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2022年1月12日水曜日

小売業史から見た日本資本主義論:満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年を読んで

 満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年。非常な興奮を持って読んだ。教科書として書かれたものなので,歴史的叙述のところどころに該当する理論解説が入るという形になっているが,非常に書き込まれた近現代史であると思う。私は流通史研究の素人なので,先行研究との関係はわからないのだが。

 何よりも,楽しい。学術的に産業を描写する際の難しいことの一つは,論理的・実証的に厳密に書くことと,学生や一般の読者が,書かれていることを具体的な光景としてイメージしやすく書くことが矛盾することだ。ところが,本書はこの矛盾がほとんどなく,小売店舗が営まれ,人々が買い物をする光景を生き生きと思い浮かべながら,丁寧で,学術的裏付けのある記述を読むことができるのである。どうすればこのように書けるのだろうか。

 一方,古くさく大上段な言い方をすれば,「本書は日本資本主義論である」と思う。どこがそうかというと,著者が日本型流通の成立・展開・変質を歴史的に把握しているところであり,また流通における資本主義原理の貫徹と日本的独自性の統一として把握しているところである。そして,小売業という,圧倒的多数が自営から出発した世界から見ることによって,日本資本主義を深くとらえることができるのである。

 著者によれば,日本型流通を特徴づけるのは卸売業の多段階性と,小売業の小規模稠密性である。この二つの特徴は,明治時代から1940年代までに成立し,1950年代から80年代初頭までに展開し,それ以降,変容を遂げつつある。

 著者によれば,日本型流通が根強く維持されてきた原因は,単に大規模店舗が規制されていたからではない。一方では地域性豊かな消費市場の構造が,画一的な大量流通になじまない状況が長く続いたからであり,他方では家族経営の自営業が頑強に再生産され続けたからである。再びあえて大上段な用語法で読み解くと,ある時期,資本主義的大量流通と自営業の原理は抱合さえしていたことが,スーパーやコンビニエンス・ストアの発展過程から読み取れる。例えば,コンビニエンス・ストアの本部は大量仕入れと小口配送,情報化による単品管理を行い,FCオーナーは家族総出で24時間営業を支え,丁寧なサービスを支え,両者が補完し合ってコンビニは発展したのである。

 しかし,やがてモータリゼーションと情報化によって小売店舗の立地が大きく変わり,また調整機能における多段階・小規模稠密性の優位が失われていくことで,今日私たちが目の当たりにしているような専門量販店とショッピングセンターの優位,Eコマースの成長,そして商店街の苦境が訪れる。そして,気が付けば商店街の苦境を取り仕切るのは中高年の男性たちであり,女性は背後に置かれており,後継者は見つかりにくいのである。

 著者は,日本流通史から「望ましい流通のあり方はただ一つに決まるものではない」という命題を引き出して強調する。そのとおりだろう。しかし,私は著者はそのことに加えて,「流通は,その社会の歴史から逃れられない」ことと,とくに「資本主義は自営業のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということを明らかにしたように思う(おそらく著者も自覚されているが,そんな暗くて重い言い方をすると学生が「引く」と思って書かないのだろうと,私は邪推する)。後者をもっと敷衍すれば,「資本主義はその社会の家族のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということでもあると思う。このことは,かつて農業を念頭に置いて行なわれた日本資本主義史研究では常識であった。しかし,農業だけでなく,自営業と家族のあり方を念頭に置くべきなのだろう。

 著者も触れているが,私達は上述した流通業態の変化とともに,自営業主が減少し,その分だけ非正規雇用者が増える変化の中にある。このことは何を意味するだろうか。多くの人は,肯定的にであれ否定的にであれ,大資本の力と市場原理の強化として把握するだろう。もちろんその通りなのだが,それはことの半面に過ぎないのではないか。日本の資本主義に対する自営業からの作用が弱体化し,ついに社会編成に質的変化をもたらしたととらえるべきではないか。この変化をとらえるために必要な一つの切り口はもちろん労働であるが,実は小売りも重要な切り口だったのである。本書からはそのような示唆を得ることができると,私は思う。


満薗氏の前著『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』講談社現代新書,2015年に関するノートはこちら



2022年1月4日火曜日

動画:現代資本主義におけるマクロ経済政策 第1-7回

  管理通貨制度下における通貨供給,金融政策,財政政策について解説する,学部生向け講義動画を限定的に公開します。管理通貨制度下において信用貨幣が全面的に意義を持つことを述べ,そのことを前提に金融政策と財政政策の原理を論じています。

 この講義は,理論的に十分精緻なものとは言えませんが,以下のようにマルクス派とケインズ派を踏襲しているつもりです。

・管理通貨制度の下で,初めて信用貨幣の原理が全面的に貫徹すると考えている点ではマルクス派内マイノリティです。貨幣は本源的には価値物であることが必要だけれど,制度の発展により価値シンボルや手形で代用されると理解するところがマルクス派で,信用貨幣論に基づき金融において内生的貨幣供給論,財政において外生的貨幣供給論を取るところがマイノリティです。
・資本主義において失業の発生を不可避と見る点はマルクス派とケインズ派に従っています。
・現代の貨幣を信用貨幣と理解するところはマルクス派内マイノリティでもあり現代貨幣理論(MMT)と同じでもあります。そこから,財政赤字が傾向的に増えることを不可避としています。
・利子は投資と貯蓄を裁定しないこと,閉鎖系では純投資が貯蓄を決定すること,資本の限界効率によって投資の不確実性が発生することなどは,オールド・ケインジアンに従っています。

