山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年について。日本的経営等についての周辺的な話も交じってはいるが,貨幣制度改革論を中心とした本であり,MMTを批判し大きく異なる通貨改革案を正面から主張しているので読んでみた。
1.主張
著者たちは以下のことを主張している。
1)現在の貨幣システムは,大部分を債務貨幣が占める債務貨幣システムである。
2)債務貨幣システムのもとでは不況やバブルを克服できないし,累積した債務の利払いを通して富が銀行資本に吸い上げられる。
3)貨幣システム改革の決め手は公共貨幣システムである。
著者の言う債務貨幣とは,より一般的な言葉で言えば信用貨幣である。また著者の言う公共貨幣とは,債務ではなく資産とみなされる貨幣であり,日本政府の発行する硬貨はこれに当たる。より一般的な言葉で言えば,政府貨幣や,その電子化されたものである。ただし,資産と見なされると言っても固有の価値を持つ商品貨幣ではなく,古典的用語では価値標章,日常用語で言えばシンボルとしての貨幣である。
著者の主張する公共貨幣システムとは,簡単に言えば次のようなものである。
A)日本銀行を財務省と合併させて政府機関の「公共貨幣庫」とする。つまり,名実ともなる統合政府論である。
B)公共貨幣は政府が創造する,政府にとって債務でなく資産となる通貨である。つまり,中央銀行発行の信用貨幣を廃絶し,シンボル貨幣としての政府貨幣に置き換える。
C)民間銀行の法定準備率を100%とする。つまり,準備金の範囲でしか貸し出せないようにし,無から貸し付けて預金を生み出す信用創造を禁止する。ナローバンク論の一種である。
これによって,バブルは根絶され,利払いによる銀行の支配もなくなり,通貨発行がゼロサム(MMTの言う「誰かの負債は誰かの資産」)ということもなくなって,通貨発行の度に国全体の金融資産が増え,通貨は民主主義的統制のもとに置かれる,と言うのである。著者は,これが大恐慌下でアービング・フィッシャーらによって提案された「シカゴ・プラン」を継承するものだと自負している。だから,経済学的にはシカゴ学派に近いのだが,銀行の利益と権力を排除して民主主義を拡張することを志向しているためか,リベラル側の社会活動家でも肯定的に見る人がいるようだ。
2.批判
(1)デフレ不況を引き起こする金融システム:信用創造の禁止は,実体経済が要求する通貨供給を不可能にする
まず重要なことは,著者が,現実の貨幣システムが信用貨幣システムだと認めており,現実の説明としては主流派経済学の外生的貨幣供給論より,MMTを含む信用貨幣論の内生的貨幣供給論が正しいと認識していることである。このため,現実の説明の部分は私にも抵抗なく読めた。
しかし,著者の提案する公共貨幣システムには問題があると思う。最も大きな問題は,信用創造の禁止により,民間実体経済の要求に対応した柔軟な通貨供給が不可能になるということである。
現実の信用貨幣システムにおいて,政府の財政支出を別とすれば,民間経済に通貨が供給されるのは,企業が銀行から借り入れを行い,銀行が無から貸付金と預金を創造するからである。それに対応した一定の準備金は中央銀行が銀行に供給する。これが唯一のルートである。こうして預金通貨が供給され,それが引き出されると中央銀行券となる。これらの通貨は,流通に不要となれば預金やたんす預金として遊休することもあるが,企業が倒産などしなければ,結局は,貸付金の返済を通して流通から出て消滅する。経済成長とともに財・サービスの流通に必要な通貨が増える時は,主要には貸付けが返済を上回ること,副次的には遊休している預金やたんす預金の流通への復帰によって賄われる。
ナローバンクシステムでは,この機能が果たせない。貸出が準備金の範囲までと厳しく制限されている以上,経済成長に対応した預金通貨が供給されないのである。それどころか,運転資金や決済資金が一時的に不足する際の,支払い手段としての通貨についても供給に弾力性がない。したがって,経済成長期には投資のための通貨供給が不足し,経済危機の際には運転資金や決済資金が不足して,恒常的なデフレ不況圧力がもたらさせるだろう(※1)。
それを防ごうとしたら,政府が公共貨幣を増発して銀行に準備金を供給しなければならないが,政府は基本姿勢としてそれを抑制するだろう。なぜならば,もともとこのシステムは,企業と銀行の取引を通した信用創造がバブルを生むから抑制するという思想で設計されているからである。銀行の貸出量は厳格に制限される方向で運用されるだろう(※2)。
