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2025年7月9日水曜日

信用貨幣論から見た金融・財政の制度とオペレーション:ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年を読んで

  ポール・シェアード氏と言えば,日本では1990年代に『メインバンク資本主義の危機』で話題になったエコノミストであるが,今度の日本語訳本は貨幣論である。しかも,現代の貨幣は統合政府の債務であるとする信用貨幣論である。

 その主張を一言で言うと,「長期経済観や政治的インプリケーションを取り除いたMMT」といった趣である。ランダル・レイ『MMT 現代貨幣論入門』と類似のことを,ただしより金融制度論の教科書風に体系立てて漏れなく述べたという感じである。貨幣の起源論はごくさらりと流しており,中央銀行,中央政府,中央銀行,商業銀行のオペレーションに関する記述は信用貨幣論,とくに預金貨幣論に基づいている。長期経済観や政治的インプリケーションはないというというかやや保守的である。例えば再分配政策はほとんど無意味であり,富裕層が資産として保有している株式が企業価値を支えていることは尊重せざるを得ないとしている。この本の推薦者が,一方ではステファニー・ケルトン氏(『財政赤字の神話 MMT入門』著者)であり,他方では新浪剛史氏(サントリー・ホールディングス代表取締役会長)や宮内義彦氏(オリックス・シニアチェアマン)であることは,本書の性格を適切に表示している。

 実務的で淡々としている本書であるが,一つの積極的主張は統合政府論である。中央政府と中央銀行は本質論(著者の表現では「エデンの園」。邦訳41ページ)ではもともと一体なのあり,制御不能なインフレーションを抑止するための制度的工夫として両者が分離されているにすぎないというのである。中央銀行・銀行とともに,中央政府もまた貨幣供給主体である。中央政府の財政支出とは通貨供給であり,預金を増やし,準備預金も増やす。著者によれば,本質論としては,政府預金の残高をマイナスとしたまま,言い換えれば政府を債務超過にしたままでもよい。国債発行は必然ではないのである。しかし,制度的工夫として中央政府と中央銀行,財政機能と金融機能が分離していることにより,多くの場合,政府には国債発行による政府預金残高確保という制約が課されている。国債を発行した場合は準備預金が減るので,財政支出によって増加することと相殺される。ただし,この場合も預金貨幣は増えているので,政府は貨幣を供給しているのである。

 統合政府論の政策的インプリケーションは,金融政策と財政政策の境目があいまいになっていくということであり,それに応じて制度的枠組みも金融と財政を一体にすべきであろうということである。ただし,それは財政を徹底拡張するということでは必ずしもない。なぜならば財政は経済の尻尾であり,実体経済が犬であって,尻尾が犬を振り回してはならないからである。「物理的・人的・技術的・社会的資本の量と質を反映した経済の生産能力」(邦訳294ページ)を確保・拡大することが大事である。それなしに金利低下,さらに量的金融緩和をいくらやっても大した効果はなく,財政を拡張してもインフレになるだけだというのである。

 さて,私は,現状の制度的枠組みとそのオペレーションに関する理解については,シェアード氏にほぼ同意するし,理論的に冷静に論じられている限りMMTにもほぼ同意する(運動家が意見の異なるものを短文で罵倒する限り同意しない)。つまり,大きく見れば現状の説明について,1)信用貨幣論と2)銀行-中央銀行の二重システム論に立つ。低成長下においては銀行システムだけではなく財政システムも必要な通貨は供給して需要を刺激しなければならない。しかし,肝心なことは生産能力の量と質を充実したものにすることである。その「質」については人によって意見が違うので議論がひつようである。しかし,どの方向であろうと,一方では均衡財政は無意味である。他方で,内容抜きに,財政を拡張し,金融を緩和し続ければよいというものでもない。このような財政と金融のオペレーション原理については,シェアード氏にもMMTにも私は同意できる。

 問題は,こうした制度的枠組みとオペレーションのもとで,21世紀の先進諸国においては,金利調節がいっこうに効かずに量的金融緩和に追い込まれ,それでも流動性確保以外の効果がほとんどないのはなぜなのかである。財政赤字を継続的に出しても経済格差と貧困が緩和されず,コロナが収まった瞬間にインフレになってしまうのはなぜなのかである。シェアード氏には,歴史的局面として現在を把握する視点がない。むしろ,格差は単に実力と運の産物だったと言いたいかのようである。しかし,そうではなく,成熟した資本主義の歴史的傾向の到達点として現在をとらえるべきだと私は思う。これにはいくつかの側面がある。

 第一に経済発展により,工業社会は脱工業化社会に移行する。そうすると,投資は生産設備とインフラストラクチュアへの投資から,ハードだけでなくソフトウェアが大きな割合を占める情報システムへの投資,人的資源への投資に移行する。このことは投資需要の量的成長を減退させる。

