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2022年10月30日日曜日

雇用慣行の改革なしには,リスキリング推奨も不発に終わる:エンプロイヤビリティの二の舞にならないために

 リスキリングと言われている問題は,以前,具体的には90年代末から2000年代初頭にはエンプロイヤビリティと言われていた。スキルを学んで再就職できるようにしろというのは同じである。装いを変えて,せいぜい「副業促進」を付け加えているだけである。もちろん,職業能力開発の取り組みを広げるのはいい。私は,教育機関でも広げざるを得ないだろうと考えているくらいだ。しかし,それで雇用の質の問題が解決するとは思わない。

 ここでは若年の問題を脇に置いて中高年のことを考える。いったん離職した中高年に良質な雇用が提供されないのは,正社員のほとんどをメンバーシップ型で雇う慣行が原因である。メンバーシップ型とは「会社の一員として雇い,どんな仕事をどこで行なうかは会社が指示する」ものである。したがって賃金は「会社の一員としての重要性」で評価され,具体的な「仕事」には基づかない。「人」の能力が評価され,その能力基準に「年功」が強く加味される。

 このことが,中高年の「正社員」としての採用を著しく阻害する。中高年を雇うのは,高度専門家の場合であれ一般業務であれ,どんな仕事をしてもらうかがだいたいわかっているときである。そのため,会社としては,将来性を見込んで新卒を採用する場合と異なり,割り当てる仕事と賃金の釣り合いを考える。しかし,それを考えると,高度専門家はとにかく,一般社員では「年功」を加味した賃金になっていると高賃金を払わねばならないことが,割に合わないと受け取られる。だから,高度専門家は中途採用されるとしても,一般業務では,中高年は正社員に採用されないのである。そして,非正規とされてしまう。非正規の単価は具体的な「仕事」に基づく造りになっているが,もともと多数の正社員の「仕事」と賃金の関係を評価していないのだから,非正規にだけきちんとした評価が行われるわけもなく,その単価は,もっぱら会社のコスト上の都合で低い水準に抑えられている。

 ここに手を付けない限り,リスキリングだけでは解決しない。スキルとはテクニカルなものではあるが,値段がつくのは社会的な基準で資産として評価されるときである。テクニカルにはスキルがあっても,今の雇用慣行の中では,高度専門家の域(例:M&Aの案件発掘やアドバイザーができる金融パースン)に達するのでない限り,正社員としての転職の役に立たないだろう。エンプロイヤビリティの二の舞である。

 雇用慣行は労使の契約による部分が大きく,法律だけでは変えられない。しかし,法律と規制によって,改革をある程度促すことは可能だし必要だ。次年度の講義に向けて,この改革促進につながる政策提案を具体化したい。

 なお,先回りして行っておくが,「全員メンバーシップ型正社員で雇え」と法で命じろなどというわけでもないし(できっこない),また「全員ジョブ型雇用にしろ」と言いたいのでもない(そんなことを言っている人は,まともな学者にも実務家にもいない)。実行可能なことを考えねばならない。

2022年10月28日金曜日

預金をすることは貨幣流通にどのような作用を及ぼすか:覚書

1.現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことになるだろうか。

 1.1 まず本位貨幣,例えば金貨が流通している場合。

  1.1.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,マネーストックから現金1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,現金1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.1.2 いや,なるとも言える。なぜなら金貨は流通から消えるから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,1万円の金貨という通貨は,銀行の手持ち現金となる。場合によっては日銀に預けられる。すると,金貨は日銀の資産となる。


 1.2 次に管理通貨制度下の中央銀行券,たとえば日銀券の場合。

  1.2.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,マネーストックから日銀券1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,日銀券1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.2.2 いや,なるとも言える。なぜなら日銀券は流通から消えるから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,1万円の日銀券という通貨は,銀行の手持ち現金となり,一時的に流通から消える。さらに多くの場合日銀に預けられる。すると,日銀券発行高が1万円減少し,日銀券は消滅するか,日銀が保管するただの紙切れになる。


2.なぜ,このように現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことに「ならない」とも「なる」とも言えるのか。

 2.1 預金者から見れば,手持ちの現金を銀行の債務証書=預金と交換するに過ぎない。そして,預金は支払い手段としての貨幣の機能を果たすので,流通内にある。流通する貨幣量が変動しない以上,貨幣は流通の外に出ていない。

