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2019年11月13日水曜日

「逮捕でなく書類送検」というFNNの報道はおそろしくミスリーディング

池袋暴走事件の報道だが,「逮捕でなく書類送検」という言い方はおそろしくミスリーディングだ。FNNは大丈夫か。

 世の中には,「書類送検」というと,「書類が送られて終わりで処罰されない」という誤解が蔓延している。それと対になって,「逮捕が処罰である」かのような誤解も蔓延している。この報道は誤解を助長する。

・警察が取り調べ→捜査終了→送検→検察が起訴するかどうか判断→起訴されたら刑事裁判

という流れは,逮捕されようがされまいが同じである。ただ,逮捕されて取り調べられていれば検察に身柄が送られ,逮捕されていないならば書類が送られる(法律用語ではないが,俗に書類送検という)。

 「逮捕でなく」と言うとすれば「逮捕でなく任意で取り調べ」だ。逮捕は処罰ではないし,逮捕されても取り調べられているだけであり犯罪者と決まったわけではない。逆に言えば,逮捕されようがされまいが,警察の取り調べで犯罪の疑いありとされたなら送検される。書類送検されたというのは罪に問われないどころか,犯罪の疑いありとと警察が判断して捜査を終了したということだ。今回の場合,これから検察が,飯塚容疑者を起訴して刑事裁判にかけるどうか決めるのだ。

 今回は遺族の方が「書類送検だけでなく、逮捕されて、本当に罪を償っていただきたい」という表現を使ったのだが,これは音声として流せばよいのであって,報道機関がそのまま見出しやテロップにするのは大いに問題だろう。

「池袋暴走の飯塚幸三容疑者 なぜ 逮捕ではなく書類送検」FNN PRIME,2019年11月12日。

ニュース映像。テロップで,遺族インタビューの映像より前に「なぜ逮捕でなく書類送検」としている。

2019年11月3日日曜日

MMTも自国通貨の信用が失われる危険について考えている

この五十嵐敬喜教授の主張は,自国通貨の信認に関する常識的なイメージとMMTの関係を説明する材料としてちょうどよい。

(引用)「今後、高齢化がいっそう進むわが国では、債務超過額はさらに拡大する可能性が高い。抵抗が大きい増税や歳出削減でそれを食い止めようとしても、実現不可能だという他ない。その現実を多くの人々が自覚したとき「自国通貨建ての債務に限界はない」とか「財政の資金繰りに問題はない」と言い続けられるだろうか。」

 言い続けられる。自国通貨建て債務で政府がデフォルトを起こすことはないからだ。心配すべきところは,そこではない。

(引用)「物価とは本来、人々が自国通貨を信用できなくなったときに歯止めなく上昇するものだ。」

 その通りだ。

「通貨に対する人々の信頼の根源が国(の財政状況)に対する信頼であることは言うまでもないだろう」。

 ここがおかしい。自国通貨への信認が失われる理由は1)自国通貨建て債務がデフォルトを起こしそうになるから,ではない。それは心配ない。本質的には通貨を発行して返済することができるからだ。

 心配すべきは,2)政府がインフレを止められない場合,3)それと関連するが政府に必要な課税能力がないとみなされた場合,4)政府がバブルとその崩壊を止められない場合,5)政府もしくは民間の外国通貨建て債務が大量にデフォルトを起こしそうな場合,6)それと関連するが為替レートが暴落した場合だろう。「通貨に対する人々の信頼の根源は」,a)人々が租税納入のためにそれを保有せざるを得ず,したがって保有したがることによって,またb)通貨=政府債務が,より汎用性の低い債務(個人の債務,企業の債務,銀行の預金債務)を信用代位して決済システムを支えていることによって保たれているのである。2)3)4)5)6)はこれらa)b)を危うくするのだ。