(2022/1/7追記)まず第1-7回を公開します。Youtubeにリンクしています

第1回 管理通貨制度とは何だろうか


第2回 現代の貨幣は信用貨幣:債務が流通している世界 


第3回 債務は債務でしか支払えない:金貨で支払うことのない世界



第4回 銀行は,すでに存在する預金を貸し付けるのではなく,預金を無から創造して貸し付ける:そのことによって通貨が生まれる



第5回 金融システムは貸付・返済により,財政システムは支出・課税により通貨供給を調整する


第6回 金融システムを通して内生的に,財政システムを通して外生的に通貨が供給される


第7回 なぜ政府は,金融・財政政策によって経済に介入しなければならないのか



以下は第1-7回のロングバージョンです。

現代資本主義とマクロ経済政策(1)



全ての動画を掲載しているチャンネルです。

川端望のチャンネル




2021年12月28日火曜日

日本の高炉メーカーは,イノベーターのジレンマにはまりつつあるのか? 高炉における水素利用と水素直接還元製鉄の選択について考えるべきこと

 鉄鋼業をカーボン・ニュートラル化するためには,鉄鉱石を炭素で還元する製造法を改めねばならない。これは,世界の鉄鋼業が等しく直面している難題である。現存技術でこれに貢献できるのは,すでに鉄鋼となって存在している鉄スクラップを電気炉で溶解精錬するスクラップ・電炉法である。もちろん発電でCO2を出さないことが必要であり,発電を再生可能エネルギーで行ったうえで電炉で精錬するということになるだろう。今後,世界の鉄鋼業で電炉法のシェアが高まることは確実である。しかし,それだけで世界の需要をまかないきれるわけではない。どうしても,鉄鉱石を製錬する製造法の脱カーボン化が必要である。いまのところ,その最終的な解決は,炭素でなく水素で鉄鉱石を還元することと想定されている。

 この,水素製鉄に向けての技術選択について,日本とヨーロッパで異なる経路が生じつつある。本稿では,このことの意味を考えてみたい。

 日本鉄鋼連盟や日本製鉄,JFEスチールのゼロカーボン・スチール構想では,最終目標は水素直接還元製鉄とされている。しかし,両者も日本鉄鋼連盟も,その実用化には時間がかかると考えて,当面は高炉での水素利用,カーボンリサイクル高炉,高炉+CCS/CCU(CO2貯留・有効利用)の開発に注力している。これに対して,自然エネルギー財団の「鉄鋼業の脱炭素化に向けて 欧州の最新動向に学ぶ」(2021年12月14日公開)によれば,ヨーロッパでは,まず天然ガスで還元する大型の直接還元製鉄炉(製鋼は電気炉)を2025-2030年に立ち上げ,これを水素還元に切り替えていくというプロジェクトが次々と立ち上がっている。ヨーロッパメーカーは,早々に製鉄法を直接還元法に切り替えようというのである。

 製鉄法が高炉法と直接還元法に分かれると,製鋼法もまた分かれる。高炉法では製造される銑鉄が溶融状態なので,精錬には,酸素を吹き付けるだけで脱炭できる転炉を用いるのが効率的である。一方,直接還元炉で製造されるのは固体としての還元鉄であるため,精錬には加熱・溶解が必要なため酸素転炉が使えず,電炉を使うことになる。高炉は転炉と,直接還元炉は電炉とセットなのである。

 高炉・転炉法は現状では非常にエネルギー効率が良い製造技術であり,それ故高炉・転炉法の技術を蓄積している日本の高炉メーカーは,現在に至るまで競争力を維持できている。しかし,もし水素還元が早期に確立すると,直接還元・電炉法の方がCO2削減効果が大きくなる可能性がある。なぜなら,高炉法では,炉内の装入物の荷重を支え,還元ガスや溶けて降下する鉄の通路を確保するために固体のコークスが不可欠であり,これを,気体である水素に完全に置き換えることができないからである。一方,直接還元炉は還元をガスによって行うことができるので,この制約がない。

 日本の高炉メーカーは,現存する高炉・転炉による一貫製鉄所の設備と,国内に蓄積されている高炉・転炉法の技術・ノウハウを活用する方が,技術的にも手を付けやすく,また当面は低コストであるために,次世代技術の第一弾として高炉での水素利用を選択しているのだと思われる。対してヨーロッパメーカーは,高炉・転炉法のレガシーが強力でないがために,当初より水素直接還元製鉄を目指していると解釈できる。

