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2023年1月29日日曜日

「あそこに座ってない時は,死んだ時です」:三谷昇氏の訃報に接して

 俳優の三谷昇氏が亡くなられた。読売新聞の報道では、『ウルトラマンタロウ』出演とタイトルに書いてくれている。そう,特撮オタクにとっては,三谷氏と言えば『ウルトラマンタロウ』である。もちろん他にも,『帰ってきたウルトラマン』第22話のピエロ,映画『宇宙からのメッセージ』のカメササ,『電子戦隊デンジマン』第13話のアドバルラー人間態,『宇宙刑事ギャバン』の魔女キバなどもあるが。

 三谷氏は、『タロウ』の最終盤3話に、ZATの二谷一美副隊長として出演された。前任の荒垣副隊長の東野英心氏が骨折したことを受けてのピンチヒッターだったということだ。

 3話だけの出演だったが、第52話「ウルトラの命を盗め!」(脚本:石堂淑朗,監督:筧正典,特撮監督:大木淳)では堂々主役を務められた。このエピソードは,終盤の『タロウ』にいくつか見られるシリアス編である。宇宙では戦争が続いており,怪獣ドロボンはそこにウルトラ兄弟を巻き込もうとして地球にやってくる。ウルトラマンジャックはこれを止めようとして返り討ちにあり,地球ではタロウと協力して自らのカラータイマーをはぎとられてでもドロボンを阻止しようとする。そしてドロボンの人質となった二谷は,タロウがたたかいやすいように自らの命を絶とうとこめかみにZATガンを当てるのだ(幸い,故障かエネルギー切れで不発だったが)。

 どうにかドロボンを撃退し,ウルトラマンジャックも二谷も助かってラストシーン。人質になってしまったことを副隊長失格だと言って自席に座ろうとしない二谷に(画像1),東光太郎(篠田三郎)が言う。


東「副隊長,それはいけないですよ。」

二谷「いいんだ。」

東「隊長が死ねば副隊長が指揮を執り,副隊長が死ねば北島さん,北島さんがだめなら南原さん。ZATの規則は,そうでしょ?」

二谷「まあ,そりゃあ。」

東「なら,副隊長は死ぬまで副隊長です」。二谷の表情が,何かに気づいたかのように変わる。そして,ここまで勢いよくたたみかけていた光太郎は,静かに言う(画像2)。「あそこに座ってない時は,死んだ時です。」


二谷「……わかった。」

東「わかったら,どうぞ!」

 自席に戻った二谷が威勢よく「定時警戒態勢,出動!」を命じてエピソードは閉じられる(画面2)。


 「あそこに座ってないときは,死んだときです」。平常なら縁起でもないが,ドロボンとの戦いの後なので説得力がある。自分の心情だけで職責を放棄してはならない。生きているのだから、するべきことをしなければならない。命を捨てても任務を果たそうとしたあなたならば,わかっていらっしゃるのではないですか。副隊長は,生きて帰って来てくれたではないですか。光太郎はそう問いかけたのである。

 ここで『タロウ』の世界に奥行きが生まれる。明るくおちゃらけているZATも,実は死と隣り合わせの職場なのである。戦闘の場でなく作戦室の平常時の会話でそのことを表現したこのシーンは貴重なものだと,私は思う。

 どうぞ安らかにお休みください。

2023年1月26日木曜日

アセアンにおける高炉一貫製鉄所建設とカーボン・ニュートラル

 『日本経済新聞』の報道によれば,フィリピンの鉄鋼・鉄筋加工メーカースチールアジアが,中国宝武鋼鉄集団と連携し,生産能力300万トンの高炉一貫製鉄所を建設することで合意した。投資額は1080億ペソ(約2600億円)。2000人の雇用創出効果があるとされる。おそらく元情報は1月23日付のINQUIRER.NETであろう。同紙は今月7日からこのプロジェクトについて報じていた。マルコス大統領が中国訪問の際に成立させた14の合意のうちのひとつであるとのこと。実現すれば,フィリピン発の高炉一貫製鉄所となる。


