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2022年6月14日火曜日

「新規学卒採用」に過度に依存する限り,「氷河期」という理不尽はまた起こる

 武田安恵「自己責任も甘えもウソ 氷河期、大卒就職率低下の真実」『日経ビジネス』2022年6月10日は,1990年代半ばから2000年代半ばに就職氷河期が発生したのは自己責任ではなく,1)団塊世代の人件費が重く,企業が採用を抑制した,2)製造業で高卒の働き口が激減し,この世代に大学生が増えた,3)派遣労働の規制緩和で非正規雇用が増えた,4)男女の平等化により女性の4年生大卒労働市場への参入が増えたという社会的要因によると主張している。

 いずれもその通りではあるが,肝心なことを指摘していない。それは,「新規学卒採用」が採用の中心である限り,景気を中心とする時々の事情によって,ある卒業年次が丸ごと有利または不利になるということだ。何年に生まれて,いつ大学を卒業するかが自己責任のわけがない。しかし日本では,何年に大学を卒業するかで就職の有利,不利が決定的に異なる。これが氷河期世代を生み,いまなお若者を採用に関わる「ガチャ」に追い込む問題の核心である。当然,今後も景気によって「氷河期」が生じ得るのだ。

 氷河期世代がその後,今に至るまでよい職を得にくく苦しまねばならない基本的理由も,「新規学卒採用」が正社員採用の中心だからであり,新卒でなくなると正社員採用の門が極度に狭くなるからである。東洋経済『CSR企業総覧』編集部の作成した,「新卒でないと入りにくく,勤続年は長い」ランキングを見ると,転職や中途採用が多くなった現在でも,有名どころ企業が数多く含まれていることがわかる。

 武田氏が指摘している,氷河期の頃から,会社が就職できた学生に対する「自己責任」「会社に頼るな」論を振りまいたことの問題も,「新規学卒採用」と言う慣行に関わる。長期の勤務を想定して,仕事スキルをまだ持っていない新卒者を採用するならば,その企業でしか認められないスキルやコミットメントについて,企業内訓練をすることがは必須であり合理的だからだ。就職氷河期はまた,企業の人材投資が減少した時期でもあり,今に至る日本企業の人材育成の失敗の始まりの時期でもあった。会社人間向きの採用をして「会社人間になるな」と命じる欺瞞的精神論の反省なしに人的投資も何もない。

 このように正社員採用の余りにも多くを「新規学卒採用」方式に頼ることが,良い仕事の不足や人的投資の不足を特定時期に偏って生み出すという理不尽を生み,さらにそれを自己責任扱いする誤った議論を生みだしているのである。

 「新規学卒採用」刊行は,あまりにも日本社会に深く食い込んでいるので,なくすことは難しい。なくしたらなくしたで欧米と同様に若年者の失業が増えるという問題も生じる。しかし,その範囲を調節することはできる。

 よく考えれば「新規学卒採用」は,「長期の勤務を想定し,スキルとコミットメント育成に会社が責任を負い,仕事の割り当てを会社が決める」若者を対象にしているのであり,いわゆるメンバーシップ型雇用の入り口なのである。これを会社の人事政策に応じ,幹部候補生プラスアルファに絞り込んでいくことは可能であろう。そして,それ以外は通年採用,仕事スキルに応じて採用し,転勤をはじめとする過度な会社人間化を求められないジョブ型雇用とする。通年採用は年齢差別が禁止されるので,新卒応募に失敗した若者も中高年もだれでも応募できる。そして,このジョブ型雇用に,ワークライフバランスを重視する層から,現在は差別的に処遇が低い非正規雇用層まで包摂していく。

 このように「新規学卒採用」・メンバーシップ型雇用と通年採用・ジョブ型雇用の境目を変えることが,氷河期や非正規差別をなくすためには有効で,かつ現実的に実行可能な範囲にあると私には思われる。

2022年6月10日金曜日

「日本の家計が値上げを受け容れている」を炎上させるだけでは,重大なことを見失う

 日銀総裁の発言から「日本の家計が値上げを受け容れている」だけ切り取って,炎上させて終わりでは,重大なことを見失う。

黒田総裁発言該当箇所
「ひとつの仮説としては、コロナ禍における行動制限下で蓄積した「強制貯蓄」が、家計の値上げ許容度の改善に繋がっている可能性があります。いずれにせよ、強制貯蓄の存在等により、日本の家計が値上げを受け容れている間に、良好なマクロ経済環境を出来るだけ維持し、これを来年度以降のベースアップを含めた賃金の本格上昇にいかに繋げていけるかが、当面のポイントであると考えています。」

 注目すべきは「強制貯蓄」である。これは,日本の家計全体を合計した場合には確かに存在する。コロナ禍で賃金も減ったが消費はもっと減り,給付金が支給され,社会給付(雇用保険,生活保護等)が増え,税・社会負担の一時軽減があったからである(峯岸,2021)。

 にもかかわらず,日銀総裁の発言に反発する人も多いのは,コロナ禍の所得へのダメージにも「強制貯蓄」にも格差があって,貯蓄など手元にない人も少なくないからである。コロナ禍での所得へのダメージは階級・階層によって異なっており,非正規労働者と自営業者が最もダメージを受けた(2021年9月3日著者投稿。橋本健二氏の調査に依拠)。2021年に,貯蓄保有世帯の中央値は1104万円であるが,2人以上の家計の20.7%は300万円未満の貯蓄しかもっていなかった(総務省家計調査)。

 問題は,貯蓄額には大きな格差があり,「家計の値上げ許容度」も様々であって,合計した典型的一個人など実際には存在しないということである。しかもこれは一般論でなく,おそらく今年後半の景気を左右する目の前の問題である。

 一方で,所得が高い層は「強制貯蓄」がある。円安で大企業の業績はどちらかと言えば回復している。夏から冬にかけて髙中所得層のリベンジ消費が盛り上がれば,景気を回復させる力になりうる。他方で,所得が低い層には「強制貯蓄」もなく,輸入物価高騰が生活を直撃する。中小企業も原料価格を転嫁できない。この影響で景気が停滞したままであれば,最悪,コストプッシュインフレと不況が共存するスタグフレーションになってしまう。

