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2025年11月22日土曜日

高市政権下での経済政策についての覚書:対案の方向性

 高市政権下での経済政策についての覚書。評価と対案の方向性


*総需要刺激はインフレ・円安を加速するので生活を救えない

 高市政権が,補正予算と減税で生活を支援しようということ自体は結構である。しかし,それだけやればインフレと円安を加速し,効果は台無しになってしまう。供給能力が限られている局面で需要だけ刺激してはだめなのである。


*生活救済と社会改革を再分配で

 いまは,生活救済は,総需要を過熱させないように再分配で行わねばならない。高収益の大企業や富裕層に課税する。また社会的な環境・安全コストを賄うための課税,たとえば地球温暖化対策,タバコの健康被害対策,インフラ劣化対策,山林保全,オーバーツーリズム対策などのための課税などを強めねばならない(だから出国税引き上げはよい)。所得税は単純減税でなく,累進性を強めて富裕層には増税しなければならない。中間層以下は減税し,課税最低限以下の個人には逆に給付すべきだ。消費税減税でもよいが,必ず富裕層増税とセットにするべきだ。同じようにNISAは拡大しても良いが大口のキャピタルゲイン課税は強める。
 こうして総需要はプラマイゼロに近づけてインフレと円安を抑えると同時に,再分配で物価高対策をするのである。


*賃上げを政策支援する

 人手不足なのにGDPは上がらず実質賃金が上がらず,物価だけが上がるのは異常である。労働組合が頼りにならないので対策が難しい。政策でできることとしては,賃金が物価高に追いつくように,最低賃金引上げ速度を上げるべきだろう。非正規へのボーナス支給や退職金支給を促す働き方改革法制の充実も必要だ(緊急には行政解釈の強化でもよい)。賃上げはもちろん「賃金・物価スパイラル」につながるが,賃上げ分の価格転嫁は,他の理由で起こっているインフレよりはましである。


*人の面から供給能力を高める

 供給能力の方も高めねばならない。画期的イノベーションも必要ではあるが,まずは足りないのが人であることに注意すべきだ。だからといって労働時間規制を緩和しては過労死社会への逆戻りである。そうではなく,女性全般と高齢者全般が自らの意志で正規雇用につけるように環境整備すべきだろう。非正規労働者はジョブ型正社員や短時間勤務正社員に転換して職務に見合ったボーナスや退職金を支給する(上記)。退職後再雇用で賃金が激減することを防ぐために,賃金の職務対応部分を明示する法制化をめざし,さしあたり現行法制内で行政解釈を強める。外国人労働者は,日本語能力要件の引き上げや労働市場テストによる総枠制限で数を調整する。そうして,一方では日本人と競合しないようにしながら,他方で外国人労働者自身が買いたたかれたり搾取されないようにし,全体としてスキルを高める。
 これらは,供給能力を高めると同時に,労働の時間単価は上げることになる。こうして企業経営者には,低賃金利用の誘惑をなくして生産性向上を促す。


*中小企業の活性化

 労働者を支援する政策により,コストアップで苦しくなる中小企業も確かにあるだろう(※)。そこですべきは救済のための融資や給付ではない。技術支援や経営活性化支援,事業継承支援を強化する。また下請け法を厳格に適用して,大企業による交渉力格差を乱用した搾取を止める。商業分野ではまちづくり提案に支援する。こうして,競争を公平化して真面目な中小企業に有利としつつ,全体の生産性を高めていく。


※ちなみに国立大学の管理職としても個人的には困るのだが,日本全体を考えた政策論としてはやむを得ない。この対策としては,運営費交付金を,せめて人事院勧告対応賃上げ分と水光熱費値上がり分だけ補填すべきである。これは,公的セクターの賃上げ実現という需要面と,科学・技術の水準の支えという供給面の双方にとって必要なことである。


 以上。しばらくはこの線で考えたい。なお,この議論に不足しているのは社会保障とその財政の在り方であって,これはもっと勉強しないと何とも言えない。

2025年10月30日木曜日

アベノミクスの金融・財政政策を継承すると,物価高対策にならない:高市政権下でのマクロ経済政策の方向性について

 高市政権は,金融緩和,財政出動という意味でアベノミクスを継承する気配を見せている。むしろ財政支出に関してはアベノミクスより積極的になるかもしれない。アベノミクスは,金融緩和は政府の日銀への圧力のもとで「超」がつくほど徹底して行ったが,財政赤字はそれまでの水準を維持したというレベルであり,さらに拡大したわけではなかった。むしろコロナ後の岸田政権以後の方が,財源の手当てなく大型支出を次々提案している。防衛費のGNP比2倍化,子育て支援,グリーントランスフォーメーション等々である。高市政権では,物価高対策を理由に何らかの形での家計向け減税が加わるであろう。これは歳出増というより,むしろ歳入減となる面が強いが,赤字財政による需要刺激という点では同じである。

 高市政権の政策の詳細がどうなるかが判明するのはこれからである。しかし現時点で重要なことは,金融緩和,財政出動をいま行うとどうなるかを考えておくことである。それが,今後の政策評価の出発点になるだろう。

 ここで大事なことは,2010年代に行われたアベノミクスと,2025年以後に行われそうな高市政権の金融緩和・財政出動では,経済環境も違うし,予想される結果も違うということである。

 まずアベノミクスは,物価がほとんど上がっていない状態と,円ドル相場が購買力平価より高い状態(世銀国際比較プログラム2011推計)から出発した。また,失業率も4%を超えている下で出発した。そこで,金融を引き締めるよりは緩和する方向に,財政を引き締めるよりは拡大する方向に舵を切るのはもっともなことであった。その限りでは普通であった。

