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2021年10月23日土曜日

コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい:総選挙にあたって(2)

 コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい。

 総選挙前には,立憲民主党も岸田首相も「分配なくして成長なし」と言っていたが,岸田首相と自民党の政策はどんどんあいまいになり,金融所得課税も給付金も約束されずにスローガンは「成長と分配の好循環」に変わった。そして,『日本経済新聞』は10月になってから成長政策の不足を強調し,また訳知り顔に「成長なくして分配なしが常識だよ」という人もいる。だが,本当にそうなのか。

 抽象的な長期の一般論としては,所得を増やして分配しないと1人当たり所得は増えないという話は正しい。しかし,抽象的に正しいことが,今この瞬間の具体的な状況で正しいとは限らない。

 「分配なくして成長なし」は漠然とした一般論ではなく,いまがポストアベノミクス期であり,コロナ不況が続いていることを念頭に置いた不況対策のスローガンであることに注意しなければならない。私の意見では,いまこの瞬間の不況期には「分配なくして成長なし」は,ある意味では正しいし,別の意味では正確ではないが,少なくとも「成長なくして分配なし」よりは正しいと思う。

 ポストアベノミクス期でありコロナ禍である現在,不況の何が問題か。それは,まともな仕事の減少である。失業や,一時休業(シフト減少含む)や,労働市場からの退出が増えて,所得が減っていることであり,自営業の売り上げが激減して自営業主の生活が脅かされていることである。何より非正規労働者と自営業者の仕事と所得が大きく減っていて,その家族とともに生活を脅かされている。先ずこの問題を解決しなければならない。

1.再分配を行えば次期には成長する

 生活危機にある人々は,所得が増えれば必ず多くを支出する。変えなかった生活用品を買い,払えなくなりそうだった家賃やローンや学費を払い,控えていた病気治療を行い,営業を立て直すために必要な支出をするからだ。

 対して,コロナ禍で苦しいことはあっても所得が激減したわけではない高所得層は,所得がさらに増えたりところで支出を増やさず,いくらか減ったところで支出を減らさない。これは昨年の10万円給付金の結果,家計貯蓄が激増したことで明らかだろう。眠り込んでいる貯蓄も多い。

 ということは,発生が見込まれている所得について,政府が再分配を強化すればどうなるか。高所得者から低所得者に移転させ,中所得者には中立とすれば需要は増えるだろう。眠り込む貯蓄が減り,消費が増えるからだ。

 このように,格差と貧困が拡大している社会で所得の再分配を強化することは,それだけで次期の所得を増やすだろう。再分配した方がしないより成長するのであって,その意味では「分配なくして成長なし」は正しいのである。これを否定するために「成長なくして分配なし」と難癖をつけるのは,不況対策を誤らせ,生活危機を放置するに等しい。

2.まともな雇用を増やせば分配と成長は同時に改善する

 不況期には労働力が完全に利用されていない。完全失業率が他の先進国より常に低い日本でも同じである。非正規雇用者の労働時間が切り詰められたり,専業主婦や高齢者が家庭と非正規の職を行き来し,労働市場から退出して所得減に耐えているから,失業率が低くても労働力は遊休しているのだ。世界的にも,コロナ禍では労働市場からの退出と参入延期が増えているから,失業率だけでは労働力活用度は測れなくなっている。

 さて,不況対策は失業を減らすためにある。不況対策は,成長率を上げること自体のためにやるのではない。そう決めつけて「ケインズ的政策は古くて無効だ」と非難する人が市場優先主義者にもエコロジストにもいるが誤解または曲解である。本来のケインズ理論による不況対策とは,まともな雇用を増やして失業や不安定就業を減らし,完全雇用を目指すことである。したがって資本主義が自由放任では失業を失くせない限り,必要である。

 雇用を増やして失業や不安定就業が減れば,当然,当人たちの所得も経済全体の所得も増える。失業者やシフトが大幅に減っていた労働者は困窮しているのだから,その人たちの賃金所得が増えれば,必ず格差も緩和される。つまり,不況対策で雇用を創造することは,経済を成長させると同時に分配を改善するのである(※)。

