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2021年11月15日月曜日

行き過ぎた財政赤字が悪性インフレを招く理由は、「貯蓄を吸収するから」なのか:標準的マクロ経済学と信用貨幣論(MMTを含む)の対比

 *課題:財政赤字をどこまで拡大すると悪性インフレになるのか

 財政赤字とは,政府が債務を背負ってでも財政支出を拡大することを意味する。それが必要なのは,失業減少,景気回復や,市場メカニズムでは達成されない社会的目標の実現のために必要とされるからである。だから財政赤字には望ましい効果があるが,望ましくない効果もある。後者があまり大きくなった場合は,それ以上財政赤字を拡大すべきではない。望ましくない効果に含まれるのは,成長率を上回る金利による債務の発散,悪性インフレ(※1),バブル,為替レート急落である。ここまでは,ほぼすべての研究者,実務家にとって共通了解である。

 では,どのような時にこの望ましくない効果が表れやすいか。一番典型的な場合として,財政赤字をどこまで拡大してしまうと悪性インフレになるのか。この投稿では,この論点についての標準的なマクロ経済学と,私が依拠する信用貨幣論(MMT=現代貨幣理論もその一種)との違いを説明したい(※2)。


*標準的なマクロ経済学の見解:貯蓄を吸収し過ぎた時

 リンク先の齊藤誠教授の論稿「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」が指摘されるように,標準的なマクロ経済学は,「財政規律を遵守せざるを得ない」環境,もし遵守しなければ悪性インフレが生じてしまうような環境が生じるのは,国債発行が大量になりすぎて国内の貯蓄の多くを吸収してしまい,国債・貨幣需要が消えてしまう時だと考える。歪曲でない証拠に引用しておく。

「標準的なマクロ経済学が用意している解答は、「旺盛な国債・貨幣需要は、いつか消えてしまう」となる。(見出し替えをはさんで)おそらく、そのきっかけとなるのは、大規模な自然災害や経済危機が起き、国内の貯蓄水準をはるかに上回る財政支出をせざるをえない事態だろう。その結果、内外の金融市場で円建ての長短金利が跳ね上がり、国内の物価水準が高騰すると、それまで旺盛な国債・貨幣需要を支えていた要因が一挙に失われてしまう」。


*信用貨幣論(MMTを含む)の見解:財政赤字は貯蓄を吸収しない

 実は,ここに標準的マクロ経済学と信用貨幣論の違いがある。信用貨幣論のモデルでは,国債発行は民間貯蓄を吸収しない。正確に言うと,日銀に口座を持つ民間銀行が国債を引き受ける限り,貯蓄を吸収しないとする。そして信用貨幣論は,それが実務に即しても事実だと主張するのである。これは国債発行と財政のモデルの非常に基本的なところで両者が異なっていることを意味する。両者の議論がしばしばすれ違い,互いに相手を非常識扱いする物言いになりやすい理由は(※3),深いところでの前提が異なるからなのである。

 信用貨幣論の立場から,国債発行の仕組みを説明しよう。政府が国債を発行し,民間銀行がこれを引き受けると,政府への貸付金(国債という証券の代金)は,銀行が日銀に持つ準備預金から,同じく日銀に政府が持つ政府預金に払い込まれる。政府が財政支出を行うと民間の企業や個人がもつ銀行預金が増加する。企業や個人の預金が増えると,その分だけ銀行が日銀に持つ準備預金も増加する。このプロセスが完結してみると,銀行の準備預金は増えても減っておらず,財政赤字の分だけ通貨供給量は増え,そして民間全体の預金も増えている。従って金利上昇圧力は,国債発行と政府支出のタイムラグによるもの以外は発生しない。ただし,法人や個人が手持ち現金を増やし,また銀行が手持ち現金を増やそうとすれば,準備預金はその分だけ減額される。以上である。

 この説明は何ら特定の価値判断によるものではなく,単に実務に即した事実である。しかし,国債発行で民間貯蓄が吸収されるという標準的マクロ経済学の説明とは異なっている。標準理論は,この事実をどう受け止めるのかについて説明を求められると,私は思う。


