フォロワー

2022年5月9日月曜日

公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待

 下田直能氏の著書に対する論評に対して反論を賜り,それに対して再度のコメントを行ったが,このたび「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」と題された再反論を賜った。引き続きの真摯なご対応に感謝したい。

 互いの主張が明確になったことや,これ以降は私自身がもっと掘り下げて研究してから主張しなければならない部分もあると思う。そうした点については,双方の見解を読者や公共貨幣フォーラムの皆様方にご覧いただき,判断して頂ければと思う。ここでは,それでもなお話を続けた方がよいと思うところを掘り下げる。まず,公共貨幣システムへの批判をめぐる対話を深め,続いて拙論が想定した現行の信用貨幣システムについての氏の批判的論評に答えたい。

Ⅰ 公共貨幣システムは通貨の適正量を柔軟に供給できるか

 今回下田氏が提示された「図2 人間の欲求水準と商品需要量・流通貨幣量の関係」は,貨幣流通を必須とする資本主義社会における景気循環をどう見るかという,経済学の核心的な問題に触れている。物事の根本を考えようとされる氏の姿勢には頭が下がるばかりである。ただそれだけに,私はこの領域へのアプローチをはもう少し慎重にしたい。

 人間の欲望に対して,商品・貨幣を用いた経済システムによってどのように応じるかとなると,流通面では市場経済,生産面ではおおむね資本主義的生産を通して応じることになるだろう。もちろん部分的には公営企業や協同組合や自営業やNPOも活用される。また,市場の失敗がある領域では,公的財政を通した供給も行われる。それでも市場と資本主義企業は中心に座らざるを得ない。

 このとき,生産や販売や購買を個人の私的意思決定に委ねると,個人にはそれらに関する自由が保障されるが,生産の過剰や不足,格差や貧困が生じる。これではよくないと言うので代替的な経済システムが構想され,20世紀の一時期は集権的計画経済が試みられたが挫折した。それでもなお,別の方法が種々模索されているのが現状であろう。公共貨幣もそのひとつだし,MMTが,自らの貨幣理論とケインズの再解釈を結び付けて,反貧困政策やグリーンニューデイールをめざすのもそうである。

 さて,公共貨幣システムが実現すると,通貨供給のうち,金融システム経由のものは100%準備制度により大きく絞ることになる。これによってバブルを抑制し,金融業者の利益追求を制限する。そのかわり,財政システムで公共貨幣を供給することになる。

 私が公共貨幣に対して抱く最大の疑問は,この財政システムによる供給によって,下田氏が図2に描くような人間の欲求水準の動きを正しく判断し,過不足ない通貨供給が実現できるのかというところにある。下田氏は「もちろん、それがきわめて容易だというつもりはないが、世の経済学者の知見を集めて、そのオープンな議論を通じて、適切なモデルを元にシミュレーションを行えば、適正な通貨量の推定はさほど難しいことではない。これを適切な物価目標(日銀によると2%)を基準にモデルを暦年修正していけば、適切な貨幣量を維持することは十分に可能であり、そのモデルは国民の財産となる」と言われるが,私にはこれで説得力があるとは思えない。集権的計画経済における財の生産量決定ほどではないにせよ,やはり相当な困難に突き当たると思う。

 すでに論評を一通り行い,下田氏からの反論も得られたので,今後,公共貨幣論の研究成果を待ってより具体的に考えることとしたいし,私自身も公共貨幣論より有効な経済政策を自ら提示できるように研究したい。ここでは,公共貨幣論に検討していただきたい論点を二つだけ挙げておく。繰り返すが,これは公共貨幣論を全否定する批判ではなく,これらの論点についてより説得力のある研究成果を期待するという意味にとって欲しい。

1.これまでも書いたが,企業からの貨幣の需要はさまざまである。設備投資資金,運転資金,決済資金などの需要が日々の事業の変動の中で発生する。その需要を見極め,適切な条件で柔軟に供給する機能を,銀行の信用創造から取り上げてしまった場合,これを財政による供給で代替できるのか。公共貨幣の供給システムは,一方で下田氏が強調されるように民主主義的であり得る。他方で,いかに分権化しても,銀行システムよりは集権的になるだろう。すると,まず適正量の決定という点では,財政による供給で金融市場での需要の見極めを代替することは難しくないか。次に,需要変動への柔軟な反応という点では,むしろ民主主義的に行うがゆえに,素早い対応が難しくないか。つまり,弊害はあるとしても効率的である市場メカニズムに対して,公共貨幣は民主主義的であるという点で政治的に魅力的であっても効率性を欠くのではないかという点である。

2.次に,本質的に上記と同じ論点だが,より具体的に公共貨幣システムの仕組みに即して述べよう。財政による公共貨幣の新規投入分は,直接には公的事業や公共性の高い民間事業に対してのみ行うとされている(下田著,pp. 131-133)。そして,間接的にこの公共貨幣がその他の民間部門に流れていくのである。これは財政のありかただけを考えるともっともだが,他方で政府が「その他の民間部門」の通貨ニーズに直接は反応できないということでもある。公的事業等に支出する必要性は,現行の財政システムと同様に判断できるだろう。しかし,「その他の民間部門」の通貨ニーズに間接的に応じるというのは,かなり難しくなる。また,公共事業は縮小しなければならない情勢だが「その他の民間部門」の通貨ニーズは高いとか,その逆であるというように,両者が競合する場合はどうするのかという問題もある。この仕組みを踏まえて考えると,通貨供給の適正量の判断と柔軟な調節は,いよいよ難しくならないか。

