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2022年6月16日木曜日

「インフレか失業か」という金融政策の限界について

 金融政策では,景気過熱によるディマンドプルインフレに対して利上げで対抗する。それは中央銀行にとって,できることはそれしかないという点ではもっともだ。しかし,この政策がマクロ経済に対して果たす客観的役割は,失業率を高めて労働市場にバッファを作り出すことで,インフレを鎮めるというものである。インフレを更新させない程度の失業率を,マクロ経済学者は「自然失業率」と呼び,失業率を下げられる下限とする。言い換えれば,「完全雇用」と言っても失業率を下げられるのはせいぜい「自然失業率」までであり,それ以上下げようとしても下がらずにインフレだけ起こると言っているのだ。

 しかし,実際の労働市場はあちこちに移動障壁や独占や情報の非対称性や差別が存在するものであり,どの集団や地域も均一に「自然失業率」が生じることなどない。

 たとえば2022年6月16日付けロイターのコラムで,コラムニストのGina ChonはFRBが利上げを行っているアメリカの状況について,以下のように書いている。
「(FRBが--引用者)前のめりの利上げに乗り出した今、これらの労働者は再び見捨てられる危険が出てきている。5月の黒人の失業率は6.2%と、全体の3.6%や白人の3.2%を大きく上回った。そしてFRBの最新見通しに基づけば、失業率自体も今後数年で上昇してしまう。さらに先のニューヨーク連銀調査を見ると、学歴が高卒以下の人々の間でこれから借金を期限通り返済できなくなるとの見通しが強まった。このように全体から置いて行かれたままになる人たちをどう支援するのが最善かを決めるのは、もはや中央銀行当局者ではなく、政治家の仕事になっていくだろう。」

 「自然失業率」と呼ばれているものは実際には自然でもなんでもなく,現在の経済構造を与えられたもの,動かせないものとした場合に成立するものに過ぎない。このコラムの筆者が言う通り,そこに生じる理不尽な格差は,中央銀行ではなく政治の課題である。

 やっかいなのは,現在(2022年6月)のアメリカのようにすでにディマンドプルインフレが加速している時,まして現在のように輸入物価によるコストプッシュも同時に発生している時には,格差是正の措置を財政赤字拡大によって行うことが困難だということである。それは再分配や雇用制度・慣行の改革によって行わねばならない。もっと一ひねりした方法としては,MMTが主張するように,公的セクターが最低賃金で失業者を無制限で雇うという道もある。これなら財政赤字を拡張しながらでも賃金インフレは抑えられるが,実際上の課題が多い(最低賃金への不満の矛先が政府に向かうであろうことと,無制限で雇い入れた政府が有効な事業を創造できるかということが主な問題だ)。

 弱者を対象とした上に再分配を行うという,格差是正の政治的障壁は低くはない。しかし,そこに立ち向かわなければ,マクロ経済政策は「インフレなき完全雇用」を達成することは出来ず,弱者から先に失業させることでインフレを鎮めるという,上出来とはいいがたい方法に頼り続けることになるだろう。

参照
Gina Chon「コラム:FRBの「柔軟な物価目標」、わずか2年で自ら幕引き」REUTERS,2022年6月16日。



2022年5月22日日曜日

一致点と相違点が明らかになった,公共貨幣論との対話

 下田氏より再びリプライをいただいた。今回の,信用貨幣システムの理解については,ほぼ異論はない。拙論を理解いただいたところもあり,対話の甲斐があったと思う。

 景気循環におけるポジティブ・フィードバックについては,私自身の課題を痛感する。それがあることはまちがいないが,なぜ,どのようにおこるのかについて,つまり通常用語でいう景気循環論,マルクス派の言う恐慌論についての私の研究が不足しているからである。そのため,氏との対話も,この点では今すぐに深められない。最終消費需要,生産財需要,在庫投機,信用膨張による架空需要の創造,そして金融資産投機がどのようにからみあって景気循環の振幅を大きくするかについては,経済学に膨大な蓄積がある。その中で,いま下田氏と対話している貨幣・信用論との関係では,どのような論じ方が肝心なのか。たとえば設備投資の循環を重視すべきか,金融不安定化理論を重視すべきか,双方の関係はどうみるべきか。これについて,私にまだ断じる力がない。マルクス派の信用恐慌論やミンスキーの金融不安定化理論をもっと学ばねばならない。

 下田氏は,信用貨幣システムを自由放任にすれば景気循環の振幅は止められないことをたびたび強調されているが,まったくそのとおりで,何も異論はない。だから,信用貨幣システムを批判的に研究しなければならないと私も考えているのであって,擁護しているのでは全くない。現状の信用貨幣システムの理解については,氏と私のはだいぶ埋まったように思う。意見の違いは,その問題点を克服するための,有効かつ実行可能な新しいシステムとは何かというところにある。

 氏が今回,「公共貨幣システムも債務貨幣システム(信用貨幣システム)も,同様に貨幣的インフレの危険があるとすれば,そもそも景気の上下動を増長させる要因が存在しない公共貨幣システムを選択すべきである」というところは同意できないが,理由はすでに述べているので新しく付け加えることはない。前回書いた通り,公共貨幣システムには,金融システムにおいて通貨供給の構造的不足によるデフレ不況バイアスがあり,財政システムにおいて適正供給量の決定と供給の柔軟性における問題があると私は考えている。この点についての,公共貨幣論の新たな展開をお待ちしたい。

 現時点では,下田氏も私も,言うべきことは言い,一致点と相違点,また相違点で意見が違っている理由を明らかにできたとみてよいと思う。この対話の全体を公共貨幣フォーラムの皆様や公共貨幣論,MMTに関心を持つ皆様に見ていただき,研究の足しにしていただければと思う。私も,よりよい経済政策とは何か,信用貨幣システムをどう改革するかについて,もっと研鑽を積まねばならない。

<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論,再々批判,再々反論は以下の通りである。再々反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。

・川端望「公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待」2022年5月9日。

・下田直能「信用貨幣システムにおける内生的通貨供給と外生的通貨供給の関係」


2022年5月9日月曜日

公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待

 下田直能氏の著書に対する論評に対して反論を賜り,それに対して再度のコメントを行ったが,このたび「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」と題された再反論を賜った。引き続きの真摯なご対応に感謝したい。