 問題は,アベノミクスは,物価上昇率を年率2%にすることをめざし,とくに財政よりも金融政策に力を入れてこれを実行しようとしたことである。そして,結局,達成できなかった。いくら量的・質的金融緩和(日銀による国債買い上げとETF/J-REIT購入)を激しくおこなっても,またそれなりに財政赤字を出し続けても,通貨供給量(マネーストック)が増えなかったからである。そして,それはなぜかというと,金融緩和だけでは,企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,家計においては消費意欲を喚起できなかったからである。企業は日本市場が活性化する見通しを持てず,個人は,すぐあとで述べる賃金抑圧と雇用の非正規化により,家計が好転するだろうという見通しを持てなかったからである(※1)。一方,株式市場と外国為替市場は,財政赤字は従来ベースだが金融は超緩和という組み合わせに対して敏感に反応した。株高・円安の実現である。これにより一部輸出向けの設備投資は喚起できたが弱弱しかった。大々的に喚起されたのは対外直接投資と金融資産購入,とくに外国投資家の株式市場への呼び込みであった。

 だから,アベノミクスは,高く評価できるようなものではない。できるだけよく言うならば,金融・財政引き締め策を取らず,日本経済を政策不況のどん底に陥れなかったという点だけは評価できる。しかし,しかし,自ら掲げた日本経済再興を達成したわけではまったくなかったのである。それは,金融緩和という一面的なツールでは,日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。これは経済政策の責任者としても政治家としても失敗だろう。アベノミクスを継承するのをポジティブなことと見なす言説が,私には理解できない。

 さて,高市政権である。政権が2025年に直面している情勢は,安倍政権発足時とは大きく異なっている。まず,物価上昇率はG7諸国で最高になっている(熊野,2025)。そして,円ドル相場は購買力平価を超える極端な円安になっている。一方,失業率は2.5%にとどまっており,人手不足が起こっている。

 国民生活にとって最大の直接的問題が物価高であることは,高市総理も強く意識している。裏返して言うと,物価の停滞が企業行動を停滞させるという問題や,働こうとする人が仕事を見つけられずに困っているという,安倍政権発足時のような問題があるわけではない。アベノミクス開始時とまったく異なる条件に置かれ,国民生活の問題も異なっているのである。これで,どうしてアベノミクスと同じ金融緩和・財政拡大で対処できるのであろうか。いったい,どういう理屈になっているのか,私には理解できない。

 もう少し丁寧に言う。マクロ的に金融緩和・財政拡大をするというのは,国内総需要を刺激するということである。総需要刺激は,未稼働の労働力と設備,滞貨,その他未利用の物的資源が存在し,それらを使えば生産が拡大して所得が生み出せるような場合には有効である。しかし,現在の日本経済はこうなってはいない。未稼働の設備や失業している人は決めて少ないので,総需要を刺激しても生産と所得が伸びにくいのである。

 さらに詳しく言う。内閣府推計のGDPギャップでみるとプラス,つまり需要超過に転じている状態である(※2)。日銀推計のGDPギャップはまだマイナスであるが,それも資本には遊休があるものの労働は既に需要超過となっている(※3)。そして,いずれの潜在成長率推計をみても,労働者数はまだ伸びる余地があるものの,労働時間はマイナスであり伸びる余地がない。確かに完全雇用状態ではなく,いま雇われていない女性全般と男女高齢者が勤めに出る余地はあるが,労働時間は短縮傾向にある。そして前者の作用より後者の作用方が大きいから,労働投入を増やすのは困難なのである。つまり,総需要を刺激して実質総生産(GDP)を伸ばすことは難しい状態なのである。GDPが成長できるとすれば,イノベーションが盛んになって供給能力が伸びた場合,労働時間を延長した場合,労働力供給を過程からもっと引き出した場合であるが,いずれも容易ではない(※4)。しかも,イノベーション政策にせよ労働市場政策にせよ,金融・財政の拡張か引き締めかという次元では不可能である。よって,マクロ経済政策とは別の話が必要となる。

 こうした状況で高市政権が日銀の金利引き上げを牽制し,財政を拡大すれば,何が起こるだろうか。生産が拡大せず,名目所得の増加を物価上昇が打ち消すだろう。つまり,さらなるインフレである。これでは物価高対策という目的は達成できない。さらに日本の低金利が国際的に突出すれば,益々の円安が加速する。それは輸出産業には刺激となるが,エネルギー,食料,さらに各種製造品,海外から提供されるITサービスを含めて,輸入物価の高騰を一層加速する。これもまた物価高対策という目的に逆行する(※5)。ついでに言うと,工場を建設するような対内直接投資の刺激には役立つが,外資による不動産購入も加速する。またインバウンドも過度に促進することになり,オーバーツーリズム問題は悪化するだろう。さらに付け加えるならば,実物経済から実質的な利益が見込めないとなれば,金融資産購入を意図した資金調達が強まり,株式や不動産や商品市場でのバブルが強まることも十分あり得る。

 なお,財政赤字の拡大が国債引き受けの困難を増し,長期金利を高騰させるという問題も指摘されるかもしれない。しかし,ここは複雑であり,数年単位では何とも言い難い。長期金利に逆方向から影響を与える複数のベクトルが作用するからである。長期金利が急騰するのは,きっかけは金融的要因で起こるとしても,結局のところ景気の先行きと政府財政の持続性が危ぶまれるからである。高市政権が景気過熱状態でのインフレを起こした場合,悪性インフレが経済を混乱させていると見られるか,何はともあれ過熱状態程度の好景気が保たれていると見られるかは決め難い。長期的には前者だろうが短期的には全く状況依存的であって後者になるかもしれない。また,財政赤字を拡大した場合,一方では円の価値が毀損されるが,他方でインフレはあらゆる債務を目減りさせるので,政府の実質利払い負担や実質債務残高も軽減される。したがい,円の信認は長期的には低下するだろうが,短期的には維持される可能性もあり,やはり状況に依存する。二つの軸のいずれで見ても,金融・財政拡張策は長期的には長期金利を高騰させるリスクを高めながら,数年のスパンでは,どうなるともいえないのである。いわゆるマーケットとの対話や偶発的ショックに左右されながら状況依存的に推移するだろう。

