松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。松尾氏と井上氏は信用創造廃止・政府通貨論者らしいと聞いて興味を持ち,読んでみたのだが,その主張が飲みこめなかった。本書には多様な主張が含まれているが,ここでは信用創造廃止論,信用貨幣の廃止と政府通貨の創設論,それとかかわった金融システム・財政システムの改革論の大枠についてのみ対話したい。
本書の主張には,共感できるところもある。私なりにまとめると,著者たちは現行の金融システムは民間銀行による信用創造によって成り立っていると理解している。私もそう思う。また著者たちは「様々な反緊縮論の共通点は,金融政策でなく財政政策を活用して,人々のための経済政策をやって行こうということであり,そのために一定程度まで財政赤字を出すことはサステナブルだと考えている」から,そこを一致点として確認しようと考えている。この点もまったく賛成である。
しかし,信用創造廃止の積極的主張をされる時に,どうしてそれがサステナブルだと考えるのかが,よくわからない。十分説明されているとは思えないのである。信用創造廃止論だとどういう価値観に立つことになり,MMT論者だとどういう価値観に,ということは書かれているが,肝心の信用創造廃止後の金融システムがどのように機能するのかが,本書ではわからない。他の本や論文で詳しく論じられているのかもしれないが,本書は一つの作品なのだから,本書だけで概要はつかめるようにしていただきたかった。
民間銀行による信用創造がある限り,バブルの危険があり,通貨創造で民間銀行が設けてしまうという批判はわかる。批判としてはそのとおりである。しかし,信用創造を失くす,具体的には銀行の貸し出しに100%準備を強制し,信用貨幣は廃止して政府または中央銀行が政府通貨を発行する,というしくみにした場合に,金融システムがどのように貸し出しニーズにこたえるのかがわからない。バブルを引き起こす投機目的の信用創造をシャットアウトするのはいい。しかし,いったいどうやって,民間企業の,投機目的でないまともな借り入れのニーズに応えるのだろう。つまり,設備投資とか運転資金とか決済資金とかの借り入れニーズの変動に,どのように対応するのだろうか。企業が借りたいと言っても,「当行に中央銀行が与えてくれた準備預金の枠を超えたからダメ」と言われるとおしまいであり,あまりに柔軟性がない。中央銀行が銀行に供与する準備預金を調節するにしても,日々の変動に対応できるものではなかろう。信用創造廃止・100%準備預金制度は,信用ひっ迫を起こしやすくすると思う。
推定になるが,おそらく著者は,そこは政府通貨による財政拡張で補うのだと考えているのだろう。政府通貨による財政拡張の結果,通貨はやがて十分に市中に出回るようになるということだろう(誤読であれば申し訳ないが,ここのところが説明されていないから,本書の主張が飲みこめないのである)。したがって,個人や企業が銀行なり投資銀行なりに,預金なり預け金なりとして持ち込むお金も増える。それを原資にして金融仲介をすれば,信用創造がなくても十分金融システムは機能するということだろう(※)。いわば「銀行から証券へ」「銀行から種々のファイナンス・カンパニーへ」の新しいバージョンともいえる。
しかし,財政資金を十分散布することを前提に金融仲介をする,というこのしくみには問題がある。まず柔軟性の問題である。原資が財政資金だということは,国会での議決に基づいて,年度単位で編成される予算によって供給されることになる。このような資金は,総量を拡張することは可能であっても,日々のニーズに応じる柔軟性はない。先に述べた準備預金の調節も財政支出の調節も,日々,貸し出しの現場でなされる信用創造の調節に比べると柔軟性は格段に劣るのである。
次に,自動調節の弱体化の問題である。現行システムにおいては,遊休して証券投資に充てられるお金も,もとをたどれば財政資金として支出されたものか,あるいはどこかの銀行から信用創造によってつくりだされ,誰かに貸し付けられたお金である。このうち後者は,企業や家計が必要であるから借り出したお金である。そして,必要なら何度も借り換えるであろうが,不要になれば最終的に銀行に返済され,消滅する。そういう意味では,財・サービス購入に向けた信用創造による通貨供給は内生的であり,必要なだけ供給され,不要になれば消えるのである。いわば金融システムから供給される通貨供給量は自動調節されるのだ。ただし,投機のための借り入れが行われることがあり,そうすると通貨は金融的流通に回ってしまってバブルが発生する。そこに問題がある。
