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2020年12月1日火曜日

青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」を読み,韓国大法院判決の論理の深刻さを知る

 昨年度のアジア政経学会秋季大会共通論題「東アジアと歴史認識・移行期正義・国際法ー徴用工問題を中心としてー」を基礎とした論文が『アジア研究』66巻4号に掲載された。昨年12月1日に投稿した通り,私はこの大会での青木清報告に強い衝撃を受けていたので,この度,整った論文を読むことができて,たいへんありがたかった。門外漢ゆえに見落としはあるかもしれないが,私はこの青木論文「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」こそ,元徴用工に関する韓国大法院判決の論理を理解するために待ち望まれたものだと思う。実に丁寧かつはっきりと説明してくださっている。この判決が正しいと思う人であれ,間違っていると思う人であれ,この論文は読む価値があると思う。J-Stageで無料公開されている。以下,私なりに要旨紹介するが,関心ある方は実物に当たられたい。

 青木論文は,まず「徴用工判決」の裁判としての性質は,国境を隔てて発生する私法上の問題を扱う渉外私法事件であることを明示する。外国裁判も外国法も,内国でその効力を認める国際法上の義務はない。しかしそれでは片付かないことから,外国裁判といえども一定の条件を満たせば国内でその効力を認め,事件を解決するにふさわしい外国法であればその方を適用するというシステムを国際社会は採用している。この裁判はそういう性格の事件において,韓国大法院が日本の判決,日本法の適用を認めなかったものなのである。

 認めない理由は「公序」に反するからである。漠然としているようであるが,これは韓国の法律にも日本の法律にもあることで,おかしなことではない。その上で,この大法院判決の特徴は,公序に反することの根拠を,韓国憲法の理念に反するところに求めていることだ。韓国憲法の前文は日本の植民地統治の合法性を認めない。それが根拠になり,日本の裁判所での判決を否認している。具体的には,戦時中の日本製鉄と新日鉄(日本での裁判の判決当時)の法人格の同一性を否認し債務の継承を否認した日本法の適用を,否認しているのだ(ややこしくて申し訳ない)。さらに積極的に,強制動員慰謝料請求権が成立するとしているのだ。そして,この権利が請求権協定の対象とならない根拠を,日本が植民地支配の不当性を認めず,強制動員被害の法的賠償も否認しているからだとしている。

 この青木報告を聞いたときに唖然としたことをよく覚えている。素人判断は危険ではあるが,私が思うには,この判決の論理は極めて深刻である。深刻というのは,正しいとか間違っているとかいうのではなく,判決の命じるままに行動すれば深刻な政治的問題を引き起こす一方で,覆すのも政治的に困難なように出来ているという意味だ。

 まず,この判決は韓国憲法の理念に根拠を置いている。ということは,憲法が比較的国民に支持されている韓国の政治においては,容易には否定されないであろう,と見通すことができる。逆に言えば,憲法の理念からいきなり日本の判決の適用の否認,日本法の適用の否認を根拠づけ,個人の存在賠償請求権まで根拠づけているわけで,それは,事の正否とは別に法解釈として飛躍があるように思う。

 次に,仮にこの判決の論理が通るならば,日本製鉄の行為にとどまらず,戦前戦中に朝鮮半島で行われた広範な行為を,それが直接間接に日本の植民地統治に肯定的にかかわっていた際には,事後に制定された韓国憲法の理念により,日本法を否定してで裁くことが可能になってしまう。それは韓国政治における日本帝国主義への批判を後押しするものなだけに,やはり韓国政治において容易には否定されないだろう。しかし,この,あまりにも事後法と言うべき論理が通るならば,政治・外交が過去の清算に注がねばならないエネルギーは止めどもないものになる可能性がある。そのようなことが大混乱や取り返しのつかない対立を起こさずに可能とは思えない。

 青木論文は,一方において,1965年の日韓基本条約や4協定では,植民地統治をもたらした条約を「もはや無効」と玉虫色の決着をしたため,棚上げ,先送り,犠牲にされた問題があることに注意を促す。日本は,これらの事柄に対応すべきだというのである。「1965年しか見ない日本」とされるゆえんである。他方,青木論文は,だからといって国際合意を覆し,条約の中身を否定するのは「法解釈としてはやはり行き過ぎ」だとする。「『日帝』にこだわる韓国」の法的行き過ぎである。結論として青木論文は,建設的な政策の再開を訴えている。