 逆に言うと,不況対策はこのように行われねばならない。もしも不況対策が,雇用をつくらず,不安定就業を改善せず,ただ一部の業界の企業利益ばかりが増えるように行なわれれば,経済は成長するが分配は改善しない。しかもアベノミクス期の教訓として,企業利益を増やしたところで,企業は個人消費が停滞していることを知っているので新規投資を行わずに企業貯蓄を眠らせる。そして,個人間の所得格差が拡大すると,高所得層は所得増分を低所得層ほど消費しない。

 この意味で,不況対策は,「分配と成長の同時達成」にも「成長だけ」にも「成長したが分配悪化」にもなりうるのである。「分配なくして成長なし」は確かに正確ではないが,分配を重視し,「分配が同時に起こるような成長」を目指すことは理に適っている。「成長なくして分配なし」と難癖をつけてまず成長だけ考え,分配のことは今重視しなくてよいという態度は,まともな仕事を増やさず,「成長だけ」あるいは「成長したが分配悪化」を招きかねない。この意味でも「分配なくして成長なし」の方が「成長なくして分配なし」よりは適切な政策を期待できるのである。

 以上のように不況期,ましてポストアベノミクス期とコロナ禍で分配を重視することは適切なのであり,分配政策の強度と内容は総選挙の重要な判断基準なのである。

 分配を重視する野党(共産,社民,れいわ,立民,国民)の政策が真にこれに適っているかどうかはなお検討の余地があるが,方向性としては妥当である。分配政策をどんどんあいまいにし「成長の方が大事だ」と煙に巻く自民の方がおかしいのだ。

※この論理の詳しい説明は松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年を参照。


2021年10月17日日曜日

分配重視を効果的にすすめるためにボトムアップで:総選挙にあたって

 選挙公約の経済政策に対する考え方をおおまかに。与党・野党とも分配を重視するのはいいのだが,いくつか注意すべき,また投票に当たって留意すべき点があると思う。

 まず,コロナ禍で誰が苦しんできたか。画像中の表は橋本健二教授が作成されたものだが,コロナ禍の経済的影響は不均等であり,誰よりも非正規労働者と自営業者が苦境に立っている。救済は,社会階層としてはこの二つの部分,所得水準では低所得者に重点を置かねばならない。



 次に,これまでのコロナ対策はどう作用したか。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,とくに一律10万円の給付金と企業への優遇融資は,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計・自営業者を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けても,まだ投資をためらっている(「コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに」2021年5月16日投稿。)。

 これらを踏まえると,分配を重視する緊急対策では,1)苦境にある低所得者に支援が届くことが必要であり,2)財政支出を消費や投資に直結させねばならず,貯蓄積み上げに帰結させないことが大事である。給付金や減税や助成金が,低所得者,非正規労働者,自営業者に届けられる分には,その効果は十分見込める。しかし,昨年から手元現預金を積み上げている高所得層や,コロナの直撃を受けてない業種の企業にお金を渡しても,経済全体への効果は限られる。

 とすれば,いま各党から提案されている減税や給付金については,以下のことに注意して評価しなければならない。

 所得税減税は,高所得層ほど1人当たり減税額が大きいという意味で恩恵が大きい。低所得者は逆で,課税対象でないほどの低所得者だと減税額はゼロになってしまう。しかも,高所得層ほど減税分を支出せずに貯金・貯蓄に回すので,需要への効果は限られる。

 その意味では,消費税減税の方が,減税額の大小については所得税と同じであるものの,低所得層にも効果が及ぶという点ではベターだ。

 対して,一律給付金は,どの所得層にも同じ金額という意味では誰にも等しく恩恵がある。しかし,低所得層の生活を支えるのに十分なほどの金額を一律支給すれば,高所得層は,同じ金額を得ても昨年と同じく消費せずに貯蓄を増やすだろう。その分はすぐには需要にならずに眠り込んでしまう(これは恒久的なベーシック・インカムの是非とは別の話だ)。

