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2023年3月23日木曜日

岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年を読んで:マルクス学の商売,その歴史と現在

 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年。一体,何が起こったのかと思った,まさかの復刊。旧青土社版(1983年)を買ってはいないが,渡辺寛氏との問答の記述が記憶に残っているから,たぶんちらちら見たことはあるのだろう。岡崎次郎と言えば,私の世代(1964年生まれ)にとっては国民文庫や『マルクス・エンゲルス全集』の『資本論』,岩波文庫版『金融資本論』など,マルクスやマルクス主義文献の翻訳者である。本書はその生涯を振り返って自ら書き記したものである。

 その生涯は,私には,ああ,こういう人もきっと昔のマルクス主義者にはいたよなあ,そんな名残は私の先生たちにもあったよなあ,と読めるものであるが,今の若者が読むとぎょっとするのかもしれない。極端に言えば遊民,やや穏やかに言って浮世離れしたところがあり,もっと穏やかに言って超マイペースな人生だからである。マルクスの翻訳だけでこんなにお金が入ったことも(大月書店からの『マルエン全集』と『資本論』各版の印税1億5000万円!=今の貨幣価値で2億6650万円),また当人が暴力革命以外ありえないだろうという思想を持っているのに,本書では社会に対する理想や思いよりお金や大学の人間模様や翻訳業務をめぐるドタバタに頁を費やしているのも,私の世代では,まだ「あるある」と思うが,今の若者には理解しがたく,もしかすると不快に思うかもしれない。とくに,著者は本書刊行後間もなく,奥方とともに旅立ち,消息を絶ったことで知られているだけに,初見の読者が本書をマルクスに殉じた歩みを記したもの,と考えて手に取ると,「何だこりゃ」となるおそれがある。

 しかし,本書はそういうものではないのである。では,どういうものか。資本主義社会で生きる以上,マルクスに携わる研究者も大学教員も翻訳家も,運動家さえも,原稿料や印税や給与や講演料を得てくらしていかねばならず,それなりに「商売」感覚を持たざるを得ない(持たない場合,すぐに野垂れ死ぬか,あるいは家族に多大な負担をかける)。これは,岡崎氏が,自らの生涯のうち,当時のマルクス業界の「商売」に関する部分を中心に記述した本だと思えばよいのである(そういう記述をした本として,他に野々村一雄『学者商売』がある)。そして,その「商売」感覚が,昔と今とでは相当に異なっているのだ。マイペースにお金を稼げるマルクス業界は,もうどこにもないからである。

 そんなわけで,本書はもはや一つの歴史であるが,どうしても,時代を超えて,いまこうす「べきだ」と言いたくところがひとつだけある。それは,岩波版『資本論』の翻訳について,向坂逸郎と岩波書店が岡崎氏にとった態度についてである。文庫版第2分冊以降をほとんど岡崎氏に訳させ,共訳とするはずの約束を「下訳」扱いして自分の単独訳とし,印税だけ折半するなどという行為が,なぜまかり通ったのか。マルクス業界にも,なぜこのような親分・子分関係が存在したのか。もちろん,このことも本書の他の内容とともに歴史として扱うべきかもしれない。しかし,岩波書店は,この出来事をなかったかのように扱い,『資本論』を向坂の単独訳として,今なお販売し続けているのである。それは,現在の問題として改めるべきであろうと,私は思う。



2023年3月14日火曜日

シリコンバレーバンク(SVB)の破綻:インフレと信用不安のジレンマ

  アメリカのシリコンバレーバンク(SVB)が経営破綻し,連邦預金保険公社(FDIC)の管理下に置かれることになった。総資産は2090億ドルであり,2008年以来の大型銀行破綻である(※1)。