 第二に,長期傾向としては,供給能力不足の経済から供給能力過剰の経済に移行する。格差と貧困を伴いつつ,平均的には生活水準が上がる。そうすると,相対的高所得層では所得が増えた場合に家計の消費に充てる部分,つまり限界消費性向が下がる。小野善康氏が述べるように,消費ではなく貯蓄,それも金融資産購入に充てる割合が高まっていく。その一方で,中低所得層は所得そのものが伸びない。そして,それ故に需要不足・供給過剰が慢性化する。

 第三に上記二つの傾向を目にした企業経営者は,たとえ既存事業で利潤を計上できた実績があっても新規設備投資をしなくなる。家計だけでなく法人企業が投資不足により資金余剰セクターになってしまう。余剰資金は国内では流動性としての現金や,金融資産に回ってしまう。設備投資がなされるとしても,新興国への直接投資に向かう部分が大きくなる。

 経済発展の結果として,生産能力に対する設備投資と消費が不足して不況への傾向が生まれる。実現できた所得が金融資産に投下されればバブルになる。好況があってもすぐバブル化してしまい,その反動で金融危機が生じやすくなるのである。

 第四に,移民によって補充されない限り,資本主義の成熟局面では人口が減少し,また人口構成が一時期は高齢化するということである。そのことにより,社会保障の需要が不可避的に増大する。これを営利ビジネスに委ね切ることはむずかしく,公的支出によって支えざるを得ない。したがい,人口減少期においては財政支出に占める社会保障支出の割合は拡大し,その支出は景気循環に関わらず必要となる。

 第一,第二,第三の要因によって,景気循環に対するバブルの影響が大きくなるとともに,不況の際の需要不足は深刻化する。金利調節では反転させることができず,財政支出によって対応するしかない。貯蓄(遊休貨幣)を課税によって吸収することもある程度は可能であるが,資本主義が民間主体の自由な支出決定に依拠したシステムである限り,これには限度がある。そのため,政府は財政赤字を一定程度出して貨幣を供給し,不足する需要を作り出すことになるのである。この際,第四の要因が,財政赤字の幅を拡大し,恒常化させる方向に作用する(※1)。

 だから,私の意見では,財政赤字の恒常化は,資本主義の成熟に伴う不可避の傾向である。財政赤字を出すか出さないかと言う二択については,よいか悪いかの問題ではなく,選ぶことができる問題でもない。ある程度の財政赤字は出ざるを得ないのである。それが嫌なら均衡財政で慢性大不況の社会を独裁権力を持って統治する,あるいは資本主義を直ちに廃止することになるが,まず現実的でない。問題は,悪性インフレを起こさないという制約条件の下で,財政赤字という名の通貨供給をどの程度,どのような内容で,どのような利害関係に沿って,どのような手続きで行うかなのである。その目的は生産能力の量と質の維持・充実であり,有効活用でなければならない。

 その「量と質」については人によって意見が違う。私は小野善康氏とともに失業こそが生産能力の最大のムダであり遊休であることについて注意すべきと思うが,そこまで思わない人もいるかもしれない。私は地球温暖化防止を前提にして豊かな暮らしを追求すべきであり,個人消費や教育・医療・福祉経済の充実や環境対策や老朽インフラストラクチュアの更新や再生可能エネルギーを重視すべきだと思うが,人によっては輸出中心の先端産業や金融センターや軍備拡大や原子力発電の育成が必要であり,個人の所得を豊かにすれば,医療・福祉費用の増大には自己責任で対応できるというかもしれない。シェアード氏にはまたそれなりの意見があるだろう。そこは議論すべきだ。1981年に刊行された『現代資本主義と国家』の中で,宮本憲一氏は現代資本主義国家の三類型として「軍事国家」,「企業国家」,「福祉国家」をあげた。その後の新自由主義的潮流の下でこの類型化はあまり普及しなかったように思うが,財政赤字=中央政府による通貨供給それ自体は結局不可避だということが明らかになりつつある今日,再評価されるべきだろう。大事なことは,財政赤字=中央政府による通貨供給の中身であり,それによって経済をどのような方向に動かすかなのだ。

 こうした歴史的文脈においてみた場合,シェアード氏が言う,財政政策と金融政策の境目のあいまい化は,確かに必然傾向であるようにも見える。ただし,ここで「エデンの園」への見方の違いが,原罪への見方の違いとなって生きてくる。シェアード氏は,またMMTなどの論者はよりいっそうそうだが,中央銀行はもともと統合政府の一部だと考えている。私は,それには反対である。