 つまり,減税と給付金を,いま無造作に行ってもうまくいかないので,組み合わせ方を工夫するか,累進性を持たせるなどの傾斜をつけることが必要になる。与野党とも,この点をどこまで考えぬいているのかが問われる。

 続いて財政負担の問題。いずれにせよ緊急対策では財政赤字をを増やさざるを得ないし,それ自体は円建てである限りは問題ない。しかし,貯蓄に回ってしまったり,雇用と所得を改善せずに偏った需要を生み出すような財政支出は無駄であり有害である。無駄に赤字をふくらませれば,悪性インフレとバブルへの圧力を生み出す一方で,政府がそれに対抗する力を失うからだ。

 少しややこしいが,インフレと言っても,景気回復を反映するインフレならば問題ない。低所得層がひといきついてのボトムアップで景気が回復し,先行き不安を解消した企業が生産と雇用を拡大し,それで価格と賃金がともに上がるならばいい。しかし,財政がおかしなところに作用すると,悪性インフレや,最悪スタグフレーションになりかねない。原材料価格高騰だけが実現してしまい消費が伸びない「価格革命下のスタグフレーション」(高齢者は70年代をご記憶だろう)や,株価バブル,住宅バブルなどになっては困る。これらが起こると,政府は拡張も引き締めもできなくなり,政策が綱渡りを強いられる。なので,景気回復は,トリクルダウンでなく,確実なボトムアップにすることが必要で,そのためにも低所得者重視の方がよい。ボトムアップになるような政策であるかどうかが肝心だ。

2021年9月27日月曜日

「親ガチャ」の背後にある現実:ヒオカ氏の記事に寄せて

 「親ガチャ」をめぐる議論について,もっとも納得できたのは,シェア先のヒオカ氏のものだった。「人生の成果は、ベース×本人の努力だろう」(引用)という言葉を手掛かりに,私なりの表現に置換えて述べる。

 「ベース」には本人が選べない環境があり,そこにはマクロ的なものからミクロ的なものまであるが,それを,いつ,どこの,どんな家庭に生まれたかということに収斂させれば,今話題の「親ガチャ」という表現になる。

 戦後の日本では,1980年ごろまでは「ベース」で決まってしまう部分が縮小し,「本人の努力」や,生まれて以降の運で決まる部分が拡大していった。「ベース」自体が「本人の努力」を後押ししてくれたと言ってもよい。つまり社会の流動性が広がっていった。ある瞬間には階級や階層があるのだが,生きている間にその境目を望む方向に越えて行ったり,自分は無理でも次世代では越えることが可能であった。例えば農民の子どもが大企業のサラリーマンになって「旧中間階級」が次世代には「新中間階級」になることが増えて行った。

 ところが1980年代を境に所得と資産の格差が拡大しはじめ,しばらくすると,二つのことが目立ってきた。一つは,ある瞬間を見ても,「一億総中流」ではなく「新中間階級」「労働者階級」「アンダークラス」の差があると感じられるようになってしまったことだ。ホワイトカラーの管理職や専門職と,正規の販売員や工場労働者の所得は結局は違っていたし,非正規労働者が絶対的にも割合としても増えて行った。

 もっとも,非正規労働の問題は,最初は深刻と受け止められなかった。その主力は1980年代までは,夫と言う主要な稼ぎ手を家庭内に持つパート主婦だったからであり,また非正規労働が増えても完全失業者はさほど増えなかったからだ。しかし,1990年代以後,非正規の低い賃金で家計を切り盛りする層が徐々に拡大し,状況が違ってきていることが認識され始めた。明らかに好き好んでやっているわけではない,例えば普通の事務員や販売員やサービス員(なのに身分だけ非正規),中高年フリーター,シングルマザー,年金が少ない高齢者,といった非正規労働者が増えてきた。

