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2025年5月19日月曜日

博士課程に留学生の割合が高いのは,単に日本が「博士冷遇社会」だからである

 博士課程で留学生の割合が高いのはけしからんという議論が,一部から流されている。しかし,これは外国勢力の陰謀でもなければ,大学経営陣が外国におもねっているからでもない。単に日本が「博士冷遇社会」だからなのである。

 これについて冷泉彰彦氏が「博士課程の奨学金受給者の約4割が留学生、問題は日本社会の側にある」という記事をNewsweek4月2日付に書いておられるので,手掛かりにしよう。冷泉氏が,「人文系などの分野でも、博士課程に圧倒的な割合で留学生が学んでいるのです。まるで『東大大学院がジャックされている』ように見えるこの現象ですが、問題の本質は、留学生の側にあるのではありません。そうではなくて、「日本人学生が人文系の博士課程に行かない」という現象があるからです」というのはまったく正しい。ただし,「留学生が増えたのではなく、日本人が行かなくなったのです」というのは,やや不正確である。そこで補足したい。実際には,

「博士課程院生を増やせと国に言われて枠を増やしたら,日本人が来ないで留学生が来た」

のである。理由は簡単だ。

「日本以外の国では,企業も政府も博士課程まで含めて学歴を認める社会だが,日本の企業と政府は,理工系は修士,人文社会系は学部までしか学歴を認めないから」

である。次第に変化して,徐々に理工系の博士,人文社会系の修士もみとめられるようになってはいるが,なお厳しい。

 日本で暮らしていると,世の中から博士は「世の中のことを知らないから」「専門のことしか知らないから」「使えない」云々という声が聞こえてくる。もちろん,本学卒業生を含む社会人の方々の意見は尊重したい。しかし,これに限っては,少なくとも普遍的な真理ではないと抗弁せざるを得ない。もっと言えば,これはむしろ国際的に超超マイナーな意見である。

 日本以外では,企業でも公的機関でも博士は修士より,修士は学士より好待遇にする国が多い。つまり多くの諸国は普通に学歴社会である。しかし,日本は違う。学歴社会と言われながら博士を好待遇で雇用しない。単に日本が博士冷遇社会なのである。

 その理由も,もうわかっている。会社も政府も自治体も,専門知識や専門スキルではなく,格好良く言えばチームワーク,泥臭く言えば社風への適応性を重視し,給与が年功的に上がるまでじっと我慢し,長く勤務しそうな人を採用するからである。今日的に言えば,多数の正社員・正職員が「メンバーシップ型雇用」だからである。

 とくに厳しいのは人文社会系である。日本の人文社会系で博士になって,生きがいもあれば給料ももらえる可能性が高いのは,研究者志願の者だけである。だから,昔は人社系の大学院は,定員通りに入学などさせなかったし,そもそも定員に足りる志願者などいなかった。ところが日本政府が1990年代に「これからは大学院出身者の社会だから定員通りに入学させよ」と指示した。大学,とくに国立大学は逆らうわけにもいかないので大々的に院生を募集し,定員を増やし,実際に定員通りに入学させるようにした。しかし,日本社会で暮らそうとする日本人は,研究者以外は博士課程まで進んでも良いことがないことを知っている。よって研究者志願者以外は博士課程を志願などしない。しかし,将来は母国で暮らそうとする留学生からすれば,博士を取得すれば企業からも好待遇を与えられるとわかっている。だから,日本人でなく留学生が博士課程にやってくるのである。ここには,外国勢力の陰謀も何もない。単に日本社会が博士,とくに人社系博士を冷遇するからこうなるのである。

