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2021年2月1日月曜日

給与デジタル払いの意味するものは,銀行業界内部における集中と,電子マネー業者への情報の移動である

 「 給与デジタル払い21年春解禁、銀行口座介さず 政府方針【イブニングスクープ】」『日本経済新聞』2021年1月27日。給与をスマホの支払アプリに振り込めるという話。労働法上の問題など(特定のアプリの仕様を会社から強制されないかなど)もあるが,とりあえずこの『日経』記事の論評には何かずれたものを感じる。

(引用)「給与の支払いが資金移動業者にうつれば、銀行のビジネスモデルが揺らぐとの見方がある。たとえば新卒社員は入社時に銀行口座を作り、そのまま利用し続ける人も少なくない。銀行口座を作らず、デジタルマネー支払いを選ぶ人が増えれば、銀行の顧客基盤が縮小する」。

 これは,「ある特定の銀行にとって」「顧客基盤が縮小する」という意味では正しい。たとえばある地方の企業が,給与振り込みをメイン取引銀行の地方銀行である七夕銀行を通していたのをやめ,大手資金移動業者(電子マネー業者)のX Payを使うようになったとする。これにより,七夕銀行(仮名)が給与振込口座を獲得できなくなるということはありうる。

 しかし,「銀行全体にとって」「顧客基盤が縮小する」かどうかは要検討である。実は,預金が縮小することはない。企業Aが給与をメイン取引銀行だった七夕銀行の口座振り込みからX Pay支払いに変えるということは,企業AがX Payに法人アカウントを持ち,X Payに給与を振り込むということだ。このとき,給与のお金は見かけ上,企業Aの七夕銀行口座→企業AのX Pay口座→従業員のX Pay口座と動き,銀行預金が流出したように見えるが,その背後では企業Aの七夕銀行口座→X Pay社の取引銀行(ビッグ銀行とする)口座と移動している。なので,銀行預金の総量は何ら減少していない。ただし,七夕銀行の預金は縮小し,X Pay社の取引銀行,おそらくは大手都市銀行であるビッグ銀行の預金は拡大している。そして,こうした取引を繰り返すならば,やがて企業Aは給与支払い分のお金は普段からX Payに置いておこうという考えるようになり,メインの取引銀行をビッグ銀行に変えた方がいいと思うかもしれない。

 そしてもうひとつ,従業員たちの取引情報は誰が把握するかという問題がある。従来は,銀行口座を通して七夕銀行が把握してきた。これが,七夕銀行であれビッグ銀行であれ銀行には把握できなくなり,かわって資金移動業者であるX Pay社に把握されるようになるのである。

 つまりここで起こるのは,まず,地方の中小規模銀行が預金を失い,大手資金移動業者が口座を置いている大手銀行が預金を獲得するということであり,やがて金融取引全般が大手銀行に集中するということである。そして,銀行預金の総量は減っていないにもかかわらず,小口客の取引情報を握るのが銀行から大手の資金移動業者に変化するのである。

 預金は銀行から流出しないが銀行業界内部で集中する。情報は銀行業界から資金移動業界に移動する。このように見通すべきではないか。


2021年1月25日月曜日

次年度の学部ゼミテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年

 次年度の学部ゼミ最初のテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年とした。今年度は後藤先生の『アジア経済とは何か』と塩地洋・田中彰両先生編著の『東アジア優位産業』を読んだので,その流れに沿っての選書である。前年度にちゃんと勉強したはずの新4年生は新3年生をきちんとサポートせよ,という建前も成り立つ。

 今年度の反省点としては,「アジア」を論じるはずが,学生の思考が「日本とそれ以外」という風に向かってしまいがちだということだ。そして,「日本は高付加価値で高品質の分野に集中し……」という永遠の回転木馬に流れてしまう。いや,実際にそういうことが起こっている産業ではいいのだが,よくわからない,調べてないけど,こう言っておけばいいんだろ的になると問題である。

 その点,本書は「アジア化するアジア」「生産するアジア」「移動するアジア」「都市化するアジア」「老いていくアジア」といったように,「アジア」そのものが切り口になっていることを特徴としている。次年度は「他のアジア諸国に対する日本」でなく「アジア」を考えるために,本書の構成と切り口を活用させていただきたい。もちろんそれは,「アジア」の経済・社会がどこでも同じだという意味ではないし,本書もそんなことは書いていない。「アジア」は現実においてダイナミックな経済・社会変容の場であり,その変容を捉えるための思考の単位であろう。