 もう一つは,社会的流動性が弱まり,すくなくとも高資産・高所得が次世代も高資産・高所得とし,低資産・低所得が次世代も低資産・低所得にする関係が目立ってきたことだ。資産・所得により子どもにかける教育費用や教育意欲が異なるからだ。さらにはなはだしいことに,21世紀になるとアンダークラスは未婚率が高く,それ故に子どももつくらないという事実が明らかになった。日本は,格差や貧困が世代を越えない社会から,格差や貧困が再生産される社会に変わってしまったのだ。

 苦しい境遇を「ベース」が決める度合いが強まり,「本人の努力」で逆転できない場合が増えている。若者は,あるいは自分の家庭のから,また嫌でも入ってくる情報から,そう考えざるを得ない。これが「親ガチャ」と言う言葉の背景にある現実だろう。最後に再びヒオカ氏の表現を借りるならば,「環境のせいにするな」と説教してすむ状態ではない。必要なのは「自分の問題は自分だけの問題ではなく、環境の影響があって、社会問題なのだ」という認識を広げていくことだ。さもなくば,日本社会の分裂は広がる一方だろう。

※なお,本当にそこまで深刻なのかという方には,橋本健二教授の『アンダークラス』(ちくま新書,2018年)や,とくに氷河期世代にフォーカスした『アンダークラス2030:置き去りにされる「氷河期世代」』(毎日新聞出版,2020年)などで,具体的な数値にあたって確認されることをお勧めする。

シェア先

ヒオカ「「親ガチャ」論争で気になる上から目線、真に語るべき貧困再生産の深刻」DIAMOND ONLINE,2021年9月24日。

2021年9月26日日曜日

関係者はぜひ活用を:渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」

 これほどまでにどんぴしゃりのタイミングで,政策関係者に大いに役に立つペーパーが出ることは滅多にないだろう。誰もが知りたいことがちゃんと書かれている。例えばこのあたり。

「中国が正式にCPTPP 加入申請をするのであれば、次のように考えている可能性がある。つまり、①国有企業章については、現行の適用除外、例外および留保、とりわけ地方政府所有国有企業留保を活用すれば大きな支障がない、あるいは CPTPP 加入交渉時により幅広い国別留保を獲得することが可能であると考えている。②電子商取引章についても CPTPP 全体に適用される安全保障例外の活用を考えている。以上 2 点については、このように楽観的に考えている可能性が高い一方、③労働章の規律を受け入れる準備があるのか大いに疑問が残る。」(30ページ)

 私もこの研究プロジェクトの隅っこに一応いるので,著者の先生方が以前からこの話をしているのをちらちら横目で見ておりました。ただ拍手です。

渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」RIETI Policy Discussion Paper Series 21-P-016,(独)経済産業研究所,2021年9月。




2021年9月20日月曜日

川端望・銀迪「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」の公表に寄せて

 銀迪さんとの共著「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」が掲載された『アジア経営研究』第27号が発行されました。このテーマで科研費の申請をしたのが2016年の秋ですから,論文にするまで5年を要したことになります。今回は,現実の事態が紆余曲折を伴って進行していくときに,それを学問的に把握することの難しさに突き当たり,結果として現実の方が一段落ついたところでまとめることができました。現時点(2021年9月)では,この研究対象に関して最も詳しい事例研究であり,より広く中国の産業政策のあり方にも一石を投じている論文であると自負しています。

 J-Stageに登載されるまで少し時間がかかるため,編集委員会の許可をいただき,大学サイトでPDFを公開いたしました。

こちらからご利用ください

  なお,本稿はRIETIプロジェクト「現代国際通商・投資システムの総合的研究(第Ⅴ期)」の成果であり,RIETI Discussion Paper Series, 20-J-038の完成形です。