 MMTも,不況であると好況であるとを問わずに財政赤字をひたすら増やす財政運営をすべきだとか,してよいとか言っているわけではない。それでは少なくとも3)と2)に問題が生じるし,4)5)6)にも生じるかもしれないからだ。MMTが述べているのは,財政赤字を出すべき時には出し,減らすべき時には減らすべきだというだけのことであり,ただし景気循環を通して財政赤字があり続けること自体は問題ないということだ。この点でMMTは何ら奇論ではないし,財政赤字で一切が救済されるという宗教宣伝でもないのだ。

五十嵐敬喜「自国通貨でも債務は債務」三菱UJFリサーチ&コンサルティング,2019年8月28日。

2019年11月2日土曜日

MMT派のように恒常的財政赤字を肯定する見地からは,「財源」論をどう考えればよいのか

 私は2019年3月18日の投稿では,本格的な再分配政策には消費税も欠かせないとする井手教授が『幸福の増税論で』展開した財源論を,プライマリー・バランスの赤字解消は必要ないという点を割り引いたうえで,示唆に富むと評価していた。しかし,2019年10月30日の投稿では,井手英策教授が,財政赤字の拡大を助け合い思想の欠如と結びつけていることを批判した。これは,3月の時点では財政理論についての私の考え方がいまよりも不安定だったことにもよる。そこで,現時点での考えを改めてノートしておきたい。

 これを一般的に言うならば,「MMT派のように財政赤字の恒常的存在を肯定する見地からは,支出増に対応した『財源』論をどう考えればよいのか」という課題について考えようというのである。

 まず財政についての基本的な考え方について。私は経済が成熟し,高成長が望めない先進資本主義国においては,財政赤字は常に存在してもかまわないし,むしろ存在しなければならないだろうと考えている。そして,赤字幅は拡大すべき時は拡大し,縮小すべき時は縮小すべきだと考える。MMT派が盛んに主張していることだが,ほんらい財務省も認めているように,1)通貨発行権を持つ主権国家は,その債務が自国建てである限りデフォルトを起こすことはない。なので,「借金が返せなくなる」という心配はないのだ。また,別途詳しく述べたが(※),2)財政赤字が金利の高騰を引き起こし,民間の投資資金調達をクラウド・アウトするということもない。この点はMMT派が正しく,常識の方が誤っている点である。ただし,3)モノやヒトなどの経済資源は希少であるから,野放図に財政赤字を拡大すると資源動員の限界やボトルネックに突き当たり,インフレ=モノとヒトのクラウド・アウトを起こす危険は存在する。また,4)財政支出が実物資源の購買力にならずに金融資産購入に回ってバブルを引き起こし,ある時点でそれが崩壊する危険も存在する。さらに,5)対外的に為替レートの急落を引き起こし,通商を混乱させたり対外債務のデフォルトを招く危険もある。だから,1)2)の心配はなくとも,3)4)5)には注意した財政運営が必要である。その制約条件の下で,失業をなくし,貧困と格差を緩和し,市場の失敗を補正し,社会的に望ましい行動を促進する一方望ましくない行動はくじくように財政を運営することが原則である。つまりは経済を望ましく機能させることが重要なのであって,その結果,財政が赤字であっても黒字であっても,それ自体は問題ではない。このような見地は,私はまだ学んでいないものの機能的財政論に近いだろうと予想している。

 さて,このような財政運営を成熟した資本主義経済で行った場合,景気循環を通して平均的にみると赤字になる可能性が高い。常時,格差と貧困に対処しなければならないし,傾向的な高齢化に対処しなければならないし,不況期には失業者が多数発生するからだ。赤字であること自体は,3)4)5)の条件を満たすならば全く問題はない。もっとも,満たすためにはモノ・ヒトが十分に存在しなければならないから,GDPにどう表現されるかどうかはとにかく,富の蓄積と人の教育という実物の面での経済開発は継続する必要がある。いくら医療に財政資金を投入しても,すぐれた医者や看護師がおらず,医薬品の研究・開発・生産が困難であって供給不足に陥ってはどうにもならない。その意味で,「成長か分配か」の二者択一論は不毛であり,分配の改善も必要ならば,必要なヒト・モノ・サービスが確保できるという意味の経済開発も必要である。