 私も青木教授に共感する。法の上では,韓国大法院の論理は行き過ぎであると思う。韓国の政府や司法が,徴用工問題を契機に,司法の論理で過去の清算を進めようとすることには無理がある。しかしそれは,日本政府が過去の清算問題などないという態度を取ってよいことを意味しない。法や条約の論理にはかからなくても,徴用工や強制労働(強制労働の実態があったことは日本の大阪地裁判決も認めている)という過去の出来事にどう向かい合うのかという問題は,本来,政治と外交において存在しているはずだ。韓国大法院の判決を押し立てるだけでも,それを国際法違反として頭から退けるだけでも,問題は解決しないのだと思う。本来は,過去の出来事にどう向かい合うのかという,基本的なところから出直さねばならない。しかし,ここまで話がこじれた状態で,どうすればそうした出直しができるのか,正直私にもわからない。青木論文は,問題の深刻さ,抜き差しならなさを教えてくれたのだ。


青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」『アジア研究』66(4),2020年10月。 https://doi.org/10.11479/asianstudies.66.4_22



2020年11月19日木曜日

管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか

 (要約)

 管理通貨制下での不換の中央銀行券や預金通貨は信用貨幣であり,貸し付け・返済や信用代位で流通に入る際は,貨幣流通法則にしたがう。これは従来のマルクス経済学の『不換銀行券=信用貨幣』説と同じである。だが,同じ不換銀行券や預金通貨が財政赤字の拡大によって流通に投入される際は,紙幣流通法則にしたがう。国債が民間銀行によって引き受けられても,中央銀行によって引き受けられても同じである。これは,少なくないマルクス経済学者が,民間銀行によって引き受けられる場合には貨幣流通法則にしたがうとしていることと異なる。国債の中央銀行引き受けも民間銀行引き受けも,この点では区別はない。いずれも貨幣的インフレーションを引き起こす可能性を持つ。


1.貨幣流通法則と紙幣流通法則

 労働価値説を採るマルクス経済学では,もっとも抽象的なモデルでは貨幣はそれ自体労働価値を持っていると想定する。これを商品貨幣説ということができる。典型的には金や銀が商品貨幣になりうる。もちろん,現代が管理通貨制であることはどんなマルクス経済学者も認めている。また,貨幣史において早い時期から信用貨幣が用いられていたという説があることも今では認められている。しかし,経済原論の抽象モデルにおいては,マルクス経済学は商品貨幣を出発点に置いている。

 さて,こうして商品貨幣から出発すると,貨幣の流通について二つの流通法則を区別する必要が出てくる。貨幣流通法則と紙幣流通法則である。貨幣流通法則を要約的に言えば,商品の総量と貨幣の流通速度によって必要流通貨幣量が価格タームで決まるのであって,逆ではないという法則である(※1, 2)。

 流通に必要とされない貨幣は流通外で遊休し,蓄蔵貨幣のプールを形成する。流通に必要な貨幣量が増えた場合は,蓄蔵貨幣のプールか,貨幣商品の生産地(例えば産金部門)から流通に入っていく。

 紙幣流通法則とは,価値を持たず国家の強制通用力によって流通する国家紙幣や補助硬貨に働く特殊な法則である。価値を持たない国家紙幣は蓄蔵されないので,商品の運動に従って流通に出入りすることができない。むしろ,国家が流通外から投入し,また回収することによって流通に出入りする。これが紙幣流通法則の内容である。国家が何らかの理由により,価格タームでの流通に必要な貨幣量を超えて流通外から国家紙幣・補助硬貨を投じると,それを回収しない限り,紙幣の代表する貨幣商品量が切り下がり,価格は騰貴する。これが,労働価値説ベースでの貨幣的インフレーションの基本規定である。

 国家紙幣・補助硬貨は国家が回収しなければ流通から出られないために,蓄蔵貨幣のプールを形成しない。

 労働価値説ベースの貨幣的インフレーションは,日常用語でいうインフレーションに比べると,かなり限定されものである。財・サービスの需給ひっ迫によるインフレ,原燃料の生産費高騰によるインフレ,民間経済に原因を持つ賃金高騰の価格転嫁によるインフレは,貨幣的インフレではない,別の現象である。

