入れや直接投資や援助によってこの制約を乗り越えていくことになる。ここに発展途上国の課題がある。ただ,このような状況は,通常は「国内貯蓄がないから海外からの借り入れもしくは援助が必要だ」と言われるが,これは不正確であろう。貯蓄がないからではなく,金融機構と国内産業がぜい弱だからというべきではないか。

※それでは中央銀行当座預金や中央銀行券という債務について,中央銀行に「返済せよ」とせまったらどうなるかというと,当座預金は中央銀行券で支払われ,中央銀行券は中央銀行券で払われるというトートロジーになるだけである。債務は,より信用度の高い債務で支払われる。管理通貨制の国の国内には,債務でない通貨はない。だから,最高の債務は何によっても支払われない。「債務証書でない,ちゃんとした本位貨幣で返済しろ」ということ自体が不可能なのが管理通貨制である。

2021年5月15日,最後の段落を改訂。

2020年5月24日日曜日

大企業を救済するために無差別資本注入を行うことに反対する

 政府系金融機関による劣後ローンや優先株で大企業を救済する案について,私は基本的な観点を述べておきたい。
 経営者に責任のない災害による経営危機であるから,劣後ローンでの支援まではありうると思う。また,公共交通機関である航空会社など特定分野の企業については,オペレーション維持のための救済はありうるだろう。ただし,程度の差があれ公的規制が入るのは当然だ。
 一方,大企業への無差別資本注入は賛成できない。資本注入とは,出資先企業の存続にコミットすることだからだ。
 産業や企業は永遠のものではない。このコロナ危機を経て,産業構造は当然に変化するだろうし,変化すべきとさえ言える。インフラ維持と弱者救済はするとしても,どのような大企業が生き残るかは,市場で決めねばならない。大事なことは,将来の新産業構造を担う企業を興隆させることであり,現存する大企業をまるごと守ることではない。両者は異なるものだ。近い将来のビジネスの担い手は,まだ創業していないかもしれず,今は中小零細企業かもしれない。それらが伸びる可能性を摘まないためには,既存大企業に資本注入して政府がその存続にコミットしたりすべきではない。優先株として資本注入しながら何も発言しない無責任経営はもっと悪い。日銀のETF購入と類似の誤りである。
 労働者,自営業主,市民は人間であるからその存在そのものが守られねばならない。自営原理が浸透している日本の中小零細企業にも救済の余地がある。しかし,大企業は人ではなく,人に奉仕すべき組織である。守られるべきは既存企業ではなく,明日果たされるべき企業の役割だ。守るべきは人間であり,生き延びた人間に選ばれてこそ企業は生きるべきである。

2020年5月23日土曜日

「現金給付、留学生は上位3割限定 文科省、成績で日本人学生と差」は誤報だと思う

 学生への現金給付金について,留学生にだけ厳しい成績要件がついていると報道されている件。文科省の資料を見つけたが,幸いにして誤報だったようだ。

 どういうことかというと,文書には細かく書いてあってわかりにくいのだが,端的に「奨学金の基準を適用する」ということと読める。公的な奨学金は日本人学生と留学生で制度が異なるので,今回の要件も異なって来ざるを得ず,別々に書いているのだろう。日本人学生は1)高等教育の修学支援新制度あるいは2)第一種奨学金(無利子奨学金)あるいは4)民間の支援制度を利用しているか利用を予定している者で,留学生は「学修奨励費」(「学習奨励費」の誤字ではないか)と同様の基準を満たす人,ということだ。どちらにも成績と収入の基準はあるので,双方に奨学金の基準を使う分には,差別ということはないだろう。

 日本人学生については卒業まで奨学生でいられるので「奨学金を利用している」などと書けばすむところ,留学生については学習奨励費が1年きりのものであってそういう表現では書けないので,学習奨励費の基準を個々に列挙した。そこを,留学生にだけ成績基準を課していると記者が読んでしまったのだろう。

 もちろん,制度の違いによって難易度の差はあり得る(私の見るところ,どちらが有利とは一概に言えないと思う)。しかし,差別というものではない。ただ,この「学生支援緊急給付金」は学生全員に支給されるのではなく,もともとかなりの経済的困難を抱えている,成績一定以上である学生を対象にするものであることも確認できた。これでは,学生全般の困窮を救えない。また例によって事務的にはかなり煩雑な操作が必要とされることが予想される。