 現在の所得・資産格差から来る消費意欲の格差は,今年後半の景気を岐路に立たせている。マスメディアも野党もここを突かねばならない。日銀批判から入ってもいい。しかし,炎上して謝罪させて終わりでは何にもならない。問題なのは発言一つではない。格差であり,格差がいま直ちに景気を左右しようとしていることである。格差に対して対策を打つべきは日銀ではない。政府である。政府に対して,格差を放置するなと対策を迫る時である。

黒田東彦「金融政策の考え方─「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて─きさらぎ会における講演」2020年6月6日。

峯岸直輝(2021)「日本の経済主体別にみた資金需給と金融資産・負債の動向」『内外経済・金融動向』No. 2021-2,信金中央金庫地域・中小企業研究所,1-23。

2021年9月3日Facebook投稿。橋本健二氏らの調査結果の紹介。

家計調査報告(貯蓄・負債編)-2021年(令和3年)平均結果-(二人以上の世帯)

2022年6月4日土曜日

『産業学会研究年報』第37号が発行されました

 『産業学会研究年報』第37号が完成しました。編集委員長になって4冊目です。招待論文2本,査読付き投稿論文10本,書評8本を掲載できました。

■招待論文
"日本繊維産地の構造変化と主体的行為―衣服製造産地を例に―" (奥山雅之)
"グローバル化/ファスト化に翻弄される繊維産地と域内縫製業の苦闘"(岩佐和幸)

■査読付き投稿論文
"CASE時代の欧州自動車産業の「脱炭素」戦略―欧州「EVシフト」をどう見るか?―" (細矢浩志)
"2020年コロナ禍下での日欧の自動車リサイクル制度改革の論点―日本とポーランドを事例に―" (外川健一)

"地理的分断克服に向けたトヨタ・グループでの委託開発の取り組み―トヨタ車体研究所の事例研究―" (佐伯靖雄)
"オーラル・ヒストリー手法によるトヨタ自動車と天津汽車の国産乗用車合弁事業の経緯"(垣谷幸介)
"ボーイングの技術競争力と連邦政府の認証制度"(山崎文徳)
"中国の鉄鋼産業政策―設備大型化・企業巨大化・生産集中化の促進とその帰結―"(銀迪)
"日系塗料2社の住宅・建築用海外事業の比較研究  ―寡占反応説は成立するか?―"(竹下伸一)
"金属3Dプリンタビジネスの現状と課題―サービスビューローの役割に関する検討―" (原田優花子・小竹暢隆)
"デザイン経営に向けた感性を起点としたマッチング―ものづくり中小企業におけるデザイン人材とのマッチング実践事例からの考察―"(三好純矢・近藤信一)
"市場構造の変化を踏まえた事業展開のあり方について―写真館を事例に―"(大平哲男)

■書評
北嶋守『ヘルスケア産業クラスター形成の日本的特質』同友館,2020年12月。(杉浦勝章)
明石芳彦『基本から学ぶ地域探究論』ミネルヴァ書房,2021年6月。(中山健一郎)
金容度『日本の企業間取引』有斐閣,2021年3月。(田中彰)
松原宏・鎌倉夏来『工場の経済地理学 改訂新版』原書房,2020年11月。(山﨑朗)
藤本典嗣・朴美善『東アジア・北米諸国の地域経済:中枢管理機能・工業の立地と政策』中央経済社,2021年4月。(田村大樹)
折橋伸哉編著『自動車産業のパラダイムシフトと地域』創成社,2021年1月。(佐伯靖雄)
石川幸一・馬田啓一・清水一史(編著)『岐路に立つアジア経済:米中対立とコロナ禍への対応』文眞堂,2021年10月。(小林哲也)
佐藤寛, アジアコンビニ研究会 編『コンビニからアジアを覗く』日本評論社,2021年6月(孫飛舟)

■追悼文
"高橋哲雄元産業学会会長を悼む"(山﨑朗)
"高橋哲雄先生を偲んで"(宮田由紀夫)
"大西勝明元産業学会会長を悼む"(山﨑朗)
"大西勝明先生を偲んで"(小林世治)

最新号の無償公開は1年後です。1-36号はJ-Stageで無償公開されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/sisj/-char/ja




2022年5月31日火曜日

エネルギー,農業,労働などサプライサイドへの介入が必要な日本:スティグリッツ教授のインタビューに思う

 ブルームバーグによるジョセフ・スティグリッツ教授インタビュー

 ディマンド・プル・インフレが悪化するというのは,供給能力が枯渇するかボトルネックにつきあたっているということである。だから,人々の生活が向上するような形で供給の方を増やせばインフレも緩和できる。スティグリッツの指摘は正論だ。もちろん,それはFRBに出来ることではないので,政府が行わねばならない。ただ,アメリカの供給制約がどこにあるのか,私には今ひとつわからないので,これ以上は何とも言えない。

 一方,供給側対策は時間がかかるので,すでにインフレが加速してからではまにあわないというのが弱点だ。もし銀行からの貸し付けが投機的な仮需を生んでいるような状態であれば,FRBが引き締めるのはもっともだと思うのだが,そこはどうなのだろう。

 ひるがって日本を見ると,需要は依然として盛り上がらないのにコスト・プッシュ・インフレが次第に加速している。一定以上の所得者層にはコロナで延期されたリベンジ消費を盛り立てるお金はあるはずだが,実際に使われるとは限らない。スタグフレーション気味に推移してしまうおそれもある。

 この間,私は需要側から,財政赤字をこれ以上増やさずに,再分配の強化で生活支援をすべきと考えてきたが,確かに供給側の対策も必要で,スティグリッツの指摘は日本にこそ当てはまるところがあると思った。コスト・プッシュの背後にあるのは原燃料と食料の海外調達であり,その不安定さはウクライナ戦争が終結してもしばらく続くと考えざるを得ない。そして,これは金融政策の領域ではないし,財政の規模を増減させるだけでもどうにもならない。国内での再生可能エネルギー拡大,輸出向け高級品ではなく国内向けの農業の活性化,女性と高齢者の労働条件改善による就業促進が急務だろう。