 互いの主張が明確になったことや,これ以降は私自身がもっと掘り下げて研究してから主張しなければならない部分もあると思う。そうした点については,双方の見解を読者や公共貨幣フォーラムの皆様方にご覧いただき,判断して頂ければと思う。ここでは,それでもなお話を続けた方がよいと思うところを掘り下げる。まず,公共貨幣システムへの批判をめぐる対話を深め,続いて拙論が想定した現行の信用貨幣システムについての氏の批判的論評に答えたい。

Ⅰ 公共貨幣システムは通貨の適正量を柔軟に供給できるか

 今回下田氏が提示された「図2 人間の欲求水準と商品需要量・流通貨幣量の関係」は,貨幣流通を必須とする資本主義社会における景気循環をどう見るかという,経済学の核心的な問題に触れている。物事の根本を考えようとされる氏の姿勢には頭が下がるばかりである。ただそれだけに,私はこの領域へのアプローチをはもう少し慎重にしたい。

 人間の欲望に対して,商品・貨幣を用いた経済システムによってどのように応じるかとなると,流通面では市場経済,生産面ではおおむね資本主義的生産を通して応じることになるだろう。もちろん部分的には公営企業や協同組合や自営業やNPOも活用される。また,市場の失敗がある領域では,公的財政を通した供給も行われる。それでも市場と資本主義企業は中心に座らざるを得ない。

 このとき,生産や販売や購買を個人の私的意思決定に委ねると,個人にはそれらに関する自由が保障されるが,生産の過剰や不足,格差や貧困が生じる。これではよくないと言うので代替的な経済システムが構想され,20世紀の一時期は集権的計画経済が試みられたが挫折した。それでもなお,別の方法が種々模索されているのが現状であろう。公共貨幣もそのひとつだし,MMTが,自らの貨幣理論とケインズの再解釈を結び付けて,反貧困政策やグリーンニューデイールをめざすのもそうである。

 さて,公共貨幣システムが実現すると,通貨供給のうち,金融システム経由のものは100%準備制度により大きく絞ることになる。これによってバブルを抑制し,金融業者の利益追求を制限する。そのかわり,財政システムで公共貨幣を供給することになる。

 私が公共貨幣に対して抱く最大の疑問は,この財政システムによる供給によって,下田氏が図2に描くような人間の欲求水準の動きを正しく判断し,過不足ない通貨供給が実現できるのかというところにある。下田氏は「もちろん、それがきわめて容易だというつもりはないが、世の経済学者の知見を集めて、そのオープンな議論を通じて、適切なモデルを元にシミュレーションを行えば、適正な通貨量の推定はさほど難しいことではない。これを適切な物価目標(日銀によると2%)を基準にモデルを暦年修正していけば、適切な貨幣量を維持することは十分に可能であり、そのモデルは国民の財産となる」と言われるが,私にはこれで説得力があるとは思えない。集権的計画経済における財の生産量決定ほどではないにせよ,やはり相当な困難に突き当たると思う。

 すでに論評を一通り行い,下田氏からの反論も得られたので,今後,公共貨幣論の研究成果を待ってより具体的に考えることとしたいし,私自身も公共貨幣論より有効な経済政策を自ら提示できるように研究したい。ここでは,公共貨幣論に検討していただきたい論点を二つだけ挙げておく。繰り返すが,これは公共貨幣論を全否定する批判ではなく,これらの論点についてより説得力のある研究成果を期待するという意味にとって欲しい。

1.これまでも書いたが,企業からの貨幣の需要はさまざまである。設備投資資金,運転資金,決済資金などの需要が日々の事業の変動の中で発生する。その需要を見極め,適切な条件で柔軟に供給する機能を,銀行の信用創造から取り上げてしまった場合,これを財政による供給で代替できるのか。公共貨幣の供給システムは,一方で下田氏が強調されるように民主主義的であり得る。他方で,いかに分権化しても,銀行システムよりは集権的になるだろう。すると,まず適正量の決定という点では,財政による供給で金融市場での需要の見極めを代替することは難しくないか。次に,需要変動への柔軟な反応という点では,むしろ民主主義的に行うがゆえに,素早い対応が難しくないか。つまり,弊害はあるとしても効率的である市場メカニズムに対して,公共貨幣は民主主義的であるという点で政治的に魅力的であっても効率性を欠くのではないかという点である。

2.次に,本質的に上記と同じ論点だが,より具体的に公共貨幣システムの仕組みに即して述べよう。財政による公共貨幣の新規投入分は,直接には公的事業や公共性の高い民間事業に対してのみ行うとされている(下田著,pp. 131-133)。そして,間接的にこの公共貨幣がその他の民間部門に流れていくのである。これは財政のありかただけを考えるともっともだが,他方で政府が「その他の民間部門」の通貨ニーズに直接は反応できないということでもある。公的事業等に支出する必要性は,現行の財政システムと同様に判断できるだろう。しかし,「その他の民間部門」の通貨ニーズに間接的に応じるというのは,かなり難しくなる。また,公共事業は縮小しなければならない情勢だが「その他の民間部門」の通貨ニーズは高いとか,その逆であるというように,両者が競合する場合はどうするのかという問題もある。この仕組みを踏まえて考えると,通貨供給の適正量の判断と柔軟な調節は,いよいよ難しくならないか。

Ⅱ 現行の信用貨幣システムをめぐる論点

 以下の2点は私の貨幣論に対する下田氏からの批判に再度答えるものであり,むしろ私からの再反論と言うことになる。

1.貨幣的インフレーションとそれ以外の物価上昇の区別について

 下田氏は「流通貨幣量と商品需要量の自動的な調整・均衡が、貨幣的インフレ・デフレを防止するとは必ずしも言い切れない。というのは、実際の銀行貸付による信用創造は、実体経済への資金の投入だけを目的に行われるとは限らないからである」として,不動産投機を例に挙げ,不動産価格の急激な上昇を「一種の貨幣的インフレ」としている。この批判に答えたい。

 まず,商品流通に必要な貨幣量が,貨幣的インフレーションを起こすことなく金融システムによって調節されるのは,財・サービスの流通に必要な貨幣量に関する限りである。これを私は繰り返し記述しているので,確かめていただきたい。

 問題は,財・サービスの流通に必要な貨幣ではなく,金融的流通のために企業や証券会社が借り入れを行う(銀行から見れば信用創造で預金通貨を供給する)場合である。それが行き過ぎればバブルを引き起こす。このことも私は繰り返し指摘している。だから信用創造システムの問題点はバブルを起こしやすいことなのであり,これは下田氏と私が本来共有する視点である。