 学生全般を救済する措置は,この給付金ではうまくいきそうにないので,やはり授業料負担軽減措置でやってもらうしかないだろう。

「学びの継続」のための『学生支援緊急給付金』 ~ 学びの継続給付金 ~

以下は誤報と思われる。
「現金給付、留学生は上位3割限定 文科省、成績で日本人学生と差」共同(Yahoo!Japanニュース),2020年5月20日。


2020年5月20日水曜日

厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制,緩い感染対策→死亡者や感染者の増加という単純な話ではないことについて

ちょっと頭を整理しておきたいことがある。新型コロナウイルス感染対策について,

政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制
政府の緩い感染対策→死亡者や感染者の増加

と想定して,あれこれの国をほめたたえたりくさしたりする議論は視野が狭いのではないか。

もちろん,上記のような因果関係はある。けれど,それだけではない。いったんはじまった感染対策の優劣にかかわらず,

対策開始前の相対的に深刻な感染状況→……→死亡者や感染者の増加(手遅れだった)
対策開始前の相対的に軽微な感染状況→……→志望者や感染者の抑制(元が軽かったから何とかなった)

という因果関係は当然ありうるだろう。欧米の厳しいロックダウンが効果を発揮するまでに時間がかかったのは,感染の広がりに気づくのが遅かったので,厳しい措置も手遅れだったということがあるのではないか(専門家の意見を聞かないとわからないが,例えば地域を厳しくロックダウンしても家庭や老人介護施設や病院では濃厚接触してしまうので,もともと感染の蔓延がひどいと効果が減殺されてしまったとか)。

そうすると,時系列では,

1)対策開始前の相対的に深刻な感染状況→政府の厳格な(でも開始が遅かった)感染対策→死亡者や感染者の増加
2)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の緩い感染対策(でも開始は遅くなかった)→死亡者や感染者の抑制

ということが起こり得る。

また,経済政策ではよくあることだが

政府の緩い感染対策→危機感を覚えた民間の反応→死亡者や感染者の抑制

ということも当然ありうる。この場合,民間の反応は「賢くて的確だった」場合と,「試行錯誤だったが結果オーライだった」ということの両方があり得る。日本については,こうした因果関係はありうると思う。ということは,

3)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の緩い感染対策→危機感を覚えた民間の反応→死亡者や感染者の抑制

ということもあり得る。

これまでの欧米が1),日本が2)または3)だったという仮説を立てるくらいは許されるだろう。ちなみにこの思考法だと,台湾が

4)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制

になる可能性がある。また,最近の再度の感染の増加を脇に置くと,中国と韓国が

5)対策開始前の相対的に深刻な感染状況→政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制

の可能性がある。

いずれにせよ,仮説としては許されても,証明は科学的に行われねばならない。ただ,この可能性を考慮せずに,

政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制
政府の緩い感染対策→死亡者や感染者の増加

と想定して,あれこれの国をほめたたえたりくさしたりする議論は視野が狭いのではないか。それだけを,強く言っておきたい。

 なお,これからどうなるかはまた別の話であることは言うまでもない。

2020年5月19日火曜日

国家公務員の定年延長法案:「年齢を唯一の理由に給料を下げる」ことの問題

 検察官及び国家公務員全般の定年延長の件。検察官について,個々の検事正の定年を内閣の裁量で延長するのは露骨な利益誘導であって反対だ。しかし,その議論は他の方に任せる。当方の講義内容との関係では,国家公務員の定年延長自体が,実は困難な問題を発生させる。濱口桂一郎氏も指摘されているが,ここで私の言葉で述べる。

 国家公務員法改正案の定年延長規定は,現在の日本社会の制度・慣行に適応したものであり,民間大企業の定年延長と類似したものになっている。つまり,1)定年を段階的に65歳まで引き上げ,2)役職は60歳で終了とし,3)60歳以降は俸給を7割に引き下げるのである。大きな問題は3)だ。

 どこが問題なのかというと,「年齢で給料を決めます」と法律が宣言することになるからだ。このことは,今後の日本経済における高齢者の活躍について,当面はプラスとなっても長い目で見るとブレーキをかけることになる。

 人口減少・高齢社会においては,政権が右であれ左であれ高齢者が条件に応じて,公平な処遇の下で働けるようにする以外にない。しかし,「定年までは年齢とともに賃金がまず上がり,それから下がる。定年以後は非正規」という年功賃金慣行はそれと矛盾する。