Ⅱ 現行の信用貨幣システムをめぐる論点

 以下の2点は私の貨幣論に対する下田氏からの批判に再度答えるものであり,むしろ私からの再反論と言うことになる。

1.貨幣的インフレーションとそれ以外の物価上昇の区別について

 下田氏は「流通貨幣量と商品需要量の自動的な調整・均衡が、貨幣的インフレ・デフレを防止するとは必ずしも言い切れない。というのは、実際の銀行貸付による信用創造は、実体経済への資金の投入だけを目的に行われるとは限らないからである」として,不動産投機を例に挙げ,不動産価格の急激な上昇を「一種の貨幣的インフレ」としている。この批判に答えたい。

 まず,商品流通に必要な貨幣量が,貨幣的インフレーションを起こすことなく金融システムによって調節されるのは,財・サービスの流通に必要な貨幣量に関する限りである。これを私は繰り返し記述しているので,確かめていただきたい。

 問題は,財・サービスの流通に必要な貨幣ではなく,金融的流通のために企業や証券会社が借り入れを行う(銀行から見れば信用創造で預金通貨を供給する)場合である。それが行き過ぎればバブルを引き起こす。このことも私は繰り返し指摘している。だから信用創造システムの問題点はバブルを起こしやすいことなのであり,これは下田氏と私が本来共有する視点である。

 しかし,これは貨幣的インフレーション,すなわち貨幣価値切り下げによる名目的物価上昇ではないのである。そうではなく,金融資産に限っての価格上昇である。この二つ,すなわち実体経済のインフレとバブルとは区別しなければならない。

 下田氏が例示するように,このバブルが不動産について起きると,確かに事態は複雑である。というのは土地は消費も生産もできないが価格がつくという独自な商品であるし,土地も建物もまったく実体経済とかけ離れた金融資産ではなく,それが実用に供される時には実体経済の価格に入り込むからである。なので,ここでいくつかの場合に分けて考えてみよう。

 まず,不動産が実用に供されず,投機のための売買が延々と,バブル崩壊まで続く場合である。これは,土地・建物価格だけの上昇であって,その影響は実体経済での物価に及ばない。これは貨幣的インフレではなく,金融資産化してしまった土地・建物,あるいはそこから派生した証券の値上がりである。つまりはバブルである。

 次に,土地・建物に対して住宅やオフィスと言った実体的な需要が生じた場合である。ここから道はさらに二つに分かれる。もしも実需に対して対応する通貨供給がなされなければ(例えば金融機関が,オフィス取得へのローンや住宅ローンに対して慎重であれば),値上がりした不動産価格は実現されず,土地や建物は売れ残る。価格が下がることだろう。あるいは実需には回らず,金融資産として投機だけが続くだろう。この時,実体経済での物価上昇は起こらない。

 もしも実需に対応する通貨供給がなされれば,高い不動産価格も実現する。これは実体経済における物価上昇である。ただし,需給バランスによる一時的上昇と,コストアップを反映した実質的価格上昇という二つの性格を持つ上昇である。貨幣的インフレーション=通貨価値が切り下がっての名目的物価上昇とは異なる。

 これらは,日常用語でいうインフレーションでは区別がつかない。日常用語では,インフレーションは単に持続的物価上昇と定義されるからである。しかし貨幣理論を論じる際には,貨幣的インフレーション,一時的需給関係による物価上昇,コストアップによる実質的物価上昇は区別されねばならない。それは単に言葉の問題ではなく,通貨当局が物価対策を正しく行うためにも必要なのである。

2.内生的通貨供給という用語の意義について

 内生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給するのではなく,直接には民間の経済主体による行動によって通貨が供給されるのだ」という意味である。だから現行の信用貨幣システムにおける金融システムでは,銀行から見れば貸付けと回収,企業から見れば借り入れと返済を通して内生的に通貨が供給される,金融システムを通した通貨供給は内生的である。中央銀行が行えるのは,金融政策でこれを間接的に調整することだけである。

 外生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給できるのだ」ということである。財政システムを通した通貨供給は,政府が財政支出によって通貨供給を増やし,課税によって減らすことができるのだから外生的である。国債発行ルールはこれを制約するが,その制約が中央銀行というもう一つの政策当局による買いオペレーションで緩められていることは,下田氏もご承知と思う。

 下田氏は,内生的,外生的と言う言葉があいまいで混乱の下だと指摘される。たしかに,経済学者でもこの用語のニュアンスの理解がズレて議論がすれ違うことはあるから,そのご不満はわからないでもない。しかし,この用語は,現行の信用貨幣システムを正確に理解する上で重要なのである。一般論としてだけでなく,私にとっても公共貨幣論にとっても必要であると思う。

 というのは,主流派経済学は現行の通貨システムが信用貨幣システムであることを理解せず,「政府当局が経済に対して通貨を供給する。その調整は政府当局によって可能である」という命題を出発点に金融政策を考えているからである。この主流派経済学の誤りは山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』でも前半部で説明されていたはずであり,私も同意するところである。例えば,アベノミクス(黒田日銀路線)では,日銀が大量に買いオペレーションをすれば通貨供給が増えるはずだという,主流派経済学の誤った想定に基づいてリフレーション政策が行われて来たのである。