2021年9月14日火曜日

高炉・転炉を新設すると座礁資産になりかねないか

 アメリカに拠点を置くNPO,Global Energy Monitorのレポート。このNPOは何と世界中の製鉄所の動向をトラッキングするデータベースを構築している。そして,6月に発表されたレポートによれば,温室効果ガスの低排出製鉄技術が予測されるペースで商業規模に達した場合,鉄鋼業界は大規模な座礁資産(Stranded asset)を抱え込むことになるという。つまり,環境規制の下で資産価値の大幅低下が生じるのである。レポート作成時点で計画または建設中の高炉・転炉法による生産能力は,インドで少なく見積もって300万トン(※),中国では4367万5000トン。それらが座礁資産となることによるリスクはインド30-45億ドル,中国437-655億ドルである。当然,他の国においても,高炉・転炉法による一貫製鉄所に投資しようとする限り,このリスクは存在する。

 確かに,高炉・転炉への投資のタイミングが遅ければ遅いほど,また低排出製鉄技術の実用化が早まれば早まるほど,このリスクは高くなる。このレポートが両者について時期をどう想定しているのか精査する必要があるが,この視点自体はきわめて重要であり,鉄鋼業関係者が今後常に意識しなければならないことである。

※この他,高炉,転炉,電炉,平炉などが混在しているプロジェクトが2600万トン確認されているので,実際には高炉・転炉法の建設はもっと多く計画されている可能性が高い。

Caitlin Swalec and Christine Shearer, Pedal To The Metal: No Time To Delay Decarbonizing The Global Steel Sector, Global Energy Monitor, June 2021.


2021年8月10日火曜日

2021年8月3日火曜日

「目の前には資本主義しかない」:ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』は何を語るか

 ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』みすず書房,2021年。本書は,骨太な現代資本主義論であり,様々な角度から検討すべき論点を含んでいる。一度に整理できないので,何度かに分けてノートしたい。

 まず今回はタイトルについて。現代はCapitalism, Alone: The Future of the System That Rules the Worldである。このメインタイトルに「だけ残った」というニュアンスはあるのだろうか。「だけ残った」というのは,端的に「社会主義が消えて」ということのように思えるのだが,本書の趣旨は「残った」と言う「過去から現在へ」の視線ではないと思う。副題が示すように,「現在から未来へ」の視線で資本主義を捉えているのだ。直訳すれば「資本主義だけがある」であり,ニュアンスとしては「資本主義だけの世界」「資本主義しかない現実」「ただ資本主義だけが存在する、いま」ではなかろうか。

 われわれの目の前には資本主義しかない。なぜなら中国も資本主義だと著者は考えているからだ。資本主義の主要なタイプを著者は「リベラル能力資本主義」(liberal meritocratic capitalism)と「政治的資本主義」(political capitalism)に二分する。一方において,著者はいわゆる西側の資本主義国における従来の分類,たとえばアングロサクソン型,ライン型などの分類をとらず,アメリカを代表として欧米先進諸国はみなリベラル能力資本主義であるとする。さほど明確に述べていないが,日本もここに含まれるのだろう。他方において,著者は中国は資本主義であり,政治的資本主義の典型であると断言する。そして,シンガポール,ベトナム,ビルマ,ロシアとコーカサス諸国,中央アジア,エチオピア,アルジェリア,ルワンダにも政治的資本主義が存在するという。

 ここで著者は資本主義について独特な定義をしているのではなく,マルクスとヴェーバーによって,社会で生産の大半が民間所有の生産手段を用いて行われ,労働者の大半が賃金労働者であり,生産や価格設定についての決断の大半が分散化した形でなされているのが資本主義だというだけである。だから著者にとっては,アメリカも市場経済化した中国も資本主義なのだ。

 二つの資本主義には違いもある。リベラル能力資本主義は,古典的資本主義や社会民主主義的資本主義と区別されるものである。キャリアが才能ある者に開かれているという点で「能力主義」であり,社会的移動性が存在するという意味で「リベラル」とされる。しかし,リベラル能力資本主義は,資本主義一般と同じく不平等をもたらす傾向がある,その上二つの独自性,つまり資本所得の金持ちが労働所得の金持ちでもあること,金持ち同士が結婚することにより,いっそう不平等を強化するのだという。他方,政治的資本主義は,支配政党やイデオロギーがどうあれ資本主義である。ただし政治的資本主義は「優秀な官僚」「法の支配の欠如」「国家の自律性」というシステム的特徴を持つのだという。こちらにも不平等はあるが,システムに独自な問題はむしろ腐敗である。