 以上のことについて,マルクス経済学の,労働価値説をベースにした古典的解釈では,多くの研究者に合意が存在する。しかし,管理通貨制の下での銀行券,中央銀行券,預金通貨については意見は分かれる。私見は以下のとおりである。

2.銀行券・中央銀行券・預金通貨:貸し付け・返済と信用代位によって流通に出入りする場合

 管理通貨制下の銀行券と預金通貨(ここでは要求払い預金に限る。日本で言えばM1に含まれる預金通貨のことである)が流通に入る基本的なルートは銀行による貸し付けまたは信用代位(手形や債券の購入)である。また流通から出る基本的なルートは返済である。銀行券や預金通貨は銀行の債務であるから,返済されれば消滅する。そして,貸し付けと返済は民間企業,すなわち商品流通の世界の要求によってなされる。したがって銀行券と預金通貨は,貨幣流通法則にしたがう。端的に,民間の貸し付け,返済によっては,貨幣的インフレは起こらない。銀行券はそれ自体に価値を持たないにもかかわらず,ここまでは商品貨幣と類似の運動をするのである。

 ただし商品貨幣と異なるのは,銀行券と預金通貨は蓄蔵貨幣のプールを形成しないことである。貸し付けられて回収された銀行券や預金通貨は消滅するからである(ここでは利子の動きは捨象し,元本のみを考える)(※3)。

 では中央銀行券はどうか。貸し付け・返済や債券購入・売却によって流通に投じられ,流通から引き上げられて消滅することは銀行券一般と全く同じである(※4)。そのため,中央銀行券もまた貨幣流通法則にしたがう。また中央銀行券は蓄蔵貨幣のプールを形成しない。中央銀行は流通界と直接接することがなく,中間に民間銀行が入るために,中央銀行券の運動は複雑になるが,運動法則の基本は変化しない。

 ただし,中央銀行の要求払い預金(日常用語でいう中央銀行当座預金)は,いささか異なる。貸し付け・返済と信用代位という形で形成され,消滅することは民間銀行の預金と同じであるが,中央銀行当座預金は財・サービスの流通を媒介しない。民間の商品が中央銀行当座預金によって流通することはない(※5)。また,中央銀行当座預金は,民間銀行の預金残高と連動して独自の動きをする。中央銀行当座預金は,直接流通に入る通貨ではないので,抽象的な貨幣流通法則や紙幣流通法則が直接には作用しない存在である。

 以上のように,管理通貨制下の銀行券,中央銀行券,民間銀行預金通貨は,金融システムを通して運動する限り,いずれも貨幣流通法則にしたがう。それ自体が価値を持たない銀行券や預金通貨であっても,そして金兌換が行われていなくても,貨幣流通法則にしたがうのである。

 この主張は,「不換銀行券=信用貨幣」説に立つ論者であれば,無理なく認められるものである。「不換銀行券=国家紙幣」説に立つ論者であれば認めないであろうが,それは認めない方が間違っているのである。金と交換されないからという理由で,貸し付け・返済によって銀行券や預金通貨が伸縮することがなくなるというのは,原因と結果がつながらない。

3.銀行券・中央銀行券・預金通貨:財政赤字によって流通に投じられる場合

 さて,不換の中央銀行券や預金通貨は,政府が財政赤字を出す場合にも流通に投じられる。これらは,貸付・返済や信用代位による場合とは別に考察する必要がある。

 財政赤字を出しつつ支出する際に政府は国債を発行するが,国債は中央銀行が引き受けることも民間銀行が引き受けることもあり得る。この二通りをそれぞれ考えよう。

 まず中央銀行が直接国債を引き受ける場合は,国債の代金は中央銀行に政府が持つ預金に振り込まれる。政府はこれを引き出して,政府調達や公的部門給与などの形で支出する。中央銀行券で引き出して支払うこともありうるし,支払先企業が民間銀行に持つ預金口座に代金を振り込むこともあり得る。後者の場合は民間銀行が政府に対する債権を持ち,これは政府がもつ中央銀行預金から民間銀行がもつ中央銀行当座預金への振り込みによって決済される。いずれにせよ,通貨供給量は増大する。そして,ここで追加供給された中央銀行券は,貸し付けられたわけではないので,返済によって内生的に流通から出ることがない。国家の措置,すなわち課税強化などがなければ流通から出ないのである。つまり,中央銀行の国債引き受けによって流通に投じられた中央銀行券は,紙幣流通法則にしたがう。そのため,貨幣流通速度は不変とすれば,政府の赤字支出に連動して流通する商品総量が増加した場合は物価は不変であり,商品総量が不変または減少した場合には(※6),貨幣的インフレーションが生じる。