 現行通貨システムが信用貨幣システムであることを認め,これを正確に認識した上で,その問題点を改革しようという姿勢は,公共貨幣論も私も同じである。そうであれば,現行システムの誤った理解をただすために,「金融システムを通した通貨供給は外生的なものではなく,通貨当局の意図で自由に変えられるものではないのだ」という指摘の仕方が必要なのである。よって私は,「外生的・内生的」と言う対概念の必要性を再度強調したい。

Ⅲ 公共貨幣論への要望・期待と私自身の課題

 現行の信用貨幣システムでは,金融システム経由の通貨供給は内生的に貸し付けと返済,すなわち預金通貨の創造と収縮を通して行われ,財政システム経由の通貨供給は外生的に支出と課税によって行われる。金融システムを通した通貨供給は,1)貨幣的インフレーションを起こすことなく,商品の流通に必要な貨幣供給量を調節する。しかし,2)商品流通から外れた金融的流通のための貨幣供給や,3)使われずに遊休してしまう貨幣供給も実現してしまう。前者はバブル,後者は不況を生む。

 私は,ここまでの認識では,ほんらい公共貨幣論も私も一致できると私も思っている。ただ下田氏は,私が2)3)の弊害だけでなく1)の利点を強調して,公共貨幣論が1)を停止させることを批判しているのがひっかかるらしく,1)はそんなに役に立たないものなのだと強調されたいのだと思う。しかし,それは貨幣理論として適切でないというのが,私の反論である。

 私は,公共貨幣論に対し,改めて信用貨幣システムの機能として1)を認識いただくことを要望する。また,公共貨幣論が説得力を上げるには,たとえ1)の機能を停止しても,財政システムを通した公共貨幣の供給でよりよく代替できること,通貨供給量を適正に,また柔軟に調節できることを示すことが必要だと思う。そのような研究成果をお待ちする。他方で,私自身は,信用貨幣システムを前提としながら2)や3)をどう制御していくのかについて,もっと考えてみたいと思う。


<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論は以下の通りである。再反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。




2022年5月6日金曜日

マッチングビジネスをシェアリングエコノミーと呼んでいいのだろうか

 本日の学部ゼミ。ゼミ生2人の卒論構想報告と討論を行った。

 一つ目は日本でのライドシェアリングの普及の可能性についての構想で(板書1),論点は三つ。1)市場競争における競合相手の強弱。つまりタクシーや他の公共交通機関が弱いところでライドシェアリングが伸びる。2)プラットフォームを通したクラウドソーシングになっている。このソーシングが,眠っているスキルや知識の活用なのか,既存企業にとっての過剰人口である単純労働力を動員して二次労働市場を作っているのかが問題。3)ソーシングの対象が労働力である限り,ギグワーカーの労働条件問題は避けられない。まあ,これはわかりやすい話だ。

 二つ目はシェアリングシティ構想(板書2)。この話題で引っかかったのは,シェアリングとは何かということ。いま推進されているシェアリングシティとそこで活用されるシェア臨時エコノミーは,本当に「シェアリング」と呼ぶのが適切なのか。シェアリングシティ構想は,「公助」を補う「共助」だという理屈で推進されているらしい。しかし,よく聞いてみると,遊休資源をプラットフォームでのマッチングを通して活用する,それを自治体は規制改革や制度で後押しする,何しろ自治体自身が動員できる資源は限られているから,という理屈になっている。それはそれでいいのだが,「それは共有財のシェアリングとかではなく,単にマッチングビジネスではないか」という疑問を禁じ得ない。マッチングはマッチングでよいし,ビジネスが地域課題を解決することはある。しかし,マッチングをシェアリングと言い換えて,私的なものを公的あるいは共同的なものと見せかけるのは問題ではないか。マッチングとシェアリングを区別した上で,両者の関係をつけていくというのならばわかるし,それが現実的な線だと思うが。

 ところで2枚目のマッチングの図を「これは互いの私的欲望が一致しているだけであって,プロポーズ大作戦そっくり……」と言いそうになったが,若者が知るはずもないのでやめた。

板書1


板書2




2022年5月1日日曜日

夜の世界から来た怪物くん:藤子不二雄A先生の訃報に接しての投稿

 私は1964年生まれですが,自分にとって藤子不二雄A先生の独自作と言えば『怪物くん』です。もっとも,幼少の頃はF先生とA先生が別々の作品を描かれていたことにはまったく気づきませんでした。『怪物くん』のストーリーや登場人物は,『オバケのQ太郎』ほどには覚えていないのですがが,キングコミックス版10巻も持っていたし,1968-69年放映の白黒アニメも見ていました。放映が日曜日だったのが重要なところで,当時わが家にはテレビがなかったのですが,祖母と伯母が暮らす家にはありました。日曜日の夜は家族が祖母の家に集まる習慣があったので,『怪物くん』は無理なく見ることができたのです(この頃,私が他の番組を隣の家に入り浸って見るので,両親はまずいと思い,やがて泣く泣く白黒テレビを買いました)。解説は淀川長治さんで,「サヨナラ,サヨナラ,サヨナラ」もこの番組で覚えました。スポンサーは不二家で「不二家,不二家,でーはまた来週」というエンディングが楽しく,私はむやみにメロディチョコやペンシルチョコを両親にねだりました(パラソルチョコは傘の柄に当たる芯があって食べにくいのと,ペンシルチョコより小さいような気がしてあまり好みませんでした)。

