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2022年9月3日土曜日

大学教員になろうとする文系博士課程院生の苦悩:訓練には5年必要だが資金援助は3年という問題

  文部科学省が公表した2022年度学校基本調査(速報値)によれば,2022年度に大学院博士課程に在籍する学生数は7万5267人で,2年連続で減少したとのこと。減少数は28人に過ぎないのだが,学部は6722人,修士課程は3696人増えたのと対比すると,やはり博士課程の不人気は目立つ。その理由は,キャリア形成の展望が見えにくいからである。

 問題は理工系と文系,また企業就職希望と研究者志望で異なってくる。ここでは文系の大学教員志願者を念頭において,博士課程の院生がキャリア形成上直面する困難をとりあげたい。文系の場合,企業への就職も徐々に増えてきているとはいえ,依然として大学教員になることが博士課程院生の主要なキャリア・パスだからである。


1.訓練は3年で足りないが,資金援助は3年しかない

 文系の博士課程修了者が大学教員になろうとする場合に直面する問題を端的に言うと,「教員として採用される水準に達するまでの訓練は3年では足りない」が,「資金援助は3年分しかない」という矛盾に突き当たることである。この矛盾を解決するには,留年者にでもポスドクにでもいいから,あと2年分の資金援助が必要だというのが私の意見である。

 以下,説明が長いので関心ある方のみご覧いただけると幸いだ。なお,文系でも分野により,大学により事情はいくらか異なるかもしれないので,「経済・経営系ではかなり見られる話」というくらいに受け取っていただきたい。


2.文系の博士課程院生は何を求めらるか:「3本」から「博士論文+査読付き3本」へ

 現在,文系で,任期付きであれ何であれ,授業を行う大学教員として採用されるには,1)博士の学位を取得していることと,2)査読付き雑誌に一定数の論文を単著で3本程度書いていることが必要である。ちなみに,2)の理系との違いは,日本語で書かれた国内誌でも認められる一方で,単著でないと実力を認められないことである。文系では,理系に近いとみなされる分野以外では「最終著者」,すなわち指導教員が連名の最後に名を連ねる習慣がなく,指導教員は,相当手をかけて院生を指導した結果の論文にも,名前を連ねない。

 資金の話はいったん脇に置くとして,文系の場合,業績としてはこの1)と2)を博士課程の所定年限である3年で満たすことを要求される。博士論文を書くのは博士課程なので今では当然として(かつては違ったことをすぐ後で書く),同時に3年の間に査読付き雑誌に単著で,かつ数理化されていない分野では10-30ページに及ぶ論文を3本程度出さねばならないのである。正直,これはあまりに過酷であり,相当の割合で達成することはできず,4年か5年かけることになる。

 当ゼミの例でも,博士課程修了者(見込み含む)11名が要した在学期間の平均は4.2年である(このほかに休学期間がある)。そして在学中に3本の論文を掲載可までもっていった院生は,記憶の限り1人だけ,2本掲載可に至ったのも5人である。3本書けない院生は,せめて博士論文と査読付き1本と国際会議1本などという風に妥協することになるのである。

 もちろん,建前としては博士課程は3年で修了すべきであるし,大学はそのように指導すべきだということになっている。だが,無理なのである。その理由を,過去との対比で説明しよう。

 かつて日本の文系では,博士とはライフワークとなる分厚い書物により,論文博士として取得するものであった。課程博士はめったにとれなかったのである。逆に言えば,博士でなくても大学教員になれた。ただ,もちろん研究能力を証明しないとなれないのであり,博士課程では博士論文は書かずに,学術論文を3本程度書くことに集中したのである。私の恩師である金田重喜教授は,院生の顔を見るたびに「30歳まで3本書かんといかん」というのが常であった。1人当たり年に30回ほど言われるのでげんなりしたものだが,結局のところ3本書いた院生の就職率はそうでない院生より圧倒的に高かったので,「金田の法則」と名がついたほどであった。私も博士論文など夢にも思わず,「30歳まで3本」の強迫観念にとりつかれ,内容はとにかく無理くり執筆した。

 1990年代に大学院重点大学が登場し,予算が増える代わりに,それまでごく少数しか入学させていなかった院生を定員通りにとることとなった。また,制度に即して3年できちんと修了させねばならないということにもなった。そのため,博士論文の基準は,さすがにライフワークではまずかろうと,論文3本分くらいの,公表に耐えるものくらいに調整された(大学により異なる)。わかりやすく長さで言うと,A4×100ページ前後の博士論文も増えた。

 しかし,問題は,「30歳まで」かどうかは別として(いろいろな年齢の院生が増えたので),院生が博士課程在学時に査読付き論文を書かねばならないという制約はまったく変わらなかったことだった。むしろ,大学紀要でなく査読付き雑誌に載せるべきだとされた点ではハードルは上がった。

 なぜ変わらなかったかと言うと,論文がないと就職活動に参戦もできないからである。私の感触では,教員に公募して門前払いされないためには,最小限3本の書き物(すべて論文でなくても,せめて国際会議ペーパーや査読付きプロシーディングなどあわせて3本)が必要だった。院生は,3年間の間に,多少は簡単になった博士論文を書くと同時に,学会や国際会議で報告をし,ディスカッションペーパーを書き,改訂して査読付き論文を雑誌に,できる限り3本掲載しなければならなくなった。

 ハードルは上がったが,挑戦する院生の側の条件も変わった。以前に比べ「3度の飯より研究優先」のような人々ばかりではなくなったのである。パートナーや子どものいる者,親を介護する者,社会人からの鞍替え組,ビジネスパースンの道も残しておきたい留学生など,研究以外のことも考えて,よりまっとうに毎日を送らねばならない人が増えた。

 新世代の院生に「3本」の代わりに「博士論文プラス査読付き3本」を3年間で要求することは,到底無理であった。したがって現実的には妥協するしかなく,5年かけてこれを達成するか,あるいは博士論文と査読付き1本程度を3年で書き,あとはポスドクになってから論文執筆をするとか,そういうやり方になることが多かった。


3.資金問題:支援年限の3年期限と有給ポスドク職の少なさ

 さてここで資金問題が入る。院生に対する政府・留学生の母国政府・大学・民間の各種奨学金は,ここ数年で急速に充実してきてありがたい限りである。しかし,これらはほとんど所定年限,つまり3年しか支給されない。院生は留年するとたちまち経済的に困窮するのである。

 そして理工系に比べて致命的なのは,文系では有給ポスドク職が極端に少なく,大学院を修了しても,やはり困窮するということである。有給ポスドク職にはいろいろあるが,多くの場合,組織やプロジェクトの「研究員」となって研究に専念するものである。もっとも待遇がよいのは給料と研究費が両方もらえる学術振興会の特別研究員PDであろう。しかし,これらのポストは数が少ない。1996-2000年に「ポストドクター等1万人支援計画」なるものが実施されたはずであるが,その効果は文系に限ってはほとんどなかったと言ってよい。いや,もちろん少しはポストが増えただろうが,大学院重点化により,博士の方がそれより増えたのである。当研究科では,やむを得ず無給の「博士研究員」という資格をつくって,仕事のない博士が大学に籍を置けるようにしている(博士を取得した留学生の場合,このような何らかのポスドク資格がないと,日本にいることもできなくなる)。

 こうなると,いよいよもって教員は「3年の間に博士論文と査読付き雑誌3本掲載を目指せ。そうしないと経済的にたいへんなことになるぞ」という過酷な要求を院生につきつけねばならない。しかし,「3度の飯より研究優先」の院生でもそれは難しいし,そうでなく子育てや介護をしている院生にはいよいよ無理である。やらねばたいへんだが,できるはずがないという悪循環である。


4.「任期付き大学教員」以前の問題

 これが,「期限付き助教」になる以前の話であることに注意してほしい。大学教員職が期限付きの職に偏り,雇用が安定しないという話は既に広く知られている。それはそのとおりであり,いまさら私が言うまでもない。ここで言いたかったのは,期限付き助教になる以前に,これほどの困難が,研究者志望の博士課程院生の前に立ちふさがっているということなのである。