2021年1月22日金曜日

中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年を読んで

 中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年。大きなところでは,1)戦後日本の電子部品産業において,戦前からのラジオ生産や戦時中の電波兵器製造で獲得した技術的能力が継承されていたこと,2)分野別の技術的イニシアチブは,戦後少なくとも1950年代まではセットメーカーよりも部品メーカーにあったこと,3)上記二つの事情もあって,当初は規格品の市販による供給が主流であり,やがて完成品メーカーとの長期相対取引によって特注品を供給する度合いが強まるが,それでも自動車部品産業ほどではなかったことが実証的に解明されていた。現状分析のところも「日本経済」講義の参考になるもので,本書で使用されている資料をさっそく注文した。個人的には,大阪・日本橋電気街の起源が出てくるのも楽しかった。日本のサプライヤー・システムを論じようとする研究者が,自動車部品産業の事例だけを見て一般化する誤りを避けるために読むべき本だ。



2021年1月6日水曜日

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年を読んで

 ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。原題もGerald A. Epstein, What's wrong with modern money theory?なので邦題は間違っていないのだが,内容はタイトルとちょっと違う。もともとあったのに邦訳では省略された副題A policy critiqueというニュアンスが重要だ。本書は実際には,「実際の経済政策に応用しようとしたらMMTには何が足りないのか?」を明らかにしようとしているのである。著者は進歩主義的マクロ経済政策の研究者であり,公共投資と社会保障のために必要な財政支出は行うべきという立場を取っている。その点においてはMMTと同じ方向を向いている。しかし著者によれば,MMT論者は,制度的要因を無視して抽象理論から政策的主張をいきなり導いたり,本来自ら持っている理論的枠組みを当面の政治的主張のために無視したりするという問題を持っており,その弊害は無視できないというのである。

 詳細は本書にぜひ当たっていただきたいが,私は著者のMMT政策論批判は,おそらく妥当であると思う。おそらく,というのは,私がMMTの研究者がアメリカでどのように政策を論じ,とくに政治的な論戦の場でどのように対抗理論と切り結んでいるかについて詳しい知識を持たないからである。しかし,著者がMMT論者の主張を正確に読み取っている限りにおいて,その批判は正しいように思える。私は,MMTについて,貨幣の本源的理解は同意できないものの(※),信用貨幣論と内生的貨幣供給論による中央銀行券論を肯定している。にもかかわらず著者に賛同できるのは,著者もまたMMTの貨幣理論や銀行理論を根本において否定していないからである。その上で,著者がMMT論者の,抽象理論から規範的な政策論を導く際の論理と実証の弱さを批判していることは,もっとなように思えるのだ。

 とくに私は,日本のMMT論者の政策的主張でも手薄なところについての著者の批判を重視したい。列挙してみよう。
 第一に,MMTが抽象的な次元で統合政府を論じるのは良いとして,現実の制度の上で政府と中央銀行の間の政策協調が実現するかどうかは別問題だということである。当然,個々に制度分析と制度改革論が必要になる。
 第二に,財政拡張がインフレを招いた場合に,どのようにして支出削減や増税という政策転換を行うのかということである。安定した税の制度と運用を確保しながらこれを行う方法を開発しないと,こうしたファイン・チューニングは実行できないだろう。
 第三に,MMT論者は変動相場制の自動調整機能を信頼し過ぎている。発展途上国の通過に対して,投機的な資金の動きがインフレ率と乖離した為替相場の急落をもたらすおそれについて無警戒過ぎる。
 これは第四に,米ドルについてさえいえる。在外ドル資産がどれほどあり,それらを他の通貨で持ち替えようと動きがどれほどあるかによって,ドルの地位も左右される。
 第五に,MMT論者はミンスキーの支持者であるにもかかわらず,「金融不安定仮説」に無頓着である。これは通貨発行権を持つ政府の債務創出はヘッジ金融にしかならずポンツィ金融になる心配がないと考えるからかもしれないが,だからといって通貨供給量の拡大が民間におけるバブルに結びつく危険性は無視できない。MMTは,理論的にはその危険性を認識しうる枠組みだが,政策的考察が弱い。第三,第四の点とあわせて言えば,MMTでは金融規制への関心が弱い。
 第六に,MMT論者は,その理論的枠組みにおいてはフリーランチがありえないことを認識しているのに,政治的主張の場でそうでないかのように主張している。MMTにしたがっても,財政拡張によって完全雇用に達した後は資源を何に用いるかについてトレードオフとクラウディング・アウト(その表現としてのインフレ)が生じる。ところがMMT論者は,政治的主張の場において,あたかも財政赤字が誰にも何の犠牲ももたらさずに利益だけを実現できるかのように主張している。

 以上,やや大胆に著者によるMMTの政策論批判を要約した。著者の批判は破壊的批判でなく,MMTが実践に寄与するためには何を充実させねばならないかを指し示した,建設的批判である。MMTの理論に立って政策論を構築しようとする際に,聴くべき重要な警告であると思われる。