 『怪物くん』のイメージは「夜」でした。そこが決定的に『オバQ』と違っていました。そもそもマンガ版第1話のタイトルは「怪物くんたちが来た夜」でしたし,重要な話には夜のシーンが多くありました。怪物くんはとにかく,ドラキュラや狼男やフランケンが昼間おおっぴらに出歩けないという事情もあったでしょう。怪物たちは夜に忍び出て来て,怪しげに行動するのでした。怪物くんたちの国に向かう超特急モンスター号も深夜0時に出発しました。背景ばかりでなく,人物もベタ塗りがきつく,日常から闇へのつながりを連想させました。のちにカラーアニメになると,かえってなじめない気持ちが起こったのも,『オバQ』とちがうところでした。

 オバQは,太陽の光が降り注ぐ雲の上の国からやって来ました。怪物くんは,異形の者たちがうごめく夜の世界からやって来ました。世界は光ばかりだけでなく闇からもできていました。そして,どちらも私のすぐそばにある世界であり,どちらにも友達はいると,幼い私は信じたのです。

 さようなら,藤子不二雄A先生。『怪物くん』と会わせてくれて,ありがとうございました。

2022年4月11日Facebook投稿に加筆。

「藤子不二雄Aさん死去、88歳 「怪物くん」「忍者ハットリくん」」朝日新聞DIGITAL,2022年4月7日。



2022年4月29日金曜日

内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して

  公共貨幣論に対する私の批判に対して,『お金は銀行が創っているの?』の著者である下田直能氏から反論を賜った(※1)。丁寧なご対応に感謝したい。下田氏の反論は,貨幣流通に関する核心に触れるものであり,拙論との違いを掘り下げていくことにより,重要な論点の解明につながることが期待できる。以下,下田氏との対話を試みる。

1.公共貨幣論批判に応じることを希望する

 まず,今回,下田氏が私の公共貨幣論批判に正面から答えていないことは残念である。信用創造はバブルを生み出す。しかし,だからといって信用創造を廃止すると,財・サービスの流通に必要な通貨が貸付けによって供給され,不要になれば返済によって流通から引き上げられるという,金融システムの機能が失われる。公共貨幣システムでは,その分を財政システムを通した公共貨幣の散布で代替しようとするが,それでは必要な通貨供給量を適正に定め,また柔軟に調節できないだろう。これが私の批判である。今回,下田氏がこの批判に対して,公共貨幣システムは機能し得るのだと正面から反論していないことは,何とも残念な限りである。次の機会を期待したい。

2.自動調節機能は景気循環を和らげるものではなく,商品流通量と貨幣流通量を対応させるもの

(1)自動調節機能はポジティブ・フィードバックと両立する

 今回,下田氏の拙論批判は二つの点にまたがっている。まず一つ目は,自動調節機能はポジティブ・フィードバックの一局面であり,川端は他の局面を見落としているというものである。

 川端は財・サービスの流通の必要に対して流通貨幣量が受動的に対応するというが,それは現実の経済の動きの半面に過ぎないと,下田氏は言う。逆の側面もあり,むしろ,ポジティブ・フィードバックによって「『商品需要量⇒流通貨幣量⇒商品需要量⇒流通貨幣量・・・』の無限ループを構成する」というのである。「好況時には『商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加⇒商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加・・・』となり,何かの要因でそれが逆回転を始めると『商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少⇒商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少・・・』へと転換する」。信用創造による貨幣供給は,このポジティブ・フィードバックを加速させるのであり,自動調節するばかりではないと,下田氏は言うのである。

 再反論の前に,ここでは,話が金融システムによる通貨供給に限られており,また財・サービスの流通に限られていることに注意しよう。下田氏は今回の拙論批判では,貨幣の増減と対応するのが商品需要量の増減だけになっており,金融資産バブルを想定していないからである。

 さて,下田氏は私が「自動調節」と言ったことを,商品需要量が先に増えて,流通貨幣量が後からそれに適応するものと理解されているようである。しかし,それは誤解である。そうではなく,商品流通量と貨幣流通量がバランスし(※2),通貨が価値の変動を蒙らずに商品流通を媒介することを「内生的供給」ないし「自動調節」と呼んでいるのである。

 下田氏は図1を提示し,私が「商品需要量→流通貨幣量」という因果関係だけを見て,「流通貨幣量→商品需要量」という関係を見ていないと批判される。しかし,下田氏自身がここで図示されているように,どちらの因果関係であっても,結局,商品需要量と流通貨幣量はバランスしようとする。商品需要がその分だけ信用創造による通貨供給をもたらし,信用創造による通貨供給が商品需要を裏付けるのだから当然である。そして商品の需要が,在庫からの調達や生産の拡大によって満たされれば,商品流通量と流通貨幣量もバランスする。

 静態的に,個々の局面から少し遠ざかった価格変動を長い目でみれば,結局商品流通量と流通貨幣量は対応するだろう。下田氏は,いや動態的に,ポジティブ・フィードバックを伴う景気循環を考えれば,商品需要の超過で価格が上がり続ける局面と,逆に供給超過で価格が下がり続ける局面とがあるではないかとおっしゃるかもしれない。しかし,そうした局面でも商品流通の増加が貨幣流通の増加を必要とし,貨幣流通の増加は商品流通の増加を伴うし,縮小には縮小を伴う,という法則性は働いているのであって,それは下田氏自身が主張されていることである。だから,結局,商品流通量と流通貨幣量は互いをバランスさせようとする作用を保っている。私はこのことを「自動調節」と呼んでいるのである。