 SVBは,スタートアップの成長を見込み,貸し出しを拡大しようとして預金を盛んに集めていたようである。13 日まで判明している限り,少なくとも一部の顧客との契約では,他の金融機関と取引しないことを条件としていた(※2)。ところが預金を集めたはいいが,貸し出し先を見つけられず,資金を不動産担保債券(MBS)で運用していたところ,金利上昇で債券価格が下落した(※3)。同時に,金利上昇で顧客のスタートアップも資金が潤沢でなくなり,預金を引き出す動きが出る。SVBは流動性を確保しなければならなくなった。MBSの含み損の表面化を避けるために短期国債を売却したが,やはり売却損が表面化。これを埋め合わせようと増資を発表したが,このニュースが株価暴落,預金の取り付けを招き,破綻に至ったとのことである。

 預金保険は,本来1口座あたり25万ドルまでしか保護しない。しかし,財務省・FRB・FDICは12日に,同行および同じく破綻したシグネチャーバンクの預金を,本来の預金保険の上限を超えて全額保護するとの内容を含む共同声明を発表した(※4)。信用不安が拡大するのを防ぐためであろう。考えられる限り最も素早い措置であるが,うまくいくという保証はない。

 この出来事は,かねてから予想されていたアメリカ金融政策のジレンマを現出させたと言える(※5)。連邦準備制度理事会(FRB)はインフレーション退治のために,不況になることも厭わず金利を引き上げる姿勢を示してきた。FRBが望んでいたのは,実物セクターの需要減,失業率の上昇,賃金上昇の停止である。しかし,それが実現しないうちにSVBが破綻し,金融セクターへの不安が広まっている。金融セクターでの破綻の連鎖が起これば,金融システムが崩壊し,FRBが最も望まない状態が現出することになる。しかし,本来実物セクターと金融セクターは密接に連携しており,不況を実物セクターのみにとどめるのは容易ではない。FRBは,金利を引き上げれば信用不安が高まり,引き上げを止めればインフレが続くというジレンマに直面している。

 さらに,IMF等によって指摘されているように(※6),金利引き上げは新興国が抱えるドル建て債務を重くしている。信用不安が国際的に連鎖すれば新興国に打撃を与え,その損失がまた,新興国に投資する先進国に打ち戻されることになりかねない。預金全額保護措置が当面は功を奏するかもしれないが,世界的な金融危機に対する警戒は,むしろ高めねばならないだろう。


※1 Natalie Sherman & James Clayton, Silicon Valley Bank: Regulators take over as failure raises fears, BBC News, March 12, 2023.

※2 Rohan Goswami, Silicon Valley Bank signed exclusive banking deals with some clients, leaving them unable to diversify, CNBC, March 12, 2023.

※3 アメリカで資産運用会社を経営するTak(qRealtyPnw)さんのTweet,20223月10-11日。

※4 Joint Statement by the Department of the Treasury, Federal Reserve, and FDIC, March 12, 2023.

※5 「金融危機のリスクと政策的ジレンマに直面する世界経済」Ka-Bataブログ,2022年10月20日。

※6 International Monetary Fund, World Economic Outlook: Countering the Cost-of-Living Crisis, October 2022.


2023年3月6日月曜日

ギソン・アイアン・アンド・スチール社の新工場建設計画から,VASグループの戦略を読み解く

  VIET JOの2023年3月1日付報道によれば,ベトナムのVASグループ傘下ギソン・アイアン・アンド・スチールの新工場建設計画がタインホア省政府に承認されたとのことです。VIET JOの元記事は,おそらくVietNam FINANCE2月28日付でしょう。これらによると,新工場は,先月私が見学したギソン経済区にほど近いタンチュオン区第4工業団地に建設される予定です。投資額は5.5兆ドン(約319億円,2.31億ドル)。

 注目されるのが,生産能力,原料,工程,製品です。本記事は,ここからVASグループの戦略を読み解こうというものです。

 報道によれば,第1フェーズでは,スクラップを用いて厚さ150ミリ,幅550-750ミリ,長さ7000ミリの半製品を製造し,そこから厚さ2.3-3.6ミリ,幅550-750ミリ,グレードQ345,Q235,Q195またはそれらに相当する98万トンの熱延コイルを製造します。

