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2023年10月11日水曜日

労働調査という先達:産業調査論の開講にあたって

 「産業発展論特論」という大学院講義科目で,産業調査論の授業を始めた。それにあたって,参考に「戦後日本の労働調査〔分析篇覚書〕」『東京大学社会科学研究所調査報告』第24集,1991年1月を通読した。1945-68年まで,東大社研を中心に行われた労働調査を,60年代末から70年代前半にかけて労働調査論研究会の研究者が振り返って考察したものである。

 残念ながら,私の不勉強により,この時期の調査の成果自体はほとんど未読である。そのため,この分析篇覚書に収録された報告も,理解できているとは言い難い。

 ただ,何となくわかることもある。山本潔氏が掲げた図(2枚目画像。本書220ページ)と,社研労働調査について,世代の異なる二人の研究者が私に話してくれたことのおかげである。一人は大阪市大で同僚であった何歳か年上の植田浩史氏である。私は1990年代に産業調査の方法を植田氏から教わったが,植田氏は山本氏から教えを受けたはずである。もう一人は東北大で同僚であった,さらに一世代上の野村正實氏であり,彼から聞いたことはいわば私にとって神々の領域である。

 東大社研の調査が労働調査であったのは,そこにいた研究者が社会政策・労働問題をたまたま専門としていたという事情によるのではない。戦後の状況の下で,社会生活を編成し,組織していくのが労働者であり,労働運動であり,労働組合であろうという問題意識を,研究者の多くが持ち得たからである。それは,程度の差や理解の仕方のバラエティがあったにせよ,マルクス派社会科学の枠組みに沿って当時の現実が理解されていたからである。

 しかし,戦後日本社会の現実の展開は,労働運動と労働組合の役割を限定的なものとした。本書の元になった報告が行われた1970年前後でさえそうであり,その後についてはなおさらであった。労働問題・労使関係は,日本社会の全体を規定するものとしてでなく,一つの専門領域として研究されるようになっていった。そして,社会生活を大きく規定する主体として立ち現れたのは,企業であり経営だったのである。経営が独立変数であり,労働は従属変数となっていた。社研調査のテーマの変遷は,そのことを承認して視点を企業へとシフトさせていったことを示しているように思う。

 このような変遷の中で,山本潔氏が行っていた労資関係研究と中小企業研究のうち,植田氏は後者を受け継いだ。それでも植田氏は『大阪社会労働運動史』の執筆や光洋精工社史の執筆において労働組合にも調査に行っていたはずである。しかし,彼にくっついて実態調査に入った私の場合,最初から調査に行くべき相手は企業であり,経営であった。「企業経営が,労働と生活をどのように規定しているか」という因果関係の調査を通してしか,現実に対する肯定も批判もしようがないと,当時の私には思われたのである。こうして,私のささやかな産業調査は始まった。






2023年10月4日水曜日

東北大学は,論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」の提出により,玉川寛治氏に博士(経済学)の学位を授与しました

  東北大学大学院経済学研究科は,2023年8月24日の教授会において,博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」の提出により,玉川寛治氏に博士(経済学)の学位を授与することを決定しました。審査は,結城武延(主査),川端望,阿部武司の3名が行いました。この学位論文は,10月2日に東北大学機関リポジトリTOURにて公開されました。シェア先で全文PDFをダウンロードいただけます。

 本論文は,歴史ミステリーもかくやと思わせるような謎解きとなっています。著者は「日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であった」というシンプルな命題の真実性を明らかにし,これを軸に,技術史,経済史上の謎を次々と解き明かしていきます。関心のある方はぜひご覧ください。審査の詳細は日本経済史専門の結城,阿部先生にリードしていただきましたが,本論文の審査に携われたことは,私にも大変な幸いであり,学びとなりました。