 2.1 ところが,預金というのは預金者が銀行に貸し付ける行為である。貸し付けを行えば,貸し主は借主の債務証書を入手し,借り主は借りた現金を入手する。債務証書の信用度が,貨幣として用いることが出来るほど高いのであれば,この時貨幣は,現金だけ存在する状態から,現金と債務証書が存在する状態になり,量は2倍に増えているのである。そして,貸し主が入手した債務証書=預金通貨は流通内にとどまり,借り主すなわち銀行が借りた現金の方は流通の外に出る。


3.流通から出た現金は蓄蔵貨幣となるだろうか。

 3.1 金貨が流通している場合は,なる。金貨は銀行の手元か日本銀行の手元で,流通の外の価値を持った資産となる。ただし,このとき貨幣流通量は減っていない。

 3.2 管理通貨制度で日銀券が流通している場合は,ならない。銀行の手元に置かれた日銀券は,預金の引き出しに備えて一時的に保有されるに過ぎない。つまり,ごく一時的に流通の外に出て,また流通内に戻る準備をしているに過ぎない。また日銀に預けられれば,日銀券は貨幣の資格を失う(ただの物理的な紙になる)。流通の外には出るが,価値を維持して蓄蔵されることはなく消滅する。


4.以上のことと,貨幣・信用理論の命題との関係。

 4.1 預金することが「貨幣が流通から出ること」を意味すると理解するのは,「現金そのものが流通から出る」という意味で言っているならば正しいが,「貨幣流通量が減少する」という意味で言っているならば正しくない。両者が混同されている場合があるように見受けられる。

 4.2 預金することが「蓄蔵貨幣を形成する」と主張するのは,本位貨幣については正しいが,中央銀行券については正しくない。この点では,古典的貨幣観がそのまま正しい。預金された中央銀行券を蓄蔵貨幣と見なす説もあるが,無理がある。

 4.3 不換の中央銀行券が「預金によって流通から出ることができない」と主張するのは,「蓄蔵貨幣にはなれない」という意味では正しいが,「中央銀行券が流通から出られない」という意味では正しくない。出て,まもなく流通に戻る場合もあれば,出て,そのまま消滅する場合もある。

2022年10月27日木曜日

博士論文Naoki Sekiguchi, Catch-Up of the Steel Industry in Non-OECD Countries in the 21st Century: Developments in Steel Trade and the Role of Technology(21世紀における非OECD諸国鉄鋼業のキャッチアップ:鉄鋼貿易の発展と技術の役割)の公開によせて

  3月に博士(経済学)の学位を取得して後期課程を修了したゼミ生,関口直樹さんの博士論文が東北大学機関リポジトリTOURで公表されました。この博士論文は,関口さんがこれまでMineral Economics誌で発表された3本の論文をもとにしていますが,一つの博士論文としてまとめるにあたり,大幅に改稿したものです。

<博士論文>
Naoki Sekiguchi, Catch-Up of the Steel Industry in Non-OECD Countries in the 21st Century: Developments in Steel Trade and the Role of Technology.(21世紀における非OECD諸国鉄鋼業のキャッチアップ:鉄鋼貿易の発展と技術の役割)(審査委員:川端望,黒瀬一弘,佐藤創)

全文
http://hdl.handle.net/10097/00134995

審査結果の要旨
http://hdl.handle.net/10097/00135266

 本論文は,1)研究者や実務家によって直観的には予想されていながら十分証明されていなかった,キャッチアップにおける高炉・転炉法の役割について,非OECD諸国を包括するデータによって裏付けました。また2)21世紀前半の非OECD主要製鉄国を対象として分析することにより,発展途上国・新興国鉄鋼業のキャッチアップが,長い紆余曲折を経て進むものであり,また不均等に進むものであることを明らかにしました。従来,新興国鉄鋼業の発展モデルとしては,韓国や台湾のように,最新技術の導入によって急速に発展するパターンが中心に据えられがちでした。しかし本論文は,21世紀前半の非OECD主要製鉄国からは別の経路が見えてくることを示したのです。

<主要業績>
Sekiguchi, N. (2017). Trade specialisation patterns in major steelmaking economies: the role of advanced economies and the implications for rapid growth in emerging market and developing economies in the global steel market. Mineral Economics, 30(3), 207-227.
https://doi.org/10.1007/s13563-017-0110-2