 目の前には資本主義しかない。ただし,大きな違いを持つ二つのタイプの資本主義がある。そして,資本主義しかないことそれ自体はしばらく変わらないだろうが,二つのタイプの資本主義には,重点は違えどともに不平等と腐敗という問題があり,それぞれ独特の矛盾も存在する。二つの資本主義が,今後はどのような資本主義になるかは,いろいろな選択肢があり得る。ただし,資本主義とはいずれもエリート層が支配するものであるから,その変化とは,効率の良いものへの自動的変化ではない。エリート層が,あるいはその支配に対する他の人々が,自らの立場を貫徹しようとする選択と行動の結果である。

 以上は本書が描く大まかな世界像の紹介である。あえて言えば,邦題によって,とくに私を含む一定以上の年齢層の読者が「資本主義しかないよなあ,そうだよなあ,しかたないよなあ。社会主義って何だったんだろうなあ」という本だと思い込んでしまわないための紹介である(そういう話もあるがメインではない)。そうではなく「気がつけばどこを見てもおおむね二つの資本主義しかないんだけど,一体,これからどうしろというんだ」という本なのだ。だから面白い,と私は思う。もちろん,面白いということと,著者の分析に賛同するということは異なる。考察と評価は,他日を期したい。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09003/

2022年8月4日追記:読み終えてのノート
「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて」Ka-Bataブログ,2022年8月4日。






2021年7月16日金曜日

脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか(『Value One』No.73,株式会社メタルワン,2021年7月15日掲載原稿)

  メタルワン社の広報誌『Value One』No.73,2021年7月に寄稿した原稿を,許諾を得て公開します。

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脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか

 2020年から2021年にかけて,日本の地球温暖化・気候変動に対する取り組みは新段階に突入した。すなわち,日本政府は2050年カーボンニュートラルを宣言し,温室効果ガス(GHG)排出を2030年度に2013年度比46%削減するという目標を設定したのである。地球温暖化対策推進法も改正され,「我が国における2050年までの脱炭素社会の実現」が明記された。これらの目標は,パリ協定に基づく取り組みに立ち遅れた日本がキャッチアップを図るものであるが,鉄鋼業にとっては,これまでよりレベルの高い脱炭素の方策を迫られることを意味している。

 すでに高炉メーカー3社は2050年カーボンニュートラル達成を方針化しており,コミットメントを明確にしている。問題は,カーボンニュートラルやゼロカーボンを達成するための様々な技術が様々な段階にあり,かつ全体としてまだ見通しがついていないことである。当面どのような既存技術を用い,中長期にはどの技術をどのようなペースで開発し,どのように組み合わせて実機化するかの戦略的な選択が求められている。

 現在,革新的高炉用原料であるフェロコークス,部分的水素還元とも言うべき革新的高炉技術COURSE50が開発中であるが,直接のCO2排出削減効果は10%にとどまる。そのため,さらなる超革新技術の開発も求められており,水素還元比率を向上させるSuper COURSE50,さらに石炭を用いない水素直接還元製鉄が構想されている。しかし,COURSE50でさえ実機化されるのは2030年とされており,次々世代技術の開発にはいっそう時間がかかる上,不確実性も伴う。開発を進めるとともに既存技術も活用するのが現実的な方法であって,CO2排出原単位の低い電炉法の適用を拡大することが不可避である。日本製鉄が大型電炉での高級鋼製造を目指すと明言したことは,柔軟な技術ミックスへの第一歩となろう。

