「平和の少女像」について,展示の自由と別に,以前より思っていることを書く。
まず,背景への認識。そもそも,わが日本国政府の見解は「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ(2015年12月28日。日韓両外相共同記者会見)。私はこの点について安倍首相を支持する。慰安婦について日本国は何も反省しなくていいという人は,実は安倍首相に反対なのだ。
次。平和の少女像の表面的な使われ方。慰安婦支援団体による使い方には確かに問題がある。政府公館の正面に設置するのは適切でないし,これを撤去しない韓国政府の姿勢は外交儀礼として適切でないと思う。また,慰安婦問題についての事実関係や補償と謝罪に関する考え方についても,私は最大の慰安婦支援団体である挺対協と見解を同じくしない。慰安婦問題について日本国政府を直接・間接に代表する謝罪はすでに9回行われており,「日本は謝罪していない」という前提での政治行動には私は反対だ。
その上で,平和の少女像の根本的メッセージ。私は,この像には読み取るべきものがあると思う。この像の作者キム・ソギョン,キム・ウンソンの夫妻は確かに慰安婦問題で日本を批判しているが,それは韓国国家を支持しているからではない。この夫妻は,ベトナム戦争時に韓国軍がベトナムで行った虐殺行為を批判し,謝罪と反省の意味を込めて「ベトナム・ピエタ」を製作しているのだ。韓国軍の虐殺行為を認めるのは,韓国の世論でも多数ではなく,むしろ「軍を辱めるな」と非難されがちな立場だ。夫妻はそれでも製作している。つまり,平和の少女像は,ある国家の見地から別の国家を非難するものではない。戦争によって犠牲とされた民衆の見地から加害者を告発するものなのだ。
社会運動の文脈では,平和の少女像は「日本は謝罪していない」という誤った事実認識の上に立つ運動に使われており,不適切にも政府公館の前に置かれている。作者はこの運動を肯定している。私はこれらの点で作者に賛同しない。だが,不本意に慰安婦にされて苦しんだ女性がいたことは事実である。そちらが根本だ。この作品はその事実に対する作者の思いを表現している。なので,この作品には考えさせられるものがあると私は思う。
根本の問題は,韓国対日本のどちらが正しいかではない(ベトナムと韓国のどちらが正しいかでもない)。国家対国家の二者択一にとらわれるならば,どちらを支持するのであれ本質を見失う。慰霊されるべきは,また二度と再び現出させるべきでないのは,どこの国に属しているかにかかわらず戦争の犠牲者だ。告発されるべきは,どこの国という名前がついているかにかかわらず,戦争を起こし,他人の生活を踏みにじり,命を奪う者たちなのだ。
「韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻」The Huffington Post,2016年1月25日。
川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
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2019年8月29日木曜日
熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年を読んで:財政赤字に関心を集中し過ぎていないか
熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年。熊倉教授の論文は,通貨政策,金融政策を制度に即して語っているため,「日本経済」の講義を作成する際にいくつか読ませていただいた。今回の岩波新書では,学術論文では抑えられていた日本のマクロ経済政策に対する批判的見地がはっきりと打ち出されている。本書では通貨政策,金融政策,財政政策が論じられていて,その論点は多岐にわたる。だが,やや強引に熊倉氏の議論の本流を要約すると以下のようになると思う。
<日本のマクロ経済政策は,産業構造上不可能な高成長を無理に目指すものであり,人為的円高誘導と事実上の財政ファイナンスを行ってこれを加速するものである。すでに政府債務が深刻な状況にある財政はいっそう破綻の危険を強めている。これを防止するための日本銀行の独立性は損なわれている。そして,不合理で持続性のない政策を,政策目標や会計規則の操作によって継続させている。これをコントロールするのは日本の民主政治の課題であり,それができていないところに問題がある>。
私は,政策目標や制度が政府によって恣意的に操作されており,そこに透明性と民主的コントロールが不足していることについては熊倉教授に賛成であり,教授が制度に即してこれを具体的に示しているところは大いに説得力があると思う。
しかし,アベノミクス批判を,財政危機に対して財政ファイナンスで事態を悪化させていることを最大の軸にして批判することには賛成できない。軸の一つとしては良い。国債と円の信用が市場において失われた場合には,通常の需給とは無関係に国債と円が暴落する。そのリスクは徐々に高まっているからだ。
だが,それは確実に起こるというようなものではなく,将来における多くの可能性の一つに過ぎない。とくに,国債が国内で消化されていて中央銀行が政府と協調している現代の日本において,財政破綻それ自体は起こらない可能性もあるからだ。いつかは起こるかもしれないということ自体はまちがいではないが,その論点を押し出し過ぎることによって,もうすでに起こっているアベノミクスの他の問題を脇に追いやることは適当ではない。
すでに起こっている問題は,ハイパーインフレの可能性とは逆のことである。つまりマクロ的には,いくら量的緩和を行って日銀が国債を買い上げ,その代金が銀行が日銀に持つ日銀当座預金(超過準備)として膨れ上がっても,いっこうに需要が伸びず,したがって流通内での通貨量(マネーストック)が増えず,物価もわずかにしか上がらないことである。そして,経済の内部構造を踏まえて言えば,円安と株高誘導によって投資家と輸出企業は利潤を蓄積できたが,賃金の伸びが遅すぎること,とくに非正規労働者の低賃金が抑制されていること,また不十分な水準の年金で暮らす人が増えていることによって,生活水準が低下する人が増えていることである。
通貨供給量が伸びない以上,通常の意味でのインフレ,つまり流通する財・サービスに対して通貨が増え過ぎることによるインフレも起きない。だから,それが加速することによる悪性インフレも起きようがない。著者もそれはわかっているので,国債と円が一気に信用を失うようなハイパーインフレだけを想定している。しかし,それは確実に起こる唯一最大の危機であるという証拠は,本書では示されていない。
著者の関心は,あまりにも財政破綻に集中しすぎている。例えば,著者は円安誘導の無理と,質的金融緩和による株価・地価操作を批判しており,そのことには私も賛成する。ところがよく読むと,著者は結局この二つへの批判を,政府財政が外国為替資金特別会計の剰余金や日銀の納付金に依存することへの批判に帰結させてしまっている。<歳入を本来頼るべきでない財布に頼るのは不健全だ>という観点からの批判なのだ。私は最大の問題はそこではないと思う。無理な円安誘導は輸出企業の利益はもたらしたが,輸出に依存する既存大企業が再投資も賃上げもせずに内部留保を積み上げたことが問題なのだ。質的金融緩和は人為的な株価・地価のつり上げを招き,株式市場と不動産市場に参加できるような投資家だけを潤したことが問題なのだ。それでは新産業は生まれず肝心の潜在成長率は引きあがらないし,多くの労働者,とくに非正規の労働者,すでに賃金を得ていない高齢者は置き去りである。