 もし高炉の水素利用を早期に確立できるならば,当面は日本メーカーが優位に立つかもしれない。高炉・転炉を座礁資産にせずに,長く使うことも可能になるだろう。しかし,技術発展の経路が高炉・転炉法にロックインされると,水素直接還元製鉄技術の最終的確立,CO2排出規制への対応において,ヨーロッパメーカーに遅れを取るかもしれない。

 水素直接還元製鉄は,しばらくの間,エネルギー効率においては高炉・転炉法に追い付かず,したがって通常の意味での生産コストは高いだろう。しかし,CO2排出規制への適応性が高いために,カーボン・プライシングのレベルによっては不利は相殺されるかもしれない。CO2排出の社会的費用を含んだ生産コストでは,水素直接還元製鉄が,早々に優位に立つかもしれない。

 かつて製鋼技術が平炉から純酸素転炉に置き換わる際に,アメリカ高炉メーカーは,すでに巨額の設備投資を行っていた平炉法の維持・改善に固執して転炉導入に後れを取り,そのことがコスト高・競争力喪失につながった。鉄鋼業の脱カーボン化において,日本メーカーは同じ轍を踏まずに済むだろうか。脱カーボン製鉄技術の選択については,エンジニアリングの側面だけでなく,経済の側面からもよく検討する必要があるだろう。

 これをやや一般化して言うならば,既存大企業は,保有する現存の設備・技術を自ら陳腐化させるカニバライゼーションをためらい,従来技術の延長線上にある持続的イノベーションで環境規制に対応しようとする。その分だけ,市場における挑戦者企業よりも新技術採用で後れを取る危険がある。一方,挑戦者企業はレガシーの重みがないために,果敢に新技術に挑戦する。新技術は,しばらくの間は,従来の市場における基準ではパフォーマンスが劣る。しかし,環境規制への適合性が高いために,まず規制や世論による環境基準が高い市場の一部で支持される。その支持を足場にして,挑戦者企業は生産を拡大して生産性とコストを改善する。並行して,技術それ自体も洗練されていく。そして,ついには新技術が従来技術にとってかわり,挑戦者企業が既存大企業にとって代わるかもしれない。クレイトン・クリステンセンの言う「イノベーターのジレンマ」は,カーボン・ニュートラルをめざす環境技術においても生じ得るのである。

 本件は,まだデータによって裏付けられる話ではなく,あり得る可能性についての問題提起と注意喚起にとどまる。しかし,関係者がそれぞれの立場から検討すべき論点であることは,間違いないと思う。拙論への賛否を問わず,生産的な討論が起こることを切望する。

2022/4/16 語句修正。


2021年12月18日土曜日

山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの

 山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年について。日本的経営等についての周辺的な話も交じってはいるが,貨幣制度改革論を中心とした本であり,MMTを批判し大きく異なる通貨改革案を正面から主張しているので読んでみた。

1.主張

 著者たちは以下のことを主張している。

1)現在の貨幣システムは,大部分を債務貨幣が占める債務貨幣システムである。
2)債務貨幣システムのもとでは不況やバブルを克服できないし,累積した債務の利払いを通して富が銀行資本に吸い上げられる。
3)貨幣システム改革の決め手は公共貨幣システムである。

 著者の言う債務貨幣とは,より一般的な言葉で言えば信用貨幣である。また著者の言う公共貨幣とは,債務ではなく資産とみなされる貨幣であり,日本政府の発行する硬貨はこれに当たる。より一般的な言葉で言えば,政府貨幣や,その電子化されたものである。ただし,資産と見なされると言っても固有の価値を持つ商品貨幣ではなく,古典的用語では価値標章,日常用語で言えばシンボルとしての貨幣である。

 著者の主張する公共貨幣システムとは,簡単に言えば次のようなものである。

A)日本銀行を財務省と合併させて政府機関の「公共貨幣庫」とする。つまり,名実ともなる統合政府論である。
B)公共貨幣は政府が創造する,政府にとって債務でなく資産となる通貨である。つまり,中央銀行発行の信用貨幣を廃絶し,シンボル貨幣としての政府貨幣に置き換える。
C)民間銀行の法定準備率を100%とする。つまり,準備金の範囲でしか貸し出せないようにし,無から貸し付けて預金を生み出す信用創造を禁止する。ナローバンク論の一種である。

 これによって,バブルは根絶され,利払いによる銀行の支配もなくなり,通貨発行がゼロサム(MMTの言う「誰かの負債は誰かの資産」)ということもなくなって,通貨発行の度に国全体の金融資産が増え,通貨は民主主義的統制のもとに置かれる,と言うのである。著者は,これが大恐慌下でアービング・フィッシャーらによって提案された「シカゴ・プラン」を継承するものだと自負している。だから,経済学的にはシカゴ学派に近いのだが,銀行の利益と権力を排除して民主主義を拡張することを志向しているためか,リベラル側の社会活動家でも肯定的に見る人がいるようだ。