 もちろん,まったく就職できないわけではない。そして日本社会も少しずつは変わっている。当研究科においても,長年の努力の結果,修士は問題なく企業に就職できるようになった。博士も,まず理工系では,製造業やIT産業の技術者などへの就職の道は,開けつつある。それに比べると相当に範囲は狭いが,人社系でも専門性を認めた採用を行う傾向が,相対的に強い業界もある。証券,商社,コンサル,シンクタンクなどである。最近ではデータサイエンティストが必要な業界が加わる。ジョブ型採用を行う外資系企業へも行ける。また,従来の慣行にとらわれない新たな雇用慣行を採るベンチャーもあるし,大企業でもベンチャーから成長した若い会社もある。当ゼミでは,私が副指導教員をした日本人学生が,アフリカの経済開発を研究して博士号を取得したたうえで,大手商社に就職した例がある。他のゼミでも,近年,eコマースやプロスポーツに従事する企業に博士が就職した例もある。しかし,まだまだ日本社会では人社系博士の就職は厳しい。

 何といってもこれこそが,博士課程において留学生が多数となる理由なのである。これが嫌だとかけしからんというならば,政府と企業が,諸外国のように学士より修士,修士より博士を厚遇して欲しい。日本だけ特別なことをせよというのではない。諸外国と同じにするだけでいいのだ。そうすれば,日本人学生も喜んで博士課程に進学するであろう。

2025/5/24 字句修正を行いました。


2025年5月13日火曜日

劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年を読んで

 劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年。Ⅰの『円』を文庫で読んだので,何となくⅡも文庫かと思い込んで冊子体を注文したら四六判だった。

 劉慈欣の作品はどれもこれもスケール観が圧倒的だ。しかし,舞台装置だけで話を運んでいるわけではない。例えば,本書のいくつかの作品では,作者が比較的はっきりと人間を信頼しようとしている気配が感じ取れる。ある作品の中で語られている「ひょっとしたら,完全に希望を失ったとまでは言えないかもしれない。自分たちができることをしなければ」という台詞は作者の声でもあろう。しかし,科学・技術がどこまでも発展することについては,作者はそれほど楽観的でもない。いくつかの作品では,純粋に行き着くところまで行こうとする科学・技術にとらわれるならば,人間は生きられないであろうことも示唆されている。両義的でもあり,SFの古典的問題に正面から挑んでもいて,それでいて新鮮である。

出版社サイト
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000614709/



2025年5月5日月曜日

ホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)はデジタル札束だった

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)について,これまでどうしてもわからなかった謎が解けたように思う。何種類かの実証実験がなされている「ホールセール型CBDCを使って国際決済を行う」という試みは,貨幣論的にどういう仕組みになっているのかということだ。

 これまで私は,リテール型CBDCが「トークン型」つまり中央銀行券のデジタル化,ホールセール型CBDCが「口座型」,つまり中央銀行当座預金の最新IT技術による高度化だと思っていた。しかし,「口座型」では対外支払いに使えそうにない。中央銀行当座預金で対外送金するには,外国銀行が自国中央銀行に口座を持つことになり,それはいくらなんでもありそうにないからだ。

 しかし,この思い込みがつまずきのもとであった。国際決済銀行(BIS)の分類によれば,国際決済に用いるホールセール型CBDCも「トークン型」,つまり現金,中央銀行券がデジタル化したものだったのある。そう考えると,対外支払いも合理的に説明できる。

 簡単に言えば,「銀行間で国際的なプラットフォームを築き,その上で,海外の銀行にデジタル札束を送って払う」のである。ここでは,「堅固で安全で高速なプラットフォームさえできれば(まあ,それが現実には難しいのだが),デジタル通貨の取引コストは低い」という特徴がいかんなく発揮される。

 CBDCでは,プラットフォームの上で,ある人(銀行)が持つ残高を,別な人(銀行)の残高に移すだけで国際送金ができる。これなら,紙での現金取引,つまり札束をトランクに詰めて飛行機や船で運ぶよりも手間暇がかからない。また,ことによると口座振り込みよりも簡単で安上がりかもしれない。とくに,国際的な銀行間送金はコルレス・バンキングという仕組みが必要で,国内取引の口座振り込みよりもはるかに手間も時間もお金もかかる。国内では,銀行間の決済を,どの銀行も共通に持っている中央銀行口座をつかって預金振替で行っている。世界経済には世界中央銀行はないので,これが行えないのだ。しかし,CBDCというデジタル現金を使えば,デジタル現金をプラットフォーム上で送ればいので,簡単になるということだ。