著者が指摘するように,日本経済の持続的発展にとって,国債・通貨の信用喪失は,確かに将来ありうる一つの危険だ。だが,産業構造改革の停滞と格差の拡大は,すでにおこっている目の前の危険である。本書は前者は指摘するが,後者は指摘しないという偏りを持っている(※1)。
著者の認識からすると,現状で必要なのは,起こるかもしれない財政破綻に備えて財政を縮小するか増税することにならざるを得ない。つまり財政再建優先政策を成熟した民主主義の下で選択すべきだということになる。私も,景気に関わらず歳出が自動的に膨張する事態(1960-70年代によく使われた言葉で言う財政硬直化)を避けるために税収を拡大する必要があるとは思う。しかし,財政再建を最優先の目標におくことは賛成できないし,それを実現できないことを日本の民主主義の問題の中心とすることもバランスが取れているとは思えないのである。
あえて政治的コンテキストに触れるならば,著者の見解だと,アベノミクスの不均等な作用の下で苦しむ人々が財政措置を求めることを,民主主義の成熟性という見地から否定することにならないだろうか。また財政再建策をここまで最優先すると,誰がどのように税を負担すべきかという分配問題を抜きにして,とにかく税収を拡大して赤字を減らす方策であれば高く評価されるということにならないだろうか。私はそのような懸念を持った。
※1 なお公平を期すために言うと,著者は医療・福祉分野については不合理な規制を緩和することで賃金と物価が上昇すると主張している。しかし,それだけで非正規労働者の不合理な待遇が改善されるものではない。私は,メンバーシップ型の労働慣行を,法的規制になじむ部分から始めて着実かつ時間をかけて改革していくことが必要だと思う。
熊倉正修『日本のマクロ経済政策:未熟な民主政治の帰結』岩波書店,2019年。
<日本のマクロ経済政策は,産業構造上不可能な高成長を無理に目指すものであり,人為的円高誘導と事実上の財政ファイナンスを行ってこれを加速するものである。すでに政府債務が深刻な状況にある財政はいっそう破綻の危険を強めている。これを防止するための日本銀行の独立性は損なわれている。そして,不合理で持続性のない政策を,政策目標や会計規則の操作によって継続させている。これをコントロールするのは日本の民主政治の課題であり,それができていないところに問題がある>。
私は,政策目標や制度が政府によって恣意的に操作されており,そこに透明性と民主的コントロールが不足していることについては熊倉教授に賛成であり,教授が制度に即してこれを具体的に示しているところは大いに説得力があると思う。
しかし,アベノミクス批判を,財政危機に対して財政ファイナンスで事態を悪化させていることを最大の軸にして批判することには賛成できない。軸の一つとしては良い。国債と円の信用が市場において失われた場合には,通常の需給とは無関係に国債と円が暴落する。そのリスクは徐々に高まっているからだ。
だが,それは確実に起こるというようなものではなく,将来における多くの可能性の一つに過ぎない。とくに,国債が国内で消化されていて中央銀行が政府と協調している現代の日本において,財政破綻それ自体は起こらない可能性もあるからだ。いつかは起こるかもしれないということ自体はまちがいではないが,その論点を押し出し過ぎることによって,もうすでに起こっているアベノミクスの他の問題を脇に追いやることは適当ではない。
すでに起こっている問題は,ハイパーインフレの可能性とは逆のことである。つまりマクロ的には,いくら量的緩和を行って日銀が国債を買い上げ,その代金が銀行が日銀に持つ日銀当座預金(超過準備)として膨れ上がっても,いっこうに需要が伸びず,したがって流通内での通貨量(マネーストック)が増えず,物価もわずかにしか上がらないことである。そして,経済の内部構造を踏まえて言えば,円安と株高誘導によって投資家と輸出企業は利潤を蓄積できたが,賃金の伸びが遅すぎること,とくに非正規労働者の低賃金が抑制されていること,また不十分な水準の年金で暮らす人が増えていることによって,生活水準が低下する人が増えていることである。
通貨供給量が伸びない以上,通常の意味でのインフレ,つまり流通する財・サービスに対して通貨が増え過ぎることによるインフレも起きない。だから,それが加速することによる悪性インフレも起きようがない。著者もそれはわかっているので,国債と円が一気に信用を失うようなハイパーインフレだけを想定している。しかし,それは確実に起こる唯一最大の危機であるという証拠は,本書では示されていない。
著者の関心は,あまりにも財政破綻に集中しすぎている。例えば,著者は円安誘導の無理と,質的金融緩和による株価・地価操作を批判しており,そのことには私も賛成する。ところがよく読むと,著者は結局この二つへの批判を,政府財政が外国為替資金特別会計の剰余金や日銀の納付金に依存することへの批判に帰結させてしまっている。<歳入を本来頼るべきでない財布に頼るのは不健全だ>という観点からの批判なのだ。私は最大の問題はそこではないと思う。無理な円安誘導は輸出企業の利益はもたらしたが,輸出に依存する既存大企業が再投資も賃上げもせずに内部留保を積み上げたことが問題なのだ。質的金融緩和は人為的な株価・地価のつり上げを招き,株式市場と不動産市場に参加できるような投資家だけを潤したことが問題なのだ。それでは新産業は生まれず肝心の潜在成長率は引きあがらないし,多くの労働者,とくに非正規の労働者,すでに賃金を得ていない高齢者は置き去りである。
著者が指摘するように,日本経済の持続的発展にとって,国債・通貨の信用喪失は,確かに将来ありうる一つの危険だ。だが,産業構造改革の停滞と格差の拡大は,すでにおこっている目の前の危険である。本書は前者は指摘するが,後者は指摘しないという偏りを持っている(※1)。
著者の認識からすると,現状で必要なのは,起こるかもしれない財政破綻に備えて財政を縮小するか増税することにならざるを得ない。つまり財政再建優先政策を成熟した民主主義の下で選択すべきだということになる。私も,景気に関わらず歳出が自動的に膨張する事態(1960-70年代によく使われた言葉で言う財政硬直化)を避けるために税収を拡大する必要があるとは思う。しかし,財政再建を最優先の目標におくことは賛成できないし,それを実現できないことを日本の民主主義の問題の中心とすることもバランスが取れているとは思えないのである。
あえて政治的コンテキストに触れるならば,著者の見解だと,アベノミクスの不均等な作用の下で苦しむ人々が財政措置を求めることを,民主主義の成熟性という見地から否定することにならないだろうか。また財政再建策をここまで最優先すると,誰がどのように税を負担すべきかという分配問題を抜きにして,とにかく税収を拡大して赤字を減らす方策であれば高く評価されるということにならないだろうか。私はそのような懸念を持った。
※1 なお公平を期すために言うと,著者は医療・福祉分野については不合理な規制を緩和することで賃金と物価が上昇すると主張している。しかし,それだけで非正規労働者の不合理な待遇が改善されるものではない。私は,メンバーシップ型の労働慣行を,法的規制になじむ部分から始めて着実かつ時間をかけて改革していくことが必要だと思う。