*政府は「既にあるカネを借りる」のではなく「手形を切る」

 しかし,日常感覚からすると上記の説明は不思議に思われるだろう。なぜ政府がお金を借りるのに,借りるもとでになるはずの民間貯蓄が減らないのか。貸す側のお金が減らずに借りる側のお金が増えるのは変ではないかと感じる人が多いだろう。この疑問に対する信用貨幣論からの答えは,ここで起きていることの本質は「既に存在するカネを借りる」ことではなく,「手形を切ること,その手形が流通すること」だということである。政府の赤字支出とは手形を切る行為であり,管理通貨制度下の通貨流通とは,手形(信用貨幣)が流通している状態なのである(※4)。

 ただし,日本の統合政府は日銀と政府の二つからなっており,政府は直接に政府手形を発行するのではないから,お金の流れはやや複雑である。政府が小切手または日銀券で赤字支出を行うことが,いわば政府手形による支払に相当する。このとき,政府の債務は増える。企業や個人は政府が支出した分だけ預金という銀行に対する債権を増やす。振込先となった民間銀行では,預金者宛ての債務と,日銀向けの債権が同時に増える。日銀から見れば準備預金と言う名の債務が増える。これが本質的なプロセスである。単純化して言えば、統合政府が手形を切って支払いを行って債務を増やし,民間部門が統合政府に対して持つ債権も増えたのである。

 しかし,日本では発券集中が行われており,しかも国債の日銀引き受けは禁止されている。そのため,政府は,直接に自己名義の手形を切れず,同額の日銀債務証書を入手して自己の支出の裏付けとしなければならない(※5)。だから国債を発行する。銀行がこれを引き受けると,銀行が持つ準備預金は増えるのではなくプラスマイナスゼロになる。こうして全プロセスが完結する。

 いささか複雑であるが,このように財政赤字=政府債務増とは,「発行された手形が流通する」ことであるから,発行された分だけ通貨供給量を増やすし,貯蓄を吸収はしないのである(※6)。


*民間貯蓄の規模は財政赤字の限界を画さない。では何が画すのか

 したがって,信用貨幣論によれば,民間貯蓄の規模は,財政赤字の限界を画さない。ここが標準的マクロ経済学との相違点なのである。齊藤教授が指摘されるように,1995年以降の超低金利環境は現金や国債に対する需要を旺盛なものにしていた。その分だけ消費需要や投資需要が盛り上がることがなく,景気はなかなか回復しないが悪性インフレにもならないような状態が続いてきた。これが齊藤教授の言う「財政規律を棚上げにしてもできる」環境である。齊藤教授が依拠される標準的マクロ経済学は,この「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画すのが民間貯蓄の枯渇だと考えるが,信用貨幣論はそれは関係ないというのである。

 しかし,民間貯蓄の枯渇が関係ないとすれば,何が関係あるのだろうか。これは信用貨幣論の側が問われる問題である。1990年代後半以来,日本政府は財政赤字を拡大してきたが,悪性インフレは発生しなかった。その理由は「民間貯蓄が豊富にあったから」ではないとすれば,何なのだろうか。これまでの条件と何がどう変化すると悪性インフレが発生し得るだろうか。

 さしあたり理論的には,第一に,「政府の課税能力に対する信認」には関係あるとするのが妥当であろう。債務は全額返済する必要はないが,コントロール可能でなければならない。課税能力に対する信認が失われると通貨への信用も失われ,悪性インフレとなる。第二に,財政支出と動員可能な生産能力・経営資源の関係である。財政支出が過大であり,程よく生産を刺激するのではなく,生産能力や経営資源が追い付かない状況となれば悪性インフレとなる。この場合,総量として追いつかない場合も,ボトルネックが生じて重要物資が不足して価格が特別に高騰し,生産や生活の危機が生じる場合もあり得る。貯蓄というカネが枯渇することは問題ではないが,機械や原料や労働力というモノが足りないことは問題なのである(※7)。第三に,海外との相対価格の変動によって原燃料輸入価格が高騰し,それを財政支出による需要刺激が実現させてしまうような場合である。この場合は価格ショックが生じるが,景気の実物的要因との関係では,良性インフレが維持されることも悪性インフレになることもあり得る。1990年代以来の日本では,以上の三点までは生じていなかったため,悪性インフレは生じなかったのだと考えられる。逆に言えば,この三点での悪化が疑われると悪性インフレは起こりうる。