 まとめよう。設備も人も余っていない状態,とくに労働面のGDPギャップが極小化されている現状では,金融緩和・財政拡張はインフレを起こすだけで実質的所得を生まない。したがい,物価高対策として有効ではない。高市政権の経済政策について現時点で言うべきは,まずもってこのことである。

 それでは,物価高による市民生活圧迫にどのような対策をとればよいのか。これが次の問題となる。マクロ的な緩和・拡張か引き締めかというだけでなく,労働市場政策,労使間の分配や社会的格差是正,イノベーション刺激など,よりブレークダウンされた次元で考えねばならない。

※1 公平のために言うと,当時の企業行動は,安倍政権や日銀の予想を超えていた。アベノミクス期のみならず,「失われた30年」と呼ばれる時期にも企業セクターは,実はそこそこの生産性向上は実現し,過去の実績に劣らぬ利益率を計上していた(河野,2025)。しかし,国内での正社員を拡大せず,増やすとすれば非正規労働者に限り,あわせて労働組合が極度に弱体であるのをいいことに賃金を決定的に抑圧し続けたのである。これはコロナ前に物価が頑として上昇しない要因であった。賃金が上がらないので消費が喚起されなかった。賃金を上げない経営者は,富裕層以外には消費を伸ばしそうにないと理解していたので,国内市場拡大に展望を持てず,設備投資に意欲的になれなかった(海外直接投資には意欲的だった)。したがい,企業は価格を引き上げる気になれなかった。むしろ人件費節約を選び続けた。これにはむしろ安倍政権の方が慌て,次第に賃上げを自ら奨励するようになったほどである。

※2 月例経済報告のGDPギャップデータ(2025年10月30日),内閣府ウェブサイト。( https://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei/getsurei-index.html#sonota )。

※3 需給ギャップと潜在成長率(2025年10月3日),日本銀行ウェブサイト( https://www.boj.or.jp/research/research_data/gap/index.htm )。

※4 もし日銀推計のように設備側にまだ遊休があるならば,生産を拡大する方法も三つくらいあるように思われる。第一に,残された非労働力である女性と男女の高齢者が,ワークライフバランスを尊重してなお,もっと働きたいと思えるように,労働条件を改善することである。これにより,従来の推計以上に労働力が生み出せるかもしれない。そのような政策が期待されるが,現時点ではその気配がない。第二に,この真逆であり,ワークライフバランスの放棄という首相の姿勢を国民に強制し,労働時間規制を全面緩和することである。高市政権は,労働時間規制緩和を提唱しているが,これは抵抗もあるし,実施できるとしても大規模なものになるかは疑問である。第三に,外国人労働力の急拡大である。一部の業界がこれを望んでいることは明らかだが,高市政権の政治的傾向から言ってこの選択は取らないであろう。

※5 正確に言うと,引き起こされる物価上昇は三種類ある。第一に,金融緩和が景気過熱を招き,需要超過で一時的に物価を上昇させる。これが定着してコスト構造が変わってしまうと,実質的物価上昇になる。第二に,財政赤字拡大により厳密な意味のインフレ,つまり通貨の外生的投入による名目的物価上昇が生じる。第三に,金利差が引き起こす過度な円安によって,輸入品の価格が高騰する。これは円の購買力が低下することであり,一時的な物価上昇,定着すれば実質的な物価上昇である(川端,2025)。

参考文献

熊野英生(2025)「気がつけば、日本の物価上昇率はG7最高~消費者物価は日本が3.6%上昇、各国2%台~」経済レポート,第一生命経済研究所,6月5日( https://www.dlri.co.jp/report/macro/465617.html )。

川端望(2025)「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492, 1-20.
https://doi.org/10.50974/0002002920

河野龍太郎(2025)『日本経済の死角:収奪的システムを解き明かす』筑摩書房。

※2025年11月22日:言葉を補った。「企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,」の前に「金融緩和だけでは,」を追加。「日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。」の前に「金融緩和という一面的なツールでは,」を追加。河野(2025)を参考文献に追加。



2025年10月27日月曜日

中峯照悦『労働の機械化史論』溪水社,1992年のオープンアクセス化を祝う

  広島大学が溪水社と協力して,同大学の研究者の著作62点を電子化し,オープンアクセスとした。

 私にとっての技術論のバイブルである中峯照悦『労働の機械化史論』が,誰にでも読めるものになったことはすばらしい。私は本書が出版された際に詳細なレジュメを作って生産システム研究会(坂本清氏主宰)で報告し,その縁で,自分が学位を持ってもいないのに大阪市立大学における本書による博士(商学)の学位審査に加わった。参考論文として「田辺振太郎「技術論」における労働手段論の検討」『社会文化研究』第12号,1986年 も提出された。主査は加藤邦興氏であった。1995年のことである。

 私の意見では,本書は旧ソ連に起源をもち,戦前は相川春喜氏が,戦後は中村静治氏が体系化した労働手段体系説と,石谷清幹氏が提起し,田辺振太郎氏がいささか偏った形で定式化した「動力と制御の矛盾」による技術の内的発展法則論の完成度を,飛躍的に引き上げた。その理論的飛躍は,1)学説史的にはマルクス機械論とそこで引用された機械学文献を詳細に検討した上で,2)労働の理論においては(アダム=スミスのように)分業ではなく協業の発達という視角を貫き,3)労働手段の理論においては(田辺氏を含む多くのマルクス派のように)単体の機械(マシーネ)でなく機械(マシネリ)の体系(動力機ー伝導機構ー作業機の体系のこと)の次元で「動力と制御の分化→それぞれの側面での発達→再結合」という把握を貫くことによって成し遂げられた。

 プラットフォームに基づく技術構造が注目される以前の,フロー生産プロセスに関する理論では,本書はマルクス派の一つの到達点であると,いまなお私は考えている。

 ところが本書は版元は品切れ,大学図書館でもわずか49館しか入っておらず,書評論文すら1本(『科学史研究』掲載。慈道裕治氏による)しか見つからず,学位論文審査報告書すら電子化公開されていない。オープンアクセス化を機会に,本書の価値が再発見されることを願ってやまない。