2.批判

(1)デフレ不況を引き起こする金融システム:信用創造の禁止は,実体経済が要求する通貨供給を不可能にする

 まず重要なことは,著者が,現実の貨幣システムが信用貨幣システムだと認めており,現実の説明としては主流派経済学の外生的貨幣供給論より,MMTを含む信用貨幣論の内生的貨幣供給論が正しいと認識していることである。このため,現実の説明の部分は私にも抵抗なく読めた。

 しかし,著者の提案する公共貨幣システムには問題があると思う。最も大きな問題は,信用創造の禁止により,民間実体経済の要求に対応した柔軟な通貨供給が不可能になるということである。

 現実の信用貨幣システムにおいて,政府の財政支出を別とすれば,民間経済に通貨が供給されるのは,企業が銀行から借り入れを行い,銀行が無から貸付金と預金を創造するからである。それに対応した一定の準備金は中央銀行が銀行に供給する。これが唯一のルートである。こうして預金通貨が供給され,それが引き出されると中央銀行券となる。これらの通貨は,流通に不要となれば預金やたんす預金として遊休することもあるが,企業が倒産などしなければ,結局は,貸付金の返済を通して流通から出て消滅する。経済成長とともに財・サービスの流通に必要な通貨が増える時は,主要には貸付けが返済を上回ること,副次的には遊休している預金やたんす預金の流通への復帰によって賄われる。

 ナローバンクシステムでは,この機能が果たせない。貸出が準備金の範囲までと厳しく制限されている以上,経済成長に対応した預金通貨が供給されないのである。それどころか,運転資金や決済資金が一時的に不足する際の,支払い手段としての通貨についても供給に弾力性がない。したがって,経済成長期には投資のための通貨供給が不足し,経済危機の際には運転資金や決済資金が不足して,恒常的なデフレ不況圧力がもたらさせるだろう(※1)。

 それを防ごうとしたら,政府が公共貨幣を増発して銀行に準備金を供給しなければならないが,政府は基本姿勢としてそれを抑制するだろう。なぜならば,もともとこのシステムは,企業と銀行の取引を通した信用創造がバブルを生むから抑制するという思想で設計されているからである。銀行の貸出量は厳格に制限される方向で運用されるだろう(※2)。

 「手形を振り出し,その手形を与えて貸し付ける」ことによる信用貨幣の伸縮性を否定し,シンボル通貨で金融システムを運用しようとすると,確かにバブルは防げるだろうが,肝心の実体経済が必要とする通貨供給が満たされず,不況を引き起こしてしまうのである。


(2)インフレへの歯止めがない財政システム:財政赤字も利払いもなくなるが支出の歯止めもなくなる

 さて,公共貨幣とナローバンクの下では,経済はデフレ不況気味に推移するだろう。金融システムでの拡張はナローバンクの趣旨からいって限度があるだろうから,デフレ不況に対抗しようとすれば財政を拡張するよりない。すると,今度はインフレの制御が,現行の信用貨幣システムよりも難しくなるし,公共貨幣論は主流派経済学やMMTよりもそれに対して脆弱である。これが副次的な問題である。

 財政システムにおいては,信用貨幣であれ公共貨幣であれ,課税と支出のバランスによって追加供給量が外生的に決まることは同じである。しかし,公共貨幣システムでは金融システムが実体経済の通貨要求に柔軟に反応できない分だけ,財政拡張の必要は強力になる。また,少なくとも本書では,公共貨幣論は財政支出の質に関する理論を示していない。例えば,インフレにならないように財の購入より失業している労働者の雇用に重点を置くと言った話がない。そして,公共貨幣は政府の決定一つで資産として発行できるので,財政赤字もなければ利子を銀行に持っていかれる心配もない代わりに,通貨価値を維持する見地から通貨供給量をチェックするしくみもない。これでは公共貨幣の信認は信用貨幣の信用より揺らぎやすく,通貨価値下落=インフレの圧力は現行システムよりもはるかに強くなる。インフレなき完全雇用実現への道は遠いであろう。


(3)通貨供給の中央集権化による硬直性

 以上のように,著者の主張する公共貨幣システムとナローバンクは,金融システムとしてはデフレ不況を促進するバイアスを持ち,それを補おうとすると財政システムがインフレ促進バイアスを持つ。そのため,マクロ経済の問題を何ら解決しないと,私には思える。

 著者は,政府・公共貨幣庫に対する民主主義的統制と効率的行政によって,必要なだけの公共貨幣を政府が創造し,準備金不足にも対応すれば,財政が膨張しすぎないようにコントロールもするのだと主張するのかもしれない。しかし,準備金供給に関する政府の委員会決定や財政に関する年次での国会での議決だけに通貨供給を委ねるのはあまりに中央集権的であり,日々の企業活動に対する柔軟な反応を期待できない。いかに銀行の行動に問題があろうとも,資本主義経済のままで改革を行うのであれば,銀行による,私的で分権的な預金通貨の供給量調整は認めざるを得ないであろう。率直に言って,公共貨幣システムでの通貨供給の硬直性は,シカゴ学派に由来する提案にもかかわらず,集権的計画経済の硬直性に類似していると思う(※3)。


