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2020年1月24日金曜日

2019年の中国鉄鋼業の状況と,能力置換プロジェクト公告・登録の停止通知について

 1月22日,国家発展改革委員会は「鋼鉄行業2019年運行情況」を公表した。それによると,2019年の中国銑鉄生産は8億937万トン(前年比5.3%増),粗鋼生産は9億9634万トン(同8.3%増),鋼材生産は12億477万トン(同9.8%増)であった。鋼材は重複計算を含むので,実際は10億トン程度であろう。鋼材輸出は6429万3000トン(前年比7.3%減),輸入は1230万4000トン(同6.5%減)であった。
 粗鋼の方が銑鉄より前年比の増加率が高い。これは,製鋼工程での原料における銑鉄比率が低まり,鉄スクラップ比率が高まったことを意味する。鋼材生産の伸び,輸出の減少,輸入の減少から内需の増減を計算すると,単純計算で1億390万6000トンの内需拡大があったことになる。米中貿易摩擦やそれと関連した景気の減速にもかかわらず,鉄鋼生産は好調であり,貿易摩擦激化につながる輸出増は起こらなかったのだ。
 ただし,企業間競争が激しいことも読み取れる。鋼鉄工業協会会員企業の売り上げは10.1%伸びたが,利潤は30.9%も減少し,売上高利潤率は4.43%と,前年比で2.63パーセントポイント下降した。
 翌23日,国家発展改革委員会弁公庁と工業和信息化部弁公庁は,「関于完善鋼鉄産能置換和項目備案工作的通知」(発改電〔2020〕19号)を公表した。この通知は,1)鉄鋼生産能力置換方策の公告とプロジェクト登録の暫定的停止,2)現在の鉄鋼生産能力置換プロジェクトの自主検査を指示している。産業発展司によるその解説では,a)粗鋼生産が記録的な水準に達し,需給不均衡を引き起こす可能性があること,b)一部の能力が集中的に投資されるために需給バランスが崩れるリスクが高くなること,c)能力移転の科学的論証が不十分であり,地域の産業構造や環境の許容量や省エネ・汚染物質排出削減の観点から見て,構造調整の所定の結果を達成するのが難しいことを指摘している。
 この通知は重要な意味を持つ。中国政府は鉄鋼業の過剰能力を抑制するために,2016-2018年の3年間に,旧式・小型設備を中心に粗鋼生産能力を閉鎖させた。そしてそれと同時に「能力置換」政策を実施した。これは,閉鎖する設備と新設する設備を共に明示し,後者の製銑・製鋼能力が前者と同等か下回る場合にのみ設備投資を認めるというものであった。政策が文字通りに運用されれば,製銑・製鋼能力は中国全体として増えることなく,現代化されるはずであった。しかし,これまでも政策運用上のエラーや例外的措置によって,減量置換の原則を潜り抜けてしまった能力が存在すると推定されていた。私は,2016-2018年の能力削減実績が,政府によれば1.55億トンであるのに,同じ政府の公式統計を時系列で見ると1億トンにしかならないことの原因の一部は,ここにあったと推定してきた。そして今,能力置換が想定通りの効果を上げないおそれがあることを,政府自身が認めるに至ったのである。

国家発展和改革委員会「鋼鉄行業2019年運行情況」2020年1月22日。
https://www.ndrc.gov.cn/fggz/cyfz/zcyfz/202001/t20200122_1219726.html
国家発展改革委員会弁公庁・工業和信息化部弁公庁「関于完善鋼鉄産能置換和項目備案工作的通知」発改電〔2020〕19号,2020年1月23日。
https://www.ndrc.gov.cn/xxgk/zcfb/tz/202001/t20200123_1219768.html
国家発展改革委員会産業発展司「深化供给側結構性改革 促進鋼鉄行業高質量発展——《関于完善鋼鉄産能置換和項目備案工作的通知》解読」2020年1月23日。
https://www.ndrc.gov.cn/xxgk/jd/jd/202001/t20200123_1219770.html


※川端望(2019)「中国鉄鋼業の生産能力と能力削減実績の推計―公式発表の解釈と補正―」TERG Discussion Paper, 414, pp.1-8, November。
http://hdl.handle.net/10097/00126428