 さて,アセアン諸国では高炉一貫製鉄所建設が相次いでいる。1000立方メートル以下のミニ高炉は除くとしても,すでにベトナムのフォルモサ・ハティン・スチール(台湾資本),ホア・ファット・ズンクワット(地場),インドネシアのクラカタウPOSCO(地場・韓国資本),クラカタウ・スチール(地場),徳信製鉄(中国資本)が稼働し,さらにマレーシアではアライアンス・スチール(中国資本)が稼働し,現在は小規模なイースタン・スチール(中国資本)が設備大型化を狙い,文安鋼鉄(中国資本)とライオン・グループ(地場)が高炉建設を計画している(もっとも,この会社は何度も計画しては挫折している)。これに今回のフィリピンでのスチールアジア(地場・中国資本)が加わる。日本企業はフォルモサと徳信にマイナー出資している。

 従来であれば,鉄鋼需要の増加に対応して鉄鋼生産力の増強が画期を迎えたこと,外資誘致が能力建設を加速していること,すべて実現すれば能力過剰となることに注目するところである。しかし,現状ではそれ以外にもう一つ,重要な課題を落とすことはできない。それは,高炉一貫製鉄所を建設すれば大規模なCO2排出源になるということである。


 もちろん,高炉による銑鉄生産量が大きい中国,インド,日本,ロシアなどの方がCO2排出量ははるかに大きい。それを踏まえた上で,なおアセアンはアセアンで,鉄鋼生産の急増エリアとして独自の問題をなすとみなければならない。アセアン主要6か国は2030年までのCO2排出削減目標は提示しているし,カーボンニュートラルもタイ,ベトナム,マレーシアは2050年,インドネシアは2060年に達成すると意欲的である(杉本・小林・劉,2021)。しかし,その目標を,製造業最大のCO2排出源である鉄鋼業にどのように課し,生産能力や生産技術の構成をどのように導くかは,ほとんど具体化されていないようである(ベトナムについては来月関係機関にヒアリングしたい)。現状では,鉄鋼需要に応じて高炉建設が集中している。とくに中国メーカーは,自国での生産能力増強が規制されている分,アセアンへの進出を拡大している。


 こうした動きが,温暖化対策にどれほど足かせとなるだろうか。ドイツのシンクタンクAgora Energiewendeは世界鉄鋼業のCO2排出量を2019年の30億トンから2030年までに17億トンまで減少させるシナリオと政策を構想している。シナリオの構成要素が報告書では読み取りづらいものの,アセアンとインドにおける石炭ベースの製鋼能力建設(高炉・転炉法のことだろう)計画1億7600万トン(アセアン8900万トン,インド8700万トン)のうち5000万トンを直接還元鉄とすることが必要なようである。このままでは,それは到底実現しそうにない。しかし,2050年や2060年にカーボンニュートラルを実現するのであれば,短くて20年,長ければ50年は稼働する可能性がある高炉一貫製鉄所を,2020年代後半に建設することはリスクとなる。


 鉄鋼生産力増強の必要性と,気候変動による産業・生活への脅威の高まりの双方をどう直視するか。アセアンにおける気候変動対策の強化を,先進諸国や鉄鋼大国の責任を考慮しながらどうファイナンスし,どのようなスキームで実行していくか。アセアン諸国鉄鋼業は,産業発展を持続可能とするために,新たな問題と格闘しなければならない。


「フィリピン鉄鋼大手、中国宝武と製鉄所 2600億円投資」『日本経済新聞』2023年1月25日。


Alden M. Monzon,SteelAsia, BaoSteel forge deal to build P108-B facility, INQUIRER NET, January 23, 2023.


Jean Mangaluz,PH expects up to $2 billion in China investments to revive steel industry,INQUIRER NET, Jan.7, 2023.


杉本慎弥・小林俊也・劉泰宏「ASEAN におけるカーボンニュートラルの現状」『NRI パブリックマネジメントレビュー』221, 2-10,2021.


Global Steel at a Crossroads:Why the global steel sector needs to invest in climate-neutral technologies in the 2020s, Agora Industry, Nov. 2021.


『[参考和訳]岐路に立つ世界鉄鋼業:世界の鉄鋼セクターが2020年代にカーボンニュートラル技術に投資すべき理由』自然エネルギー財団,2021年12月。


2023年1月20日金曜日

なぜ,まず賃上げをしなければならないか。まず生産性を上げようという発想のどこがまずいのか

 まず付加価値生産性を高めて賃金原資をつくり出して賃上げしよう,そのことに政策の重点を置こうという意見は根強い。この記事で奥平寛子氏が述べるのも,その一つのバージョンだ。氏は言われる。「労働市場の流動化がすぐには進まないことを前提とすると、成長分野での資本蓄積やイノベーションを促す投資減税などの政策が求められる。労働者あたりの付加価値が増えれば実質的な賃上げが進むだろう。」