 また第2フェーズでは,3万トンの構造用鋼,30万トンの鋼管,角型鋼管,亜鉛メッキ鋼板を製造すると報じられています。

 これを工程の流れがわかるように言い換えますと,第1フェーズはスクラップを原料とし,アーク電炉法か誘導炉法によって溶解するものです。VASグループの履歴から見て,おそらく誘導炉でしょう。連続鋳造してスラブを製造し,これをナロー・ストリップ・ミルで狭幅の熱延コイルに圧延するのです(ちなみに中国規格で狭幅帯鋼の上限は600ミリ。大型一貫製鉄所で製造される広幅帯鋼は幅750-1600ミリが多い)。

 第2フェーズは造管機・冷間圧延機・亜鉛メッキラインを増設するもので,狭幅熱延コイルを用いて溶接鋼管,溶接角鋼管,亜鉛めっき鋼板を製造するものと思われます。構造用鋼の3万トンというのは数字が半端なこともありよくわからないのですが,狭幅帯鋼から鉄骨を加工するのかもしれません。

 ここで専門的な話ですが,VIET JOの日本語記事だけだと熱延コイルが狭幅であることがわからないために,アメリカの大型電炉メーカーが用いる薄スラブ連続鋳造とコンパクト・ストリップ・ミルを用いるかのように読めてしまいます。しかし,数字が少し詳しく出ているVietNam FINANCEを読むと,そうではないことがわかります。スラブが厚く,コイルの幅が狭いからです。これは,中国で民営企業が,中国製設備を用いて多数建設している,狭幅熱延帯鋼工場と同じようなスペックです。VASグループは,誘導炉はこれまでも中国から調達していましたが,今回は連続鋳造機と圧延機も中国製のものを用いるのではないでしょうか。

 このような工場であれば,投資額が5億ドル以下で実現できることは理解できます。とはいえ2.31億ドルはさすがに過小ではないかとも思います。ベトナムでは投資ライセンスを獲得しやすくするために,企業は投資額を過少に見積もる傾向があるので,これもそうした傾向の表れかもしれません。

 さて,ここから読めるVASグループの事業戦略は,従来の事業,つまり単圧工場へのビレット売り,建築用棒鋼・線材の製造・販売から多様化をはかり,鋼板類・鋼管類にも進出するというものです。ベトナムでは,高炉メーカー2社が出現したいまもなお,熱延コイルの輸入依存度は高く,国産化の余地があるからでしょう。

 ただし,VASは,独自の立ち位置をとろうともしています。自らの資金動員力の限界を踏まえつつ,技術的には自ら持つスクラップ選別能力と誘導炉の活用で対処できる範囲として,また事業ドメインとしては高炉メーカーと正面から競合しない狭幅の鋼板としているのでしょう。

 ベトナムの不動産・建設業がインフレ・金利の高騰によるバブル崩壊から立ち直っていない現在,VASグループの次なる野望が実現するかどうかは何とも断定できません。しかし,言えることはあります。

 ベトナムの建設用鋼材市場では,高炉,アーク電炉,誘導炉,単純圧延の各メーカーが入り乱れ,品質・価格の様々なセグメントを作り出しながら激しく競争しています。棒鋼や線材という一見等質的なコモディティの世界であるにもかかわらず,マイクロな異質化競争が起こっているのです。これは,建設用コモディディ鋼材はアーク電炉メーカーによって占拠され,したがって諸企業が同質的行動をとりやすい多くの諸国とは異なる状況です。この独特の状況を生み出した有力なプレーヤーの一つがVASグループなのです。VASグループが誘導炉を用いながら品質管理と環境管理においてほぼフォーマルな存在になったことによって,異質性を帯びた競争がとりわけ激しくなり,セグメントごとの顧客に異なる価格と品質で棒鋼・線材が供給されることにつながっています。そして,セーフガードの力を借りているとはいえ,ベトナム鉄鋼業はビレットや棒鋼において中国からの輸入品の浸透を許さずに,生産を拡大し続けているのです。