 以上のように考えるので,私は井手教授の助け合い,分かち合い,頼りあいの社会思想には賛成するのだが,財政にハードな予算制約を想定して,納税で痛みをわかちあうべきとする財政思想には賛成できないのである。経済を機能させるためには,国債を大いに発行して財政赤字が拡大すべき局面もあれば,課税を強化して財政黒字を出すべき局面もある。しかし,平均して財政は均衡させるべきという根拠はなく,平均すればむしろ赤字であろうと考えるのが,成熟した資本主義経済では現実的である。だから,財政赤字それ自体は,人々の助け合い思想の欠如でもなければ,民主主義の機能不全でもないのだ。

 さて,ここまでは井手教授に対する批判であり,MMT派に近い考えだ。しかし,では財政赤字はあってもかまわないという立場に立つとして,その立場からは,井手教授が論じている再分配革命の財源をどう考えればよいかという問題が生じる。井手教授の再分配革命が支出面で達成したいこと,つまり「生きるためのニーズが満たされる」ための事業が政府によってなされるべきことは私も賛成だ。では,その際,井手教授のように財源を計算するのはまちがいなのだろうか。

 一部,明らかに批判すべき点はある。それは,井手教授がプライマリー・バランスの均衡化に必要な財源まで想定していることだ。私は,それは必要ないと考える。では,それ以外の部分はどうか。井手教授は,教育と医療の無料化には12兆円プラス関連経費でおおむね19-20兆円が必要だとして,それに対応して歳入も20兆円必要だと考えている。そして消費税増税も必要だと言われる。ある程度財政赤字があってもかまわないという見地からは,このシミュレーションにどうコメントすべきなのだろうか。この点を解決することが,批判に伴う責任だろう。

 例えば,MMT派の貨幣論に立てば「財源」という概念自体が否定される。しかし,だからと言って,歳出と歳入の量的バランスの問題を考えなくてよくなるわけではない。恒常的な支出増だけを実行すれば,その分だけ財政赤字は常時増大する。しかし,財政赤字は拡大することが望ましい局面と縮小することが望ましい局面がある。インフレ圧力が高まったリバブルが生じたりしたりする好況局面では赤字圧力は望ましくない。だから,デフレの時期には財源を気にせず,当面の支出を赤字国債で賄えということはできるものの(そういう方向の主張は,現在の日本でMMTやリフレ論に基づく反緊縮派も行っている),常時そうしてよいわけではない。不況期も好況期も含めて一般原則として歳出歳入バランスはどうあるべきかを,MMT派であっても考えねばならない。

 まず望ましいのは,ランダル・レイの『MMT 現代貨幣理論入門』でも指摘されているように,財政支出は反循環的,つまり不況期に増えるように設計し,課税による歳入は順循環的,つまり好況期に増えるように設計することだ。この点では,財政学の常識とMMT派は一致している。

 ただ,常識を変えねばならないのは,景気循環を通して財政を均衡させる必要はなく,ある程度の財政赤字は常時あってもよい,ある方が望ましいということだ。しかし,どのくらいの赤字が常時あることが望ましいのか?この財政赤字の望ましい平均水準を想定することが必要だと思うが,これは状況に依存し過ぎていて,事前に定めるのが容易ではないように思う。そして,この困難が,財政拡大を必要とする事業を構想する際の財源論を難しくする。

 教育や医療の無償化に20兆円かかるとして,その財源も20兆円必要だということはないだろう。恒常的な赤字をある程度増やすことで対処してもよいからだ。しかし,前述のように歳入をまったく考えておかないと,インフレやバブルに耐えられないだろう。それでは歳入増はいくら必要だろうか。5兆円だろうか。10兆円だろうか。17兆円だろうか。この見当がつかないと,話は先に進まない。