 逆に言うと,私は,信用創造に景気循環を穏やかにするような「自動調節」機能があると考えているのではない。下田氏は,誤ってそのように読み込まれたようである。しかし,信用創造が景気循環の振幅を激しくし,バブルも生み出すことは私も認めているし,それはよく拙論をご覧いただければわかるはずである。

 商品流通量と通貨供給量を対応させる自動調節は,景気循環のポジティブ・フィードバックと両立する。下田氏の図1は,その意図に反して,ポジティブ・フィードバックの過程全体を通して自動調節が働いていることを示しているのである。

(2)自動調節が働かない公共貨幣システム

 私があえて自動調節という調和的な響きを持つ言葉を使った理由は,それが働かない場合の深刻さを明確にしておくためである。

 まず理論的に説明する。自動調節が働かないとは,貨幣流通量が商品流通量に対応しようとする力が働かなくなることである。その典型はインフレーションである。何らかの理由で,商品総量が増えることなく貨幣のみが追加供給されて商品流通に入り込むと,価格が名目的に切り上がる。言い換えると通貨価値が下落する。これが貨幣的インフレーションである(※3)。貨幣的インフレーションは,遊休設備や失業者がなくなってなお財政支出を続けた場合のように,景気の過熱とともに現れやすい。しかし,不況とともに出現することもあり得る。他方,商品流通量に対して通貨供給が一方的に不足することも考えられ,これは価格の名目的切り下げと言う貨幣的デフレーションを引き起こす力になる。もっとも,この場合は直ちに不況になり,商品流通量の方が縮小する。自動調節が効かないとは,貨幣的インフレや貨幣的デフレが起こることである。

 信用創造のある金融システムには自動調節作用があるため,景気循環のポジティブ・フィードバックは引き起こすが,貨幣的インフレや貨幣的デフレは起こさない。商品と無関係に通貨を供給したり引き上げたりすることはできないからである。たとえ好況期に銀行が貸し込みをするのであっても,借りた企業は設備投資であれ運転資金であれ決済資金であれ,借りたお金を財・サービスの購入に投じるか,すでに購入したものの決済に用いる。だから,通貨供給の増大は商品流通の増大を伴うのであり,一方的に通貨供給だけが増えることはない。同じく銀行融資が縮小すれば財・サービスの購入がそのぶんだけ不可能になって商品流通が縮小するのであり,一方的に通貨供給だけが減ることはないのである(※4)。ここに,金融システムによる通貨供給の内生性,もしくは通貨供給量の自動調節機能の持つ重要な意義がある。

 もしこれを公共貨幣システムに置き換えたならば,どうなるか。一方で100%準備預金制度の金融システムは十分な通貨を供給できない。したがって信用ひっ迫を起こし経済を停滞させるだろう。それを補うために,財政システムを通した公共貨幣の散布で置き換えようとすればどうなるか。適正な通貨量の決定は困難である。おそらく現実に実行すれば,金融ひっ迫を補うために財政は拡張気味に運営されるであろう。金融システムと異なり,財政システムでは通貨の一方的投入が可能である。給付金を考えればわかるだろう。だから,ここには貨幣的インフレのリスクが生じる。このリスクは現行システムにも存在するが,公共貨幣システムでは,信用創造を停止した分の通貨供給を財政で補うため,貨幣的インフレのリスクは,より高くなる(※5)。このように,自動調節機能を失った公共貨幣システムには,金融システムでは信用ひっ迫,財政システムでは高いインフレリスクと言う弱点があるのである。下田氏が,この批判に正面から答えてくださることを,改めて期待したい。

3.「内生的」とは「行政的な意図が介在しないこと」ではない

 さて,下田氏のもう一つの拙論批判に移ろう。それは,金融システムによる通貨供給は内生的とばかりは言えないということである。ここで下田氏は私の使う「内生的」という用語を,「行政的な意図が介在しないことが想定されている」と解釈しており,これに対して日銀は政策的意図をもって金融政策をしているではないかと指摘されている。しかし,ここにも誤解がある。政策的意図があれば外生的,なければ内生的というものではない。外生的とは,経済の外部から,政策当局が通貨供給を実質的に行うことができるという意味である。内生的とは,民間の主体が営む経済の内部に通貨供給量を増減させる要因があるということである。私が言いたいのは,政策当局の意図が介在しようとしまいと,結局,金融システムでは内生的にしか通貨が供給されないことである(※6)。

 下田氏が指摘されるように,今日,不況期の金融政策の実効性は著しく下がっている。少なくとも,金利を低下させて景気を反転させることには全く成功していない。なぜかというと,金利をいくら低めようと,買いオペレーションをいくら行おうと,期待利潤率が著しく低下している企業が,お金を借りようとしないからである。そして金融システムでは,企業が銀行からお金を借りない限り,通貨供給量は増えないからである。これこそが,金融システムによる通貨供給が内生的である証拠ではないか。先ほどと別表現で同じことを言えば,政策当局があれこれの意図をもって通貨を供給することはできないというのが,外生的でなく内生的だという意味なのである。

 もっとも,内生的というのは,政策当局が一切介入できないということではない。日銀が金利を引き上げたり売りオペレーションを盛んに行ったりすれば,銀行の信用創造は制約されるだろう。また,今日の日本と異なり高度成長期の経済であれば,金融緩和によって企業の借り入れ意欲を回復させ,景気のてこ入れをすることも可能であった。その程度の介入ならば可能なのである。しかし,これらは企業の銀行からの借り入れの条件,したがって信用創造による通貨供給の条件を変化させるものではあっても,通貨供給自体を日銀が直接操作するものではない。金融政策に影響を受けるとしても,経済の内部にある企業が銀行からお金を借りなければ通貨供給量は増えず,企業が銀行にお金を返済しなければ通貨供給量は減らないのである。