※MMTは歴史的にも理論的にも貨幣は最初から信用貨幣であったとみなす。私はマルクスに従い,資本主義社会における貨幣を理論的に理解するにあたっては,まず本源的に金を典型とする商品貨幣のモデルで理解した上で,その発展形として銀行券や預金通貨の存在するモデルで理解し,さらに管理通貨制という条件下のモデルで理解すればよいと考える。

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。



2020年12月22日火曜日

ベトナム鉄鋼業論が英語の論集に収録されました:Hiromi Shioji, Dev Raj Adhikari, Fumio Yoshino & Takabumi Hayashi eds., Management for Sustainable and Inclusive Development in a Transforming Asia, Springer, 2020

  分担執筆した英語の本が出版されました。Google Scholarからのプロフィール自動更新情報で気づいたのですが,どうやら12/5にアップされたようです。紙版1冊をもらえるかどうかわからないので,とりあえず図書館所蔵用を注文します。


Kawabata, N. (2020). Development of the Vietnamese Iron and Steel Industry Under International Economic Integration, in Hiromi Shioji, Dev Raj Adhikari, Fumio  Yoshino & Takabumi Hayashi eds., Management for Sustainable and Inclusive Development in a Transforming Asia, Springer, 255-271.(国際経済統合下におけるベトナム鉄鋼業の発展)

https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-981-15-8195-3_15

 この論文の最初のバージョンは,2018年にベトナム鉄鋼業に関する評価の輪郭を思いついた時に,とにかく実務者,政策担当者,研究者に速報しようと日本語,英語両方でDPにして配信したものでした。その後,IFEAMA(東アジア経営学会国際連合)の大会で報告し,報告論文からピックアップしての出版にエントリーして採択されました。

 執筆を決めた時に念頭に置いたのは,実務家や政策担当者の状況でした。つまり,ベトナム鉄鋼業はアジアの産業の中で地位を急速に向上させているのに,この産業の発展史や各セクター(国有,民営,外資)に関する評価が提示されていなかったことです。その原因は簡単で,継続的に調査・研究している人が私以外にほとんどいないからでした。なので,まずはベースとなるものを私が書いて提示するのが社会的責任であろうと思ったわけです。これで,ベトナム鉄鋼業への評価がおかしな方向にすっとんでいく危険は回避できたし,この産業に関する仕事に携わろうとする人に,まず最初に読んでもらいたい論文になったと自負しています。

 しかし,とりあえず関係者に理解してほしい要点だけを詰め込んだものであり,実証分析は十分とは言えません。次の課題は,もっと解像度の高く詳細な研究書を一人で書き上げることです。


2020年12月18日金曜日

DHC吉田会長の「ヤケクソくじについて」に対して

 DHC通販の公式ページに掲げられている吉田会長名の文章。ハフポストがDHCの見解を問いただしても,同社は「回答することは特にない」としている。では,このような文章を公式サイトに掲げて問題ないというのか。私も問いたい。

・吉田会長は「サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です」と述べているが,これは何を根拠にしているのか。何の根拠もなく,また必然性もなくして,他人の民族的系譜を大企業の会長がウェブ上で公然と決めつけるのは不適切だ。

・上記の言明の直後に「そのためネットではチョントリーと椰楡されているようです」というが,そのように呼ばれているという事実認識の根拠は何か。どこで,どの程度普及している呼び方なのか。

・「チョン」を,日本においてコリアンに対して使うことは蔑称だ。フェアな呼び方ではなく差別的な呼び方だ。なぜ,このような呼び方をするのか。伝聞を紹介しただけだなどと言ってすむことではない。

・上記の言明に続いて「DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本企業です。まもなく創業50年を迎えようとしている老舗の会社です。今、雨後の筍のように出てきた幾多数多の同業者とも一線を画しています。まだまだ残っているはずの賢明な消費者に私たちは一線の望みを託しているのです。」と述べていることについて。この文章は,「コリアン系日本人」を宣伝に起用する企業は劣っており,「純粋な日本企業」であるから優れているのだという価値判断を示している。コリアン系日本人を宣伝に起用することについて,企業として何がどう問題だと考えているのか。どのような日本人を起用するのが「純粋な日本企業」と考えているのか。「コリアン系日本人」とそうでない日本人に企業の優劣につながる差があると考えているのか。どのような根拠を持ってそういえるのか。これは民族的系譜のみによって人の優劣を判断する差別ではないのか。