「溪水社書籍62冊を電子化・公開しました」広島大学図書館,2025年10月21日。
https://www.hiroshima-u.ac.jp/library/news/93521


中峯照悦『労働の機械化史論』溪水社,1992年。
まえがき
凡例
序説 人類史における生産力の画期
第1章 発達した機械(マシネリ)の構造
第2章 18-19世紀機械学史と『資本論』における機械の把握
第3章 田辺振太郎『技術論』における機械論の検討
第4章 協業論
第5章 “機械"以後の機械の発達一制御的労働の機械化の過程一
結 び 労働過程と自然法則導入の歴史性
挿絵出典一覧
索引

以下より全編ダウンロード可能
https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2041235


2025年10月14日火曜日

言語論的転回すらしなかったオールド・マルクス学徒が東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書,2025年)を読んで

 私には,カウンセリングのやや本格的な本を,哲学的認識論・実践論として読むという妙な癖がある。あまり人に言ったことはないが,学生時代からマルクス派であった私にとって,非マルクス学派で哲学的に最も印象に残り,自分の世界観を変えた本は河合隼雄『カウンセリングの実際問題』(誠信書房,1970年)であった。私は哲学の言語論的転回に出会う機会を持たなかったが,心理学的には転回していたのかもしれない。読んだのは心の問題が日本社会で課題化された1990年代であり,河合氏の軽めの本は大いに出回っていた。しかし,どれもこれも大変失礼ながらお説教としか思えなかった。お若いころにはもっと力の入ったものを書かれたはずではないかとこの本を手に取って,なるほど,これがご本尊か,さすがだと衝撃を受けた記憶がある。どんな軽めの本よりも頭にすんなり染み渡った。

 しかし,いま考えれば,河合(1970)は心の理論を論じたものであり,またそれだけに集中していたとも言える。私自身のせまい唯物論的思考方法に対する解毒剤ないし補完であったことは間違いないが,それで認識論の全体的な構図を得られたかというと,そうではなかったろう。

 さて,先月の終わりに,東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書,2025年)という本があると知り,直感で「これはいいかも」と思って購入したところ,大当たりであった。本来はカウンセリング原論であるが,やはり認識論・実践論として読めるもので,大変面白い。それは,著者の「自己―心―世界モデル」が,物質的所与と精神,さらに両者の境界,物質的身体と,精神が受け止めるものとしての「からだ」,社会に働きかける実践と心に働きかける実践を包括しているからである。それに対応して,著者のカウンセリングも「生存」を獲得するものと「実存」を獲得するものに二層化される。まずは生存を確保しなければどうにもならないが,実存も大事である。たいへん納得のいく話である。

 読み進むうちに,著者が日本の臨床心理学史における屈折を踏まえて自らの「自己―心―世界モデル」を構築していることに気が付いた。日本の臨床心理学は1970年前後に,カウンセリングは「個人を変化させることで,社会の悪しきところを温存することになる」という批判を受け,「学問全体が壊滅状態になったこともあります」(203ページ)というのである。

 そこでつい野次馬根性を出して,東畑開人「反臨床心理学はどこへ消えた?--社会論的転回序説2」『臨床心理学増刊』第14号,2022年8月のKindle版も購入して読んだところ,当時の事情と現在に至る経過が論じられていて,著者の「自己―心―世界モデル」の背景が納得できるような気がした。日本臨床心理学会は反臨床心理学からの批判によって1971年に分裂し,脱退した人々が形成した日本心理臨床学会が臨床心理学の再建を図り,「河合隼雄の時代」を作ったというのである。ちなみにその先は著者の時代区分では「多元性の時代」と「公認心理師の時代」である。

 以下,東畑(2022)の長めの引用だが,宣伝を兼ねることでお許しいただきたい。

ーー
Young (1976)(補注1)では,説明モデルには個人の外部に問題の原因を探し求める「外在化」型と,個人の内部に原因を見出す「内在化」型があると指摘されている。前者はたとえば,先祖の霊や社会構造に原因を見出す説明モデルを考えたらいいし,後者は身体医学を思い浮かべるといい。両者は背反しやすい。盆のせいにすると,身体の不調を見過ごしやすいし,体のケアだけしていると,労働環境の問題を看過することになりやすい。

 「河合隼雄の時代」の「心理学すること」が極端に内在化型であったのが重要である。「ロジャースの時代」の終わりに生じた専門性の危機を,心理臨床学は個人心理療法を範型とすることで乗り越えようとした。面接室の内側で,個人の内面を見る。心に問題を見出し,心の変化を狙う。徹底して内在化型の誂明モデルを彫琢することで, 専門家としてのアイデンティティを確立しようとしたのである。

 そのことによって排除されたのは反臨床心理学にあった外在化型の説明モデルである。問題を社会構造に見出すこと,環境に暴力を見ること,そして変わるべきは個人の内側ではなく,社会や環境といった外部であること。つまり「社会すること」。
ーー

 たいへん納得がいく。「心理学すること」と「社会すること」を包摂した東畑(2025)は,私にとって河合(1970)の後継書となってくれるように思った。

※補注1。Young A (1976). Some implications of medical beliefs and practices for social anthropology. American Anthropologist, 78(1), 5-24,  https://doi.org/10.1525/aa.1976.78.1.02a00020  のことである.