熊倉正修『日本のマクロ経済政策:未熟な民主政治の帰結』岩波書店,2019年。
2019年8月27日火曜日
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(6完)を読んで。全体のまとめ
野口教授によるMMT検討と批判第6回(最終回)。MMTと正統派の共存可能性がテーマ。
野口教授の基本的結論は,<一部分は共存可能だが,多くの部分において共存不可能>というものだ。共存可能な部分も取りだそうとしているのは,野口教授の公平さを示している。ただ,共存している部分とできない部分の境界線の取り方,そして共存不可能であることの意味の理解においては,ところによって的からずれており,また命中している場合も深く射ていないように思える。以下,コメントする。
まず,野口教授が「MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している」と,批判を込めて述べていることについて。これはこれまでもあったが不当な単純化を含む。
MMTは,<金利が市場経済において調整機能を全く果たさない>とまでは言っていないだろう。例えて言えば,MMTの理論構造からは,金融政策について<ひもは引っ張ることはできるし,引っ張られるのに対して緩めることはできるが,押すことはできない>となるはずだ。中央銀行は,1)信用がインフレやバブルにつながり望ましくない形や速度で膨張する際には金利を引き上げて引き締めることはできるだろうし,2)逆に信用がインフレにつながらずに望ましい形や速度で膨張する際に,高すぎる金利を下げることもできるだろう。ただし,3)直接に通貨を供給することや,金利を下げることによって必ず一定の通貨供給増が生じると期待することはできない(※1)。
しかし,行き過ぎているとはいえ,野口教授が,MMTが金利の調整機能を低く見ていると感じ取っていることは,おそらく正しい。教授はニュー・ケインジアンを擁護する者として,ここが自分たちとの本質的な違いだと気づいているのだろう。MMTは金利が投資と貯蓄を均衡させるとは考えていない。金利が下がれば必ず一定程度は企業による投資が増えるとも考えない。したがって,金利が下がれば必ず一定程度は銀行貸し出しが増え,通貨供給量が増えるとも考えない。投資は増えるかもしれないし増えないかもしれない。金利調節をその程度のものとしか考えていないのだ(※2)。
そうしたMMTは,学説上どのような系譜にあるのか。野口教授は「レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである」とし,また「ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである」という。私は研究史を教科書レベルでしか知らないが,これには説得力を感じる。野口教授はMMTを,少なくとも財政赤字に関する奇説ではなく,初期ケインジアン再興の試みだと認めているのだ(※3)。
野口教授は,このように系譜上の位置づけを行う。その上で,自らはニュー・ケインジアンの立場に立って,オールド・ケインジアンとしてのMMTの金利軽視論を批判する。しかし,肝心のここのところで,根拠が弱々しい。ただ学説の展開によって「かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった」と言い,MMTは「マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない」というだけである。つまりは<金利に調整機能がないなんてそんな馬鹿なことがあるか>と<古い説だ>という非難にとどまっている。理論的とは思えない。
最後に野口教授は,「MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう」という言われる。しかし,問題はそこにはないのではないか。野口教授は,MMTと正統派が,いま何において対決しているかという,肝心なところを無視しているように思う。
いま,MMTと正統派が対決しているのは,現在のような状況,すなわち<先進国において,ゼロ金利まで金融を緩和しても経済が停滞から抜け出せない状況>において採るべきマクロ経済政策をめぐってだ。ニュー・ケインジアンを含む正統派は,ゼロ金利下において採るべきマクロ経済政策について,当初は<財政拡張ではなく金融緩和だ>と述べていた。それがリフレーション論であり,そのためのインフレ・ターゲティング論であった。ところが「量的・質的金融緩和」の成果が芳しいものではなく,一向に成長率が上がらずインフレも起きない事態を前にして,<金融緩和も財政拡大も>と言い出すようになった。対してMMTが主張するのは一貫して<金融緩和でなく財政拡大>だ(※4)。ここには,財政拡大をめぐる部分的な一致と,金融緩和をめぐる根本的な対立がある。野口教授によるMMTと正統派の対比は,肝心かなめのここの対立を説明し,その根拠を解き明かし,どちらがなぜ妥当なのかを論じるつくりになっていない。それで,MMTに正統派と共存できる道を説教してもさほど意味がないだろう。
(1)から(6)までを読んでのまとめ
野口教授の論説を(1)から(6)まで読み解いてみた。この論説から一番学ぶべきは,MMTと正統派の対比により,MMTがつまるところ単なる奇説ではなくオールド・ケインジアン再興の試みだと確認できたことだろう。この対比を誠実・公平に行おうとされたことがこの論説の意義だと思う。。
ただ,その対比は一部は不当な単純化や行き過ぎを含み,そして何よりも,両者の違いを深いところでは対比していないと,私には思えた。だから切れ味がよくない。どうしてそうなるかというと,<ゼロ金利下において金融緩和には需要拡大効果はなく,財政政策にはある>というMMTの政策的主張を,<ゼロ金利下においても金融政策は有効だ>とする正統派の主張と正面から対比していないからだ。さらに,政策的対立の背後にあるMMTの<金利に投資と貯蓄を均衡させる機能などない>という理論的主張を正統派の<金利には投資と貯蓄を均衡させる調節機能がある>という主張と突き合わせず,最終的には,MMTを<正統派の達成を無視するなんておかしい><古い>で片付けてしまっているからだ。真の対立点を対立させず,また対立の根拠をどこまでも遡って対比しないからだ。これを逆に言うならば,おそらくMMTの妥当性を真に検証するためには,これらの対立をどこまでも掘り下げて考察することが必要なのだろう。以上が,浅学を省みずに野口教授の論説を批判的に読み解いて学んだことである。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性」Newsweek,2019年8月20日。
※1.しかし,野口教授は私と異なってWrayらのMacroeconomicsをすでに読破されているので,Wrayらが私が予想するよりもはっきりと金利の機能を否定している記述を確認しているのかもしれない。これは,私が自ら確認すべきことだ。