 国境を越えてやりとりされるデジタル札束が,唯一,紙の札束と違うのは,プラットフォームに参加する銀行間でしか流通しないということである。だから銀行が,受け取った外貨建てのデジタル札束を普通の取引に使う際には,自国の紙の札束や中央銀行当座預金に変換する必要がある。その際には,国内通貨に両替しなければならない。

 実用化までは紆余曲折があるだろうが,ともあれホールセール型CBDCを用いた国際決済の骨格は以上である。特徴も問題点も,ここを出発点として考えればよいはずだ。

<参考>

Committee on  Payments and Market Infrastructures Markets Committee, Central bank  digital currencies,  Bank for International Settlements, March 2018.






2025年4月23日水曜日

なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保とうとするのか:管理通貨制における最終決済手段としての中央銀行マネー

 トランプ大統領はFRBの独立性などお構いなしに金利引き下げを要求し,議長の解任の可能性にまで言及している。景気が冷えそうなのは自らのでたらめな高関税のせいなのに,責任転嫁も甚だしい。絶対自分が悪いとは認めたくないのだろう。

 ところで,中央銀行にはなぜ独立性が必要とされるのだろうか。よく知られているのは,通貨価値の安定を保つ必要があるという理由だ。これは正しい。しかし,なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保たねばならないのだろう。また,なぜ保とうとするのだろうか。

 それは管理通貨制のもとでは,中央銀行が発行する貨幣(中央銀行マネー)が通貨システム全体を支える最終決済手段だからである。以下,やや複雑だが説明しよう。

 現代経済では,多くの支払いが異なる銀行の間で発生する。銀行間の支払い決済は,現金輸送車で札束を運ぶ例外的な事態を除き,中央銀行当座預金を使用して行われる。中央銀行当座預金がなければ口座振替は同一銀行内でしか行われなくなり,経済はマヒする。したがい,中央銀行当座預金が通貨価値を毀損されないことは決定的に重要である。

 またすべての現金は,銀行預金を預金者が引き出すことによって現金流通界に供給される。銀行はこの引き出しに耐えるために,中央銀行券を手元に持っていなければならない。この中央銀行は,銀行が準備預金(中央銀行当座預金)を引き出すことによって銀行の手元にわたる。では中央銀行当座預金はどこから来るかというと,中央銀行が民間銀行に信用を供与することによって設定される(融資される場合もあるが,現在では中央銀行が民間銀行から国債を買い入れるオペレーションによって供給される割合が高い)。ここでも根源は中央銀行当座預金であるから,その通貨価値が損なわれないことは決定的に重要である。

 銀行間システムでは中央銀行当座預金が最終支払い手段である。現金流通界では,中央銀行券が最終支払い手段である。しかし,その通貨価値は金属貨幣と異なり内在的な価値に基づいていない。これらはいずれも信用貨幣であり,中央銀行債務であるから,その価値を支えるのは返済能力である。中央銀行は債務返済を迫られないのだろうか。銀行は,中央銀行に要求して,中央銀行券を中央銀行預金に換えることや,その逆はできる。しかし,「そんなものじゃだめだ。管理通貨制など信用できない。金か実物資産で払え」と中央銀行に迫ることはないのだろうか。

 実は,通貨価値さえ安定していれば,こうした要求を中央銀行に突きつける銀行はない。なぜならば,銀行は,中央銀行当座預金で他の銀行から,あるいは中央銀行券で経済界の誰かから,価値の安定した資産を買えばよいからである。こうして,最終支払い手段が中央銀行の信用貨幣であって金でなくても不都合はなく,通貨システムは回っていく。中央銀行は,準備資産を持たなくてすら成り立つのである。