※補注2。臨床心理学はおそらく障害学に近い位置にあると思われる。そのため,障がいをめぐる種々の議論を知らないおまえが何を言うかとおっしゃる向きもあるかもしれない(学生時代もよく新左翼の諸君にそう詰め寄られたものである)。確かに,コンテキストを知らない無知な発言も問題である(なので,私は例えば沖縄とガザについては発言は控えている)。しかし,自分の方が事情に通じているからと言って,生半可な発言をする人を「そんなことも知らない奴が何を言う」と恫喝するのも問題であると思う。よって,ここではとにもかくにも考えたことを投稿した。また,私とて何のコンテキストも背負わない能天気と思ってもらいたくないとは言っておく。

東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』講談社現代新書,2025年。


2025年10月8日水曜日

東北大学大学院経済学研究科より,研究年報『経済学』第82巻第1号「増田聡教授退職記念号」が刊行されました

 東北大学大学院経済学研究科の紀要である『研究年報経済学』第82巻第1号「増田聡教授退職記念号」が刊行されました。本誌は今号より電子版のみの発行となります。以下のリンク82巻1号のところから全文ご覧いただけます。目次に載っていないのですが,「刊行のことば」は研究科長である私の文責です(ずいぶん編集委員会に校正してもらいましたが)。なお,増田先生は2024年4月より帝京大学経済学部教授に就任されましたが,当研究科でも引き続きクロスアポイントメント教授としてご活躍いただいています。

こちらからどうぞ↓
https://www.econ.tohoku.ac.jp/publications/report




2025年10月1日水曜日

溶融還元法らしき新技術を開発中の製鉄ベンチャーHertha Metals社

 アメリカにHertha Metalsという会社がある。MITで機械工学と材料科学の学位を取得したLaureen Meroueh氏が設立した鉄鋼ベンチャーである。同社が開発中の技術Flex-HERSは,溶融還元法の一種のようであり,現在は天然ガス,将来は水素で鉄鉱石を還元する製法のようだ。注目すべきは,同社が,DRIグレード(高品位鉄鉱石)のペレットを使わずとも,低品位鉱石からでも粉鉱石からでも,ワンステップで磁石用高純度銑鉄や低炭素合金鋼を製造できると主張していることだ。

 鉄鋼業は現代の社会生活に不可欠の産業であるが,炭素で鉄鉱石を還元する過程から二酸化炭素が排出されるために地球温暖化を促進するという問題を抱えている。水素による直接還元法はその解決策の中心を担うとされているが,現在開発中のプロセスでは,高品位鉄鉱石を使わないと,高コスト,低歩留まりになってしまうという弱点を持っている。産出されるのが固体の還元鉄であって不純物が混じったままであるためだ(伝統的な高炉では溶けた銑鉄が生産されるので,不純物=スラグは浮かせて除去することができる)。

 ところがFlex-HERSの場合,説明やテストプラントの映像を見る限り,産出するのは溶銑または溶鋼である。プロセスが溶融還元法なのでスラグは除去できるということだろう。わからないのは,Hertha Metalsはどのようにして天然ガスによる高温の溶融還元(溶融状態の直接還元)を実現しているかである。そこはまだ秘匿されているようだ。技術についての同社サイトの説明は具体的ではない。

 Hertha Metalsは,すでに1700万ドルの資金を調達し,現在はテキサス州で日産1トンのデモ生産を行っている。次の段階では年産50万トンの工場を設置するとのこと。果たして商業生産の域に到達できるのかどうか,注目する必要がある。

Hertha Metals社公式サイト
https://herthametals.com/


2025年9月22日月曜日

日銀による保有ETFの売却発表によせて

 日銀が,保有するETF(信託財産指数連動型上場投資信託)とJ-REIT(信託財産不動産投資信託)のゆるやかな売却を発表した(「日銀 ETF売却開始を発表 植田総裁「全売却に100年以上かかる」NHK NEWS WEB,2025年9月19日)。その保有残高は昨年度末(3月31日現在)でそれぞれ37兆1862億円と6657億円だ。これらは当初は信用緩和,後には質的金融緩和と称して白川総裁時代に始まって黒田総裁時代に加速,昨年3月までに買い付けられたものである。その目的はリスク・プレミアムの低下とされたが,私は不適切な政策であったと考えている。なぜならば,ETFやJ-REITに組み込まれる上場企業株式や大手不動産「のみ」を買い支える,特定企業,特定物件優遇策だったからであり,中立性が求められる日本銀行に許されない偏向であり,議会の決定を通さずに行う財政政策だったからである(※1)。もはや購入せず,むしろ売却するという植田日銀の決定は妥当であろう。

 ただし,ここで一言いいたいのは,いったん買ってしまったETFとJ-REITからは,日銀が最大の利益を追求すべきだということである。日銀が利益(剰余金)を出せば,それは国庫に納付され,日本全体のために使用されるからである。また,とくに金利がある時代に復帰したいま,日銀は財務リスク,正確には財務に関する評判リスクを抱えており,財務状態の悪化を避けた方がよいからである。少し詳しく言うと,日銀は銀行ではあるが,その主要収入は貸出利息ではなく,長期保有する国債の利息と,ETFの運用益である。現に昨年度決算では,それぞれ58億円,2兆774億円,1兆3826億円であった。他方,支出側には補完当座預金制度利息,つまりは銀行が預けている準備預金の一部に対する金利があり,これが1兆2517億円に上っている。国債の多くは固定金利であるため,金利が上がっても日銀が長期保有国債から受け取る利息は変わらない一方で,支払うべき預金利息は膨れ上がる。日銀は,原理的には準備資産を持たずとも運営できるが,日銀の財務状態の悪化は日本という国の信用悪化とみなされ,市場での円や国債の信用を揺るがしかねない(※2※3)。

 だから,ETFとJ-REITの売却に当たり,日銀は,市場にショックを与えないように配慮しつつも,日銀自身が(結局は国庫が)最大の利益を得られるように売却を行うのが妥当であろうと,私は考える。日銀は,ETFやJ-REITを買うべきではなかった。しかし,買ってしまったものからは利益を上げるべきである。倫理的にはねじれた話であるが,このように言うべきだと私は思う。

※1 川端「日銀のETF購入は上場企業優遇の財政政策ではないのか:日銀のETF購入(2)」Ka-Bataブログ,2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html

※2,3  川端「通貨供給システムとしての金融システム」研究年報『経済学』pp. 39-40 ( https://doi.org/10.50974/0002003359 )。また日銀総裁その人による植田和男(2023)「中央銀行の財務と金融政策運営 日本金融学会2023年度秋季大会における特別講演」。この講演の見地は,日本銀行企画局(2023)「中央銀行の財務と金融政策運営」として日銀公式見解となった( https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2023/ron231212a.htm )。