牧野邦昭『新版 戦時下の経済学者』中央公論新社,2020年を読んで

牧野邦昭『新版 戦時下の経済学者』(中央公論新社,2020年)読了。本書は「個々の経済学者が自身の経済学研究に基づいて主張した思想や行動が,現在の視点から見て当時の日本社会や経済学の動きのなかでどのような役割を果てしており,最終的にはどのような形で総力戦体制に取り込まれざるを得なかったか」(まえがき)を論じている。2010年に刊行された旧版を,著者のその後の研究の進展を踏まえて改訂したものである。

 登場するのは河上肇と有沢広巳を除くと非マルクス経済学者であり,柴田敬,山本勝市,大熊信行,難波田春夫,高田保馬,荒木光太郎,中山伊知郎,安井琢磨といった顔ぶれである。戦時下のマルクス・元マルクス経済学者を論じた本として長岡新吉『日本資本主義論争の群像』ミネルヴァ書房,1984年があるが,異なる問題意識から書かれたとは言え,同書と本書には重要な補完関係があるように私には思える。同一時代の経済学者の生き方を論じたマル経版,近経版として併読する価値があるようにも思えた。なお,「近代経済学」という言い方がなぜ日本に定着したかも本書の一つのテーマである。

 本書にはいくつかのストーリーがあり,どれに深い印象を受けるかは読者の問題関心による。私の場合,読んでいてまったく昔のことと思われなかったのは,戦時下での経済学のイデオロギー化である。具体的には,一般均衡理論の紹介者であり戦時下でも経済学は経済学として存立するとした中山伊知郎らの「純粋経済学」と,国家が政治的な力を以て財や労働の配分を行うという大熊信行らの「政治経済学」や,日本の後発的な経済発展は「国体」に包摂されて共同関係となることで支えられるという難波田春夫らの「日本経済学」の対立のところだ。後二者には具体的内容がないので,今となっては純学問的には中山らの方に分がある。ところが戦時体制下では,経済政策を学問的に論じようとしても,どちらが戦時体制に貢献しており,どちらが敵対していて怪しからんかという文脈から離れられなかった。だから瀧川事件や天皇機関説事件で知識人を攻撃していた右翼中の右翼のはずの蓑田胸喜が,中山を擁護して新体制運動を批判するということも起こった。「資本主義原理の変革を伴う経済統制を主張するにしろ,市場の重視を訴えるにしろ,何を言っても『マルクス主義者』『アカ』そうでなければ『自由主義者』『資本主義擁護者』として批判されるというダブルバインド状態が生じることになった」(158ページ)。何を言っても政治的レッテルの応酬になるというこの光景は,戦後も今に至るまでも,社会科学者におなじみのものである。「あとがき」で著者が述べるように,「研究をしていくなかで実感したことは,人間がその時代の制度や支配的な思想から逃れることがいかに難しいかということである。自身が普遍的な立場に立っているつもりで発言しても,また心の底から善意で行動していても,それが結局のところ特定の制度や思想を支える役割を果たすことになってしまう」のだ。

 本書は,この困難を投げかけて終わっている。では,どうしたらよいのだろうか。私自身にも正直,解らない。少なくとも経済学者は,学問は学問として政治的な都合を離れて追求することを任務としつつ,それでも自分たちが社会に埋め込まれ,何かを促進したり抑制したりしていることに自覚的でなければならないだろう。

著者のもう一つの著作『経済学者たちの日米開戦:幻の『秋丸機関報告書』の謎を解く』への感想はこちら。私はこちらを先に読んだが,本書新版の方が説得力が高いと思う。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/01/2018.html

牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』新潮社,2018年を読んで

 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』新潮社,2018年。日米の経済抗戦力の巨大な格差を分析した「幻の報告書」が握りつぶされたのが問題だという,先行研究の捉え方を覆し,むしろ握りつぶされずに正確な情報が伝わったのに開戦阻止につながらなかった,いや開戦を後押しさえしたかもしれないという逆説を主張した本である。この逆説はたいへん面白かった。

