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2022年11月16日水曜日

日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)

 1.「金融緩和の出口」における日銀の業績悪化とはどういうことか

 2022年現在,日本以外の先進諸国はインフレ抑制を掲げて金利を引き上げつつある。金融緩和を継続する日本銀行についても,出口戦略の在り方が問われている。かねてより日本銀行については,利上げを行うと日銀の業績が悪化し,債務超過もありうるのではないかという問いが提出され,そうした事態が生じる可能性や,それが金融秩序に深刻な脅威となるか否かについて,いわゆる「出口戦略」として議論が行われてきた。

 この問い自体については,すでにいくつかの意見が提出されている。野口(2022.6.23)中里(2022.10.11)木内(2022.11.2)などである。また学術的な検討しては,小栗(2017)等によってなされている。これらをまとめると,以下のような共通の理解が得られる。結局のところ日銀の業績悪化が債務超過に至るかどうかは,利上げの幅次第である。業績悪化をもたらす要因として国債等の資産価格の下落と,超過準備への利払いの拡大が挙げられる。どちらかというと,業績悪化の直接要因となりうるのは後者の方である。国債については,日銀が長期保有するために,直接の損失減となる可能性は低いが,超過準備への付利は,金利引き上げとともに確実に日銀の支払いを増やすからである。ただし,日銀は債務超過になっても円建てである限りデフォルトを起こすことはなくオペレーションを継続できることは,論者の間で見解が一致している。問題は,その時に信用秩序維持能力の喪失を疑われて,円や国債への売り攻撃を招くことがあるかどうかであろう。

2.信用秩序への疑念は,中央銀行の在り方への疑念をも呼び起こす

 ここからは私見であるが,私は日銀が信用秩序維持能力を疑われることはありうるし,それは単に市場心理の問題ではなく,根拠のあることだと考える。それは半官半民の存在であり,また通貨価値維持のために中央政府からの一定の独立性を持つべきとされているという,中央銀行の独特な性質に関係する。

 いま,日銀が債務超過になるほど準備預金へ利払いを迫られるとしよう。日銀は円については支払い不能にならないので,日銀当座預金口座にお金を振り込んで利子を支払うだろう。さらに,銀行が超過準備に対する利子を得たとして,それをさらに超過準備に積み増した場合,利子が利子を生む結果となり,さらに日銀は当座預金を積み増さねばならないかもしれない。債務超過になっても利払いを続ける日銀は,株式会社という観点から言えば不健全であり,経営規律を失っているとみなされる恐れがある。また公的機関としてみれば,日銀の財務的都合だけのためにマネタリーベースを追加供給して銀行の利益に奉仕する状態となっており,有効な金融引き締めを行っているのかどうかを疑われかねない。

 債務超過の日銀をそのまま放置してオペレーションを継続させることは,理論上は可能だし,おそらく日本では法律上も可能である。決算を財務省が承認することも妨げられていない(衆議院議員藤岡隆雄君提出日本銀行が債務超過になった場合の日本銀行法第八条の出資の扱い等に関する質問に対する答弁書,2022年6月24日)。その上,現行の日銀法は政府による日銀の損失補填を禁じてしまっている(旧法では逆で,補填義務があった)。しかし,放置すれば上記の要因により金融不安が高まるかもしれない。さりとて,例外的に交付国債などによる補填を行えば,財政負担が生じるとともに,国会が日銀の在り方について発言する資格があるとみなされるだろう。すると,日銀の独立性は縮減される恐れがあり,その是非が問われてくる。

 つまり,日銀の信用秩序能力が疑われるということは,金融不安を引き起こす可能性を持つとともに,半官半民の日銀の在り方,日銀の独立性の在り方について,疑問を惹起するきっかけとなってしまうのである。

 また,こうした疑念は,実態的な根拠以上に拡大することも十分考えられる。投機家は,自分自身が「日銀に不安がある」と思うからではなく,「多くの投機家が日銀に不安があると思っているだろう」という予想に基づいて行動するものだからである。したがい,円に対する売り浴びせによる為替レートの下落,あるいは日銀の保有資産の主力を占める国債に対する売り攻撃による国債価格の下落,その裏返しとしての長期金利の高騰が生じる危険性はあると言わねばならない。また,続稿で説明するが,こうした事態は,大量の国債発行による財政赤字の累積と同時並行で生じると考えられるので,実体経済におけるインフレーションの発生と同時に進行するかもしれない。その場合は,日銀への不安は引き締め能力への不安という方向で発生し,インフレを加速させるだろう。

 繰り返すが,信用貨幣論を持ち出すまでもなく(※),すべての論者が一致しているように,日銀は債務超過となっても円について支払い不能になることはあり得ない。しかし,日銀の信用秩序維持能力に疑念が持たれることはあり得る。その疑念は実態的根拠を持つし,また実態的根拠以上に拡大し得るものである。また,日銀の,半官半民という性格と政府からの独立という正確にたいする疑問を惹起しかねないものなのである。したがって,「出口」において,日銀の支払い不能を懸念する必要はないが,信用秩序維持能力に対する疑念が発生した場合について考えておくことは必要であろう。