 いずれにせよ,「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画す要因の理論的・実証的分析は,低成長期突入以後,これまでの日本経済を総括するためにも,今後の日本経済において,景気・雇用,インフレをにらみながら財政政策のあり方を決めていくためにも重要な課題である。信用貨幣論の立場からも解明していかねばならない。ただし,悪性インフレ以前に,財政支出が景気回復と良性インフレを刺激できなかった理由の解明,逆にこれができるようになる条件の解明も必要であることは言うまでもない(※8)。

※1 悪性インフレとは,所得や雇用を拡大する効果がなく,物価だけが引き上がっていくようなインフレのことである。良性インフレとは,その逆である。端的に好況を反映したインフレと,インフレと好況の量循環を刺激するようなインフレである。

※2 ここでは信用貨幣論をより包括的な概念とし,MMTをその一種としている。私はマルクス派信用貨幣論に依拠しているが,本稿の論点についてはMMTと同意見である。念のため記しておくと,私の信用貨幣論とMMTが異なる点は大きくは二つである。一つは,私は金本位制度などにおける正貨は価値物であり,信用貨幣論が全面的に妥当するのは管理通貨制度の下でであると考えるが,MMTはすべての通貨制度について信用貨幣と見なす傾向があることである。もう一つは,私は中央銀行は統合政府の一部であると同時に銀行資本が発展した「銀行の銀行」であると見ており,その信用が銀行原理に依拠している度合いを高く見る。MMTは根本では「信用ピラミッド」論によりこの考えを採用しているように見えるのだが,具体的な議論になると統合政府論を強く主張し,中央銀行を政府の一部と見る傾向が強いと思う。

※3 ただし,齊藤教授は冷静に理論的な説明をされている。だからこそ,碩学にコメントすることにためらいはあったが,ここでとりあげたのである。

※4 ちなみに,日銀の信用供与とは,日銀が日銀当座預金と言う自分の債務証書を用いて貸し付けを行う行為である。そして,その債務証書が流通するのが,日銀当座預金を用いた銀行間の支払決済であり,銀行と政府預金との間での支払い決済である。

※5 国債の代金を振り込んでもらうならば,「既に存在するカネを借りる」のではないかという指摘があるかもしれない。しかし,そうではない。準備預金(日銀当座預金)はマネタリーベースを構成するが,マネーストックを構成しない。まだ流通に出て行っていない,そのいみではまだ流通内に存在しないお金なのである。銀行の持つ準備預金が政府預金に移動しても,通貨供給量は変動しない。

※6 なお,国債は銀行からさらに転売される。転売により生損保など日銀に口座を持たない金融機関や年金基金,民間企業や個人によって購入された分については,貯蓄が吸収される。しかし,ここで言いたいのは,このような機関投資家や個人が購入する以前の銀行引き受けの時点において金融はひっ迫せず,民間貯蓄が枯渇したから銀行が国債に応札しないという因果関係は存在しないということである。生損保や年金基金が国債を購入するかどうかはポートフォリオ選択の問題である。なお,2021年6月末の国債保有割合は日銀48.2%,銀行等14.7%,生損保等20.6%,海外7.2%,その他9.2%である(財務省サイトにおける速報値)。

※7 発展途上国が経済危機に陥ると,この最初の二つの要因によるインフレが起こりやすい。その際も,標準理論の立場からはしばしば「貯蓄不足」が指摘されるが、信用貨幣論から見れば,この場合もカネとしての貯蓄が不足しているのではなく,政府の課税能力と,モノやヒトとしての資源を動員する能力が不足しているのである。

※8 この課題はMMTを含む信用貨幣論にとって重要なものだと私は思う。しかし,なぜか日本におけるMMTの政治的支持者たちは,従来の政権下で悪性インフレが生じなかった理由についてはあまり探求せず,単純に政府の財政支出が少なすぎたからだと決めつける傾向がある。私は,これは行き過ぎた単純化だと思う。同規模の財政赤字であっても,インフレを起こさないか,良性インフレを起こすか,悪性インフレを起こすかは支出内容や様々な経済主体の振る舞いとの関係による。これらを研究しておくことは,MMTの政治的支持者が,MMTに依拠した財政政策を実施しようとするときにも重要なはずである。

<参考>

齊藤誠「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」東洋経済ONLINE,2021年11月2日。

2021年11月12日金曜日

第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」動画できました

 第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」(2021年11月6日)動画できました。最初の方は同じ画面が続きますが,5:23付近から始まります。