 仕事内容が変わって軽めの労働になるなら分かる。役職勇退で役職手当がなくなるのは当たり前だろう。しかし,民間企業では雇用延長や再雇用,定年延長において,従来と類似の仕事をしていても,「雇用延長だから,再雇用だから,定年延長期間だから」という理由で給料を下げることが一般的に行われている。これはメンバーシップ型雇用慣行の「家族を支える稼ぎ手にふさわしい賃金カーブを,組織にとって大切な人に設定する」という考えに即しているからだ。高齢で子どもが就職しており,メンバーシップの弱い人には低い賃金でよいだろうとなるからだ。

 しかし,この想定に合わない人が実際には「稼ぎ手」になるケースが増えているのが日本社会の現実である。その大きな集団の一つが待遇が平均的に低い女性であり,もう一つが高齢者である。高齢者が働いて,自分自身や時には家族を支えねばならないのである。そうした高齢者にとっては,同一労働での賃金切り下げや非正規への切り替えというのは,不当な非正規搾取の制度である。

 この新しい条件に対応するには,高齢者雇用をジョブ型に切り替えて,誰がやっているかに関係のない,職務の価値に即した同一労働同一賃金を設定するしかない。そうしなければ,働いても暮らしていけない高齢者が増えるだろう。

 ところが,まさにそのようなときに,国家公務員法が「60歳を過ぎると,年齢を唯一の理由にして給料は下がる」ことを正当化するのである。これは民間における訴訟での裁判所の判断などにも影響するだろう。古い制度を延長すれば,古い制度を前提とする限り合理性は増す。だが,改革はいっそう困難になる。多少のことでは解決しそうにない。

濱口桂一郎「メンバーシップ型公務員制度をそのままにした弥縫策としての改正案」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2020年5月10日。



アベノミクスの結果:成長率は目標に遠く,内需,とくに消費が停滞しており,積極財政とも言えず,失業率は低下したが賃金は伸びていない

 講義用。ようやく最新数値まで図表化できた。別に難しくはないのだが面倒な作業で,コロナ騒ぎで停滞していた。アベノミクス下の経済成長率(2019年度第3四半期まで)需要項目別成長率(2018年まで),成長寄与度(2018年度まで),雇用・賃金変化(2019年まで)。
*目標に遠い成長率。
*輸出依存。
*設備投資もさほど伸びていないが,消費はもっと停滞している。
*公的需要は2013年度以外は伸びてない。アベノミクスは積極財政ではない。
*失業率は低下したが賃金が上がらない。

 など,よく言われる特徴がはっきりと出る。この状態からコロナ危機に突入する。






PCR検査拡大をめぐる論点

PCR検査拡大をめぐる論点。ようやく頭を整理できてきたので箇条書き的なメモにする。

【目前の問題】
*一部地域では,PCR検査を増やさないと院内感染が防げず,医療体制が危うい状況が生じている。
*多方面の業務を行っている保健所がパンクしているので,保健所をバイパスした検査ルートを応急措置でも作らねばならない。
*その予算を国がつけるべき。補正で全くつけていないのは問題だ。

【次の波に備える問題】
*感染者がある所まで減ったら,1)アップグレードされたクラスター対策と2)市中感染が広がっても耐えられる検査体制を構築しなければならない。
*クラスター対策のアップグレードのためにはICTの活用,それを可能にするリーダーシップ,障壁があれば規制改革が必要。しかし,それだけでない。
*FETP(実地疫学専門家養成コース)を拡充してクラスター対策を指揮できる専門家を増やさねばならない。そうしないと,クラスターが全国で発生した場合に手が回らない。
*保健所の人員削減を中止し,逆に人員・検査体制を拡充する。
*保健所に多方面の業務を押し付ける体制をあらためる。健康相談と帰国者・接触者外来への取り次ぎ,PCR検査,クラスター対策をすべてやらせるからパンクするし,検査を拡大させるモチベーションをそいでしまう。他組織との分担,外注の円滑化を進める。検査を拡大させたくないというモチベーションを保健所が持たないように,組織・業務・報酬を設計する。
*PCR検査の基準を「医師が必要と認めたらすべて」にし,その際「帰国者・接触者外来の医師」だけでなく「かかりつけ医が必要と認めたらすべて」まで拡充する。かかりつけ医が必要と認めた場合は,保健所を通さず自動的に検査に入るように手順を組み替える。
*その基準で予想される検査数までキャパシティを引き上げる努力を行う。そのためのボトルネックがあれば列挙して対策を打つ。
*その予算を国がつけるべき。補正で不足するのであれば第二次補正予算を組む。