 だが,21世紀に入ってからの20年余り,何が起こって来たのかをよく考えよう。異次元とか超のつくほど金融は緩和されてきた。研究開発減税も行われた来た。企業の売上高経常利益率はバブル以前に劣らない水準だ。日本全体としてみれば,企業は,投資のもとでとなる資金を入手するのは容易だったのだ。しかし,実物資産への設備投資は増えなかった。企業の資産に占める有形固定資産の割合は低下し,現預金や子会社・関連会社株式の割合が増えた。経営者は,日本国内で消費が伸びそうもないことを強く認識していたからだ。消費が伸びないのは,中低所得者の賃金が全く伸びないからであり,またそれでも老後の不安から予備的動機で貯蓄してしまうからである。企業はもうかっても生産能力を拡大する純投資は手控えたままだった。純投資を行たのは海外直接投資においてであった。国内で盛んに行われたのは子会社・関連会社の再編であり,端的に相対的に伸びている分野に自社の所有・支配権を移していくことだった。


 この状態では,まずやるべきは生産性向上ではない。生産性向上は長い目で見て必要であるが,そのためにまずやるべきは,企業にお金を与えることではない。それでは,決して設備投資は増えない。現に20年余り増えなかったのである。まず最初に,個人がお金を今よりも使えるようにしなければならない。そうしなければ消費は増えず,国内消費が増えなければ投資も増えない。所得が増えれば増えた分だけ消費を増やすのは中低所得者である。なので,広範な非正規労働者を包摂するように,中低所得者の賃金を引き上げることを,「まず最初に」やるべきだ。それによって,生産性を上げなければ経営が成り立たないという危機感を経営者に与えることが,長い目で見ても有効だろう。

奥平寛子「賃上げへ生産効率向上カギ インフレの先にあるもの」日本経済新聞2023年1月18日。

2023年1月17日火曜日

債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)

  前稿に続き,クナップ『貨幣の国家理論』を検討する。


<クナップは表券主義をもとに貨幣流通の根拠を論じているか>

 クナップは貨幣とは表券的支払手段であり,法秩序の創出物であるとする。しかし,前稿で見たように,クナップが本書を通して証明したことは,価格標準は国家が制定するものであるということに他ならない。このことがクナップの功績であり,逆に,このことから貨幣の本質まで論じることがクナップの限界であると思う。

 クナップが,国家権力の力によって貨幣が通用すると考えていることは間違いない。その最大の根拠は,価格標準は国家が制定するしかないものだからだというところにある。しかし,価格標準を国家が制定したからと言って,人々がそれを受け入れ,国家の貨幣を受け入れるとは限らない。では,なぜ貨幣は流通するのか。クナップは,そこを積極的に説明しているようでもあり,していないようでもある。

 ここで注目すべきは,クナップが,「素材的価値のない表券箇片に対する非難」に第1章で反論しようとしていることである(邦訳52-57ページ)。まずクナップは大胆にも,「たとえ箇片の文言が『債務証券』となっていても,その債務が償還されないものなら債務ではない」とし,紙券が国家の債務証書であることを否定する。しかし,「実際,債務から解放されるのなら,自分は何か材料を受け取ったかどうかなど考えなくてよい。とくにこの貨幣は国家に対する債務から解放してくれる。国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」として,国家が課す債務は,国家の発行する貨幣による支払いで解消されるという,相殺機能の有効性を主張するのである。

 しかし,クナップは,この機能を貨幣が人々に受け入れられる根拠とまで特定しているようには読めない。そこは「租税が貨幣を起動する」と断定する今日のMMT,例えばランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』とは異なるように私には思える。MMTがクナップを自らの祖先とするのは理由のあることであるが,「租税が貨幣を起動する」という自らの主張をクナップのものだと解釈するのは行き過ぎではないか。クナップは,国家が貨幣を創造したことを前提に,国家が貸す債務を解消する機能の有効性を指摘しているように,私には思える。


<債権債務の相殺は手形取引に由来する>

 ただ,ここでは敢えて一歩譲り,国家が課す債務を解消できることが,貨幣を人々が受容する最深の根拠になるのかどうかを検討しておきたい。結局,この機能の有効性を貨幣流通の根拠に高めることによってMMTの論理が構築されたことが,クナップ説復権の理由になっているからである。