※2.利子率と投資の直接的な関係をMMTが否定していることは,WrayのUnderstanding Modern Moneyで確認した。ただ私は,その根拠について,WrayやMitchellの文献でまだ確認していない。しかし,ケインズ『一般理論』をMMTが文字通りに受容しているのだとすれば,<投資が利子率と資本の限界効率の関係で決まるからであり,資本の限界効率は不確実性を含むから>なのだろうと予想する。そして,この背後には,おそらくMMTというかケインズに対するオールド・ケインジアン的理解がある。MMTはマクロ的に言えば<投資は事前の貯蓄を必要とせず,投資がそれに等しい貯蓄を生み出す>と考えているのでああろう。さらに予想を含めて言うと,ミクロレベルでのMMTの貨幣論がこれに関係する。MMTの信用貨幣論では,<投資に必要な貸し出しは事前に預金がなくとも信用創造によって可能になる>のだが,これがマクロの投資・貯蓄論と連動しているのだと思われる。しかし,ここのつながりについては私の理解は十分でなく,今後確認しなければならない。
※3.とはいえ,ケインズ『一般理論』の理解から,財政赤字に関するMMTのような理解が本当に唯一妥当なものとして引き出されるのかどうかは,もっと学んでみないと私にはわからない。また,MMTは貨幣と財政に関する見地をむしろケインズ『貨幣論』から引き出している可能性もあり,そうすると『貨幣論』と『一般理論』の関係をどう理解するかも問題になる。両者の間の連続性と非連続性は元来重要なテーマだと聞いているからだ。なので,『貨幣論』を学んでいない私には,貨幣理論から来る財政観について,MMTがケインズ理解のどのような系譜にあると見るべきかについて,まだ断定する力がない。
※4.以下のノートで,金融政策重視の正統派と財政政策重視のMMTをくっきりと対比させてみた。
「MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」
野口教授の基本的結論は,<一部分は共存可能だが,多くの部分において共存不可能>というものだ。共存可能な部分も取りだそうとしているのは,野口教授の公平さを示している。ただ,共存している部分とできない部分の境界線の取り方,そして共存不可能であることの意味の理解においては,ところによって的からずれており,また命中している場合も深く射ていないように思える。以下,コメントする。
まず,野口教授が「MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している」と,批判を込めて述べていることについて。これはこれまでもあったが不当な単純化を含む。
MMTは,<金利が市場経済において調整機能を全く果たさない>とまでは言っていないだろう。例えて言えば,MMTの理論構造からは,金融政策について<ひもは引っ張ることはできるし,引っ張られるのに対して緩めることはできるが,押すことはできない>となるはずだ。中央銀行は,1)信用がインフレやバブルにつながり望ましくない形や速度で膨張する際には金利を引き上げて引き締めることはできるだろうし,2)逆に信用がインフレにつながらずに望ましい形や速度で膨張する際に,高すぎる金利を下げることもできるだろう。ただし,3)直接に通貨を供給することや,金利を下げることによって必ず一定の通貨供給増が生じると期待することはできない(※1)。
しかし,行き過ぎているとはいえ,野口教授が,MMTが金利の調整機能を低く見ていると感じ取っていることは,おそらく正しい。教授はニュー・ケインジアンを擁護する者として,ここが自分たちとの本質的な違いだと気づいているのだろう。MMTは金利が投資と貯蓄を均衡させるとは考えていない。金利が下がれば必ず一定程度は企業による投資が増えるとも考えない。したがって,金利が下がれば必ず一定程度は銀行貸し出しが増え,通貨供給量が増えるとも考えない。投資は増えるかもしれないし増えないかもしれない。金利調節をその程度のものとしか考えていないのだ(※2)。
そうしたMMTは,学説上どのような系譜にあるのか。野口教授は「レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである」とし,また「ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである」という。私は研究史を教科書レベルでしか知らないが,これには説得力を感じる。野口教授はMMTを,少なくとも財政赤字に関する奇説ではなく,初期ケインジアン再興の試みだと認めているのだ(※3)。
野口教授は,このように系譜上の位置づけを行う。その上で,自らはニュー・ケインジアンの立場に立って,オールド・ケインジアンとしてのMMTの金利軽視論を批判する。しかし,肝心のここのところで,根拠が弱々しい。ただ学説の展開によって「かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった」と言い,MMTは「マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない」というだけである。つまりは<金利に調整機能がないなんてそんな馬鹿なことがあるか>と<古い説だ>という非難にとどまっている。理論的とは思えない。
最後に野口教授は,「MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう」という言われる。しかし,問題はそこにはないのではないか。野口教授は,MMTと正統派が,いま何において対決しているかという,肝心なところを無視しているように思う。
いま,MMTと正統派が対決しているのは,現在のような状況,すなわち<先進国において,ゼロ金利まで金融を緩和しても経済が停滞から抜け出せない状況>において採るべきマクロ経済政策をめぐってだ。ニュー・ケインジアンを含む正統派は,ゼロ金利下において採るべきマクロ経済政策について,当初は<財政拡張ではなく金融緩和だ>と述べていた。それがリフレーション論であり,そのためのインフレ・ターゲティング論であった。ところが「量的・質的金融緩和」の成果が芳しいものではなく,一向に成長率が上がらずインフレも起きない事態を前にして,<金融緩和も財政拡大も>と言い出すようになった。対してMMTが主張するのは一貫して<金融緩和でなく財政拡大>だ(※4)。ここには,財政拡大をめぐる部分的な一致と,金融緩和をめぐる根本的な対立がある。野口教授によるMMTと正統派の対比は,肝心かなめのここの対立を説明し,その根拠を解き明かし,どちらがなぜ妥当なのかを論じるつくりになっていない。それで,MMTに正統派と共存できる道を説教してもさほど意味がないだろう。
(1)から(6)までを読んでのまとめ
野口教授の論説を(1)から(6)まで読み解いてみた。この論説から一番学ぶべきは,MMTと正統派の対比により,MMTがつまるところ単なる奇説ではなくオールド・ケインジアン再興の試みだと確認できたことだろう。この対比を誠実・公平に行おうとされたことがこの論説の意義だと思う。。
ただ,その対比は一部は不当な単純化や行き過ぎを含み,そして何よりも,両者の違いを深いところでは対比していないと,私には思えた。だから切れ味がよくない。どうしてそうなるかというと,<ゼロ金利下において金融緩和には需要拡大効果はなく,財政政策にはある>というMMTの政策的主張を,<ゼロ金利下においても金融政策は有効だ>とする正統派の主張と正面から対比していないからだ。さらに,政策的対立の背後にあるMMTの<金利に投資と貯蓄を均衡させる機能などない>という理論的主張を正統派の<金利には投資と貯蓄を均衡させる調節機能がある>という主張と突き合わせず,最終的には,MMTを<正統派の達成を無視するなんておかしい><古い>で片付けてしまっているからだ。真の対立点を対立させず,また対立の根拠をどこまでも遡って対比しないからだ。これを逆に言うならば,おそらくMMTの妥当性を真に検証するためには,これらの対立をどこまでも掘り下げて考察することが必要なのだろう。以上が,浅学を省みずに野口教授の論説を批判的に読み解いて学んだことである。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性」Newsweek,2019年8月20日。