 今後,DHC吉田会長が上記言明の不適切さを認めるか,さもなくば納得できる説明を行うかのいずれかでない限り,私はDHCのサプリメント購入を中止する。

吉田嘉明「ヤケクソくじについて」DHC公式オンラインショップ,2020年11月30日。

2020年12月12日土曜日

2050年に鉄鋼生産工程でのCO2発生ゼロを目指すという日本製鉄の方針について

 『日本経済新聞』2020年12月11日付によれば,日本製鉄橋本英二社長は「政府が掲げる50年のゼロ目標に合わせて,鉄をつくる過程で発生しているCO2ゼロを目指す」と述べたとのこと。

 待たれていた方針だ。日本の鉄鋼業界の温暖化対策は,京都議定書の削減目標を達成したところまでは見事であったが,その後はベースライン比何百万トン削減という形での,国際社会への貢献度があいまいな目標しか立ててこなかった。2018年には日本鉄鋼連盟がゼロカーボンスチールを目指す温暖化対策ビジョンを作成して一歩踏み込んだが,そこでも世界鉄鋼業がゼロカーボンを達成するのは2100年とされていた。この達成時点を2050年に前倒しすることで,「世界的な平均気温上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保つとともに,1.5℃に抑える努力を追求する」というパリ協定の目標に見合った削減シナリオとなる。

 また報道が正確だとすれば,今回日鉄は,「電炉活用を進める」と公言したことになる。すでに日鉄は,瀬戸内製鉄所広畑地区への電炉導入を決めて布石を打っていたのだが,(報道が正確であれば)ついに公然と電炉の温暖化対策上の意義を認めた格好になる。これはJFEスチールや神戸製鋼所,また日本鉄鋼連盟にも影響を与えるだろう。これまで日本鉄鋼連盟は,「電炉の方がCO2排出原単位が小さい」という話題が出るたびに徹底して反発してきた。その背後に高炉メーカー会員の意向があったことは容易に推定できる。このかたくなさも変化すると期待できる。

 もっとも,これは必然だったと言える。そうしなければ目標が達成できないからだ。鉄鋼連盟が公表している,2100年ゼロカーボンスチールの方針は,ある程度の電炉法比率拡大を想定していた。もっとも主要な達成手段はそこにはおかず,現在開発中の部分的水素還元製鉄COURSE50を実用化した上に,さらにその先の超革新的製鉄技術,端的には完全な水素製鉄法,加えてCCSまたはCCU(二酸化炭素回収・貯留,再利用),さらに系統電源のゼロエミッション化をすべて達成することで目標を達成するとしていた。しかし,2050年に排出ゼロを実現しようとすれば,これらの次々世代技術開発は必要である一方で,そこにすべてをかけるわけにはいかないだろう。また,次々世代技術がすべて実用化されて2100年に達成では遅すぎる。10月公表の拙稿(※)で指摘したように,まず2050年に向かっては,現存する技術であるスクラップ・電炉法の適用比率をもっと拡大していくことが必要だろう。

 ただし,日鉄の方針にはより詳しく見るべき点もある。排出ゼロとするのはどの範囲なのかということだ。世界全体としての日鉄の連結あるいは持ち分法対象企業すべてなのか,それとも日本国の排出に計上される分,つまり日本国内の生産拠点についてなのか。前者であることを期待するが,後者だとすると,960万トンの還元鉄一貫システムを持つインドでの合弁事業AM/NSインディアなどは対象外ということになる。

 この点は注意が必要だ。現在,日本製鉄は粗鋼生産の量的拡張は国際M&Aで進める方針を取っている。旧エッサール・スチールをアルセロール・ミタルと共同で買収して再編したAM/NSインディアはその主力であるが,今後も同様の買収があるかもしれない。裏返すと,国内では粗鋼生産能力を拡張することはもはやなく,すでにコロナ禍以前から呉製鉄所閉鎖などの大規模な設備調整に入っている。生産設備が縮小すればCO2排出も縮小する。もしゼロカーボンの方針を国内拠点だけに適用すると,生産拠点の国内から新興国へのシフトを加速させる要因になるし,地球全体としてのCO2排出削減効果をそぐ作用も持つ。ゼロカーボンの方針を全世界の拠点に適用するか,あるいは国内でのスクラップ・電炉法へのシフトを円滑に進めれば,こうした副作用は起こらない。

 日本製鉄の立地戦略と環境戦略を総合して,今後も注視していく必要がある。

「日鉄、50年に排出ゼロ 水素利用や電炉導入」『日本経済新聞』2020年12月11日。

※川端望「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」『粉体技術』第12巻第10号,日本粉体技術工業協会,2020年10月,15-19頁。


2020年12月5日土曜日

民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する

  貨幣論の講義を終えての理論的反省。昔からある話だが,マルクスの貨幣理論を古典的理解のままさほど改変せずに入門講義をしようとすると,管理通貨制を説明できるかという問題に突き当たる。私見では,これは大きく二つの領域に分かれる。