 一時的な事業による支出増や強度に反循環的な支出であれば問題は難しくない。しかし,教育や医療に対する支出は,ほとんどは景気循環と関係なく,一定規模で存在し,かつ,増え続ける可能性も高いものだ。この支出は当然財政に赤字への恒久的圧力を加える。妙に聞こえるかもしれないが,不況ならば話は難しくなくて,財政赤字を出せばよい。しかし,むしろ好況に転じて,インフレやバブルが生じそうになった時が問題だ。教育・医療の無償維持が必要だとすれば,強力な財政赤字圧力に対抗して,課税を強化し,歳入を増やさねばならないだろう。その手立てを,インフレが生じそうになってから考えるのでは手遅れである。教育・医療の無償化を企画する時点で設計しておかなければならないだろう。

 ということは,「財源」と呼ぶべきかどうかは別として,再分配革命のための支出増の構想には,一定水準の安定した歳入増の構想が伴わねばならない。歳出・歳入のバランス論は,MMT派でもやはり必要なのである。歳出増と歳入増をイコールにする必要はない。一定の財政赤字増を想定してもよい。しかし,その妥当な赤字増大幅を合理的に想定しておかねばならない。ここが難しい。これは,MMT派のような財政赤字を許容し,むしろ奨励する学派にとって突き付けられた政策的課題であると思う。

 このように考えるならば,井手教授が,再分配革命の支出増にどのような歳入増を対応させるか,その際,安定した歳入源は何か,税の種類によって人々にどのような動機が与えられるかとシミュレーションしていることは,やはり重要だ。そして,想定すべき赤字幅がわからない状態では,考察の出発点として,歳出増=歳入増の条件でまずシミュレーションしてみることも,思考の手続きとしては合理的だろう。そうしたシミュレーションそのものを頭から拒否するのは適切でない。

 その上で,井手教授の主張をそのまま受け入れる必要はない。まず,プライマリー・バランスの黒字化は不要なので,そのための歳入増は必要ない。次に,歳出と歳入を完全にイコールにする必要はない。常時あるべき財政赤字幅に対応した当該事業の歳出超過幅を何とかして算定し,その分は国債を発行するとすればよいだろう。そのように増税必要額を割り引いて言った場合に,どのような結果になるだろうか。消費税を増税せずとも,所得税や法人税の累進性強化や,実行可能な資産課税,様々な大企業に有利過ぎる税額控除の廃止・縮小によって,十分な歳入増が確保できるだろうか。井手教授の所説を手掛かりに,そしてその所説を乗り越えるためには,ここが解明すべき課題だと私には思える。

「<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている」Ka-Bataブログ,2019年10月30日。

「本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで」Ka-Bataブログ,2019年3月18日。


2019年11月1日金曜日

鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの終結について

 鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの延長に参加国・地域の合意が得られなかった件。グローバルフォーラムの意義は,「過剰生産能力の規模が大きく,かつ慢性化することは問題だ」という認識の共有,生産能力に関する情報の共有,能力調整の実施状況をモニタリングし,あまりに不正常な行動が起きないように抑止しあうこと,であったと私は思う。逆に言えば,能力削減を直接に推進したり,監督したりする機能は持っていなかった。つまり,能力削減に直接の実効性を持つものではなかった。

 なので,このフォーラムがなくなっても,各国・地域における能力調整の取り組み自体はそれほど影響を受けないだろう。その点では,さほど深刻に考える必要はない。

 ただし,能力に関する情報を共有し,意見を交換する場が縮小することは問題がある。極端な独自行動に出る国・地域があった場合,これを抑止しにくくなるからだ。また,鉄鋼統計を共有する場が縮小することにも問題がある。産業統計は通商政策の基礎となり,逆に政策を評価する基本情報ともなるものだが,その国際的な比較可能性に問題があるからだ。鉄鋼統計は国・地域によって基準のズレがあり,精度もまちまちであって,そこから認識のずれや極論も生まれやすい。