3.そもそもなぜ付利を続けているのか

 以上が,日銀の業績悪化に伴って生じる事態への,いわば予想である。しかし,真に考えるべき問題は,この先にある。そもそもなぜこのような問題が生じるかである。2008年までは日銀当座預金には利息が付されていなかった。超過準備に付利し,その超過準備が膨れ上がっているからこそ,こうした問題が生じるのである。それでは,日銀を含む先進諸国の中央銀行は,なぜ超過準備(または中銀当座預金全体)に利息を付与するようになり,今も付与し続けているのであろうか。これを,より深く掘り下げて考えることが本題である。続稿にて論じる。


※信用貨幣論によって,日銀が円について支払い不能に陥らない理由を述べると,「管理通貨制度のもとでは,日銀当座預金と日銀券(ベースマネー)よりも高度なお金が,国内にはないから」となる。資本主義経済における貨幣の主力は,正貨と信用貨幣である。貸したお金の回収が危なくなるときの人の行動原理は,「もっと信用の高い債務証書(手形)をよこせ。それもないなら正貨をよこせ」である。会社の手形が不渡りになりそうだったら,いますぐ銀行預金に振り込んで返せとか日銀券で返せなどという。企業の手形より銀行預金(銀行の手形)や日銀券(日銀の手形)の方が信用があるからだ。銀行の経営が危なくなったら,預金をおろして日銀券に換えようとする。その銀行の預金(銀行の手形)が信用できなくなって,日銀券(日銀の手形)を求めるのである。もし金本位制であって金兌換が可能ならば,銀行券や日銀券が信用できないと思ったら金に換えろと要求するだろう。

 管理通貨制度では,このうち金兌換が停止される。日銀の信用に不安があっても,日銀当座預金と日銀券しかとりたてようがない。そして,日銀は日銀当座預金と日銀券はいくらでも作り出して支払うことができる。なので,たとえ債務超過になっても日銀は倒産せず,営業を継続できるのである。

<続稿>

川端望(2022.11.19)「超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)」Ka-Bataブログ(https://riversidehope.blogspot.com/2022/11/blog-post_19.html

<参照文献>

小栗誠治(2017)「中央銀行の債務構造と財務の健全性:銀行券,準備預金および自己資本」『彦根論叢』414,98-113( https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Ronso-414oguri.pdf )。
木内登英(2022.11.2)「FRBの損失発生は利上げを制約するか:損失は日銀の正常化実施の障害となるか」NRIコラム( https://www.nri.com/jp/knowledge/blog/lst/2022/fis/kiuchi/1102_2
中里透(2022.10.11)「日銀はなぜ利上げをしないのか――マイナス金利について考える」SYNODOS( https://synodos.jp/opinion/economy/28365/ )。
野口悠紀雄(2022.6.23)「日本銀行が利上げで数十兆円の「債務超過」に陥ると何が起きるのか」DIAMOND online( https://diamond.jp/articles/-/305209 )。

2022年11月3日木曜日

手形交換所や紙の手形がなくなっても,現代の金融システムは手形原理に依拠している:MMTとの見解の相違にも触れて

1.手形交換所の交換業務終了と決済の今後

 11月2日,全国の手形交換所が交換業務を終了した。4日以降は電子交換所が稼働するとのことだが,これはいわば「つなぎ」的存在だ。というのは,紙の手形をスキャンして,スキャンデータで交換業務を行うだけのものだからだ。経産省は,約束手形を2026年までに廃止する方針とのことである。今後の企業間債権決済業務の本命は「電子記録債権」,略称「でんさい」とこれを決済する「でんさいネット」で,要は初めから紙をつかわない電子手形である。

 紙の手形は姿を消すし,「でんさい」もかつての紙の手形ほどはつかわれないだろう。いわゆる「現金決済」が増えたからであるが,これは正確ではない。札束としての現ナマで支払うことが増えたのではなく,ただちに預金口座振り込みで決済することが増えたのである。預金口座振り込みとは,つまり「預金=銀行の一覧払手形」を用いた決済である。手形の債権債務の差額が手形交換所で相殺されるように,銀行間の債権債務の差額は,日銀当座預金内で相殺される。もちろん銀行業務はオンライン化されていて,銀行手形もいわば電子化されている。

2.金融システムを成り立たせている手形原理

 紙の手形や電子手形だけでなく,銀行振り込みも手形原理によって成り立っている。それどころか,そもそも銀行による貸し付けも手形原理によって成り立っている。貸付とは銀行が預金という名の自らの手形を振り出して,その手形で貸し付けることである。そして銀行への利払いや返済には,預金という,その銀行自身の手形をもちいることができるのである。

 ここでいう手形原理とは,1)手形を切ることによって発生した債務証書が流通し得ることであり,2)債権債務は,多角的相殺により決済されること(その一環として,手形は,手形の振出人に対する支払いに用いることができること)であり,3)相殺し切れない差額は,通貨によって決済されることである。銀行はこの手形原理に,資本の貸し付けの原理,すなわち,利潤を生む商品としての資本を貸し付け,利子を得るという原理を上乗せして成り立つ。約束手形などの商業手形を振り出すのは商品を購入する際であるが,銀行手形=預金は貸し付ける際に振り出される。

 このうち3)の「通貨」は本位貨幣制度と管理通貨制度では性質がいくらか異なる。通貨には,金貨や銀貨などの正貨,銀行預金,銀行券,補助貨幣がある。銀行券は現代では中央銀行のみが発券する国が多い。また,民間企業では流通せずに金融機関内取引のみで流通する独自な預金として中央銀行当座預金がある。そして,このうち銀行預金,(中央)銀行券は,銀行手形がその信用度の高さと流通性の良さによって通貨となった信用貨幣である。