※1.しかし,野口教授は私と異なってWrayらのMacroeconomicsをすでに読破されているので,Wrayらが私が予想するよりもはっきりと金利の機能を否定している記述を確認しているのかもしれない。これは,私が自ら確認すべきことだ。
※2.利子率と投資の直接的な関係をMMTが否定していることは,WrayのUnderstanding Modern Moneyで確認した。ただ私は,その根拠について,WrayやMitchellの文献でまだ確認していない。しかし,ケインズ『一般理論』をMMTが文字通りに受容しているのだとすれば,<投資が利子率と資本の限界効率の関係で決まるからであり,資本の限界効率は不確実性を含むから>なのだろうと予想する。そして,この背後には,おそらくMMTというかケインズに対するオールド・ケインジアン的理解がある。MMTはマクロ的に言えば<投資は事前の貯蓄を必要とせず,投資がそれに等しい貯蓄を生み出す>と考えているのでああろう。さらに予想を含めて言うと,ミクロレベルでのMMTの貨幣論がこれに関係する。MMTの信用貨幣論では,<投資に必要な貸し出しは事前に預金がなくとも信用創造によって可能になる>のだが,これがマクロの投資・貯蓄論と連動しているのだと思われる。しかし,ここのつながりについては私の理解は十分でなく,今後確認しなければならない。
※3.とはいえ,ケインズ『一般理論』の理解から,財政赤字に関するMMTのような理解が本当に唯一妥当なものとして引き出されるのかどうかは,もっと学んでみないと私にはわからない。また,MMTは貨幣と財政に関する見地をむしろケインズ『貨幣論』から引き出している可能性もあり,そうすると『貨幣論』と『一般理論』の関係をどう理解するかも問題になる。両者の間の連続性と非連続性は元来重要なテーマだと聞いているからだ。なので,『貨幣論』を学んでいない私には,貨幣理論から来る財政観について,MMTがケインズ理解のどのような系譜にあると見るべきかについて,まだ断定する力がない。
※4.以下のノートで,金融政策重視の正統派と財政政策重視のMMTをくっきりと対比させてみた。
「MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(5)を読んで
野口教授によるMMT検討と批判第5回。政府に予算制約があるかないかという論点についての考察。
まず野口教授は「MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と理解する。次に,野口教授はこの分類から,MMTが「リカード・バローの中立定理」を否定していること,「物価水準の財政理論」(FTPL)による物価水準論も否定していることを正しく読み取られる。
ここまでは読解として問題はない。そしてこの確認は大変重要だ。1970年代以後,ケインズ的財政政策に加えられた批判の重要な柱は<課税と公債発行には本質的な差はない><赤字財政の効果は将来の増税によって相殺される>という「リカード・バローの中立定理」だった。MMTはこの定理を否定する。それは,価値観として否定するのではなく,原理的にこの定理が成りたたないような貨幣・財政理論を持っているということだ。MMTでは統合政府にハードな予算制約がない。だから赤字財政が将来増税を招くということが原理的にないのだ。ちょうど中央銀行が流通に必要な準備や銀行券を自己宛債務として供給するように,MMTの政府は経済を機能させるために必要な通貨を政府債務として供給する。MMTでは,政府は集めた税金の範囲で支出するのではない。経済を機能させるのに必要なだけを支出し,必要なだけを課税し,結果としていくら黒字だろうと赤字だろうとそれ自体は気にしなくてよいとするのだ(※1)。気にすべきは,経済が機能したかどうか,典型的には失業者がいなくなり,悪性インフレが起きないようにできているかどうかだ(※2)。
次に,野口教授が次のように言うのは適切でない。「赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである」。なるほど,MMTにとっては,<政府の予算制約><それ自体>に対する<配慮>は<無意味>である。MMTは,<望ましからぬインフレ>とその背後にある供給制約には厳重に警戒している。すなわち,一国経済の物的生産能力の天井が低く,あるいは/かつ物的生産性が低ければ,いくら財政拡張を行っても生み出せる実質所得は限られており,完全雇用か設備フル稼働の後はインフレになるだけなのである。野口教授がMMTのこの部分を無視されるのは公平ではない。
また,野口教授の次の指摘もおかしい。「正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、『財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する』という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない」。これは全く言いがかりであって,財政赤字の拡大と民間資産の増加による不況やデフレの克服はMMTでも,赤字ハト派の正統派と変わらず有効に機能する。例えばWrayが主張する,政府が財政を拡張して,失業者すべてを最低賃金で雇い,その賃金水準を調整するという政策が不況の克服策となる(※3)。なぜ,野口教授がMMTが大声で主張していることを正反対に解釈するのか,理解できない。
(第6回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論」Newsweek,2019年8月13日。
※1。MMTで直観的に一番わかりにくいところがここだろう。これまでMMTについて対話したすべての人が,ここで一端はつっかかる。私もそうだった。以下の拙文は,こう解釈すれば飲み込めるのではないかという試み。
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」
※2。私見では,MMTの最大の問題は財政赤字が拡大すること自体ではなく,失業を失くしインフレを起こさないように赤字の程度や増減の速度をコントロールできるのかというところにある。以下の拙文で述べた。
「最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて」
まず野口教授は「MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と理解する。次に,野口教授はこの分類から,MMTが「リカード・バローの中立定理」を否定していること,「物価水準の財政理論」(FTPL)による物価水準論も否定していることを正しく読み取られる。