 さて,クナップは「国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」とするが,「発行者だから受け取らざるを得ない」という言い方は,いま一つ説得力が弱い。これは債権と債務の相殺だから可能なのだとみなすべきである。国家の貨幣で租税等を支払うのは,国家が課した債務を,国家に対する債権で相殺しているのである。前述のように,クナップは「償還されないものなら債務ではない」として,貨幣が債務証券であることを否定する。国家に金や財貨での支払いを要求できなければ債務証券ではないと言う意味であろう。今日では,MMTや信用貨幣論を論難する側の人々が言いそうなことである。しかし,相殺による決済に用いることが可能であり,また発行者に対する債務を返済することに使えるのであれば,債務証券という性質は,少なくとも全否定されないと見るべきである。だから,クナップは当該箇所の言説と裏腹に,事実上,貨幣の債務証券的性質を認めていると言ってよい。

 次に問題なのは,債権債務の相殺とは,そもそも課税と納税に由来することなのかということである。ここで「由来」というのは,時間的に過去にさかのぼって見つけられるべき歴史的起源ではない。つまり,ここで前近代における貨幣史を根拠にしてあれこれ論じるのは適切ではない。問題は,現代の資本主義経済における「由来」である。つまり,資本主義経済の構造において,より根本的なものは何かというところでの「由来」である。債権債務の相殺は民間にもあるし,課税・租税の関係にもある。それでは,クナップが言うように,債権債務の相殺とは課税と納税に由来するのであろうか。課税と納税がひな型となって,民間がそれに倣うようなものなのであろうか。

 明らかに異なると私は思う。債権債務の相殺とは,商品流通の発達を前提に,商品の買い手によって手形が発行され,流通するようになったことで可能になったと見るべきである。手形は貨幣の支払手段機能が自立した債務証書であり,発行者の信用度に応じて満期日まで流通する。ここではもちろん商品の買い手=手形の発行者が債務者であるが,もし誰かが発行者に対して債務を負うことがあれば,その債務をこの手形で相殺して償還することが可能である。また,多数の手形について債権債務を相殺し,残った差額のみを貨幣で支払うという取引も可能になる。手形流通によって債権債務の相殺という取引が可能になり,それを基礎にして銀行券=銀行手形の流通,銀行預金を用いた振替決済も可能になる。発券集中がなされた暁には,中央銀行の預貸と決済のシステムが成立する。

 このように,商品流通と資本主義的生産が行われている今日の経済を論じる際には,債権債務の相殺は商品流通そのものの発達,ありていに言えば民間経済に根拠を持つと言わねばならない(※)。手形と銀行券の流通・決済の方がひな型であり,課税と納税の方を派生的なものとして理解すべきである。


<とりあえずの結論>

 前稿で述べたように,価格標準とは国家が定めるものだというのは,クナップの言うとおりである。このことを多面的に,詳細に,説得力を持って明らかにしたのがクナップの功績である。しかし,債権債務の相殺という取引は,商品流通と資本主義経済内部の取引から発生するものである。以上がクナップ説に対する私の見解である。

 そして,ここから派生して,今日の信用貨幣の流通根拠を論じる際に,課税と租税から論じるよりは,商品流通の発達を前提とした手形の発生と発展から論じる方が妥当である,と私は主張する。これが,MMTの「租税が貨幣を起動する」という説に対する,私の見解である。

※ なお,先行するクナップ批判として岡橋保によるものがあり,参考にしたことを記しておく。
「クナップの支払手段理論 (Lytrologie) にあっては,国家は自由に金の貨幣名を決定しうるという価値単位の名目性と,その規定するところの支払手段により貨幣債務はいつでも弁済されるという貨幣債務の名目性とから,貨幣をも 国家の規定する記号と形態とをそなえた個片,すなわち定形的公布的支払手段 (表券的支払手段)であるとされている。これは,クナップが,債権債務の錯綜による手形の流通,手形の貨幣化(商業貨幣流通から銀行券あるいは預金貨幣の流通)の経済的背景である価値関係を看過し,その法律的表現のみをとらえたことによるものである。手形の流通は商品流通の発展の結果であり,債権債務の錯綜が,ここに,手形をして満期日までのあいだ,ふたたび, 支払手段として流通することを可能にするものであって,これら手形の割引によって,これにかわって現われた銀行や預金貨幣が,代用貨幣として流通しうる根拠も,かかる債権債務にもとづく価値関係の存在にある。したがって 貨幣の支払手段機能は,商品流通,したがって貨幣の流通手段機能とともに,価値の尺度としての機能を前提する。」(岡橋保『貨幣論 増補新版』春秋社,1957年,37ページ)。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

