クナップ『貨幣の国家理論』を読み終わった。もっとも気になる点について,2回に分けて書き留めておきたい。
<クナップによる貨幣の規定>
クナップ説を一言で言えば,貨幣は表券的支払手段だということである。もう少し言えば,「価値単位であらわされる債務は,メダルでも紙片でもいいが,標識のついた箇片で弁済され,その箇片は法秩序によって一定の価値単位の通用力を持つ。そのような箇片を表券的支払手段と言う。通用力は箇片の内容に依存しない。法秩序は国家から発せられ,それゆえ貨幣とは国家的仕組みと言うべきものである」(原著第2版第2節要旨。訳書300ページ)。
金や銀の一定量からどれほどの貨幣が製造され,それを何百ドルとか何円とか呼ぶという形で成立している貨幣は,クナップの用語では貨幣素材発生的かつ正範的な貨幣であり,正貨である。また国が支払いに用いる貨幣が本位貨幣である。そして,法により他の貨幣に変えられず,最終的に受け取らざるを得ない貨幣を最終的貨幣と呼ぶ。
クナップ説では,たとえば同書の発行当時である1905年には各国で広く見られた,正貨であって本位貨幣であって最終的貨幣であるような金貨は当然貨幣である。しかしまた,「国家が,これこれの外観の箇片は公布により通用する」としたもの,例えば不換の政府証券なども貨幣なのである。なので,クナップ説は,現代の貨幣,つまり兌換が停止され,それ自体は「標識のついた箇片」に過ぎないとも言える中央銀行券や,あげく特定単位の数値でしかない預金貨幣を包含する学説であり,それゆえに再評価されているわけである(※1)。とくに,その表券主義は現代貨幣理論(MMT)の,「貨幣は,国家への支払に用いられるが故に通用する」という主張に採用されている。
<価格標準の国家理論としてのクナップ説>
さて,私が思うには,クナップ説の核心は「価値単位」の「評価」理論であり,日本のマルクス経済学が使い慣れた用語でいえば「価格の度量標準」または「価格標準」理論であるように思う。
よく言われる貨幣の基本的機能に即して言うと,クナップは価値尺度論は論じておらず,価格標準論に力を集中している。支払手段論にも力を入れているが,流通手段論と支払手段論を含めて「支払い手段」と呼んでいるように見える。価値保蔵機能や世界貨幣機能には事実上触れているが,理論化はしていない。クナップは,価格標準を国家が制定することをもって価値尺度機能を否定している。例えば金は価値尺度ではないとはっきり言っている。貨幣素材自体の価値を認めない以上,価値保蔵機能や世界貨幣機能も理論的にはないということだろう。
クナップが否定する価値尺度機能を強調するのは,彼の用語では金属主義学説,後に使われるようになった言葉では商品貨幣論である。クナップは具体的学派名を上げていないが,例えばマルクス派もここに含まれる。金属主義または商品貨幣説の意味は,それ自体が価値を持った貨幣商品(歴史的には銀や金などの金属)が貨幣だということである。商品貨幣論においては,金も一般商品と同じく価値を持っており,ある量の金は,それと同量の価値を持つ商品Aに等しい。ということは,その5倍の量の金は,商品A5個分や,商品Aの5倍の労働価値を持つ商品Bに等しいという風に価値が尺度される。これが価値尺度ということである。クナップは,理論的には価値尺度機能を否定したうえで,こうした論理は,金属重量測定制という原初的な制度でのみ用いられると局所化している。
さて,価値尺度機能があろうとなかろうと,貨幣素材を用いる場合,測定するには必ず何らかの単位が必要であり,通常は重量単位が用いられる。そして重量単位,たとえばグラムを価格の単位,たとえば円によって評価し,Xグラムの金イコール1円などと定める。これが価格標準であり,こうして貨幣素材について価格標準が定められた貨幣が正貨である。クナップはこの価格標準を,金が価値を持つからではなく,国家が権力的に制定したから成立するのだとする。極論すれば,クナップが本書全体を通して述べていることは,一国内の貨幣の価値や国際的な交換比率というものは,そもそも国家が正貨について価格標準を定めたことによって成立するのだということである。