Sekiguchi, N. (2019). Steel trade structure and the balance of steelmaking technologies in non-OECD countries: the implications for catch-up path. Mineral Economics, 32(3), 257-285.
https://doi.org/10.1007/s13563-018-0163-x

Sekiguchi, N. (2022). The evolution of non-OECD countries in the twenty-first century: developments in steel trade and the role of technology. Mineral Economics, 35(1), 103-132.
https://doi.org/10.1007/s13563-021-00276-1


2022年10月24日月曜日

アメリカの金利引き上げが度を過ぎれば世界の脅威に:ドル高円安の背後で進行している本当の危機

日本では円安を嘆く声が広がっている。目の前の苦痛を嘆くのは当然だが,その背後でより深刻な事態が進行していることを看過してはならない。ここでは,以下のことを述べたい。

1.ドル高円安の原因は日米の金利差それ自体ではない
2.ドル高円安には日本側の要因とアメリカ側の要因がある
3.アメリカ側の問題こそ,世界経済の危機を再び招きかねない真の脅威である


1.ドル高円安の原因は日米の金利差それ自体ではない

 日米の金利差がドル高円安の要因だとよく言われるが,これは不正確である。なぜならば,海外事業への投資と異なり,金融商品への投資は極めて高速にポートフォリオが入れ換えられて,調整されるからである。金利差への適応は短期間で終了し,何か月も続くことはあり得ない。そして,通貨の間には為替リスクがあり,各国金融市場への評価の違いがある以上,金利裁定が終わり,ポートフォリオが入れ換えられた後も金利差は残るのである。入れ換えが終われば,そこから先は金利差があっても為替相場は動かない。

 だから,現にドル高円安が起こっているのは,金利差それ自体ではなく,今後の金利差に関する持続的予想のためである。つまり,投資家たちの「今後も日米の金利差は開くだろう」との予想が続いているために,ドル高円安が継続しているのである。


2.ドル高円安には日本側の要因とアメリカ側の要因がある

 上記の予想は,日本側の要因とアメリカ側の要因が総合されて成り立っている。日本側については,「日銀は今後も金利を引き上げずに,低位に維持しようとするだろう」という予想が成立している。他方,アメリカ側については「FRBはインフレ対策のために今後も金利を引き上げ続けるだろう」という予想が成立している。ドル高円安を招く要因は,日本側とアメリカ側,それぞれにある。


3.アメリカ側の問題こそ,世界経済の危機を再び招きかねない真の脅威である

 このうち日本側の要因の背後にある問題は,低成長の持続であり,コロナ後の経済回復が弱く,賃金が上がらず,金融引き締めが適さない状況であることである。そのため,その解決は日銀の金融政策ではなく,政府による国民生活救済策,それに必要な所得再分配,そして供給サイド強化策である。このことは,すでに述べた(※1)。

 ここで問題にしたいのはアメリカ側の要因である。アメリカのFRBが自国のインフレ対策を行うこと自体はもっともである。しかし,FRBは,明らかに不況という代償を省みずに金利を引き上げ続けている。これは身勝手と言わざるを得ない。アメリカは世界の金融センターであって,ドルは基軸通貨だからである。アメリカが,不況という代償を払うほどの金利引き上げを行なってインフレ鎮静化を実現する時,ドルで国際取引を行っている他国はどうなるのか?とくに途上国の対外債務はどうなるのか?ここにこそ真の問題がある。

 幸か不幸か,これまでのところドルは途上国よりも先進国通貨に対して切り上がっている。これは上述した日本独自の低血圧的状況と,ウクライナ戦争をきっかけとしたヨーロッパ経済の急減速によるものだ。しかし途上国通貨に対しても切り上がっていることには変わりはない。「あまりにも多くの低所得国が過剰債務に陥っているか、陥りかけている。ソブリン債危機が相次ぐことを回避するためには、最も影響を受けている者を守るために主要20か国・地域(G20)共通枠組みを通じた秩序ある債務再編における進展が急務だ。直に時間がなくなるかもしれない」(IMF経済顧問兼調査局長ピエール・オリヴィエ・グランシャ)(※2)。