対して政府通貨システム・信用創造廃止の下での通貨供給では,どうなるだろうか。金融システムを通した内生的供給は制限されるので,当然,十分な通貨供給を財政システムに依存することになる。財政システムによる通貨供給は,政治的意思決定に基づく外生的なものである。そのため,通貨供給量の自動調整機能は,金融システムより劣っているとみなさざるを得ない。銀行融資の貸し付けと返済によって通貨が膨張・収縮するルートが制限されているからである。一方,財政赤字を許容する財政思想で,民主的意思決定に基づく財政政策を取れば,悪性インフレのリスクが発生する。これ自体は現行システムでも同じであるが,信用創造を廃止して信用貨幣を政府貨幣で置換えた場合,金融システムの縮小を財政システムの拡大で補うから,このリスクは現行システムよりもずっと高くなるだろう。
また,信用創造を廃止しても,それだけではバブルは根絶できない。財政支出によって十分なお金が市中に出回っているとして,その結果,家計や企業によって金融機関に大量のお金が持ち込まれれば,金融機関は何とかそれを運用して利益を出さねばならない。そうすると,現在のノンバンクや投資銀行と同じく,ハイリスク・ハイリターンの証券での運用や貸し出しに運用が偏るという問題が生じる。サブプライム危機で問題になったような,一つの資産を基礎に資産担保証券を幾重にも発行する手法も,信用創造を禁止しただけではなくせない。政府通貨の供給量を多くすればするほど,こうしたバブルの危険も増す。信用創造廃止だけでバブルを根絶できると期待すべきではない。
対比してまとめよう。民間銀行による信用創造が可能な現行システムは,通貨が財・サービスの購買に向けられる限り,通貨供給量の自動調整機能を持っている。ただし,金融資産の購買に大量に向かったときに歯止めを失い,バブルとなる。対して信用創造が廃止された政府通貨システムは,金融システムを通したバブルを抑制しやすい代わりに,財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能が制限される。そのため,信用ひっ迫を起こす危険がある。これを防ぐためには,現行システムよりも財政システムに依存した通貨供給を行わざるを得ない。そうすると,現行システムよりも悪性インフレの危険が高くなる。そして,バブルも根絶できるわけではなく,通貨を供給すればするほどそのリスクは高まる。
どちらがましかと言えば,私は現行システムを出発点に改革を考える方が現実的に実行可能性が高いと思う。財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能を維持し,これに依拠し続けた方が,その先の改革の負荷が下がるからである。どの道,反緊縮という方向で改革を行うためには,財政を拡張しなければならず,その際に有効な悪性インフレ対策が不可欠となる。信用創造廃止・政府通貨では,MMTのような信用創造を許容した上での改革に比べて,インフレ抑制の難易度はさらに上がる。それよりは,自動調整機能に依拠しつつ,バブルのコントロール策を考案する方が現実的だろう。信用創造廃止論者に対しては,MMT論者のR. レイがかけた言葉を繰り返さざるを得ないと思う。「気持ちはわかるが,無理だ」。
付記:私は,以前に山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』に対して論評を行ったが,松尾氏や井上氏が本書で書かれていることにも,ほぼそのまま当てはまると思う。違いは,供給された政府通貨によって金融仲介の原資が生まれることを考慮した論評にしたことである。
「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」Ka-Bataブログ,2021年12月18日。
※ここで「信用創造」というのは,銀行が貸し出しを行う際に預金通貨が創造され,通貨供給量が増えることを指している。対して「金融仲介」というのは,すでに市中に存在する資金が,それを必要とする企業や家計に融通されることを指している。
松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。