 しかし,これは貨幣的インフレーション,すなわち貨幣価値切り下げによる名目的物価上昇ではないのである。そうではなく,金融資産に限っての価格上昇である。この二つ,すなわち実体経済のインフレとバブルとは区別しなければならない。

 下田氏が例示するように,このバブルが不動産について起きると,確かに事態は複雑である。というのは土地は消費も生産もできないが価格がつくという独自な商品であるし,土地も建物もまったく実体経済とかけ離れた金融資産ではなく,それが実用に供される時には実体経済の価格に入り込むからである。なので,ここでいくつかの場合に分けて考えてみよう。

 まず,不動産が実用に供されず,投機のための売買が延々と,バブル崩壊まで続く場合である。これは,土地・建物価格だけの上昇であって,その影響は実体経済での物価に及ばない。これは貨幣的インフレではなく,金融資産化してしまった土地・建物,あるいはそこから派生した証券の値上がりである。つまりはバブルである。

 次に,土地・建物に対して住宅やオフィスと言った実体的な需要が生じた場合である。ここから道はさらに二つに分かれる。もしも実需に対して対応する通貨供給がなされなければ(例えば金融機関が,オフィス取得へのローンや住宅ローンに対して慎重であれば),値上がりした不動産価格は実現されず,土地や建物は売れ残る。価格が下がることだろう。あるいは実需には回らず,金融資産として投機だけが続くだろう。この時,実体経済での物価上昇は起こらない。

 もしも実需に対応する通貨供給がなされれば,高い不動産価格も実現する。これは実体経済における物価上昇である。ただし,需給バランスによる一時的上昇と,コストアップを反映した実質的価格上昇という二つの性格を持つ上昇である。貨幣的インフレーション=通貨価値が切り下がっての名目的物価上昇とは異なる。

 これらは,日常用語でいうインフレーションでは区別がつかない。日常用語では,インフレーションは単に持続的物価上昇と定義されるからである。しかし貨幣理論を論じる際には,貨幣的インフレーション,一時的需給関係による物価上昇,コストアップによる実質的物価上昇は区別されねばならない。それは単に言葉の問題ではなく,通貨当局が物価対策を正しく行うためにも必要なのである。

2.内生的通貨供給という用語の意義について

 内生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給するのではなく,直接には民間の経済主体による行動によって通貨が供給されるのだ」という意味である。だから現行の信用貨幣システムにおける金融システムでは,銀行から見れば貸付けと回収,企業から見れば借り入れと返済を通して内生的に通貨が供給される,金融システムを通した通貨供給は内生的である。中央銀行が行えるのは,金融政策でこれを間接的に調整することだけである。

 外生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給できるのだ」ということである。財政システムを通した通貨供給は,政府が財政支出によって通貨供給を増やし,課税によって減らすことができるのだから外生的である。国債発行ルールはこれを制約するが,その制約が中央銀行というもう一つの政策当局による買いオペレーションで緩められていることは,下田氏もご承知と思う。

 下田氏は,内生的,外生的と言う言葉があいまいで混乱の下だと指摘される。たしかに,経済学者でもこの用語のニュアンスの理解がズレて議論がすれ違うことはあるから,そのご不満はわからないでもない。しかし,この用語は,現行の信用貨幣システムを正確に理解する上で重要なのである。一般論としてだけでなく,私にとっても公共貨幣論にとっても必要であると思う。

 というのは,主流派経済学は現行の通貨システムが信用貨幣システムであることを理解せず,「政府当局が経済に対して通貨を供給する。その調整は政府当局によって可能である」という命題を出発点に金融政策を考えているからである。この主流派経済学の誤りは山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』でも前半部で説明されていたはずであり,私も同意するところである。例えば,アベノミクス(黒田日銀路線)では,日銀が大量に買いオペレーションをすれば通貨供給が増えるはずだという,主流派経済学の誤った想定に基づいてリフレーション政策が行われて来たのである。

 現行通貨システムが信用貨幣システムであることを認め,これを正確に認識した上で,その問題点を改革しようという姿勢は,公共貨幣論も私も同じである。そうであれば,現行システムの誤った理解をただすために,「金融システムを通した通貨供給は外生的なものではなく,通貨当局の意図で自由に変えられるものではないのだ」という指摘の仕方が必要なのである。よって私は,「外生的・内生的」と言う対概念の必要性を再度強調したい。

Ⅲ 公共貨幣論への要望・期待と私自身の課題

 現行の信用貨幣システムでは,金融システム経由の通貨供給は内生的に貸し付けと返済,すなわち預金通貨の創造と収縮を通して行われ,財政システム経由の通貨供給は外生的に支出と課税によって行われる。金融システムを通した通貨供給は,1)貨幣的インフレーションを起こすことなく,商品の流通に必要な貨幣供給量を調節する。しかし,2)商品流通から外れた金融的流通のための貨幣供給や,3)使われずに遊休してしまう貨幣供給も実現してしまう。前者はバブル,後者は不況を生む。

 私は,ここまでの認識では,ほんらい公共貨幣論も私も一致できると私も思っている。ただ下田氏は,私が2)3)の弊害だけでなく1)の利点を強調して,公共貨幣論が1)を停止させることを批判しているのがひっかかるらしく,1)はそんなに役に立たないものなのだと強調されたいのだと思う。しかし,それは貨幣理論として適切でないというのが,私の反論である。

 私は,公共貨幣論に対し,改めて信用貨幣システムの機能として1)を認識いただくことを要望する。また,公共貨幣論が説得力を上げるには,たとえ1)の機能を停止しても,財政システムを通した公共貨幣の供給でよりよく代替できること,通貨供給量を適正に,また柔軟に調節できることを示すことが必要だと思う。そのような研究成果をお待ちする。他方で,私自身は,信用貨幣システムを前提としながら2)や3)をどう制御していくのかについて,もっと考えてみたいと思う。


<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論は以下の通りである。再反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。




2022年4月29日金曜日

内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して

  公共貨幣論に対する私の批判に対して,『お金は銀行が創っているの?』の著者である下田直能氏から反論を賜った(※1)。丁寧なご対応に感謝したい。下田氏の反論は,貨幣流通に関する核心に触れるものであり,拙論との違いを掘り下げていくことにより,重要な論点の解明につながることが期待できる。以下,下田氏との対話を試みる。