 しかし,悪性インフレや物価の乱高下によって通貨価値が毀損されれば別である。中央銀行券が紙くずに準じた扱いとなり,中央銀行当座預金が意味のない電子信号に準じた扱いになれば,通貨システムは崩壊するだろう。中央銀行は,何か価値の認められる別の資産を持ち出して支払いに応じないと,倒産の憂き目を見るかもしれない。

 このように,中央銀行が発行する当座預金と銀行券が最終決済手段であるためには,悪性インフレや物価の乱高下が起こらないことが必須条件である。したがい,中央銀行は,通貨価値を安定させる強力な動機を持つのである。


(専門的補足)
 厳密に言うと通貨価値の低下には,1)金生産費の低下など正貨の内在的価値の低下,2)正貨に対する代表価値の低下,3)商品に対する購買力の低下,の三つの意味がある。1)は管理通貨制ではほぼ意味をなさない。2)が損なわれるのは財政赤字によって代用貨幣が一方的に増加する場合だけである。3)はその場合に加えて,景気過熱によって物価が一時的,実質的に上昇する場合にも生じる。なので,FRBが金利引き下げに慎重だというのは,3)を防ごうとしているからだと言っていい。国債買い入れに慎重になるとすれば,それは2)を警戒するからである。


(詳細こちら)
川端望「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」https://doi.org/10.50974/0002003359

2025年4月21日月曜日

改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない

「現場の知恵」で作業標準を無視した作業方法を勝手に実行したら大問題になるという記事が,『日経XTECH』に掲載されていた。2ページ目以後有料記事で失礼。

 当たり前のようだが,実は重要な含意を持っている。

 適切な改善方法は,もちろん,正式の提案による作業標準の書き換えである。そのためには,もちろん正規の手続きを踏み,作業員の意見を汲んで(名称は企業によりさまざまだが)職長が提案し,その上位の会議体が承認していなければならない。これまでトヨタを筆頭とする日本企業が行ってきた,生産現場での改善活動も,もちろんこのようなものである。

 だからどうしたと人は言うだろうが,この話の含意は「改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない」ということである。

 QCサークルなど,正規業務以外に,労働時間外に「自主的に」行うものが主力なのではない(もっとも,いまではさすがに労基法逃れではないかと突っ込まれるので,正規の時間とみなしている会社も多い)。そうではなく,正規の仕事の中に改善活動があるのである。

 また「現場労働者の知恵」や「現場の作業員の知的熟練」だけを取り出してほめたたえるのも,現場に寄り添っているようでいて,実は間違いだということである。なぜならば,改善活動は,「職長とその上位の管理階層が」正規の改善手続きを回していくことによって成り立っているからである。この記事が指摘するように,現場で勝手に作業方法を変えたのを職長とその上位の管理職が把握できないというのは論外である。逆に,管理職と職長は状況を把握してはいるが,組織が硬直化してしまい,「改善活動など面倒だし評価されないからやらない」という態度になってもだめである。時にその両方が生じることもある。これは工場に限ったことではないので,オフィスのことで覚えのある方もいるだろう。

 「正規の仕事の一部として,作業員の意をくみながら,正規の改善手順を,管理階層と職長が懸命に回す。具体的には相当な頻度で作業標準を書き換える」。これが改善活動である。現場の創意工夫を受け止めて改善することと,組織の決められたルールを守ることを両方実行すれば,手間暇は恐ろしく増える。それでもやるところに難しさがあり,意義もあるのである。

 その前提として,こうした改善に,少なくとも正社員の工場労働者は参加してくれるような労使関係がある。そのような労使関係が珍しく,多くの国では容易に実現できなかったから,ひところ,日本の改善活動には秘密があるように思われたのである。

 なお,生産革新を目指すにあたり,こうした改善活動ではどうにもならないことが,この25年くらいは増えているのではないかという問題は,もちろん別に存在する。

古谷賢一「作業標準を無視した「現場の知恵」が全数回収を招いた企業」『日経XTECH』2025年4月11日。



2025年4月11日金曜日

安孫子麟著作集全2巻『日本地主制の構造と展開』『日本地主制と近代村落』(八朔社,2024年)を読んで

 全然本が読めない状況であるが,何とか安孫子麟著作集全2巻(八朔社,2024年)を読了した。安孫子説をどう受け止めるかは,いずれ落ち着いて考えてみたい。ここでは第1巻と第2巻の違いについて覚書を記しておくにとどめる。