 VASグループのフォーマル化とマイクロな異質化競争行動は,ベトナム鉄鋼業条鋼部門の発展に寄与していると私は考えます。それ故に,今度は鋼板市場でも,同じようなマイクロな異質化競争を挑もうとしているVASグループの行動は注目に値するのです。

「タインホア省:DSTギーソン鉄鋼工場案件を原則承認、投資総額314億円相当」VIET JO,2023年3月1日。

Văn Tuân, Thanh Hóa có thêm nhà máy luyện cán thép 5.500 tỷ tại khu kinh tế Nghi Sơn, VietNam FINANCE, 28/02/2023.



2023年3月3日金曜日

VASグループ・ギソン(Nghi Son)製鉄所訪問記

  2月21日,ベトナムタインホア省のギソン経済区にあるVAS Steel ギソン(Nghi Son)製鉄所を訪問しました(※)。ハノイから約200キロメートル南下したことになります。

 VASグループの以前の主力企業は,1998年に創業したアン・フン・トゥオン(Anh Hung Tuong=AHT)であり,南部ビン・ズォン省で創業しました。AHTは誘導炉(IF)メーカーです。スクラップを誘導炉で誘拐し,連続鋳造機で鋳造してビレットをつくり,外販します。一部は自ら棒鋼に圧延して販売します。誘導炉はスクラップを溶解するだけで,アーク電気炉と異なり精錬し成分を調整することが十分にはできません。そのため,無思慮に操業すれば品質の悪いビレットやペンシルインゴットができます。これが「地条鋼」として中国で禁止されたものです。一方,標準的な技術である高炉・転炉法やアーク電気炉法に比べると,設備コストは極めて安くすみます。

 ベトナムでは,誘導炉による鉄鋼生産はインフォーマルセクター的なものであり,北部のチャウケー村ダホイ地区などで多数の小規模事業者によって行われていました。AHTはこれを,フォーマルなビジネスに高めました。内外のスクラップを丁寧に選別・配合すれば,規格に達する品質のビレットが生産できることを証明し,製品規格を取得し,会社の経営も現代的なものに整えました。アーク電気炉製よりも品質はやや劣るが,価格も安いというビレット事業のセグメントを作り出したのです。ベトナムの顧客は,品質と価格のバランスを考慮して,高炉・転炉ビレット,電気炉ビレット,IFビレットを選び分けることができるようになりました。

 このVASグループが,誘導炉製鋼を一気に拡大して,ギソン経済区の一角に建設したのがギソン製鉄所です。第1工場はIF製鋼80万トン,線材圧延60万トン,第2工場はIF製鋼80万トン,棒鋼圧延60万トンで既に稼働しています。第3工場はIF製鋼のみ130万トンで稼働のための準備中です。ということは,第3工場が稼働すればIF製鋼290万トン,圧延120万トンに達します。たいていの電炉製鉄所より大きく,小規模の高炉一貫製鉄所並みの製鋼能力です。

 日本を含む多くの諸国では,鉄鋼業は枝分かれ型の工程を持ち,川上に行くほど規模の経済性を生かした大型設備が用いられます。高炉,転炉,電炉は大型化する傾向を持っています。ところがギソン製鉄所では,確かにインフォーマルセクターのものよりは大型ではあるものの,おそらく第1-第3工場に30-50トン/ヒートの誘導炉を15機前後設置していると思われます。小型設備を多数並べているのです。これで設備コストを節約するとともに,需要に対応した生産調整を行っています。ちなみに大規模な集塵機とバグフィルターが設置されており,製鋼工場から煙が上がることもありません。圧延工場の圧延機は,イタリアのダニエリ社製の標準的なものです。

 IFによって規格を通る鋼を製造するための生命線は,スクラップの調達と選別です。VAS Nghi Sonは経済区内に港と広大な野外スクラップヤードを持っています。スクラップは国内から3割,輸入が7割ですが,見学時には3万2000トンを積んだアメリカからの船が荷下ろしをしていました。これはスクラップ取引では最大級の船です。また,VAS Nghi Sonの従業員は2500人程度とのことですが,うち400人はスクラップヤードで働いているとのことです。これも日本では考えられない規模です。