1.公共貨幣論批判に応じることを希望する

 まず,今回,下田氏が私の公共貨幣論批判に正面から答えていないことは残念である。信用創造はバブルを生み出す。しかし,だからといって信用創造を廃止すると,財・サービスの流通に必要な通貨が貸付けによって供給され,不要になれば返済によって流通から引き上げられるという,金融システムの機能が失われる。公共貨幣システムでは,その分を財政システムを通した公共貨幣の散布で代替しようとするが,それでは必要な通貨供給量を適正に定め,また柔軟に調節できないだろう。これが私の批判である。今回,下田氏がこの批判に対して,公共貨幣システムは機能し得るのだと正面から反論していないことは,何とも残念な限りである。次の機会を期待したい。

2.自動調節機能は景気循環を和らげるものではなく,商品流通量と貨幣流通量を対応させるもの

(1)自動調節機能はポジティブ・フィードバックと両立する

 今回,下田氏の拙論批判は二つの点にまたがっている。まず一つ目は,自動調節機能はポジティブ・フィードバックの一局面であり,川端は他の局面を見落としているというものである。

 川端は財・サービスの流通の必要に対して流通貨幣量が受動的に対応するというが,それは現実の経済の動きの半面に過ぎないと,下田氏は言う。逆の側面もあり,むしろ,ポジティブ・フィードバックによって「『商品需要量⇒流通貨幣量⇒商品需要量⇒流通貨幣量・・・』の無限ループを構成する」というのである。「好況時には『商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加⇒商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加・・・』となり,何かの要因でそれが逆回転を始めると『商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少⇒商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少・・・』へと転換する」。信用創造による貨幣供給は,このポジティブ・フィードバックを加速させるのであり,自動調節するばかりではないと,下田氏は言うのである。

 再反論の前に,ここでは,話が金融システムによる通貨供給に限られており,また財・サービスの流通に限られていることに注意しよう。下田氏は今回の拙論批判では,貨幣の増減と対応するのが商品需要量の増減だけになっており,金融資産バブルを想定していないからである。

 さて,下田氏は私が「自動調節」と言ったことを,商品需要量が先に増えて,流通貨幣量が後からそれに適応するものと理解されているようである。しかし,それは誤解である。そうではなく,商品流通量と貨幣流通量がバランスし(※2),通貨が価値の変動を蒙らずに商品流通を媒介することを「内生的供給」ないし「自動調節」と呼んでいるのである。

 下田氏は図1を提示し,私が「商品需要量→流通貨幣量」という因果関係だけを見て,「流通貨幣量→商品需要量」という関係を見ていないと批判される。しかし,下田氏自身がここで図示されているように,どちらの因果関係であっても,結局,商品需要量と流通貨幣量はバランスしようとする。商品需要がその分だけ信用創造による通貨供給をもたらし,信用創造による通貨供給が商品需要を裏付けるのだから当然である。そして商品の需要が,在庫からの調達や生産の拡大によって満たされれば,商品流通量と流通貨幣量もバランスする。

 静態的に,個々の局面から少し遠ざかった価格変動を長い目でみれば,結局商品流通量と流通貨幣量は対応するだろう。下田氏は,いや動態的に,ポジティブ・フィードバックを伴う景気循環を考えれば,商品需要の超過で価格が上がり続ける局面と,逆に供給超過で価格が下がり続ける局面とがあるではないかとおっしゃるかもしれない。しかし,そうした局面でも商品流通の増加が貨幣流通の増加を必要とし,貨幣流通の増加は商品流通の増加を伴うし,縮小には縮小を伴う,という法則性は働いているのであって,それは下田氏自身が主張されていることである。だから,結局,商品流通量と流通貨幣量は互いをバランスさせようとする作用を保っている。私はこのことを「自動調節」と呼んでいるのである。

 逆に言うと,私は,信用創造に景気循環を穏やかにするような「自動調節」機能があると考えているのではない。下田氏は,誤ってそのように読み込まれたようである。しかし,信用創造が景気循環の振幅を激しくし,バブルも生み出すことは私も認めているし,それはよく拙論をご覧いただければわかるはずである。

 商品流通量と通貨供給量を対応させる自動調節は,景気循環のポジティブ・フィードバックと両立する。下田氏の図1は,その意図に反して,ポジティブ・フィードバックの過程全体を通して自動調節が働いていることを示しているのである。

(2)自動調節が働かない公共貨幣システム

 私があえて自動調節という調和的な響きを持つ言葉を使った理由は,それが働かない場合の深刻さを明確にしておくためである。

 まず理論的に説明する。自動調節が働かないとは,貨幣流通量が商品流通量に対応しようとする力が働かなくなることである。その典型はインフレーションである。何らかの理由で,商品総量が増えることなく貨幣のみが追加供給されて商品流通に入り込むと,価格が名目的に切り上がる。言い換えると通貨価値が下落する。これが貨幣的インフレーションである(※3)。貨幣的インフレーションは,遊休設備や失業者がなくなってなお財政支出を続けた場合のように,景気の過熱とともに現れやすい。しかし,不況とともに出現することもあり得る。他方,商品流通量に対して通貨供給が一方的に不足することも考えられ,これは価格の名目的切り下げと言う貨幣的デフレーションを引き起こす力になる。もっとも,この場合は直ちに不況になり,商品流通量の方が縮小する。自動調節が効かないとは,貨幣的インフレや貨幣的デフレが起こることである。

 信用創造のある金融システムには自動調節作用があるため,景気循環のポジティブ・フィードバックは引き起こすが,貨幣的インフレや貨幣的デフレは起こさない。商品と無関係に通貨を供給したり引き上げたりすることはできないからである。たとえ好況期に銀行が貸し込みをするのであっても,借りた企業は設備投資であれ運転資金であれ決済資金であれ,借りたお金を財・サービスの購入に投じるか,すでに購入したものの決済に用いる。だから,通貨供給の増大は商品流通の増大を伴うのであり,一方的に通貨供給だけが増えることはない。同じく銀行融資が縮小すれば財・サービスの購入がそのぶんだけ不可能になって商品流通が縮小するのであり,一方的に通貨供給だけが減ることはないのである(※4)。ここに,金融システムによる通貨供給の内生性,もしくは通貨供給量の自動調節機能の持つ重要な意義がある。