1)「流通必要金量」概念とそれによる論理構成は維持できるか。管理通貨制の下で,何らかの商品貨幣の物量によって貨幣の流通必要量を定め,それに対する紙幣や銀行券の代表量を論じる構成は維持できるか。

2)貨幣流通法則と紙幣流通法則の区別は現実性を持つか。不換銀行券や補助硬貨がすべて紙幣流通法則にしたがうのであれば,貨幣数量説とマルクス理論は区別されるのか。

 1)の方が難問である。あっさり否定するのは簡単であるが,そうすると色々な論理構造を連動して変えねばならず,非常に複雑な作業となる。かつて私が院生の頃,研究科内で田中素香教授と村岡俊三教授の見解が真っ二つに割れたことを覚えている。両方のゼミに出ていた院生はたいへん張り詰めた空気を感じざるを得なかったという(私は村岡ゼミにしか出ていなかったので,緊張は半分で済んだ)。いわゆる価値尺度商品の想定の問題であり,正直,私にもこちらはまだ整理がまだつかない。正直に言うが,スラッファ理論の訓練を受けなかったのがたたっており,現代的な議論についていけそうにない。

 私にとっては,2)は1)に比べれば何とかなりそうだと思っている。マルクスの言葉で貨幣流通法則にしたがうとは,現代の言葉では,内生的貨幣供給とほぼ等しい。紙幣流通法則はその逆で,貨幣の外生的供給の論理である。どのような通貨のどのような供給が貨幣流通法則にしたがい,したがって貨幣的インフレーションを起こさないのか,何が紙幣流通法則にしたがい,貨幣的インフレーションを起こすのかは,何とか論じられると思う。それが先日の投稿「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」である。これでもまだ不十分な点はあるが(国債発行の際の通貨供給増を中央銀行券の増発と単純化しているが,これでは預金通貨の動きをカバーしない),説明不可能に陥る危険は今のところ感じない。

 しかし,この整理によって,私はマルクス経済学の多数の解釈とも,また今まで基本的に従って来た不換銀行券=信用貨幣説の先達,すなわち岡橋保教授と村岡俊三教授ともある点で異なる見地に立つことになった。それは,国債を民間銀行が引き受けた場合にも,通貨供給量は一方的に増大するとみる点である。

 マルクス経済学者は,不換銀行券=国家紙幣説であれ不換銀行券=信用貨幣説であれ,国債を中央銀行が引き受けた場合には紙幣流通法則が作用し(=紙幣が外生的に供給され),通貨供給量が一方的に増加して,貨幣的インフレ作用が生じると考える。私の知る限り,ほぼ例外はない。しかし,逆に国家紙幣説であれ信用貨幣説であれ,国債を民間銀行が引き受けた場合には,流通界から政府が紙幣を引き上げ,再び投入すると考える。この場合,流通法則をどちらで考えるかは別として,通貨供給量は変化しないと考えるのが通説である。岡橋教授は明らかにそうであるし,村岡教授は書き記してはいないかもしれないが,口頭の議論からは同様であったと私は理解している。

 しかし,そうではないと私は考えるに至った。中央銀行が引き受けようが民間銀行が引き受けようが,通貨供給量は増えるのである。以下,中央銀行券と預金の動きを説明する。

・中央銀行引き受けの場合

1a)政府が中央銀行券で支出すれば,「政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支払→支出先企業の中銀券増」

1b)政府が銀行振り込み支出すれば,「政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。明らかに通貨供給量が増えている。

・民間銀行引き受けの場合

2a)政府が中央銀行券で支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支出→支出先企業の中銀券増」

2b)政府が銀行振り込み支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。これも通貨供給量は増えている。2a)ではかわりに中央銀行当座預金が減っているが,企業が中央銀行券を預金すれば準備も回復し,その圧力はなくなる。2b)では中央銀行当座預金が減りもしない。

 通説が誤っているのは,国債を民間銀行が引き受けると,通貨が民間から引き上げられる(よく使われる表現では民間貯蓄が吸収される)とみなしているところである。そうではない。国債の代金は流通の外にある(マネタリーベースに含まれるがマネーストックに含まれない)中央銀行当座預金から政府預金に振り込まれるのである。なので銀行が国債を引き受けても通貨は民間から引き上げられず,民間貯蓄は吸い上げられないのである。もちろん,民間銀行からさらに民間投資家に売却されれば別である。この場合,投資家の持つ中央銀行券や預金が減少するために通貨は引き上げられる。