 無造作に行えば劣悪な無規格材を生み出してしまうIF事業を,フォーマルで競争力あるものに変えたのは,設備コストを抑えながら,スクラップへの徹底したこだわりによって品質を確保することなのです。

※種々の報道からみると,VAS Nghi Son Steel Co. Ltd.単一所有有限会社であり,その傘下にVAS Nghi Son Iron and Steel Joint Stock Companyがあり,後者が製鉄所を保有しているようです。






2023年2月24日金曜日

『日本大百科全書(ニッポニカ)』の更新項目「鉄鋼業」と新規設置項目「日本製鉄」を執筆しました

 『日本大百科全書(ニッポニカ)』の更新項目「鉄鋼業」と新規設置項目「日本製鉄」を執筆しました。いずれも2023年1月19日更新です。幸い,双方ともサンプルページにありますのでご紹介します。紙で刷られることはなく,ネット版の更新です。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の書籍版は1994年に刊行されていますが,全25巻で,一応図書館に見に行きましたが,おいそれと改版を出せるものではありませんね。辞書の類は,場所も取らないし検索の便宜が圧倒的に良いので,書物の中でもオンライン化に特に向いた分野です。

「鉄鋼業」(松崎義氏が執筆された原稿に対し,現状に見合うように加筆し,若干の置換を行ったもの)

「日本製鉄(株)」(新規項目)


2023年2月10日金曜日

水田洋『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年のこと

 水田洋氏の訃報に接する。私は何しろ古典にたいする教養を欠いているので,水田氏の著作もほとんど読んでおらず,お恥ずかしい。唯一,読み通したのが古書店で見かけて買った『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年だが,これは実に面白かった。もちろん,学説の内容としては今では乗り越えられているところもあるだろうが,感心したのは思想史としての書き方であった。マルクスだけが,レーニンだけが真理だ,他の連中はだめだみたいな決めつけが全くなく,むしろ,マルクス主義者たちがどのような問題に突き当たり,それを解決するために何を主張し,どうしたか,その問題は後続の人々にどう受け継がれたかという風に書いてあるので,読者自身が課題に向き合い,追体験しながら読める。例えばレーニン,ルクセンブルク,トロツキー,スターリン,ブハーリンのいずれについてもそのように書いてある。ある意味で客観的で公平であり,しかし正確な意味で実践的な記述なのであったのだと思う。いや,もちろん本当は近代的個人と社会主義についてもっと深く読み取らねばならないのであろうが,教養が足りずに申し訳ない。




2023年2月9日木曜日

ベトナムにおける直接投資プロジェクト認可の分権化に関する問題:Au Thi Tam Minh氏の論文から学ぶ

  一般論として,途上国かつ社会主義国において,地方分権化を進めることは積極的意味を持つことが多い。しかし,対象が大規模FDIプロジェクトの認可であって,また分権化の方法がぎこちなく適切でない場合には,話が違ってくる。ベトナム鉄鋼業における外資誘致について,私はずっとそう思っていた。技術的に合理性のないプロジェクトに認可を与え,プロジェクトは全く進まず建設予定地は更地のままということが少なくなかったからだ。そして初の大型銑鋼一貫企業フォルモサ・ハティン・スチールをめぐっては,高炉操業開始前に魚の大量死事件が発生した。

 ホーチミン国家政治・行政学院のAu Thi Tam Minh氏がESCAPの雑誌に発表したこの論文は,フォルモサ・プロジェクトの誘致と海洋汚染事件をめぐり,行政の機構と運営のどこにどう問題があったかについて,ヒアリングを重ね,何とか具体的に示そうとしている。フォルモサの具体的事例については,どうしても秘密の壁に阻まれて一般論にとどまるところはあるが,中央と地方,部署と部署をめぐる政府間関係の問題については,かなり具体的に解明できている。こういう論文が欲しかったので,たいへん参考になる。