「米利上げは経済を殺す、インフレを解消しない-スティグリッツ氏」Bloomberg, 2020年5月23日。


2022年5月26日木曜日

問題は円安是正ではなく,再分配であり弱者支援である:上場企業の最終利益は過去最高という報道を受けて

 「上場企業最終利益、計33兆円で4年ぶり最高更新の見通し…円安など追い風」『読売新聞』2022年5月13日を受けて。 

 円安は誰にとっても不利益というものではない。こうして輸出企業や,海外事業比率の高い企業は大儲けである。「日本にとって円安が不利だ。円安を放置する日銀が悪い」と言うのは問題の立て方がおかしい。円安であれ円高であれ,パワーのあるものはこれを自分の利益に結びつけられるのであり,それ以外のものは割を食う。力を合わせるか,メディアを活用するか,民主制を利用して政治を動かすしかない。

 まず大事なことは,21世紀に入って以来,日本企業はちゃんと利益を出しているということである。生産性が低かったり,かつて競争力のあった産業が失ったりということはいろいろあるが,けれど全体としては,リーマンショック後の一時期を除いて,利益は出ているのである(※)。企業利益に過度に忖度する議論は,政治家であれ企業内労組であれ学者であれメディアであれ,まったく的外れである。

 労働組合は,普通に,自分自身の生活防衛のために賃上げを要求してよい。それで内需は拡大し,日本全体のためにもなる。やるべきこともせずに立憲は共産と手を切れなどと言うことに血道を上げるのは任務放棄である。政府は,円安で輸入品価格高騰を受けて,仕入れコストを価格転嫁できずに苦しんでいる中小零細企業や,物価上昇の直撃を受ける中低所得の家計を支援すべきだ。それは,日銀でなく政府の仕事である。やらないならば,有権者は次の選挙の選択を考えた方がいい。メディアはこうした問題の構造を直視すべきであり,日銀が悪い,円安が悪いと問題をそらす記事を垂れ流すべきでない。


2022年5月22日日曜日

一致点と相違点が明らかになった,公共貨幣論との対話

 下田氏より再びリプライをいただいた。今回の,信用貨幣システムの理解については,ほぼ異論はない。拙論を理解いただいたところもあり,対話の甲斐があったと思う。

 景気循環におけるポジティブ・フィードバックについては,私自身の課題を痛感する。それがあることはまちがいないが,なぜ,どのようにおこるのかについて,つまり通常用語でいう景気循環論,マルクス派の言う恐慌論についての私の研究が不足しているからである。そのため,氏との対話も,この点では今すぐに深められない。最終消費需要,生産財需要,在庫投機,信用膨張による架空需要の創造,そして金融資産投機がどのようにからみあって景気循環の振幅を大きくするかについては,経済学に膨大な蓄積がある。その中で,いま下田氏と対話している貨幣・信用論との関係では,どのような論じ方が肝心なのか。たとえば設備投資の循環を重視すべきか,金融不安定化理論を重視すべきか,双方の関係はどうみるべきか。これについて,私にまだ断じる力がない。マルクス派の信用恐慌論やミンスキーの金融不安定化理論をもっと学ばねばならない。

 下田氏は,信用貨幣システムを自由放任にすれば景気循環の振幅は止められないことをたびたび強調されているが,まったくそのとおりで,何も異論はない。だから,信用貨幣システムを批判的に研究しなければならないと私も考えているのであって,擁護しているのでは全くない。現状の信用貨幣システムの理解については,氏と私のはだいぶ埋まったように思う。意見の違いは,その問題点を克服するための,有効かつ実行可能な新しいシステムとは何かというところにある。

 氏が今回,「公共貨幣システムも債務貨幣システム(信用貨幣システム)も,同様に貨幣的インフレの危険があるとすれば,そもそも景気の上下動を増長させる要因が存在しない公共貨幣システムを選択すべきである」というところは同意できないが,理由はすでに述べているので新しく付け加えることはない。前回書いた通り,公共貨幣システムには,金融システムにおいて通貨供給の構造的不足によるデフレ不況バイアスがあり,財政システムにおいて適正供給量の決定と供給の柔軟性における問題があると私は考えている。この点についての,公共貨幣論の新たな展開をお待ちしたい。

 現時点では,下田氏も私も,言うべきことは言い,一致点と相違点,また相違点で意見が違っている理由を明らかにできたとみてよいと思う。この対話の全体を公共貨幣フォーラムの皆様や公共貨幣論,MMTに関心を持つ皆様に見ていただき,研究の足しにしていただければと思う。私も,よりよい経済政策とは何か,信用貨幣システムをどう改革するかについて,もっと研鑽を積まねばならない。

<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論,再々批判,再々反論は以下の通りである。再々反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。

・川端望「公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待」2022年5月9日。

・下田直能「信用貨幣システムにおける内生的通貨供給と外生的通貨供給の関係」


2022年5月9日月曜日

公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待

 下田直能氏の著書に対する論評に対して反論を賜り,それに対して再度のコメントを行ったが,このたび「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」と題された再反論を賜った。引き続きの真摯なご対応に感謝したい。

 互いの主張が明確になったことや,これ以降は私自身がもっと掘り下げて研究してから主張しなければならない部分もあると思う。そうした点については,双方の見解を読者や公共貨幣フォーラムの皆様方にご覧いただき,判断して頂ければと思う。ここでは,それでもなお話を続けた方がよいと思うところを掘り下げる。まず,公共貨幣システムへの批判をめぐる対話を深め,続いて拙論が想定した現行の信用貨幣システムについての氏の批判的論評に答えたい。