 中央銀行は,もともと「銀行の銀行」であって,銀行の原理によって動いているものである。中央銀行当座預金も中央銀行券も信用貨幣である。信用貨幣であるということは支払い約束だということであり,請求権だということである。現代の中央銀行は中央銀行券を突きつけられて「債務を返済せよ」と言われても金貨や金地金で払うことはない。ここまでは,私はシェアード氏やMMT論者とまったく同意見である。問題は次である。金兌換に応じない中央銀行は,そのかわり,支払い請求が押し寄せることがなく,また人々が中央銀行券を信用せず屑籠に放り込まないようにする必要がある。そのために通貨価値を維持しなければならない。通貨価値を維持するとは,財政支出の過剰によるインフレーションを防止し,景気過熱による物価高騰を抑止し,為替レート暴落によるコストプッシュ的物価高騰を防ぐことである(※1)。これらは,中央政府と区別された中央銀行の本来的使命である。これらの使命は,中央銀行が政府の附属物であることに由来するのではなく,「銀行の銀行」であることに由来する。私はこのように考える。私はこの主張によって信用貨幣論を修正しているのではない。逆である。シェアード氏よりもMMTよりも信用貨幣論を徹底するとこうなるというのが私の見解である。

 確かに現実において,財政政策と金融政策の相互浸透は不可避なように見える。シェアード氏が政治的立場を交えずに述べているだけに,そこは本書に説得力のあるところだ。しかし,通貨価値の維持という中央銀行の本来的使命はもっと重く見ておくべきだろう。

 シェアード氏は,長期的歴史観の提示や政治的価値判断を最小に抑えたうえで,制度とオペレーションを正確に理解する見地から現代の貨幣と金融機構を解説された。そのことにより,信用貨幣論の主張の一部が特定学派に由来するものでなく,むしろ実務の素直な理解によるものであることを明らかにしてくれた。これは本書の功績である。しかし,その同じく制度とオペレーションに徹する見地から来る物足りなさと,ごくわずかに本質論に立ち入ったところでの統合政府論に由来する問題は見過ごしてはならない。今日,財政拡張を主張する政治勢力は数多い。それに対してなすべきことは,財政均衡をあるべき姿として緊縮を主張することではなく,財政支出の在り方について選択し,よく考えることである。財政赤字=中央政府による通貨供給がどのような制約のもとにあるかを踏まえ,どのような水準と内容でこれを実施し,それによってどのように経済を動かすのかを論じるべきなのである。本書にはこの水準と内容への手掛かりはない。ただし,読者は本書を踏み台にすることで,手掛かりを見つけるために自分の頭を一つ高い視点に置くことができるだろう。

ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年。

https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210432/

2025年9月27日:読み取りにくい箇所に言葉を補った。

2025年7月4日金曜日

河野龍太郎『日本経済の死角 収奪的システムを解き明かす』筑摩書房,2025年の核心的主張

 河野龍太郎氏の著作は,多方面に目配りが行き届いている。しかし,その分だけ叙述は錯綜し,言いたいことは必ずしもわかりやすくない。そのため,内容の核心的なすじみちを読者の側が読み取ることが必要である。

 前の前の著作『成長の臨界』は学部ゼミで読んだが,個々のパーツは大変勉強になる一方,全体のメッセージは,著者自身が要約に失敗しているのではないかと思うところがあった。著者自身は,腹を膨らませすぎて破裂したカエルのたとえで,物質的成長至上主義に向かっている政策とシステムが,現代のテクノロジーと合わないのではないかというメッセージを送っていたのだが,それが著作自体の叙述の中身とは合っていないように思われた。

 対して今回の『日本経済の死角』は,著者の自己認識が叙述とぴったり合っているように思う。そのテーマは,サブタイトルが示すとおり「収奪的システムを解き明かす」である。強引に言うならば,本作が言いたいことは,167-168ページの以下の記述に集約されると思う。

 「長期雇用制の枠外にいて,定期昇給の恩恵もほとんど受けることができなかった人々は,過去四半世紀の間,属人ベースでみても,実質賃金の増加が限定的だったことは,これまで詳しく見てきた通りです。それでも何とか暮らしてこられたのは,コミュニティの存在など,様々な要因があるとはいえ,消費者余剰の大きな日本では,あらゆる財サービスが割安に供給されていたことも大きく影響していたと思われます。
 しかし,その前提は2022年からの円安インフレを機に大きく崩れました。価格ばかりが上がって,消費者余剰が著しく低下し,賃金の引き上げが追いついていないから,人々の暮らしが脅かされています。それが,日本でもアンチ・エスタブリッシュメント層が形成されつつある原因ではないでしょうか」。

 収奪的なのは,富と所得が広く行き渡らずに大企業に集中するシステムであり,そうして停滞する市場を悲観した大企業が国内で設備投資をせずに守りの経営に走るシステムである。本書の核心はこのように読むべきだと私は思う。


河野龍太郎『日本経済の死角 収奪的システムを解き明かす』筑摩書房,2025年。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076717/