 こうした意味ではグローバルフォーラムが継続されなかったことは残念だ。とくに生産能力情報については,国際的に共通の情報に基づいて意見を交換し合える場はOECD鉄鋼委員会だけになってしまった(World Steel Associationは能力情報は公表してない)。こちらを拠点にして,新たな取り組みを再構築するしかないだろう。


「鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラム閣僚会合を開催しました」経済産業省,2019年10月26日。

2019年10月30日水曜日

<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている

私は,井手英策教授の「生きるためのニーズが満たされるべきだ」という考え,「雑に扱われていい人なんて一人もいない」という考えを支持する。そのために社会の成員が助け合うべきだという考え方にも共感する。しかし,井手教授は社会の成員が助け合うべきだということを,<税の納入で負担を分かち合うべきであり,財政赤字を出すべきでない>という考えに直結させているように見える。また,さらにすすんで,<増税に反対するのは助け合いの思想がないということだ>と,租税抵抗が財政赤字を拡大することをアンモラルだと主張しているように読める(※)。私は,この後の二つの考えには反対する。
 むしろ私は,極端に言えば<誰をも雑に扱わないためには,財政赤字くらい出していいじゃないか>という風に考えている。一応,その経済学的根拠もある。通貨発行権を持つ国家は,債務が自国通貨建てである限りはデフォルトを起こさない。もちろん,悪性インフレを起こすべきでないし,為替レートを暴落させるべきではないし,バブルとその崩壊を引き起こすべきではない。しかし,それらのことに気をつければ,常時財政赤字があっても問題ないはずである。また,常時財政赤字を出すことなく,失業者をすべて雇い,ミニマムの社会保障が実現できるかどうかも疑問である。
 私は,強引に要約するなら<租税抵抗による財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手教授の理想の実現を妨げているように思う。

※<>は引用でなく,井手教授の言っていることはこういうことになる,という解釈である。もちろん,井手教授は「アンモラル」という言葉を使っているわけではない。しかし,教授は租税抵抗を,助け合いの思想の欠如と結び付けてとらえており,その帰結としての財政赤字に倫理的な否定的意味を込めていると読めるのだ。これを「アンモラルと主張している」と解釈した。なお,教授は同時に,租税抵抗はお金を貯蓄として眠らせ,有効活用を妨げる効果を持つとも述べており,これには私は賛成する。

「賢人論第103回 井手英策氏 前編・中編・後編」みんなの介護,2019年10月21日,24日,28日。

井手英策『幸福の増税論』岩波書店,2018年。

2019年10月27日日曜日

地図は鬼門中の鬼門:米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件

 米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件。原因は,映画内に登場する南シナ海の地図に,中国が主張する国境線である九段線が書かれていたから。

 地図は鬼門中の鬼門,地雷中の地雷である。地図を,とくに境界線を描くというのは,高度に政治的な行為になりやすい。黙って「普通に」してれば政治的にならないというものではない。必要がないなら描かない,必要がない部分を描かない,国境を書かない,色を塗り分けないなどの目的意識的な工夫をして,なんとか非政治性や中立性を確保できるくらいに思った方がいい。さもないと,意識していようといまいと,客観的には特定の政治的立場の宣伝を行うことになってしまう。その政治宣伝を思わぬところで押し付けられた場合の反応は激しくなる。

 私にも覚えがないわけではない。以前に「東アジアプロジェクト」と言う共同研究をやっていたが,あるチラシに東アジアの地図を載せようとしたところ,以下のような問題に突き当たった。