※2023年7月9日。リンク修正しました。

リンク
https://www.youtube.com/watch?v=GeE6_lIjFbw







2021年11月5日金曜日

大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」11月6日13:30YouTube Live配信です。

 明日11月6日の大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」YouTube Live配信は13時30分よりこちらのサイトからの模様。スライドもダウンロードできます。

https://www.festa-tohoku.org/?page_id=1964

11月13日追記。模擬講義終了。録画された動画は以下で配信されています。

https://youtu.be/AKotBfeM5Zs





2021年11月4日木曜日

総選挙の結果について:経済政策はどうなるか。コロナ禍での経済的苦境は反映されたか

 経済政策の面から見ると,今回の総選挙で大きな意味を持つのは維新の躍進ではないかと思う。自民がさほど減らず,維新が躍進したことで,経済政策はより新自由主義=小さな政府路線に傾く可能性が高くなったからだ。実は自民党は,小泉内閣の時を除くと新自由主義一本やりではない。アベノミクスは超金融緩和路線であったし,安部・菅内閣ともコロナ禍では財政を拡張するよりなかった。それに比べると,維新の方がはるかに新自由主義だ。他の面はおいておいて,経済政策は維新の方が「右」なのだ。

 維新の躍進が経済政策への積極的支持を意味するとは断言できない。むしろ政治の次元で,あまりに実行力と説明がない自民党内閣に対する批判票を集めたのだろう。少し長い目で見ると,前回の選挙で希望の党に集まった保守二大政党への期待が維新に集まったともいえるかもしれない(※)。だが,少なくとも,維新の新自由主義路線は全体として有権者に拒否されなかった。年代別投票先の報道を見ると,維新は30-50代に支持されており,他の党が若年ほど支持される(自民,国民),高齢ほど支持される(立民,共産),どの年代も同じくらい(公明)であるのとはっきり異なっている。これは,ビジネスパースン層に支持されているとみてよいのではないか。ビジネスパースン層の相対的上層は,成長重視と自己責任論,行政の無駄排除を説く維新になじみやすいのだ。

 総裁選で分配重視,新自由主義からの転換を言った手前,岸田首相も給付金や子育て支援を口にせざるを得ない。景気がどの程度回復するかも政策を左右する。しかし,時間とともに,経済政策は財政の全体としての引き締め,大企業支援,個人生活の自己責任路線に傾くだろう。

 対する立民・共産・社民・れいわは,これに対抗する格差是正,社会的支え合い,経済のボトムアップ路線をはっきり掲げて政権交代まで訴えたが,全体として遠く及ばなかった。実は,2017年総選挙と比べると立民は伸びているので,少し長い目で見れば,格差是正を求める勢力が弱まっているわけではない。しかし,少なくとも強くもなっていない。立民はこの間,国民民主の多くを統合して議員を増やし,その上で経済政策を「左」へとシフトさせた。しかし,その勢力を維持できなかった。

 2017年と今回では,経済政策を考えるうえで大きく異なることがある。まず客観的にはコロナ禍に突入して,仕事と収入を失う人が増えたことだ。そして政党の側では,分配重視・格差是正をはっきり掲げて選挙に臨んだことだ。にもかかわらず,この政策が有権者の多数に届かなかったのだ。

 では,この格差是正路線を一番届けるべき人々,大まかにいうとコロナ禍で仕事と収入を失った非正規労働者や自営業者の投票行動はどうなっていたのか。両者で違いもあるだろう。自民や維新に多く投票したのか。それとも,投票しなかったのか。その理由は何か。残念ながら今の私にはわからない。しかし,このことの解明が,今後の政治を見通すうえで重要だ。なぜなら,遺憾ながら政治が転換しない限り格差と貧困は拡大し続け,それに苦しむ人の数は増えこそすれ,減りはしないからだ。格差是正勢力が学ぶべきこともここにあると,私は思う。

※今回の選挙だけ見れば「第三極」への期待なのだろうが,むしろ「保守の中で選択肢が欲しい」という期待であろうと私は思う。保守なのは変わらないが,自民党が失政続きの時は別のところに入れたいという人は少なからずいる。


2021年10月23日土曜日

コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい:総選挙にあたって(2)

 コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい。

 総選挙前には,立憲民主党も岸田首相も「分配なくして成長なし」と言っていたが,岸田首相と自民党の政策はどんどんあいまいになり,金融所得課税も給付金も約束されずにスローガンは「成長と分配の好循環」に変わった。そして,『日本経済新聞』は10月になってから成長政策の不足を強調し,また訳知り顔に「成長なくして分配なしが常識だよ」という人もいる。だが,本当にそうなのか。

 抽象的な長期の一般論としては,所得を増やして分配しないと1人当たり所得は増えないという話は正しい。しかし,抽象的に正しいことが,今この瞬間の具体的な状況で正しいとは限らない。

 「分配なくして成長なし」は漠然とした一般論ではなく,いまがポストアベノミクス期であり,コロナ不況が続いていることを念頭に置いた不況対策のスローガンであることに注意しなければならない。私の意見では,いまこの瞬間の不況期には「分配なくして成長なし」は,ある意味では正しいし,別の意味では正確ではないが,少なくとも「成長なくして分配なし」よりは正しいと思う。

 ポストアベノミクス期でありコロナ禍である現在,不況の何が問題か。それは,まともな仕事の減少である。失業や,一時休業(シフト減少含む)や,労働市場からの退出が増えて,所得が減っていることであり,自営業の売り上げが激減して自営業主の生活が脅かされていることである。何より非正規労働者と自営業者の仕事と所得が大きく減っていて,その家族とともに生活を脅かされている。先ずこの問題を解決しなければならない。

1.再分配を行えば次期には成長する

 生活危機にある人々は,所得が増えれば必ず多くを支出する。変えなかった生活用品を買い,払えなくなりそうだった家賃やローンや学費を払い,控えていた病気治療を行い,営業を立て直すために必要な支出をするからだ。

 対して,コロナ禍で苦しいことはあっても所得が激減したわけではない高所得層は,所得がさらに増えたりところで支出を増やさず,いくらか減ったところで支出を減らさない。これは昨年の10万円給付金の結果,家計貯蓄が激増したことで明らかだろう。眠り込んでいる貯蓄も多い。

 ということは,発生が見込まれている所得について,政府が再分配を強化すればどうなるか。高所得者から低所得者に移転させ,中所得者には中立とすれば需要は増えるだろう。眠り込む貯蓄が減り,消費が増えるからだ。

 このように,格差と貧困が拡大している社会で所得の再分配を強化することは,それだけで次期の所得を増やすだろう。再分配した方がしないより成長するのであって,その意味では「分配なくして成長なし」は正しいのである。これを否定するために「成長なくして分配なし」と難癖をつけるのは,不況対策を誤らせ,生活危機を放置するに等しい。

2.まともな雇用を増やせば分配と成長は同時に改善する

 不況期には労働力が完全に利用されていない。完全失業率が他の先進国より常に低い日本でも同じである。非正規雇用者の労働時間が切り詰められたり,専業主婦や高齢者が家庭と非正規の職を行き来し,労働市場から退出して所得減に耐えているから,失業率が低くても労働力は遊休しているのだ。世界的にも,コロナ禍では労働市場からの退出と参入延期が増えているから,失業率だけでは労働力活用度は測れなくなっている。

 さて,不況対策は失業を減らすためにある。不況対策は,成長率を上げること自体のためにやるのではない。そう決めつけて「ケインズ的政策は古くて無効だ」と非難する人が市場優先主義者にもエコロジストにもいるが誤解または曲解である。本来のケインズ理論による不況対策とは,まともな雇用を増やして失業や不安定就業を減らし,完全雇用を目指すことである。したがって資本主義が自由放任では失業を失くせない限り,必要である。

 雇用を増やして失業や不安定就業が減れば,当然,当人たちの所得も経済全体の所得も増える。失業者やシフトが大幅に減っていた労働者は困窮しているのだから,その人たちの賃金所得が増えれば,必ず格差も緩和される。つまり,不況対策で雇用を創造することは,経済を成長させると同時に分配を改善するのである(※)。