4.結論と今後の研究課題

 下田氏は,拙論の公共貨幣システム批判に答えていない。また,いただいた批判は,拙論の「自動調節」「内生的」の意味を取り違えたことから来た誤解である。これが今回の結論である。

 しかし,だからといって下田氏の批判は無用なものではない。下田氏との対話を通して,以下の論点が浮かび上がるからである。

 私の述べる通貨の内生的供給と自動調節の政策的含意は,「信用創造にはバブルを生み出すという弊害があるが,貨幣的インフレや貨幣的デフレを起こさないという利点がある」ということである。私は,ここから逆に,「財・サービスの流通に必要な通貨の供給を財政システムに頼る公共貨幣システムでは,適正な通貨供給量の決定とその調整ができない」と批判したのである。私はここまでの拙論は,下田氏の反論でも揺らがなかったと自負している。

 他方,下田氏との対話を通して,通貨の内生的供給は,景気循環におけるポジティブ・フィードバックと両立することを明らかにできた。しかし,両立するということは,これをチェックできるとは限らないということでもある。内生的通貨供給の仕組みは,インフレ防止には役立つが,景気循環のポジティブ・フィードバックによる暴走をチェックする問題は残っているのである。これこそ,下田氏が信用創造の弊害として念頭に置いていることであろう。今回,下田氏が拙論批判で想定されたのは金融資産バブル抜きのポジティブ・フィードバックであったが,今日の景気循環が,むしろ金融資産の膨張と収縮を主要因として激しいポジティブ・フィードバックを発現させ,バブルを金融危機を引き起こしていることは明らかである。

 バブルと金融危機への対処という課題がある限り,信用創造批判が絶えることはない。その意味では,下田氏がポジティブ・フィードバックをどうするのか,それを解決できなければならないのではないか,と問いかけることはもっともなのである。下田氏の答えは公共貨幣である。私はそれに対して「気持ちはわかるが,無理だ」と言わざるを得ない。しかし,「気持ちはわかる」ならばどうすればよいのかという問いは,私自身に突き付けられているのである。この課題の重要性を下田氏と私が共有していることは,最後に確認しておきたい。

※1 下田氏の著書を拝見して私が書いた批判は,当初Facebookにのみ掲載していたが,現在はこのブログにもある以下の文章である。
川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」Ka-Bataブログ,2022年4月28日Facebook投稿,2022年4月20日)。
 下田氏の反論は以下の文章である。
下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」下田直能のブログ,2022年4月28日。

※2 正確に言えば,商品流通量を貨幣の平均流通回数で割ると流通貨幣量になるという関係にある。

※3 貨幣的インフレは,需要の一時的超過によって起こる価格上昇や,商品の生産コストの上昇によって起こる価格上昇とは理論的に区別されねばならない。

※4 なお,下田氏の今回の想定を離れれば,企業が借りたお金を金融的流通に投じることもあるし,状況に応じて預金のまま眠らせておくこともあるだろう。その場合,通貨供給が一方的に増えるが,創造された通貨が商品流通を媒介しないので,インフレを起こさない。

※5 「公共貨幣論に対する見解まとめ」では公共貨幣システムでは適正な通貨供給量の決定が困難なところまでは述べたが,インフレリスクには触れていない。公共貨幣論批判の別の投稿である以下の二つで述べている。
川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年12月18日。
川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※6 なお,ここで日銀が「官」か「民」かという議論には立ち入れないが,私は現在の日銀は半官半民組織と理解しており,おそらく下田氏もそうではないかと思う。そう理解した上で,ここでは政策当局で「も」あるとして論じている。


2022年4月28日木曜日

公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて

 下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年。信用創造廃止=公共貨幣論の3冊目だが,言うべきことは,これまで読んだ2冊に対してとほとんど変わらない(※1)。著者は山口薫氏の主宰する公共貨幣フォーラムの理事であり,その主張はおおむね『公共貨幣入門』と同じである。

 まず,私の理解するところでは,現代の管理通貨制度の下での通貨供給原理は,大要以下のようになっている。

*金融システム(中央銀行・銀行)による供給-貸し付け(信用創造)・返済による内生的供給

*財政システム(中央政府)による供給-支出・課税による外生的供給

 なお,銀行以外の金融機関を通して金融仲介は流通界で資金を融通し合うものであり,通貨供給量を変動させない。

 内生的供給というのは,通貨が財・サービスの流通の必要に従って供給され,必要がなくなれば流通から引き上げられるということである。つまり,通貨流通量の自動調整機能が働くことになる。

 ただし,供給された通貨は,財・サービスの流通を媒介せずに遊休したり,もっぱら金融資産の流通に投じられることがある。初めから金融資産への投下を目的として借り入れが行われることもある。これは現金にたいする流動性選好と,他の支出と比較した金融資産への選好によって生じるものだ。遊休(マクロ経済学で言う貯蓄)が強力になると不況となり,金融資産への投下が激しくなるとバブルになる。

 さて,公共貨幣論の主張である。公共貨幣論者は,この不況とバブルの振幅の激しさ,またいずれからも利益を上げる金融機関の利潤追求を問題視する。銀行の信用創造に通貨供給をゆだねると,肝心の市民生活の必要を満たし,これを改善することにお金が回らないというのである。そこで,100%準備預金制度によって信用創造を禁止し,通貨は政府が発行する公共貨幣に置き換えようというのである。