Ⅰ 公共貨幣システムは通貨の適正量を柔軟に供給できるか

 今回下田氏が提示された「図2 人間の欲求水準と商品需要量・流通貨幣量の関係」は,貨幣流通を必須とする資本主義社会における景気循環をどう見るかという,経済学の核心的な問題に触れている。物事の根本を考えようとされる氏の姿勢には頭が下がるばかりである。ただそれだけに,私はこの領域へのアプローチをはもう少し慎重にしたい。

 人間の欲望に対して,商品・貨幣を用いた経済システムによってどのように応じるかとなると,流通面では市場経済,生産面ではおおむね資本主義的生産を通して応じることになるだろう。もちろん部分的には公営企業や協同組合や自営業やNPOも活用される。また,市場の失敗がある領域では,公的財政を通した供給も行われる。それでも市場と資本主義企業は中心に座らざるを得ない。

 このとき,生産や販売や購買を個人の私的意思決定に委ねると,個人にはそれらに関する自由が保障されるが,生産の過剰や不足,格差や貧困が生じる。これではよくないと言うので代替的な経済システムが構想され,20世紀の一時期は集権的計画経済が試みられたが挫折した。それでもなお,別の方法が種々模索されているのが現状であろう。公共貨幣もそのひとつだし,MMTが,自らの貨幣理論とケインズの再解釈を結び付けて,反貧困政策やグリーンニューデイールをめざすのもそうである。

 さて,公共貨幣システムが実現すると,通貨供給のうち,金融システム経由のものは100%準備制度により大きく絞ることになる。これによってバブルを抑制し,金融業者の利益追求を制限する。そのかわり,財政システムで公共貨幣を供給することになる。

 私が公共貨幣に対して抱く最大の疑問は,この財政システムによる供給によって,下田氏が図2に描くような人間の欲求水準の動きを正しく判断し,過不足ない通貨供給が実現できるのかというところにある。下田氏は「もちろん、それがきわめて容易だというつもりはないが、世の経済学者の知見を集めて、そのオープンな議論を通じて、適切なモデルを元にシミュレーションを行えば、適正な通貨量の推定はさほど難しいことではない。これを適切な物価目標(日銀によると2%)を基準にモデルを暦年修正していけば、適切な貨幣量を維持することは十分に可能であり、そのモデルは国民の財産となる」と言われるが,私にはこれで説得力があるとは思えない。集権的計画経済における財の生産量決定ほどではないにせよ,やはり相当な困難に突き当たると思う。

 すでに論評を一通り行い,下田氏からの反論も得られたので,今後,公共貨幣論の研究成果を待ってより具体的に考えることとしたいし,私自身も公共貨幣論より有効な経済政策を自ら提示できるように研究したい。ここでは,公共貨幣論に検討していただきたい論点を二つだけ挙げておく。繰り返すが,これは公共貨幣論を全否定する批判ではなく,これらの論点についてより説得力のある研究成果を期待するという意味にとって欲しい。

1.これまでも書いたが,企業からの貨幣の需要はさまざまである。設備投資資金,運転資金,決済資金などの需要が日々の事業の変動の中で発生する。その需要を見極め,適切な条件で柔軟に供給する機能を,銀行の信用創造から取り上げてしまった場合,これを財政による供給で代替できるのか。公共貨幣の供給システムは,一方で下田氏が強調されるように民主主義的であり得る。他方で,いかに分権化しても,銀行システムよりは集権的になるだろう。すると,まず適正量の決定という点では,財政による供給で金融市場での需要の見極めを代替することは難しくないか。次に,需要変動への柔軟な反応という点では,むしろ民主主義的に行うがゆえに,素早い対応が難しくないか。つまり,弊害はあるとしても効率的である市場メカニズムに対して,公共貨幣は民主主義的であるという点で政治的に魅力的であっても効率性を欠くのではないかという点である。

2.次に,本質的に上記と同じ論点だが,より具体的に公共貨幣システムの仕組みに即して述べよう。財政による公共貨幣の新規投入分は,直接には公的事業や公共性の高い民間事業に対してのみ行うとされている(下田著,pp. 131-133)。そして,間接的にこの公共貨幣がその他の民間部門に流れていくのである。これは財政のありかただけを考えるともっともだが,他方で政府が「その他の民間部門」の通貨ニーズに直接は反応できないということでもある。公的事業等に支出する必要性は,現行の財政システムと同様に判断できるだろう。しかし,「その他の民間部門」の通貨ニーズに間接的に応じるというのは,かなり難しくなる。また,公共事業は縮小しなければならない情勢だが「その他の民間部門」の通貨ニーズは高いとか,その逆であるというように,両者が競合する場合はどうするのかという問題もある。この仕組みを踏まえて考えると,通貨供給の適正量の判断と柔軟な調節は,いよいよ難しくならないか。

Ⅱ 現行の信用貨幣システムをめぐる論点

 以下の2点は私の貨幣論に対する下田氏からの批判に再度答えるものであり,むしろ私からの再反論と言うことになる。

1.貨幣的インフレーションとそれ以外の物価上昇の区別について

 下田氏は「流通貨幣量と商品需要量の自動的な調整・均衡が、貨幣的インフレ・デフレを防止するとは必ずしも言い切れない。というのは、実際の銀行貸付による信用創造は、実体経済への資金の投入だけを目的に行われるとは限らないからである」として,不動産投機を例に挙げ,不動産価格の急激な上昇を「一種の貨幣的インフレ」としている。この批判に答えたい。

 まず,商品流通に必要な貨幣量が,貨幣的インフレーションを起こすことなく金融システムによって調節されるのは,財・サービスの流通に必要な貨幣量に関する限りである。これを私は繰り返し記述しているので,確かめていただきたい。

 問題は,財・サービスの流通に必要な貨幣ではなく,金融的流通のために企業や証券会社が借り入れを行う(銀行から見れば信用創造で預金通貨を供給する)場合である。それが行き過ぎればバブルを引き起こす。このことも私は繰り返し指摘している。だから信用創造システムの問題点はバブルを起こしやすいことなのであり,これは下田氏と私が本来共有する視点である。