 確かに,ポスドクを乗り切れば,期限付き助教の職や,テニュア・トラック助教の教員職はそれなりにある。しかし,大学全体が人手不足になっているため,助教にも授業をしてもらうことが多い。そして授業をしてもらうとなると,1)博士の学位と2)査読付き雑誌3本程度は必須なのである。このハードルを,資金援助を得られる期間内にクリアすることが難儀なのである。ハードルを回避する方法もないではないが,3)非常勤講師歴が豊富であることや,4)一度,民間のリサーチ職に就いていること,などになるので,大学でずっと研究に専念してきた若者にはなかなか満たせない。


5.まとめ

 長々書いてきたが,要するに教員になるために必要な訓練期間は3年を超えるのに,資金援助が得られるのは3年だという矛盾が,文系の博士課程院生を苦しめているのである。正直に言って,あと2年分,つまり1人につき3年でなく5年の研究生活について資金援助がなければ,文系の研究者を育て続けることは難しいだろう。留年者への支援でも有給ポスドク職でもどちらでもよいからこれが必要だというのが私の意見である。

「『博士離れ』浮き彫り、学生2年連続減 就職状況厳しく」日本経済新聞電子版,2022年8月24日。

「学校基本調査-令和4年度(速報) 結果の概要-」文部科学省ウェブサイト,2022年8月24日。

<続編>
「研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年8月24日。


2022年8月31日水曜日

『アジア経営研究』第28号と『ベトナムの味』

 『アジア経営研究』第28号が届きました。当ゼミの修了生Nguyen Kim Ngan グエン・キム・ガンさんの論文”Issues in international manufacturer-supplier relationship: A multi-case study of Vietnam's motorcycle industry”も掲載されました。ちょうどガンさんから,彼女も編集に参加した一般社団法人BETOAJI発行の『ベトナムの味』をいただいたところでした。おめでとう。そして,ありがとう。







2022年8月28日日曜日

JFEスチールが西日本製鉄所倉敷地区で高炉1基を停止し大型電炉を増設するという報道に接して

 JFEスチールが西日本製鉄所倉敷地区の高炉1基を2028年前後に停止し,あわせて大型電炉を建設するという報道。日本製鉄に3年遅れを取ったが,ついに決断したか。事実だとよいが(9/1 JFEスチールはカーボンニュートラル戦略説明会を開催し,この報道が事実であることを裏付けた。)

 NHKは正確に報じているが,時事通信社の配信に依拠したメディアは「高炉を電炉に転換」と書いている。これはやや筆が滑ったところがあり,正確には電炉と同次元で対応するのは転炉である。高炉は鉄鉱石から銑鉄(溶銑)をつくり,その溶銑をつかって転炉で粗鋼をつくる。電炉はスクラップや銑鉄・還元鉄などから粗鋼をつくる。転炉は溶銑の持つ熱を利用するので,高炉が隣接していないと効率的に操業できない。

 だから,この報道が正しいとすれば,その意味するところは,高炉を1基減らし,対応する転炉の能力も縮小し,それで減る分の粗鋼生産を電炉でカバーするということだろう。

 鉄鋼業は製造業最大のCO2排出源であり,その原因は酸化鉄である鉄鉱石をコークスと微粉炭,つまりは炭素を用いて還元するからである。この問題を根本的に解決するのは,炭素でなく水素で還元する次世代製鉄法である。それにはやや劣るが有効な方法として,排出されるCO2をCCUS(二酸化炭素回収・利用・貯留)で貯蔵または再利用することも構想されている。しかし,いずれにせよ実用化にはまだ時間が必要だ。さしあたり,既存技術である電炉法の適用範囲を拡大すればCO2排出は抑制できる。電炉法では主原料として鉄スクラップを使うので,高炉が不要になるからだ。当面,これでしのぐしかない。

 電炉法で高級品を製造するのは,多品種・少量生産で,二次精錬などの多数の工程をかけてやれば可能である。あとは価格とコストの見合いである。特殊鋼電炉メーカーはそのような生産方式で成り立っている。しかし問題は,現代社会は,大量生産品の鋼材にも高級化を求めているということだ。その最たるものは自動車のボディである。

 高級化は仕様の多様化でもあり,鉄鋼メーカーに入る受注は小ロット化する。高炉メーカーはこれを何とか大ロットにまとめ上げて効率性を維持しつつ,高級品を製造する技術開発を進めてきた。そのため,高級化した大量生産品の知識・ノウハウは,高炉・転炉法での製造技術として高炉メーカーに蓄積され,また学界での研究もおこなわれている。

 高級化した大量生産品の製造を電炉法に切り替えようとすると,以下のことが課題となる。

1.電炉自体の大型化。これは世界ではすでに実績があり,さほど困難ではない。
2.高品質なスクラップまたは直接還元鉄の調達。少量なら問題なくとも,大量にとなると容易ではない。
3.高級品の知識・ノウハウの高炉・転炉法から電炉法への置き換え。これも長年高炉・転炉法に固着していたため容易ではない。メーカーのR&Dだけでなく,学界や大学での研究の重点を含めて転換が必要だ。
4.電力業の脱炭素化。電炉とは電気炉の略称で,その名の通り電力を大量消費する。なのでEVと同じで,温暖化防止には発電でのCO2排出を抑えねばならない。鉄鋼メーカーがCO2排出の少ない電力を選択して購入したり,電力業に直接・間接に関与したりする動きも広がるだろう。例えば,太陽光発電の普及により,昼間電力が余り気味になるという現象が生じているので,長年,夜間操業を強いられてきた電炉メーカーは,今後昼間操業に転換し,太陽光発電業者から集中的に電気を買うことが考えられる。

 今回の決断はJFEスチールのものだが,これらの転換を担うのは,何も既存高炉メーカーや既存電炉メーカーに限られない。次世代技術や業際的ビジネスモデルをひっさげたスタートアップやアライアンスを含めて,様々な担い手に機会を開くことが必要だ。

「JFEスチール 高炉1基を休止し「電炉」建設を検討 脱炭素加速へ」NHK NEWS WEB,2022年8月27日。

「JFE、高炉1基を電炉に転換 岡山の製鉄所、27年にも」時事通信社,2022年8月26日。

JFEスチール カーボンニュートラル戦略説明会 [2022年9月1日],JFEスチール株式会社。


<参考>

「日本製鉄広畑製鉄所の製鋼工程が電炉法に切り替わることについて」Ka-Bataブログ,2019年11月19日。

川端望「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」『粉体技術』第12巻第10号,日本粉体技術工業協会,2020年10月,15-19頁。

「脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか(『Value One』No.73,株式会社メタルワン,20201年7月15日掲載原稿)」Ka-Bataブログ,2021年7月16日。


2022年8月23日火曜日

預金貨幣の内生的供給と外生的供給:岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社,1948年の先駆的意義

  岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』は,戦後直後の日本におけるインフレーションを,貨幣理論によって把握しようとした労作である。本書は1948年発行であり,紙質も印刷状態もよくないものであって,今日どれほど残存しているのかが懸念される。しかし,実は本書は,今日の貨幣をめぐる論議に見通しを与えてくれる先駆的なものだと,私は考えている。

 本書で重要なのは副題である。岡橋氏は,戦後直後のインフレーションを念頭に置いて,「こんにち,銀行券にかはって預金貨幣が支払流通手段の中心的形態」(序言3頁)であると述べている。インフレーションは,商品流通に必要な貨幣量を超えて,貨幣代替物が流通界に投じられた際に生じるものである。この貨幣代替物の主役が預金貨幣だと岡橋氏は主張しているのである。

 これは,金融実務に携わる人にとっては当たり前のことである。実務家は,戦後直後であれ21世紀であれ,預金が通貨として大きな役割を果たすことを知っている。マネーストック指標のM1,M2,M3は預金通貨を含んでいることは少し調べればわかることである。

 ところが,多くの一般市民,経済評論家,経済学者は,実はそのように考えていない。今日では多くの人が,しばしば銀行振り込みを利用し,公共料金やクレジットカードの利用高を口座引き落としで決済している。しかし,同時に国や中央銀行が定めたものだけが貨幣であり,現代の通貨制度とは「中央銀行がお札を刷って通貨にする」ものだと思いこんでいる。そして,財政赤字やインフレを論じる時も「日銀がお札を刷ってばらまく」云々という風に考えている。そして深刻なのは,一般市民だけでなく,経済評論家や経済学者も真顔でそのように論じることである。場合によって,経済学の教科書にその趣旨が記されていることすらある。この考えに立てば,通貨供給とは日銀券の発行であり,インフレーションとは日銀券の刷りすぎから起こるということになる。