前稿「価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)」Ka-Bataブログ,2023年1月16日



2023年1月16日月曜日

価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)

  クナップ『貨幣の国家理論』を読み終わった。もっとも気になる点について,2回に分けて書き留めておきたい。


<クナップによる貨幣の規定>

 クナップ説を一言で言えば,貨幣は表券的支払手段だということである。もう少し言えば,「価値単位であらわされる債務は,メダルでも紙片でもいいが,標識のついた箇片で弁済され,その箇片は法秩序によって一定の価値単位の通用力を持つ。そのような箇片を表券的支払手段と言う。通用力は箇片の内容に依存しない。法秩序は国家から発せられ,それゆえ貨幣とは国家的仕組みと言うべきものである」(原著第2版第2節要旨。訳書300ページ)。

 金や銀の一定量からどれほどの貨幣が製造され,それを何百ドルとか何円とか呼ぶという形で成立している貨幣は,クナップの用語では貨幣素材発生的かつ正範的な貨幣であり,正貨である。また国が支払いに用いる貨幣が本位貨幣である。そして,法により他の貨幣に変えられず,最終的に受け取らざるを得ない貨幣を最終的貨幣と呼ぶ。

 クナップ説では,たとえば同書の発行当時である1905年には各国で広く見られた,正貨であって本位貨幣であって最終的貨幣であるような金貨は当然貨幣である。しかしまた,「国家が,これこれの外観の箇片は公布により通用する」としたもの,例えば不換の政府証券なども貨幣なのである。なので,クナップ説は,現代の貨幣,つまり兌換が停止され,それ自体は「標識のついた箇片」に過ぎないとも言える中央銀行券や,あげく特定単位の数値でしかない預金貨幣を包含する学説であり,それゆえに再評価されているわけである(※1)。とくに,その表券主義は現代貨幣理論(MMT)の,「貨幣は,国家への支払に用いられるが故に通用する」という主張に採用されている。


<価格標準の国家理論としてのクナップ説>

 さて,私が思うには,クナップ説の核心は「価値単位」の「評価」理論であり,日本のマルクス経済学が使い慣れた用語でいえば「価格の度量標準」または「価格標準」理論であるように思う。

 よく言われる貨幣の基本的機能に即して言うと,クナップは価値尺度論は論じておらず,価格標準論に力を集中している。支払手段論にも力を入れているが,流通手段論と支払手段論を含めて「支払い手段」と呼んでいるように見える。価値保蔵機能や世界貨幣機能には事実上触れているが,理論化はしていない。クナップは,価格標準を国家が制定することをもって価値尺度機能を否定している。例えば金は価値尺度ではないとはっきり言っている。貨幣素材自体の価値を認めない以上,価値保蔵機能や世界貨幣機能も理論的にはないということだろう。

 クナップが否定する価値尺度機能を強調するのは,彼の用語では金属主義学説,後に使われるようになった言葉では商品貨幣論である。クナップは具体的学派名を上げていないが,例えばマルクス派もここに含まれる。金属主義または商品貨幣説の意味は,それ自体が価値を持った貨幣商品(歴史的には銀や金などの金属)が貨幣だということである。商品貨幣論においては,金も一般商品と同じく価値を持っており,ある量の金は,それと同量の価値を持つ商品Aに等しい。ということは,その5倍の量の金は,商品A5個分や,商品Aの5倍の労働価値を持つ商品Bに等しいという風に価値が尺度される。これが価値尺度ということである。クナップは,理論的には価値尺度機能を否定したうえで,こうした論理は,金属重量測定制という原初的な制度でのみ用いられると局所化している。

 さて,価値尺度機能があろうとなかろうと,貨幣素材を用いる場合,測定するには必ず何らかの単位が必要であり,通常は重量単位が用いられる。そして重量単位,たとえばグラムを価格の単位,たとえば円によって評価し,Xグラムの金イコール1円などと定める。これが価格標準であり,こうして貨幣素材について価格標準が定められた貨幣が正貨である。クナップはこの価格標準を,金が価値を持つからではなく,国家が権力的に制定したから成立するのだとする。極論すれば,クナップが本書全体を通して述べていることは,一国内の貨幣の価値や国際的な交換比率というものは,そもそも国家が正貨について価格標準を定めたことによって成立するのだということである。