(4)公共貨幣論の幻想はどこから生まれるか:信用貨幣システムへの不信

 なお,公共貨幣論が有効に見えることがあるとしたら,それは現実の信用貨幣システムが機能不全になっている瞬間を切り取り,それと公共貨幣システムを対比すると後者の方がましだと思えるからである。具体的には,世界大恐慌下の信用収縮を前にすれば,必要な貨幣を民主国家が自ら供給できればこの事態を解決できるかのように見えるだろう。シカゴ学派が,通貨供給量の確保を求めてシカゴプランを提示したというのはこの文脈でであろう。またバブル経済とその崩壊を前にすれば,経済を不安定化させる信用創造がない仕組みの方がよいように見えるだろう。1980年代以来,ナローバンク論が時おり唱えられる理由はここにあるだろう。しかし,これは錯覚であり,政策提案としてはすりかえである。公共貨幣システムは,政府介入によって大不況の時に通貨供給を緊急に増加させたり,バブルを制度的に起こりにくくすることだけはできるかもしれない。それはそれでよい。しかし,通貨システムは,非常事態に対処できればよいというものではないし,バブルさえ起こらなければよいというものでもない。恒常的に多方面にわたって機能するかどうかが重要なのである。公共貨幣システムは,金融システムにおいては信用を収縮させてデフレ不況を引き起こす傾向を持ち,これを反転させようと財政拡張を行えば供給過剰=インフレになるものであり,機能しないであろうと,私は考えるのである。


3.MMT批判のインプリケーション:銀行改革の課題

 さて,批判としてはここまでだが,本書の批判を通して浮き上がってくる理論的インプリケーションがある。それは,本書のMMT批判が,批判としては重要な論点を含んでいることである。

 第一に,利払いの問題である。著者は,MMTが利付き債務の設定を通して貨幣が供給される信用貨幣システムを肯定したまま,マクロ経済政策の改革を行なおうとすることを批判する。財政赤字の累積とともに国債の利払いもまた累積していき,銀行をもうけさせるだけではないかというのである。これはMMTに対する誤解であって,MMTは主流派マクロ経済学とともに,経済成長率が金利を上回ることは必要だと認めているのである。しかし,この批判は,MMTの制約を示してはいる。つまり,MMTは雇用創出を何より重視するのであるが,利払いを賄う程度の経済成長は実現しなければならないし,利子と言う不労所得が発生することは認めざるを得ないのである。MMTは,その面では革命的でなく穏当なマクロ経済政策の改革論なのである。

 第二に,バブルの問題である。著者は,MMTは銀行の信用創造に手を付けないからバブルを防げないではないか,と批判する。これは,ある意味もっともな批判だと私は思う。MMTは,成長率と金利の関係,インフレ,為替レート下落,そしてバブルを指標として財政支出をチェックすべしとする。このうち,バブルの発生を防止する手法の開発が最も難しいであろう。実体経済の好況とバブル,実体経済のための通貨供給と金融的流通に回る通貨供給を区別してコントロールしなければならないが,両者を区別して可視化し,制御することは,確かに難しいからである。この問題への有効な対処を開発することは,MMTにとって深刻な課題であろう。その意味では,著者の批判は批判として成り立つ。

 第三に,より根本的に,通貨発行量に関する意思決定の問題である。著者は,MMTが,銀行と企業が信用供与に関する私的意思決定を認めていることを,バブルと不況期の通貨収縮を生むものとして批判する。確かに,MMTはこの私的意思決定自体はやむを得ないものとしている。その点でもMMTは革命的社会改革を唱えるものではなく,資本主義の下での現実的マクロ経済政策を唱える理論であることは確かである。著者がこれを民主主義の見地から批判するのは,政治論として一理あるだろう。

 このように,本書はMMTに対して,銀行批判,具体的には不労所得批判,バブル批判,通貨供給の私的意思決定批判が弱いではないかと批判し,それによって,MMTが根本的な銀行改革案を持つものではないことを浮き彫りにした。MMTや他の政策論が解かねばならない問題がここに残っていることが明らかになった。

 しかし,著者による対案は,問題を解決せずに悪化させるものであった。バブルは食い止めても,肝心の実体経済への通貨供給を危うくするものであった。政治的に議会の権限を強めるかもしれないが,経済を機能させえないものであった。信用創造の全否定は,いわばお湯といっしょに赤ん坊を流すものだったのである。不労所得を減らし,バブルを失くし,民主的意思決定領域を広げるという,政治的に魅力的に見える提案であっても,必ず経済的に望ましい結果が得られるとは限らない。公共貨幣論は,地獄とまででは言わないが,苦難への道を善意で敷き詰めるものであった。同様のことはどのような通貨改革論にも起こり得るのであり,規範的に経済政策を論じる際に,十分心しなければならないことであろう。


※1 著者らの場合は異なると思うが,ナローバンク論の中には,企業は銀行から借りられなくとも,証券発行や投資銀行経由の金融仲介で資金調達できるだろうという意見がある。これはとんだ勘違いである。証券購入や投資銀行経由で投資しようとしている投資家のお金はどこから来たのか。もともと,経済のどこかで,どの時点かで,企業が銀行から借り入れたから存在しているのである。信用創造を統制すれば,証券投資に回るべき遊休資金もやがて枯渇する。