2025年6月28日土曜日

「発展途上国鉄鋼業における技術・生産システム間競争:ベトナムにおける共英製鋼の事業展開から考える」が『産業学会研究年報』第40号に掲載されました

  拙稿「発展途上国鉄鋼業における技術・生産システム間競争:ベトナムにおける共英製鋼の事業展開から考える」が『産業学会研究年報』第40号に掲載されました。昨年発表した「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」とあわせて,共英製鋼のベトナム進出2部作が完結しました。いずれもダウンロードいただけます。

 もともと,2020年度から始まった科研費でベトナム鉄鋼業における外資の役割を取り上げる予定でしたが,コロナ禍突入によってベトナム渡航ができなくなり座礁しかかりました。そこで共英製鋼に事例を絞って日本での聞き取り,資料収集から始め,2023年2月には念願の現地調査も実現して,どうにか完成へと向かいました。

 現地での生産拠点第1号のビナ・キョウエイ・スチールには2000年8月から訪問を続けてきましたので,もう25年になります。ずいぶん時間がかかってしまいましたが,第1論文では,巨大高炉メーカーでなく,中堅電炉メーカーの共英製鋼がベトナム事業を定着させられたことの意義を,また第2論文では,地道に現地定着を目指した同社が,異なる技術を用いたローカル企業に思わぬ挑戦を受けたことの意義を解明できたと思います。

 必ずしも成功の側面ばかりを描いたわけではないにもかかわらず,快く調査に応じてくださった共英製鋼株式会社には深く感謝しています。


第2論文

川端望「発展途上国鉄鋼業における技術・生産システム間競争:ベトナムにおける共英製鋼の事業展開から考える」『産業学会研究年報』第40号,産業学会,2025年3月,37-55頁。
https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/50024237
※学会の許諾をとってPDFを公開しています。

第1論文

川端望「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」『アジア経営研究』第30-1号,アジア経営学会,2024年8月,77-92頁。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.30.1_77



2025年6月6日金曜日

市川浩『“技術論”の源流を訪ねて―1930年代ソ連における“マルクス主義的技術史”の探求―』広島大学出版会,2024年を読んで

  市川浩教授とは若いころに研究会でお会いしただけであり,その時もふたこと,みこと以上の会話はなかったように思う。しかし,本書のあとがきを読んでみると,私はこの方の数年遅れで同じ道を,もっとぼんやりしながら歩いていたような気がする。

 私は市川教授に7,8年遅れて技術論論争史に出会って夢中になり,彼が単位取得退学(のちに学位取得)した3年後に大阪市立大学に職を得て,彼が学んだ加藤邦興ゼミに1年ほど出席させていただいた。同大学に在職中には,市川教授の同僚である中峯照悦『労働の機械化史論』の学位論文審査委員に選出されたのでこれを精読して「マシーネ」と「マシネリ」の違いを初めて認識した。博士でない駆け出し教員に審査をさせるのも無茶であったとは思うが,おかげで勉強になり,中村静治『技術論論争史』に次いで私の技術論に影響を与えた本となった。その後,私は技術論を軸にしながら産業論を研究したが,技術ー生産管理ー技能の関連をどう整理すべきなのかがわからずに苦労した。その観点から注目したのが,転向後の相川春喜の技術論であった。唯物論研究会時代から転向後の戦時期,そしてシベリア抑留から帰国した後までの相川技術論について論じたいと思いながら果たせないうちに,市川教授は本書で技術論の源流にたどり着かれていた。

 さて本書は,技術を「労働手段の体系」と規定する説が,1930年代のソビエト連邦において,他の見解を政治的に圧殺しながら定式化されたものであることを明らかにしている。これは薄々予想できたことではあったが,実際に起こっていたこと,その具体的な過程を解明したことが本書の大きな功績である。技術論には,その源流において見落とされ,断絶された分岐があり,また「大テロル」を正当化したマルクス・レーニン主義,ありていに言えばスターリン主義の呪縛を受けていたのである。

 ところで,圧殺されたのが,労働手段体系説による技術史に物質文化史を対置する見解であったことは,私にとっては示唆的である。物質文化史研究は,いわば人間の実践を対象とするものだからだ。

 マルクス体系に沿って技術を考える際に,「手段」概念は,技術が社会において果たす役割を,技術進歩がかえって労働者を抑圧する問題を含めて,科学的に研究する道を開いたことは間違いない。また「実践」概念が,客観的条件に規定されながら主体的である人間の営みを解明する手掛かりになったことも間違いないだろう。そのように考えるならば,両者にはそれぞれ意義があるはずだ。

 私自身は,マルクスの理論構造に沿って理解し,産業論を研究し,まとまった理屈に沿ってものごとを論じるためには,手段概念の方が優れていると考えてきた。そうして鉄鋼業などを研究してきた。実践概念は技術でなく労働そのもの,例えば研究開発労働の規定にふさわしいし,理論としてまとまりがなく話が拡散しすぎると考えてきた。例えば星野芳郎氏の鉄鋼技術論をそのように批判的に評価してきた。だからといって意識的適用説を階級的敵であって反革命でブルジョア的だとも思わないし,スターリン主義の所産だとも思わない。繰り返すが実践概念は研究開発労働の規定としては意味があると思う。