ここまでは読解として問題はない。そしてこの確認は大変重要だ。1970年代以後,ケインズ的財政政策に加えられた批判の重要な柱は<課税と公債発行には本質的な差はない><赤字財政の効果は将来の増税によって相殺される>という「リカード・バローの中立定理」だった。MMTはこの定理を否定する。それは,価値観として否定するのではなく,原理的にこの定理が成りたたないような貨幣・財政理論を持っているということだ。MMTでは統合政府にハードな予算制約がない。だから赤字財政が将来増税を招くということが原理的にないのだ。ちょうど中央銀行が流通に必要な準備や銀行券を自己宛債務として供給するように,MMTの政府は経済を機能させるために必要な通貨を政府債務として供給する。MMTでは,政府は集めた税金の範囲で支出するのではない。経済を機能させるのに必要なだけを支出し,必要なだけを課税し,結果としていくら黒字だろうと赤字だろうとそれ自体は気にしなくてよいとするのだ(※1)。気にすべきは,経済が機能したかどうか,典型的には失業者がいなくなり,悪性インフレが起きないようにできているかどうかだ(※2)。
次に,野口教授が次のように言うのは適切でない。「赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである」。なるほど,MMTにとっては,<政府の予算制約><それ自体>に対する<配慮>は<無意味>である。MMTは,<望ましからぬインフレ>とその背後にある供給制約には厳重に警戒している。すなわち,一国経済の物的生産能力の天井が低く,あるいは/かつ物的生産性が低ければ,いくら財政拡張を行っても生み出せる実質所得は限られており,完全雇用か設備フル稼働の後はインフレになるだけなのである。野口教授がMMTのこの部分を無視されるのは公平ではない。
また,野口教授の次の指摘もおかしい。「正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、『財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する』という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない」。これは全く言いがかりであって,財政赤字の拡大と民間資産の増加による不況やデフレの克服はMMTでも,赤字ハト派の正統派と変わらず有効に機能する。例えばWrayが主張する,政府が財政を拡張して,失業者すべてを最低賃金で雇い,その賃金水準を調整するという政策が不況の克服策となる(※3)。なぜ,野口教授がMMTが大声で主張していることを正反対に解釈するのか,理解できない。
(第6回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論」Newsweek,2019年8月13日。
※1。MMTで直観的に一番わかりにくいところがここだろう。これまでMMTについて対話したすべての人が,ここで一端はつっかかる。私もそうだった。以下の拙文は,こう解釈すれば飲み込めるのではないかという試み。
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」
※2。私見では,MMTの最大の問題は財政赤字が拡大すること自体ではなく,失業を失くしインフレを起こさないように赤字の程度や増減の速度をコントロールできるのかというところにある。以下の拙文で述べた。
「最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて」
2019年8月26日月曜日
野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(4)を読んで
野口旭教授によるMMTの検討と批判第4回。クラウド・アウトは原理的に起こらないというMMTの主張を取り上げて批判している。
この回は奇妙である。野口教授は話の途中までは,MMTが<政府が財政赤字を出して支出を増やしても民間貯蓄を吸収することはない。むしろ民間貯蓄は増える。だからクラウド・アウトは起こらない>としている理由を,第1回で紹介されたMMTによる金融実務的解説に即して,おそらく正確に紹介している。ところが後半になると,「完全雇用下における政府の赤字財政支出は、一般に金利上昇と民間投資のクラウド・アウトをもたらす」ことは正統派はきちんと明らかにしているが,MMTはこれができていない,と言い出す。
そんなことはない。MMTは,財政赤字で所得を増加させられる限度は,物的・人的生産能力の実物的限界だとはっきり述べている。設備がフル稼働し,完全雇用が達成されたら,あとは財政赤字をいくら出しても民間投資をクラウドアウトし,インフレになるだけだ。これはMMTだけでなくすべてのケインズ派が同意するところだろう。このことは,MMTのどんな通俗的解説でも述べていることなのに,なぜ野口氏はネグレクトするのだろうか。
おそらくその理由は,私がまだ不勉強なMMTの所得決定メカニズムに野口教授が疑問を持たれたからだと思われる。野口教授の理解では,「MMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない」。そして,野口教授はここで一刀両断して終わらずに,MMTは民間投資の利子非弾力性を仮定しているのだろうと推定した上で,それでもMMTはおかしいという。「少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかない」というのだ。
MMTにIS曲線がないというのはおそらく正しい。MMTは,<利子率によって所得が決まるという単純なメカニズムがそもそもない>としていて,IS-LM分析を肯定しないのだろう。しかし,MMTに財市場が存在しないというのは無茶な批判で,前述の通り,生産能力の実物的限界は当然に想定されている。
逆のベクトルで言うと,MMTでは財政赤字の拡大は民間貯蓄を全く減少させない。だから,財政赤字分だけ所得が拡大しても金利に上昇圧力はかからないのだ。野口教授はMMTのこの説明を正確になぞったはずで,しかもその説明自体はとくに否定していない。ならば,<財政赤字が拡大しただけでは利子率は上がらない>と認めるのか。そうではなく,正統派の理論通りに,<財政赤字が拡大すれば利子率は上がる>というのであれば,金融実務に沿ったMMTの説明のどこがおかしいかを指摘すべきではないか。
こうして考えてみると,ここでもMMTと,野口氏が妥当だと考える正統派(ニューケインジアン)との違いは,あれこれの部分的理屈だけでなく,利子,投資,貯蓄の関係,それに関するケインズ理解なのだと思う。MMTは,<利子率を下げれば投資が増えるというものではない>と考えているのだ。おそらくケインズその人が述べたように,資本の限界効率に不確実性が大きいと見るからだろう。またMMTは<投資は事前に貯蓄が形成されていることを必要としない>,むしろ<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えているのだ。1-3回を読んだ時と同じ結論だが,ここに根本的な理論的相違があるのではないか。
引き続き第5回以後も読んで考えたい。
(第5回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。