2025年9月19日金曜日

ウルトラ兄弟の永遠と純粋,人間の有限性と美醜:『ウルトラマンタロウ』第24-25話が描いたもの

 『ウルトラマンタロウ』第24話「これがウルトラの国だ!」,第25話「燃えろ!ウルトラ6兄弟」は,脚本:田口成光,監督:山際永三,特殊技術:佐川和夫という,第1話と同じ黄金トリオによる前後編である。以前より書いているように,『タロウ』は第1話でタロウが生まれ,最終回にいなくなるという裏設定がつくりこまれているのだが,この前後編はウルトラの国とウルトラ兄弟という,堂々たる表の設定をパワー全開で振り切ったものである。ウルトラの国の設定は,劇中でも内山まもるのマンガまで挟んで解説されたが,放映前から小学館の学習雑誌等で大々的に宣伝され,小学生だった私を含む視聴者の期待を煽りに煽ったものである。

 しかし,痛快で楽しいの夢の国に見えて,よく見るとリアルな世界も描かれていて,両者が融合して成り立っているのが『タロウ』の特徴である。宇宙であり近未来にして1973年の日本なのだ。

 この前後編では,宇宙蛾の大群と怪獣ムルロアによって地球が襲われる。そして光を嫌うムルロアの吐いた黒煙によって地球は闇に包まれてしまう。このムルロアとたたかうタロウの物語が,怪獣に翻弄される岩森家の小学生6人兄弟や,タロウ不在のもとでムルロアに立ち向かうZATの物語と並行して進行するのである。

 本編に登場する岩森家の小学生6人兄弟は,家でも町内でも「ウルトラ兄弟」と呼ばれている。その両親(なぜか父親は石堂淑朗氏が演じている)は結婚以来初めての二人きりの旅行に出るが,宇宙蛾とムルロアに襲われて飛行機が遭難し,亡くなってしまうのである。兄弟たちは,ムルロアの黒煙で暗闇に閉ざされ,電気も水道も止まってしまった自宅に残される。その上,タロウ=東光太郎が下宿する白鳥家の井戸に水をもらいに行った長男は,蛾にとりつかれたトラックに轢かれてしまう。一方,宇宙科学警備隊ZATは神出鬼没のムルロアと宇宙蛾に苦戦するばかり。ついに,未完成の,推進装置もついていない新型爆弾AZ1974を生身で怪獣に飛び降りて取り付けるという奇策に出る。その役を買って出た上野隊員に荒垣副隊長は「ちゃんといのちだけは持って逃げるんだぞ」と声をかける。

 その頃,一度はムルロアに敗れたタロウは,ウルトラの母に導かれてウルトラの国に到着する。そこでは,バードンに倒されて死んだはずのゾフィーが復活した姿を目の当たりにする。タロウは兄弟と多重合体して,ウルトラタワーの奥深くに隠されたウルトラベルを取り出し,その神秘の音色で地球を取り巻く黒煙を一掃するのだ。

 ここで対比されているのは,永遠に近い命を持ち,一度死んでなお生き返るウルトラ兄弟と,限られた命しか持たない人間たちである。ついにムルロアは倒れ,岩森家の兄弟は,長男も回復して笑顔を取り戻すが,両親はもう帰って来ないのだ。たとえウルトラ兄弟たちが守ってくれるとしても,人間は限られた命を生きる以外にないのである。

 しかも,対比はそれだけにとどまらない。ウルトラベルは,地球を守ろうとするウルトラ兄弟の純粋な気持ちに反応して作動した。しかし,人間は純粋ではない。そもそも怪獣ムルロアは,「ヨーロッパの或る国」が行ったトロン爆弾の実験で破滅したムルロア星から襲来したのである(※1)。呼び寄せたのは人間の行為である。ムルロアと宇宙蛾は光に引き寄せられ,光を嫌う。ZATは電灯の使用を禁止したが,断水している街で一山当てようとした水売りは,ヘッドライトをつけてトラックを動かす。そこに宇宙蛾が群がって運転を誤り,岩森家の長男を轢いてしまうのだ。また,ムルロアに襲われた第3コンビナートは,他社との競争に負けたくないために,光をともして操業を再開する。コンビナートの従業員に至っては「アニマルだよ,アニマルになってがんばらなくちゃ,日本はだめになっちゃうんだ」とわめきながら蛾を払おうとして,再出現したムルロアの吐く液を浴び,骨まで溶けてしまう。ウルトラ兄弟は,どんな人間も命がけで守ってくれる。しかし,地球と日本には,優しい両親もいれば助け合う兄弟もいるし,勇気をもって怪獣に立ち向かう人々もいるが,私欲に捕らわれた人もいるのだ。

 こうしてこの前後編は,ウルトラ兄弟の永遠と人間の有限性,ウルトラ兄弟の純粋さと人間の美醜の交錯を対比した(※2)。私たちは永遠でも純粋でもないが,それでも生きているし,生き続けようとするのだ。

※1 実際にフランスがムルロア環礁で1966年から核実験を行っていたのであるから,そのまんまの名称である。しかも,ウルトラシリーズマニアの方ならすぐわかるように,ムルロアは『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」のギエロン星獣と同じ立場なのである。田口氏が「超兵器R1号」の設定を借りたのは,ネタに詰まってのパクリではあるまい(私は,中高生の時はそう思っていたことを,このたび深く自己批判する)。この前後編は「超兵器R1号」と異なり,軍拡競争のもたらす破滅性を問うのではなく,そのかわりに,ムルロアに襲撃された日本に暮らす大人たちの,欲にまみれた姿を描いたのである。