 信用創造を禁止した場合,財・サービスの流通に必要な通貨が金融システムから供給される保証がなくなる。その代わり,財政システムを通して,政府発行の公共貨幣として供給されることになる。そして,いったん財政を通して散布された公共貨幣が,投資信託や定期預金などをとおした金融仲介によって融通される。公共貨幣の供給量は議会制民主主義の下で,ただしある程度独立した委員会システムを通してなされる。これによってバブルを排除するとともに,通貨の追加供給はすべて財政支出から始まることにすることで,市民生活の校正を高め,公共財・サービスの供給に資する通貨供給を実現しようというのである。以上が公共貨幣論の主張である。

 公共貨幣論は,銀行の不労所得を排して,通貨供給量を民主的に決定するということから,リベラルの一部に支持されている。しかし,私はMMT派のランダル・レイとともに,「気持ちはわかるが,無理だ」と思う。財・サービスの流通に必要な通貨量の決定は,政治的・行政的に決定することはあまりに困難が大きい。設備投資資金,運転資金,決済資金などの多様な需要を,銀行業の貸し出し現場ではなく政府の委員会が推計することに無理があるし,予算システムによって通貨供給を決定するのでは柔軟性がない。率直に言って,計画経済と同様の困難に陥るだろう。

 この困難は,財・サービスの流通に必要な通貨量の自動調節機能を破棄することから来る。公共貨幣論は,市場経済を廃絶しようとするものではないはずだ。そうであるならば,市場経済の調整機能の優れた部分を排除してしまって,経済改革の困難のハードルを高めるのは得策ではないだろう。

 問題は信用創造がバブルを生むことにあり,バブルにお金が回って市民生活に回らないことにある。この問題の解決のためには,金融システムにおける通貨の内生的供給機能を維持しながら,バブルを起こさない規制を確立していくこと,金融政策では対応できない不況には財政政策で臨むことが,現実的な選択肢と思う。

 たいへんラディカルでない,漸進主義的なことを書いたが,この論点に関する私の考えは以上のとおりである。


下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年。
版元 http://www.doujidaisya.co.jp/book/b602792.html

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4886839193


※1 以下二つの投稿を参照されたい。

「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」Ka-Bataブログ,2021年12月18日。

「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※本稿は2022年4月20日にFacebookに投稿したものの再現です。投稿は下田氏にお知らせし,氏からは以下のようなリプライをいただきました。続いて私からも再論する予定ですが,拙論と下田氏の論を読者が比較対象しやすくするために,ブログですべてご覧いただけるようにいたしました。

下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。




2022年4月27日水曜日

砲火の背後で企業は政治的選択を迫られ,貿易と投資が縮小していく

 ロイターによれば,中国のドローン大手DJIは,ロシア・ウクライナ事業を一時停止したと発表した。「危害を与えるため当社のドローンが使われることを好まない。戦闘に使われることがないようこれらの国で販売を一時停止する」とのこと。しかし,高口康太氏の記事からすると,その背景には,DJIが提供するドローン検知サービス「エアロスコープ」をロシア軍が使っているのに,なぜかウクライナ側が使えず,ウクライナのフェドロフ副首相がDJIに抗議したという経緯があるようだ。

 DJIの選択肢は,ドローンが両軍によって等しく軍事用に用いられるようにするか,疑われたようにロシアに味方するか,中国政府の姿勢に反してウクライナに味方するか,取引を停止するかであった。最初の一つを選べば戦争のエスカレートを担うことになる。真ん中の二つは政治的に立場を選ぶことであり,前者を選べば多くの国の市場で,後者を選べば中国国内で会社の立場を危うくする。最後の一つは選択を避けて事業を縮小することであった。ここで言いたいことはDJIに政治的にどうこうしろということではない。経済的に,後の方の3つが,いずれも取引を縮小するものであったことに注意を促したいのだ。

 この戦争が決着するにしても,どの国とも政治的立場を気にせず自由に取引できるという環境は戻らないであろう。立場を選ぶか,それが嫌なら撤退するかを迫られる時代となる。こうした立場に追い込まれるのは中国企業だけとは限らない。どの国の企業であれ,取引をすることが対立する諸陣営のどれかにつくことを意味してしまい,いちいち選択を迫られることになりかねないのである。

 企業が経営を守るために選択することは,よほど人道に反しない限りはやむを得ない。あるいは,人道のために利益を捨てることもあるだろう。繰り返すが,ここでは企業がどうすべきかを言いたいのではない。多くの企業の選択を通して,世界全体として貿易と投資が制約され,産業と生活に打撃を与えるだろうということを強調したいのである。砲火の背後でそうしたプロセスが進行していることに注意しなければならない。


「中国ドローン大手DJI、ロシア・ウクライナ事業を一時停止」2022年4月27日。

高口康太「海外展開が困難に? 中国企業が抱える大きな難題」WEDGE REPORT,2022年4月20日。



2022年4月21日木曜日

アゾフスターリ製鉄所とは

 ウクライナのマリウポリに位置するアゾフスターリ製鉄所のスペック。いまは人命が何より大事であるが,それだけに製鉄所がもともとどのようなものであったか気にする人も少ないだろう。鉄鋼オタクの任務としてこの製鉄所を保有するMETINVEST社の英文サイトから整理しておく。スペックはすべて同社の自称による。生産能力や生産高はすべて年単位。