 第1巻『日本地主制の構造と展開』に収録されている論文が示すように,安孫子説は,実態分析により地主制を人格的支配関係を含むとする点で講座派の流れを汲む。山田盛太郎『日本資本主義分析』に対しても肯定的言及の方が多い。しかし,安孫子説は固定的な半封建制論や絶対主義論を採らず,地主制を日本資本主義のウクラードとして位置付ける。資本主義発展に規定され,また農民運動との対抗の中で地主制が成立・展開・解体の変遷を遂げるという点では,栗原百寿の流れを汲む修正講座派である。ここでは講座派の硬直的な在り方に対して,資本主義のダイナミックな展開が強調されている。

 同時に,第2巻『日本地主制と近代村落』に収録されている論文が示すように,安孫子説は小経営的生産様式論と中村吉治の共同体論に依拠した村落社会論という側面を持つ。小経営はそれだけで完結することができす,何らかの共同組織,共同関係を必要とする。その最たるものは土地管理機能の必要性である。しかし,この共同組織は,よく言われるような,人類史の起源から続く共同体と等しいのではない。共同体は血縁規範に支えられた人格的結合であって,生産力の発展とどもに次第に機能別に広域に拡散していき,近代社会では基本的に解体される。近代の村落は共同体的関係を部分的に残しているが共同体そのものではなく,血縁規範以外のまとまりによっても支えられる独自の秩序である。安孫子氏はそれは明治期にあっては「部落」であったとする。ところが部落の土地管理機能は次第に地主による土地管理にとってかわられ,さらにファシズム的な国家管理によって再編される。そして戦後の農地改革を経て新たな村落にとってかわられるのである。ここでは資本主義や商品経済や私的所有権に解消されない,村落における独自の社会関係が強調されているのである。

 安孫子説は,経済史研究や農業・農村の研究にとってのみ有意義なのではない。この説によって,戦前日本が敗戦まで半封建制や絶対主義のままであったかのような講座派の硬直的なバージョンが退けられると同時に,日本は資本主義であることを強調するあまり独自の社会関係を見落とす労農派的見地の硬直的バージョンも退けられる。それだけではない。読者の側が安孫子説を敷衍するならば,小経営の独自の運動を見落とす近代経済学の単純化されたバージョンや,小経営に個人の完全な自立を見出す空想的市民社会論も退けられる。と同時に,村落の共同関係に共同体を見出し,近代的個人を否定した人格的結合への回帰を夢見る時代錯誤も退けられるのである。安孫子説はこのような広大な射程を持つというのが,私の解釈である。




2025年4月3日木曜日

自由・無差別・多角の終わりとしてのトランプ関税

  日本メディアでは,トランプの差別的関税率が日本にとってどうなのかを重点的に取り上げている。確かに差別的関税率は特定の国の産業に打撃を与える効果はあるし,またそれでも可能なアメリカへの輸出については輸出国の変化や輸出品目の変化を促し,輸出国の相対的な地位を変動させる。その中でどのような相対位置を占めるかは,日本を含む各国にとって重要な問題だ。しかし,それが最大の問題なのではない。より深刻なのは,アメリカそのものを含む世界経済への打撃と,戦後世界の通商ルールの転換だ。

 トランプ関税は全般的高関税だ。自国産業を保護することで経済を活性化させるというのは,1930年のスムート・ホーリー法の思想だ。この大恐慌下での高関税はアメリカ経済を回復させなかったし,世界経済ブロック化の流れを強めた。

 トランプ関税は相互関税でもある。相互関税は「相手がやっていることをやり返す」という相互主義に基づいている。レーガン政権はこの手法で日本などを攻撃したが,アメリカの貿易赤字を縮小させることにはまったく役立たなかった(そもそも貿易赤字が悪いことで貿易黒字がよいことだというのは,外貨準備が枯渇する危険のある途上国には言えても,先進国では成り立たない決めつけだ)。