 しかし,これは貨幣的インフレーション,すなわち貨幣価値切り下げによる名目的物価上昇ではないのである。そうではなく,金融資産に限っての価格上昇である。この二つ,すなわち実体経済のインフレとバブルとは区別しなければならない。

 下田氏が例示するように,このバブルが不動産について起きると,確かに事態は複雑である。というのは土地は消費も生産もできないが価格がつくという独自な商品であるし,土地も建物もまったく実体経済とかけ離れた金融資産ではなく,それが実用に供される時には実体経済の価格に入り込むからである。なので,ここでいくつかの場合に分けて考えてみよう。

 まず,不動産が実用に供されず,投機のための売買が延々と,バブル崩壊まで続く場合である。これは,土地・建物価格だけの上昇であって,その影響は実体経済での物価に及ばない。これは貨幣的インフレではなく,金融資産化してしまった土地・建物,あるいはそこから派生した証券の値上がりである。つまりはバブルである。

 次に,土地・建物に対して住宅やオフィスと言った実体的な需要が生じた場合である。ここから道はさらに二つに分かれる。もしも実需に対して対応する通貨供給がなされなければ(例えば金融機関が,オフィス取得へのローンや住宅ローンに対して慎重であれば),値上がりした不動産価格は実現されず,土地や建物は売れ残る。価格が下がることだろう。あるいは実需には回らず,金融資産として投機だけが続くだろう。この時,実体経済での物価上昇は起こらない。

 もしも実需に対応する通貨供給がなされれば,高い不動産価格も実現する。これは実体経済における物価上昇である。ただし,需給バランスによる一時的上昇と,コストアップを反映した実質的価格上昇という二つの性格を持つ上昇である。貨幣的インフレーション=通貨価値が切り下がっての名目的物価上昇とは異なる。

 これらは,日常用語でいうインフレーションでは区別がつかない。日常用語では,インフレーションは単に持続的物価上昇と定義されるからである。しかし貨幣理論を論じる際には,貨幣的インフレーション,一時的需給関係による物価上昇,コストアップによる実質的物価上昇は区別されねばならない。それは単に言葉の問題ではなく,通貨当局が物価対策を正しく行うためにも必要なのである。

2.内生的通貨供給という用語の意義について

 内生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給するのではなく,直接には民間の経済主体による行動によって通貨が供給されるのだ」という意味である。だから現行の信用貨幣システムにおける金融システムでは,銀行から見れば貸付けと回収,企業から見れば借り入れと返済を通して内生的に通貨が供給される,金融システムを通した通貨供給は内生的である。中央銀行が行えるのは,金融政策でこれを間接的に調整することだけである。

 外生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給できるのだ」ということである。財政システムを通した通貨供給は,政府が財政支出によって通貨供給を増やし,課税によって減らすことができるのだから外生的である。国債発行ルールはこれを制約するが,その制約が中央銀行というもう一つの政策当局による買いオペレーションで緩められていることは,下田氏もご承知と思う。

 下田氏は,内生的,外生的と言う言葉があいまいで混乱の下だと指摘される。たしかに,経済学者でもこの用語のニュアンスの理解がズレて議論がすれ違うことはあるから,そのご不満はわからないでもない。しかし,この用語は,現行の信用貨幣システムを正確に理解する上で重要なのである。一般論としてだけでなく,私にとっても公共貨幣論にとっても必要であると思う。

 というのは,主流派経済学は現行の通貨システムが信用貨幣システムであることを理解せず,「政府当局が経済に対して通貨を供給する。その調整は政府当局によって可能である」という命題を出発点に金融政策を考えているからである。この主流派経済学の誤りは山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』でも前半部で説明されていたはずであり,私も同意するところである。例えば,アベノミクス(黒田日銀路線)では,日銀が大量に買いオペレーションをすれば通貨供給が増えるはずだという,主流派経済学の誤った想定に基づいてリフレーション政策が行われて来たのである。

 現行通貨システムが信用貨幣システムであることを認め,これを正確に認識した上で,その問題点を改革しようという姿勢は,公共貨幣論も私も同じである。そうであれば,現行システムの誤った理解をただすために,「金融システムを通した通貨供給は外生的なものではなく,通貨当局の意図で自由に変えられるものではないのだ」という指摘の仕方が必要なのである。よって私は,「外生的・内生的」と言う対概念の必要性を再度強調したい。

Ⅲ 公共貨幣論への要望・期待と私自身の課題

 現行の信用貨幣システムでは,金融システム経由の通貨供給は内生的に貸し付けと返済,すなわち預金通貨の創造と収縮を通して行われ,財政システム経由の通貨供給は外生的に支出と課税によって行われる。金融システムを通した通貨供給は,1)貨幣的インフレーションを起こすことなく,商品の流通に必要な貨幣供給量を調節する。しかし,2)商品流通から外れた金融的流通のための貨幣供給や,3)使われずに遊休してしまう貨幣供給も実現してしまう。前者はバブル,後者は不況を生む。

 私は,ここまでの認識では,ほんらい公共貨幣論も私も一致できると私も思っている。ただ下田氏は,私が2)3)の弊害だけでなく1)の利点を強調して,公共貨幣論が1)を停止させることを批判しているのがひっかかるらしく,1)はそんなに役に立たないものなのだと強調されたいのだと思う。しかし,それは貨幣理論として適切でないというのが,私の反論である。

 私は,公共貨幣論に対し,改めて信用貨幣システムの機能として1)を認識いただくことを要望する。また,公共貨幣論が説得力を上げるには,たとえ1)の機能を停止しても,財政システムを通した公共貨幣の供給でよりよく代替できること,通貨供給量を適正に,また柔軟に調節できることを示すことが必要だと思う。そのような研究成果をお待ちする。他方で,私自身は,信用貨幣システムを前提としながら2)や3)をどう制御していくのかについて,もっと考えてみたいと思う。


<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論は以下の通りである。再反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。