 もしこれを公共貨幣システムに置き換えたならば,どうなるか。一方で100%準備預金制度の金融システムは十分な通貨を供給できない。したがって信用ひっ迫を起こし経済を停滞させるだろう。それを補うために,財政システムを通した公共貨幣の散布で置き換えようとすればどうなるか。適正な通貨量の決定は困難である。おそらく現実に実行すれば,金融ひっ迫を補うために財政は拡張気味に運営されるであろう。金融システムと異なり,財政システムでは通貨の一方的投入が可能である。給付金を考えればわかるだろう。だから,ここには貨幣的インフレのリスクが生じる。このリスクは現行システムにも存在するが,公共貨幣システムでは,信用創造を停止した分の通貨供給を財政で補うため,貨幣的インフレのリスクは,より高くなる(※5)。このように,自動調節機能を失った公共貨幣システムには,金融システムでは信用ひっ迫,財政システムでは高いインフレリスクと言う弱点があるのである。下田氏が,この批判に正面から答えてくださることを,改めて期待したい。

3.「内生的」とは「行政的な意図が介在しないこと」ではない

 さて,下田氏のもう一つの拙論批判に移ろう。それは,金融システムによる通貨供給は内生的とばかりは言えないということである。ここで下田氏は私の使う「内生的」という用語を,「行政的な意図が介在しないことが想定されている」と解釈しており,これに対して日銀は政策的意図をもって金融政策をしているではないかと指摘されている。しかし,ここにも誤解がある。政策的意図があれば外生的,なければ内生的というものではない。外生的とは,経済の外部から,政策当局が通貨供給を実質的に行うことができるという意味である。内生的とは,民間の主体が営む経済の内部に通貨供給量を増減させる要因があるということである。私が言いたいのは,政策当局の意図が介在しようとしまいと,結局,金融システムでは内生的にしか通貨が供給されないことである(※6)。

 下田氏が指摘されるように,今日,不況期の金融政策の実効性は著しく下がっている。少なくとも,金利を低下させて景気を反転させることには全く成功していない。なぜかというと,金利をいくら低めようと,買いオペレーションをいくら行おうと,期待利潤率が著しく低下している企業が,お金を借りようとしないからである。そして金融システムでは,企業が銀行からお金を借りない限り,通貨供給量は増えないからである。これこそが,金融システムによる通貨供給が内生的である証拠ではないか。先ほどと別表現で同じことを言えば,政策当局があれこれの意図をもって通貨を供給することはできないというのが,外生的でなく内生的だという意味なのである。

 もっとも,内生的というのは,政策当局が一切介入できないということではない。日銀が金利を引き上げたり売りオペレーションを盛んに行ったりすれば,銀行の信用創造は制約されるだろう。また,今日の日本と異なり高度成長期の経済であれば,金融緩和によって企業の借り入れ意欲を回復させ,景気のてこ入れをすることも可能であった。その程度の介入ならば可能なのである。しかし,これらは企業の銀行からの借り入れの条件,したがって信用創造による通貨供給の条件を変化させるものではあっても,通貨供給自体を日銀が直接操作するものではない。金融政策に影響を受けるとしても,経済の内部にある企業が銀行からお金を借りなければ通貨供給量は増えず,企業が銀行にお金を返済しなければ通貨供給量は減らないのである。

4.結論と今後の研究課題

 下田氏は,拙論の公共貨幣システム批判に答えていない。また,いただいた批判は,拙論の「自動調節」「内生的」の意味を取り違えたことから来た誤解である。これが今回の結論である。

 しかし,だからといって下田氏の批判は無用なものではない。下田氏との対話を通して,以下の論点が浮かび上がるからである。

 私の述べる通貨の内生的供給と自動調節の政策的含意は,「信用創造にはバブルを生み出すという弊害があるが,貨幣的インフレや貨幣的デフレを起こさないという利点がある」ということである。私は,ここから逆に,「財・サービスの流通に必要な通貨の供給を財政システムに頼る公共貨幣システムでは,適正な通貨供給量の決定とその調整ができない」と批判したのである。私はここまでの拙論は,下田氏の反論でも揺らがなかったと自負している。

 他方,下田氏との対話を通して,通貨の内生的供給は,景気循環におけるポジティブ・フィードバックと両立することを明らかにできた。しかし,両立するということは,これをチェックできるとは限らないということでもある。内生的通貨供給の仕組みは,インフレ防止には役立つが,景気循環のポジティブ・フィードバックによる暴走をチェックする問題は残っているのである。これこそ,下田氏が信用創造の弊害として念頭に置いていることであろう。今回,下田氏が拙論批判で想定されたのは金融資産バブル抜きのポジティブ・フィードバックであったが,今日の景気循環が,むしろ金融資産の膨張と収縮を主要因として激しいポジティブ・フィードバックを発現させ,バブルを金融危機を引き起こしていることは明らかである。

 バブルと金融危機への対処という課題がある限り,信用創造批判が絶えることはない。その意味では,下田氏がポジティブ・フィードバックをどうするのか,それを解決できなければならないのではないか,と問いかけることはもっともなのである。下田氏の答えは公共貨幣である。私はそれに対して「気持ちはわかるが,無理だ」と言わざるを得ない。しかし,「気持ちはわかる」ならばどうすればよいのかという問いは,私自身に突き付けられているのである。この課題の重要性を下田氏と私が共有していることは,最後に確認しておきたい。

※1 下田氏の著書を拝見して私が書いた批判は,当初Facebookにのみ掲載していたが,現在はこのブログにもある以下の文章である。
川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」Ka-Bataブログ,2022年4月28日Facebook投稿,2022年4月20日)。
 下田氏の反論は以下の文章である。
下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」下田直能のブログ,2022年4月28日。

※2 正確に言えば,商品流通量を貨幣の平均流通回数で割ると流通貨幣量になるという関係にある。

※3 貨幣的インフレは,需要の一時的超過によって起こる価格上昇や,商品の生産コストの上昇によって起こる価格上昇とは理論的に区別されねばならない。

※4 なお,下田氏の今回の想定を離れれば,企業が借りたお金を金融的流通に投じることもあるし,状況に応じて預金のまま眠らせておくこともあるだろう。その場合,通貨供給が一方的に増えるが,創造された通貨が商品流通を媒介しないので,インフレを起こさない。

※5 「公共貨幣論に対する見解まとめ」では公共貨幣システムでは適正な通貨供給量の決定が困難なところまでは述べたが,インフレリスクには触れていない。公共貨幣論批判の別の投稿である以下の二つで述べている。
川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年12月18日。
川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※6 なお,ここで日銀が「官」か「民」かという議論には立ち入れないが,私は現在の日銀は半官半民組織と理解しており,おそらく下田氏もそうではないかと思う。そう理解した上で,ここでは政策当局で「も」あるとして論じている。