 これは間違いであって,経済学の理論でも預金貨幣を正面からとらえねばならないと,岡橋氏は1948年に述べているのである。

 ここで説かねばならない問題がある。預金貨幣といっても,中央銀行当座預金は直接商品流通を媒介しない。民間の取引で用いられているのは市中銀行の預金である。では,銀行の企業に対する貸し付けによってインフレーションが起こるのだろうか(※1)。そうではないと岡橋氏は言う。「インフレーションとは国家の強権的な貨幣的手段の創造によるところの一般物価の騰貴である」(序言2-3頁)。つまりは政府が税収以上に支出する財政赤字,そのための国債の発行から生じるものである。では,どうして政府の財政赤字が,中央銀行券の過大な発行でなく市中銀行による預金貨幣の過大な発行となるのか。岡橋氏は,戦時統制期の軍需に即して以下のように言う。

 「赤字公債のうえに形成された日本銀行における政府当座預金は,政府支払小切手によっていろいろな軍需会社に撒布された。これらの政府小切手は,それぞれ軍需会社の取引銀行をつうじ,手形交換所をへて日本銀行に提示され,ここに政府当座当座預金は一般預金にふりかえられたのであって,前者の減少が後者の一般預金の増大となってあらはれたのである」(104-106頁)。

 これは,軍需会社を政府の支出先企業とし,手形交換所を電子交換所とすれば,21世紀の今日も同じである(※2)。

 つまり,財政赤字による通貨供給量の増大の多くは,預金貨幣の増大となって表れる。この増大分が,商品流通量の増大を超えている時にインフレーション作用が生じるわけである。念のためいえば,岡橋氏は財政赤字が直ちにインフレを起こすと述べているのではない。失業を減らし,遊休設備を稼働させ,滞貨を動かして,通貨供給に見合った商品流通量の増大を引き起こすのであれば,インフレーションは起こらないのである。

 さて,こうした財政赤字による預金貨幣の発行を,岡橋氏は「信用貨幣の変質」と呼んでいる。預金は銀行の債務であって,預金貨幣は信用貨幣である。しかし,同じ預金貨幣であっても,ほんらいの信用貨幣の場合と変質した場合があるというのである(※3)。

 銀行が企業に貸し出す際に生み出される預金貨幣は,商品流通に対応したものである。そして,貸付金が回収されれば消滅する。よって,商品流通の内在的な動きに応じて伸縮性を持っている。商品流通が拡大するから貨幣流通量も増えるし,逆なら逆である。現代の用語で言えば,貨幣は内生的に供給される。

 しかし,財政赤字を通して生み出される預金貨幣は,流通外から政府が権力的に投じたものである。そして,上記のような伸縮性を持たない。縮小させようとすれば,政府が課税を強化するなどして,やはり権力的に回収するしかない。つまり,ここでの貨幣供給は外生的である。

 銀行貸出を通した預金貨幣の供給は内生的であり,財政赤字を通した預金貨幣の供給は外生的である。同じ預金貨幣でも供給ルートによって性質が異なる。このことを,岡橋氏は1948年に見抜いていたのである。

 この見地からは,今日の貨幣をめぐる議論に二つの示唆が得られる。

 まず一つ目は多くの研究者や市民への警告である。多くの研究者が,金兌換が停止された預金通貨は信用貨幣ではなく不換国家紙幣だとみなしており,その日常感覚バージョンとして,多くの人が日銀が自らの意思でお札を刷って紙幣を供給できると考えている。これらは日銀・銀行ルートの貨幣供給を外生的とみているのである。しかし,これでは,預金通貨が市中銀行の貸し出しと回収を通して伸縮することを説明できない。この見地をとってはならないのである。

 もう一つは,内生的貨幣供給論者への注意である。内生的貨幣供給論者は,銀行の貸し出し・回収による貨幣供給量の伸縮を正しく説明する。その点で外生的貨幣供給論よりはるかに妥当である。しかし,そこから,信用貨幣であるから,いつでもどこでも内生的に供給されるのだと硬直した規定を与えてはならない。うかつにそうすると,財政赤字を通した預金貨幣供給が外生的であることを位置づけられなくなる。信用貨幣論は,信用貨幣が供給ルートによって性質を変えることまで射程を伸ばす必要がある。

 以上が,1948年発行の本書から得られる認識である。岡橋保氏の学説は,今日の貨幣をめぐる論議を深めるために,なお深く検討する価値を持つものだと,私は考える。


余談:本書は世界文化社から発行されている。この出版社は,戦前に存在した雑誌『世界文化』とは関係がない。しかし,現在存在している「世界文化社グループ」とも異なる。その実態は「電通」である。住所が「電通ビル」となっているが,これは現在の電通銀座ビルである。電通は1946年に総合雑誌『世界文化』を発行したが,GHQによって「活動制限会社」に指定されたために出版事業を縮小し『世界文化』の発行も,大地書房,そして世界文化社に移されたのである。
 また,同社の代表は廣西元信氏である。マルクス経済学の世界では著書『資本論の誤訳』で有名であり,また空手家として有名な人物である。廣西氏が『世界文化』の編集に携わっていたことは知られているが,同社の代表も務めていたのである。
 世界文化社の本は1953年くらいまで出ていたようであるが,それと入れ替わるように1954年には,子供マンガ新聞社と世界文化画報社が改組されて世界文化社となり,現在の世界文化社グループに至る。両社に何らかの関係があったのかはわからない。


※1 そうだという研究者もいる。この見解については以下で論評した。
「インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話」Ka-Bataブログ,2022年1月25日。

※2 こうした預金をめぐるオペレーションを貨幣理論のモデルに組み込まねばならないことは,今日,MMT(現代貨幣理論)が主張しているところである。その点ではMMTが妥当である。岡橋氏を含むマルクス派信用貨幣論とMMTは信用貨幣論において共通するところが多いが,商品貨幣論から出発して信用貨幣論に至るか,表券主義と信用貨幣論を使い分けるかというところが異なる。この点は以下で対比した。
「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

※3 これを岡橋氏が「変質」と呼ぶ理由は,政府の財政赤字による通貨投入は,商品流通の必要性に応じたものではないからである。なお,ここでは,国債を民間に向けて売り出した場合と日銀引き受けとした場合とでどのような相違があるかについては触れなかった。この点では岡橋説と拙論は異なってくるが,それはまた別の論点となる。







2022年8月17日水曜日

マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について

1 問題の所在:マルクス派信用貨幣論とMMTが対話する必要性

 私は,現代の貨幣のほとんどを信用貨幣,すなわち流通する債務証書として説明する立場である。この立場は,近年台頭している現代貨幣理論(MMT)も唱えるところである。ただし,私の立脚点は,貨幣と金融システムについては,日本のマルクス経済学で発達した信用貨幣論である(※)。マルクスは信用貨幣論とMMTには重なるところもあるが異なるところもある。以下のノートは,私が理解するマルクス派信用貨幣論の論理を説明し,それがMMTとどこが一致し,どこが異なるかを明らかにしようとする試みである。その目的はMMTを論破して否定することではない。私はMMTが,主流派経済学の問題点を衝き,ケインズ派の財政政策を創造的に発展させようとしていることに肯定的な立場である。そして,MMTの理論的な創造性は信用貨幣論にあると考えている。理論的対話を通して信用貨幣論という共通の財産を育てることが,このノートの目的である。
 あらかじめ要約しておくと,マルクス派信用貨幣論とMMTの,理論の深いところでの相違点は以下の2点である
 1)マルクス派信用貨幣論は,資本主義経済を説明する際に,価値を持った特殊な商品が貨幣になるという商品貨幣論から出発したうえで,貨幣の発達の結果として信用貨幣がもっぱら流通するようになると考える。対してMMTは,商品貨幣論を誤りとして否定したうえで,理論の出発点から信用貨幣論に依拠しようとする。
 2)マルクス派信用貨幣論は,通貨が流通する根拠をまずは民間経済に求め,これを補完するものとして政府を位置づける。対してMMTは,現代の金融の動きは信用貨幣論で説明するが,通貨が流通する根拠は「租税が通貨を起動する」という表券主義によって説明する。
 以下,詳しく見よう。