 正貨は,本位貨幣制が停止されて管理通貨制度に移行すると流通しなくなる。正貨流通が停止された通貨制度の下では,補助貨幣以外の通貨は信用貨幣になってしまう。そうすると,上記3)の規定はより具体的に,3)相殺し切れない差額は,より信用度の高い債務と交換されることで決済される,となる。中央銀行券の現ナマでの支払いであれ銀行振り込みであれ中央銀行による決済であれ,正貨流通が停止されても成り立っているのは,1)2)3)の手形原理は,金兌換があろうがあるまいが成り立つからである。

 このように,管理通貨制度の下での信用貨幣のシステムは,手形原理に立脚して,その上に資本の貸し付けの原理を重ねて成り立っている。紙の手形が消え,電子手形がそれほど使われなくても,手形原理は金融システム内部に綿々と生き続けているのである。

3.学説上の論点:マルクス派信用貨幣論とMMT

 私の依拠するマルクス派信用貨幣論は,以上のように手形原理から現代の通貨と金融システムを説明する。より大きく見れば,商品流通と資本主義経済の発展が信用貨幣システムの発展を支えているととらえる。

 近年,同じく現代の金融システムを信用貨幣論で説明する学説としてMMT(現代貨幣理論)がある。金融システムの説明としては,私もMMTと意見を共有するところが多くあるし,中央銀行当座預金の機能や,より信用度の高い債務との交換という理解の仕方など,MMTに学んだところもある。しかし,金融システムを成り立たせる根拠については,MMTと理解が異なるので,説明しておきたい。

 MMT(現代貨幣理論)は,現代の金融の運動様式を説明する際には信用貨幣論を取るものの,貨幣が流通する根拠は国家による課税に置く。納税に用いることができるから,人々は貨幣を受け取るというのである。それはそれで法定通貨論としてはわかる。しかし,国家のみから貨幣を説明するのは一面的であり,また信用貨幣という形態を説明するには不十分ではないか。MMTは,商品経済と資本主義経済の発展の中から信用貨幣システムが確立する論理を把握していない。商品経済自体から手形原理が生じることや,手形原理に資本貸し付けの原理を重ねて銀行が発達したことへの考慮がない。ここで,マルクス派信用貨幣論とMMTは意見が分かれるのである。

「「手形交換所」最後の業務 仙台も103年の歴史に幕 全国179カ所、電子化移行」河北新報ONLINE,2022年11月3日。

でんさいネット

「「取引適正化に向けた5つの取組」を公表しました。」経済産業省,2022年2月10日。

<関連投稿>

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。


2022年11月1日火曜日

2つのブロックへの世界の分裂は,経済をどれほど落ち込ませるか:IMFの警告

 IMF, Regional Economic Outlook for Asia and Pacific, October 2022(アジア太平洋地域経済見通し,2022年10月), Chapter 3 Asia and the Growing Risk of Geoeconomic Fragmentation(アジアと,地経学的分断のリスク)を読んだ。

  IMFは国際貿易の分断に関するシナリオ分析を行っている。各国は2022年3月2日の国連総会におけるロシアのウクライナ侵略非難決議への態度をもとにロシア,反対国(ベラルーシ,北朝鮮など5か国),賛成国(141か国),棄権国(バングラデシュ,中国,カザフスタン,南アフリカ,ベトナムなど35か国)に分類される。分断ラインは2種類で,一つは「ロシア・デカップリング」,つまりロシアだけが賛成国との貿易を制限される場合,もう一つは「2つのブロックへの分裂」つまり賛成国と,ロシア・反対国・棄権国との貿易が制限される場合である。貿易制限の対象は,「ハイテク・エネルギー」の場合と,他のセクターでの非関税障壁が冷戦時代並みになったばあいに場合の2種類が想定される。

 結果は下記の図の通りであり,「ロシア・デカップリング」だけならば世界とアジアへの影響はほとんどない。しかし「2つのブロックへの分裂」では,対象が「ハイテク・エネルギー」だけであっても世界のGDPは1.2%,アジア・太平洋諸国のGDPは1.5%落ち込む。さらに他セクターの「冷戦時代並みの非関税障壁」が加わると,GDPの落ち込みは世界全体で1.5%,アジア・太平洋諸国では3.3%に達する。


出所:IMF, Regional Economic Outlook for Asia and Pacific, October 2022, p. 50.


 以下は3章の結論部の最初の部分の訳である。

「近年,貿易政策の不確実性が高まり,各国がこれまで以上に貿易制限を強化し(特にハイテクやエネルギー分野),国家安全保障上の懸念から対内直接投資に新たな制限が設けられるなど,断片化の兆しは以前から見られていた。ロシアのウクライナ戦争は地政学的緊張をさらに高め,貿易や金融の流れが経済的というよりむしろ地政学的な要因でますます左右されるようになるリスクを前面に押し出している。本章の分析は,このような分断化の傾向が続けば,特に世界がはっきりとしたブロックに分断されるという最も激しい分断化のシナリオの場合,大きな経済的損失が-世界に,そしてとりわけアジアに-生じる可能性を強調している。さらなる分断化による悪影響を回避し,貿易が成長の原動力として機能し続けることを保証するためには,共同による解決策が必要である。」

 残念ながら,現在,この解決のための共同にとっての政治的障壁は上がる一方である。事態の改善は容易ではない。しかし,まず世界経済の分裂がもたらすであろう被害を直視することが重要だ。このIMF報告書は貴重な貢献をなしたと思う。


Overviewと全文ダウンロードページ

IMF, Regional Economic Outlook for Asia and Pacific, October 2022.