 これは「経済学者の合理的判断をちゃんと聞けばよいのに,聞かないからおかしなことになる」という,現代の経済学者が大好きなストーリーでは,秋丸機関報告書の問題は解釈できないということである(そもそもこうしたストーリーは,<私は合理的で冷静だ。でも,政治家や軍人は違うんだよなあ>という暗黙の前提に立っており,あまり信用してよいものではない)。さらに,学者は,ハイ・コンテキストな状況に対して,どう発言するべきなのかという問題提起を含んでいる。中立的な発言が特定方向の決定を後押しする,はなはだしくは,ある行為に対する否定的見解が,むしろその行為を決意させる(自己破壊する予言)ような状況にどう立ち向かうべきなのかという問題だ。

 ただ,後半の,それでも開戦に踏み切ったという理由の説明のところで,個人の選択に関する抽象的なモデルで推論してしまっているところが残念だった。1)開戦が決定されるのは集団の力学の中でだと考えた方が妥当であり,個人の意思決定モデルから推論することは適当とは言えないのではないかという点と,2)歴史書として書くならば,開戦の意思決定も理論モデルではなく,それを歴史的な過程に即して実証すべきではないかという点に,疑問が残った。本書の結論自体が,ハイ・コンテキストな問題を経済学の理論で切り取れる範囲で評価することの問題を示しているように思えるのだ。

2019年7月2日 Facebook投稿。
2020年1月23日 一部改訂してBlogger掲載。



2020年1月19日日曜日

「この外国人をホワイトカラー職務に就かせる」と約束して肉体労働をさせる違法行為は,外国人労働者も日本人労働者も大学をも脅かす

 「“高度外国人材”として働けない」NHKニュースおはよう日本,2020年1月14日で報道されているように,「技術・人文知識・国際業務」ビザの外国人労働者に土木作業,倉庫の整理,牛舎の片づけやえさやりなどをさせているのは違法行為である。外国人労働者当人でなく,会社によって引き起こされている違法行為だ。研修のために入社後数か月現業の技能労働をさせるのはよいが,当然本人にその計画を理解してもらわねばならない。ここで摘発されているのはそのような例ばかりでなく,恒久的に肉体労働に従事させられていたのだろう。
 NHKで取り上げられている例は留学生ではない。だが,同じようなことが留学生が日本の大学を卒業・修了した場合に行われると,大学のあり方にも影響が出てくる。
 現在,事実上の就労目的での留学が拡大していると報道されており,その対象が日本語学校から,一部でたらめな留学生受け入れを行っている大学に広がっている。そこでは法の抜け道としてのアルバイト就労が問題になっている。そうした状況下で,学校卒業後に日本で就労できるかどうかを在留資格の切り替えによって管理することは,不正常な就労を防ぐ砦になっている。「大卒でホワイトカラー職への採用が決まったら『技術・人文知識・国際業務ビザ』に切り替えられるし,実際にホワイトカラー業務に就ける」という条件を崩してはいけないのだ。ここが崩れると,外国から日本の大学に留学して,学部卒業後,ブルーカラー業務につくというルートができてしまう。一方で日本の留学生受け入れ拡大策を国際交流でもイノベーション促進策でもない単純労働力確保政策にしてしまうものであり,高等教育の無駄遣いだ。他方で「特定技能」資格によってブルーカラー外国人労働者の質と処遇を保証しようという制度が骨抜きになって,ブルーカラー外国人労働者の需給管理が困難となってしまう。端的に供給過剰になって外国人労働者の処遇は下がるし,日本人労働者との競合が発生する恐れがある。
 だから労働政策の立場から見ても大学の立場から見ても,このような違法行為は厳重に取り締まらねばならない。日本の大学を卒業した留学生が労働者となる場合は,会社がブルーカラー職務でなくホワイトカラー職務に就けると約束した場合にのみ「技術・人文知識・国際業務」ビザへの切り替えを認めるという,現在の制度を守らねばならない。そして会社には,その約束を守らせねばならないのだ。

<関連投稿>
「外国人留学生が卒業後に起業することは促進すべきだが,在学中の起業は認めるべきではない理由」2019年6月13日。
「続々:留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」2019年5月29日。
「続・留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」2018年11月3日。
「留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」2018年10月22日。