2022年5月6日金曜日

マッチングビジネスをシェアリングエコノミーと呼んでいいのだろうか

 本日の学部ゼミ。ゼミ生2人の卒論構想報告と討論を行った。

 一つ目は日本でのライドシェアリングの普及の可能性についての構想で(板書1),論点は三つ。1)市場競争における競合相手の強弱。つまりタクシーや他の公共交通機関が弱いところでライドシェアリングが伸びる。2)プラットフォームを通したクラウドソーシングになっている。このソーシングが,眠っているスキルや知識の活用なのか,既存企業にとっての過剰人口である単純労働力を動員して二次労働市場を作っているのかが問題。3)ソーシングの対象が労働力である限り,ギグワーカーの労働条件問題は避けられない。まあ,これはわかりやすい話だ。

 二つ目はシェアリングシティ構想(板書2)。この話題で引っかかったのは,シェアリングとは何かということ。いま推進されているシェアリングシティとそこで活用されるシェア臨時エコノミーは,本当に「シェアリング」と呼ぶのが適切なのか。シェアリングシティ構想は,「公助」を補う「共助」だという理屈で推進されているらしい。しかし,よく聞いてみると,遊休資源をプラットフォームでのマッチングを通して活用する,それを自治体は規制改革や制度で後押しする,何しろ自治体自身が動員できる資源は限られているから,という理屈になっている。それはそれでいいのだが,「それは共有財のシェアリングとかではなく,単にマッチングビジネスではないか」という疑問を禁じ得ない。マッチングはマッチングでよいし,ビジネスが地域課題を解決することはある。しかし,マッチングをシェアリングと言い換えて,私的なものを公的あるいは共同的なものと見せかけるのは問題ではないか。マッチングとシェアリングを区別した上で,両者の関係をつけていくというのならばわかるし,それが現実的な線だと思うが。

 ところで2枚目のマッチングの図を「これは互いの私的欲望が一致しているだけであって,プロポーズ大作戦そっくり……」と言いそうになったが,若者が知るはずもないのでやめた。

板書1


板書2




2022年5月1日日曜日

夜の世界から来た怪物くん:藤子不二雄A先生の訃報に接しての投稿

 私は1964年生まれですが,自分にとって藤子不二雄A先生の独自作と言えば『怪物くん』です。もっとも,幼少の頃はF先生とA先生が別々の作品を描かれていたことにはまったく気づきませんでした。『怪物くん』のストーリーや登場人物は,『オバケのQ太郎』ほどには覚えていないのですがが,キングコミックス版10巻も持っていたし,1968-69年放映の白黒アニメも見ていました。放映が日曜日だったのが重要なところで,当時わが家にはテレビがなかったのですが,祖母と伯母が暮らす家にはありました。日曜日の夜は家族が祖母の家に集まる習慣があったので,『怪物くん』は無理なく見ることができたのです(この頃,私が他の番組を隣の家に入り浸って見るので,両親はまずいと思い,やがて泣く泣く白黒テレビを買いました)。解説は淀川長治さんで,「サヨナラ,サヨナラ,サヨナラ」もこの番組で覚えました。スポンサーは不二家で「不二家,不二家,でーはまた来週」というエンディングが楽しく,私はむやみにメロディチョコやペンシルチョコを両親にねだりました(パラソルチョコは傘の柄に当たる芯があって食べにくいのと,ペンシルチョコより小さいような気がしてあまり好みませんでした)。

 『怪物くん』のイメージは「夜」でした。そこが決定的に『オバQ』と違っていました。そもそもマンガ版第1話のタイトルは「怪物くんたちが来た夜」でしたし,重要な話には夜のシーンが多くありました。怪物くんはとにかく,ドラキュラや狼男やフランケンが昼間おおっぴらに出歩けないという事情もあったでしょう。怪物たちは夜に忍び出て来て,怪しげに行動するのでした。怪物くんたちの国に向かう超特急モンスター号も深夜0時に出発しました。背景ばかりでなく,人物もベタ塗りがきつく,日常から闇へのつながりを連想させました。のちにカラーアニメになると,かえってなじめない気持ちが起こったのも,『オバQ』とちがうところでした。

 オバQは,太陽の光が降り注ぐ雲の上の国からやって来ました。怪物くんは,異形の者たちがうごめく夜の世界からやって来ました。世界は光ばかりだけでなく闇からもできていました。そして,どちらも私のすぐそばにある世界であり,どちらにも友達はいると,幼い私は信じたのです。

 さようなら,藤子不二雄A先生。『怪物くん』と会わせてくれて,ありがとうございました。

2022年4月11日Facebook投稿に加筆。

「藤子不二雄Aさん死去、88歳 「怪物くん」「忍者ハットリくん」」朝日新聞DIGITAL,2022年4月7日。



2022年4月29日金曜日

内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して

  公共貨幣論に対する私の批判に対して,『お金は銀行が創っているの?』の著者である下田直能氏から反論を賜った(※1)。丁寧なご対応に感謝したい。下田氏の反論は,貨幣流通に関する核心に触れるものであり,拙論との違いを掘り下げていくことにより,重要な論点の解明につながることが期待できる。以下,下田氏との対話を試みる。

1.公共貨幣論批判に応じることを希望する

 まず,今回,下田氏が私の公共貨幣論批判に正面から答えていないことは残念である。信用創造はバブルを生み出す。しかし,だからといって信用創造を廃止すると,財・サービスの流通に必要な通貨が貸付けによって供給され,不要になれば返済によって流通から引き上げられるという,金融システムの機能が失われる。公共貨幣システムでは,その分を財政システムを通した公共貨幣の散布で代替しようとするが,それでは必要な通貨供給量を適正に定め,また柔軟に調節できないだろう。これが私の批判である。今回,下田氏がこの批判に対して,公共貨幣システムは機能し得るのだと正面から反論していないことは,何とも残念な限りである。次の機会を期待したい。

2.自動調節機能は景気循環を和らげるものではなく,商品流通量と貨幣流通量を対応させるもの

(1)自動調節機能はポジティブ・フィードバックと両立する

 今回,下田氏の拙論批判は二つの点にまたがっている。まず一つ目は,自動調節機能はポジティブ・フィードバックの一局面であり,川端は他の局面を見落としているというものである。