IMFスタッフによる日本語ブログのページ

ディエゴ・セルデイロ,シッダート・コタリ「アジア、そして世界は、経済の分断によるリスクの高まりに直面している」IMFブログ,2022年10月27日。


2022年10月30日日曜日

雇用慣行の改革なしには,リスキリング推奨も不発に終わる:エンプロイヤビリティの二の舞にならないために

 リスキリングと言われている問題は,以前,具体的には90年代末から2000年代初頭にはエンプロイヤビリティと言われていた。スキルを学んで再就職できるようにしろというのは同じである。装いを変えて,せいぜい「副業促進」を付け加えているだけである。もちろん,職業能力開発の取り組みを広げるのはいい。私は,教育機関でも広げざるを得ないだろうと考えているくらいだ。しかし,それで雇用の質の問題が解決するとは思わない。

 ここでは若年の問題を脇に置いて中高年のことを考える。いったん離職した中高年に良質な雇用が提供されないのは,正社員のほとんどをメンバーシップ型で雇う慣行が原因である。メンバーシップ型とは「会社の一員として雇い,どんな仕事をどこで行なうかは会社が指示する」ものである。したがって賃金は「会社の一員としての重要性」で評価され,具体的な「仕事」には基づかない。「人」の能力が評価され,その能力基準に「年功」が強く加味される。

 このことが,中高年の「正社員」としての採用を著しく阻害する。中高年を雇うのは,高度専門家の場合であれ一般業務であれ,どんな仕事をしてもらうかがだいたいわかっているときである。そのため,会社としては,将来性を見込んで新卒を採用する場合と異なり,割り当てる仕事と賃金の釣り合いを考える。しかし,それを考えると,高度専門家はとにかく,一般社員では「年功」を加味した賃金になっていると高賃金を払わねばならないことが,割に合わないと受け取られる。だから,高度専門家は中途採用されるとしても,一般業務では,中高年は正社員に採用されないのである。そして,非正規とされてしまう。非正規の単価は具体的な「仕事」に基づく造りになっているが,もともと多数の正社員の「仕事」と賃金の関係を評価していないのだから,非正規にだけきちんとした評価が行われるわけもなく,その単価は,もっぱら会社のコスト上の都合で低い水準に抑えられている。

 ここに手を付けない限り,リスキリングだけでは解決しない。スキルとはテクニカルなものではあるが,値段がつくのは社会的な基準で資産として評価されるときである。テクニカルにはスキルがあっても,今の雇用慣行の中では,高度専門家の域(例:M&Aの案件発掘やアドバイザーができる金融パースン)に達するのでない限り,正社員としての転職の役に立たないだろう。エンプロイヤビリティの二の舞である。

 雇用慣行は労使の契約による部分が大きく,法律だけでは変えられない。しかし,法律と規制によって,改革をある程度促すことは可能だし必要だ。次年度の講義に向けて,この改革促進につながる政策提案を具体化したい。

 なお,先回りして行っておくが,「全員メンバーシップ型正社員で雇え」と法で命じろなどというわけでもないし(できっこない),また「全員ジョブ型雇用にしろ」と言いたいのでもない(そんなことを言っている人は,まともな学者にも実務家にもいない)。実行可能なことを考えねばならない。

2022年10月28日金曜日

預金をすることは貨幣流通にどのような作用を及ぼすか:覚書

1.現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことになるだろうか。

 1.1 まず本位貨幣,例えば金貨が流通している場合。

  1.1.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,マネーストックから現金1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,現金1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.1.2 いや,なるとも言える。なぜなら金貨は流通から消えるから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,1万円の金貨という通貨は,銀行の手持ち現金となる。場合によっては日銀に預けられる。すると,金貨は日銀の資産となる。


 1.2 次に管理通貨制度下の中央銀行券,たとえば日銀券の場合。

  1.2.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,マネーストックから日銀券1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,日銀券1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.2.2 いや,なるとも言える。なぜなら日銀券は流通から消えるから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,1万円の日銀券という通貨は,銀行の手持ち現金となり,一時的に流通から消える。さらに多くの場合日銀に預けられる。すると,日銀券発行高が1万円減少し,日銀券は消滅するか,日銀が保管するただの紙切れになる。


2.なぜ,このように現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことに「ならない」とも「なる」とも言えるのか。

 2.1 預金者から見れば,手持ちの現金を銀行の債務証書=預金と交換するに過ぎない。そして,預金は支払い手段としての貨幣の機能を果たすので,流通内にある。流通する貨幣量が変動しない以上,貨幣は流通の外に出ていない。

 2.1 ところが,預金というのは預金者が銀行に貸し付ける行為である。貸し付けを行えば,貸し主は借主の債務証書を入手し,借り主は借りた現金を入手する。債務証書の信用度が,貨幣として用いることが出来るほど高いのであれば,この時貨幣は,現金だけ存在する状態から,現金と債務証書が存在する状態になり,量は2倍に増えているのである。そして,貸し主が入手した債務証書=預金通貨は流通内にとどまり,借り主すなわち銀行が借りた現金の方は流通の外に出る。