【注意点】
*検査に関する資源(ヒト・モノ・カネ)の確保と適切な方針は両方必要である。資源がないところに「方針がおかしい」と批判しても正しい方針を実現できない。「ヒトやカネをつけろ」と批判しなければならない。逆に方針がおかしいところに「ヒトやカネが足りない」と批判しても事態は改善しない。方針を改めねばならない。
*PCR検査は擬陽性・偽陰性の問題を生み出す。これを防ぐには,事前確率の高い場合に検査を行わねばならない。具体的には1)クラスター対策で濃厚接触者も検査する場合,2)市中の様々な症状の患者について,医師が臨床診断により感染を疑った場合。
*よって,検査の必要条件は1)クラスター追跡班が認めるか,2)医師が必要と認めるかである。専門家の判断を抜いたPCR検査はあり得ない。

【賛成できない議論】
*検査拡大論でも支持できるばあいとできない場合がある。「希望者すべてに検査を」「感染の実態を明らかにするために,できる限り片端から検査」に反対する。大量の「濡れ衣での陽性」「誤ったお墨付きによる陰性」を生み出す。検査の必要性は医師が判断すべきである。他の形であっても,検査の必要性を専門家が判断すべきことを抜きにして「とにかく検査を拡大せよ」という見解はおかしい。
*「帰国者・接触者外来」の要請によりPCR検査を保健所で行うというしくみに固執する見解に反対する。これでは必要な検査拡大もできない。
*いつでもどこでも「PCR検査を拡大すると医療崩壊する」,あるいは逆に「PCR検査を拡大しないと医療崩壊する」という見解に反対する。それは時と場合によるからだ。
*「クラスター対策は無効だからPCR検査を拡大しろ」という見解に反対する。市中感染が蔓延していない状況では,クラスター対策によって,他人に感染させる2割の感染者を効率的に発見・隔離できる。またクラスター対策だと検査が弱いかのように言うのは間違いで,クラスター追跡の際に積極的に無症状者も検査している。
*検査に関する思想・方針に批判を集中することに反対する。まちがっているのは思想・方針だけではない。保健行政が保健所のヒトという「資源」を確保しなかったことである。考えを変えるだけでなく,予算の裏付けを得て,人と組織を拡充させねばならない。予算・人員を政府に要求することなく,考え方だけ改めさせようとしても十分な効果は上がらない。