※2 なお,この前後編は特撮のレベルも高く,本編とよく融合している。もちろん,アニメ合成の部分やウルトラの国のミニチュアなどにおもちゃ感はある。しかし,第3コンビナートに陽が昇るシーン,全身から黒煙を吐き出すムルロアの描写などがかもしだす画面の立体感はテレビとは思えない。そして,宇宙蛾の大群。ミニチュアで蛾の雰囲気を出すのは一般的にも難しい上に,円谷プロの人々にとって鬼門である。かつて『怪奇大作戦』第2話「人喰い蛾」で,人が溶けるシーンと蛾の飛び具合が円谷英二の不評を買い,撮り直しとなった大事件があった。当然,山際監督も佐川特撮監督も知っていたはずである。しかし,この前後編では同じ轍をふまなかった。まず,影絵のように大量の宇宙蛾が迫ってくる特撮シーンが実におぞましい。そして,どうしてもおもちゃっぽくになる本編の操演の蛾も,もっぱらナイトシーンで,人や電灯やコックピットガラスにまとわりつくことで,リアルなうっとおしさを醸し出していた。『怪奇大作戦』では,操演のおもちゃに人喰いという役割まで背負わせたのところに無理があったのであり,山際・佐川両氏はそこに気づいたのであろう。見事なリベンジであった。


2025年9月19日現在特別配信中

第24話「これがウルトラの国だ!」
https://www.youtube.com/watch?v=zOYdQS4u5qw

第25話「燃えろ!ウルトラ6兄弟」
https://www.youtube.com/watch?v=uKECUF5LDmg

2025年9月9日火曜日

マルクス経済学における世界経済論の出立:原田三郎論文の電子化公開に寄せて

 この夏,東北大学機関リポジトリTOURの遡及入力によって,古典的存在ともいえる著作が電子化されてDOI(デジタルオブジェクト識別子)が付き,ダウンロード可能となった。私にとっての古典と言えば,例えば以下の論文である。

原田三郎(1953)「いわゆる 「資本論のプラン」 と世界經濟論の方法」研究年報『経済学』27,24-51。
https://doi.org/10.50974/0002004563

原田三郎 (1957)「世界経済論の方法における根本問題―松井教授の批判に答える―」研究年報『経済学』43,29-63。
https://doi.org/10.50974/0002004651

 原田三郎教授(1914-2005)は,東北大学経済学部の経済政策論担当教授として,1977年まで勤務された。後に,岩手大学学長を務められた。私は『東北大学百年史』作成のための座談会を開催した際に,一度だけお目にかかった。

 この二つの論文は,マルクス経済学で世界経済論または国際経済論をどのように論じるかについての,戦後直後の模索の過程を表現している。またそれは,原田教授が宇野弘蔵氏による三段階論の提起と格闘され,一度はそれをおおむねうけいれながら,ついに別の道を選ばれた過程をも記している。

 今日,ほとんどの人は問題にすることはないが,よく考えてみれば,マルクス経済学には次のような理論問題がある。「マルクス経済学では国際経済や世界経済を,国民経済を単位とした関係論として論じるのか,全一体として論じるのか」という問題であり,また「マルクス経済学では国際経済論であれ世界経済論であれ,近代経済学と同じく一般理論として論じられるのか(理論的な教科書も書けるのか),それとも歴史的段階や局面としてしか論じられないのか」ということである。この問題を鋭く提起されたのは,宇野弘蔵氏である。そして,宇野氏その人は,前者に「国民経済を単位とした関係論」と回答され,後者に「歴史的段階としてしか論じられない」と回答されたと理解できる。宇野氏の後継者の純粋資本主義派の方々もおおむね同様と思われる。また宇野氏の後継者の世界資本主義派の方々や,海外であればイマヌエル・ウォーラーステイン氏であれば,前者に「全一体としての世界経済論(世界システム論)」と回答し,後者に「歴史的段階や局面としてしか論じられない」と回答するだろう。原田教授は宇野氏の提起を受けてこの問題に戦後直後から格闘され,前者に「全一体としての世界経済論」と回答され,後者に「一般理論として論じられる」と回答されたのである。この回答を引き継がれたのが私の師の一人,村岡俊三氏であった。また前者に「国民経済を単位とした関係論」と,後者に「一般理論として論じられる」と回答されたのが木下悦二氏であった。村岡氏や木下氏,また国際価値論研究に従事した研究者は,マルクス経済学の世界経済論や国際経済論の構築に努力された。

 原田教授が「世界経済論の出発点としての帝国主義の成立」『国際経済』2, 1-14,1951年(この号はJ-Stageに登載されているのだが,なぜか26ページ以降しか収録されていない)と,上記の研究年報『経済学』所収の二つの論文で最初から強調されているのは,マルクス経済学において論じるべきは「国際経済論」でなく「世界経済論」だということである。ただし,1953年論文までは宇野弘蔵氏の段階論の問題意識を半ば受け入れ,世界経済論は段階論として論じるべきものとされていた。例えば以下の文章は難解だが,そういうことを言っているのである。

「われわれが科學的経済學の一分科として世界経済論を研究する場合、「ブルジョア社會の内的編成」=「資本論」に對しては、国家論と全く同様、段階論規定によって媒介されるのであり、従って、「資本論」がすでに明かな形でもっている本源的蓄積についての段階論規定、「資本論」がただ含蓄されただけのものとしてもっている産業資本主義ないし資本主義一般についての段階論規定の再把握,さらに「資本論」が現にはもっていないが當然にもつべきであったし、また現に「金融資本論」ないし「帝国主義論」としてもたれているところの、帝国主義的資本主義についての段階論規定,に基づいて、これら諸段階に特有な世界経済に關する諸規定を打出すことでなければならない(原田,1953,pp. 45-46)。」

 その後の思索を経て,原田氏は1957年論文では宇野氏と別れ,世界経済論は一般理論として獲得可能と見るようになった。例えば以下の文章も難解であるが,そういう意味なのである。

「すでに前節で明らかにしたように、「国家」以降の後半の「体系」のもっこのような歴夊的性格は、あらゆる時代のあらゆるブルジョア社会に、歴史的に必然的な側面にかかわるものであって、まさしく、一般的理論体系のうちに獲得されうるし、獲得されなければならないものである(原田,1957,p. 63)。」