3.流通から出た現金は蓄蔵貨幣となるだろうか。

 3.1 金貨が流通している場合は,なる。金貨は銀行の手元か日本銀行の手元で,流通の外の価値を持った資産となる。ただし,このとき貨幣流通量は減っていない。

 3.2 管理通貨制度で日銀券が流通している場合は,ならない。銀行の手元に置かれた日銀券は,預金の引き出しに備えて一時的に保有されるに過ぎない。つまり,ごく一時的に流通の外に出て,また流通内に戻る準備をしているに過ぎない。また日銀に預けられれば,日銀券は貨幣の資格を失う(ただの物理的な紙になる)。流通の外には出るが,価値を維持して蓄蔵されることはなく消滅する。


4.以上のことと,貨幣・信用理論の命題との関係。

 4.1 預金することが「貨幣が流通から出ること」を意味すると理解するのは,「現金そのものが流通から出る」という意味で言っているならば正しいが,「貨幣流通量が減少する」という意味で言っているならば正しくない。両者が混同されている場合があるように見受けられる。

 4.2 預金することが「蓄蔵貨幣を形成する」と主張するのは,本位貨幣については正しいが,中央銀行券については正しくない。この点では,古典的貨幣観がそのまま正しい。預金された中央銀行券を蓄蔵貨幣と見なす説もあるが,無理がある。

 4.3 不換の中央銀行券が「預金によって流通から出ることができない」と主張するのは,「蓄蔵貨幣にはなれない」という意味では正しいが,「中央銀行券が流通から出られない」という意味では正しくない。出て,まもなく流通に戻る場合もあれば,出て,そのまま消滅する場合もある。

2022年10月27日木曜日

博士論文Naoki Sekiguchi, Catch-Up of the Steel Industry in Non-OECD Countries in the 21st Century: Developments in Steel Trade and the Role of Technology(21世紀における非OECD諸国鉄鋼業のキャッチアップ:鉄鋼貿易の発展と技術の役割)の公開によせて

  3月に博士(経済学)の学位を取得して後期課程を修了したゼミ生,関口直樹さんの博士論文が東北大学機関リポジトリTOURで公表されました。この博士論文は,関口さんがこれまでMineral Economics誌で発表された3本の論文をもとにしていますが,一つの博士論文としてまとめるにあたり,大幅に改稿したものです。

<博士論文>
Naoki Sekiguchi, Catch-Up of the Steel Industry in Non-OECD Countries in the 21st Century: Developments in Steel Trade and the Role of Technology.(21世紀における非OECD諸国鉄鋼業のキャッチアップ:鉄鋼貿易の発展と技術の役割)(審査委員:川端望,黒瀬一弘,佐藤創)

全文
http://hdl.handle.net/10097/00134995

審査結果の要旨
http://hdl.handle.net/10097/00135266

 本論文は,1)研究者や実務家によって直観的には予想されていながら十分証明されていなかった,キャッチアップにおける高炉・転炉法の役割について,非OECD諸国を包括するデータによって裏付けました。また2)21世紀前半の非OECD主要製鉄国を対象として分析することにより,発展途上国・新興国鉄鋼業のキャッチアップが,長い紆余曲折を経て進むものであり,また不均等に進むものであることを明らかにしました。従来,新興国鉄鋼業の発展モデルとしては,韓国や台湾のように,最新技術の導入によって急速に発展するパターンが中心に据えられがちでした。しかし本論文は,21世紀前半の非OECD主要製鉄国からは別の経路が見えてくることを示したのです。

<主要業績>
Sekiguchi, N. (2017). Trade specialisation patterns in major steelmaking economies: the role of advanced economies and the implications for rapid growth in emerging market and developing economies in the global steel market. Mineral Economics, 30(3), 207-227.
https://doi.org/10.1007/s13563-017-0110-2

Sekiguchi, N. (2019). Steel trade structure and the balance of steelmaking technologies in non-OECD countries: the implications for catch-up path. Mineral Economics, 32(3), 257-285.
https://doi.org/10.1007/s13563-018-0163-x

Sekiguchi, N. (2022). The evolution of non-OECD countries in the twenty-first century: developments in steel trade and the role of technology. Mineral Economics, 35(1), 103-132.
https://doi.org/10.1007/s13563-021-00276-1


2022年10月24日月曜日

アメリカの金利引き上げが度を過ぎれば世界の脅威に:ドル高円安の背後で進行している本当の危機

日本では円安を嘆く声が広がっている。目の前の苦痛を嘆くのは当然だが,その背後でより深刻な事態が進行していることを看過してはならない。ここでは,以下のことを述べたい。

1.ドル高円安の原因は日米の金利差それ自体ではない
2.ドル高円安には日本側の要因とアメリカ側の要因がある
3.アメリカ側の問題こそ,世界経済の危機を再び招きかねない真の脅威である


