現代の通貨システムには,多くの人の直感に反するものがある。そう言って悪ければ,普段イメージしているものが適切でなく,別のイメージに取り替えねばならないところがある。その最たるものが,通貨システムを,金貨や銀貨のような価値ある本位貨幣か,あるいは国家が強制通用力を付与したものが流通しているとみてしまうことである。そのようにイメージすると,認識を誤る。
では,どうイメージすべきなのか。それは「債務が流通している」というものである。イメージしにくければ「債務証書が流通している」,「われわれは,債務証書で売り買いし,貸し借りしている」でもいい。債務証書で売り買いするというのは,企業が手形によって掛け売り,掛買いしているのをイメージすれば,おかしくもなんともないことがわかるだろう。現在の通貨システムとは,手形流通が銀行と中央銀行によって高度化した世界なのである。中央銀行券も中央銀行預金も民間銀行預金も信用貨幣=債務証書である。コインだけは政府が強制通用力を付与した国家貨幣であるが,主要な通貨ではない。
では,なぜ債務証書が流通するのか。それは,中央銀行や銀行は,自分あての債務証書を発行して取引を行うからである。企業が手形を振り出して物を買うことを考えれば,何もおかしくない。信用のある債務証書ならば流通するのも手形と同じである。
では,債務証書はどのように流通に出入りするのか。中央銀行や銀行は,手形で物を買うのではない。自己宛て債務証書で貸し付けや信用代位(既発行債券の売買)を行うのである。だから銀行券も預金通貨も,主要には民間経済がそれを必要とするときに,貸し出しによって流通に入る。そして返済によって流通から出る(※1)。マルクス風に言えば貨幣流通法則に従う。ただし金貨のような本位貨幣と異なり,蓄蔵されることはない。回収された債務証書は消滅するのである(例:日銀に戻った1万円札は1万円の資産になるのではなく,ただの紙になる)(※2)。ただし,政府が国債を発行した場合は別で,民間経済の必要とは独立に政府によって流通に投げ込まれる。この分は,課税や特別の回収措置を取らない限り,出てくることはない。マルクス風に言えば紙幣流通法則にしたがう。これは,強制通用力を持った国家紙幣や政府発行コインの場合と同じである(※3)。
多くの人がこのイメージを抱きにくいのは,直感的に「債務証書ならば結局返済しなければならず,いつまでも流通しないはずだ」と思われるからである。もちろん,企業活動がうまくいっていれば,銀行貸し付けは返済される。債券による借り入れも,満期になれば返済される。対して中央銀行券や中央銀行預金や,民間銀行預金はどうかが問題である。
民間銀行預金はもちろん返済される。預金者が民間銀行の預金を下ろせば,中央銀行券に交換される。これはつまり,債務を,より信用度と流通性の高い債務で返済するという行為である。この理屈はあらゆるところに適用される。企業は手形の期日に,取引先銀行の預金通貨や,現金=中央銀行券で支払う。また,別銀行への銀行振り込みはすべて民間銀行間の債権債務となり,これは,日々,中央銀行当座預金口座を通して決裁されている(※4)。
それでは,中央銀行券と中央銀行預金という,中央銀行の債務はどのように返済されるか。債券と債務の相殺ならは可能である。中央銀行に債務を負うものは,中央銀行券や中央銀行預金で返済することができる。しかし,中央銀行に対して純債権を持つものはどうなるのか。金兌換が行われていれば,中央銀行に中央銀行券を持ち込めば金に替えてくれるかもしれない。しかし管理通貨制のもとではそれは行われない。中央銀行預金は,おろせば中央銀行券に変わるし,中央銀行券を預ければ中央銀行預金にはなる。しかし,それ以上のことはない。中央銀行券と中央銀行預金は「返済されない債務」である。それ以上,上位の債務が一社会内部にはないからである。