 逆に言うと,不況対策はこのように行われねばならない。もしも不況対策が,雇用をつくらず,不安定就業を改善せず,ただ一部の業界の企業利益ばかりが増えるように行なわれれば,経済は成長するが分配は改善しない。しかもアベノミクス期の教訓として,企業利益を増やしたところで,企業は個人消費が停滞していることを知っているので新規投資を行わずに企業貯蓄を眠らせる。そして,個人間の所得格差が拡大すると,高所得層は所得増分を低所得層ほど消費しない。

 この意味で,不況対策は,「分配と成長の同時達成」にも「成長だけ」にも「成長したが分配悪化」にもなりうるのである。「分配なくして成長なし」は確かに正確ではないが,分配を重視し,「分配が同時に起こるような成長」を目指すことは理に適っている。「成長なくして分配なし」と難癖をつけてまず成長だけ考え,分配のことは今重視しなくてよいという態度は,まともな仕事を増やさず,「成長だけ」あるいは「成長したが分配悪化」を招きかねない。この意味でも「分配なくして成長なし」の方が「成長なくして分配なし」よりは適切な政策を期待できるのである。

 以上のように不況期,ましてポストアベノミクス期とコロナ禍で分配を重視することは適切なのであり,分配政策の強度と内容は総選挙の重要な判断基準なのである。

 分配を重視する野党(共産,社民,れいわ,立民,国民)の政策が真にこれに適っているかどうかはなお検討の余地があるが,方向性としては妥当である。分配政策をどんどんあいまいにし「成長の方が大事だ」と煙に巻く自民の方がおかしいのだ。

※この論理の詳しい説明は松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年を参照。


2021年10月17日日曜日

分配重視を効果的にすすめるためにボトムアップで:総選挙にあたって

 選挙公約の経済政策に対する考え方をおおまかに。与党・野党とも分配を重視するのはいいのだが,いくつか注意すべき,また投票に当たって留意すべき点があると思う。

 まず,コロナ禍で誰が苦しんできたか。画像中の表は橋本健二教授が作成されたものだが,コロナ禍の経済的影響は不均等であり,誰よりも非正規労働者と自営業者が苦境に立っている。救済は,社会階層としてはこの二つの部分,所得水準では低所得者に重点を置かねばならない。



 次に,これまでのコロナ対策はどう作用したか。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,とくに一律10万円の給付金と企業への優遇融資は,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計・自営業者を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けても,まだ投資をためらっている(「コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに」2021年5月16日投稿。)。

 これらを踏まえると,分配を重視する緊急対策では,1)苦境にある低所得者に支援が届くことが必要であり,2)財政支出を消費や投資に直結させねばならず,貯蓄積み上げに帰結させないことが大事である。給付金や減税や助成金が,低所得者,非正規労働者,自営業者に届けられる分には,その効果は十分見込める。しかし,昨年から手元現預金を積み上げている高所得層や,コロナの直撃を受けてない業種の企業にお金を渡しても,経済全体への効果は限られる。

 とすれば,いま各党から提案されている減税や給付金については,以下のことに注意して評価しなければならない。

 所得税減税は,高所得層ほど1人当たり減税額が大きいという意味で恩恵が大きい。低所得者は逆で,課税対象でないほどの低所得者だと減税額はゼロになってしまう。しかも,高所得層ほど減税分を支出せずに貯金・貯蓄に回すので,需要への効果は限られる。

 その意味では,消費税減税の方が,減税額の大小については所得税と同じであるものの,低所得層にも効果が及ぶという点ではベターだ。

 対して,一律給付金は,どの所得層にも同じ金額という意味では誰にも等しく恩恵がある。しかし,低所得層の生活を支えるのに十分なほどの金額を一律支給すれば,高所得層は,同じ金額を得ても昨年と同じく消費せずに貯蓄を増やすだろう。その分はすぐには需要にならずに眠り込んでしまう(これは恒久的なベーシック・インカムの是非とは別の話だ)。

 つまり,減税と給付金を,いま無造作に行ってもうまくいかないので,組み合わせ方を工夫するか,累進性を持たせるなどの傾斜をつけることが必要になる。与野党とも,この点をどこまで考えぬいているのかが問われる。

 続いて財政負担の問題。いずれにせよ緊急対策では財政赤字をを増やさざるを得ないし,それ自体は円建てである限りは問題ない。しかし,貯蓄に回ってしまったり,雇用と所得を改善せずに偏った需要を生み出すような財政支出は無駄であり有害である。無駄に赤字をふくらませれば,悪性インフレとバブルへの圧力を生み出す一方で,政府がそれに対抗する力を失うからだ。