1.ドル高円安の原因は日米の金利差それ自体ではない

 日米の金利差がドル高円安の要因だとよく言われるが,これは不正確である。なぜならば,海外事業への投資と異なり,金融商品への投資は極めて高速にポートフォリオが入れ換えられて,調整されるからである。金利差への適応は短期間で終了し,何か月も続くことはあり得ない。そして,通貨の間には為替リスクがあり,各国金融市場への評価の違いがある以上,金利裁定が終わり,ポートフォリオが入れ換えられた後も金利差は残るのである。入れ換えが終われば,そこから先は金利差があっても為替相場は動かない。

 だから,現にドル高円安が起こっているのは,金利差それ自体ではなく,今後の金利差に関する持続的予想のためである。つまり,投資家たちの「今後も日米の金利差は開くだろう」との予想が続いているために,ドル高円安が継続しているのである。


2.ドル高円安には日本側の要因とアメリカ側の要因がある

 上記の予想は,日本側の要因とアメリカ側の要因が総合されて成り立っている。日本側については,「日銀は今後も金利を引き上げずに,低位に維持しようとするだろう」という予想が成立している。他方,アメリカ側については「FRBはインフレ対策のために今後も金利を引き上げ続けるだろう」という予想が成立している。ドル高円安を招く要因は,日本側とアメリカ側,それぞれにある。


3.アメリカ側の問題こそ,世界経済の危機を再び招きかねない真の脅威である

 このうち日本側の要因の背後にある問題は,低成長の持続であり,コロナ後の経済回復が弱く,賃金が上がらず,金融引き締めが適さない状況であることである。そのため,その解決は日銀の金融政策ではなく,政府による国民生活救済策,それに必要な所得再分配,そして供給サイド強化策である。このことは,すでに述べた(※1)。

 ここで問題にしたいのはアメリカ側の要因である。アメリカのFRBが自国のインフレ対策を行うこと自体はもっともである。しかし,FRBは,明らかに不況という代償を省みずに金利を引き上げ続けている。これは身勝手と言わざるを得ない。アメリカは世界の金融センターであって,ドルは基軸通貨だからである。アメリカが,不況という代償を払うほどの金利引き上げを行なってインフレ鎮静化を実現する時,ドルで国際取引を行っている他国はどうなるのか?とくに途上国の対外債務はどうなるのか?ここにこそ真の問題がある。

 幸か不幸か,これまでのところドルは途上国よりも先進国通貨に対して切り上がっている。これは上述した日本独自の低血圧的状況と,ウクライナ戦争をきっかけとしたヨーロッパ経済の急減速によるものだ。しかし途上国通貨に対しても切り上がっていることには変わりはない。「あまりにも多くの低所得国が過剰債務に陥っているか、陥りかけている。ソブリン債危機が相次ぐことを回避するためには、最も影響を受けている者を守るために主要20か国・地域(G20)共通枠組みを通じた秩序ある債務再編における進展が急務だ。直に時間がなくなるかもしれない」(IMF経済顧問兼調査局長ピエール・オリヴィエ・グランシャ)(※2)。

 危機はどこから発火するかわからない。イギリスの国債市場不安に見られるように,先進諸国が発火点になることもあり得る。問題は,どこから発火しようと金融グローバリゼーションのために燃え広がることである。念のため,その際に予想される最悪の行為を想定しておかねばならない。それは,危機がアメリカ以外のどこかで生じたときに,FRBが,アメリカとは関係ない話だとして金利引き上げを続行し,政府も事態を見過ごすことである。これこそ,世界を金融危機に陥れる行為である。国際機関と各国は,FRBとアメリカ政府が,「アメリカのインフレのこと以外は考えなくてよい」という,自己中心的見解で行動しないように,監視,助言,批判を行うべきだろう。アメリカに警戒の目を向けるべき時である。

※1 「欧米と日本ではインフレ対策はどちらが難しいか。日本にはどのようなインフレ対策が必要か」Ka-Bataブログ,2022年9月28日。

※2 ピエール・オリヴィエ・グランシャ「世界経済の雲行きが悪化し始めた今、政策当局者にはしっかりした舵取りが求められる」IMFブログ,2022年10月11日。


2022年10月20日木曜日

金融危機のリスクと政策的ジレンマに直面する世界経済

 IMF「国際金融安定性報告書」(2022年10月版)要旨より(日本語公式テキスト。明らかな誤字のみ修正)。

「国際金融環境は今年,著しく引き締まり,これを受けマクロ経済のファンダメンタルズが弱い新興市場国やフロンティア市場国の多くで資本流出が見られる。経済・地政学的な不確実性が高まる中,投資家のリスク選好度は9月に大幅に低下した。状況はここ数週間で悪化しており,システミックリスクの主要な指標となるドルの調達コストやカウンターパーティの信用スプレッドなどが上昇した。金融環境が無秩序に引き締まるリスクがあり,長年にわたり積み重なった脆弱性により変動がさらに高まる恐れがある。」