 そしてトランプ関税は差別的関税でもある。相手によって税率が異なることが,例外でなく原則になっているからだ。これは国際関係を悪化させ,敵愾心をあおるには適しているが,報復合戦を誘発することで世界経済を縮小のスパイラルに導く。

 これらを歴史的に見れば,トランプ関税は,世界大恐慌とブロック経済,そしてそれらが背景となった第二次世界大戦の教訓として戦後に確立された自由・無差別・多角という通商思想を否定するものだ。世界の通商体制は新たな局面に入りつつある。自由な貿易・投資が望ましいというイデオロギーが広範囲に共有されていたポスト冷戦期から,より分断された時代へと。


2025年3月25日火曜日

ゼミ誌『研究調査シリーズ』No. 43,2024年度修士論文・卒業論文特集号によせて

  本号に収録するのは,2025年3月に大学院前期課程を修了する宋海倫さんの修士論文,同じく学部ゼミを卒業する朝倉悠希さん,鈴木義人さん,今本陽大さん,青木俊憲さん,上原景さん,大村雄基さん,奥野瑛紘さん,折原大介さん,菊永大夢さん,髙橋航平さんの卒業論文です。朝倉さんの論文は,2024年度東北大学経済学部みらい創造基金演習論文優秀賞を受賞しました。

 さて唐突ですが,私は毎年度のゼミ案内に「根拠のある自信をもって世界を語れるようになろう!」と書いています。それは,若いころの自分自身の社会に対する主張や行動が,十分な学問的根拠に支えられていなかったのではないかという反省に基づくものです。ですから,その力点は「根拠のある」にありました。しかし,同時に「自信」もまた必要ではないか,いや,もっと妥当な表現を使うと,価値判断と理念を自分のうちに持ち続けることにも重点を置くべきではないかと思う出来事がありました。日本被団協の2024年ノーベル賞受賞です。3月21日に,田中煕巳先生の東北大学国際功労賞表彰式・ノーベル平和賞受賞記念講演会に参加し,その思いを一層強くしました。これもまた唐突ですが,説明させてください。なお,田中先生は日本被団協代表委員として知られていますが,1960年から96年まで東北大学工学部の助手,助教授を務められ,博士(工学)の学位もお持ちですので,ここでは先生と呼びます。

 被爆者として核兵器廃絶を追求されてきた田中先生の歩みは決して平たんではありませんでした。まず,被爆者は1945年8月以来,健康被害や差別に苦しみながらも,当初は占領政策の下でその立場を訴えることを禁じられていました。ビキニ環礁での水爆実験で日本の漁船が放射性降下物を浴びたことを機会に原水爆禁止運動が生まれ,全国の被爆者が1956年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成します。その訴えの柱は,核兵器の禁止と被爆者への補償・援護でした。その後,被団協の訴えは日本の世論ではかなりの拡大をみたものの,「核抑止力によって世界平和が維持されている」という主張が世界の主要国を支配する下で,国際政治の場ではなかなか正当性を認められませんでした。しかし,1994年の原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)の成立,2017年の「核兵器禁止条約」の成立などの前進を経て,今回,ノーベル賞受賞に至ったのです。

 授賞理由には次のような言葉があります。「ノーベル賞委員会は約80年間戦争で核兵器が使われていないという,励みとなる一つの事実を認めたい。日本被団協と被爆者の代表らによる並外れた努力は,核のタブーの確立に大きく貢献してきた。それゆえ,今日,核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされていることは憂慮すべきことだ」。「いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし,記憶を守る強い文化と継続的な関与により,日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる。彼らは世界中の人々を鼓舞し,教育している。そうすることで彼らは,人類の平和な未来の前提条件である核のタブーを維持することに貢献している」(『日本経済新聞』2024年10月11日掲載の訳文より)。