 ここまでは,マルクス経済学者はもちろん,他の学派の経済学者でも多くが認めることである。

 では,民間銀行が国債を引き受けた場合はどうか。国債の代金は,民間銀行が持つ中央銀行当座預金から政府預金に振り込まれる。この点が,中央銀行引き受けと異なるところである。しかし,ここから先は同じである。政府はこれを引き出して,政府調達や公的部門給与などの形で支出する。そして,通貨供給量は増大する。そして,ここで追加供給された中央銀行券は,貸し付けられたわけではないので,返済によって内生的に流通から出ることがない。国家の措置,すなわち課税強化などがなければ流通から出ないのである。つまり,民間銀行の国債引き受けによって流通に投じられた中央銀行券は,紙幣流通法則にしたがう。そのため,貨幣流通速度は不変とすれば,政府の赤字支出に連動して流通する商品総量が増加した場合は物価は不変であり,商品総量が不変または減少した場合には,貨幣的インフレーションが生じる。

 これは,マルクス経済学者はもちろん,他の学派の経済学者でも多くが認めない,通説に反する主張である。多くの経済学者は,民間銀行が国債を引き受けた場合には,流通している貨幣がいったん引き上げられ,再度政府によって流通に戻されると考える。流通する貨幣量,すなわち通貨供給量は変化しないので,それが国家紙幣であれ中央銀行券であれ,貨幣的インフレーションを引き起こす作用はないとするのである。

 だが,これは通説が間違っている。間違いのもとは,中央銀行当座預金の運動を無視しているからである。民間銀行は国債の代金を中央銀行当座預金から振り込む。そして,中央銀行当座預金は,元々流通内には存在しない。したがって,中央銀行当座預金→政府預金→流通界というように預金や中央銀行券が移動すれば,通貨供給量は増える。もちろん,中央銀行当座預金は銀行の準備預金であるから,これが減少すれば銀行の貸し出しは制限されることになる。しかし,この場合,中央銀行当座預金は,国債購入によって減少するものの、,政府の支出によって,支出先企業が持つ銀行預金が増えることを通して増加するので,結局はプラスマイナスゼロになる。よって銀行の貸し出しは制限されず,金融はひっ迫しないのである。

4.結論

 まとめよう(図)。マルクス経済学の通説が述べるように,商品貨幣は貨幣流通法則にしたがい,国家紙幣・補助硬貨は紙幣流通法則にしたがう。貸し付け・返済や信用代位によって流通に出入りする銀行券,民間の預金通貨は貨幣流通法則にしたがう。しかし,財政赤字によって流通に投じられる中央銀行券は,その際に国債が中央銀行によって引き受けられると民間銀行によって引き受けられるとを問わず,紙幣流通法則にしたがうのである。

 ただし,紙幣流通法則にしたがうからと言って,財政赤字で投じられた通貨がただちに貨幣的インフレーションを引き起こすとは限らない。公共事業によって投じられた通貨に見合っただけ,財・サービスの流通量が増えれば物価は上昇しない。また,財政支出された補助金や給付金が財・サービスに買い向かうことがなく,貯蓄として眠り込んだ場合も,当面は物価は上昇しない。赤字によって投じられた通貨が,生産拡大を引き起こすよりも既存の財・サービスに買い向かった場合にのみ貨幣的インフレーションが生じるのである。この点には十分注意が必要である。

 

※1貨幣流通速度を一定とすれば,商品総量の労働価値により,これを流通させるのに必要な貨幣商品の総労働価値が決まり,したがって特定の貨幣商品の量が決まる。すると,この貨幣商品について定まっている価格標準(金1g=X円など)に応じて,必要流通貨幣量も価格タームで決まる。

※2 以下のマルクス経済学解釈は,現状の貨幣の運動分析についてMMT(現代貨幣理論)に近い結論を導く。ただし,マルクス経済学は抽象モデルにおいて労働価値説と商品貨幣論から出発して,具体的モデルにおいて信用貨幣論に至る。MMTの理論は最初から表券主義的な信用貨幣論による。ここには違いがある。