※2 政府がデフレ不況を防ごうと,節を曲げて銀行への準備金供給を増加させるとどうなるだろうか。その場合,不況から脱出できるかもしれないが,当然バブルの可能性も再燃するので,何のために公共貨幣システムに移行したのかわからなくなる。

※3 本書が述べているわけではないが,準備金増減については,裁量的に調整するかわりにミルトン・フリードマンが通貨供給量について主張した「X%ルール」のようにルール化してはどうかという意見があるかもしれない。「X%ルール」は,公共貨幣システムでも信用貨幣システムでも,借り入れ需要を「伸び率X%」に抑制するためには有効である。つまり,景気過熱,悪性インフレ,バブルを抑制する際には有効であろう。マネタリストが1970年代に勢いを増したのももっともであった。しかし,借り入れ需要が弱いときに通貨供給量を「伸び率X%」まで増やそうとしても無理である。企業に借り入れ意欲がなければ準備金が積み上がるだけに終わるだろう。アベノミクス期の量的金融緩和と同じである。なので,公共貨幣システムがいったん景気をデフレ不況に冷え込ませてしまい,借り入れ需要が低迷すると,これを「X%ルール」で救うことは不可能である。


2021年12月16日木曜日

MMTはケインズ派の困難を克服できるか?

 MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。この点では,MMTはケインズ派の常識的見解とそう外れているものではない。

 だとすれば,MMTに投げかけられるべき疑問は「MMTは,1970年代にケインズ派が陥った困難を克服できるのか」というものだろう。どうしたことか,MMTと聞くと脊髄反射的に「財政赤字をいくらでも出してもいいはずがないだろう」と批判する人が多いが,以前から述べているように,MMTはそんなことは言っていない(※1)。そんな浅い批判でなく,本質的な批判が望まれる。批判によって議論は深まり,理論と政策は鍛えられるからだ。

 ケインズ派は1970年代に経済理論と現実への対処の二つの方面で困難に陥った。ケインズ派の応用としてのMMTがこれらを克服する道を提起しているかどうか,以下,考えてみたい。

1.合理的期待に基づく財政の中立命題

 まず,理論的問題としての,合理的期待に基づく財政の中立命題である。これは単純化すると,以下のようなケインズ派批判であった。財政赤字はいつかは返済されねばならない。すると,現在の財政赤字と将来の財政黒字はプラスマイナスゼロなので,赤字期間と黒字期間を通算すれば,本質的には有効需要は増えない。増えるとすれば,拡張政策を行ったときに,有効需要が増えると国民(納税者)が錯覚して,投資や消費に対する態度を積極的なものに変えた場合である。しかし,将来の財政について合理的に予想できる国民は,そうした錯覚を起こさず,将来の増税を予想する。なので,拡張政策に反応して投資や消費を増やしたりはしないであろう。

 MMTはこの問題にどう立ち向かうだろうか。実は,MMTにとっては,この問題は,本来存在しないものを存在するかのように見せかける偽問題なのである。MMTは,インフレなき完全雇用が保てるならば財政赤字は出し続けてもよく,財政赤字を将来完済する必要はない,むしろすべきではないと考えているからである。

 なぜ財政赤字が常に必要なのか。MMTはケインズやマルクスとともに,自由放任の資本主義経済では有効需要は完全雇用を実現する水準に達せず,失業が不可避だと考えるからである。失業防止のためには通貨供給による需要創造が必要である。現代では,通貨は統合政府の負債であり,失業を救済しながら経済規模に見合った通貨供給を行うには,中央銀行がバックアップする銀行からの信用供与と言う金融ルート(中央銀行と銀行の債務増)だけでなく,課税より大きい財政支出という財政ルート(中央政府の債務増)を併用しなければならない。財政ルートで通貨供給を増やそうとすれば,財政赤字は常に存在し続けるし,経済規模ともに増え続けてもおかしくないのである。国債が自国通貨建てで計上されている限りは,デフォルトすることはない。満期になった国債は借り換えればよい。以前に述べた通り(※2),国債発行は民間貯蓄を吸収しないので,カネのクラウディング・アウトが起こることもなく,金利が高騰することもない。財政赤字が増え続けること自体は問題ないのである。

 もちろん,ここで財政支出の質も重要である。完全雇用達成前はモノのクラウディング・アウト=インフレに注意し,完全雇用達成後はヒトのクラウディング・アウト=悪性の賃金・価格スパイラルに注意し,全過程を通して通貨の金融的流通への滞留=バブルと通貨投機=為替レート急落に注意しなければならない。これを政策プログラムや運営の制度(中央銀行と中央政府の新たな関係)・手法に具体化することは,MMTの重要な課題である。その主要な提言は雇用保証プログラム(JGP)であるが,これは次に述べよう。