 少しややこしいが,インフレと言っても,景気回復を反映するインフレならば問題ない。低所得層がひといきついてのボトムアップで景気が回復し,先行き不安を解消した企業が生産と雇用を拡大し,それで価格と賃金がともに上がるならばいい。しかし,財政がおかしなところに作用すると,悪性インフレや,最悪スタグフレーションになりかねない。原材料価格高騰だけが実現してしまい消費が伸びない「価格革命下のスタグフレーション」(高齢者は70年代をご記憶だろう)や,株価バブル,住宅バブルなどになっては困る。これらが起こると,政府は拡張も引き締めもできなくなり,政策が綱渡りを強いられる。なので,景気回復は,トリクルダウンでなく,確実なボトムアップにすることが必要で,そのためにも低所得者重視の方がよい。ボトムアップになるような政策であるかどうかが肝心だ。

2021年9月27日月曜日

「親ガチャ」の背後にある現実:ヒオカ氏の記事に寄せて

 「親ガチャ」をめぐる議論について,もっとも納得できたのは,シェア先のヒオカ氏のものだった。「人生の成果は、ベース×本人の努力だろう」(引用)という言葉を手掛かりに,私なりの表現に置換えて述べる。

 「ベース」には本人が選べない環境があり,そこにはマクロ的なものからミクロ的なものまであるが,それを,いつ,どこの,どんな家庭に生まれたかということに収斂させれば,今話題の「親ガチャ」という表現になる。

 戦後の日本では,1980年ごろまでは「ベース」で決まってしまう部分が縮小し,「本人の努力」や,生まれて以降の運で決まる部分が拡大していった。「ベース」自体が「本人の努力」を後押ししてくれたと言ってもよい。つまり社会の流動性が広がっていった。ある瞬間には階級や階層があるのだが,生きている間にその境目を望む方向に越えて行ったり,自分は無理でも次世代では越えることが可能であった。例えば農民の子どもが大企業のサラリーマンになって「旧中間階級」が次世代には「新中間階級」になることが増えて行った。

 ところが1980年代を境に所得と資産の格差が拡大しはじめ,しばらくすると,二つのことが目立ってきた。一つは,ある瞬間を見ても,「一億総中流」ではなく「新中間階級」「労働者階級」「アンダークラス」の差があると感じられるようになってしまったことだ。ホワイトカラーの管理職や専門職と,正規の販売員や工場労働者の所得は結局は違っていたし,非正規労働者が絶対的にも割合としても増えて行った。

 もっとも,非正規労働の問題は,最初は深刻と受け止められなかった。その主力は1980年代までは,夫と言う主要な稼ぎ手を家庭内に持つパート主婦だったからであり,また非正規労働が増えても完全失業者はさほど増えなかったからだ。しかし,1990年代以後,非正規の低い賃金で家計を切り盛りする層が徐々に拡大し,状況が違ってきていることが認識され始めた。明らかに好き好んでやっているわけではない,例えば普通の事務員や販売員やサービス員(なのに身分だけ非正規),中高年フリーター,シングルマザー,年金が少ない高齢者,といった非正規労働者が増えてきた。

 もう一つは,社会的流動性が弱まり,すくなくとも高資産・高所得が次世代も高資産・高所得とし,低資産・低所得が次世代も低資産・低所得にする関係が目立ってきたことだ。資産・所得により子どもにかける教育費用や教育意欲が異なるからだ。さらにはなはだしいことに,21世紀になるとアンダークラスは未婚率が高く,それ故に子どももつくらないという事実が明らかになった。日本は,格差や貧困が世代を越えない社会から,格差や貧困が再生産される社会に変わってしまったのだ。

 苦しい境遇を「ベース」が決める度合いが強まり,「本人の努力」で逆転できない場合が増えている。若者は,あるいは自分の家庭のから,また嫌でも入ってくる情報から,そう考えざるを得ない。これが「親ガチャ」と言う言葉の背景にある現実だろう。最後に再びヒオカ氏の表現を借りるならば,「環境のせいにするな」と説教してすむ状態ではない。必要なのは「自分の問題は自分だけの問題ではなく、環境の影響があって、社会問題なのだ」という認識を広げていくことだ。さもなくば,日本社会の分裂は広がる一方だろう。