IMF「世界経済見通し」(2022年10月版)第1章より(DeepL翻訳を推敲した拙訳)。

「ウクライナ戦争は,いくつかの新興市場や途上国のソブリン・スプレッドの拡大を促した。この拡大は,パンデミックによる記録的な債務に起因する。インフレが高止まりすれば,先進国のさらなる政策引き締めが,新興国や途上国の借入コストに圧力をかける可能性がある。一部の大規模な新興国経済は,良好なポジションにある。しかし,ソブリン・スプレッドがさらに拡大した場合,あるいは現在の水準が長期にわたって続く場合,多くの脆弱な新興国や途上国,特にエネルギーや食料価格のショックで最も大きな打撃を受けた国にとって,債務の持続可能性が危険にさらされる可能性がある。(中略)資本流出の急増は,多額の対外資金需要を抱える新興市場経済や途上国経済にも苦境をもたらすかもしれない。これらの経済圏で債務危機が拡大すれば,世界の成長に大きな打撃を与え,世界的な景気後退を引き起こす可能性がある。さらにドル高が進めば,債務危機の可能性はさらに高まる。新興国や途上国の通貨安は,多額のドル建て純債務を抱える国々のバランスシートの脆弱性を誘発し,金融の安定に直接的なリスクをもたらすかもしれない。」

 コメントする。

 2020-2021年のコロナ・パンデミックにおいて,突如として経済活動の停止に直面した各国は,そろって金融を緩和し,国債を発行して財政を拡大した。アジア経済危機や世界金融危機にそれなりに学んだ国際機関と諸国の中央銀行・政府が,経済危機下において流動性を供給し,弱者を保護しなければならないという政策規範を持つようになっていたからだ。そして,不幸中の幸いというべきか,世界信用恐慌を防ぐことには成功した。

 しかし,金融緩和と財政拡張は,実体経済が停滞した分だけ,株式や国債への資金集中をもたらした。金融商品は,停滞した実体経済の実力以上に買われたと言わざるを得ない。各国政府は,足並みをそろえて株式バブルと国債バブルを起こし,それによってなんとか世界経済の崩壊を防いだのだとも言える。

 その代償は,経済回復とともに進行するインフレーションだった。そこに終わらないパンデミック,熱波や干ばつ,そしてロシアのウクライナ侵略を起点とした通商分断が追い打ちをかけている。世界の金融センターであるアメリカとEUは,自国・地域のインフレ沈静化を何より優先し,金利を継続的に引き上げている。またイギリスのような混乱はあるものの,財政を全体として引き締めている。しかし,自国・地域のことだけを考えた引き締め政策が,途上国経済や,先進諸国を含めて世界に存在している金融的に脆弱な分野・人々を直撃することになる。問題は各国のインフレだけではない。ディマンド・プルインフレより不況が問題な中国や日本にしても,自国の不況だけが問題なのではない。リスクは世界規模で存在する。

 2022年現在,パンデミックの最悪期と異なり,需要は回復し,経済活動は再開されている。他方,パンデミック期に撒布されたマネーは,行き先を求めている。多少なりとも盛り上がった活動にマネーが集中してブームを引き起こせば,それが引き締めによって崩壊したときの衝撃もまた大きい。どこかでの局地的なショックが,世界的な株式・国債バブルの崩壊と金融危機を引き起こしかねない。

 危険は広く存在している。しかし,どの地域のどの分野にもっとも脆弱なポイントがあるのか。どこの小さな崩壊が大きな崩壊につながる恐れがあるのか。イギリスの見当はずれの財政政策に対する債券市場の反応か。中国の不動産不況が予想以上に深いものであることか,またもアメリカの住宅市場の停滞か,どこかの株式市場の暴落か,どこかの途上国で生じる民間もしくは政府の外貨建て債務のデフォルトか,それはあまりに予想しがたい。燃料はばらまかれているのだが,どこに偏っており,加熱したときにどこに火が点くかはわからないのである。

 そして問題なのは,金融危機に火が付きかけた時に,マクロ経済政策がどう対処すべきかだ。繰り返すが,アジア経済危機以来の教訓は,金融危機時に引き締めを行ってはならないということであり,それはもっともなことだ。しかし,現在,日本を除く先進諸国はディマンド・プルの貨幣的インフレに直面しており,中国を除く途上国も同じである。金融危機が生じれば流動性を無制限に供給し,弱者を救済する以外にまともな道はないが,それではインフレに火をくべることになる。さりとて,現在のようにインフレ抑制優先の引き締めを危機が発生した際にも続ければ,危機は加速する。これは,アジア金融危機やリーマンショックの時にはなかったジレンマである。世界経済はリスクの高まりと政策的ジレンマに直面しつつある。


IMF「国際金融安定性報告書 高インフレ環境の舵取り」2022年10月。

IMF「世界経済見通し 生活費危機への対処」2022年10月。


2022年10月13日木曜日

IMF, World Economic Outlook2022年10月:インフレ,戦争,パンデミックに苦しむ世界経済。低体温の日本経済

 IMF「世界経済見通し」(World Economic Outlook)最新版が公表された。副題は「生活費危機への対処」(COUNTERING THE COST-OF-LIVING CRISIS)。

 GDP成長率見通しはウクライナ戦争前と比べて大きく下方修正されており,見通しは暗い。「物価は数年ぶりの高水準を上回っている。生活費の危機や、大半の地域で見られる金融環境の引き締まり、ロシアのウクライナ侵攻、長引く新型コロナウイルスのパンデミックがすべて、経済見通しに重くのしかかっている」(日本語版要約ページ)。おおむね2022年よりも2023年の方が成長率が低くなると予想され,また予想の下方修正度も高い。特異欧米先進国への打撃が大きい。新興国は成長率で見ると相対的に打撃は小さいが,高い物価上昇率が低所得層にダメージを与えている。