「手形を振り出し,その手形を与えて貸し付ける」ことによる信用貨幣の伸縮性を否定し,シンボル通貨で金融システムを運用しようとすると,確かにバブルは防げるだろうが,肝心の実体経済が必要とする通貨供給が満たされず,不況を引き起こしてしまうのである。
(2)インフレへの歯止めがない財政システム:財政赤字も利払いもなくなるが支出の歯止めもなくなる
さて,公共貨幣とナローバンクの下では,経済はデフレ不況気味に推移するだろう。金融システムでの拡張はナローバンクの趣旨からいって限度があるだろうから,デフレ不況に対抗しようとすれば財政を拡張するよりない。すると,今度はインフレの制御が,現行の信用貨幣システムよりも難しくなるし,公共貨幣論は主流派経済学やMMTよりもそれに対して脆弱である。これが副次的な問題である。
財政システムにおいては,信用貨幣であれ公共貨幣であれ,課税と支出のバランスによって追加供給量が外生的に決まることは同じである。しかし,公共貨幣システムでは金融システムが実体経済の通貨要求に柔軟に反応できない分だけ,財政拡張の必要は強力になる。また,少なくとも本書では,公共貨幣論は財政支出の質に関する理論を示していない。例えば,インフレにならないように財の購入より失業している労働者の雇用に重点を置くと言った話がない。そして,公共貨幣は政府の決定一つで資産として発行できるので,財政赤字もなければ利子を銀行に持っていかれる心配もない代わりに,通貨価値を維持する見地から通貨供給量をチェックするしくみもない。これでは公共貨幣の信認は信用貨幣の信用より揺らぎやすく,通貨価値下落=インフレの圧力は現行システムよりもはるかに強くなる。インフレなき完全雇用実現への道は遠いであろう。
(3)通貨供給の中央集権化による硬直性
以上のように,著者の主張する公共貨幣システムとナローバンクは,金融システムとしてはデフレ不況を促進するバイアスを持ち,それを補おうとすると財政システムがインフレ促進バイアスを持つ。そのため,マクロ経済の問題を何ら解決しないと,私には思える。
著者は,政府・公共貨幣庫に対する民主主義的統制と効率的行政によって,必要なだけの公共貨幣を政府が創造し,準備金不足にも対応すれば,財政が膨張しすぎないようにコントロールもするのだと主張するのかもしれない。しかし,準備金供給に関する政府の委員会決定や財政に関する年次での国会での議決だけに通貨供給を委ねるのはあまりに中央集権的であり,日々の企業活動に対する柔軟な反応を期待できない。いかに銀行の行動に問題があろうとも,資本主義経済のままで改革を行うのであれば,銀行による,私的で分権的な預金通貨の供給量調整は認めざるを得ないであろう。率直に言って,公共貨幣システムでの通貨供給の硬直性は,シカゴ学派に由来する提案にもかかわらず,集権的計画経済の硬直性に類似していると思う(※3)。
(4)公共貨幣論の幻想はどこから生まれるか:信用貨幣システムへの不信
なお,公共貨幣論が有効に見えることがあるとしたら,それは現実の信用貨幣システムが機能不全になっている瞬間を切り取り,それと公共貨幣システムを対比すると後者の方がましだと思えるからである。具体的には,世界大恐慌下の信用収縮を前にすれば,必要な貨幣を民主国家が自ら供給できればこの事態を解決できるかのように見えるだろう。シカゴ学派が,通貨供給量の確保を求めてシカゴプランを提示したというのはこの文脈でであろう。またバブル経済とその崩壊を前にすれば,経済を不安定化させる信用創造がない仕組みの方がよいように見えるだろう。1980年代以来,ナローバンク論が時おり唱えられる理由はここにあるだろう。しかし,これは錯覚であり,政策提案としてはすりかえである。公共貨幣システムは,政府介入によって大不況の時に通貨供給を緊急に増加させたり,バブルを制度的に起こりにくくすることだけはできるかもしれない。それはそれでよい。しかし,通貨システムは,非常事態に対処できればよいというものではないし,バブルさえ起こらなければよいというものでもない。恒常的に多方面にわたって機能するかどうかが重要なのである。公共貨幣システムは,金融システムにおいては信用を収縮させてデフレ不況を引き起こす傾向を持ち,これを反転させようと財政拡張を行えば供給過剰=インフレになるものであり,機能しないであろうと,私は考えるのである。
3.MMT批判のインプリケーション:銀行改革の課題
さて,批判としてはここまでだが,本書の批判を通して浮き上がってくる理論的インプリケーションがある。それは,本書のMMT批判が,批判としては重要な論点を含んでいることである。