2020年1月13日月曜日

テッド・チャン『息吹』『あなたの人生の物語』を読んで

テッド・チャンの中短編集から考えさせられるのは,時間に対する感覚や意識的・無意識的な思考の枠組み,あるいは思い込みが,私たちのものの見方,考え方,人生に対するとらえ方を深いところで規定しているということだ。作者は,その感覚,枠組み,思い込みが通用しない世界を見せてくれる。ただし,読者の感覚を暴力的に揺さぶって怯えさせるのではない。時間が,私たちが普段考えているのとは違う形,違う秩序を取り,違う風に流れる,あるいはそもそも流れない世界を鮮やかに構築して,そこに読者をいざなうのだ。そして,別の見方,別の考え方,別のとらえ方があると気が付かざるを得ないようにしてくれる。運命がすべて決定されているとしても,それを受け入れて価値ある人生を送ることは可能だろうか。逆に運命に無数のバラエティがあるならば,決断に意味があるだろうか。過去を正確に知ることは,現在にどのような可能性をもたらすだろうか。テッド・チャンの世界では,それらの問いがまったく自然に目の前に現れてくるのだ。

Ted Chiang, Exhalation: Stories, Alfred A. Knopf, 2019.
https://www.amazon.com/Exhalation-Stories-Ted-Chiang/dp/1101947888/
テッド・チャン(大森望訳)『息吹』早川書房,2019年。
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014399/

Ted Chiang, Stories of you life and others, Vintage Books, 2002.
https://www.amazon.com/Stories-Your-Life-Others-Chiang/dp/1101972122
テッド・チャン(浅倉久志ほか訳)『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫,2003年。
https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11458.html