 価格標準を国家が定めるという命題は,実は商品貨幣論に立っても成立する。貨幣商品が価値尺度機能を果たすとしても,Xグラムの金を1円と呼ぶか1クレジットと呼ぶか,あるいは0.239Xグラムの金を1円と呼ぶかは,自然発生的な商品交換からは決まらない。この価格標準を誰かが人為的に与えなければ決まらないのである。商品貨幣論をとるとしても,価値尺度論は商品交換から自然に成立するものとして論理構成できるが,価格標準論では国家の機能を想定せざるを得ないのである。なので「価格標準は国家が定めるものである」という命題自体には非常な説得力がある。この命題を証明したことが,クナップの最大の功績であるように,私には思える。

 では,上記の考察から見れば,現代の管理通貨制度とはどのようなものか。クナップの規定を拡張して適用すればいい。現代の管理通貨制とは,「国家が正貨を定めず,したがって商品貨幣についての価格標準の単位は定めても水準をもはや定めない」制度だということになる。

 管理通貨制度のもとでも,国家は価値単位を定めて国内に強制してはいる。日本では「円」,アメリカでは「ドル」という単位が使われる。しかし,国家は,金属材料に対する評価は止めてしまっており,価値単位は名目的なものになっている。1円が金何グラムであるかは公定されず,固定もされていない。また金や銀も,もっぱら貨幣商品であることを止め,工業材料としての需要やポートフォリオの一つとしての需要から価格が変動している。

 したがって,価格標準は「円という価値単位を使うと国家が決めた」と言う意味では存在している。しかし,金1グラムイコールx円という形で貨幣商品と一般商品を特定の量的関係に置き,金を貨幣商品として機能させるという意味では,もはや存在しなくなっているのである。価格標準の「単位」はあるが「水準」が失われているのが管理通貨制である。管理通貨制というと,通念では「紙幣が金兌換されない不換制」が思い浮かべられるが,それよりも,この方が根本的な特質ではないか。このような含意を引き出せることが,クナップ説の現代的意義であると,私は思う(※2)。

 さて,次の問題は,価格標準が名目的であることをもって,貨幣は国家の権力的行為の創造物としてよいのかということである。この論点こそ,クナップ説が現代に復権している理由なので放置はできない。ここではクナップをより批判的にとらえることになり,間接的にMMTの主張を検討することにもなる(続く)。


※1 もしかすると,「○○は名目的存在であり,誰かがそう名付けたから○○なのであって,内在する本質から○○であるわけではない」という論法が,現代の哲学潮流にもなじむが故にクナップ説が復権しやすいのかもしれないが,そのこと自体にはあまりかまいたくない。

※2 ここでの本題ではないが,商品貨幣説に対しては,「正貨がなくなった管理通貨制度では,価値尺度機能は停止するのか」という疑問が投げられるだろう。これに対してできる限り簡素に答えるならばこうなる。商品流通には商品貨幣の価値尺度機能がもともとは必要である。しかし,資本主義経済は,その発達とともに商品貨幣の代理貨幣として,手形,銀行券,預金貨幣,補助貨幣,中央銀行券,中央銀行預金貨幣を発達させる。そのことによって,正貨を実際には用いなくても資本主義経済は機能するようになるのである。正貨の代理物によっても,価値尺度機能は,間接的に,相当なブレと不正確さを伴いながら作用しているのである。だからこそ,無数の商品の相互関係が成り立っており,ある商品の価値は別の商品のX倍だとか1/Xだと言いうるのである。異論はあるだろうが,少なくともこう見ることは不可能ではない。
 だからと言って私は,正貨の存在する制度と管理通貨制度に何の違いもないと言っているのではない。価値尺度機能と価格標準の「単位」設定機能は停止していないが,価格標準の「水準」設定機能は停止しているのが管理通貨制度だというのが,ここでの私の見解である。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

続稿「債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)」Ka-Bataブログ,2023年1月17日。





2023年1月15日日曜日

松本清張『日本の黒い霧(上)(下)』は歴史的な書物として読むべき

  NHKスペシャル未解決事件で帝銀事件が取り上げられたためか,松本清張『日本の黒い霧(上)(下)』の評判が上がっている。版元の文藝春秋社も文庫にNスペの帯を付けて売り出しているようだ。