2 マルクス派信用貨幣論の論理構成

 まず,あまり一般には知られていない,マルクス派信用貨幣論の基本論理を,私の理解によって説明しよう。

(1)商品貨幣から出発し,信用貨幣を説明する
 マルクス派は,価値を持った特殊な商品=金などが貨幣として用いられることを基本モデルに置く。つまりマルクス派の基本モデルは商品貨幣論である。しかし,この商品貨幣が,発達した資本主義では流通せずともよくなり,通貨の大半が信用貨幣になるという重層的理論構成をとる。発達した資本主義を説明するには,まず商品貨幣からはじめ,手形を説明し,貸し付けを説明し,産業資本のみならず銀行資本の存在を踏まえた説明することが必要である。そうして,発達した信用機構が,プリミティブなモデルでは必要とされる商品貨幣の流通を,もはや必要としなくなる理由をも説明するのである。
 なお,ここでいう基本モデルとは,「かつてはそうだった」という時間的先行性を表すのではなく,あくまでも現在の資本主義経済を説明する際の,論理的に出発点となるモデルのことであることに注意して欲しい。これはMMTの説明との対比で重要な意味を持つ。
 さて,商品流通の発達とともに,貨幣の代用物が様々に用いられるようになるが,とくに注目すべきは,商業手形が貨幣の支払い手段機能を果たすようになることである。商業手形は商品の購入にあたって債務者が振り出すもので,債権者を起点として一定範囲で流通する。そして,通貨による返済や債権債務の相殺によって決済される。手形が普及した経済では,債務証書で支払うことや,財・サービス購入をしてから,事後に決済することが可能になる。さらに,信用機構が発達し,利子を取ることを追求する銀行資本が登場すると,銀行が手形を発行する。すなわち,当座性預金と銀行券である。当座性預金は,銀行が企業に対して貸し付けを行う際と,商業手形の割引を行う際に設定される。当座性預金を企業が引き出すと預金が減額され,その分だけ銀行券が発券される。貸し付けが返済されれば銀行券も当座性預金も消滅する。預金や銀行券も手形原理に依拠しているが,購買の際ではなく,信用供与の際に発行されるところ,一覧払であるところが独自の特徴である。当座性預金や銀行券は正貨を代用する購買手段や支払い手段となり,また,インフレーションというリスクを抱えるので不完全ではあるが,価値保蔵手段ともなる。
 さらに,一社会全体の支払い決済と信用供与システムを維持するために中央銀行が成立すると,中央銀行当座預金と中央銀行券が成立する。多くの場合,銀行券の発券は中央銀行に集中される。商業手形は流通範囲が狭く,信用供与期間が短く,企業間流通にしか用いられないため通常は通貨と認められないが,より信用度が高く一般的流通に投じられる当座性預金や中央銀行券は通貨と認められる。中央銀行当座預金は一般には流通しないが,銀行間の決済と銀行への信用供与を通して一社会の金融システムを統一し,支える。

(2)管理通貨制度においても,信用貨幣は決済可能である
 それでは,管理通貨制度の下で,金貨などの正貨流通が停止されると,信用貨幣は流通できなくなるのであろうか。マルクス派の中にも,そのように考える研究者はいる。金本位制の下では銀行券は信用貨幣だが,金兌換が停止されれば信用貨幣ではなくなるというのである。この見解では,現在流通している預金通貨や中央銀行券は国家が強制通用力を付与した価値シンボルだとされる。しかし,正貨流通が停止されても,信用貨幣は信用貨幣のままだというのがマルクス派の信用貨幣論である。
 正貨流通が停止されるというのは,具体的には預金や銀行券が金兌換されないということである。では,金兌換されない預金や中央銀行券が,どうして信用貨幣なのだろうか。それは,信用貨幣に表されている債務の決済方法が元々複数あり,正貨での決済はそのうちの一つに過ぎないからである。
 債務としての信用貨幣を決済する方法は,3通りある。第一に,正貨との交換(正貨による債務の返済)である。兌換紙幣の金兌換はこれに該当する。第二に,債権・債務の相殺である。中央銀行や民間銀行の口座内で債務と債権が相殺されれば一方的返済は必要なくなる。また,信用貨幣を用いた貸し付けを信用貨幣で返済することも一種の相殺である。例えば銀行から預金通貨で借り入れを行った企業は,借り入れを行ったという点で債務者である。と同時に,当該銀行の預金を所持しているという点で銀行に対する債権を保持している。この借入を預金通貨を用いて返済するのは,債権と債務を帳消しにする行為と理解できる。第三に,債務を,債務者の債務よりもより信用度の高い債務証書で返済することである。債務には,債務の流通する範囲による階層性が存在する。個人の債務よりは企業の債務(手形など),企業の債務よりは銀行の債務(当座性預金や銀行券),銀行の債務よりは中央銀行の債務(中央銀行当座預金や中央銀行券)の方が流通する範囲が広い。この関係を利用し,個人や企業の債務は,債権者に対してより上位の債務,例えば銀行預金や中央銀行券を引き渡すことで決済できるのであり,銀行が他行や中央銀行に負う債務は,中央銀行当座預金や中央銀行券で決済できるのである。
 管理通貨制度の下では正貨流通が停止しており,兌換は行われない。しかし,債権債務の相殺や,より信用度の高い債務証書への置き換えは可能である。なので,預金通貨や中央銀行券は,管理通貨制度でも依然として信用貨幣としての機能を果たすのである。この機能を安定させるために必要なことは,悪性インフレーションの防止であり,債務の階層構造の安定である。

3 マルクス信用貨幣論とMMTの違い

(1)MMTの特徴:表券主義
 さて,上記のマルクス派信用貨幣論とMMTは,現に流通している預金通貨や銀行券が信用貨幣だとするところ,債務の階層(ピラミッド)構造による決済を認めることでは一致している。大きく異なるのは,マルクス派は信用貨幣の流通根拠を債務の決済可能性に求めていることであり,それは民間経済内部で可能になっているとすることである。対して,MMTは通貨の流通根拠を表券主義で説明する。政府が国民なり住民なりの人々に対して租税債務を課し,その租税債務の支払いに使えるものとして通貨を発行し,流通させるのだというのである。租税債務の支払いに用いることができること,その可能性を政府が保証することが,通貨の流通根拠なのである。
 私は,租税債務の支払いに用いられることが,法定通貨の流通根拠の一つでありうることは否定しない。マルクス派の理論構造になかには,これを否定するものはない。しかしマルクス派の信用貨幣論では,信用貨幣生成の論理の中に流通根拠が含まれているので,表券主義を必要としないのである。
 この両説の違いには,どのような理論的背景があるのか。

(2)共時的・論理的説明と通時的・歴史的説明
 まず,マルクス派は,現代の通貨の流通根拠を,共時的に,現在のシステムが成り立っている論理的説明として行うのに対して,MMTは,過去から現在に向かっての通時的・歴史的説明として行うという違いがある。
 マルクス派の内部でもこの二つの説明方法については長年の論争があるが,信用貨幣論が依拠するのは共時的・論理的説明である。説明すべきは現代の通貨であり,現代とはつまり資本主義社会であり,管理通貨制度である。管理通貨制度を,より抽象的なモデルから具体的なモデルへという順序で,商品通貨から出発し,商品経済における手形の論理を加え,さらに資本主義経済における貸し付けの論理を加えて,実際の複雑な金融システムを説明しようとするのである。
 対してMMTは,前資本主義社会や資本主義社会の初期に商品通貨が用いられていたことを否定し,過去から現在まで政府が租税支払いに使えるものとして発行した政府通貨が用いられてきたことを,現代の資本主義経済における通貨の流通根拠の説明に用いようとする。歴史的に,政府通貨が租税支払いにもちいられてきたことが現在の通貨の表券主義的説明の根拠なのである。
 ここに両説の違いがある。私は,説明の仕方として,現在のシステムが成り立っている根拠は,あくまでも現在のシステムの論理的説明によるべきであり,システム成立の歴史的経過の説明によるべきではないと考える。