※3 ただし,ここでは貯蓄性預金を考慮していない。貯蓄性預金の動きについては別途考察する必要がある。

※4 実務においても,1万円札は日本銀行に戻ってくると1万円の資産になるのではない。単なる紙としての資産になるのである。

※5 実務においても,中央銀行当座預金はマネタリーベースを形成するがマネーストックには含まれない。

※6 不変なのは,例えば公的部門賃金が上がった場合や政府調達価格が引き上げられた場合,減少するのは例えば軍事調達された商品が流通から引き上げられ,戦争で消耗した場合などである。



2022/9/5 一部改訂。





2020年11月9日月曜日

「事前に俺に相談がなかったから,こいつはダメだ」と国会で言いますか:学術会議会員任命拒否問題

(引用)「日本学術会議の会員候補6人が任命拒否された問題で、菅義偉首相は5日の参院予算委員会で任命拒否の経緯をめぐり、「推薦前の調整が働かず、結果として任命に至らなかった者が生じた」と述べた。任命には政府が求める事前調整が必要との認識を示したとも受け取れる発言だ」。

 いろいろな世界の人事において,正規のプロセスの背後で事前の調整や根回しがあり,そこで駆け引きも忖度もありうることくらいは,私にだってわかる。「本当はそんな必要ないんだけど,○○さんに根回してからやらないと,あとでいろいろうるさいことになるかもなあ」というのは,よくある話だ。だが,それは正規のプロセスになく,正規のルールにないから背後で行っていることだ。表に出たら,「適切でない」と評価せざるを得ない話だ。

 ところが,あまりに横暴なボスというのは,正規の会議の場で突如として「事前に俺に相談がなかったから,こいつはダメだ」とか言い出すことがある。

 それを,国会でやるか。無茶苦茶だ。

「『事前調整働かなかった』から任命拒否 日本学術会議めぐる首相答弁に批判」ハフィントンポスト,2020年11月6日。

2020年11月5日木曜日

核兵器禁止条約再論:全核保有国にいっせい署名・批准を求める国際運動が有効だ

  核兵器禁止条約の批准国が50に達し,2021年1月22日に発効する運びとなったことを喜びたい。

 この条約を非現実的だという人もいるが,私はそうは思わない。現実の政治の中で活用する道はあると思う。以下,2017年にFacebook投稿したことをいくらか補足して理由を述べる。

 核保有国やその同盟国の中には,まだ他の国が保有している,あるいは開発中である時に自分だけ条約に加わることはできないと主張する国もあるだろう。それは確かな現実であり,当該国の国民にそれなりの説得力を持つ。核兵器廃絶を目指す平和運動が自国政府だけに「批准せよ」と迫っても,その国の政府のみならず,国民・住民に支持されずに行き詰まる恐れがある。1980年代まで一定の力を持っていた一方的核軍縮措置論と同じ轍を踏む危険がある。

 なので,核兵器禁止を実現しようとする運動は,自国政府だけに「署名せよ」と迫るのではなく,「全核保有国がいっせいに署名すべきだ」と主張してグローバルな運動を行うべきだと思う。重要な脅威となり得る核保有国が「我が国は署名しない」というならば,他の国もおいそれと署名しないのはもっともであり,それはやむを得ない。「それでも一方的に署名せよ」という運動だけでは行き詰まる恐れがある。むしろ,そこで核保有国に対して「他の核保有国も署名するならば貴国も署名するか」と問いかけ,「他の核保有国も署名すると約束する際には貴国も署名すると確約せよ」と迫ることが重要であると思う。もちろん,数か国が確約しただけでは実際の署名は進まない。しかし,国際政治における対立の中で,確約する国が出現することはありうる。そして,確約した国が出現すれば,確約を拒む国家を「他のすべての保有国が核兵器を放棄するという場合でも核兵器に固執する国家」とみなし,その不当性を追求しやすくなる。「自国だけ署名することはできない」という論理を突き崩すよりも,「他の核保有国がすべて署名しようとも自国は署名できない」という論理の不当性を暴くことの方がはるかに容易である。

 核兵器禁止条約を支持する平和運動は,以上のような論理で運動を進めることが有効だと考える。このような運動ならば,理想をいささかも捨てず,理想的に過ぎる国の安全保障が脅かされることもなく,核兵器禁止条約の実効性を強める方向に国際政治を動かす可能性が生まれると思う。