 しかし,『日本の黒い霧』の中には,その後の研究・調査の積み重ねで覆されている箇所も少なくない。私は松本清張を好んで読みもするし(とはいえ30冊程度で初心者級だが),その近現代史研究の中でも『昭和史発掘』からは学ぶところも大きかったが,戦後史に関心を持つ研究者としては,むやみに『日本の黒い霧』を,いまでも真実であると持ち上げることには同意できない。

 私個人の関心から言うと,「帝銀事件の謎」,「推理・松川事件」,「追放とレッド・パージ」は今なお戦後の裏面史をえぐっているし,「下山国鉄総裁謀殺論」,「『もく星』号遭難事件」,「征服者とダイヤモンド」も,結論や松本氏のその後の論のふくらませ方(たとえば小説『一九五二年日航機「撃墜」事件』)には同意できないが,問題の所在を鋭く提起した歴史的価値があると思う。

 対して,「白鳥事件」「革命を売る男・伊藤律」は,今日ではまったく誤りであることが渡部富哉『白鳥事件 偽りの冤罪』『偽りの烙印』などによって証明されている。文春文庫版では,いまでは「作品について」(2013年)という文が掲載されて,伊藤律スパイ説は認めがたいと記されている。そして終章の「謀略朝鮮戦争」も,朝鮮戦争がアメリカによって一方的に計画され,日本国内の数々の謀略もその伏線であったとみなすものだ。北朝鮮が能動的に開戦を準備したことがわかっているいまでは,一面的に過ぎる主張と言わざるを得ない。

 『日本の黒い霧』は,今でもそれが真実だというものとしてでなく,当時,松本清張氏がこのように考えて書いたのだという,歴史的な書物として読むべきだろう。


文春文庫 松本清張『日本の黒い霧』上・下https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167106973
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167106980



2023年1月11日水曜日

忍者っ娘萌えか,ネタ切れか:光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年からの発見

 光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年。以前にとりあげた『光瀬龍 SF作家の曳航』ラピュータ,2009年と対になる本だが,ISBNなしの直販品なので,ごく最近まで気づかなかった。

 単行本未収録作品14点が収められているが,最初の3点からは驚愕の事実が明らかになる。

『夕映え作戦第2部 指令B-3を追え』:再び現代に召喚された風祭陽子の活躍(死んでなかったんかい)
『ダッシュ9.9』:江戸時代からやって来た少女忍者「ふう」の活躍
『花冠作戦(ジ・オペレーショ・カロライン)』:過去からタイムスリップしてきた少女忍者「きららぎ」の……。

 つまり,「少女忍者現代に現る」物は,大ヒットしてNHK少年ドラマにもなった『夕映え作戦』だけではなかった。それ以降,少なくとも3作あった。光瀬先生は,強度の「忍者っ娘」萌えであったか,当時ネタに詰まっていたらしい。おそらく両方ではなかろうか。

直販サイト




2023年1月6日金曜日

黒木亮『兜町の男:清水一行と日本経済の80年』毎日新聞出版,2022年を読んで

  黒木亮『兜町の男:清水一行と日本経済の80年』毎日新聞出版,2022年。経済小説家・清水一行の生涯を描くノンフィクションである。清水氏は,今では2世代位前の経済小説家というところだろうか。学生時代に,指導教官の金田重喜教授が,世の中は欲望と怨念で成り立っていると知ることができると推奨していたことを覚えている。だが,結局私は日本の経済小説は今世紀になってから読むようになり,池井戸潤氏や,本書の著者黒木氏のものになじみがある一方,清水氏のものはほとんど読んでいない。酒と女と飲み屋とバーとホテルと総会屋と組織への忠誠心の世界は,松本清張氏で腹いっぱいであるからかもしれない。

 そうした事情もあり,本書は私には,清水氏の波乱に満ちた生涯がひととおりわかる,清水一行入門として面白く読めた。しかし,黒木氏のタッチはあまりにも淡々としており,作者の視点はほとんど記述に現れない。黒木氏が清水氏をどのようにとらえているのか,よくわからなかった。以前,川崎製鉄の西山弥太郎社長を描いた『鉄のあけぼの』を読んだ時も同じように思った。私に黒木氏の叙述を深く読む力ないのか,黒木氏が,ノンフィクションとは事実経過を淡々と描くものだと考えているかの,どちらかだろう。しかし,ノンフィクションも,対象となる事実をどう選び,どう書くかが問われるものではないだろうか。