(3)信用貨幣論による説明と表券主義による説明
 次に,マルクス派は信用貨幣論から出発し,信用すなわち債権債務の決済の論理で通貨の流通根拠を論じる。対して,MMTは貨幣本質論措定は信用貨幣論なのだが,通貨流通根拠論になると表券主義を強調する。MMT派はそうは考えていないであろうが,私には信用貨幣論と表券主義は異なるものであり,MMTは二元論的説明を行っていると思える。
 信用貨幣とは,流通する債務証書が貨幣の役割を果たすものである。それが流通するのは,債務証書が債務証書として健全だからであり,端的にいって決済が可能だからである。したがって信用貨幣の流通根拠は,債務証書としての決済可能性に求めなければならない。私の意見では,それが上記の三つの方法であり,管理通貨制度の下ではそのうち二つが機能しているということである。
 MMTの表券主義は,租税債務の支払いに使えることを通貨流通の根拠としている。しかし,それならば,信用貨幣でなくとも,国家が強制通用力を付与した価値シンボルでよいはずである。政府の債務としてでなく資産として発行する通貨でもよい。中央銀行券でなく国家紙幣やコインでもよいはずである。いずれでも租税債務の支払い手段として認めることは可能である。
 つまり,MMTの主張する表券主義の政府通貨は,必ずしも信用貨幣でなくともよい。表券主義の基本論理は,信用貨幣論を必要としていないのである。MMTは,租税債務の論理を信用貨幣論と接続させているようであるが,私の見るところ,その接続は十分ではない。信用貨幣とは,債務を負う側が発行する債務証書である。しかし租税の場合,債務を負うのは人々であり,通貨を発行するのは国家の方である。これでは,政府の債務としての信用貨幣の成立を説明することにはならない。政府通貨は信用貨幣でなくても成り立つのである。
 マルクス派信用貨幣論は,現代の通貨の流通根拠自体を信用貨幣論によって説明する。信用貨幣が生成する論理の中で信用貨幣の流通根拠も説明するのである。対してMMTは,現代の金融システムの説明には信用貨幣論を駆使するが,通貨の流通根拠自体はそれとは別に表券主義で説明する。以上が両説の違いである。私は,表券主義による説明自体について否定するものではないが,信用貨幣論を駆使するのであれば,信用貨幣の流通根拠は,信用貨幣生成の論理の中で明らかにすべきだと考えている。

※マルクス派信用貨幣論の中にもまたヴァラエティがあるが,ここでとくに念頭に置いているのは,岡橋保,村岡俊三,吉田暁,松本朗の学説である。本ノートで記したことはこれらの先学に多くを負っている。ただし,いずれとも完全に一致するわけではない。

※このノートを書いた後,類似の問題意識による飯田和人「MMTおよび内生的貨幣供給論における貨幣把握について-現代貨幣の流通根拠を巡って-」『政経論叢』90(1/2),2022年(飯田和人『現代貨幣論と金融経済:現代資本主義における価値・価格および利潤』日本経済評論社,2022年に収録)が発表されていることを知った。拙論とは見解が異なるが,参考になる。

続編:「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。

2022年8月15日月曜日

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年を読んで

  著者にいただいた安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』を読了した。以下,今回気づかされた点を列挙する。

*泥縄。「大東亜共栄圏」の語が初めて登場したのは,日独伊三国同盟の交渉の過程で,日本の勢力圏を認めさせるためであった。ところがこの勢力圏としての大東亜共栄圏は対米開戦のために実行不可能となった。逆に,より切実でそれなりに具体的な排他的自給圏としての大東亜共栄圏が浮上したのは,対米開戦後,実際に東南アジアを占領してからであった。そんなことで間に合うわけがない。

 大東亜共栄圏が,結果として東南アジアからの資源収奪に終わったことは,原朗「『大東亜共栄圏』の経済的実態」『土地制度史学』第71号,1976年(現在は原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会,2013年)などから理解はしていた。今回,本書からは,大東亜共栄圏が,そもそも経済的に可能だという見通しをもって計画的に試みられたものではなかったことを知ることができた。

*食糧不足という要因。フィリピンでの綿花増産や鉱山復旧については,治安の悪化,ゲリラの抵抗によって困難となったのに対して,北支での銑鉄,アルミナ増産などの経済開発挫折の最大要因は,食糧不足による労働力確保難であった。私は,大陸での小型高炉による銑鉄増産がなぜ挫折したのかについて知りたいと思っていたのだが,食糧不足が基本要因であることを初めて認識した。

*重光葵の外交路線が意味するもの。重光は,大東亜共栄圏から,日本を頂点とする階層秩序である排他的自給圏であるという外観を,なんとか薄めようと努力した。それは,国際経済秩序についての戦後構想を示し,日本の戦争と外交に国際的な正統性を獲得するためであった。重光は大東亜共同宣言を大西洋憲章に対置できるように努力したが,果たせなかった。

 著者からいただいたメールには,重光についての記述に力を入れたとのことなので,その点について,やや話を広げた感慨を述べる。

 本書に先立って,先日加藤陽子『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社,2016年をようやく読んだ。そこで認識を新たにしたのは,大日本帝国がリットン調査団報告以後,対米交渉に至るまで,諸外国から繰り返し「より開放的な国際秩序への復帰」を呼びかけられていながら,これを拒絶してしまったということだった。

 私も経済学者の端くれなので,自由な通商体制によって排他的行動を抑制するという経済思想を,その経済的望ましさによって評価しがちである。しかし,むしろ国際政治の面から,この思想の正統性,他者に対する包容力,説得性を含めて理解することが,デカップリングの可能性が話題となる今日,重要ではないだろうか。つまり,開かれた,多くの諸国を包括する通商体制は,国際秩序から離れて自国中心の秩序をつくろうとする国家に対する批判と説得の論理として,歴史的に重要な局面で用いられてきたということだ。

 当時,日本は開かれた通商に戻れという呼びかけをついに振り切って,国際連盟を脱退し,日独伊三国同盟を結び,対米開戦に踏み出してしまった。しかし,開戦してから泥縄で構築しようとした大東亜共栄圏について,本書が注目した重光は,何とかその閉鎖性を緩和し,国際的な正統性をもたせようとした。それは英米が,領土不拡大・民族自決・自由な貿易をうたった大西洋憲章を提示していたからである。手遅れで,到底無理な試みではあったが,重光はこれに対抗する構想を提示せざるを得なかった。開戦してから慌てて言い訳をするくらいならば,リットン調査団と国際連盟脱退の時点,あるいは三国同盟締結交渉の時点,せめて日米交渉の時点で,もっと国際的に正当性を確保する道を選ぶべきだったのに,と思わざるを得ない。

 当時も,そして遺憾ながら21世紀の今も戦争は政治の延長であり,政治はあからさまな軍事力を含む力関係に規定されている。パワーのない正統性は無力であり,戦争で敗北した国家は,基本秩序(憲法)を転換させられるかもしれない。しかし,正統性を伴わない力は支持を得ることができず,国家はその行使によって国際秩序の中で安定した地位を獲得することができない。その意味では,長い目で見てやはり弱体である。

 開かれた通商体制は,戦争によって踏みにじられるかもしれない。しかし,どの国家も,開かれた通商体制の中で生きるという建前をかなぐり捨てることは難しい。戦争とは軍事力の衝突であると同時に,戦後の開かれた秩序を提示し,それへの支持を獲得する政治的競争でもある。このダイナミズムがかつてどのように作用したかを知ることは,21世紀の目前の問題にとって重要な示唆を与える可能性があるように思われる。


2022年8月28日:9段落目に一文追加。

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年。




2022年8月4日木曜日

資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて

  学部ゼミでブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った』(みすず書房,2021年)を読み通した。色々と論点はあったが,ここでは最終章の「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか」という問いを考えてみたい。話が大きすぎて明快な切り口を設定するのが難しいが,それでもいくつか考えてみたい。