 川端は財・サービスの流通の必要に対して流通貨幣量が受動的に対応するというが,それは現実の経済の動きの半面に過ぎないと,下田氏は言う。逆の側面もあり,むしろ,ポジティブ・フィードバックによって「『商品需要量⇒流通貨幣量⇒商品需要量⇒流通貨幣量・・・』の無限ループを構成する」というのである。「好況時には『商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加⇒商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加・・・』となり,何かの要因でそれが逆回転を始めると『商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少⇒商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少・・・』へと転換する」。信用創造による貨幣供給は,このポジティブ・フィードバックを加速させるのであり,自動調節するばかりではないと,下田氏は言うのである。

 再反論の前に,ここでは,話が金融システムによる通貨供給に限られており,また財・サービスの流通に限られていることに注意しよう。下田氏は今回の拙論批判では,貨幣の増減と対応するのが商品需要量の増減だけになっており,金融資産バブルを想定していないからである。

 さて,下田氏は私が「自動調節」と言ったことを,商品需要量が先に増えて,流通貨幣量が後からそれに適応するものと理解されているようである。しかし,それは誤解である。そうではなく,商品流通量と貨幣流通量がバランスし(※2),通貨が価値の変動を蒙らずに商品流通を媒介することを「内生的供給」ないし「自動調節」と呼んでいるのである。

 下田氏は図1を提示し,私が「商品需要量→流通貨幣量」という因果関係だけを見て,「流通貨幣量→商品需要量」という関係を見ていないと批判される。しかし,下田氏自身がここで図示されているように,どちらの因果関係であっても,結局,商品需要量と流通貨幣量はバランスしようとする。商品需要がその分だけ信用創造による通貨供給をもたらし,信用創造による通貨供給が商品需要を裏付けるのだから当然である。そして商品の需要が,在庫からの調達や生産の拡大によって満たされれば,商品流通量と流通貨幣量もバランスする。

 静態的に,個々の局面から少し遠ざかった価格変動を長い目でみれば,結局商品流通量と流通貨幣量は対応するだろう。下田氏は,いや動態的に,ポジティブ・フィードバックを伴う景気循環を考えれば,商品需要の超過で価格が上がり続ける局面と,逆に供給超過で価格が下がり続ける局面とがあるではないかとおっしゃるかもしれない。しかし,そうした局面でも商品流通の増加が貨幣流通の増加を必要とし,貨幣流通の増加は商品流通の増加を伴うし,縮小には縮小を伴う,という法則性は働いているのであって,それは下田氏自身が主張されていることである。だから,結局,商品流通量と流通貨幣量は互いをバランスさせようとする作用を保っている。私はこのことを「自動調節」と呼んでいるのである。

 逆に言うと,私は,信用創造に景気循環を穏やかにするような「自動調節」機能があると考えているのではない。下田氏は,誤ってそのように読み込まれたようである。しかし,信用創造が景気循環の振幅を激しくし,バブルも生み出すことは私も認めているし,それはよく拙論をご覧いただければわかるはずである。

 商品流通量と通貨供給量を対応させる自動調節は,景気循環のポジティブ・フィードバックと両立する。下田氏の図1は,その意図に反して,ポジティブ・フィードバックの過程全体を通して自動調節が働いていることを示しているのである。

(2)自動調節が働かない公共貨幣システム

 私があえて自動調節という調和的な響きを持つ言葉を使った理由は,それが働かない場合の深刻さを明確にしておくためである。

 まず理論的に説明する。自動調節が働かないとは,貨幣流通量が商品流通量に対応しようとする力が働かなくなることである。その典型はインフレーションである。何らかの理由で,商品総量が増えることなく貨幣のみが追加供給されて商品流通に入り込むと,価格が名目的に切り上がる。言い換えると通貨価値が下落する。これが貨幣的インフレーションである(※3)。貨幣的インフレーションは,遊休設備や失業者がなくなってなお財政支出を続けた場合のように,景気の過熱とともに現れやすい。しかし,不況とともに出現することもあり得る。他方,商品流通量に対して通貨供給が一方的に不足することも考えられ,これは価格の名目的切り下げと言う貨幣的デフレーションを引き起こす力になる。もっとも,この場合は直ちに不況になり,商品流通量の方が縮小する。自動調節が効かないとは,貨幣的インフレや貨幣的デフレが起こることである。

 信用創造のある金融システムには自動調節作用があるため,景気循環のポジティブ・フィードバックは引き起こすが,貨幣的インフレや貨幣的デフレは起こさない。商品と無関係に通貨を供給したり引き上げたりすることはできないからである。たとえ好況期に銀行が貸し込みをするのであっても,借りた企業は設備投資であれ運転資金であれ決済資金であれ,借りたお金を財・サービスの購入に投じるか,すでに購入したものの決済に用いる。だから,通貨供給の増大は商品流通の増大を伴うのであり,一方的に通貨供給だけが増えることはない。同じく銀行融資が縮小すれば財・サービスの購入がそのぶんだけ不可能になって商品流通が縮小するのであり,一方的に通貨供給だけが減ることはないのである(※4)。ここに,金融システムによる通貨供給の内生性,もしくは通貨供給量の自動調節機能の持つ重要な意義がある。

 もしこれを公共貨幣システムに置き換えたならば,どうなるか。一方で100%準備預金制度の金融システムは十分な通貨を供給できない。したがって信用ひっ迫を起こし経済を停滞させるだろう。それを補うために,財政システムを通した公共貨幣の散布で置き換えようとすればどうなるか。適正な通貨量の決定は困難である。おそらく現実に実行すれば,金融ひっ迫を補うために財政は拡張気味に運営されるであろう。金融システムと異なり,財政システムでは通貨の一方的投入が可能である。給付金を考えればわかるだろう。だから,ここには貨幣的インフレのリスクが生じる。このリスクは現行システムにも存在するが,公共貨幣システムでは,信用創造を停止した分の通貨供給を財政で補うため,貨幣的インフレのリスクは,より高くなる(※5)。このように,自動調節機能を失った公共貨幣システムには,金融システムでは信用ひっ迫,財政システムでは高いインフレリスクと言う弱点があるのである。下田氏が,この批判に正面から答えてくださることを,改めて期待したい。