 それでも,日本共産党との出会いと別れは比較的明瞭な筆致で描かれている。五十年問題総括の過程での日本共産党の側の自己批判書や,1990年代の松本善明氏の訪問をめぐる記述は、清水氏のこの党への思いの振幅を感じさせるものだ。他方,清水氏が経済小説に求めたものは何であったのか,清水氏は,労働運動では見つけられなかった何を,その対極とも言えるビジネスの世界に見つけたのかが,もう一つ伝わって来ない。また,甲山事件の捜査を題材にした小説をめぐって,同事件の原告の支援者たちから訴訟を起こされ,敗訴したことについても,清水氏が何を守ろうとしたのかが,もう一つ明らかにならない。

 繰り返すが,本書は「清水一行入門」として役に立つ。作者の乾いた描き方は,やはり清水氏の小説も読んで自分で確かめてみようと思わせてくれる分にはいい。しかし,本書には清水氏の姿はあっても,これを描く黒木氏の姿が見えなさすぎることが,いささか残念であった。

出版社サイト
https://mainichibooks.com/books/social/80-2.html



2023年1月3日火曜日

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年を読む

 萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。新装版だの豪華特典付き××版だのは基本的に買わないのだが,これは例外中の例外で購入した。エッセイやインタビューが付け加えられているからだ。

 私は,この作品について以前から知りたいことがあった。それは,原作になくマンガにのみある部分は,どういうルールの下で誰が創作したのかということだ。今回,「萩尾望都に聞く「SF100の質問」」で,エルカシアの巫女ユメは萩尾先生の創作であったことはわかった。また,これまで読んだものの中に,光瀬先生がマンガのストーリーに介入された形跡がないので,おそらくマンガにのみある部分は,萩尾先生の創作によるものなのだろう。

 大きな展開での違いを見ると,原作では都市ZEN-ZENはアスタータ50にあって,そこの首席はユダではないが,マンガではゼン・ゼン市は別の場所にあり,そこの首席は惑星開発委員会のマインド・コントロールを受けたユダだ。原作ではアスタータ50から最後の目的地に一気にジャンプするが,漫画ではゼン・ゼン市から一度トバツ・シティーへ移動し,弥勒像の口からアスタータ50へとジャンプ,それから最後の場所に向かう。

 私にとって気になるのは登場人物の方で,当然かもしれないが漫画の方が阿修羅王もオリオナエもシッタータも表情が多面的で豊かであり,また重要なセリフも付け加えられている。

 阿修羅王の「私は相手が何者であろうと戦ってやる。この 私の住む世界を滅ぼそうとするものがあるなら,それが神であろうと戦ってやる」というセリフ,オリオナエの「わしはアトランティスの生き残りだ」「神と信じあがめていたものが我々に与えた裁きを忘れないぞ」というセリフは,原作にないものだ。また,原作では阿修羅王の幻覚の中でしか活躍しない帝釈天が,漫画では阿修羅王に対峙するトバツ・シティの軍事指導者として現れる。破滅を運命として受け入れる者の代表として。しかし,戦い続ける阿修羅王に関心を寄せるものとして。「あの極光の下に阿修羅王がいる。阿修羅王……が……。美しいものであろう,太子。あれの心のように微妙に移り変わる……」。しかし,阿修羅王は決して戦いをあきらめない。首を振って言う。「あなたは老いた,帝釈天」。帝釈天は言う。「勝てるのか!神と戦って!シと戦って!あなたはおのれの死と戦って勝てるか!」。その表情は悲しげに変わる。「…もう戦うことをやめぬか,阿修羅。おまえは勝てない…勝つことはできないのだ。」。阿修羅王の右目を涙がつたう。これらも,みな原作にないものだ。

 しかし,こうした原作にない部分が私にとっては印象深く,原作よりも漫画の方を繰り返し読む理由になった。10-20代の頃には阿修羅王がこの上なく美しく見えたし,いまでは帝釈天の阿修羅へのまなざしも,わかりたくはないがわかるような気がする。

 今回も直接には謎は明かされなかったが,おそらくこれらの部分も萩尾先生が創作されたのだと思われる。複数のインタビューや今回のQ&Aからは,萩尾先生の興福寺阿修羅王像に対する思いがとても深いものであることがわかる。「あの像の中にすべてが収まっていますね。運命も。宇宙も。永遠も」。「あのお顔と身体がなかったら,あの阿修羅は生まれませんでした」。数々の追加シーンも,先生の阿修羅王への思いの産物であり,それが他の登場人物にも反射したものだったのであろう。

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。




ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...