2020年1月6日月曜日

井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』講談社,2019年を読んで

 本書は,MMTの経済学的な主張をなるべくわかりやすい形で考察しようという本であり,日本経済の現状分析やMMT派の政策宣伝,またMMT派や否定派の双方にありがちな論敵への批判を重点に置いた本ではない。その点では,MMTを冷静に理論的に考えることに向いている。私もそういうものとしてMMTと本書の主張を経済学的に考えたい。
 著者はMMTに全面的に賛同しているわけではない。第1章でMMTの提起する論点を3つ挙げ,「(1)財政的な予算制約はない」に賛同し,「(2)金融政策は有効ではない(不安定である)」に保留し,「(3)雇用保障プログラム(JGP)を導入すべし」には反対で(25-28ページ),むしろベーシック・インカム(BI)を支持している。
 第1章から第3章までは,MMTの貨幣論の基礎的解説で,他の解説本と変わりはなく,大まかにはコメントすべきことはない。しかし,もちろん解説書としてこれらの章には意義がある。実は,通貨発行権を持つ国家は自国通貨建て債務についてデフォルトすることはないという基本論点は,専門家レベルでは主流派経済学者も財務省公式見解も含めて議論の余地がない(19-20ページ)。しかし,直感に反するため一般的にはなかなか理解されにくく,すべてのMMT解説本は繰り返し説明しなければならない。大儀なことであるがやむを得ないだろう。
 第4章では,著者は金利政策によってインフレ率をコントロールできるかという問題を立てて,あれこれ考察した末に保留している。著者は右下がりの貨幣需要曲線が存在するかどうかを「右下がりのグラフがおよそ安定的に成り立つと考えています。ただ,MMTの主張を頭ごなしに否定しているわけではなく,実証分析の結果をよく精査して判断すべき問題と思っています」という(91ページ)。しかし,私はこの姿勢に疑問である。著者は本章でミンスキーモデルを紹介し,またなぜかこの章ではないところでアニマル・スピリッツと流動性選好の作用に肯定的であり,さらにキーストロークによって通貨の創造が可能であることを認めている。つまり,投機的な需要は利子率の動きに左右されず,実質利子率は流動性選好に左右されて不安定になり,アニマル・スピリッツに左右されて投資の意思決定は不確実であり,利子率は貯蓄と投資を裁定するのではないことを認めている。なのに,金利が下がれば貨幣需要は増えるという関係の安定性を首肯するところは納得しがたい。
 第5章ではJGP,すなわち政府が「最後の雇用者」として希望者全員を一定の賃金で雇用することによって完全雇用を実現するというMMTの政策提言について論評している。著者は,「最大の問題点は,政府が雇用した労働者に何をさせるかということにあるでしょう」(115ページ)とし,それがプロフェッショナリティを必要としない仕事であるならばそのような仕事がそんなにあるのかと問いかけている。そして,無駄な仕事をさせることになりかねないので,それよりはBIを実現して,多くの人々が労働する必要がなくなる「脱労働社会」を実現することを推奨している。私は,著者のJGP批判は,政府が適切な職務を適材適所で割り振れるのかという,いわゆる「政府の能力」問題の指摘として一理あると思う。しかし逆に,BIを実行した場合に,購買力だけが肥大化して必要な財・サービスが不足するディマンド・プル・インフレ,あるいはボトルネック・インフレ(それはコスト・プッシュインフレの形をとる),さらに経常収支赤字の拡大を招かないかという疑問を持つ。またもう一つ,現代社会には医療や介護や教育や科学研究や技術開発や環境保全のように,実物やサービスの給付や市場メカニズムだけでは保証されない領域があり,それらはたとえ「政府の能力」問題があろうとも,公共セクターの雇用を拡大し,公共サービスを供給しなければ対処できないと思える。どうもこの章を読んでいると,著者は現代資本主義の問題を<仕事の機械化が進み,財もサービスも十分あふれていて,専門性の高い仕事以外は人間にはやりようがない>という風にとらえているように思えてくる(未読だが,あるいは著者の別の著作『純粋機械化経済』はそう言っているのだろうか)。しかし私は,<なすべき仕事がなされないままに,人は失業し,機械や物資は遊休している>という資本主義観に立つ方が有効ではないかと思う。私はJGPを肯定してBIを否定するわけではない。初歩的BIとしての負の所得税なら実行しやすいできるのではないかと思っているし,JGPにはミスマッチや専門家不足という問題もあると思う。しかし,だからといって著者のようにBIをJGPよりよしとする考えには強い疑問を持つ。
 第6章は,なぜか再び「政府が永遠に借金し続けることは可能だろうか」(126ページ)という問題に戻り,経済理論的な考察によってこれに回答している。著者は,たとえ主流派経済学を基礎にした「貨幣的成長モデル」にしたがっても,経済の実質成長率に対応して貨幣成長率を維持しないとデフレになることを確認する。ということは,中央銀行と政府を一括して統合政府とみなし,貨幣が政府債務であることを認める限り,経済成長とともに政府債務は増えざるを得ないのであって,これは主流派経済学でもMMTでもかわらないのだという。おそらく著者は,これが相当うまい理論的サーカスだと考え,財政赤字タカ派論はもとより赤字ハト派論,つまり「短期には赤字があってよいが長い目で見るとしても均衡財政は必要だ」論に対する反論,あるいはそれらへの説得として巻末に置いたのだろう。主流派経済学でもMMTに準じることを言っているのと同じではないか,というのである。しかし私は,著者はかなり急所を突いているが,赤字タカ派や赤字ハト派,つまりは短期・長期の均衡財政論を覆すには十分ではないと思う。なぜなら,財政均衡論は通貨の債務性を実質的に認めていない場合がほとんどだからだ。学問的なものであれ通俗的なものであれ,財政均衡論は国債は政府債務だと考えて重視するのだが,中央銀行当座預金や中央銀行券がいくら増えても債務の増大として問題にしない。そして,こうした態度の学問的裏付けとして,貨幣は実質的には信用貨幣(債務)ではなく価値シンボルだとし,政府は価値シンボルを何らかのヘリコプターマネーで供給し,強制通用力で通用させていると主張するのである。だから財政均衡論者は著者に説得されず,<通貨は債務ではないのだから,通貨を増大させる必要性と政府債務増大の必要性は関係ない>と言い張るだろう。
 しかし,私は,著者は問題の所在は突き止めたとも思う。財政均衡論は,通貨=債務という信用貨幣論を拒否することで,通貨の増大=政府債務の増大という現実を否認している。よってこの誤りをただすには,通貨=債務という信用貨幣論の承認がどうしても必要なのである。MMTは信用貨幣論という貨幣論をとるからこそ,政府債務増大が自然なことだと主張できるのである。本書末尾に置かれたこの章は,的の中心を射抜かなかったものの,MMTがどのような的を射抜くべきか,どうしてMMTは弓の引き手にふさわしいのかを示す思考の踏み台としては,よい位置に置かれていたと,私は思う。
 以上のように,本書は,私自身が賛成できる部分もできない部分も含め,MMTをめぐる論争に一石を投じるものと言える。読者が,著者や互いの政治的立場性や学問的正統性を性急に問うのではなく,本書を材料に経済学的な討論を深めることが望まれる。