 アゾフスターリ製鉄所は,ウクライナのMETINVEST社の傘下にある銑鋼一貫製鉄所。ソ連時代の1933年に建設された製鉄所を起源とする。高炉,転炉,連続鋳造機,ブルーム・ミル,厚板ミル,レール・形鋼ミル,大型形鋼ミル,レール留め具工場を持つ。銑鉄生産能力570万トン,粗鋼生産能力620万トン,最終製品圧延能力470万トン。

設備能力
*原料処理工場
・182万トンの設計能力を持つ3基のコークス炉および副生品工場。

*製銑コンプレックス
・合計8753立方メートルの内容積を持つ5基の高炉。設計能力は555万トン。

*製鋼コンプレックス
・350トン/タップの容量を持つ2基の純酸素上吹き転炉を備えた製鋼工場。製鋼能力529万3060トン。
・2基のツイン式取鍋製錬炉,2基の真空脱ガス炉を備えた二次精錬工場。
・4期の2ストランド湾曲式連続鋳造機。
・2011年の平炉閉鎖後に設置された造塊機

*圧延コンプレックス
・ブルーム圧延機。レール,ビーム,大型形鋼向け。
・厚板圧延機。能力195万トン。板厚6-200ミリ,板幅1500-3300ミリ。
・レール・構造鋼圧延機。能力142万2000トン。棒鋼,形鋼,様々なタイプと用途のレールを製造。
・大型形鋼ミル。能力95万トン。多様な棒鋼を製造。
・レール留め具工場。設計能力28万5000トン。
・レール留め具工場内の棒鋼圧延部門。鉱石や様々な非金属性原料処理のために工業やその他の産業で用いられる,直径40-120ミリの研磨用鋼球を製造。設計能力17万トン。

製品
・スラブ。板厚220-330ミリ,板幅1250-2100ミリ,長さ5000-12000ミリ。アゾフスターリ製鉄所は外販用スラブの世界最大級の生産者の一つ。
・厚中板。板厚6-200ミリ,板幅1500-3200ミリ,長さ6000-24400ミリ。造船,発電,特殊機械,橋梁,北極圏の石油・天然ガスパイプラインに使用される大径鋼管の製造に供している。
・棒鋼・形鋼。国内外に出荷。様々なサイズの建設,輸送,一般機器,鉱山向けアングル,ビーム,チャネルなど,大型・中型形鋼を製造。
・レール。ウクライナのすべての鉄道および一部のロシアの鉄道はアゾフ製鉄所のレールを装備。ウクライナの需要に応じる分以外は輸出している。広軌,標準軌,狭軌のレール,クレーンレール,フックフランジガードレール,転轍ポイントレールを製造。
・レール留め具。
・研磨用鋼球(前述)。
・角ビレット。鋼塊から製造され,棒鋼・形鋼加工用となる。ビレットは6000-11800ミリの長さに切断されて供給される。
・冶金スラグ製品。セメント,ロックウール,路盤材,油圧構造材,研磨剤,瀝青製品向けとして用いられる。
・化成品。液体アルゴン,液体窒素はエンジニアリング,アルミニウム・非腐食性金属の溶接,医療,建設,農業で用いられる。。クリプトン―キセノン,ネオン―ヘリウム混合物はさらに加工され,電子産業,化粧品産業,軍産複合体で用いられる。
・粒状コークス,粉状コークス,コールタールピッチ,原炭ベンゼン,硫酸アンモニウム,工業用ガス状硫黄を販売する。

<コメント>
 アゾフスターリ製鉄所は,大型製鉄所と言える生産規模を持っている。服部倫卓氏の詳細な研究が明らかにしたように(「ロシア・ウクライナの鉄鋼業の比較」『比較経済研究』52(2),2015年),ソ連時代の後遺症で平炉や分塊圧延機が残るなど旧式技術が用いられていたが,一定の現代化が進んだ模様。
 ただし,製品は旧来の構成のままである。その最たるものは,スラブを筆頭に半製品を販売していること。粗鋼能力と圧延能力の差から見て,フル操業時に150万トン以上を半製品のまま出荷するのだと考えられる。おそらくヨーロッパ向けに輸出しているとみられる(Nozomu Kawabata, Where is the Excess Capacity in the World Iron and Steel Industry? –A focus on East Asia and China–, RIETI Discussion Paper Series, 17-E-026, 2017) 。他の製品も,棒鋼,形鋼,厚中板と,建設・重機械向けが多い。薄板類の生産は全く行われていない。これは耐久消費財産業がウクライナ国内において弱く,またヨーロッパにおけるそれらの産業に輸出するほどの競争力がないからだろう。ただし,厚中板は造船向けやパイプライン用大径鋼管に用いられるとしており,従来の製品構成の範囲内で高度化を図ってきたのだと考えられる。
 今は何より人命が問題だが,戦災の規模によっては,アゾフスターリ製鉄所の操業停止はウクライナの経済復興を制約するだろう。鉄鋼の国際市場への影響はこの製鉄所ひとつでは大きくはないだろうが,ウクライナの他の製鉄所が同様に操業停止に追い込まれ,各国がロシアからの鉄鋼輸入を禁止するとなると,話は異なる。ヨーロッパでもっとも起こりそうなことは,スラブ(鋼板用半製品)の不足である。その分だけ,他の新興国鉄鋼業には参入機会となる。例えば,電炉による鉄鋼業が急速に成長しているトルコからの輸入が増加するだろう。

METINVEST英文サイト

論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...