 危機はどこから発火するかわからない。イギリスの国債市場不安に見られるように,先進諸国が発火点になることもあり得る。問題は,どこから発火しようと金融グローバリゼーションのために燃え広がることである。念のため,その際に予想される最悪の行為を想定しておかねばならない。それは,危機がアメリカ以外のどこかで生じたときに,FRBが,アメリカとは関係ない話だとして金利引き上げを続行し,政府も事態を見過ごすことである。これこそ,世界を金融危機に陥れる行為である。国際機関と各国は,FRBとアメリカ政府が,「アメリカのインフレのこと以外は考えなくてよい」という,自己中心的見解で行動しないように,監視,助言,批判を行うべきだろう。アメリカに警戒の目を向けるべき時である。

※1 「欧米と日本ではインフレ対策はどちらが難しいか。日本にはどのようなインフレ対策が必要か」Ka-Bataブログ,2022年9月28日。

※2 ピエール・オリヴィエ・グランシャ「世界経済の雲行きが悪化し始めた今、政策当局者にはしっかりした舵取りが求められる」IMFブログ,2022年10月11日。


2022年10月20日木曜日

金融危機のリスクと政策的ジレンマに直面する世界経済

 IMF「国際金融安定性報告書」(2022年10月版)要旨より(日本語公式テキスト。明らかな誤字のみ修正)。

「国際金融環境は今年,著しく引き締まり,これを受けマクロ経済のファンダメンタルズが弱い新興市場国やフロンティア市場国の多くで資本流出が見られる。経済・地政学的な不確実性が高まる中,投資家のリスク選好度は9月に大幅に低下した。状況はここ数週間で悪化しており,システミックリスクの主要な指標となるドルの調達コストやカウンターパーティの信用スプレッドなどが上昇した。金融環境が無秩序に引き締まるリスクがあり,長年にわたり積み重なった脆弱性により変動がさらに高まる恐れがある。」

IMF「世界経済見通し」(2022年10月版)第1章より(DeepL翻訳を推敲した拙訳)。

「ウクライナ戦争は,いくつかの新興市場や途上国のソブリン・スプレッドの拡大を促した。この拡大は,パンデミックによる記録的な債務に起因する。インフレが高止まりすれば,先進国のさらなる政策引き締めが,新興国や途上国の借入コストに圧力をかける可能性がある。一部の大規模な新興国経済は,良好なポジションにある。しかし,ソブリン・スプレッドがさらに拡大した場合,あるいは現在の水準が長期にわたって続く場合,多くの脆弱な新興国や途上国,特にエネルギーや食料価格のショックで最も大きな打撃を受けた国にとって,債務の持続可能性が危険にさらされる可能性がある。(中略)資本流出の急増は,多額の対外資金需要を抱える新興市場経済や途上国経済にも苦境をもたらすかもしれない。これらの経済圏で債務危機が拡大すれば,世界の成長に大きな打撃を与え,世界的な景気後退を引き起こす可能性がある。さらにドル高が進めば,債務危機の可能性はさらに高まる。新興国や途上国の通貨安は,多額のドル建て純債務を抱える国々のバランスシートの脆弱性を誘発し,金融の安定に直接的なリスクをもたらすかもしれない。」

 コメントする。

 2020-2021年のコロナ・パンデミックにおいて,突如として経済活動の停止に直面した各国は,そろって金融を緩和し,国債を発行して財政を拡大した。アジア経済危機や世界金融危機にそれなりに学んだ国際機関と諸国の中央銀行・政府が,経済危機下において流動性を供給し,弱者を保護しなければならないという政策規範を持つようになっていたからだ。そして,不幸中の幸いというべきか,世界信用恐慌を防ぐことには成功した。

 しかし,金融緩和と財政拡張は,実体経済が停滞した分だけ,株式や国債への資金集中をもたらした。金融商品は,停滞した実体経済の実力以上に買われたと言わざるを得ない。各国政府は,足並みをそろえて株式バブルと国債バブルを起こし,それによってなんとか世界経済の崩壊を防いだのだとも言える。

 その代償は,経済回復とともに進行するインフレーションだった。そこに終わらないパンデミック,熱波や干ばつ,そしてロシアのウクライナ侵略を起点とした通商分断が追い打ちをかけている。世界の金融センターであるアメリカとEUは,自国・地域のインフレ沈静化を何より優先し,金利を継続的に引き上げている。またイギリスのような混乱はあるものの,財政を全体として引き締めている。しかし,自国・地域のことだけを考えた引き締め政策が,途上国経済や,先進諸国を含めて世界に存在している金融的に脆弱な分野・人々を直撃することになる。問題は各国のインフレだけではない。ディマンド・プルインフレより不況が問題な中国や日本にしても,自国の不況だけが問題なのではない。リスクは世界規模で存在する。