「 FDI管理の分権化の有益な効果にもかかわらず,それがFDIプロジェクトの管理を緩くし,その結果,2016年の環境災害につながったのではないかという懸念は存在する。おそらく,地方当局は慎重な検討なしにFDIプロジェクト誘致を追求した。Hung Nghiep Formosa Ha Tinh Steelプロジェクトの許認可プロセスを振り返ると,広範囲な影響と高い環境リスクを伴うこのような大規模プロジェクトが、大雑把な報告しかなかったにもかかわらず,いとも簡単に承認されたことは驚くべきことである。」(p. 93)

Au Thi Tam Minh, Challenges in implementing decentralization of foreign direct investment management in Viet Nam – case study of the Hung Nghiep Formosa Ha Tinh Steel project in Ha Tinh province, Asia-Pacific Sustainable Development Journal, 2019, vol. 26, issue 2, 83-105.

ジャーナルのページ(ダウンロード可能)
https://www.unescap.org/publications/asia-pacific-sustainable-development-journal-vol-26-no-2-december-2019

直リンク
https://www.unescap.org/sites/default/files/Paper%204_0.pdf

2023年1月29日日曜日

「あそこに座ってない時は,死んだ時です」:三谷昇氏の訃報に接して

 俳優の三谷昇氏が亡くなられた。読売新聞の報道では、『ウルトラマンタロウ』出演とタイトルに書いてくれている。そう,特撮オタクにとっては,三谷氏と言えば『ウルトラマンタロウ』である。もちろん他にも,『帰ってきたウルトラマン』第22話のピエロ,映画『宇宙からのメッセージ』のカメササ,『電子戦隊デンジマン』第13話のアドバルラー人間態,『宇宙刑事ギャバン』の魔女キバなどもあるが。

 三谷氏は、『タロウ』の最終盤3話に、ZATの二谷一美副隊長として出演された。前任の荒垣副隊長の東野英心氏が骨折したことを受けてのピンチヒッターだったということだ。

 3話だけの出演だったが、第52話「ウルトラの命を盗め!」(脚本:石堂淑朗,監督:筧正典,特撮監督:大木淳)では堂々主役を務められた。このエピソードは,終盤の『タロウ』にいくつか見られるシリアス編である。宇宙では戦争が続いており,怪獣ドロボンはそこにウルトラ兄弟を巻き込もうとして地球にやってくる。ウルトラマンジャックはこれを止めようとして返り討ちにあり,地球ではタロウと協力して自らのカラータイマーをはぎとられてでもドロボンを阻止しようとする。そしてドロボンの人質となった二谷は,タロウがたたかいやすいように自らの命を絶とうとこめかみにZATガンを当てるのだ(幸い,故障かエネルギー切れで不発だったが)。

 どうにかドロボンを撃退し,ウルトラマンジャックも二谷も助かってラストシーン。人質になってしまったことを副隊長失格だと言って自席に座ろうとしない二谷に(画像1),東光太郎(篠田三郎)が言う。


東「副隊長,それはいけないですよ。」

二谷「いいんだ。」

東「隊長が死ねば副隊長が指揮を執り,副隊長が死ねば北島さん,北島さんがだめなら南原さん。ZATの規則は,そうでしょ?」

二谷「まあ,そりゃあ。」

東「なら,副隊長は死ぬまで副隊長です」。二谷の表情が,何かに気づいたかのように変わる。そして,ここまで勢いよくたたみかけていた光太郎は,静かに言う(画像2)。「あそこに座ってない時は,死んだ時です。」


二谷「……わかった。」

東「わかったら,どうぞ!」

 自席に戻った二谷が威勢よく「定時警戒態勢,出動!」を命じてエピソードは閉じられる(画面2)。


 「あそこに座ってないときは,死んだときです」。平常なら縁起でもないが,ドロボンとの戦いの後なので説得力がある。自分の心情だけで職責を放棄してはならない。生きているのだから、するべきことをしなければならない。命を捨てても任務を果たそうとしたあなたならば,わかっていらっしゃるのではないですか。副隊長は,生きて帰って来てくれたではないですか。光太郎はそう問いかけたのである。