*資本家のジレンマ

 ミラノヴィッチは,資本主義経済が成長し続けていることには何の疑問も持っていないようである。しかし,資本主義は,成長すればするほど,投資・消費し切れないほどの所得を生み出してしまう。この,成長の果ての停滞というケインズ的問題が全く落ちていて,成長は成長を呼ぶかのように論じるところが,本書の現代資本主義論としての食い足りなさである。
 現実には,先進資本主義経済が長期停滞にある(ローレンス・サマーズ)と言われて久しい。停滞からの活性化を図るためにあh,「新市場開拓型イノベーション」(クリステンセン&ビーバー)が必要とされる。従来の顧客に新製品で奉仕する持続的イノベーションでは市場は広がらずに雇用が徐々に減っていくし,コスト節約型イノベーションではなおさら雇用が減る。それでも生じた利益が再投資される時代だったら経済は成長したが,いまは投資先を見つけられない現預金を企業が抱え込むか,金融資産に繰り返し投下している。そういう観点からすると,ミラノヴィッチが注目するサービス分野の市場化は,経済活性化のカギとなる領域である。
 しかし,サービス分野の商品化は「私的領域」というよりも,個人・家族・コミュニティの再生産に必要な「共同作業」を商品=サービスの売買に変えているといった方がいい。セックスも,育児も,調理や清掃も,介護も,生活に必要な近距離移動も,文化・芸術における交流や評価も,もともと孤立した「私」の営みでもないし,「買い手と売り手」「奉仕者と顧客」だけの関係を処理するものとモデル化するべきではない。大量生産・大量消費になじまなかったために,従来,非市場的・非営利的に営まれてきた「共同」作業だった。そこに,一方では停滞から脱却する必要性によって,他方ではITの発達によってこれを可能とする技術が出現したために,ついに商品化の波が及んでいると理解すべきだろう。

*「官僚化」の失敗

 サービスの商品化は「官僚化」の失敗と表裏一体である。マルクス経済学は,1930-70年代に国家が経済介入を強めた理由を様々にとらえて「国家独占資本主義」論のバリエーションを展開したが,中でも島恭彦や池上惇は,コミュニティの営みが官僚機構によって包摂されていき,その包摂の仕方が資本蓄積に奉仕するものであることを重視した。そこで提起された対抗戦略は,官僚機構の民主的地方自治への転換であった。
 ところが1980年代以降の新自由主義は,コミュニティの共同作業を官僚機構に包摂することを中断した。むしろこれを市場化し,あるいは官僚機構,市場,NPOの協業関係に変形させた。問題とすべきが官僚化から脱官僚化・市場化に変わったのである。

*プラットフォームによる「シェアリング」の「マッチング・ビジネス」化

 ミラノヴィッチは本書でほとんど触れていないが,共同作業の商品化はプラットフォーム・ビジネスを通して行われている。
 プラットフォーマーは,家族やコミュニティの共同作業であったものを,顧客と自営業者(ギグワーカー)の市場取引としての結び付きに変える。使用価値的には「共同作業」であり,お互いの遊休資源を有効活用する「シェアリング」であるものが,市場での価値の取引では「マッチング・ビジネス」として資本主義的に営まれる。食事の宅配であり,保健サービスであり,ライドシェアリングであり,ネット小説であり,個人の対話と交流であり,レストラン情報のやり取りと格付けである。
 ミラノヴィッチによる私的領域の商品化論を読んでいると,自律した個人がサービスを取引し合う自営業者だけの世界が生まれるようにも見える。しかし,そうではない。プラットフォーマーは巨大資本主義企業であり,ネットワーク外部性を活用して独占化する。マッチング・ビジネスにおけるサプライヤーはギグワーカーとなりがちであり,形式上は業務請負業者であっても実態は労働者にほかならず,労働市場で分断され,低い労働条件で働かねばならないことが多い。そして,コミュニティでの評価の代わりにグローバルな採点とその背後のアルゴリズムに直面する。
 なるほど,これは資本主義経済を救う新市場拡大かもしれない。取引相手をサーチする範囲を広げることで資源の有効利用度を高め,稼得機会を社会全体として拡大するかもしれない。確かに,弱体化する親類ネットワークやコミュニティよりも,はるかに広い範囲からのすばやいマッチングを,営利的動機によるプラットフォームへの吸引は可能にする。しかし,プラットフォームによる共同作業の商品化は,独占と激しい経済格差を生み出すものである。また「マッチング・ビジネス」だけがあらゆるところに入り込めば,その網の目がコミュニティをさらに侵食し,人間の共同作業を困難にして,所得をめぐる競争に励むしかないように動機づける。

*ユートピアではない

 これは経済的ユートピアではない。共同作業の別の形での発展の可能性をつみとって,市場取引オンリーに変えるものである。また,人間関係のディストピアにまでたどり着くかは別としても,少なくともユートピアではないだろう。







2022年7月27日水曜日

斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで

  いま世間で話題のマルクス経済学者と言えば,斎藤幸平氏であろう。実は,私は『人新世の資本論』(集英社新書,2020年)については,共産主義をめざせ的なアジテーションにいま一つついていけなかった。私が政策論としてはグリーン・ニューディール論者だからであろう。しかし,今回,同書より前に出版されている斎藤氏の研究成果である『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』をようやく一読し,新鮮な驚きを覚えた。テレビや一般向けの文章で氏が語ることとはずいぶん異なる印象を受けた。やはり主著を読むべきである。

 斎藤氏が本書を通して言わんとすることは,大きく二つと思える。

 一つ目の主張は,学説史的に言えば,マルクスは『資本論』第1巻を出版した後,自然科学の研究を深め,それまでよりもエコロジカルな視点を強めたということである。なので,マルクスのエコロジーは出版された『資本論』よりも深まっていたということになる。これはマルクスの著作だけからでは読み取ることができないため,斎藤氏は新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)に収録されたマルクスの読書の記録である「抜粋ノート」や,蔵書への書き込みを検討し,解釈することで自説を主張した。マルクスがリービッヒの農芸化学を熱心に研究し,そこからリカードの収穫逓減法則批判の根拠を獲得したことや,土地疲弊の例を中心に物質代謝の攪乱の視点を得たことはよく知られている。しかし,斎藤氏によると,マルクスはその後,フラースの沖積理論と,過剰な森林伐採から地域全体の気候変動を論じる観点を学び,気候や植物が時間とともに変化すること,その変化の過程に与える資本主義的生産の破壊的影響はリービッヒが示唆するよりも広範であり,容易に修復できないことを認識したのである。

 二つ目の主張は,理論的には,マルクスは,『ドイツ・イデオロギー』以後,一貫して「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被るか」(MEGA II/3:57より。『大洪水の前に』110頁)という問いを持ち,そこから人間と自然の物質代謝の亀裂を分析しようとしていたということである。ここで生じるのは「素材」(ものとしての在り方)と「形態」(資本主義の下での経済的規定)の絡み合いである。経済学が対象とするのは「形態」の方(価値や価格や蓄積)だけだと思われがちであるが,そうではない。「マルクスの経済学批判の方法は,このような社会的生産から生じる素材的世界の攪乱を,資本の論理が引き起こした矛盾として,その歴史的特殊性を把握することにある。ここで重要なのは,単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であったということである」(『大洪水の前に』254頁)。だから環境破壊は「資本主義のせいだ」というだけでは十分ではないし,環境破壊について経済学の課題でないとすることも適当ではない。「資本主義の運動が,具体的に環境のどこをどれほどどのように破壊しているか」を分析するのがマルクスの視点であった。

 なので斎藤氏によれば,ある時期以降のマルクスは,自然を人間が思うがままに支配するプロメテウス主義でアンチ・エコロジーだったわけではない。倫理的に「資本主義が環境を破壊する」と告発するだけでもない。また,斎藤氏によればエンゲルスにやや顕著な,自然法則を正しく理解して「自然の復讐」を防ぐという超歴史的視点でのエコロジーをとっていたわけでもない。「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被る」かを分析し,どのように「物質代謝の亀裂」が入り,資本の「有機的」構成に影響し,素材の弾力性の損傷によって資本の弾力性も損なわれるかを論じようとしたのである。

 私には正確な学説史上の評価を行う素養が不足しているものの,文献学の迷宮のような新MEGA研究の理論的意義がこれまで呑み込めなかっただけに,「抜粋ノート」を読み込んで晩期マルクスの思想を探るという切り口は,たいへん面白かった。現在の温室効果ガスによる地球温暖化とは異なるものであるが,森林伐採による気候変動論をマルクスが自説に取り込もうとしていたということには,率直な驚きを覚えた。