*国別の色の塗分けはトラブルの元。係争地域について特定の判断をすることになるから。
*国境線を記すのもトラブルの元。この記事と同じ。
*端っこはどこまで東アジアとするかも,実は微妙な問題を含む。この時はそうではなかったが,ロシアの人々を含めた共同研究の場合もあるので,日本の右上をどこまで描くかですら,問題の種になるおそれがある。

 結局,東アジア全域を単色で塗りつぶし,またどこまでが東アジアかもボケた表現とする地図にした。

 また,ある共同研究の報告書で冒頭の中国の地誌に関する部分の原稿を中国人の先生に書いていただいたところ,彼が受けた標準的な地理教育に従い,九段線の内側まで中国とする文章を出してきたので,お願いして変えてもらったことがある。むろん,ベトナムの主張通りに変えるのではなく,どこまでが中国の領土かという話を含まない文章にしていただいたのだ。いや,その先生も日本のことは意識していたのか,尖閣諸島の記述はなかったのだが,それ以外の国との係争地域には考えが及ばなかったのだろう。

 かくして地理は政治である。本学では地理の専攻は理学研究科にあるが,大阪市大では文学研究科にあった。政治経済学的視角が生き残っている分野の一つは経済地理学だ。いずれももっともなことだ。

「アニメ映画「アボミナブル」、ベトナムで上映中止 南シナ海の地図巡り」CNN.co.jp,2019年10月15日。


2019年10月25日金曜日

改憲せずとも戦前を実現できるという『産経』の白昼夢

『産経新聞』論説副委員長榊原智氏の堂々たる論説

 「憲法第1条で天皇の地位が「国民の総意に基く」とあるのは、それゆえだ。たまたま今、生きている国民の多数決に基づくものではなく、過去、現在、未来の国民の総意の規定だととらえるべきだ」。

 いや,「主権の存する国民の総意に基づく」と書いてあるんですけど。いまの天皇は,国民主権を前提に象徴だと憲法で認められているのであって,国民主権でなかった時代の天皇は,全然別の原理だと読むのが普通ですよ。

 「立憲君主である天皇が、憲法に同居する国民主権と矛盾されるわけもない」。

なぜ。どうして。どのように。

「臣下の筆頭である内閣総理大臣が即位される天皇陛下に対して、万歳を三唱するのは自然なことだ」。

 記事のタイトルで憲法守れって言ってますよね。憲法第65条と66条で「行政権は,内閣に属する」,「内閣は,法律の定めるところにより,その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」って書いてありますよ。臣下じゃないですよ。

 榊原氏は,国民主権があろうと,憲法に何と書かれていようと,それに関係なく天皇は君主であり,それ以外の国民は臣下だと言っているのです。ならば,氏と『産経』にとって新聞の役割とは,天皇や皇室について憲法や法律の見地から,その在り方が主権の存する国民の総意に基づいているかどうかを冷静に論じることではないのでしょう。それどころか,臣下として,頭を低くし,ほめたたえ,服従することを,共産党はおろか国民誰に対しても命じるキャンペーンを張ることなのでしょう。改憲せずとも戦前を実現できるという白昼夢,いや,おそれいりました。