この回は奇妙である。野口教授は話の途中までは,MMTが<政府が財政赤字を出して支出を増やしても民間貯蓄を吸収することはない。むしろ民間貯蓄は増える。だからクラウド・アウトは起こらない>としている理由を,第1回で紹介されたMMTによる金融実務的解説に即して,おそらく正確に紹介している。ところが後半になると,「完全雇用下における政府の赤字財政支出は、一般に金利上昇と民間投資のクラウド・アウトをもたらす」ことは正統派はきちんと明らかにしているが,MMTはこれができていない,と言い出す。
そんなことはない。MMTは,財政赤字で所得を増加させられる限度は,物的・人的生産能力の実物的限界だとはっきり述べている。設備がフル稼働し,完全雇用が達成されたら,あとは財政赤字をいくら出しても民間投資をクラウドアウトし,インフレになるだけだ。これはMMTだけでなくすべてのケインズ派が同意するところだろう。このことは,MMTのどんな通俗的解説でも述べていることなのに,なぜ野口氏はネグレクトするのだろうか。
おそらくその理由は,私がまだ不勉強なMMTの所得決定メカニズムに野口教授が疑問を持たれたからだと思われる。野口教授の理解では,「MMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない」。そして,野口教授はここで一刀両断して終わらずに,MMTは民間投資の利子非弾力性を仮定しているのだろうと推定した上で,それでもMMTはおかしいという。「少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかない」というのだ。
MMTにIS曲線がないというのはおそらく正しい。MMTは,<利子率によって所得が決まるという単純なメカニズムがそもそもない>としていて,IS-LM分析を肯定しないのだろう。しかし,MMTに財市場が存在しないというのは無茶な批判で,前述の通り,生産能力の実物的限界は当然に想定されている。
逆のベクトルで言うと,MMTでは財政赤字の拡大は民間貯蓄を全く減少させない。だから,財政赤字分だけ所得が拡大しても金利に上昇圧力はかからないのだ。野口教授はMMTのこの説明を正確になぞったはずで,しかもその説明自体はとくに否定していない。ならば,<財政赤字が拡大しただけでは利子率は上がらない>と認めるのか。そうではなく,正統派の理論通りに,<財政赤字が拡大すれば利子率は上がる>というのであれば,金融実務に沿ったMMTの説明のどこがおかしいかを指摘すべきではないか。
こうして考えてみると,ここでもMMTと,野口氏が妥当だと考える正統派(ニューケインジアン)との違いは,あれこれの部分的理屈だけでなく,利子,投資,貯蓄の関係,それに関するケインズ理解なのだと思う。MMTは,<利子率を下げれば投資が増えるというものではない>と考えているのだ。おそらくケインズその人が述べたように,資本の限界効率に不確実性が大きいと見るからだろう。またMMTは<投資は事前に貯蓄が形成されていることを必要としない>,むしろ<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えているのだ。1-3回を読んだ時と同じ結論だが,ここに根本的な理論的相違があるのではないか。
引き続き第5回以後も読んで考えたい。
(第5回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。
野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(1)(2)(3)を読んで
野口旭教授によるMMTの検討と批判。「MMTとは財政赤字を出しても問題ないという理論である」などという政治宣伝による賛否の争いでなく,経済学的な検討であって,誠にありがたい。野口教授はすでにWrayたちの教科書Macroeconomicsも読破されているようだ。現在,連載4回目であって,今後も続くようだが,ここまでの論点について考えたい。私はマクロ経済学の歴史的な系譜について素人なので,学びながらのノートのつもりだ。
まず1-3回について。
野口教授はMMTとマクロ経済学の正統派(ニューケインジアン)の違いは中央銀行の役割だとする。野口教授の理解では,MMTは中央銀行無能論に立っている。つまり金利が所与とされている時に中央銀行は受動的に中銀当座預金を調整するだけだとしている。これに対して正統派はマクロ経済の安定のためには金利調整が必要不可欠であり,だから「中央銀行がインフレ率と産出ギャップを両睨みしながら政策金利を調整する」というテーラー・ルールを採用しているのだという(シェア先はこのことが書いてあるページ)。
野口教授によるこの対比は,中央銀行の役割論としては妥当だと思う。だが,理論的には両者の背後に利子率に対する捉え方の決定的な違いがあるのではないか。
MMTは一定のケインズ理解により<利子率が貯蓄と投資を均衡させるのではない>と考えているし,<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えている。これは野口教授が参照されているビル・ミッチェルのブログ記事「自然利子率は『ゼロ』だ!」からはっきりとわかる。だから,物価に対して中立な利子率水準が存在し,それより利上げすればデフレを,利下げすればインフレを促すという発想をとらないのだ。MMTと正統派(ニューケインジアン)の根源的な違いは,大元をたどればケインズの理解の違いであり,利子,貯蓄,投資の関係の捉え方の違いなのではないか。
(第4回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割」Newsweek,2019年7月23日。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性」Newsweek,2019年7月30日。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜」Newsweek,2019年8月1日。
ビル・ミッチェル(望月慎訳)「自然利子率は「ゼロ」だ!」(2009年8月30日)「経済学101」2018年2月28日。
まず1-3回について。
野口教授はMMTとマクロ経済学の正統派(ニューケインジアン)の違いは中央銀行の役割だとする。野口教授の理解では,MMTは中央銀行無能論に立っている。つまり金利が所与とされている時に中央銀行は受動的に中銀当座預金を調整するだけだとしている。これに対して正統派はマクロ経済の安定のためには金利調整が必要不可欠であり,だから「中央銀行がインフレ率と産出ギャップを両睨みしながら政策金利を調整する」というテーラー・ルールを採用しているのだという(シェア先はこのことが書いてあるページ)。
野口教授によるこの対比は,中央銀行の役割論としては妥当だと思う。だが,理論的には両者の背後に利子率に対する捉え方の決定的な違いがあるのではないか。
MMTは一定のケインズ理解により<利子率が貯蓄と投資を均衡させるのではない>と考えているし,<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えている。これは野口教授が参照されているビル・ミッチェルのブログ記事「自然利子率は『ゼロ』だ!」からはっきりとわかる。だから,物価に対して中立な利子率水準が存在し,それより利上げすればデフレを,利下げすればインフレを促すという発想をとらないのだ。MMTと正統派(ニューケインジアン)の根源的な違いは,大元をたどればケインズの理解の違いであり,利子,貯蓄,投資の関係の捉え方の違いなのではないか。