 また「単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であった」ことは,もとより産業論の研究者として大いに支持するところであるが,マルクス自身がこの視角をエコロジーまで伸ばそうとしていたことにも新鮮な驚きを覚えた。この視角ならば,単に資本主義の自然破壊を抽象的に告発するのではなく,どのように破壊するのか,元々変動するものである自然に資本主義がどのように影響を与えるのか,文明を崩壊させる限度はどこにあるのかという,具体的で,いまでいう持続可能性を視野に入れた分析が可能になるだろう。

 このように,私は『大洪水の前に』を,マルクス研究としては久しぶりに興奮をもって読むことができた。

 最期に,本書から逆に,マルクスには時間がなくてできなかったことを考えたい。つまり,エコロジーの社会変革論であり階級論である。マルクスは,資本主義は労働者階級を生み出し,彼/彼女らに厳しい労働条件と生活状態を強いることを明らかにする一方で,資本主義的生産は労働者を社会変革の担い手として,また将来社会の生産の担い手として鍛え上げることを論じた。その論じ方が正しかったかどうかは別にして,少なくとも理論的,歴史的に論じたことは事実である。対してエコロジーについては,マルクスは,斎藤氏の言うとおりだとすれば,資本主義による環境破壊を分析する視点を確立する途上で世を去った。とすれば,その先の問題,つまり資本主義による環境破壊が,社会のどのような階級をどのような状態に置き,したがって,どの階級が環境を保全し,そのために必要な社会改革に立ち上がるのかという必然性や蓋然性を検討する時間的余裕を持てなかったのであろう。

 それは,後の世代に残された課題である。斎藤氏がその課題に取り組むためのマニフェストが『人新世の資本論』だとすれば,私は斎藤氏のマルクス研究の成果を学びつつ,現代の課題については,私なりに何かを言えるようになりたいと思うのである。


斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年。




2022年7月20日水曜日

リピアーは神永と出会い,神永と融合したウルトラマンに禍特対の人々は出会う。そこにいるのは個体と個体であって,アメリカと日本ではないーーー『シン・ウルトラマン』を観て大澤真幸説と対話する

(この拙文は,映画『シン・ウルトラマン』をすでにご覧になった方に向けたものです) 


 大澤真幸「ウルトラマンはどうして人類を助けるのか?~映画『シン・ウルトラマン』から考える」imidas,2022年7月8日は,は,かつての佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋,1992年と同様に,ウルトラマンと人類の関係を戦後の日米関係に見立てる論稿である。大澤氏は「『ウルトラマン』では、日米安保条約的な態度と関係性が、無意識のうちに肯定されていた。『シン・ウルトラマン』は、逆に、日米安保条約的な態度と関係性を意識的に拒絶している」という。これは神永や禍特対の人々が,人類を滅ぼそうとするザラブや,人類を資源として管理下に置こうとするメフィラスと日本政府との条約を阻止したことを念頭に置いている。だが「人類はウルトラマンから自立できたことになるのか。人類は、(ほぼ)自分の手で自分たちを救うことに成功したことになるのか」というと,そうではないと大澤氏は言う。「人類だけではゼットンを退けることはできず、むしろ最も難しく肝心なところに関してはウルトラマンのおかげである」からだ。ウルトラマンが人類を助ける理由は結局不明であり,これは「自分たちが発揮できる利他性は同胞の範囲にとどまっているのに、日本人は、その範囲を超えて利他的にふるまってくれる強い他者を必要としている」という日本社会の困難の表れなのだと大澤氏は結論付けている。

 大澤氏と佐藤氏の具体的な意見は異なるが,構図の取り方,ウルトラマンの世界と現実の世界の対応のさせ方はそう変わっていない。ウルトラマンはアメリカで,人類は日本だというのだ(※1)。だが,私は大澤氏の構図の取り方は,作品の構造に即していないと思う。日米関係に関する氏の見解に異を唱えたいのではなく,シン・ウルトラマンに日米関係を読み込むことが適当ではないと思うのである。具体的には,氏は二つのことを見落としていると思う。

 ひとつは,『シン・ウルトラマン』は「光の星」「リピアー(ウルトラマン)=神永」「禍特対」「群れとしての諸国家」という四つのアクターからなっており,このうち国家や社会になぞらえることができるとすれば,光の星と地球の諸国家である。だが,その中間にいるリピアー(ウルトラマン)=神永と禍特対こそが本編の主人公である。どうして,この,身も心もある諸個体を無視して,「アメリカ」と「日本」という二つの国になぞらえることができるのだろうか。どうしてもなぞらえたいならば,せめて光の星=アメリカ,日本政府=日本とすべきだろう。しかし,外星人の出現に右往左往する日本政府を現実の日本とするのはまあいいとして,問答無用で地球を消滅させようとする光の星をアメリカに例えられるのだろうか。

 もうひとつは,主人公であるリピアー(ウルトラマン)が神永新二と融合していることである。言うまでもなくこれはSF的設定であり,現実にあり得ないことである。大澤氏は,「同胞同士の助け合いの行動は、同胞の範囲を超えた利他性を引き起こす力はない」として,リピアーの人間への関心を非現実的だとするが,そんなことは当たり前である。ありえないことを敢えてあるとした上で,そこから何か新しい認識を得ようとするのが,SFの一つの機能である。それをただ非現実的だと見るのは,SFの論じ方として実りあるものとは言えまい。

 本稿は,大澤氏の評論と対話しながら,『シン・ウルトラマン』では国家間の関係よりも,個体と個体の出会いが描かれているという見方を示すものである(※2)。もとより作品の解釈は多様であり,唯一正しい見方などないことは承知である。その上で,どのような見方が整合性を持ち,作品の解釈として説得力を持ち,新たな認識を生み出す力を持つかの問題だ。その判断は読者に委ねたい。

*リピアー=神永の融合

 光の星から来たリピアーは,身を挺して子どもを助けた人間・神永に興味を持った。このように生きる個体もいることに関心を持ち,そのような個体を好ましく思い,知りたいと思った。だから,神永と一体化して彼をよみがえらせた。神永と一体化したリピアー=ウルトラマンは,人類と別の存在として人類を守ってあげているのではない。浅見弘子の「あなたは外星人なの。それとも人間なの」という問いかけに対して,神永は「両方だ。敢えて狭間にいるからこそ,見えることもある。そう信じてここにいる」と答えている。リピアー=ウルトラマンは神永に変身しているのでもないし,普段は神永で,返信した時だけリピアーの人格になるのでもない。ウルトラマンは同時に神永でもあり,外星人でもあれば人間でもあるのだ。だから,神永という人類と同じように,人類の思考や肉体の限界も認識しているし,人類のように思考し,感じ,行動する。外星人を恐れるとともにそれに依存し,仲間を信じると同時に信じられない。ウルトラマンは,そのような人類を外星人として見つめると同時に,そのような人類に自らなっているのだ。だから迷う。だから戸惑う。融合した相手の身になり,それを理解しようとし,しかし,結局,「人間とはわからないものだ」と思う。大澤氏はそこに説得力がないと言うが,リピアー=ウルトラマンは,そこまで共感する力を持った存在として敢えて設定されているのだ。もしもそんな存在がいたら,人はどのように向き合うのか。問題はそこにある。

*ウルトラマン=神永と禍特対の人々の出会い

 ウルトラマンに向き合うのは,抽象的な人類一般でもなければ,単一の群れとしての人類でもない。禍特対のバディ・仲間たちである。ウルトラマン=神永は膨大な量の本を速読しつつ,禍特対の人々と交流し,バディとは何か,仲間とは何か,群れとは何かを知ろうとする。そして,浅見をバディと認めてベータカプセルを託し,ウルトラマンの圧倒的な力に無力感を覚えて自暴自棄になる滝明久に,自分の知識も有限であることを示しながらベータシステムの記述を残す。リピアーは神永を通して人類に関心を持ったのであり,ウルトラマン=神永は,禍特対の人々を通して人間と信じあう経験をするのである。極論を言えば,リピアーにとって大事なのは神永であり,ウルトラマン=神永にとって大事なのは浅見や禍特対の仲間である。仲間と切り離された人類や,その群れ=諸国家それ自体を大事だと思っているわけではない。また,浅見や禍特対を通して知った人間のためであれば,光の星の掟を破ることもいとわない。