 しかし,マルクス主義の歴史において,技術の手段概念と実践概念は,学問的に競い合う関係に入らなかった。相川春喜が定式化した「労働手段体系説」と武谷三男が提唱した「客観的法則性の意識的適用説」の相克において,技術を「手段」概念でとらえる見地と「実践」概念でとらえる見地は,通常の意味での学説の違いを超えて,互いを敵視し,根絶しようとする勢いで非難し合った。それはなぜなのか。

 私の限られた学びの範囲で,大まかに言うならば,「手段」概念がマルクス・レーニン主義,ありていに言えばスターリン主義的に理解されたときに極度に硬直的で異端審問的な命題と化すのに対して,「実践」概念はそれに対する解毒剤ないしアンチ・テーゼとしての役割を果たしたのだと思う。本書で論じられたソ連におけるズヴォルィキンの体系説による技術史と,ガルベルの実践概念に立つ物質文化史の関係にも,そのようなところがあったのではないか。戦後日本における技術の労働手段体系説と適用的適用説の関係,さらに言えば民科『理論』派に対する『季刊理論』派,戦後直後の松村一人らに対する主体的唯物論,反映論的芸術論に対する表現論的芸術論,反映論的唯物論に対する実践的唯物論は,みなそのような対立を含んでいたのではないか。やや戯画化して言えば,タダ,モノから出発し,モノを正しく認識しろ,正しい在り方はひとつであって間違うことは許されないという類いの硬直した唯物論理解に対する,実践行為から出発してその契機として認識を位置づけようとすることで,個性や多様な行動の価値を認めさせようとする理解の対抗である。そのような政治的文脈に「手段」概念と「実践」概念が置かれたのである。

 ただ,私はこの対立があったから,反スターリン主義の「実践」概念の方が正しかったと言いたいのではない。問題は,スターリン主義的硬直とそれに対するアンチテーゼという文脈の方だ。この文脈を取り去ってみれば,根本的には技術には「手段」概念の方が妥当すると考えているのである。それだけに,この,政治的文脈ゆえに起こった相克に納得がいかないのである。

 この相克は,具体的にはどのような理論的契機により,またどのような歴史的経緯により生じたのか。マルクス的技術論に潜む理論的可能性と危険とは何なのか。これらは,本書の到達点に立った上で,さらに追求されるべき課題のように思う。


出版社のページ
https://www.hiroshima-u.ac.jp/press/59

何と,本書は丸ごとオープンアクセスになっている。
https://doi.org/10.15027/55809

2025年5月28日水曜日

木村幹『国立大学教授のお仕事--とある部局長のホンネ』筑摩書房,2025年を称賛する

 自分の日常をそのまま本で読むというのは,めったにない体験である。書かれていることがほぼ100%理解できる。自分が書いたのだろうかと錯覚するほどである。だが,よく考えると違う。もし私が書けば,だらだらと5倍ほどの量で,およそひとさまの目に触れさせることができないような内容となってしまうことは確実であろう。私は,本書が真実の塊であることを知っているが,サブタイトルだけには多少の嘘があるのではないかと推定する。ホンネを書いたらこれではすまないと思うからである。怒りと嘆きを鎮め,筆致を抑制し,読者に伝えるべきことのみを伝えようとしてこれを果たした,木村教授の理性を心より称賛したい。

木村幹『国立大学教授のお仕事--とある部局長のホンネ』筑摩書房,2025年。


2025年5月19日月曜日

博士課程に留学生の割合が高いのは,単に日本が「博士冷遇社会」だからである

 博士課程で留学生の割合が高いのはけしからんという議論が,一部から流されている。しかし,これは外国勢力の陰謀でもなければ,大学経営陣が外国におもねっているからでもない。単に日本が「博士冷遇社会」だからなのである。

 これについて冷泉彰彦氏が「博士課程の奨学金受給者の約4割が留学生、問題は日本社会の側にある」という記事をNewsweek4月2日付に書いておられるので,手掛かりにしよう。冷泉氏が,「人文系などの分野でも、博士課程に圧倒的な割合で留学生が学んでいるのです。まるで『東大大学院がジャックされている』ように見えるこの現象ですが、問題の本質は、留学生の側にあるのではありません。そうではなくて、「日本人学生が人文系の博士課程に行かない」という現象があるからです」というのはまったく正しい。ただし,「留学生が増えたのではなく、日本人が行かなくなったのです」というのは,やや不正確である。そこで補足したい。実際には,