井上智洋(2019)『MMT 現代貨幣理論とは何か』講談社。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000327823


2019年12月26日木曜日

マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」とホンダの事例

 大学院前期課程講義の特論テキスト。今回はMichael Porter, Competing Across Locations: Enhancing Competitive Advantage through a Global Strategy, in Porter, On Competition, A Harvard Business Review Book, 1996(マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」『競争戦略論II』ダイヤモンド社、1999年)だ。実は、この論文はポーターの主要な理論が結集されていて、1本で競争戦略論も価値連鎖論も戦略本質論も国の競争優位論もグローバル戦略論も学べる超便利論文だと私は思っている。その上、比較優位論やヴァーノン説やハイマー説への事実上のコメントが巧みに織り込まれている。アイディアを提示し、従来のアイディアを統合してナラティブを作り出す、ポーター教授の論文をなめてはいけない。最近、経営学関連の出版物では、「学術論文をちゃんと学べ」と言いたいあまりなのだろうが、ポーター教授の一般向け論文が学術論文とは違うことをことさらに強調する傾向がみられる。私はこの傾向に賛成できない。




 とはいえ、この論文は事例がだいぶ古くなっているので、「この事例は実は当てはまらないのか、形を変えているがやはりこの理論の事例になるのか」という点検は必要だ。ノーザン・テレコムがもう存在しないとかいろいろあるのだが、何よりホンダの事例が問題だ。例えば「ホンダは、自動車とオートバイ双方のホームベースを日本に置いており、高度な活動のほとんどは日本で進めている。ホンダのオートバイ製造能力の76%、自動車製造能力の68%は日本国内に立地する」というところは、現在では全く異なる。しかし、私はオートバイ事業の状況しか把握していないが、現在までのホンダの歩みは、むしろ分野別の複数のホームベース、そしてホームベースの移動の例として、いまもふさわしい。

 これを示すには、横井克典先生の『国際分業のメカニズム』同文舘出版、2018年に掲載されている以下の図が便利だ。この図は素晴らしい。図の読み方は各自、同署にあたっていただきたいが、かつて三嶋恒平氏が大学院生の時に東南アジアオートバイ産業論の研究支援をした経験からすると、この図を完成させるまでに血と汗と涙が流れまくるほどの実態調査、事実の発見が必要だったことは間違いない。宣伝を兼ねるので転載をお許し願いたい。



ベトナム国有鉄鋼企業TISCOの第2期工事停滞問題:本質は国有企業改革の失敗だ

 ベトナムの国有鉄鋼企業TISCO(タイグェン・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション)の第2期工事停滞問題は,ついに商工省元幹部や親会社VNスチールの元・現役員の党規律違反や逮捕を問う事態に発展した。私がインタビューしたことのある人も責任を問われている。
 英語記事を読んでも,何にどう違反(violation)したのか,党規律なのか法律なのかがはっきりしない。いずれにせよ私には,個々人が悪意や私欲のために動いて規律や法を犯したことが本質だとは思えない。
 根本にあるのは,国有企業であるVNスチールを支援もせず,しかしガバナンス改革もせずにいたというベトナム政府の企業改革上の無策である。財政支援を受けられず,だからといって民営化や経営効率化を迫られるわけでもなかったVNスチールは,漫然と量的拡大投資を続け,それらの多くが中途半端で競争力のない設備になった。その最悪の例がTISCO-IIであったということだと思う。