 2022年現在,パンデミックの最悪期と異なり,需要は回復し,経済活動は再開されている。他方,パンデミック期に撒布されたマネーは,行き先を求めている。多少なりとも盛り上がった活動にマネーが集中してブームを引き起こせば,それが引き締めによって崩壊したときの衝撃もまた大きい。どこかでの局地的なショックが,世界的な株式・国債バブルの崩壊と金融危機を引き起こしかねない。

 危険は広く存在している。しかし,どの地域のどの分野にもっとも脆弱なポイントがあるのか。どこの小さな崩壊が大きな崩壊につながる恐れがあるのか。イギリスの見当はずれの財政政策に対する債券市場の反応か。中国の不動産不況が予想以上に深いものであることか,またもアメリカの住宅市場の停滞か,どこかの株式市場の暴落か,どこかの途上国で生じる民間もしくは政府の外貨建て債務のデフォルトか,それはあまりに予想しがたい。燃料はばらまかれているのだが,どこに偏っており,加熱したときにどこに火が点くかはわからないのである。

 そして問題なのは,金融危機に火が付きかけた時に,マクロ経済政策がどう対処すべきかだ。繰り返すが,アジア経済危機以来の教訓は,金融危機時に引き締めを行ってはならないということであり,それはもっともなことだ。しかし,現在,日本を除く先進諸国はディマンド・プルの貨幣的インフレに直面しており,中国を除く途上国も同じである。金融危機が生じれば流動性を無制限に供給し,弱者を救済する以外にまともな道はないが,それではインフレに火をくべることになる。さりとて,現在のようにインフレ抑制優先の引き締めを危機が発生した際にも続ければ,危機は加速する。これは,アジア金融危機やリーマンショックの時にはなかったジレンマである。世界経済はリスクの高まりと政策的ジレンマに直面しつつある。


IMF「国際金融安定性報告書 高インフレ環境の舵取り」2022年10月。

IMF「世界経済見通し 生活費危機への対処」2022年10月。


2022年10月13日木曜日

IMF, World Economic Outlook2022年10月:インフレ,戦争,パンデミックに苦しむ世界経済。低体温の日本経済

 IMF「世界経済見通し」(World Economic Outlook)最新版が公表された。副題は「生活費危機への対処」(COUNTERING THE COST-OF-LIVING CRISIS)。

 GDP成長率見通しはウクライナ戦争前と比べて大きく下方修正されており,見通しは暗い。「物価は数年ぶりの高水準を上回っている。生活費の危機や、大半の地域で見られる金融環境の引き締まり、ロシアのウクライナ侵攻、長引く新型コロナウイルスのパンデミックがすべて、経済見通しに重くのしかかっている」(日本語版要約ページ)。おおむね2022年よりも2023年の方が成長率が低くなると予想され,また予想の下方修正度も高い。特異欧米先進国への打撃が大きい。新興国は成長率で見ると相対的に打撃は小さいが,高い物価上昇率が低所得層にダメージを与えている。

 この中で日本は低位安定状態を保つと予想されており,意外にも2023年の成長率は先進国で最高となっている。物価上昇率も,日本で暮らす当人には深刻だが,他国ははるかに高い上昇率を示している。私の理解では、日本はコロナ後の回復が弱々しいのだが、それ故に今のところ需要超過インフレや貨幣的インフレに火が点いておらず、コストプッシュインフレだけが起こっている低体温な状態だ。

国際通貨基金(IMF)日本語ページ

※欧米と日本のインフレの性質およびインフレ対策の違いについての拙論は以下をご覧ください

「欧米と日本ではインフレ対策はどちらが難しいか。日本にはどのようなインフレ対策が必要か」Ka-Bataブログ,2022年9月28日。



2022年10月8日土曜日

T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を読む

 学部ゼミで訳しながら読むために,T. Fujimoto, A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites(藤本隆宏「設計情報の流れから見た産業,企業,サイト(現場)」を全訳作業中。この論文はSpringerから出版されている単行書の1章だが,オープンアクセスになっており,無料でダウンロードできる。

 実は,私にはこの論文はすんなりと吸収できる。というのは,というのは,マルクス的に読めるからである。いや,階級闘争や社会主義を論じているとかいう意味ではない。以下のような経済理論的読み方ができてしまうのである。