2022年4月11日月曜日

松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う

 松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。松尾氏と井上氏は信用創造廃止・政府通貨論者らしいと聞いて興味を持ち,読んでみたのだが,その主張が飲みこめなかった。本書には多様な主張が含まれているが,ここでは信用創造廃止論,信用貨幣の廃止と政府通貨の創設論,それとかかわった金融システム・財政システムの改革論の大枠についてのみ対話したい。

 本書の主張には,共感できるところもある。私なりにまとめると,著者たちは現行の金融システムは民間銀行による信用創造によって成り立っていると理解している。私もそう思う。また著者たちは「様々な反緊縮論の共通点は,金融政策でなく財政政策を活用して,人々のための経済政策をやって行こうということであり,そのために一定程度まで財政赤字を出すことはサステナブルだと考えている」から,そこを一致点として確認しようと考えている。この点もまったく賛成である。

 しかし,信用創造廃止の積極的主張をされる時に,どうしてそれがサステナブルだと考えるのかが,よくわからない。十分説明されているとは思えないのである。信用創造廃止論だとどういう価値観に立つことになり,MMT論者だとどういう価値観に,ということは書かれているが,肝心の信用創造廃止後の金融システムがどのように機能するのかが,本書ではわからない。他の本や論文で詳しく論じられているのかもしれないが,本書は一つの作品なのだから,本書だけで概要はつかめるようにしていただきたかった。

 民間銀行による信用創造がある限り,バブルの危険があり,通貨創造で民間銀行が設けてしまうという批判はわかる。批判としてはそのとおりである。しかし,信用創造を失くす,具体的には銀行の貸し出しに100%準備を強制し,信用貨幣は廃止して政府または中央銀行が政府通貨を発行する,というしくみにした場合に,金融システムがどのように貸し出しニーズにこたえるのかがわからない。バブルを引き起こす投機目的の信用創造をシャットアウトするのはいい。しかし,いったいどうやって,民間企業の,投機目的でないまともな借り入れのニーズに応えるのだろう。つまり,設備投資とか運転資金とか決済資金とかの借り入れニーズの変動に,どのように対応するのだろうか。企業が借りたいと言っても,「当行に中央銀行が与えてくれた準備預金の枠を超えたからダメ」と言われるとおしまいであり,あまりに柔軟性がない。中央銀行が銀行に供与する準備預金を調節するにしても,日々の変動に対応できるものではなかろう。信用創造廃止・100%準備預金制度は,信用ひっ迫を起こしやすくすると思う。

 推定になるが,おそらく著者は,そこは政府通貨による財政拡張で補うのだと考えているのだろう。政府通貨による財政拡張の結果,通貨はやがて十分に市中に出回るようになるということだろう(誤読であれば申し訳ないが,ここのところが説明されていないから,本書の主張が飲みこめないのである)。したがって,個人や企業が銀行なり投資銀行なりに,預金なり預け金なりとして持ち込むお金も増える。それを原資にして金融仲介をすれば,信用創造がなくても十分金融システムは機能するということだろう(※)。いわば「銀行から証券へ」「銀行から種々のファイナンス・カンパニーへ」の新しいバージョンともいえる。

 しかし,財政資金を十分散布することを前提に金融仲介をする,というこのしくみには問題がある。まず柔軟性の問題である。原資が財政資金だということは,国会での議決に基づいて,年度単位で編成される予算によって供給されることになる。このような資金は,総量を拡張することは可能であっても,日々のニーズに応じる柔軟性はない。先に述べた準備預金の調節も財政支出の調節も,日々,貸し出しの現場でなされる信用創造の調節に比べると柔軟性は格段に劣るのである。

 次に,自動調節の弱体化の問題である。現行システムにおいては,遊休して証券投資に充てられるお金も,もとをたどれば財政資金として支出されたものか,あるいはどこかの銀行から信用創造によってつくりだされ,誰かに貸し付けられたお金である。このうち後者は,企業や家計が必要であるから借り出したお金である。そして,必要なら何度も借り換えるであろうが,不要になれば最終的に銀行に返済され,消滅する。そういう意味では,財・サービス購入に向けた信用創造による通貨供給は内生的であり,必要なだけ供給され,不要になれば消えるのである。いわば金融システムから供給される通貨供給量は自動調節されるのだ。ただし,投機のための借り入れが行われることがあり,そうすると通貨は金融的流通に回ってしまってバブルが発生する。そこに問題がある。

 対して政府通貨システム・信用創造廃止の下での通貨供給では,どうなるだろうか。金融システムを通した内生的供給は制限されるので,当然,十分な通貨供給を財政システムに依存することになる。財政システムによる通貨供給は,政治的意思決定に基づく外生的なものである。そのため,通貨供給量の自動調整機能は,金融システムより劣っているとみなさざるを得ない。銀行融資の貸し付けと返済によって通貨が膨張・収縮するルートが制限されているからである。一方,財政赤字を許容する財政思想で,民主的意思決定に基づく財政政策を取れば,悪性インフレのリスクが発生する。これ自体は現行システムでも同じであるが,信用創造を廃止して信用貨幣を政府貨幣で置換えた場合,金融システムの縮小を財政システムの拡大で補うから,このリスクは現行システムよりもずっと高くなるだろう。

 また,信用創造を廃止しても,それだけではバブルは根絶できない。財政支出によって十分なお金が市中に出回っているとして,その結果,家計や企業によって金融機関に大量のお金が持ち込まれれば,金融機関は何とかそれを運用して利益を出さねばならない。そうすると,現在のノンバンクや投資銀行と同じく,ハイリスク・ハイリターンの証券での運用や貸し出しに運用が偏るという問題が生じる。サブプライム危機で問題になったような,一つの資産を基礎に資産担保証券を幾重にも発行する手法も,信用創造を禁止しただけではなくせない。政府通貨の供給量を多くすればするほど,こうしたバブルの危険も増す。信用創造廃止だけでバブルを根絶できると期待すべきではない。

 対比してまとめよう。民間銀行による信用創造が可能な現行システムは,通貨が財・サービスの購買に向けられる限り,通貨供給量の自動調整機能を持っている。ただし,金融資産の購買に大量に向かったときに歯止めを失い,バブルとなる。対して信用創造が廃止された政府通貨システムは,金融システムを通したバブルを抑制しやすい代わりに,財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能が制限される。そのため,信用ひっ迫を起こす危険がある。これを防ぐためには,現行システムよりも財政システムに依存した通貨供給を行わざるを得ない。そうすると,現行システムよりも悪性インフレの危険が高くなる。そして,バブルも根絶できるわけではなく,通貨を供給すればするほどそのリスクは高まる。