参考
川端望「ベトナム国有鉄鋼企業の衰退とリストラクチャリング」

「ハノイ党委書記のハイ氏、副首相在任中の違反で処分へ」VIET JO,2019年12月11日。

2019年12月24日火曜日

レイモンド・ヴァーノンのプロダクト・サイクル論と大都市圏研究

 Raymond Vernon, “International Investment and International Trade in the Product Cycle, Quarterly Journal of Economics, Vol. 80, May 1966.プロダクト・サイクル論の元祖である。大学院でもう少なくとも7回講義しているのだが,今回は,ヴァーノンがこの論文以前に行っていたニューヨーク大都市圏研究との関係をとりあげた。これは経済地理学者には当たり前のことなのだが,今回ようやくヴァーノン(蝋山正道監訳)『大都市の将来』東京大学出版会,1968年(原著1960年)を併読して論じることができた。

 ヴァーノンの理論には,一般的な立地法則がきれいにモデル化されている側面と,実は市場の不完全性を強く指摘している側面という二面性がある。ここでは前者を取り上げる。プロダクト・サイクル論のこの側面は,『大都市の将来』と併読すると理解しやすい。

 ヴァーノンは,輸送費,賃金,外部経済などを産業立地を規定する要因とし,どの要因が強く作用するかによって産業や製品を区分する。これは大都市研究でもプロダクト・サイクル論でも同じだ。しかし,違いもある。
 大都市圏研究ではこれらによって,同時点での産業の類型をとらえていた。輸送費が重要な産業,賃金コストが重要な産業,外部経済が重要な産業という具合である。しかし,プロダクト・サイクル論では新製品が成熟化し,標準化していくという時間進行によって,立地優位性が移り変わっていくととらえているのだ。
 これはプロダクト・サイクル論と雁行形態論の違いにもかかわる。両者は,小島清が自ら整理したように,先進国から見たサイクルと途上国から見たサイクルとして対比されることが多い。しかしもう一つ,「何が変わることでサイクルが進むのか」が異なる。プロダクト・サイクルは製品や工程の設計が標準化することによってサイクルが進む(ドミナント・デザイン論の萌芽)。つまり製品・工程が変わる。一方雁行形態論は,各国で資本と知識の蓄積が進むことによって要素賦存の相対関係が変わることによって雁行が国際的に伝播する。つまり,国の要素賦存が変わるのだ。これが両理論の違いである。

 ここまでで確認したいのは,ヴァーノンのプロダクトサイクル論とは何よりも立地論,あるいは立地優位性の理論だということだ。そこから直接的に導けるのは,単純な要素賦存説とは違うものの,ある種の比較優位論であり,したがって貿易論である。直接投資論ではない。プロダクトサイクル論を何よりも直接投資論と捉えるのは適切ではないのだ。

 写真の板書は1枚目がプロダクトサイクル論。2枚目が雁行形態論。3枚目は,論文をカフェでばかり読んでいることと,7回読んでも覚えない証拠。





2019年12月21日土曜日

「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」というマーガレット・サッチャーの主張は正しかったか?:MMTの貨幣論で考察する

 2019年12月21日付の『日本経済新聞』は2020年度当初予算案に寄せて、かつてマーガレット・サッチャーが「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」と発言したことを紹介している。確かに検索してみると1983年の保守党大会で"There is no such thing as public money. There is only taxpayer's money"と演説している動画が見つかる。

 この演説は二つの意味を持つ可能性があるが、いずれにしても間違っている。

 もしサッチャーが、「政府のお金」に誰が権利を持つかという意味で言っているのであればどうか。権利を持つ主体は納税者だけではない。国民とも呼ばれるべきである。自国に住む外国人を含むという意味で、納税者という言い方も間違ってはいない。しかし、低所得であるなど様々な理由で課税を免除されている自国民にも権利はあるし、納税の多寡によって国民の主権者としての資格が変わるわけでもない。

 では、彼女が「政府のお金はすべて納税者が納税したものである」という意味で言っているとすればどうか。これは正しいと思う人も多いかもしれない。政府は納税額の範囲内で支出すべきだ、財政赤字を出すべきでないという考えも世の中には強いからだ。だが、私はこれも間違いだと考える。