 かくて,マルクス経済学において,世界経済論を一般理論として獲得することの可能性は開かれた。この先に,国際価値論,国際分業と貿易論,国民的生産性格差論,賃金と物価の国際的相違論,対外直接投資論,外国為替論などが展開される。それらの一般論としての展開とともに,帝国主義論の適用範囲,戦後経済体制論などが段階の理論として具体化される。

 私を含むかつての村岡ゼミの院生は,少なくとも1980年代までは上記3本の論文を必読文献として,なぜ世界経済論なのか,なぜそれは段階論でなく一般理論として獲得できるのかについて,原田氏の理論的変遷のうちに学び取ろうとした。それから,国際価値論,国民的生産性格差論,国際分業と貿易論(比較生産費説のマルクス的理解),賃金の国民的相違論,対外直接投資論,国際労働移動論,外国為替論などの,より具体的な理論を学んでいった。もう遠い昔の話である。これらの勉強は空理空論ではなく,私が及ばずながら世界経済に対する自分の見方を構築していくうえでの根本的発想として,大いに役立つことになった。

「原田三郎教授近影・(退官記念号)刊行のことば・原田教授略歴および著作目録」38(4), 1977年。

https://hdl.handle.net/10097/0002004939

「【記念座談会】私の経済学修業 ―原田三郎教授を囲んで―」研究年報『経済学』38(4), 153-173, 1977年。
https://hdl.handle.net/10097/0002004938


2025年8月31日日曜日

日本製鉄傘下のUSスチールによる電炉製鉄所の建設計画について

 日本製鉄傘下となったUSスチールが、40億ドルを投じて年産300万トン規模の電炉法による新製鉄所を建設すると報道された。この計画について、今の段階で注目すべきいくつかの点がある。

 まずは技術選択の評価である。日本製鉄はカーボン・ニュートラルに向けた電炉法の適用拡大に一歩踏み込んだ。パリ協定から脱退したトランプ政権のアンチ気候変動対策に甘えて、高炉一貫製鉄所を建設しないかという懸念があったのだが、一安心といえる。日本製鉄は、日本の広畑地区や八幡地区で適用するために自ら進めている技術開発と、すでにUSスチール傘下にあるビッグ・リバー・スチールからの技術吸収をともにすすめることができる。同社における電炉技術の発展が期待できる。

 もっとも日本製鉄は、電炉法適用拡大と、高炉・転炉法での生産維持という二つのテクノロジーパスを併用している。カーボンニュートラル達成期限が2070年であるインドでは、アルセロール・ミタルとの合弁事業AM/NSインディアで高炉一貫製鉄所の建設を進めており、また日本国内でもアメリカでも主力生産基地として高炉一貫製鉄所は維持しようとしているからだ。しかし、高炉の脱炭素技術(水素吹込みとCO2回収・貯留)はなお未確立である。社としてのカーボンニュートラルに向かうためには、電炉比率を上げ、できる限り量産高級鋼まで適用できるようにし、高炉一貫製鉄所の扱いという問題を軽減させることが得策なのは確かだ。

 次に、この製鉄所計画の課題についてである。一つは市場の獲得だろう。40億ドルというのは、発展途上国では中規模高炉一貫製鉄所を建設できる規模の金額であり、採算をとるためには高い稼働率が必要だ。アメリカは人口増のおかげで鉄鋼需要が減ってはいないが増えてもいない。日本製鉄は、USスチールの他の製鉄所を閉鎖しないとトランプ政権に約束したので、新製鉄所はトランプ関税を利用して輸入品を代替するか、あるいはクリーブランド・クリフスのような他社から顧客を奪ってくる必要がある。関税利用もクリフス社との対抗も、政治問題化しやすい話題であるから、一筋縄ではいかないだろう。

 もう一つの課題は、労使関係であり人事労務管理だろう。これは込み入った話なので少し詳しい説明を要する。USスチールの買収経過から言って、日本製鉄はUSW(全米鉄鋼労働組合)に対して敵対的態度をとることはできない。その上、ノン・レイオフ経営を求められる。買収に際してレイオフを行わないと約束したが、その後もアメリカ政府の監視下にあってレイオフは難しいだろう。となると、組合に組織化されたノン・レイオフ経営を実行しなければならないが、そのためには日本的雇用慣行を導入することが必要になる。具体的には、職務ベースではなく人ベースで雇用し、人の配置を柔軟にすることで合理化を進め、さらに、少なくとも正社員には目標管理に参加して経営計画に組み込まれた働きをしてもらわねばならない。しかし、これをアメリカで、労働組合の協力を得て実施することは極めて難しい。というか、そのように、会社の人事管理を補完してくれる労働組合を、日本以外で見つけることは難しい。

 実は、アメリカでも人ベースの雇用、そこまでいかなくても大ぐくりに設定された職務グレードに基づく雇用を行い、正社員に目標管理に参加してもらう可能性はある。ただし、そのためには通常はノン・レイオフ経営が必要になる。経営者の側から一方的に、柔軟な配置、経営成果に基づく給与、ヒューマン・リレーションズを導入し、組合組織化よりこの方が得だと多数の労働者に納得してもらうのである。実はこれこそ、アメリカでミニミル(アメリカでの電炉メーカーはこう呼ばれる)が行ってきた人的資源管理である。USスチール内部でも、もともとスタートアップだったビッグ・リバー・スチールはUSWに組織されていない。ここでの人的資源管理を新しい製鉄所に適用できれば、日本製鉄とUSスチールは、ヌーコアに始まる電炉メーカーの軌跡を再現できるかもしれない。しかし、USWやトランプ政権がそこに介入せずにすむとは思われない。日本製鉄とUSスチールが、新製鉄所にUSW組織化の下での日本的雇用管理を導入するか、ノン・ユニオンの人的資源管理を導入するかは、重要な注目点である。

 このように、USスチールを買収した日本製鉄は、早くもそのグローバル戦略を実行しつつあり、しかしその行く手には、様々な壁が立ちはだかっているのである。

「日本製鉄、米国に大型電炉新設 USスチールが6000億円規模投資」、日本経済新聞電子版、2025年8月29日。



クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...