 私の記憶では,「核のタブー」という言葉は,どちらかというとこれを揶揄し,否定する文脈で用いられてきました。タブーにとらわれず,国際政治の現実を直視し,核抑止力論に沿って防衛政策を整備せよ,果ては日本も核武装せよといった議論に沿ってです。しかし,ノーベル平和賞を選考する「ノルウェー・ノーベル委員会」は,「核のタブー」は「人類の平和な未来の前提条件である」としたのです。

 ここで私は,「核のタブー」が一つの価値観であることに注意を払いたいと思います。「核兵器は二度とつかわれてはいけないし,誰もこれを持ってはいけないし,廃絶しなければならない」という,自らの経験に基づく根源的価値判断,いわば信念が日本被団協の人々を突き動かしてきたのです。もちろん日本被団協は,この価値観が独善ではなく普遍的なものであることを確かめながら歩んできたし,また核兵器廃絶についても被爆者に対する補償についても,単なる自己主張ではなく日本と世界のために望ましいことであり,実行可能であることを訴える理論的根拠を持って活動してきました。しかし,たとえ理論があっても価値判断と信念がなければ,その運動は続かなかったでしょう。そして継続したからこそ,その価値観は,世界の滅亡を防ぐものとして認められるようになったのです。

 話を戻します。ここで言いたいことは日本被団協とこれを支持する私の見地に賛同せよということではありません。価値と理念を維持することの大切さです。

 ものごとを語り,願いや主張を持つうえで,根拠はもちろん大事です。それなしてでは単なる独善に陥るからです。しかし,「語りたい」こと,「実現したい」こと,「守りたい」ことを持ちつづけることもまた大事なのです。正しく価値あることであれば堅持しなければならない。あきらめてはならないのです。学問的根拠とは,それ自体では何も動かせず,人間の何らかの望ましい行為を支えることで世界を動かすのです。

 私は,修了・卒業の時に当たり,皆さんの一人一人が,それぞれの願いと主張を持ち,独善を戒めながらもこれを堅持し,社会人としても大学院生としても,世界に立ち向かっていくことを希望します。そのことにゼミでの研究が少しでも力になることを望みます。

2025年3月
産業発展論ゼミナール担当教員
川端 望

2025年3月22日土曜日

Jordan, K. H., Jaramillo, P., Karplus, V. J., Adams, P. J., & Muller, N. Z. (2025). The Role of Hydrogen in Decarbonizing US Iron and Steel Production. Environmental Science & Technologyを読んで

 Jordan, K. H., Jaramillo, P., Karplus, V. J., Adams, P. J., & Muller, N. Z. (2025). The Role of Hydrogen in Decarbonizing US Iron and Steel Production. Environmental Science & Technology.
https://doi.org/10.1021/acs.est.4c05756

 アメリカ化学会のジャーナルに載った論文「アメリカ鉄鋼業の脱炭素化における水素の役割」。この論文は,アメリカ経済全体でのCO2排出量ネットゼロ目標を念頭に置き,種々の条件下で鉄鋼業が2050年にネットゼロを達成しようとする場合の技術構成を検討する。その結果として,多くの研究や業界のテクノロジーマップで脱炭素の切り札と考えられている水素直接還元法(H2DRI)が,比較的限られた条件の下でしか大きな役割を果たさないことを示している。

 全文を読んでみたが,数々のシナリオでの技術構成の違いから見て,次のような選択が作用しているようだ。

 まず,全体としてスクラップ・電炉法(Scrap-EAF)が最大シェアを占めることは変わりない。さすがはすでに電炉比率7割のアメリカである。スクラップ供給制約がない場合はScrap-EAF法が2050年には100%になるとまでされている。他国では量的にも質的にも困難であるが,アメリカではこれに近いことも考えられるかもしれない。