 「本論文は、著者の長年にわたる研究の集大成として執筆されたもので、極めて独創性が高く、実証的にも確度の高い研究成果である。すなわち、技術史及び産業考古学の観点から当時の紡績技術と生産工程を復元・再構成した上で、日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であったことを明らかにし、さらに紡績業者がその事実を認識して原料転換と新たな技術選択を行っていく過程を説明したことである。産業革命期日本の紡績業に関する先行研究はその重要性から膨大にあるが、意外にも始祖三紡績の実態や官営紡績所から大阪紡績会社をはじめとした民間会社への移行過程における技術・機械・原料選択に関する要因は不明な点が多く、それらを明らかにした本論文の学術的貢献は非常に大きいといえる。この研究が可能になったのは、元紡績技術者でもあった著者が独自に収集した広範な資料群を駆使したからにほかならない。」(審査報告より抜粋。この報告書も間もなくTOURに掲載されます)。


<目次紹介>

第1章 序論
第2章 日本における紡績業発達史の概要
第3章 始祖三紡績
第4章 官営愛知紡績所から大阪紡績会社へ
第5章 繭糸織物陶漆器共進会(第二区二類綿糸)で明らかにされた紡績技術
第6章 日本綿・中国綿からインド綿・米綿・エジプト綿へ
第7章 インド綿・米国綿・エジプト綿用の紡績機械
第8章 ミュール精紡機とリング精紡機の選択をめぐる諸問題
第9章 結論

 なお,玉川氏には以下の著書がありますので,併せてご紹介します。

玉川寛治『「資本論」と産業革命の時代―マルクスの見たイギリス資本主義』新日本出版社,1999年。
前田清志・玉川寛治編集『日本の産業遺産〈2〉―産業考古学研究』玉川大学出版部,2000年。
玉川寛治『製糸工女と富国強兵の時代―生糸がささえた日本資本主義』新日本出版社,2002年。
玉川寛治『飯島喜美の不屈の青春―女工哀史を超えた紡績女工』学習の友社,2019年。

本文ダウンロードページ
玉川寛治『日本における初期綿糸紡績技術の研究』


2023年9月28日木曜日

Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition (Open access)

 My new paper "Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition" was published on "The Japanese Political Economy" website.
https://doi.org/10.1080/2329194X.2023.2258162

 On October 19, Japan time, the paper became open access.

 新論文「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」オンライン版がJapanese Political Economy誌のサイトで発行されました。

 日本時間10月19日より,この論文はオープンアクセスになりました。

 日本語原稿は以下からダウンロードできます。

川端望「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」

28/09/2023投稿
20/10/2023修正



2023年9月8日金曜日

ディスカッションペーパー「1990年代ベトナムにおける日越合弁鉄鋼事業の成立過程-ビナ・キョウエイ・スチール社の事例研究-」を公表

 ディスカッションペーパー「1990年代ベトナムにおける日越合弁鉄鋼事業の成立過程-ビナ・キョウエイ・スチール社の事例研究-」を公表しました。

 本稿は,1990年代において,日越合弁鉄鋼企業ビナ・キョウエイ・スチール(VKS)社がどのように設立され,操業を開始し,急速に市場での地位を築いたかを明らかにしたものです。

・ベトナムの外資受け入れ環境がまだ整っていなかった1990年代前半に,VKS社はどのようにして設立されたのか。この事実関係を明らかにしました。
・VKS社はベトナム鉄鋼業の初期の発展にどのような役割を果たしのか。その意義を述べました。
・進出したのが大手高炉メーカーでなく中規模な普通鋼電炉メーカーの共英製鋼であったことは,どのような意味を持っていたのか。この点をとくに重点的に考察しました。
・理論的には,「後発性利益」論と「誘発機構」論,「確立技術と適正技術」論,「中堅企業」論との接点を重視しました。実証の先行研究はないのですが理論的には先行研究が重く,言わねばならないことが多くて,うまく書けたかどうかが問題です。

 共英製鋼には公刊された社史がありますが,今回は社内誌,記念誌(画像)の提供を受け,またVKS初代社長にインタビューを,さらに共英製鋼のベトナムにおける出資先をひととおりの訪問・見学をさせていただきました。心から感謝しています。20年間蓄積したベトナム鉄鋼業の調査記録も活用しました。むろん,すべての文責は私にあります。