3.「内生的」とは「行政的な意図が介在しないこと」ではない

 さて,下田氏のもう一つの拙論批判に移ろう。それは,金融システムによる通貨供給は内生的とばかりは言えないということである。ここで下田氏は私の使う「内生的」という用語を,「行政的な意図が介在しないことが想定されている」と解釈しており,これに対して日銀は政策的意図をもって金融政策をしているではないかと指摘されている。しかし,ここにも誤解がある。政策的意図があれば外生的,なければ内生的というものではない。外生的とは,経済の外部から,政策当局が通貨供給を実質的に行うことができるという意味である。内生的とは,民間の主体が営む経済の内部に通貨供給量を増減させる要因があるということである。私が言いたいのは,政策当局の意図が介在しようとしまいと,結局,金融システムでは内生的にしか通貨が供給されないことである(※6)。

 下田氏が指摘されるように,今日,不況期の金融政策の実効性は著しく下がっている。少なくとも,金利を低下させて景気を反転させることには全く成功していない。なぜかというと,金利をいくら低めようと,買いオペレーションをいくら行おうと,期待利潤率が著しく低下している企業が,お金を借りようとしないからである。そして金融システムでは,企業が銀行からお金を借りない限り,通貨供給量は増えないからである。これこそが,金融システムによる通貨供給が内生的である証拠ではないか。先ほどと別表現で同じことを言えば,政策当局があれこれの意図をもって通貨を供給することはできないというのが,外生的でなく内生的だという意味なのである。

 もっとも,内生的というのは,政策当局が一切介入できないということではない。日銀が金利を引き上げたり売りオペレーションを盛んに行ったりすれば,銀行の信用創造は制約されるだろう。また,今日の日本と異なり高度成長期の経済であれば,金融緩和によって企業の借り入れ意欲を回復させ,景気のてこ入れをすることも可能であった。その程度の介入ならば可能なのである。しかし,これらは企業の銀行からの借り入れの条件,したがって信用創造による通貨供給の条件を変化させるものではあっても,通貨供給自体を日銀が直接操作するものではない。金融政策に影響を受けるとしても,経済の内部にある企業が銀行からお金を借りなければ通貨供給量は増えず,企業が銀行にお金を返済しなければ通貨供給量は減らないのである。

4.結論と今後の研究課題

 下田氏は,拙論の公共貨幣システム批判に答えていない。また,いただいた批判は,拙論の「自動調節」「内生的」の意味を取り違えたことから来た誤解である。これが今回の結論である。

 しかし,だからといって下田氏の批判は無用なものではない。下田氏との対話を通して,以下の論点が浮かび上がるからである。

 私の述べる通貨の内生的供給と自動調節の政策的含意は,「信用創造にはバブルを生み出すという弊害があるが,貨幣的インフレや貨幣的デフレを起こさないという利点がある」ということである。私は,ここから逆に,「財・サービスの流通に必要な通貨の供給を財政システムに頼る公共貨幣システムでは,適正な通貨供給量の決定とその調整ができない」と批判したのである。私はここまでの拙論は,下田氏の反論でも揺らがなかったと自負している。

 他方,下田氏との対話を通して,通貨の内生的供給は,景気循環におけるポジティブ・フィードバックと両立することを明らかにできた。しかし,両立するということは,これをチェックできるとは限らないということでもある。内生的通貨供給の仕組みは,インフレ防止には役立つが,景気循環のポジティブ・フィードバックによる暴走をチェックする問題は残っているのである。これこそ,下田氏が信用創造の弊害として念頭に置いていることであろう。今回,下田氏が拙論批判で想定されたのは金融資産バブル抜きのポジティブ・フィードバックであったが,今日の景気循環が,むしろ金融資産の膨張と収縮を主要因として激しいポジティブ・フィードバックを発現させ,バブルを金融危機を引き起こしていることは明らかである。

 バブルと金融危機への対処という課題がある限り,信用創造批判が絶えることはない。その意味では,下田氏がポジティブ・フィードバックをどうするのか,それを解決できなければならないのではないか,と問いかけることはもっともなのである。下田氏の答えは公共貨幣である。私はそれに対して「気持ちはわかるが,無理だ」と言わざるを得ない。しかし,「気持ちはわかる」ならばどうすればよいのかという問いは,私自身に突き付けられているのである。この課題の重要性を下田氏と私が共有していることは,最後に確認しておきたい。

※1 下田氏の著書を拝見して私が書いた批判は,当初Facebookにのみ掲載していたが,現在はこのブログにもある以下の文章である。
川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」Ka-Bataブログ,2022年4月28日Facebook投稿,2022年4月20日)。
 下田氏の反論は以下の文章である。
下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」下田直能のブログ,2022年4月28日。

※2 正確に言えば,商品流通量を貨幣の平均流通回数で割ると流通貨幣量になるという関係にある。

※3 貨幣的インフレは,需要の一時的超過によって起こる価格上昇や,商品の生産コストの上昇によって起こる価格上昇とは理論的に区別されねばならない。

※4 なお,下田氏の今回の想定を離れれば,企業が借りたお金を金融的流通に投じることもあるし,状況に応じて預金のまま眠らせておくこともあるだろう。その場合,通貨供給が一方的に増えるが,創造された通貨が商品流通を媒介しないので,インフレを起こさない。

※5 「公共貨幣論に対する見解まとめ」では公共貨幣システムでは適正な通貨供給量の決定が困難なところまでは述べたが,インフレリスクには触れていない。公共貨幣論批判の別の投稿である以下の二つで述べている。
川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年12月18日。
川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※6 なお,ここで日銀が「官」か「民」かという議論には立ち入れないが,私は現在の日銀は半官半民組織と理解しており,おそらく下田氏もそうではないかと思う。そう理解した上で,ここでは政策当局で「も」あるとして論じている。


大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...