・「ものづくりの組織能力」はマルクスの「協業による生産力」の応用と考えればいい。
・「設計情報の創造と転写」はマルクスの「労働による価値の生成」の拡張とみなせばよい。
・分析単位としての「現場ー企業ー産業」の三層構造は,私が鉄鋼業研究で採用してきた岡本博公氏の「事業所ー企業ー産業」の三層構造とほぼ同じである。岡本説の源流は,堀江英一氏や坂本和一氏によるマルクスの生産力概念の独自解釈である。
・「設計を基礎とする比較優位」も,村岡俊三氏に習った国際価値論の応用とみなせばよい。村岡氏の国際価値論は,マルクス班の比較生産費説を含んでいた。

 藤本氏ご本人はマルクスではなくリカードを現代的に継承されて本論文を書かれている。例えば本論文では利潤の存在根拠は搾取ではなく,設計情報の創造性による希少性のようである。しかし,リカードとマルクスは相当に強い継承性があるので,マルクスに慣れているとやはり本論文はすらすら読めるのである。

 しかし,言いたいのは,私が個人的事情からこういう読み方をするというだけのことではない。藤本説が古典経済学から現代の経営学に至るまでの広大な射程を持った学説だということである。

 藤本説はそのように理解されているだろうか。Google Scholarで見るとまだ7回しか引用されておらず(2022/10/2現在),藤本氏の他の論文よりも引用頻度が低いのは不満である。しかし,その理由は,なんとなく想像がつく。

 まず主流派の経済学者の場合,藤本氏の学説は経営学だということで,あまりご存じないおそれがあり,問題関心も向かないかもしれない。藤本氏のモデルは塩沢由典氏との共同研究により,多国多数財モデルの貿易論として数理マルクス経済学の場で発展させられているが,経済学の学会では少数派であろう。また,主流派の経済学者は「工場や小売店など現場のオペレーションの観察が大事である」と主張する理論を提示されても自分事と思えないのかもしれない。だから,藤本氏の学説をもっと読むべきは,数理マルクス派を除けば,マルクス経済学から出発した産業経済学者や経営学者であろう。私を含めて,どれほど生き残っているのかは別として。

 また,多くの経営学者にとっては,なぜ古典経済学や比較生産費説に寄せたモデルを論じなければならないのか,受け入れがたいのかもしれない。例えば,「第三に,A国とB国の間での,X,Y,Z 各産業の相対生産性比率のプロファイルが,両国の相対賃金率に影響を与える(藤本・塩沢 2011-2012)。つまり,競争相手国に対する全産業の相対的な生産性比率のプロファイルが相対的賃金率に影響を与えるのである。第四に,上記の相対的な生産性と賃金の結果,競争する諸国の産業X,Y,Zの相対的なコストと価格が明らかになる。長期的には,リカード的比較優位の論理により,他の国内産業よりもライバル国に対する相対的生産性比率が高い「比較優位産業」がグローバル市場で選択され,A,B,C国の産業ポートフォリオが形成される」(p. 35)などと書かれると,私には空気のような普通の話であり,経済学者にも了解可能ではあろうが,多くの経営学者にとっては自分事と思えないのかもしれない。

 藤本氏もその学説も著名である。しかし,その学説の根幹は,あまり学界に浸透していないのではないかというのが,私の余計な心配である。上記のように多くの経済学者,経営学者双方の視野の外にある領域をカバーしているからである。また,より身近な次元では,経営論壇において氏の説は単純化されて「インテグラルかモジュラーか」「組織能力に基づくインテグラルな日本のもの造りがすばらしい」「いや,そんなのはもう古い」という次元の応酬に還元されがちである。

 藤本説は,経済学と経営学を統合し,古典的学説と現代的学説を連続させる,深く広大な領域を持つものとして,もっと多くの人によってさまざまな角度から検討されるべきではないかと,私は思っている。

T. Fujimoto. A Design-Information-Flow View of Industries, Firms, and Sites.  T. Fujimoto & F. Ikuine (Eds.). Industrial Competitiveness and Design Evolution (pp. 5-41). Springer, 2018.

<関連>

藤本隆宏『現場主義の競争戦略 次世代への日本産業論』新潮新書,2013年の「情報価値説」 (2014/2/24),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月12日。


大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...