 カーボンニュートラル,そしてゼロカーボン実現をめざして変化するのは製鉄技術だけではない。再生可能エネルギーによる電力のゼロエミッション化はもちろん,廉価な水素の大量製造,CCS/CCU(二酸化炭素回収・貯留・利用)の実用化など関連技術の発展,それとの結合が必要である。したがって,鉄鋼事業と他の事業との連結性にも変化が生じる。すでにヨーロッパで鉄鋼メーカーと電力会社との提携が始まっているように,業種を超えたプロジェクトが有効となるだろう。

 制度設計に由来する課題も発生する。一方において,鉄鋼業はカーボンプライシングや排出キャップの設定という政策課題に向き合わねばならない。また,製造プロセスからのCO2排出が残る間は,カーボンニュートラルのためにオフセットへの取り組みが必要となる。他方において,鉄鋼業の立場からは,水素還元という未踏の領域に挑むための公的支援,またエコプロダクトや海外へのエコソリューションの貢献を排出削減にカウントする手法と制度が求められるだろう。

 事業が変化し,事業と事業の連結性が変化し,制度が事業を必要とする。地球温暖化防止への取り組みが,鉄鋼業の姿と境界線を変えていくだろう。そこに,商社の貢献すべき空間も生まれる。温暖化防止が人類的課題となった時代の経営理念を探ること。GHG排出削減と事業発展が両立するビジネスモデルを構想し,鉄鋼業と関連産業の融合を図ること。GHG削減の貢献が制度と市場で評価されるような,ファイナンスや取引の仕組みを作ること。やるべきことは多い。カーボンニュートラルに貢献しながら付加価値を生み出していくための,事業創造が求められるのである。



2021年7月15日木曜日

Book review: Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020

Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020 (The reviewer read the Japanese version translated by Eri Kosaka, published by Misuzu Shobo). This book has two theoretical backbones. One is "The General Theory of Employment, Interest and Money" by J. M. Keynes. The other is "Imperialism" by J. A. Hobson. Especially the author respects the latter. The book opens with a quote from Hobson, and the preface praises Hobson's insights.

 Why Hobson? Using the examples of China and Germany (and with Japan in mind), the author unravels the secret of the persistence of current account surpluses by using the term I-S balance, but differently than in conventional macroeconomics.

 The logic of the book, with some interpretation of mine, can be summarized as follows.

 A persistent savings surplus cannot be explained as the result of individuals saving and depositing. It should be seen as the result of the suppression of consumption in the country due to distributional inequality.

 The persistent current account surplus cannot be understood from the perspective of merchandise trade itself. First, excess savings are invested outward. Excess savings is what Hobson calls an "excess capital”. They create excess demand as unhealthy investment projects are carried out abroad. Excess demand, in turn, creates excess exports at home. Capital exports support commodity exports, not the other way around.

 Therefore, it is essential to raise people's income and revise inequality in countries with current account surplus, such as China, Germany, and Japan, to eliminate structural imbalances. Such measures increase domestic consumption and eliminate excess savings. This solution is just what Hobson emphasized.

 The arguments in this book are clear and persuasive. In particular, the reviewer thinks that the perspective of excess capital leads to meaningful insight. First, capital with no domestic investment destination is invested overseas, and then the purchasing power generated by that investment leads to commodity exports. This perspective reverse traditional thinking that commodities are exported first, and then the surplus is invested overseas. This book gives us a new approach to analyzing the world economy based on macroeconomic balance.

 Of course, some points need to be reconsidered. The emphasis on the active role of outward investment from surplus countries may lead to undervaluation of the role of financial institutions and corporations in organizing investment for unsound projects in deficit countries, such as the United States. Theoretically speaking, excess savings wandering around in search of investment is not a sole financing measure for investment. Money creation by bank loans is also an important measure.

 In addition, the author may be torn between the view that "investment generates the same amount of savings" and the view that "volume of saving limits investment." 

 However, even those questionable points are stimulant for readers. This book makes us aware of the importance of these theoretical issues to analyze the current world economy. It will be the mission of subsequent studies to solve the remaining puzzles.




論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...