 この見解の帰結は,重大な問題を派生させる。この見解に従えば。国債が中央銀行によって引き受けられようが民間銀行によって引き受けられようが,紙幣流通法則が作用し(通貨が外生的に供給され),貨幣的インフレ圧力が生じるはずだからである。現実にはどうか。日本をはじめとする先進諸国が財政赤字を出し続けているにもかかわらず,1980年代以降,物価上昇率は下落の一途をたどり,ついには物価上昇率を引き上げよという政策的主張が交わされるに至ったのである。一体,このことをどう理解すればよいのか。これが次の問題となる。

 なお,貨幣の種別と流通法則をまとめた表を,政府の財政赤字で預金が増加した場合を含めて書くと以下のようになる。

2021年2月19日。加筆。




2020年12月3日木曜日

私たちはいったい何なのか:『ウルトラマンA』第14話「銀河に散った5つの星」

 『ウルトラマンA』第14話「銀河に散った5つの星」(脚本市川森一,特殊技術佐川和夫,監督吉野安雄。1972年6月30日放映)。『ウルトラマンZ』にエースと超獣バラバが登場したのを記念して,先月公式配信されていた。

 このエピソードは第13話『死刑!ウルトラ5兄弟』と前後編になっており,ウルトラ兄弟が勢ぞろいで十字架にかけられたり,最強の敵エースキラーが登場したり,当時はかなり話題になったものだ。

 しかし,よく見ると田口成光氏が書かれた前編と,市川森一氏が書かれた後編ではトーンが全く異なっている。

 前編は,まあ自己犠牲と兄弟愛の話である。自分を助けようとした兄をバラバに殺された少年と,兄弟を思うエースが重ねられている。

 異次元人人ヤプールの謀略で裏宇宙の星,ゴルゴダ星に集められたウルトラ5兄弟は,絶対零度の寒さに襲われ窮地に陥る。しかも,地球にはバラバが出現。エネルギーを分けるから地球に帰れと諭す兄弟たちにエースが「それでは兄さんたちが死んでしまう」「嫌です」と抵抗すると,ウルトラマンが「バカ!」とビンタする。

 スポ根か。

 ウルトラ4兄弟は十字架にかけられ,ヤプールはその姿を地球人に見せつける。地球ではエースがバラバに敗れる。ここまでが前半。

 自分を犠牲にしても兄弟を守ろうという,こう言っては何だがよくある話であり,「バカ!」とビンタすると人が言うことを聞き,視聴者が感動するというのは,1970年代前半まで青春・家族ドラマの定石であった。

 さて,後半。ここからとんでもない話になる。他の多くの市川作品がそうであるように,裏切りと救済の物語である。

 ゴルゴダ星にはヤプールの最強ロボットエースキラーが出現。磔にされたウルトラ兄弟から必殺技のエネルギーを吸い取り自分のものにする。実験台として登場したエースロボットは,あっさりエースキラーに破壊される。この時,視聴していた7歳の私や友人たちは,それまで怪獣図鑑などでしか存在を知らなかったゾフィのM87光線が,本人ではなくエースキラーによってはじめて使われたことに驚愕したものだ。

 超獣攻撃隊TACの高倉司令官は,ヤプールの拠点となっているゴルゴダ星を超光速ミサイルNo.7で破壊せよと言う。そうすればウルトラ4兄弟を殺すことになると抗議する北斗星司。M78星雲をM87星雲と言い間違えるなど,例によってどこか間が抜けているがそれどころではない。しかし,ミサイル計画は強行される。地球人は,自分たちを救い続けてくれたウルトラ兄弟を裏切る。

 しかも高倉司令官は,北斗をNo.7のパイロットに指名する。No.7は有人式であり,裏宇宙への突入準備までは人が操縦してから,友人ロケット部分を切り離して脱出するのだ。No.7打ち上げの日。星司にかけよる南夕子隊員。「星司さん。エースの兄弟たちを,あなたは自分の手で」。「おれが止めても,誰かがやるだけだ。他の者にはやらせない」。星司は,命がけで自分を地球に帰してくれた兄弟を裏切らねばならない。

 発射されるNo.7。だが切り離し装置が故障する。高倉司令官は「予定は変更できない。超光速に切り替えてゴルゴダ星に突入してくれ」と命じる。TACは隊員である北斗を裏切る。

 竜隊長が介入する。「北斗。その必要はない。ミサイルの方向を変えて,ただちに地球に帰還せよ」。「計画の指揮官はあなただが,TAC隊員たちの命をあずかっているのは私です。これから先は,私が指揮を執る」。竜隊長は特攻を決して命じない。なおも「司令官命令だ。そのままゴルゴダ星に突入せよ」と言い放つ高倉司令官を,ついに殴り倒す竜。だが北斗は「やめてください。俺は行きます」と言う。「ゴルゴダの星のウルトラ兄弟たちとともに死なせてください」。兄弟を殺す運命を受け入れてしまった北斗は,もう地球に帰ることはできないのだ。