榊原智「【一筆多論】共産党は憲法を守れ」『産経新聞』2019年10月22日。

2019年10月24日木曜日

考えようとした『河北新報』:「即位の礼」報道

 『河北新報』の2019年10月23日付朝刊トップは「『国民に寄り添う』 正殿の儀 天皇陛下即位を宣言 各国の元首ら2000人参列」の見出し。左側に小さく「雨続き二次災害警戒」の見出し。
 総合面2-3面は「皇位継承 議論後回し 女性容認の世論とずれ」「天皇陛下お言葉 憲法巡り『順守』→『のっとり』社会情勢への配慮か」「平成踏襲 批判は封印 儀式の骨格戦前が基」などの見出しの他,「厚生年金逃れも立ち入り 厚労省検討 法改正で権限拡大」などの記事が左右に。
 社会面22面は,「天皇陛下即位礼正殿の儀」「被災者に心寄せ」「宮内庁幹部『パレード延期安堵も』」「被災者思いさまざま 見ている暇ない/元気もらえた」などの見出し。
 社会面23面は即位礼の記事はなく,「災害ごみ手付かず」「被災3県 仮置き場増設でしのぐ」「郡山 処理施設浸水でストップ 生ごみ以外の排出控えて」「『面倒見良いリーダー』宮城・丸森小野さん 住民ら急死惜しむ」などの見出し。
 正殿の儀一辺倒ではなく台風被害も大事だという判断をし,儀式のあり方を論じるべきだと提起していることは,考えた上での紙面構成と見たい。
 ヨイショ記事ばかりでは新聞の役割放棄だが,『河北』はそうなるまいと努力した。




無惨な『日本経済新聞』:「即位の礼」報道

『日本経済新聞』2019年10月23日朝刊。1面の見出しは「天皇陛下即位の礼」「『象徴つとめ果たす』正殿の儀,2000人参列」「海外の賓客を歓待」「国民の幸せと世界平和願う 天皇陛下のお言葉」。左側に細長く「離脱関連法案審議入り」と別の記事。
 総合面の2-3面もほとんど即位の礼関係で,見出しは「『祝賀外交』活発 首相,連日の2国間会談」「饗宴華やか 舞楽や和食,おもてなし」「令和の天皇像にじむ」「国民とともに世界に目線」「平成の式典を踏襲 国民主権・政教分離に配慮」。わずかに「ソフトバンクGのウィーワーク支援」の記事。
 社会面の30-31面もほとんど即位の礼関係。見出しは「列島各地心から祝福」「『助け合う時代願う』」「即位の宣明高らかに」「古来からの儀式,厳粛に」「直前に雨やみ晴れ間」「『平和への思い新たに』」など。わずかに小さく「台風の被災地 複雑な思いも」。
 新聞の役割は,何事にも冷静に距離を取って報じ,論じるというものではないのか。そういう視点がほとんどない。もちろん,見出しだけでなく中身も確かめたが感想は同じ。政府から与えられたストーリーにしたがって天皇を賛美するだけの提灯持ちのヨイショ記事が多すぎ,新聞ではなく広報に近い。ある程度覚悟して読んだのだが,それでもげんなりした。


2019年10月21日月曜日

ヴェノナ文書への関心

 ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。『ヴェノナ』文書に基づく現代史研究だ。ヴェノナ作戦とは,第二次世界大戦中の1943年から1980年に至るまで,当初アメリカ陸軍の通信諜報部(後に国家安全保障局=NSAに吸収される)によって実施された対敵諜報活動だ。具体的には,旧ソ連の諜報機関であるKGBやGRUとアメリカ国内のソ連スパイ,対ソ協力者との暗号通信を解読する作戦だった。この作戦で解読された文書が「ヴェノナ」文書と呼ばれる。1995年に公開されることにより,旧ソ連がアメリカで行っていた諜報活動の一端が明らかになった。これにより,多くの人々があるいはソ連のスパイや対ソ協力者と判明し,またそう疑われることになったためにスキャンダラスなできごととなった。

 この種の出来事は,本書の帯にあるように「アメリカはソ連の諜報活動に操られていた」という政治的キャンペーンにつながる。本書の邦訳も,帯の推薦文を書かれた江崎道朗氏がおっしゃるように「アメリカでの歴史見直しの動向も無視したまま、戦前の日本「だけ」が悪かったと言い募るような、視野狭窄(きょうさく)はもうやめようではないか」(江崎「「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀」iRONNA,2018年8月15日)というところにあるようだ。

 そんな極論はどうでもよいが,ヴェノナ文書が,まともな意味でも歴史の見直しにつながることも確かだろう。私が個人的に関心を持つのは,ヴェノナ文書には,経済学者として心を動かされる名前も登場するからだ。

