浜田宏一教授インタビュー。いろいろ考えるべきことはあるが,いまさら浜田教授ご自身を批判してもあまり生産的ではない。ここでは,アベノミクスはトリクルダウン狙いではなかったという主張に批判的にコメントするとともに,その一方,賃金を抑圧したのはアベノミクスではなかったことにも注意を促し,アベノミクス批判派に対しても問題提起したい。
アベノミクスがトリクルダウン政策であったかどうかを考える時に,二つの次元から評価すべきことに注意が必要である。
1.アベノミクスとは株高・円安誘導策であった
一つは,安倍首相・黒田日銀の合作としての量的・質的金融緩和策は,国内需要より先に輸出と株価を回復させることを狙ったものだったということである。
量的・質的金融緩和の効果として,日銀が公に想定していたのは,物価上昇の予想が高まることによって実質利子率が低下し,投資が活発になることであった。しかし,それはゆっくりと,わずかに,2014年の消費税増税でくじかれるまで起こったに過ぎなかった。それは当時の岩田規久男副総裁も認めていることである(岩田, 2018)。その代わりに,2012年末からの半年で直ちに大規模に起こったことは,円安と株高であった。円安と株高によって,輸出企業と,株式投資に手を出せる機関投資家,大企業,富裕な個人投資家は利益を得たのである。政治家や官僚は「近隣窮乏化政策」の批判を恐れて円安狙いを公言しなかったが,そう期待していたことは明らかである。またアベノミクスのブレーンの中でも高橋洋一氏は金融緩和が円安・株高を呼ぶのだと論文で説明していた(高橋,2014)。
まず輸出企業と株式投資家が儲かる。そこから先はその後だ。アベノミクスがこのようなものであったことはまちがいない。
2.内需拡大策は,うまくいったとしても企業利益優先策であった
次に,日銀が説明したような内需の拡大に関する問題である。物価上昇予想によって実質利子率が低下し,投資が活発になるというのも,ある意味ではトリクルダウンである。というのは,まず物価が上がるならば,名目賃金は一緒でも実質賃金率は低下するのであり,だからこそ企業利潤率は上昇して投資が盛んになるからである。いわゆる「賃金遅れ」が景気回復に寄与するという理屈である。これはアベノミクスで考え出された巧妙な陰謀ではなく,むしろマクロ経済学が教える通りなのである。政権が「トリクルダウン狙いです」とわざわざいうわけにもいかなかったであろうことはわかるが,「トリクルダウンではない」というのは正直ではなかったというべきだろう。
だからアベノミクスが,輸出と金融的利益を景気回復の先導者としようとしたことや,賃金より先に企業利益の回復を目指していたことは間違いないのである。
3.賃金を抑圧したのはアベノミクスではなく日本的雇用慣行と企業内労使関係であった
ただし,アベノミクス批判者も,安倍氏憎しの余り行き過てはならないことがある。それは,アベノミクスが積極的に賃金を抑圧したわけではなかったということである。むしろ安倍元首相個人は,あまりに賃金が上がらないことに不安を抱き,経済界に賃上げを促した。その流れはいまの岸田首相にまで継承されている。それでも賃金が上がらなかったのは,アベノミクスではなく,日本的労働慣行と企業内労使関係に問題がある。アベノミクスは,賃金を下げたのではなく,賃金が上がらない日本の労働慣行と労使関係を放置した,というのが正確である。
まず,アベノミクス期においては雇用は増加し続けた。しかし,労働者に占める非正規雇用の割合は,それまでと同様に拡大し続けた。また業種別・職種別に見れば医療・介護職をはじめとするサービス業の,相対的に低賃金の職が増えたのである。こうして,日本的雇用慣行に組織され,ジェンダーバイアス付き生活給を曲がりなりにも支給される労働者の割合が減っていった。
また,民間大企業の正規労働者や公務セクターの賃上げも微々たるものであった。それは,バブル崩壊以来,「とにかくコスト切りつめのため賃金を上げない」ことに大企業経営者が血道を上げており,また大企業の企業内労働組合が,企業グループ内の継続雇用(つまり中高年になったら関連会社に出向することを含めた継続雇用)さえ守られればよいとばかり,賃金については経営側の言うことに唯々諾々と従う姿勢を取ってきたからである。
これらのことは安倍元首相やアベノミクス故に起こったのではなく,戦後築かれて来た日本的雇用慣行と日本的企業内労使関係の逆機能が発現した結果なのである。
4.まとめ
アベノミクスを「トリクルダウンでない」と擁護することは,金融機関と大企業の利益を優先したその性格を糊塗するものであり,強い言葉で言えば反労働者的である。その一方,賃金低迷をアベノミクスのせいにすることもまた,日本的労働慣行と企業内労使関係を改革する必要性を見落とすものである。アベノミクス批判者は,安倍氏憎しの余り大企業経営者を免罪し,政治変革を求めるあまり労働運動を再生する必要性を看過するという,本末転倒の見地に陥らないように注意する必要がある。
<参考文献>
岩田規久男(2018)『日銀日記:五年間のデフレとの闘い』筑摩書房。
高橋洋一(2014)「現在の金融緩和に危険はない」(原田泰・斎藤誠編著『徹底分析アベノミクス』中央経済社)。
「賃金上がらず予想外」アベノミクス指南役・浜田宏一氏証言 トリクルダウン起こせず…「望ましくない方向」『東京新聞』2023年3月14日。