 高倉を追い出したところにバラバ出現の報告。竜隊長は,あえて南夕子隊員を交信台に残して出撃する。「星司さん。わたしが見える?」「いや,こちらからは見えない」「わたしは見ているわ」「夕子!」「星司さん!」。その時ウルトラリングが光る!「星司さん,手を出して!早く!」スクリーンに手を差し出すと,二人は空間を超えてエースに合体変身した。肝心な時の主導権は,常に夕子にある。

 ゴルゴダ星に降り立つエース。「兄さんたち。私も兄さんたちとともに死のう」。変身できても事態は好転していない。エースは兄弟を救うことをあきらめ,死にに来たのである。出現するエースキラー。スペシウム光線で,エメリウム光線で,ウルトラブレスレットでエースを攻撃する。ともに死のうとする瞬間に,エースはウルトラ兄弟の力によって裏切られる。

 その時,ウルトラ兄弟の最後の力がエースに放射される。必殺技スペースQにより粉砕されるエースキラー。エースは兄弟たちと別れて地球に戻りバラバを倒す。

 事件が解決してTAC本部で北斗と南の誕生パーティが準備される。二人とも7月7日が誕生日なのだ。あの二人はもしかして双子,いや似ていない。恋人同士か,いやそんな感じじゃねえなあと噂する隊員たち。その頃,二人は屋上で星空を見上げていた。

北斗「一年に一度,あの天の川で牽牛と織姫が会うんだね」。

南「牽牛と織姫って,恋人同士なの?」。

北斗「うん」。

南「……あたしたちは,いったい何なのかしら」。

北斗「え?」。

 北斗!お前はどうしていつもそうなんだ。

 だが,ここは北斗が鈍いと言うだけの問題ではない。隊員たちと違って,北斗と南は,自分たちがウルトラマンエースに合体変身することを知っている。地球を守るためにエースになって,兄弟たちとともに闘おうとしていることを,二人だけの秘密として知っている。しかし,第1話でもこの話でも北斗や南とエースとは別の人格だ。北斗と南は,自分たちが地球人としてエースや兄弟を裏切ってしまったこと,北斗が,他の誰かにされるくらいならと自分自身の手でエースの兄弟を殺そうとしたことも知っている。エース自身が兄弟たちとともに死のうとしていたことも,兄弟の力でエースとともに自分たちも殺されようとしたことも,エースの力ゆえに助かったことも知っている。そんな私たちはいったい何なのか。いったい北斗隊員と私が一体になっても何ができるのか。

 ウルトラマンでさえも,裏切りから逃れることはできない。まして人間においておや。その宿命は自分自身だけでは解決できない。唯一救いがあり得るとすれば,それは他者から思いがけない形でやって来る。人間の力が尽きた時にのみウルトラマンは現れるかもしれない。組織が自分を見捨てた時に,それに歯向かって守ってくれようとする仲間が立ち上がるかもしれない。自分からは見えなくても,誰かが自分を見ていてくれているかもしれない。死ぬしかないと思った時に,奇跡が起こるかもしれない。たいていは起こらないから奇跡なのであるが,奇跡と名付けてでも,それが起こることを信じずにはいられないのだ。だから,なにもできなくても,罪を背負ってしまっても,なお北斗と南はお互いを信じ,エースを信じるしかないのだ。

 市川森一氏は『ウルトラマンA』のメインライターであったが,この「銀河に散った5つの星」を最後に,いったん降板してしまう。何かを描き切ってしまったのだろう。番組に幕を引くために第48話「ベロクロンの復讐」と第52話「明日のエースは君だ!」で復帰するが,それらはもっと救いのない,怨念と裏切りの物語であった。

「「裏切り」の物語としての『ウルトラマンA』最終回「明日のエースは君だ!」」Ka-Bataブログ,2020年5月7日。



2020年12月1日火曜日

青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」を読み,韓国大法院判決の論理の深刻さを知る

 昨年度のアジア政経学会秋季大会共通論題「東アジアと歴史認識・移行期正義・国際法ー徴用工問題を中心としてー」を基礎とした論文が『アジア研究』66巻4号に掲載された。昨年12月1日に投稿した通り,私はこの大会での青木清報告に強い衝撃を受けていたので,この度,整った論文を読むことができて,たいへんありがたかった。門外漢ゆえに見落としはあるかもしれないが,私はこの青木論文「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」こそ,元徴用工に関する韓国大法院判決の論理を理解するために待ち望まれたものだと思う。実に丁寧かつはっきりと説明してくださっている。この判決が正しいと思う人であれ,間違っていると思う人であれ,この論文は読む価値があると思う。J-Stageで無料公開されている。以下,私なりに要旨紹介するが,関心ある方は実物に当たられたい。