(第4回の検討に続く)
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割」Newsweek,2019年7月23日。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性」Newsweek,2019年7月30日。
野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜」Newsweek,2019年8月1日。
ビル・ミッチェル(望月慎訳)「自然利子率は「ゼロ」だ!」(2009年8月30日)「経済学101」2018年2月28日。
2019年8月2日金曜日
大学院に行くのは個人の私的選択であるから支援する必要はないという文科省Q&A
「高等教育段階の教育費負担新制度に係る質問と回答(Q&A)(2019年7月3日版)」より。
ーー
Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は 18 歳人口の 5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では 20 歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
ーー
政府の文書に頭を抱えるのは日常茶飯事だが,これほどはらわたが煮えくり返ったのは久しぶりだ。
このQ&Aが言わんとすることは,「同年代の者には平均的に言って稼得能力があるのだから,大学院生を支援する必要性は低い」ということだ。通常,授業料等の免除は当人やその属する世帯の収入が高いか低いかを問題にする。いま教育無償化論は敢えて脇に置いて唱えないことにするが,ともあれ普通は当人や世帯が低所得だから支援するのだ。ところが,ここでは当人でなく,同年代の者に稼得能力があるかどうかを問題にしている。
なぜ,そんな回りくどいことを言うのか。考えられるロジックはただ一つ。「稼ごうと思えば稼げる年になってるのに,大学院にわざわざ行くのは個人の私的選択であって,とりたてて国が支援すべきものではない」というものだ。大学院生を育てて,研究者や技術者やマネージャーや起業家や公務員にすることの社会的意義などないというのだ。
10兆歩譲って,財務省が言うならば,嗚呼また始まったよといなしてもいい。だが,文部科学省が言っているのだ。
学部と大学院で全く扱いを同じにする必要があるかどうかは議論があるだろう。しかし,ことは根本的な考え方の問題だ。何歳の人間が大学院に入学するかは関係ない。また,その院生の高校や学部の同級生が大企業の社長か政治家や高級官僚(の給料は大したことがないか)か何かで大儲けしていようが,それは関係ない。一定の優秀な院生を育成して社会に送り出すことが重要なのではないか?そのために,一定人数は,当人の経済状態にかかわらず研究できるように支援すべきではないのか。文科省は,そういう見地から大学院大学化を推進し,大学院出身者の多様な進路の開拓を活躍を目指してきたのではないのか?
ところが今回のQ&Aは,いや,そんなことは重要ではない,大学院に行くのと趣味の有料サークルに入るのは同じ私的選択だと言っているのだ。くりかえすが,財務省の自己責任主義,財政赤字削減至上主義のプロパガンダでなく,修学支援制度に関する文部科学省の解説文書が!
注:この投稿はQ&Aの考え方を批判したものだが,大学院生に対する授業料免除が一切なくなると絶望的な解釈をしているわけではない。新修学支援制度の実施によって,大学院生を含んでいる従来の授業料免除制度が完全に上書きされてなくなってしまうのかどうか,まだ未解明かつ未決定な部分がある。はたの君枝議員(共産)は文科省の担当者に「文科省としては各大学の大学院生対象の授業料減免への国からの支援は続ける方向で検討していることを確認しました」とツイートしている。来年度予算で必要な措置がとられるように運動と働きかけを強める必要があるだろう。
ーー
Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は 18 歳人口の 5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では 20 歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
ーー
政府の文書に頭を抱えるのは日常茶飯事だが,これほどはらわたが煮えくり返ったのは久しぶりだ。
このQ&Aが言わんとすることは,「同年代の者には平均的に言って稼得能力があるのだから,大学院生を支援する必要性は低い」ということだ。通常,授業料等の免除は当人やその属する世帯の収入が高いか低いかを問題にする。いま教育無償化論は敢えて脇に置いて唱えないことにするが,ともあれ普通は当人や世帯が低所得だから支援するのだ。ところが,ここでは当人でなく,同年代の者に稼得能力があるかどうかを問題にしている。
なぜ,そんな回りくどいことを言うのか。考えられるロジックはただ一つ。「稼ごうと思えば稼げる年になってるのに,大学院にわざわざ行くのは個人の私的選択であって,とりたてて国が支援すべきものではない」というものだ。大学院生を育てて,研究者や技術者やマネージャーや起業家や公務員にすることの社会的意義などないというのだ。
10兆歩譲って,財務省が言うならば,嗚呼また始まったよといなしてもいい。だが,文部科学省が言っているのだ。
学部と大学院で全く扱いを同じにする必要があるかどうかは議論があるだろう。しかし,ことは根本的な考え方の問題だ。何歳の人間が大学院に入学するかは関係ない。また,その院生の高校や学部の同級生が大企業の社長か政治家や高級官僚(の給料は大したことがないか)か何かで大儲けしていようが,それは関係ない。一定の優秀な院生を育成して社会に送り出すことが重要なのではないか?そのために,一定人数は,当人の経済状態にかかわらず研究できるように支援すべきではないのか。文科省は,そういう見地から大学院大学化を推進し,大学院出身者の多様な進路の開拓を活躍を目指してきたのではないのか?
ところが今回のQ&Aは,いや,そんなことは重要ではない,大学院に行くのと趣味の有料サークルに入るのは同じ私的選択だと言っているのだ。くりかえすが,財務省の自己責任主義,財政赤字削減至上主義のプロパガンダでなく,修学支援制度に関する文部科学省の解説文書が!
注:この投稿はQ&Aの考え方を批判したものだが,大学院生に対する授業料免除が一切なくなると絶望的な解釈をしているわけではない。新修学支援制度の実施によって,大学院生を含んでいる従来の授業料免除制度が完全に上書きされてなくなってしまうのかどうか,まだ未解明かつ未決定な部分がある。はたの君枝議員(共産)は文科省の担当者に「文科省としては各大学の大学院生対象の授業料減免への国からの支援は続ける方向で検討していることを確認しました」とツイートしている。来年度予算で必要な措置がとられるように運動と働きかけを強める必要があるだろう。
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