 改訂してから雑誌に投稿します。ご意見をいただければ幸いです。

 PDFこちら。リポジトリがシステム更新中で新規登録できないため,個人サイトからお送りします。
http://www2.econ.tohoku.ac.jp/~kawabata/paper/terg479.pdf




2023年8月27日日曜日

E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年がずいぶん売れたらしいことについて

 E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年。『思想』7月号の特集を見て,清水幾太郎訳で読んだ内容をすっかり忘れていることを思い出し,なんぼ何でもまずいかと思い,買って読んだ。久しぶりに自覚したが「これを読んでおかないとまずい」という強要,いや教養マインドの残り火くらいは私の心にもあったようだ(※1)。

 新訳は昨年8月の時点で4刷り2万5千部出たそうで,この種の本では大変な売れぶりである。「なぜ,いま,カーなのか」というのが『思想』の特集号のテーマと思うが,一番分かりやすいことを,わが同僚の小田中直樹教授が書いている。いわく,「危機の時代には変化の歴史学が求められる」のだそうだ。

 私は彼の言うことに賛成である。ただし,それは「本日,みな腹が減っているから食事が必要だ」というのに賛成だというのと同じ意味においてである。文化や歴史に関心を持つものにとって,たいていの場合,「現代は危機の時代」である。したがい,我々はどこから来て,どこに行くのかということ関心をもつので,優れた歴史論に関心が集まる。これは,過去100年くらいはいつでもどこでもあてはまることなので,わざわざ言う必要はないのではないか。ちょうど,あらゆる政党が,選挙に当たっては必ず(無投票の場合を除き)「今度の選挙は歴史的なたたかい」であり「かつてない激戦」であるというのと似ている。

 では,なぜ,いま,この時に限ってカーなのか。およそ私などに深い理由はわからないが,カーが好意的に評した社会学の発想を借りて考察すると,こうなるのではないか。

 いまや,あまりにもろくでもない本ばかりが出回っているために,「『現代』の範囲でちょっと昔の名著の方がはるかにちゃんとしたことが書いてある!」と再発見され,世代を超え,新鮮さをもって広く読まれており,4万5千部に達している(※2)。

 ただし,これは楽観的に過ぎるかもしれない。以下のような可能性もある。

 いまや,活字の本それ自体が電子版を含めて読まれなくなったことに怒り心頭に達した中高年の研究者や本好きが,「本当に素晴らしい名著を読め,コラア」という共通の心情に駆られ,意地になって名著の新版を買い,再読しているが,中高年の研究者と本好きの域にとどまるので4万5千部である(※3)。

 さすがに悲観的過ぎるだろうか。

 私個人は,読むと改めていろいろな新しい発見があり,そうすると逆に「多少古い理論でも,十分これで行ける。これでいいじゃないか」と退行してしまいがちである。緩やかな実在論で,進歩の概念は一応想定するカーの議論で十分研究の導きの糸になるし,21世紀に研究する上でもとくに支障はないんじゃないか,当時の社会主義国を過大評価しているかもしれないけれど,という風に割り切りたくなるのである。これで本当にいいのか,よくわからないが。


<異次元の注>

※1 特撮・アニメオタクの世界でも,かつては自分の趣味の中核ではなくても,「この領域は一応全部抑えておかないと」と読んだり見たり買いそろえたりして,時間もカネも居住スペースも失っていったものである。

※2 さんざ特撮SF・ヒーロー番組を見たあげく,「やっぱり初代のウルトラマンがいちばんよかった」という人が後を絶たないようなものである。

※3 おたくがこぞって初代ウルトラマンのすばらしさを再発見して関連商品を買いあさり,評論を発表したところで,社会的影響力は極めて限られているというようなものである。



2023年8月24日木曜日

研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩

 以前に大学教員を目指す博士課程院生の苦悩について書いたが,今回は田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日を手掛かりに,就職活動をする修士課程院生の苦悩について書く。なお,当研究科では後期課程,前期課程という。