 青木論文は,まず「徴用工判決」の裁判としての性質は,国境を隔てて発生する私法上の問題を扱う渉外私法事件であることを明示する。外国裁判も外国法も,内国でその効力を認める国際法上の義務はない。しかしそれでは片付かないことから,外国裁判といえども一定の条件を満たせば国内でその効力を認め,事件を解決するにふさわしい外国法であればその方を適用するというシステムを国際社会は採用している。この裁判はそういう性格の事件において,韓国大法院が日本の判決,日本法の適用を認めなかったものなのである。

 認めない理由は「公序」に反するからである。漠然としているようであるが,これは韓国の法律にも日本の法律にもあることで,おかしなことではない。その上で,この大法院判決の特徴は,公序に反することの根拠を,韓国憲法の理念に反するところに求めていることだ。韓国憲法の前文は日本の植民地統治の合法性を認めない。それが根拠になり,日本の裁判所での判決を否認している。具体的には,戦時中の日本製鉄と新日鉄(日本での裁判の判決当時)の法人格の同一性を否認し債務の継承を否認した日本法の適用を,否認しているのだ(ややこしくて申し訳ない)。さらに積極的に,強制動員慰謝料請求権が成立するとしているのだ。そして,この権利が請求権協定の対象とならない根拠を,日本が植民地支配の不当性を認めず,強制動員被害の法的賠償も否認しているからだとしている。

 この青木報告を聞いたときに唖然としたことをよく覚えている。素人判断は危険ではあるが,私が思うには,この判決の論理は極めて深刻である。深刻というのは,正しいとか間違っているとかいうのではなく,判決の命じるままに行動すれば深刻な政治的問題を引き起こす一方で,覆すのも政治的に困難なように出来ているという意味だ。

 まず,この判決は韓国憲法の理念に根拠を置いている。ということは,憲法が比較的国民に支持されている韓国の政治においては,容易には否定されないであろう,と見通すことができる。逆に言えば,憲法の理念からいきなり日本の判決の適用の否認,日本法の適用の否認を根拠づけ,個人の存在賠償請求権まで根拠づけているわけで,それは,事の正否とは別に法解釈として飛躍があるように思う。

 次に,仮にこの判決の論理が通るならば,日本製鉄の行為にとどまらず,戦前戦中に朝鮮半島で行われた広範な行為を,それが直接間接に日本の植民地統治に肯定的にかかわっていた際には,事後に制定された韓国憲法の理念により,日本法を否定してで裁くことが可能になってしまう。それは韓国政治における日本帝国主義への批判を後押しするものなだけに,やはり韓国政治において容易には否定されないだろう。しかし,この,あまりにも事後法と言うべき論理が通るならば,政治・外交が過去の清算に注がねばならないエネルギーは止めどもないものになる可能性がある。そのようなことが大混乱や取り返しのつかない対立を起こさずに可能とは思えない。

 青木論文は,一方において,1965年の日韓基本条約や4協定では,植民地統治をもたらした条約を「もはや無効」と玉虫色の決着をしたため,棚上げ,先送り,犠牲にされた問題があることに注意を促す。日本は,これらの事柄に対応すべきだというのである。「1965年しか見ない日本」とされるゆえんである。他方,青木論文は,だからといって国際合意を覆し,条約の中身を否定するのは「法解釈としてはやはり行き過ぎ」だとする。「『日帝』にこだわる韓国」の法的行き過ぎである。結論として青木論文は,建設的な政策の再開を訴えている。

 私も青木教授に共感する。法の上では,韓国大法院の論理は行き過ぎであると思う。韓国の政府や司法が,徴用工問題を契機に,司法の論理で過去の清算を進めようとすることには無理がある。しかしそれは,日本政府が過去の清算問題などないという態度を取ってよいことを意味しない。法や条約の論理にはかからなくても,徴用工や強制労働(強制労働の実態があったことは日本の大阪地裁判決も認めている)という過去の出来事にどう向かい合うのかという問題は,本来,政治と外交において存在しているはずだ。韓国大法院の判決を押し立てるだけでも,それを国際法違反として頭から退けるだけでも,問題は解決しないのだと思う。本来は,過去の出来事にどう向かい合うのかという,基本的なところから出直さねばならない。しかし,ここまで話がこじれた状態で,どうすればそうした出直しができるのか,正直私にもわからない。青木論文は,問題の深刻さ,抜き差しならなさを教えてくれたのだ。


青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」『アジア研究』66(4),2020年10月。 https://doi.org/10.11479/asianstudies.66.4_22



論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...