そうすると,債権者が中央銀行に大挙して押しかけ中央銀行券や中央銀行預金証書を突き付け,「とにかく何かで返済せよ」と迫ることはあり得ないのかという心配が起こるかもしれない。しかし,もともと中央銀行券や中央銀行預金は,中央銀行の信用供与によって発行・設定されていることを忘れてはならない。個別には,中央銀行に対する純債権をもつ銀行も存在し得る。しかし,社会全体としては,何らかの理由で中央銀行の資産価値が毀損されて債務超過に陥るのでない限り,中央銀行券発券高や中央銀行預金残高という中央銀行の債務と,中央銀行が貸し出しや債券保有によって持つ債権はつりあっているのである。だから,経済の運行が正常であれば,社会全体として見れば,中央銀行に対する純債権者が返済を迫るようなことは起こらない。起こるのは,せいぜい中央銀行に対して持つ債務を返済するにあたり,中央銀行券を使わせろという要求であり,それは債権債務の相殺として当然に認められるのである。
つまり,管理通貨制とは,中央銀行券と中央銀行預金という,返済されることのない債務証書が延々と流通するしくみなのである(※5)。この「返済されない債務が流通する」ことがイメージできないと,管理通貨制を正しくモデル化することはできない。
返済されない債務証書なら紙切れと同じで,強制通用力によって流通する国家紙幣と同じだと考える人がいるかもしれない。しかし,そうではない。不換の中央銀行券も,貸し付けによって流通に入り,返済によって流通から出る。民間経済の必要に応じて流通に入り,返済によって退出することができる。債権と債務の相殺を担うことができる。ここが国家紙幣とは全く異なるのである。また中央銀行券が紙きれならば企業の手形も紙切れになり,一切が紙切れで国家権力による虚構だということになるが,それでは経済的分析の放棄だろう。
この「返済されない中央銀行の債務」が信用を保てるかどうかが,管理通貨制における通貨の安定を左右する。中央銀行の債務は返済を迫られることはないが,信用を喪失することはあり得る。信用を喪失した時に起こるのが悪性のインフレーションであり,為替レートの急落である。
なお,以上の認識は,マルクス信用論において不換銀行券を信用貨幣と理解する学説の延長線上にあるものである。貸し付けることによって預金が創造されるとする点,中央銀行券,中央銀行預金通貨,民間銀行預金通貨が信用貨幣であるという点はMMT(現代貨幣理論)とも一致する。中央銀行のオペレーションの捉え方,債務の階層性の把握はむしろMMT(現代貨幣理論)から学んだものである。ただし,国家紙幣は信用貨幣ではないとする点はMMTの少なくとも一部とは異なり,また商品貨幣論の想定から出発し,その発展形として発券集中と管理通貨制を捉える点もMMTと異なる。
※1 ただしこれは当座預金についての話である。これとは別に,企業や個人は,一時的に必要としないお金を貯蓄性預金として銀行に預ける。当座預金は貸し付けによって出現するが,貯蓄性預金は,貸し付けられて流通している信用貨幣の一部が銀行に預けられるものである。
※2 中央銀行券を,強制通用力のある国家紙幣と考えようと信用貨幣と考えようと大した違いはない,と考える経済学者がいるが,誤りである。政府が国債を発行しない状態においては,信用貨幣は民間経済の必要に応じて流通量が決まり,国家紙幣は政府の行為によって流通量が決まるのであって,運動の原理が全く異なるのである。中央銀行券を信用貨幣とみるか国家紙幣とみるかは,そこから先の議論を大きく分岐させる。
※3 実際の動きは各国の制度による。日本のコインは,政府が財政支出によって流通に投げ込むことはできない仕組みになっている。
※4 日常的なイメージでは「A銀行からB銀行に送金する」というが,直接送金されているのではない。A銀行の預金通貨はB銀行の口座には入らない。A銀行に債務,B銀行に債権が計上され,これが両銀行が持つ日銀当座預金でA銀行からB銀行に送金されることで決済されるのである。
※5 単純化のため「流通」と一括したが,民間経済内では中央銀行券のみが流通し,中央銀行当座預金は民間経済の流通外にあって運動する。実務用語で言えば,前者はマネーストックの世界,後者はマネタリーベースと政府預金の世界である。