 次に,高炉・転炉法(BF-BOF)法を脱炭素化する手立てとして最も低コストなのは炭素回収(CC)だと分析している。コスト最適なシナリオでは,2050年の製鋼はScrap-EAFとBF+CC-BOFがほとんどを占める。CCとその発展形である, バイオマス発電と結合した二酸化炭素回収(BECCS),大気からの二酸化炭素直接回収(DAC)が実用化すれば低コストになるというのがこの論文のポイントである。そしてこの条件はアメリカ以外では異なっているかもしれないとも指摘している。なお,日本等で開発中の高炉への水素吹込は考慮されていない。

 第三に,本稿では中央計画の観点から,水素をコスト効率の良い他のセクターに割り当てる結果になっている。限られた水素を,鉄鋼業だけでなく,他の産業でも活用することを視野に入れると,鉄鋼業での水素利用は不利という結果になるのである。「他の用途を考えると鉄鋼業で水素を使うのは適切とは言えないのでは」という疑問は,本学の冶金研究者からも発せられたことがあるが,本稿はアメリカについてそれを裏付ける結果となっている。

 第四に,本稿ではアメリカで開発中の溶融酸化物電解法(MOE。鉄鉱石を直接電気分解して製鋼する)が2040年ころには実用化されると想定している。そしてH2DRI法の強力なライバルと扱われている。

 CCの使用が制限された場合には,BF-BOF法は使えなくなる。そうするとH2DRIが拡大しそうなものだが,本稿では上記第3と第4の条件が入っているので,そうもいかない。H2DRIが大きな役割を果たすのは,CCが使えず,MOEが実用化されない場合に限られてしまうのである。

 この結論では,MOEの実用化想定が楽観的過ぎるように思える。しかし,それ以外はアメリカの条件を的確に反映している可能性がある。つまり,1)スクラップの入手可能性が高い,2)電力料金が安い,3)CCSの実行可能性,端的にCO2を安く埋め立てられるということである。他国の場合はどうなるかが気になるところである。

 なお,トランプ政権のように地球温暖化対策には極度に否定的な政権が続けば,そもそも2050年までのカーボンニュートラル規制が課せられなくなる可能性がある。これが本稿のすべてのシナリオにとって最大のかく乱要因だろう。


2025年3月7日金曜日

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」完成版が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました

  論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。

 学説史的には二つのことを言っています。

*戦前から活躍していたマルクス経済学者である岡橋保の信用貨幣論は実は正しかった。近年唱えられている諸々の信用貨幣論よりも妥当なところが少なくない。

*日本銀行や全国銀行協会出身の研究者が,実務を論理化しようと出された著作群は,上記の岡橋説と類似しており,やはり基本的に正しかった。

 理論的には,以下のことを述べています。かなりの部分が,多数説に反しています。

*銀行の基本的機能は金融仲介ではなく,信用創造である。

*信用創造による貸し付けとは,商品流通に必要な貨幣の新規供給である。

*返済とは,商品流通に不要な貨幣の退出である。

*当座性預金は支払い手段として機能する限り貨幣の一種である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務である。既に存在する現金を借りたことによる債務ではなく,支払い約束である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務であり,信用貨幣である。金債務ではない。金債務ではないから,管理通貨制になっても信用貨幣のままである。

*預金は,誰かが現金を銀行に預けたときに生まれるのではない。銀行が貸付を行った際に生まれる。

*銀行券が発行されるのは,預金が引き出されることによってである。

*預金貨幣と銀行券は金貨でもないし兌換紙幣でもないが,商品流通の必要に応じて流通に入り,また出るという伸縮性を持つ。

*銀行部門全体にとっての準備金は,結局は中央銀行によって供給される。銀行が社会から集めた預金によって確保されるのではない。

*通貨価値が安定している限りにおいて,中央銀行は準備金を必要としない。

*民間金融システムによる信用の膨張だけでは,物価上昇は起きても厳密な意味でのインフレーションは起きない。

*マルクス経済学にも外生的貨幣供給説と内生的貨幣的供給説があり,金融システムについては内生的貨幣供給説が正しい。

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https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

3/19追記。DOIが付き,東北大学機関リポジトリTOURからもダウンロードいただけるようになりました
https://doi.org/10.50974/0002003359






クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...