 私がこのような「全核保有国に同時に核兵器の廃絶を迫る」論理を学んだのは,1980年代の原水禁運動においてであった。当時の原水禁運動には運動団体の主導権をめぐる不幸な争いがあったが,それとは別に核兵器廃絶の政治目標と運動の論理をめぐる論争もあった。私はこの時期に原水爆禁止日本協議会(原水協)の主張を原水爆禁止日本国民会議(原水禁)やヨーロッパの核軍縮運動のそれと対比させながら吸収し,核兵器の廃絶は,全核保有国が核兵器を放棄すると意思表明しない限り不可能であること,その意思表明が一方的なものになることを期待するのは困難であり,全保有国に意思表明させることが重要であること,他の争点と別に「核兵器に固執する国家」とそうでない国家という争点がありうることを学んだ。当時,確かに深刻な組織問題はあったし,社会運動史の研究者はそちらしか注目しないが,私はこの路線論争はそれとして有効であったと思っている。

過去投稿

核兵器禁止条約の国際政治における役割に関する考察 (2017/10/07)


2020年10月25日日曜日

学術会議会員任命拒否問題に関するアジア経営学会会長声明:一人の会員,評議員として支持します

 学術会議会員任命問題について,アジア経営学会の会長声明が発表されました。事務局から全会員メーリングリストに配信された連絡によれば,本件を社会的問題というより学会活動や学術研究のありかたに影響しかねない問題をはらんでいるものととらえ,またアジア経営学会は日本学術会議の「協力学術研究団体」であって間接的に当事者であることを踏まえ,理事会討議の上で会長声明発表に至ったとのことです。

 会員であり評議員である一人として,上田義朗会長と理事会の熟慮と勇気に敬意を表し,支持いたします。

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日本学術会議会員任命問題についてのアジア経営学会会長声明

アジア経営学会は、アジアの人々と連携し、内外研究者の共同と親睦を深め、アジアの経営学の研究と普及を盛んにすることを設立理念としてうたっております。

その活動をすすめるうえでは、わが国における学問の自由(academic freedom)の保障が必要です。この観点からみますと、この度の政府による日本学術会議会員の任命拒否には、学問の自由な発展と普及を委縮させる懸念があります。

そこで日本学術会議の協力学術研究団体であるアジア経営学会を代表して、私は日本学術会議第181回総会における内閣総理大臣に対する以下の要望について賛同・支持することを表明いたします。

第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。

1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。

2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。


2020年10月20日

アジア経営学会会長

上田義朗

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Statement on the Rejection of Nominees to the Science Council of Japan


The Japan Scholarly Association for Asian Management (JSAAM) was founded to develop and encourage Asian business and management research and to deepen cooperation and friendship among researchers in and out of Asia.

The guarantee of academic freedom is a prerequisite in the promotion of our activities. From this viewpoint, the government’s rejection to appoint certain nominees to the

Science Council of Japan this time can lead to restricting academic freedom not only in Japan but also in other Asian countries.

Therefore, on behalf of the members of JSAAM, a cooperative academic research organization of the Science Council of Japan, I would like to express our agreement with and support for the following requests to the Prime Minister of Japan issued by the 181st General Assembly of the Science Council of Japan. Concerning the appointment of new members to the 25th term of the Science Council of Japan, we request the following:

1. As former President Juichi Yamagiwa requested on 30 September 2020, we ask for an explanation of the reasons why the six nominees were not appointed.

2. We ask for the prompt appointment of the said nominees who were on the list of nominees submitted on 31 August 2020.

20 October 2020

Yoshiaki Ueda, Chairperson

The Japan Scholarly Association for Asian Management


学術会議会員任命拒否問題に関する経営史学会会長声明:会員として支持します

 経営史学会会長沢井実氏の声明。熟慮の上で出された声明を,一人の会員として支持します。

経営史学会会長から次の声明が出されました(2020年10月18日)。

2020年10月10日土曜日

「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」を『粉体技術』誌に寄稿しました

 「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」を寄稿した『粉体技術』10月号が発行されました。「日本経済」の授業で話していることを文章化しました。2段組み5ページの短いものですが,久しぶりに日本鉄鋼業の現状について正面から論じることができて,楽しい仕事でした。