 政府は万能ではなく、お金を生み出せないという人がいるかもしれない。もしも国の「富」についてであれば、それはだいたい正しい。国の富は、そこに住む国民や、国内に住む外国人、それと海外に住む国民の生み出したものである。政府機関が生み出す富もあるが、そこでも国民や住民が働いていることには変わりはない。

 しかし「お金」は違う。狭義の政府は、法制度がそれを許すならば政府紙幣・貨幣によってお金を創造できるし、広義の政府に属する中央銀行は中央銀行券や中央銀行当座預金を作り出すことができる。なぜ創造できるかというと、これらは債務証書だからである。債務を負うことによって債務証書を発行できるのは何の不思議もない。債務証書だから、納税者が納税した金額と1対1対応することなく、作り出すことができるのだ。

 それは中央銀行については認められるが、政府については認められないという人もいるかもしれない。しかし、認めるべきなのだ。具体的に見よう。

 政府が国債を発行して債務を負う場合を考える。政府は調達した資金を支出するので、それによって通貨量(マネーストック)は増える。そして、国債で資金を調達しても通貨量は減らない。中央銀行が引き受ければもちろん減らないし、銀行が引き受けてさえも減らない。それはおかしいという人も多いだろうから、さらに具体的に説明しよう。

 国債引き受けの代金は、銀行が中央銀行に持つ当座預金から政府預金への振り替えによって支払われる。これで銀行全体が持つ中央銀行当座預金は減少する。ところが一方で政府支出によって通貨量が増えるので、これが受け取った会社の銀行口座の残高増になる限り、銀行預金が全体として増大し、中央銀行当座預金も増える。よって、タイムラグやテクニカルな要因による変動を除けば、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロになる。

 銀行の預金通貨は増え、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロだから、通貨量は明らかに増えている。納税者の納税額が増えなくても、政府が借金をして支出すると、通貨は創造されるのである。

 しかし、政府の借金は将来返済されねばならないのではないか、それで通貨が増大したと言えるのか、という人がいるだろう。それは場合による。政府債務が増大し続けることで問題が生じるのは、デフォルトを起こす場合、デフォルトの懸念による信用不安を起こす場合、そして通貨量の増大が需要超過・供給不足やボトルネック、独占・寡占などによりインフレを起こす場合である。このような場合、政府は債務を削減しなければならない。逆に言えば、これらを引き起こさない限り、政府債務が存在することは問題はないのである。

 問題のない範囲で政府債務が拡大する場合には、債務が増大する分だけお金が創造されて、通貨量は増大する。だから「政府のお金というものは存在する」。政府は万能ではない。富は人民が作り出さねばならない。しかし、お金については政府が創造できるのである。

 もちろん、問題ない形で政府債務を増大させることは容易ではない。政府には完全雇用やセーフティネットの供給や国防や警察という使命を果たすために支出を行う必要がある。だから、政府支出は膨張しがちになる。その際に、デフォルトを起こさないためには債務を自国通貨建てに限ることが必要である(自国通貨建てならばいくらでも借り換えができてデフォルトを心配せずに済むからだ)。インフレを起こさないためには財やサービスの高い生産性での供給を促進することが必要である。ボトルネックや独占・寡占の弊害は取り除かねばならない。だから産業政策や競争政策が必要だ。政府の使命は容易ではない。

 しかし、財政均衡を保ったり、生まれた債務を極小化しようとすることそれ自体は、政府の使命ではない。政府の努力は、財やサービスの生産促進や独占禁止や完全雇用の実現に対して傾けられるべきであり、それによって国が豊かになり、生活が安定し、公平さが守られる。その際の注意は、それらの実現の過程でインフレを起こさないようにすることに対して払われるべきである。

 インフレが起きそうな時や、外国からの借り入れがデフォルトしそうなときは債務が削減されねばならない。しかし、無条件に、いつでもどこでも債務を削減しようとしたり、債務の総額が大きいというそれだけの理由でこれを敵視したりすることは、まったく無意味なのである。

 以上はMMT(現代貨幣理論)に沿った解説であるが、特定の価値観に依拠したものではなく、むしろ金融実務に沿ったものであることをご理解いただけると幸いである。

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...