価格標準を国家が定めるという命題は,実は商品貨幣論に立っても成立する。貨幣商品が価値尺度機能を果たすとしても,Xグラムの金を1円と呼ぶか1クレジットと呼ぶか,あるいは0.239Xグラムの金を1円と呼ぶかは,自然発生的な商品交換からは決まらない。この価格標準を誰かが人為的に与えなければ決まらないのである。商品貨幣論をとるとしても,価値尺度論は商品交換から自然に成立するものとして論理構成できるが,価格標準論では国家の機能を想定せざるを得ないのである。なので「価格標準は国家が定めるものである」という命題自体には非常な説得力がある。この命題を証明したことが,クナップの最大の功績であるように,私には思える。
では,上記の考察から見れば,現代の管理通貨制度とはどのようなものか。クナップの規定を拡張して適用すればいい。現代の管理通貨制とは,「国家が正貨を定めず,したがって商品貨幣についての価格標準の単位は定めても水準をもはや定めない」制度だということになる。
管理通貨制度のもとでも,国家は価値単位を定めて国内に強制してはいる。日本では「円」,アメリカでは「ドル」という単位が使われる。しかし,国家は,金属材料に対する評価は止めてしまっており,価値単位は名目的なものになっている。1円が金何グラムであるかは公定されず,固定もされていない。また金や銀も,もっぱら貨幣商品であることを止め,工業材料としての需要やポートフォリオの一つとしての需要から価格が変動している。
したがって,価格標準は「円という価値単位を使うと国家が決めた」と言う意味では存在している。しかし,金1グラムイコールx円という形で貨幣商品と一般商品を特定の量的関係に置き,金を貨幣商品として機能させるという意味では,もはや存在しなくなっているのである。価格標準の「単位」はあるが「水準」が失われているのが管理通貨制である。管理通貨制というと,通念では「紙幣が金兌換されない不換制」が思い浮かべられるが,それよりも,この方が根本的な特質ではないか。このような含意を引き出せることが,クナップ説の現代的意義であると,私は思う(※2)。
さて,次の問題は,価格標準が名目的であることをもって,貨幣は国家の権力的行為の創造物としてよいのかということである。この論点こそ,クナップ説が現代に復権している理由なので放置はできない。ここではクナップをより批判的にとらえることになり,間接的にMMTの主張を検討することにもなる(続く)。
※1 もしかすると,「○○は名目的存在であり,誰かがそう名付けたから○○なのであって,内在する本質から○○であるわけではない」という論法が,現代の哲学潮流にもなじむが故にクナップ説が復権しやすいのかもしれないが,そのこと自体にはあまりかまいたくない。
※2 ここでの本題ではないが,商品貨幣説に対しては,「正貨がなくなった管理通貨制度では,価値尺度機能は停止するのか」という疑問が投げられるだろう。これに対してできる限り簡素に答えるならばこうなる。商品流通には商品貨幣の価値尺度機能がもともとは必要である。しかし,資本主義経済は,その発達とともに商品貨幣の代理貨幣として,手形,銀行券,預金貨幣,補助貨幣,中央銀行券,中央銀行預金貨幣を発達させる。そのことによって,正貨を実際には用いなくても資本主義経済は機能するようになるのである。正貨の代理物によっても,価値尺度機能は,間接的に,相当なブレと不正確さを伴いながら作用しているのである。だからこそ,無数の商品の相互関係が成り立っており,ある商品の価値は別の商品のX倍だとか1/Xだと言いうるのである。異論はあるだろうが,少なくともこう見ることは不可能ではない。
だからと言って私は,正貨の存在する制度と管理通貨制度に何の違いもないと言っているのではない。価値尺度機能と価格標準の「単位」設定機能は停止していないが,価格標準の「水準」設定機能は停止しているのが管理通貨制度だというのが,ここでの私の見解である。
ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。
続稿「債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)」Ka-Bataブログ,2023年1月17日。