「博士課程院生を増やせと国に言われて枠を増やしたら,日本人が来ないで留学生が来た」

のである。理由は簡単だ。

「日本以外の国では,企業も政府も博士課程まで含めて学歴を認める社会だが,日本の企業と政府は,理工系は修士,人文社会系は学部までしか学歴を認めないから」

である。次第に変化して,徐々に理工系の博士,人文社会系の修士もみとめられるようになってはいるが,なお厳しい。

 日本で暮らしていると,世の中から博士は「世の中のことを知らないから」「専門のことしか知らないから」「使えない」云々という声が聞こえてくる。もちろん,本学卒業生を含む社会人の方々の意見は尊重したい。しかし,これに限っては,少なくとも普遍的な真理ではないと抗弁せざるを得ない。もっと言えば,これはむしろ国際的に超超マイナーな意見である。

 日本以外では,企業でも公的機関でも博士は修士より,修士は学士より好待遇にする国が多い。つまり多くの諸国は普通に学歴社会である。しかし,日本は違う。学歴社会と言われながら博士を好待遇で雇用しない。単に日本が博士冷遇社会なのである。

 その理由も,もうわかっている。会社も政府も自治体も,専門知識や専門スキルではなく,格好良く言えばチームワーク,泥臭く言えば社風への適応性を重視し,給与が年功的に上がるまでじっと我慢し,長く勤務しそうな人を採用するからである。今日的に言えば,多数の正社員・正職員が「メンバーシップ型雇用」だからである。

 とくに厳しいのは人文社会系である。日本の人文社会系で博士になって,生きがいもあれば給料ももらえる可能性が高いのは,研究者志願の者だけである。だから,昔は人社系の大学院は,定員通りに入学などさせなかったし,そもそも定員に足りる志願者などいなかった。ところが日本政府が1990年代に「これからは大学院出身者の社会だから定員通りに入学させよ」と指示した。大学,とくに国立大学は逆らうわけにもいかないので大々的に院生を募集し,定員を増やし,実際に定員通りに入学させるようにした。しかし,日本社会で暮らそうとする日本人は,研究者以外は博士課程まで進んでも良いことがないことを知っている。よって研究者志願者以外は博士課程を志願などしない。しかし,将来は母国で暮らそうとする留学生からすれば,博士を取得すれば企業からも好待遇を与えられるとわかっている。だから,日本人でなく留学生が博士課程にやってくるのである。ここには,外国勢力の陰謀も何もない。単に日本社会が博士,とくに人社系博士を冷遇するからこうなるのである。

 もちろん,まったく就職できないわけではない。そして日本社会も少しずつは変わっている。当研究科においても,長年の努力の結果,修士は問題なく企業に就職できるようになった。博士も,まず理工系では,製造業やIT産業の技術者などへの就職の道は,開けつつある。それに比べると相当に範囲は狭いが,人社系でも専門性を認めた採用を行う傾向が,相対的に強い業界もある。証券,商社,コンサル,シンクタンクなどである。最近ではデータサイエンティストが必要な業界が加わる。ジョブ型採用を行う外資系企業へも行ける。また,従来の慣行にとらわれない新たな雇用慣行を採るベンチャーもあるし,大企業でもベンチャーから成長した若い会社もある。当ゼミでは,私が副指導教員をした日本人学生が,アフリカの経済開発を研究して博士号を取得したたうえで,大手商社に就職した例がある。他のゼミでも,近年,eコマースやプロスポーツに従事する企業に博士が就職した例もある。しかし,まだまだ日本社会では人社系博士の就職は厳しい。

 何といってもこれこそが,博士課程において留学生が多数となる理由なのである。これが嫌だとかけしからんというならば,政府と企業が,諸外国のように学士より修士,修士より博士を厚遇して欲しい。日本だけ特別なことをせよというのではない。諸外国と同じにするだけでいいのだ。そうすれば,日本人学生も喜んで博士課程に進学するであろう。

2025/5/24 字句修正を行いました。


2025年5月13日火曜日

劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年を読んで

 劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年。Ⅰの『円』を文庫で読んだので,何となくⅡも文庫かと思い込んで冊子体を注文したら四六判だった。

 劉慈欣の作品はどれもこれもスケール観が圧倒的だ。しかし,舞台装置だけで話を運んでいるわけではない。例えば,本書のいくつかの作品では,作者が比較的はっきりと人間を信頼しようとしている気配が感じ取れる。ある作品の中で語られている「ひょっとしたら,完全に希望を失ったとまでは言えないかもしれない。自分たちができることをしなければ」という台詞は作者の声でもあろう。しかし,科学・技術がどこまでも発展することについては,作者はそれほど楽観的でもない。いくつかの作品では,純粋に行き着くところまで行こうとする科学・技術にとらわれるならば,人間は生きられないであろうことも示唆されている。両義的でもあり,SFの古典的問題に正面から挑んでもいて,それでいて新鮮である。