 いずれにせよMMTによれば「財政赤字が出た以上,政府はいつかは債務を完済しなければならず,そのための増税がある」というのは合理的期待でも何でもなく,むしろこれこそが錯覚なのである。したがって,財政の中立命題も,もとより成り立たない。なので,この理論的なケインズ批判は,MMTにはあてはまらないのである。

2.スタグフレーション

 次に,現実的問題としてのスタグフレーションである。インフレと不況が共存する状況では,従来の公共事業や呼び水政策によるケインズ政策では,拡張的財政・金融政策も取れず,引き締めもできないというジレンマに陥ってしまうと言う問題である。スタグフレーションの再来は,2021年末の現在でも警戒されているだけに,過去の出来事ではない。

 私の解釈では,MMTは,この問題への反省も行っている。スタグフレーションとは,言い方を変えると,完全雇用に達する前にインフレになってしまうことである。これは,財政支出で作り出されるはずの有効需要が,失業の吸収に結びつかないことによって生じる。この時,財政支出は雇用創造以外の何に作用しているかというと,まず,財の価格を引き上げることに結びついてしまっていると考えられる。政府調達や公共事業における水増し的価格設定,独占による価格つり上げ,ボトルネック財の価格上昇等々である。次に,失業吸収ではなく,既に雇われている労働者の賃金引き上げに結びついていると考えられる。例えば大企業でだけ賃上げが行われ,それが賃金・価格スパイラルを生み出しているのに,失業者は放置されたまま,というような状態である。これがスタグフレーションを引き起こす。そして,経済が混乱して,価格が硬直したままで投資や消費がさらに停滞するとスタグフレーションは深化する。

 こうなってはだめだということを,MMTははっきりと意識している。それゆえ,MMTは呼び水的公共事業には批判的である。そして対案として掲げるのが,公共部門が最低賃金で,希望する失業者を全員雇用するという,雇用保障プログラム(JGP)である。仮にJGPが実施できたとすれば,支出の多くが失業者を雇用して賃金を支払うことに用いられるので,労働市場や財市場を圧迫しない(ヒトやモノのクラウディング・アウトを起こさない)。そしてその賃金水準は最低賃金なので,最低賃金が適度に設定されていれば,デフレも賃金・価格スパイラルも起こさずにすむ。MMTにとって,JGPはスタグフレーションのリスクを乗り越える方策なのである(※3)。

 もちろん,JGPにも種々の問題はある。最低賃金で大量に失業者を雇って,社会的に有用な事業を組織できるかどうかが最大の問題である。また日本に適用しようとすると,そもそも未活用な労働力は家庭に眠ってしまっていたり非正規雇用になっていたりして,完全失業者として現れていないという問題もある。JGPが財政政策の本流になるには,まだ乗り越えねばならない課題は多いだろう。しかし,JGPは原理的に不合理なことを言っているわけではなく,スタグフレーションを回避して,インフレなき完全雇用を実現する一つの道筋は示していると思われる。

 私の理解では,以上が,1970年代にケインズ派が直面した困難をMMTが克服しようとする理論的・政策的方向である。未解決の問題はあるし,具体的な政策に落とし込むまでに至っていない論点も多々あるだろう。しかし,MMTはケインズ派の困難を乗り越える手がかりを示していると,私には思える。重要なことは,現在の地点を否定することでもそこに安住することでもなく,前進することである。

※1「いくらでも財政赤字を出してもいいはずがないだろう」という批判には,ひとつ前の投稿で応えているので,以下を参照して欲しい。「小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い」Ka-Bataブログ,2021年12月14日

※2 MMTがカネのクラウディング・アウトは起こらず,ヒトとモノのクラウディング・アウトは起こり得るとしていることは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

※3 だから,雇用増加を第一に考える姿勢を持たずに,漠然とした「景気対策」で,もっぱら「所得増大」の効果を狙って公共事業を推進しようとするのはMMTではないのである。それでは完全雇用達成前のインフレ,言い換えるとインフレと失業のトレード・オフに直面してしまうからである。インフレ率で財政政策をチェックすることでMMT的な政策を取ったつもりでも,インフレを抑えるために失業を許容することになる。それでは,フィリップス曲線を使った旧来のケインジアンの発想である。

*2021年12月19日。表現を修正。

2021年12月14日火曜日

小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い

  小幡績教授のMMT批判の論稿が出たが,どうも誤解が多い。私もMMT(現代貨幣理論)を理解し,自分が若い頃に学んだ信用貨幣論とすり合わせるのに1年かかったが,小幡教授ももう少し虚心坦懐にMMTの言い分を聞かれてはどうか。

 小幡教授によればMMTの政策には三つの害悪があるそうだ。

「第1に、財政支出の中身がどうであっても、気にしない。
 第2に、金融市場が大混乱しても、気にしない 。
 第3に、インフレが起きにくい経済においては、その破壊的被害を極限まで大きくする。」

 一つずつ検討しよう。

 1番目。MMTが「財政支出の中身がどうであっても、気にしない」というのはまったくの誤解である。MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,成長率は金利を上回っていなければならない,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。その意味でMMTは小幡教授の主張される「ワイズスペンディング(賢い支出)が必要である」という議論なのである。