 ここで『タロウ』の世界に奥行きが生まれる。明るくおちゃらけているZATも,実は死と隣り合わせの職場なのである。戦闘の場でなく作戦室の平常時の会話でそのことを表現したこのシーンは貴重なものだと,私は思う。

 どうぞ安らかにお休みください。

2023年1月26日木曜日

アセアンにおける高炉一貫製鉄所建設とカーボン・ニュートラル

 『日本経済新聞』の報道によれば,フィリピンの鉄鋼・鉄筋加工メーカースチールアジアが,中国宝武鋼鉄集団と連携し,生産能力300万トンの高炉一貫製鉄所を建設することで合意した。投資額は1080億ペソ(約2600億円)。2000人の雇用創出効果があるとされる。おそらく元情報は1月23日付のINQUIRER.NETであろう。同紙は今月7日からこのプロジェクトについて報じていた。マルコス大統領が中国訪問の際に成立させた14の合意のうちのひとつであるとのこと。実現すれば,フィリピン発の高炉一貫製鉄所となる。


 さて,アセアン諸国では高炉一貫製鉄所建設が相次いでいる。1000立方メートル以下のミニ高炉は除くとしても,すでにベトナムのフォルモサ・ハティン・スチール(台湾資本),ホア・ファット・ズンクワット(地場),インドネシアのクラカタウPOSCO(地場・韓国資本),クラカタウ・スチール(地場),徳信製鉄(中国資本)が稼働し,さらにマレーシアではアライアンス・スチール(中国資本)が稼働し,現在は小規模なイースタン・スチール(中国資本)が設備大型化を狙い,文安鋼鉄(中国資本)とライオン・グループ(地場)が高炉建設を計画している(もっとも,この会社は何度も計画しては挫折している)。これに今回のフィリピンでのスチールアジア(地場・中国資本)が加わる。日本企業はフォルモサと徳信にマイナー出資している。

 従来であれば,鉄鋼需要の増加に対応して鉄鋼生産力の増強が画期を迎えたこと,外資誘致が能力建設を加速していること,すべて実現すれば能力過剰となることに注目するところである。しかし,現状ではそれ以外にもう一つ,重要な課題を落とすことはできない。それは,高炉一貫製鉄所を建設すれば大規模なCO2排出源になるということである。


 もちろん,高炉による銑鉄生産量が大きい中国,インド,日本,ロシアなどの方がCO2排出量ははるかに大きい。それを踏まえた上で,なおアセアンはアセアンで,鉄鋼生産の急増エリアとして独自の問題をなすとみなければならない。アセアン主要6か国は2030年までのCO2排出削減目標は提示しているし,カーボンニュートラルもタイ,ベトナム,マレーシアは2050年,インドネシアは2060年に達成すると意欲的である(杉本・小林・劉,2021)。しかし,その目標を,製造業最大のCO2排出源である鉄鋼業にどのように課し,生産能力や生産技術の構成をどのように導くかは,ほとんど具体化されていないようである(ベトナムについては来月関係機関にヒアリングしたい)。現状では,鉄鋼需要に応じて高炉建設が集中している。とくに中国メーカーは,自国での生産能力増強が規制されている分,アセアンへの進出を拡大している。


 こうした動きが,温暖化対策にどれほど足かせとなるだろうか。ドイツのシンクタンクAgora Energiewendeは世界鉄鋼業のCO2排出量を2019年の30億トンから2030年までに17億トンまで減少させるシナリオと政策を構想している。シナリオの構成要素が報告書では読み取りづらいものの,アセアンとインドにおける石炭ベースの製鋼能力建設(高炉・転炉法のことだろう)計画1億7600万トン(アセアン8900万トン,インド8700万トン)のうち5000万トンを直接還元鉄とすることが必要なようである。このままでは,それは到底実現しそうにない。しかし,2050年や2060年にカーボンニュートラルを実現するのであれば,短くて20年,長ければ50年は稼働する可能性がある高炉一貫製鉄所を,2020年代後半に建設することはリスクとなる。