 どちらがましかと言えば,私は現行システムを出発点に改革を考える方が現実的に実行可能性が高いと思う。財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能を維持し,これに依拠し続けた方が,その先の改革の負荷が下がるからである。どの道,反緊縮という方向で改革を行うためには,財政を拡張しなければならず,その際に有効な悪性インフレ対策が不可欠となる。信用創造廃止・政府通貨では,MMTのような信用創造を許容した上での改革に比べて,インフレ抑制の難易度はさらに上がる。それよりは,自動調整機能に依拠しつつ,バブルのコントロール策を考案する方が現実的だろう。信用創造廃止論者に対しては,MMT論者のR. レイがかけた言葉を繰り返さざるを得ないと思う。「気持ちはわかるが,無理だ」。

付記:私は,以前に山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』に対して論評を行ったが,松尾氏や井上氏が本書で書かれていることにも,ほぼそのまま当てはまると思う。違いは,供給された政府通貨によって金融仲介の原資が生まれることを考慮した論評にしたことである。

「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」Ka-Bataブログ,2021年12月18日。

※ここで「信用創造」というのは,銀行が貸し出しを行う際に預金通貨が創造され,通貨供給量が増えることを指している。対して「金融仲介」というのは,すでに市中に存在する資金が,それを必要とする企業や家計に融通されることを指している。


松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。


2022年3月28日月曜日

遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために

 ポストコロナの物価を理論的に考える上での難問は,コロナ以前やコロナ禍で行なわれた財政支出が,今後の物価上昇の遠因となるかどうかである。またもう少し解像度を上げて言うならば,現時点や今後の財政支出の他に,企業や個人の手元に蓄積されている現預金や金融資産が,物価形成に参与していくかどうかである。

 これまで私は,リフレーション論批判,「量的・質的金融緩和」論批判,財政拡大の必要性とその方向性に関する議論を行ってきた。そのために必要な理屈として,マルクスの貨幣流通法則,紙幣流通法則,手形論,信用論,銀行論を学び直して動員し,そこにMMTの考え方も取り込んできた。しかし,インフレが再燃しつつあるポストコロナの物価を考える際には,これらだけでは十分ではない。不足している理論装置の一つが遊休貨幣論である。このノートでは,貨幣流通論における遊休貨幣論の必要性とその位置づけについて,基礎的な論点を提示したい。

 「講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給」「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」「講義ノート:管理通貨制度下の貨幣流通,蓄蔵貨幣機能,遊休と金融的流通」で論じたように,管理通貨制の下での貨幣流通の基本的な動きを理解する枠組みは,マルクス派の諸理論を適切に用いることによって構築可能である。「金兌換が停止された世界はマルクス経済学では理解できない」などというのは俗論に過ぎない。

 とりわけ重要なのは,貨幣流通法則,すなわち「価格で見た商品流通総額を貨幣の流通回数で割ることによって,流通に必要な貨幣量が得られる,商品流通総額と貨幣の流通回数が流通に必要な貨幣量を決めるのであって逆ではない」というものである。貨幣流通法則は,現代の信用貨幣である預金通貨と中央銀行券が,金融システムにより,貸付・返済を通して流通に出入りする時には全面的に適用される。他方,これらの通貨が財政システムにより,政府支出・課税を通して流通に出入りする際には,紙幣流通法則も働く。

 金融システムによる通貨供給は貨幣流通法則にのみしたがうものであり,商品の世界からの必要に応じた内生的通貨供給である。したがって名目的物価上昇という意味での貨幣的インフレーションを起こさない。他方,財政支出による供給は紙幣流通法則にもしたがうので,商品総量を所与とした,外生的で一方的通貨供給にもなり得る。実際にそれが起こるかどうかは,財政支出が,失業者の就業,遊休している設備の稼働,滞貨の流通,そして未利用資源の商品化を引き起こすか,それらを起こさずに通貨供給量だけを引き上げるかにかかっている。最後の場合には物価だけが名目的に上昇する貨幣的インフレとなる。なお,ここでマルクスの理論とケインズの理論は重なっている。もちろん,どのような通貨供給によっても,個別的需給不均衡による価格上昇や,生産費上昇による実質的物価上昇は起こり得る(※1)。

 しかし,このように整理した場合でも,なお理解が難しい領域がある。それは遊休貨幣の動きである。21世紀突入以来,日本の大企業が現預金や金融資産を積み上げてきたことはよく知られている。この傾向はコロナ禍でも続いた。そして家計もまた長らく貯蓄超過であり,コロナ禍でも日本全体で見れば現預金を積み上げた。賃金の低下幅を上回って消費が減退し,さらに給付金が支給されたからである。これを理論的に言うならば,一方では,産業企業による,利潤を産業資本に転化するという意味での資本蓄積が停滞しているのであり,他方では,労働者家計を含めて家計内部には相当な格差があり,一定の家計では相当な貯蓄を形成しているのである。これらの滞留する,あるいは金融的流通に向けられている現預金は,貨幣論的には,「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある。これをどのように理解すべきか。

 一方において,これらはマルクス派の言う蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣とは,流通から外部に出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される貨幣である。これを満たすのは,それ自体が価値を持つ,金貨や銀貨などの正貨だけである。預金通貨や中央銀行券は,貨幣流通法則の次元での蓄蔵貨幣にはなり得ない(※2)。

 他方において,滞留する現預金や金融資産は,少なくとも一定期間,財・サービスの物価形成に参与していない。財・サービスの流通を媒介せずにたんす預金や貯蓄性預金として停滞するか,あるいは金融的流通に回り,株式や社債や国債に投じられているからである(※3)。

 管理通貨制度の下で「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある通貨を整合的に取り扱う理論的方向自体は,古くから提起されている。これらを流通内で一時的に休息している休息貨幣と見なすのである(岡橋保『新版 貨幣論』春秋社,1956年)。この規定は,理論的には貨幣流通法則と整合するものであり,本稿の出発点となる規定である。しかし,問題はこの一時的休息,休息貨幣という規定によって通貨供給の動きと物価形成の関係をどこまで把握できるかである。また,一時的に休息し得るということは,管理通貨制の下での預金通貨や中央銀行券にも一時的な価値保蔵機能が認められるということである。蓄蔵貨幣にはなり得ないが一時的な価値保蔵機能を持つとはどういうことか。