 小幡教授は「MMTがインフレ率だけを頼りに財政支出の規模を決めることが誤っている」とも言われるが,MMTにとって財政支出の歯止めはインフレだけではない。まず,雇用増加に貢献するように支出することが大前提であり,その上でインフレ,バブル,為替レートの急落によって財政膨張をチェックするのである。なぜバブルによってもチェックするかと言うと,バブルと言うのは,財政支出で投入した通貨が有効需要に結びつかず,キャピタルゲインを求めて金融的流通を繰り返すことだからである。また為替レート急落に注意するのは,レート急落がインフレとパラレルだからであり,また対外債務の支払いを困難にするからである。MMTが,「国債が自国通貨建てならデフォルトしない」と主張していることはよく知られているが,裏返すと,「外貨建てであればデフォルトし得るから気を付けろ」と言っているのである。

 2番目。小幡教授はMMTにしたがえば「大規模な財政支出により、民間投資が大幅に縮小する、という典型的なクラウディングアウト(英語の元は「押し出す」の意味)を起こす」「投資資金は限られており、金利という価格による需給調節が効かなくても、政府セクターに取られてしまえば、リスク資金は民間へ回ってこない」と言う。しかし,まさにそうした考えが理論的に間違いだとMMTは主張しているのである。財政支出はカネのクラウディングアウト,つまり民間投資資金の押しのけと金利高騰を起こさない。なぜならば,財政支出とは,統合政府が新たに通貨発行量を増加させて支出することだからである。財政赤字を出して支出するたびに通貨供給量も同じ額だけ増えるので,金融はひっ迫しないのである(※1)。

 もっとも,財政支出が一方的に膨張すると,モノやヒトのクラウディング・アウト,つまり機械設備や原材料や人材が公共部門と民間投資とで奪い合いになることはあり得る。その帰結は悪性インフレである。MMTは財政膨張は金利は高騰させないが悪性インフレは起こし得るとして,だからこそインフレに警戒しているのである(※2)。これを避けるためには,財政支出が,なによりも遊休している労働力の稼働に用いられるとともに,利用可能な経済的資源の着実な増大につながる必要がある。

 3番目。小幡教授はMMTでは「インフレが起こりにくい経済においては、財政支出の歯止めが効かないからである。その結果、とことん、経済が破滅的におかしくなるまで、財政支出は拡大され続けるのである」と言われる。しかし,既にみたように,MMTはそんな放漫財政を奨励するものではない。雇用を増大させない支出はすべきではないとし,インフレのみならずバブルをも基準として財政膨張をチェックするのである。

 以上で紹介したMMTの主張は,例えばL・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社,2019年)で懇切丁寧に説明されている。小幡教授は「これ以上、MMT理論を批判する必要はない。もうたくさんだ」と言っているが,全否定する前に,もう少し相手の言い分に耳を傾けてはいかがだろうか。

※1 具体的にカネの流れがどうなるかは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日を参照して欲しい。


※2 詳しくは拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

小幡績「日本では絶対に危険な「MMT」をやってはいけない:MMTの「4つの誤り」と「3つの害悪」とは何か」東洋経済ONLINE,2021年12月13日。 

+2021年12月17日。「成長率は金利を上回っていなければならない」を追記。

+2022年4月30日追記。コメントをもとに成長率と金利に関して再考したが,やはり「成長率は金利を上回っていなければならない」という記述はない方がよいと考えるに至った。財政運営の観点から具体的に問題になるのは,マクロ指標としての成長率と金利(たとえば名目成長率と長期金利)ではなく,より具体的な税収増加率と利払い費増加率の関係である。後者は長期金利の影響をまともに受けるが,税収増加率は課税のあり方によって相当な幅がある。また,所得に占める税の比率が変化することもありうる。なので,成長率が金利を下回ると債務比率が発散する,とまで定式化することは適切でないと考えた。

2021年12月11日土曜日

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」の早期公開版を公表しました

 唐嫘夢依さんの修士論文を改訂した共著論文「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」が査読を通り,研究年報『経済学』に掲載されることになりました。ただ,掲載巻号が未定であり,年1回しか出ない雑誌であるため,発行までかなりかかると予想されます。そこで許可を得てネット配信可能なTERG Discussion Paper, No. 455として東北大学機関リポジトリTOURに登載してもらいました。DP版は研究年報『経済学』が発行されるまで時限公開します。

 中国のネット小説の世界を一言で言うと,日本で言うラノベやハーレクイン系恋愛小説が紙の本ではなくネットで発表され,スマホで読まれています。また,アマチュアからトップ作家までがシームレスに同じプラットフォーム上で活動しています。その市場規模は2017年に90億元(同年末レートで1556億円)に達しています。中国ネット文学の世界にどうぞ触れてみてください。

起点中文網

起点軽小説

起点女生網

2023/3。最終版が雑誌に掲載されました。以下でご覧いただけます。

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号
http://doi.org/10.50974/00137113


唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」TERG Discussion Paper, No. 455, 東北大学大学院経済学研究科,1-21。→公開停止しました。


岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...