 鉄鋼生産力増強の必要性と,気候変動による産業・生活への脅威の高まりの双方をどう直視するか。アセアンにおける気候変動対策の強化を,先進諸国や鉄鋼大国の責任を考慮しながらどうファイナンスし,どのようなスキームで実行していくか。アセアン諸国鉄鋼業は,産業発展を持続可能とするために,新たな問題と格闘しなければならない。


「フィリピン鉄鋼大手、中国宝武と製鉄所 2600億円投資」『日本経済新聞』2023年1月25日。


Alden M. Monzon,SteelAsia, BaoSteel forge deal to build P108-B facility, INQUIRER NET, January 23, 2023.


Jean Mangaluz,PH expects up to $2 billion in China investments to revive steel industry,INQUIRER NET, Jan.7, 2023.


杉本慎弥・小林俊也・劉泰宏「ASEAN におけるカーボンニュートラルの現状」『NRI パブリックマネジメントレビュー』221, 2-10,2021.


Global Steel at a Crossroads:Why the global steel sector needs to invest in climate-neutral technologies in the 2020s, Agora Industry, Nov. 2021.


『[参考和訳]岐路に立つ世界鉄鋼業:世界の鉄鋼セクターが2020年代にカーボンニュートラル技術に投資すべき理由』自然エネルギー財団,2021年12月。


2023年1月20日金曜日

なぜ,まず賃上げをしなければならないか。まず生産性を上げようという発想のどこがまずいのか

 まず付加価値生産性を高めて賃金原資をつくり出して賃上げしよう,そのことに政策の重点を置こうという意見は根強い。この記事で奥平寛子氏が述べるのも,その一つのバージョンだ。氏は言われる。「労働市場の流動化がすぐには進まないことを前提とすると、成長分野での資本蓄積やイノベーションを促す投資減税などの政策が求められる。労働者あたりの付加価値が増えれば実質的な賃上げが進むだろう。」


 だが,21世紀に入ってからの20年余り,何が起こって来たのかをよく考えよう。異次元とか超のつくほど金融は緩和されてきた。研究開発減税も行われた来た。企業の売上高経常利益率はバブル以前に劣らない水準だ。日本全体としてみれば,企業は,投資のもとでとなる資金を入手するのは容易だったのだ。しかし,実物資産への設備投資は増えなかった。企業の資産に占める有形固定資産の割合は低下し,現預金や子会社・関連会社株式の割合が増えた。経営者は,日本国内で消費が伸びそうもないことを強く認識していたからだ。消費が伸びないのは,中低所得者の賃金が全く伸びないからであり,またそれでも老後の不安から予備的動機で貯蓄してしまうからである。企業はもうかっても生産能力を拡大する純投資は手控えたままだった。純投資を行たのは海外直接投資においてであった。国内で盛んに行われたのは子会社・関連会社の再編であり,端的に相対的に伸びている分野に自社の所有・支配権を移していくことだった。


 この状態では,まずやるべきは生産性向上ではない。生産性向上は長い目で見て必要であるが,そのためにまずやるべきは,企業にお金を与えることではない。それでは,決して設備投資は増えない。現に20年余り増えなかったのである。まず最初に,個人がお金を今よりも使えるようにしなければならない。そうしなければ消費は増えず,国内消費が増えなければ投資も増えない。所得が増えれば増えた分だけ消費を増やすのは中低所得者である。なので,広範な非正規労働者を包摂するように,中低所得者の賃金を引き上げることを,「まず最初に」やるべきだ。それによって,生産性を上げなければ経営が成り立たないという危機感を経営者に与えることが,長い目で見ても有効だろう。

奥平寛子「賃上げへ生産効率向上カギ インフレの先にあるもの」日本経済新聞2023年1月18日。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...