出版社サイト
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000614709/



2025年5月5日月曜日

ホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)はデジタル札束だった

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)について,これまでどうしてもわからなかった謎が解けたように思う。何種類かの実証実験がなされている「ホールセール型CBDCを使って国際決済を行う」という試みは,貨幣論的にどういう仕組みになっているのかということだ。

 これまで私は,リテール型CBDCが「トークン型」つまり中央銀行券のデジタル化,ホールセール型CBDCが「口座型」,つまり中央銀行当座預金の最新IT技術による高度化だと思っていた。しかし,「口座型」では対外支払いに使えそうにない。中央銀行当座預金で対外送金するには,外国銀行が自国中央銀行に口座を持つことになり,それはいくらなんでもありそうにないからだ。

 しかし,この思い込みがつまずきのもとであった。国際決済銀行(BIS)の分類によれば,国際決済に用いるホールセール型CBDCも「トークン型」,つまり現金,中央銀行券がデジタル化したものだったのある。そう考えると,対外支払いも合理的に説明できる。

 簡単に言えば,「銀行間で国際的なプラットフォームを築き,その上で,海外の銀行にデジタル札束を送って払う」のである。ここでは,「堅固で安全で高速なプラットフォームさえできれば(まあ,それが現実には難しいのだが),デジタル通貨の取引コストは低い」という特徴がいかんなく発揮される。

 CBDCでは,プラットフォームの上で,ある人(銀行)が持つ残高を,別な人(銀行)の残高に移すだけで国際送金ができる。これなら,紙での現金取引,つまり札束をトランクに詰めて飛行機や船で運ぶよりも手間暇がかからない。また,ことによると口座振り込みよりも簡単で安上がりかもしれない。とくに,国際的な銀行間送金はコルレス・バンキングという仕組みが必要で,国内取引の口座振り込みよりもはるかに手間も時間もお金もかかる。国内では,銀行間の決済を,どの銀行も共通に持っている中央銀行口座をつかって預金振替で行っている。世界経済には世界中央銀行はないので,これが行えないのだ。しかし,CBDCというデジタル現金を使えば,デジタル現金をプラットフォーム上で送ればいので,簡単になるということだ。

 国境を越えてやりとりされるデジタル札束が,唯一,紙の札束と違うのは,プラットフォームに参加する銀行間でしか流通しないということである。だから銀行が,受け取った外貨建てのデジタル札束を普通の取引に使う際には,自国の紙の札束や中央銀行当座預金に変換する必要がある。その際には,国内通貨に両替しなければならない。

 実用化までは紆余曲折があるだろうが,ともあれホールセール型CBDCを用いた国際決済の骨格は以上である。特徴も問題点も,ここを出発点として考えればよいはずだ。

<参考>

Committee on  Payments and Market Infrastructures Markets Committee, Central bank  digital currencies,  Bank for International Settlements, March 2018.






2025年4月23日水曜日

なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保とうとするのか:管理通貨制における最終決済手段としての中央銀行マネー

 トランプ大統領はFRBの独立性などお構いなしに金利引き下げを要求し,議長の解任の可能性にまで言及している。景気が冷えそうなのは自らのでたらめな高関税のせいなのに,責任転嫁も甚だしい。絶対自分が悪いとは認めたくないのだろう。

 ところで,中央銀行にはなぜ独立性が必要とされるのだろうか。よく知られているのは,通貨価値の安定を保つ必要があるという理由だ。これは正しい。しかし,なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保たねばならないのだろう。また,なぜ保とうとするのだろうか。

 それは管理通貨制のもとでは,中央銀行が発行する貨幣(中央銀行マネー)が通貨システム全体を支える最終決済手段だからである。以下,やや複雑だが説明しよう。

 現代経済では,多くの支払いが異なる銀行の間で発生する。銀行間の支払い決済は,現金輸送車で札束を運ぶ例外的な事態を除き,中央銀行当座預金を使用して行われる。中央銀行当座預金がなければ口座振替は同一銀行内でしか行われなくなり,経済はマヒする。したがい,中央銀行当座預金が通貨価値を毀損されないことは決定的に重要である。

 またすべての現金は,銀行預金を預金者が引き出すことによって現金流通界に供給される。銀行はこの引き出しに耐えるために,中央銀行券を手元に持っていなければならない。この中央銀行は,銀行が準備預金(中央銀行当座預金)を引き出すことによって銀行の手元にわたる。では中央銀行当座預金はどこから来るかというと,中央銀行が民間銀行に信用を供与することによって設定される(融資される場合もあるが,現在では中央銀行が民間銀行から国債を買い入れるオペレーションによって供給される割合が高い)。ここでも根源は中央銀行当座預金であるから,その通貨価値が損なわれないことは決定的に重要である。