※なお,本当にそこまで深刻なのかという方には,橋本健二教授の『アンダークラス』(ちくま新書,2018年)や,とくに氷河期世代にフォーカスした『アンダークラス2030:置き去りにされる「氷河期世代」』(毎日新聞出版,2020年)などで,具体的な数値にあたって確認されることをお勧めする。

シェア先

ヒオカ「「親ガチャ」論争で気になる上から目線、真に語るべき貧困再生産の深刻」DIAMOND ONLINE,2021年9月24日。

2021年9月26日日曜日

関係者はぜひ活用を:渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」

 これほどまでにどんぴしゃりのタイミングで,政策関係者に大いに役に立つペーパーが出ることは滅多にないだろう。誰もが知りたいことがちゃんと書かれている。例えばこのあたり。

「中国が正式にCPTPP 加入申請をするのであれば、次のように考えている可能性がある。つまり、①国有企業章については、現行の適用除外、例外および留保、とりわけ地方政府所有国有企業留保を活用すれば大きな支障がない、あるいは CPTPP 加入交渉時により幅広い国別留保を獲得することが可能であると考えている。②電子商取引章についても CPTPP 全体に適用される安全保障例外の活用を考えている。以上 2 点については、このように楽観的に考えている可能性が高い一方、③労働章の規律を受け入れる準備があるのか大いに疑問が残る。」(30ページ)

 私もこの研究プロジェクトの隅っこに一応いるので,著者の先生方が以前からこの話をしているのをちらちら横目で見ておりました。ただ拍手です。

渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」RIETI Policy Discussion Paper Series 21-P-016,(独)経済産業研究所,2021年9月。




2021年9月20日月曜日

川端望・銀迪「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」の公表に寄せて

 銀迪さんとの共著「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」が掲載された『アジア経営研究』第27号が発行されました。このテーマで科研費の申請をしたのが2016年の秋ですから,論文にするまで5年を要したことになります。今回は,現実の事態が紆余曲折を伴って進行していくときに,それを学問的に把握することの難しさに突き当たり,結果として現実の方が一段落ついたところでまとめることができました。現時点(2021年9月)では,この研究対象に関して最も詳しい事例研究であり,より広く中国の産業政策のあり方にも一石を投じている論文であると自負しています。

 J-Stageに登載されるまで少し時間がかかるため,編集委員会の許可をいただき,大学サイトでPDFを公開いたしました。

こちらからご利用ください

  なお,本稿はRIETIプロジェクト「現代国際通商・投資システムの総合的研究(第Ⅴ期)」の成果であり,RIETI Discussion Paper Series, 20-J-038の完成形です。







2021年9月14日火曜日

高炉・転炉を新設すると座礁資産になりかねないか

 アメリカに拠点を置くNPO,Global Energy Monitorのレポート。このNPOは何と世界中の製鉄所の動向をトラッキングするデータベースを構築している。そして,6月に発表されたレポートによれば,温室効果ガスの低排出製鉄技術が予測されるペースで商業規模に達した場合,鉄鋼業界は大規模な座礁資産(Stranded asset)を抱え込むことになるという。つまり,環境規制の下で資産価値の大幅低下が生じるのである。レポート作成時点で計画または建設中の高炉・転炉法による生産能力は,インドで少なく見積もって300万トン(※),中国では4367万5000トン。それらが座礁資産となることによるリスクはインド30-45億ドル,中国437-655億ドルである。当然,他の国においても,高炉・転炉法による一貫製鉄所に投資しようとする限り,このリスクは存在する。

 確かに,高炉・転炉への投資のタイミングが遅ければ遅いほど,また低排出製鉄技術の実用化が早まれば早まるほど,このリスクは高くなる。このレポートが両者について時期をどう想定しているのか精査する必要があるが,この視点自体はきわめて重要であり,鉄鋼業関係者が今後常に意識しなければならないことである。

※この他,高炉,転炉,電炉,平炉などが混在しているプロジェクトが2600万トン確認されているので,実際には高炉・転炉法の建設はもっと多く計画されている可能性が高い。

Caitlin Swalec and Christine Shearer, Pedal To The Metal: No Time To Delay Decarbonizing The Global Steel Sector, Global Energy Monitor, June 2021.


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...