*掟ではなく人類ではなく仲間が大切だ

 リピアーが神永と融合したことは,光の星のゾフィーによればすでに禁断の行いであった。そして,リピアー=神永は,ゼットンを繰り出して人類を太陽系もろとも1兆度の火の玉で焼き尽くそうとする光の星の決定に反抗し,人類を守ろうとする。禍特対もまた,地球上の諸国家に歯向かう。人類に対して「上位概念」として君臨し,その資源としての利用をたくらむメフィラスに対して,日本政府は真っ先に技術供与を求め,これに全面的に依存する。それが人類の自立的発展を不可能にすると見抜いたウルトラマン=神永は,禍特対とともに実力でこれを阻止する。神永と禍特対は,日本政府に逆らってでも人類の自立を守ろうとする。

 ウルトラマン=神永は,人類や諸国家にも与せずに行動する。ゼットンの脅威を禍特対に知らせようとした際,「政府の男」らに同行を求められ,諸国家の共同管理下に入らなければ禍特対の安全は保証しないと脅迫されると,きっぱりと拒否する。あげく,「もしそれを実行すれば,私はゼットンよりも早く,ためらうことなく人類を滅ぼす」とまで言い放つ。そして「われわれ禍特対」に干渉するなという。ここでただ一度,ウルトラマン=神永は,「われわれ禍特対」と言っている。ウルトラマン=神永は外星人にして人間であり,ウルトラマンにして禍特対の一員である。大事なのは禍特対の仲間であり,仲間と信じあえるからこそ人類を守る,われわれ仲間を滅ぼすような国家や人類など,守るに値しないし,自分が滅ぼそうとまで断言しているのだ。日本政府は勘違いしている。ウルトラマンは,無条件に人類を守ってくれる神様ではない。仲間が大切だと思うからこそ,仲間が属する人類も守ろうとしているだけなのだ。

 リピアー(ウルトラマン)=神永にとって大事なのはバディとしての浅見であり,仲間としての「われわれ禍特対」である。人類の価値とは仲間を通して知るものだ。仲間を抑圧するならば,人類に守る価値はない。大事なのは掟でなく,人類一般でなく,国家でなく,仲間である。このストーリー展開を,安保条約だの日米関係だのに押し込めるのは筋違いというものであろう。

*個体が個体と出会って,何を問われるのか

 ウルトラマン=神永は言う。「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」。大澤氏は,これを「私はあなたたちの救世主ではない、あなたたち人類は自分で自らを守り、救わなくてはならない」という意味にとり,結局人類にはそれはできなかったという。しかし,そうではない。ウルトラマン=神永が言っているのは,スペシウム133のような人類にとって未知の力を駆使できるとしても,ウルトラマンも有限な存在であり,その点は人類と何も変わらないということだ。生きるために,神永=ウルトラマンもたたかい,人類もたたかう。そのようなもの同士として,お互いを尊いと思う。わからなくても尊重する。どちらがどのくらい強いかに関係なく,認め合うことだ。肝心なのはそこだとウルトラマン=神永は言っているのだ。

 リピアーと神永の融合も,ウルトラマン=神永と禍特対の人々との出会いも,どういじったところでアメリカ国家と日本国家が云々という話にはならない。どうしても現実に例えて言わねばならないとしても,これらの関係は国家間の安全保障ではなく,個人と個人の出会いの究極の姿だろう。神永=ウルトラマンに向き合う人類が問われることは,自分自身が主役になり,他者をわき役にして誰かに勝利することではない。他者であるウルトラマンとともにあろうとすることであり,自分にできる最大限のことをすることだ。リピアー=神永にとっても禍特対の人々にとっても大事なことは,様々な隔たりを超えて他の個体と共感し,それを好きになり,理解しようと思い,理解し切れなくてもお互いを尊重して生きることに他ならない。それは難しいことであり,できないかもしれない。滅びてしまうかもしれない。だが,できるかもしれない。挫折を覚悟でそれを試みた時に驚きが生まれ,新しい世界が開ける。光の星の掟を代表するゾフィは,未熟な別の種の個体と一体になり,その生命と未来のためにたたかうリピアー=ウルトラマンという個体のありように驚き,そこまで彼に思わせた人間たちに驚き,「そんなに人間が好きになったのか,ウルトラマン」と言ったのである。

※1 佐藤氏の見解については,未完ながら「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」で述べたことがある。この拙稿は蛸井潔氏の「糸納豆ホームページ」で公開されている。執筆したのは1994年である。また補足として,「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日もご覧いただけると幸いである。

※2 本稿の見方は,私が以前に『ウルトラマン』最終回と『ウルトラセブン』最終回について示したものと本質的に同じである。ウルトラマンは,ただハヤタを生かしたかったがために地球に居続けたのであり,モロボシ・ダンはただアマギ隊員を助けるために最後の変身をしたのである。前者については「ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)」Ka-Bataアーカイブ,2018年11月8日,後者については前掲「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」を見て欲しい。ただし,以前の二つの拙文では,ウルトラマンとハヤタの融合,ウルトラセブンのモロボシ・ダンへの変身についての考察が弱い。今回は,リピアーと神永の融合の意味をいくらか掘り下げた。

2022/7/21 当初「リピア」と表記したが,日本語字幕版での表記が「リピアー」であることを知り,修正。最終的には公式発表を待って確定したい。


2022年7月14日木曜日

統一協会(統一教会)が行ってきたことは家庭の破壊であり,「家庭の価値」の尊重ではない

  全国霊感商法対策弁護士連絡会記者会見(7月12日)の報道があった。

「昨日の田中統一教会会長のコメントはあまりにも事実に反すると言わざると言わざるを得ない。統一教会として反省していただいて、こういう家族の悲劇、苦痛について配慮していただきたい。一番私達が一番許せないのは、山上さんのお母さんが平成14年,2002年に奈良地裁で自己破産している。その自己破産は、明らかに過度な献金のためだ。それ以外、考えられない。それを機能の記者会見では,その後の献金はないと。おそらく献金させている。借金させても献金させる。カードでの借金をしたために自己破産した信者はたくさんいる、それを白々しく、ああいう形で証言するのは、人前で述べるのは許されない。」
「今後政治家の皆さんも、ああいう社会的団体とエールを交換することは本当に慎重に考えていただきたい。しかしながら、繰り返しになるが、ああいう凶行は許されない。それだけはここでも強調しておきたい」

 コメントする。
 これまで少なからぬ保守政治家が,「家庭の価値」云々で統一協会やその関連団体に親近感を表明してきた。「神統一韓国のためのTHINK TANK 2022 希望前進大会」で安倍晋三氏も「UPF(天宙平和連合)の平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」と述べていた(動画確認の上引用)。しかし,統一協会が実際に行ってきたことは,大規模な家庭破壊に他ならなかった。

 もう亡くなった私の父,川端純四郎は,浅見定雄教授とともに,統一協会に入信してしまった若者を救出するための活動に一時期奔走していた。当の若者の思想・信条の自由を尊重したうえで対話と説得を行っていたので,救出には大変な手間と時間がかかり,父の憔悴ぶりは横で見ていて非常に心配であった。彼は救出活動に当たり,当人の自由を尊重することと並んで,もう一つ原則を立てていた。それは,救出を試みるのは,家族による本気の救出要請があった場合に限るということだった。彼は,当人に協会のおかしさに気づいてもらうために必要だからだと私に言っていた。また今にして思うと,他人が説得に入らざるをえないほど事態が深刻であるという指標にしていたのだとも思う。つまり,救出活動の一つ一つが,協会の家庭破壊に対する反撃だったのだ。

「【記者会見の全容】「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の会見『夫からの暴力』『自己破産』旧統一教会の二世信者も出席し"苦悩" 語る」mbs news,2022年7月19日。

安倍演説の該当箇所は以下の動画より。
「安倍晋三、ドナルド・トランプ、潘基文 THINK TANK 2022/2021年9月12日 清心平和ワールドセンター 194ヶ国 200万名以上直接参加。各国の国営放送などを通し、5億名以上視聴」WP,2021年10月28日。
https://youtu.be/WkCveSTsnlM?t=5502

※2022年7月29日。Abeme Timesリンク切れに伴い,報道のリンク先をmbs newsに付け替え。


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...