2020年5月7日木曜日

講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給

1.管理通貨制度と信用貨幣
 現代資本主義では,様々な形での本位貨幣制が停止され,管理通貨制度となっている。管理通貨制度の消極的特徴は本位貨幣が想定されないことであり,積極的特徴は,通貨が信用貨幣だということである。すなわち,価値物ではなく,何らかの主体の債務証書が貨幣として購買手段,流通手段,支払手段,価値保蔵手段として用いられるということである。
 この考えは,管理通貨制度についての通説的理解とは異なっている。通説的理解では,管理通貨制度においては,無価値の価値章票である不換紙幣,いわば価値のシンボルに過ぎない紙切れが流通しているとされる。流通する根拠は,国家の強制通用力,あるいは人々の共通の信認に基づくとされる。
 しかし,そうではない。管理通貨制度の下での通貨,すなわち中央銀行券や預金通貨は,手形の原理に基づいて流通しているのである。誰もが知っているように,企業の債務証書の一種である商業手形は企業に対する信用に基づいて流通する。まったく同じように,中央銀行の債務証書である中央銀行券は,中央銀行に対する信用にもとづいて流通するし,銀行の債務証書である預金は,銀行に対する信用に基づいて流通する。貸し出しによって債務証書の流通量,すなわち貨幣の流通量は増え,返済によって減少する。債務が返済された場合には,債務証書は効力を失う。日本銀行は債権回収や売りオペレーションによって得た日銀券を自分の資産とはできないし(単なる紙としてはできる),銀行は自行の預金証書を自らの資産とはできない。強制通用力説や単純な信認説では,そもそも預金通貨の存在が説明できないし,国家の行為ではなく銀行の貸付・返済によって貨幣流通量が増加・縮小することが理解できず,回収された債務証書が消滅するしくみを説明できない(岡橋保)。
 通貨が信用貨幣だということは,通貨は誰かの債務だということである。通貨供給量が増えるということは,誰かの債務が増えるということである。したがって,経済活動が拡大すれば,誰かの債務は必ず増大する。個々の主体の純債務はともかくとして,経済全体の総債務は必ず増大する。総債務の増大自体を不健全なことと考えるのは誤りである(井上智洋『MMT』)。
 債務の決済は,互いの債務の二者間,あるいは多角的な相殺と,より信用度の高い債務への置き換えによって決済される(※1)。本位貨幣,つまり正貨が存在しない以上,最終的に正貨で支払われることはない。信用度は,通常,個人より産業企業が高く,産業企業より銀行が高く,銀行より中央銀行が高い。だから企業の債務は銀行預金か中央銀行券で支払われ,銀行の債務は中央銀行当座預金か中央銀行券で支払われる(ランダル・レイ『MMT』)。例えば,企業が手形債務を決済するには,他の企業の手形と相殺するか,あるいは銀行預金を用いて支払うか,中央銀行券を用いて支払う。自社と支払先企業の取引銀行が異なっていて預金決済を行った場合は,銀行間に新たに債権債務が発生し,それは双方の銀行が持つ中央銀行当座預金を通して決済される。
 ここで注意すべきは,中央銀行の債務よりも上位には,正貨も債務も存在しないことである。したがって中央銀行の債務は中央銀行の債務で支払うしかない(レイ『MMT』)。これは奇妙な事態に見えるが現実である。本位貨幣制度の下であれば,発券銀行の債務証書としての兌換銀行券を持ち込めば,金や銀でできた本位貨幣と交換することができる。これは,銀行券という無期限一覧払債務を,金や銀という本位貨幣で返済したことになる。しかし管理通貨制度の下では,民間銀行は多くの国で銀行券を発券しない。発券するとしても,その不換銀行券を銀行に持ち込んだところで,交換してもらえるのは金貨や銀貨ではなく,中央銀行券である。そして中央銀行券を中央銀行に持ち込んで債務の返済を求めても,得られるのはやはり中央銀行券であり,意味がない。
 企業は債務を返済するために,自分と同等以上の信用を持つ企業の手形を入手するか,より高い信用を持つ銀行預金残高,または中央銀行券を入手しなければならない。銀行は債務を返済するために中央銀行預金残高または中央銀行券を入手しなければならない。これに対して中央銀行は,債務が自国通貨建てである限り,返済するためにより上位の債務証書を入手する必要がない。中央銀行当座預金を設定するか,中央銀行券を発券するかして支払えばよいからである。これが管理通貨制度の下での中央銀行の特異な位置である。
 ただし,対外債務がある場合は別である。基軸通貨国以外の中央銀行は,対外債務を返済する際には,自国通貨との交換により基軸通貨を調達しなければならないからである。