 その最たるものはハリー・デクスター・ホワイト,すなわちIMF設立における「ホワイト案」のその人だ。ホワイトがアメリカ共産党員ではなかったが対ソ協力者であり,情報を流していたことはかなり確定的なことらしい。これはさすがに,国際経済関係史の見直しにつながるように思う。

 世間的にはよりマイナーな,しかし私的な研究史から印象深いのはヴィクター・パーロとハリー・マグドフだ。

 パーロはアメリカのマルクス経済学者であり,日本でも多数の著作が翻訳された。私の師,金田重喜氏の最初の公表論文はパーロのThe Empire of High Financeの書評であり,金田氏はこれに『最高の金融帝国』という邦題を当てた(※)。パーロの本書は,金田氏が最も影響を受けた本の一つであった。氏は,私が学部3年の終わりの頃,研究室で「きみはまだ僕の言いたいことわかっておらんね」と言われたことがあった。そして,その翌年度のゼミの教科書にパーロ『最高の金融帝国』を指定された。1958年刊行の訳書をわざわざもう一度引っ張り出されたのは,大学院を受験する私に金融資本論を学ばせたかったからではないかと,今でもうぬぼれ半分に思っている。そのパーロは,戦時工業生産委員会内に潜むアメリカ共産党員のリーダーであり,多くの情報をKGBに流していた。これもかなり確定情報のようだ。

 ハリー・マグドフがヴェノナ文書に登場しているのは,私には意外であった。パーロの場合,アメリカ共産党員であることや,アメリカ共産党が,日本共産党が愛想をつかすほどの極端なソ連追随主義であることは学生時代から知っていたが,マグドフはポール・スウィージーとともにMonthly Review誌を担った,党派に属さないマルクス経済学者として知られていたからだ。私は,岩波新書の『現代の帝国主義』の他,スウィージーとの共著『アメリカ資本主義の動態』,『アメリカの繁栄は終わった!』,『アメリカ資本主義の危機』をよく読んだ。過剰資本論の理解は彼らに学んだところも大きい。そのマグドフも,ヴェノナ文書ではパーロ・グループの一員とされている。ただし,Wikipedia英語版によれば,マグドフは犯罪に関与していないという主張もあるそうだ。

 現在の基準ではソ連への機密文書横流しなど到底正当性を持ちえないことは言うまでもない。しかし,当時,少なからぬ人々がこのような活動に手を染めたのは,どのような動機と論理によるものだったのか。本書からしても,カネのためとか,弱みを握られ脅されたからではない。アメリカ共産党員,あるいはソ連の社会主義体制支持者として,それが正しいものと心から信じて行っていたと思われる。それは,当時のどのような社会的条件の下で,どのようなモチベーションとロジックにより選択されたのか。それが知りたい。

 もう少し歴史的に言えば,「国際共産主義運動」は,いつまでソ連を司令塔とする単一の,国際的ヒエラルキーを持つ運動だったのか。これは,Facebook友人に旧社会主義国の歴史研究の専門家がいらっしゃるので,素人が何かを言えるわけではない。しかし,関心はある。加藤哲郎氏が指摘されるように,国際共産主義運動は,今から見れば非常に特異な形を持った,国境を越えようとする運動だったのだ。私は,それが何であったのかを考えたい。

※ この時,浅尾孝氏による訳書はまだ出版されていなかったが,訳書でも邦題は同じであった。金田氏の書評での邦題を浅尾氏が採用されたのか,あるいは金田氏の方が訳出進行中の予定邦題を知っていたのかは謎である。生前にうかがっておくべきであった。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。


幸福への道か,底なし沼か:中国製の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVが超絶ハイクオリティという話

 中国の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVがすごいという話。2019年からマンガとしてネット配信されていた作品がアニメ化されたという局面らしい。一瞬,日本のアニメかと思うがセリフも背景の文字も簡体字であるし,制服がジャージっぽいので間違いなく中国である。デ...