 まずは休息について考えよう。「一時的休息」という規定は,結局は動き出して財・サービスの流通を媒介するというニュアンスを持つ。しかし,現代の資本主義では,この休息する貨幣の量が大きく,休息する期間が長くなり,経済全体への影響が無視できなくなる傾向にある。なぜなら資本主義の成熟とともに,産業資本は投資機会を見つけにくくなって法人貯蓄を積み上げ,家計の一部も貯蓄を形成するからである。これらの貯蓄は現時点では物価形成に参与していない。しかし,今後もしばらく参与しないのか,結局は参与するのか。また参与するにしても,いつどのようなタイミングと方法で参与するか,例えばリベンジ消費か設備投資か在庫積み上げか,何に対する消費や投資か。これらは重要な問題であるが,「一時的休息」という規定だけから直接に答えることはできない。

 とくに問題なのは,財政赤字によって外生的に投入された通貨の行方である。ある時点で財政の一方的拡大が行われても,支出のかなりの部分がいったん遊休貨幣ないし休息貨幣となったとする。その中には家計の所得としての遊休貨幣もあれば,企業の手元での遊休貨幣資本もある。しばらくしてからこれらが支出されると,それらが支出に対応しただけの生産拡大を誘発すれば,需要超過による物価上昇は起こったとしても貨幣的インフレは生じない。しかし,これらの支出が生産拡大を誘発しなければ,貨幣的インフレが発現するだろう。2020年の財政拡大は,2022年や2023年に貨幣的インフレを起こすこともあり得るし,2022年や2023年に雇用と景気を改善して貨幣的インフレは起こさないこともあり得るのである。どちらになるかは,財政を拡大した時点では決定されない。

 「一時的休息」という規定は,通貨供給量の増大からインフレーションの発言までタイムラグがある可能性を示唆している。ここにこの規定の積極的意義がある。しかし同時に,一時的に休息している遊休貨幣が,結局のところ物価を引き上げるのか,それとも引き上げないのかは,場合によるとしか言えないということにもなる。ここの問題は,貨幣流通法則が誤っているとか無効になっているとかいうことではない。しかし,貨幣流通法則が抽象的であるが故に,それだけでは具体的な局面の理解に十分ではないということである。遊休貨幣の運動についての,より具体的な運動法則を用いなければ,その物価への影響は解明できないのである。

 次に,一時的な価値保蔵についてである。それ自体価値を持たない,不換の預金通貨や中央銀行券での価値保蔵がなぜ可能となるのだろうか。これらの通貨は,すでに流通内にあるのでインフレーションによる減価のリスクにさらされている。なので,持ち手にとっては,流通手段として用いる以外に道がないように思える。しかし,そうではない。インフレによる減価リスクを相殺するような利得があれば,そこに流通手段以外の利用方法が生まれる。それは現金のまま保有することによる流動性の確保であり,またそれ自体は価値を持たない架空資本,つまりは金融資産への投下による資本蓄積である。もちろん後者は,それ自体リスクのある営みである。しかし,持ち手に取ってこの二つの意義が大きくなるような条件があれば,不換の預金通貨や中央銀行券のままの保有や,金融資産への投下による価値保蔵や価値増殖が試みられるのである。

 遊休貨幣の運動とは,これらが財・サービスの消費に向かうか,財・サービスの購入や雇用の拡大を通した投資に向かうか,それとも現預金のまま遊休し続けるのか,あるいは現預金以外の金融資産の購入に向かうのかという問題である。これを支配するのは,産業活動に投資した場合の利潤の見通しと,流動性選好による利得と,金融資産選好による利得の関係であり,それらを規定する諸条件に他ならない。ここで再び,マルクスの世界とケインズの世界は重なるべきである。マルクス派は,遊休貨幣の運動を論じるために,ケインズの流動性選好説を摂取しなければならないし,そうすることによって自らの体系を損なうことなく拡張することが可能になるだろう(※4)。

 マルクス派の貨幣理論では,管理通貨制の下での遊休貨幣を蓄蔵貨幣として取り扱うことはできない。遊休貨幣は流通内で一時的に休息している貨幣であって蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣ではないにもかかわらず,一定の価値保蔵機能を持つために,現金のまま保有されたり,金融資産に投下されたりすることが可能なのであり,そうされている期間は物価形成に参与しないのである。この遊休貨幣の運動を取り扱おうとするときに,マルクス派はケインズの流動性選好論を摂取しなければならない。これが,このノートの差し当たりの主張である。


※1 このような理解は,マルクス派の中でも貨幣流通法則の現代における作用を最大限に認めるものであり,管理通貨制の下では紙幣流通法則しか働かないという議論の対極に位置するものである。同じマルクス派の中でも,預金や中央銀行券は金本位制であれ管理通貨制であれ信用貨幣だと認めれば前者の理解に近づき,両者は金債務だから金本位制では信用貨幣であっても管理通貨制では価値シンボルに過ぎないと考えると後者の理解になる傾向を持っている。私は前者に立っている。よく言われる話題で言えば,「金・ドル交換停止以後のドルは紙切れに過ぎず,国家権力の強制で流通している」という議論には立たない。ドルは連邦準備銀行の信用ある手形だから流通しているのである。

※2 貨幣蓄蔵をめぐる法則自体は,管理通貨制の下でも作用する。預金通貨は,貸付けや信用代位によって流通に入り,返済や信用代位によって流通から出る。そして流通から出れば消滅する。また中央銀行券は,預金が引き出されることによって発行され,預金として預け入れられると消滅する。両方とも,商品世界の動きに従属して流通に入り,また流通から出る。この意味では貨幣蓄蔵の法則に従っている。しかし,これらが流通から出るのは消滅する時である。流通から出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される正貨は,管理通貨制では存在しない。

※3 株式や社債への投下とは,企業の投資をファイナンスすることではないかという疑問があるかもしれない。株式・社債の発行市場での購入はその通りである。しかし,流通市場での購入はそうではない。既発行の株式・社債といった金融資産を購入すれば,購入に投じた貨幣は前の持ち主のもとに移るだけである。この場合の貨幣流通は金融的流通なのであり,金融的流通にまわっている貨幣は,財・サービスの購買に用いられないという意味では遊休貨幣のままなのである。

※4 ここでは流動性選好を広く定義すれば金融資産選好も含まれると考えたが,小野善康『資本主義の方程式』中公新書,2022年では流動性選好と資産選好は別物として定義されているように見える。今後検討したい。


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...