 銀行間システムでは中央銀行当座預金が最終支払い手段である。現金流通界では,中央銀行券が最終支払い手段である。しかし,その通貨価値は金属貨幣と異なり内在的な価値に基づいていない。これらはいずれも信用貨幣であり,中央銀行債務であるから,その価値を支えるのは返済能力である。中央銀行は債務返済を迫られないのだろうか。銀行は,中央銀行に要求して,中央銀行券を中央銀行預金に換えることや,その逆はできる。しかし,「そんなものじゃだめだ。管理通貨制など信用できない。金か実物資産で払え」と中央銀行に迫ることはないのだろうか。

 実は,通貨価値さえ安定していれば,こうした要求を中央銀行に突きつける銀行はない。なぜならば,銀行は,中央銀行当座預金で他の銀行から,あるいは中央銀行券で経済界の誰かから,価値の安定した資産を買えばよいからである。こうして,最終支払い手段が中央銀行の信用貨幣であって金でなくても不都合はなく,通貨システムは回っていく。中央銀行は,準備資産を持たなくてすら成り立つのである。

 しかし,悪性インフレや物価の乱高下によって通貨価値が毀損されれば別である。中央銀行券が紙くずに準じた扱いとなり,中央銀行当座預金が意味のない電子信号に準じた扱いになれば,通貨システムは崩壊するだろう。中央銀行は,何か価値の認められる別の資産を持ち出して支払いに応じないと,倒産の憂き目を見るかもしれない。

 このように,中央銀行が発行する当座預金と銀行券が最終決済手段であるためには,悪性インフレや物価の乱高下が起こらないことが必須条件である。したがい,中央銀行は,通貨価値を安定させる強力な動機を持つのである。


(専門的補足)
 厳密に言うと通貨価値の低下には,1)金生産費の低下など正貨の内在的価値の低下,2)正貨に対する代表価値の低下,3)商品に対する購買力の低下,の三つの意味がある。1)は管理通貨制ではほぼ意味をなさない。2)が損なわれるのは財政赤字によって代用貨幣が一方的に増加する場合だけである。3)はその場合に加えて,景気過熱によって物価が一時的,実質的に上昇する場合にも生じる。なので,FRBが金利引き下げに慎重だというのは,3)を防ごうとしているからだと言っていい。国債買い入れに慎重になるとすれば,それは2)を警戒するからである。


(詳細こちら)
川端望「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」https://doi.org/10.50974/0002003359

2025年4月21日月曜日

改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない

「現場の知恵」で作業標準を無視した作業方法を勝手に実行したら大問題になるという記事が,『日経XTECH』に掲載されていた。2ページ目以後有料記事で失礼。

 当たり前のようだが,実は重要な含意を持っている。

 適切な改善方法は,もちろん,正式の提案による作業標準の書き換えである。そのためには,もちろん正規の手続きを踏み,作業員の意見を汲んで(名称は企業によりさまざまだが)職長が提案し,その上位の会議体が承認していなければならない。これまでトヨタを筆頭とする日本企業が行ってきた,生産現場での改善活動も,もちろんこのようなものである。

 だからどうしたと人は言うだろうが,この話の含意は「改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない」ということである。

 QCサークルなど,正規業務以外に,労働時間外に「自主的に」行うものが主力なのではない(もっとも,いまではさすがに労基法逃れではないかと突っ込まれるので,正規の時間とみなしている会社も多い)。そうではなく,正規の仕事の中に改善活動があるのである。

 また「現場労働者の知恵」や「現場の作業員の知的熟練」だけを取り出してほめたたえるのも,現場に寄り添っているようでいて,実は間違いだということである。なぜならば,改善活動は,「職長とその上位の管理階層が」正規の改善手続きを回していくことによって成り立っているからである。この記事が指摘するように,現場で勝手に作業方法を変えたのを職長とその上位の管理職が把握できないというのは論外である。逆に,管理職と職長は状況を把握してはいるが,組織が硬直化してしまい,「改善活動など面倒だし評価されないからやらない」という態度になってもだめである。時にその両方が生じることもある。これは工場に限ったことではないので,オフィスのことで覚えのある方もいるだろう。

 「正規の仕事の一部として,作業員の意をくみながら,正規の改善手順を,管理階層と職長が懸命に回す。具体的には相当な頻度で作業標準を書き換える」。これが改善活動である。現場の創意工夫を受け止めて改善することと,組織の決められたルールを守ることを両方実行すれば,手間暇は恐ろしく増える。それでもやるところに難しさがあり,意義もあるのである。

 その前提として,こうした改善に,少なくとも正社員の工場労働者は参加してくれるような労使関係がある。そのような労使関係が珍しく,多くの国では容易に実現できなかったから,ひところ,日本の改善活動には秘密があるように思われたのである。

 なお,生産革新を目指すにあたり,こうした改善活動ではどうにもならないことが,この25年くらいは増えているのではないかという問題は,もちろん別に存在する。

古谷賢一「作業標準を無視した「現場の知恵」が全数回収を招いた企業」『日経XTECH』2025年4月11日。



クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...