PDFファイル(公開許可を得ました)

販売のページこちら



経済産業研究所(RIET)DP「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策」を公表しました

  銀迪さんとの共著による,中国鉄鋼業の過剰能力策削減政策研究。ようやく経済産業研究所のディスカッション・ペーパーになりました。2017年度の科研費から研究を初めて3年半,学会報告から2年,原稿を書き始めてから1年半。とにかく,人様の目に触れて政策論議に乗っけられるところまでは来ました。でもまだ終わりではありません。さらに改稿し,字数制限の範囲に納めて雑誌に投稿します。とにかく,書くには書いています。

川端望・銀迪(2020)「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての評価」RIETI Discussion Paper Series, 20-J-038, 1-30,9月。

2021年9月21日追記。本稿の完成版は査読付き論文として『アジア経営研究』に掲載されました。発行元許諾を得て公開しています。

川端望・銀迪「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策―調整プロセスとしての産業政策―」『アジア経営研究』第27号,アジア経営学会,2021年8月,35-48頁。






ジョブ型は「解雇自由」ではない。職務の存続と正常な遂行を雇用存続の根拠としている

 濱口桂一郎氏が怒りつつ呆れつつ書かれているように,「ジョブ型は解雇自由」というのは間違いである。しかし,日本でジョブ型について説明していくとそのように理解されやすいことも事実で,私の一昨年度と昨年度の「日本経済」講義でも学生にもその傾向があった。

 これを防ぐには,雇用存続の根拠をメンバーシップ型とジョブ型とでニュートラルに対比して説明し,ジョブ型には雇用存続根拠が強い面もあることをはっきりと言わねばならない。今年度の講義ではその点を補強したところ,誤解はほぼなくなった。

 メンバーシップ型の雇用存続の根拠とは,当該労働者が「会社にとって重要な一員と認められている」ことであり,ジョブ型の場合は「現に就いている職務が存続し,それを職務記述書の求める水準で遂行できていること」である。

 経営再編で職務自体が消滅する時に,その職に就いていた労働者を解雇することは,メンバーシップ型雇用の方が不当とされやすく,ジョブ型雇用の方が正当化されやすい。しかし,現存する職務はこれからも存続し,正常にそれを遂行している労働者を,会社にとって都合が悪い,例えば正常に仕事はしているが長期勤続で賃金が高いという理由で解雇し,別の人にとりかえるのは,メンバーシップ型雇用の方が正当化されやすく,ジョブ型雇用の方が不当となりやすいのである。

 だからジョブ型雇用=解雇自由というのはまちがいである。上司が説明なく「こいつは解雇。以上」というのは,ジョブ型においても不当なのである。 

 にもかかわらず,ジョブ型が解雇自由だと日本人が思い込みやすいのは,一つにはジョブ型の原理とアメリカという解雇自由な個別例を混同しており,またジョブ型の原理と日本の非正規への差別的待遇を混同しているからだろう。また,ジョブ型の方が解雇しやすそう,されやすそうに見えるのは,メンバーシップ型において正社員を解雇すること=仲間とされている人を切ることへの倫理的うしろめたさが日本社会にまだ残っているからでもある。ジョブ型になればその後ろめたさがなくなる。そこだけを捉えて,古い規範がなくなったら会社がやりたい放題になるのではないかと,それを望む人も,批判する人も予感するのだろう。確かに制度の移行期には力関係が物事を支配しやすい。しかし,古い制度・慣行を壊すときに新しいものを打ち立てようとせず,想定していては,経営側からも労働側からもよい改革はできないだろう。そのような想像力の貧困さこそが,克服すべき問題ではないか。

「ジョブ型は解雇自由だと、批判したい人が宣伝してしまっている件について」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2020年9月28日。



税金で活動する学術団体だからこそ,時々の政府が介入してはならない。自由で民主的な国でありたいならば

 税金で活動しているから首相に人事権があるのが当然であるかのように言う人がいるが,学術団体にその論理を適用してはならない。国立大学や国立の研究機関もみな政府の思うがままに人事をしろということになる。そういう話になるから,学問の自由への脅威だと言っているのだ。政府を批判すると弾圧される国の仲間入りをしたいのか。税金を使ってでも,時々の政府に対する学問的見地からの批判や提言を保証するのが自由で民主的な国ではないのか。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...