 この中で日本は低位安定状態を保つと予想されており,意外にも2023年の成長率は先進国で最高となっている。物価上昇率も,日本で暮らす当人には深刻だが,他国ははるかに高い上昇率を示している。私の理解では、日本はコロナ後の回復が弱々しいのだが、それ故に今のところ需要超過インフレや貨幣的インフレに火が点いておらず、コストプッシュインフレだけが起こっている低体温な状態だ。

国際通貨基金(IMF)日本語ページ

※欧米と日本のインフレの性質およびインフレ対策の違いについての拙論は以下をご覧ください

「欧米と日本ではインフレ対策はどちらが難しいか。日本にはどのようなインフレ対策が必要か」Ka-Bataブログ,2022年9月28日。



2022年10月8日土曜日

T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を読む

 学部ゼミで訳しながら読むために,T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を全訳作業中。この論文はSpringerから出版されている単行書の1章だが,オープンアクセスになっており,無料でダウンロードできる。

 実は,私にはこの論文はすんなりと吸収できる。というのは,というのは,マルクス的に読めるからである。いや,階級闘争や社会主義を論じているとかいう意味ではない。以下のような経済理論的読み方ができてしまうのである。

・「ものづくりの組織能力」はマルクスの「協業による生産力」の応用と考えればいい。
・「設計情報の創造と転写」はマルクスの「労働による価値の生成」の拡張とみなせばよい。
・分析単位としての「現場ー企業ー産業」の三層構造は,私が鉄鋼業研究で採用してきた岡本博公氏の「事業所ー企業ー産業」の三層構造とほぼ同じである。岡本説の源流は,堀江英一氏や坂本和一氏によるマルクスの生産力概念の独自解釈である。
・「設計を基礎とする比較優位」も,村岡俊三氏に習った国際価値論の応用とみなせばよい。村岡氏の国際価値論は,マルクス班の比較生産費説を含んでいた。

 藤本氏ご本人はマルクスではなくリカードを現代的に継承されて本論文を書かれている。例えば本論文では利潤の存在根拠は搾取ではなく,設計情報の創造性による希少性のようである。しかし,リカードとマルクスは相当に強い継承性があるので,マルクスに慣れているとやはり本論文はすらすら読めるのである。

 しかし,言いたいのは,私が個人的事情からこういう読み方をするというだけのことではない。藤本説が古典経済学から現代の経営学に至るまでの広大な射程を持った学説だということである。

 藤本説はそのように理解されているだろうか。Google Scholarで見るとまだ7回しか引用されておらず(2022/10/2現在),藤本氏の他の論文よりも引用頻度が低いのは不満である。しかし,その理由は,なんとなく想像がつく。

 まず主流派の経済学者の場合,藤本氏の学説は経営学だということで,あまりご存じないおそれがあり,問題関心も向かないかもしれない。藤本氏のモデルは塩沢由典氏との共同研究により,多国多数財モデルの貿易論として数理マルクス経済学の場で発展させられているが,経済学の学会では少数派であろう。また,主流派の経済学者は「工場や小売店など現場のオペレーションの観察が大事である」と主張する理論を提示されても自分事と思えないのかもしれない。だから,藤本氏の学説をもっと読むべきは,数理マルクス派を除けば,マルクス経済学から出発した産業経済学者や経営学者であろう。私を含めて,どれほど生き残っているのかは別として。

 また,多くの経営学者にとっては,なぜ古典経済学や比較生産費説に寄せたモデルを論じなければならないのか,受け入れがたいのかもしれない。例えば,「第三に,A国とB国の間での,X,Y,Z 各産業の相対生産性比率のプロファイルが,両国の相対賃金率に影響を与える(藤本・塩沢 2011-2012)。つまり,競争相手国に対する全産業の相対的な生産性比率のプロファイルが相対的賃金率に影響を与えるのである。第四に,上記の相対的な生産性と賃金の結果,競争する諸国の産業X,Y,Zの相対的なコストと価格が明らかになる。長期的には,リカード的比較優位の論理により,他の国内産業よりもライバル国に対する相対的生産性比率が高い「比較優位産業」がグローバル市場で選択され,A,B,C国の産業ポートフォリオが形成される」(p. 35)などと書かれると,私には空気のような普通の話であり,経済学者にも了解可能ではあろうが,多くの経営学者にとっては自分事と思えないのかもしれない。

 藤本氏もその学説も著名である。しかし,その学説の根幹は,あまり学界に浸透していないのではないかというのが,私の余計な心配である。上記のように多くの経済学者,経営学者双方の視野の外にある領域をカバーしているからである。また,より身近な次元では,経営論壇において氏の説は単純化されて「インテグラルかモジュラーか」「組織能力に基づくインテグラルな日本のもの造りがすばらしい」「いや,そんなのはもう古い」という次元の応酬に還元されがちである。

 藤本説は,経済学と経営学を統合し,古典的学説と現代的学説を連続させる,深く広大な領域を持つものとして,もっと多くの人によってさまざまな角度から検討されるべきではないかと,私は思っている。

T. Fujimoto. A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites.  T. Fujimoto & F. Ikuine (Eds.). Industrial Competitiveness and Design Evolution (pp. 5-41). Springer, 2018.

<関連>

藤本隆宏『現場主義の競争戦略 次世代への日本産業論』新潮新書,2013年の「情報価値説」 (2014/2/24),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月12日。


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...