第一に,利払いの問題である。著者は,MMTが利付き債務の設定を通して貨幣が供給される信用貨幣システムを肯定したまま,マクロ経済政策の改革を行なおうとすることを批判する。財政赤字の累積とともに国債の利払いもまた累積していき,銀行をもうけさせるだけではないかというのである。これはMMTに対する誤解であって,MMTは主流派マクロ経済学とともに,経済成長率が金利を上回ることは必要だと認めているのである。しかし,この批判は,MMTの制約を示してはいる。つまり,MMTは雇用創出を何より重視するのであるが,利払いを賄う程度の経済成長は実現しなければならないし,利子と言う不労所得が発生することは認めざるを得ないのである。MMTは,その面では革命的でなく穏当なマクロ経済政策の改革論なのである。
第二に,バブルの問題である。著者は,MMTは銀行の信用創造に手を付けないからバブルを防げないではないか,と批判する。これは,ある意味もっともな批判だと私は思う。MMTは,成長率と金利の関係,インフレ,為替レート下落,そしてバブルを指標として財政支出をチェックすべしとする。このうち,バブルの発生を防止する手法の開発が最も難しいであろう。実体経済の好況とバブル,実体経済のための通貨供給と金融的流通に回る通貨供給を区別してコントロールしなければならないが,両者を区別して可視化し,制御することは,確かに難しいからである。この問題への有効な対処を開発することは,MMTにとって深刻な課題であろう。その意味では,著者の批判は批判として成り立つ。
第三に,より根本的に,通貨発行量に関する意思決定の問題である。著者は,MMTが,銀行と企業が信用供与に関する私的意思決定を認めていることを,バブルと不況期の通貨収縮を生むものとして批判する。確かに,MMTはこの私的意思決定自体はやむを得ないものとしている。その点でもMMTは革命的社会改革を唱えるものではなく,資本主義の下での現実的マクロ経済政策を唱える理論であることは確かである。著者がこれを民主主義の見地から批判するのは,政治論として一理あるだろう。
このように,本書はMMTに対して,銀行批判,具体的には不労所得批判,バブル批判,通貨供給の私的意思決定批判が弱いではないかと批判し,それによって,MMTが根本的な銀行改革案を持つものではないことを浮き彫りにした。MMTや他の政策論が解かねばならない問題がここに残っていることが明らかになった。
しかし,著者による対案は,問題を解決せずに悪化させるものであった。バブルは食い止めても,肝心の実体経済への通貨供給を危うくするものであった。政治的に議会の権限を強めるかもしれないが,経済を機能させえないものであった。信用創造の全否定は,いわばお湯といっしょに赤ん坊を流すものだったのである。不労所得を減らし,バブルを失くし,民主的意思決定領域を広げるという,政治的に魅力的に見える提案であっても,必ず経済的に望ましい結果が得られるとは限らない。公共貨幣論は,地獄とまででは言わないが,苦難への道を善意で敷き詰めるものであった。同様のことはどのような通貨改革論にも起こり得るのであり,規範的に経済政策を論じる際に,十分心しなければならないことであろう。
※1 著者らの場合は異なると思うが,ナローバンク論の中には,企業は銀行から借りられなくとも,証券発行や投資銀行経由の金融仲介で資金調達できるだろうという意見がある。これはとんだ勘違いである。証券購入や投資銀行経由で投資しようとしている投資家のお金はどこから来たのか。もともと,経済のどこかで,どの時点かで,企業が銀行から借り入れたから存在しているのである。信用創造を統制すれば,証券投資に回るべき遊休資金もやがて枯渇する。
※2 政府がデフレ不況を防ごうと,節を曲げて銀行への準備金供給を増加させるとどうなるだろうか。その場合,不況から脱出できるかもしれないが,当然バブルの可能性も再燃するので,何のために公共貨幣システムに移行したのかわからなくなる。
※3 本書が述べているわけではないが,準備金増減については,裁量的に調整するかわりにミルトン・フリードマンが通貨供給量について主張した「X%ルール」のようにルール化してはどうかという意見があるかもしれない。「X%ルール」は,公共貨幣システムでも信用貨幣システムでも,借り入れ需要を「伸び率X%」に抑制するためには有効である。つまり,景気過熱,悪性インフレ,バブルを抑制する際には有効であろう。マネタリストが1970年代に勢いを増したのももっともであった。しかし,借り入れ需要が弱いときに通貨供給量を「伸び率X%」まで増やそうとしても無理である。企業に借り入れ意欲がなければ準備金が積み上がるだけに終わるだろう。アベノミクス期の量的金融緩和と同じである。なので,公共貨幣システムがいったん景気をデフレ不況に冷え込ませてしまい,借り入れ需要が低迷すると,これを「X%ルール」で救うことは不可能である。