2.管理通貨制度における通貨供給
 管理通貨制度における通貨の基本構成は以下のとおりである。
 まず統合政府(中央銀行+中央政府)の債務が存在する。このうち中央銀行の債務は,金融機関が中央銀行に持つ預金と,紙で発行される中央銀行券である。中央政府の債務は,政府発行紙幣や補助貨幣である。
 次に銀行の債務が存在する。家計や企業が民間銀行に持つ預金と,国によっては民間銀行が発見する銀行券が存在する。
 預金通貨は中央銀行や銀行の債務であり,これらによって創造されたものであることに注意が必要である。中央銀行も銀行も,信用を供与することによって預金を創造する。もう少し具体的には,貸し付けを行うか,あるいは中央銀行の買いオペレーションや銀行の手形割引のように,債券・手形を購入して他者の供与した信用を代位することによって預金を創造する。これは,何の元手もなく可能な行為である。現時点で現金を持たない企業が手形を振り出してものを買うことができるように,中央銀行や銀行は自己宛て債務としての預金を元手なしに創造することができるのである。逆に言えば,銀行は,まず預金を集めて,預金を貸し出しているのではないということである。ただし,貸し付けを受けた企業が預金を引き出そうとする事態に備えて,銀行は中央銀行券を保有しておかねばならない (※2)。
 この信用供与,つまり貸し借りとその肩代わりの原理をとおして,信用貨幣は流通に投じられる。まず中央銀行は銀行に対して貸し出しを行い,また債権・手形の購入を行う。そのために必要な銀行券や預金は,わずかな費用で作り出すことができる。中央銀行による貸し付けや買いオペレーションによって中央銀行当座預金が増加し,返済や売りオペレーションによって減少する。
 ただし,これだけではまだ市中への通貨供給量は変動しない。無利子または低利子の中央銀行当座預金の増大が,民間銀行の貸出インセンティブを強化し,実際に貸し出しが増加すると,次に見る預金通貨が増大して通貨供給量が増大する。あるいは,市中銀行が紙の中央銀行券を必要とする事態になると,中央銀行当座預金の一部が中央銀行券で引き出され,それが市中に供給されて通貨供給量が増大するのである。つまり,中央銀行は金融取引を通して,間接的にのみ通貨供給量の増減に関与することができる。
 市中の銀行は,主に企業に対して,副次的には家計に対して貸し付けを行う。貸し付けはほとんどの場合,預金を創造してそこに貸し付けた金額を振り込むことによってなされる。この預金口座はわずかな費用で作り出すことができる。この貸し付けの返済は中央銀行券または他行の預金からの振り込みによってなされる。他行からの振り込みの場合,振り込み先銀行には振り込み元銀行への債権が発生し,これは両行が持つ日銀当座預金によって決済される。また銀行は,支払期限と宛先が限定されている商業手形を割り引いて,自らの無期限・一覧払債務である銀行預金に置き換えることができる。銀行は手形を持ち込んだものにかわって,手形債務を取り立てる。
 これらの銀行のオペレーションを通して通貨供給量は増減する。すなわち,貸し付けや手形割引によって預金通貨の供給量が増大し,返済や取り立てによって縮小する。
 これらとは異なる原理によって通貨供給量を増減させることができるのが,狭義の政府,つまり中央銀行とは区別される政府である。狭義の政府は,借り入れ・返済の原理の他に支出・課税の原理によって通貨供給に関与する。狭義の政府は企業や家計に対して,一方では財政支出を行う。財政支出を行うことによって政府債務が増大し,民間経済主体の銀行預金や手持ち中央銀行券が増大する。逆に課税を行うことによって政府債務は縮小し,民間経済主体の銀行預金や手持ち中央銀行券が縮小する。政府が支出のみを行えば通貨供給量は増加し,課税のみを行えば通貨供給量は縮小する(レイ『MMT』)。
 なお,狭義の政府は借り入れ・返済の原理でも通貨供給に関わることができる。政府が国債を発行して市中銀行がこれを引き受ける場合,市中銀行の中央銀行当座預金が減少して政府預金が増大する(※3)。政府債務が増大して市中銀行が債権者となる。また,国債を中央銀行が引き受ける場合は,中央銀行は政府預金を設定して国債代金を振り込む。政府債務が増大して中央銀行が債権者となる。ただし,これらのオペレーションは政府預金と中央銀行当座預金だけに関わっているので,直接には通貨供給量を増減させない。あくまでも,政府が支出することで通貨供給量が増え,課税することで減るのである。

※1 カール・マルクス『資本論』は,銀行券の流通が手形を基礎としていると述べた。マルクス経済学者はこれを,商業手形の割引によって銀行券が発生するという意味に理解したが,ここではその理解を採っていない。マルクスに即して言うとすれば,<手形を基礎とする>とは,信用によって債務証書が流通し,債務は債務によって決済されるという意味に理解すべきである。村岡俊三の口頭での示唆による。
※2 ここで銀行の方が企業に貸し付けを行ったのであるが,その際,預金という銀行債務が設定されているので,銀行は債務も背負っているのである。預金を引き出すというのは,預金者が,預金という銀行の債務の返済を迫ることである。銀行は預金債務の返済のために,より信用度の高い中央銀行券を用いねばならないのである。
※3 <国債発行によって民間貯蓄が吸収される>という常識化した説明は,実は誤りである。国債が吸収するのは市中銀行が中央銀行に持つ当座預金である。その減少によって,市中銀行の貸出能力は原理的に制約を受けない。レイ『MMT』参照。個々の事情により銀行規制が課せられている場合は別であるが,それは一般的な理論モデルの問題ではない。

*在宅ワークの制約で,出所を厳密に注記していないことにご容赦をいただきたい。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...