 当研究科の大学院前期課程修了生は,日本国内でさほど不利にはならずに就職できている。ただし高学歴で修士を持っていても有利にもならない。年功基準で,学部卒より2歳年上と扱われるのがせいぜいである。

 前期課程在学中の最大の問題は,院生が就職活動に時間を取られるために研究がさほどできず,逆に言えば研究に時間を取られるために就職活動に力を入れられないことである。

 2013年頃まで,私は「就活のためにゼミを休んでもよい。TAなどはしなくてもよい。ただし研究は計画通りするように」と指導していた。理工系,生命系の研究室とは違い「研究室の仕事」というものはほとんどなく,私がすべての雑用を自分でやる麗しき民主主義社会なので,これで大丈夫と思ったが,それでも院生にとっては苦しかったようで,勝手に東京に住んで帰って来ない学生,連絡を切り,研究が完全にストップする院生が出現した。「ふだんから関連する論文を読み,きちんと調べておくのは当然である」という指導に納得しない院生も現れた(それはできない時期もある,の意であろう)。

 そこでやむを得ず,後期課程進学に関するガイドラインを設定して共有し,後期課程に進む,進まないを,院生に自分から表明させ,「進まないで就職する」という学生には,研究スケジュールの中に就職活動期間を織り込むことにした。まず原則として,1)研究科が必要とする修士論文の基準は絶対に曲げないが,2)修士論文として合格するためには,何をどこまでやらねばならないかは節目節目で通知して理解できるようにする,3)「就活は自分の核心的利益だからなにをやってもよい」論と「その時になって見ないとわからないから計画しない」論を絶対に認めないので,就活で苦しくても連絡を切ったり,無断で授業を欠席したり,東京に引っ越したりしてはならないが,4)スケジュールは就活に配慮するから相談せよ,の四点を明確にした。そして,前期課程の2年間の間に,就職活動のために研究がまったくできない期間,あまり進まない期間を認める。そして,ーー本当は死んでもやりたくないがーー修士論文で到達すべき地点を最初から研究科の許容範囲内で低める,あるいは,研究時間が量的に少なくても到達しやすい性質のものに調整することとした。なお,これらの手法は普遍性を持つとは思うが,ゼミの過半数を占める中国人院生に対する解りやすさをとくに考慮したものである。

 これで,就活をめぐるゼミ内のトラブルはほぼ解消した。ただ,せっかく修士の学位を取っても優遇されない問題や,修士論文に自分の限界に挑戦するほどの労力は投入できないという問題は,解決していない。

(参考)「大学教員を目指す後期課程院生の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年9月3日。

田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日。


2023年8月21日月曜日

宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)読後感

 宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)。

 この本はケン・リュウが編集した中国SF集の2冊目である。私は書店で1冊目の『折りたたみ北京』とどちらを買おうか迷っていたが,本書を開いてぎくりとし,こちらを買うことにした。


「紫令は強硬すぎる」


という文字が目に映ったからである。もちろん,よく知られた実在の人物は紫玲であるが。

 表題作「金色昔日」の著者は,宝樹の作品で日本で知られているのは,『三体X 観想之宙』(原書2011年,日本語訳2022年)であろう。劉慈欣『三体』シリーズを著者公認の上で受け継いだスピンオフだ。彼は中国で活躍する作家だが,「金色昔日」は,2015年に英文誌に発表されたものであり,中国では出版されていない。中国の検索エンジン「百度」で「宝树 "金色昔日"」と入力しても,この日本語出版を紹介する記事しかヒットしない。

(以下,本作品のSF設定を明かします。知らずに読みたい方はここでおやめになることを勧めます。)

ーーーー

 「金色昔日」は時間小説である。登場人物たちは別の世界の中国を生きている。主人公は幼児期に北京オリンピックを見に行く。その後に経済停滞の時代が訪れ,高校時代には上海に住む幼馴染に紙の手紙を書くようになる。大学生になって天安門広場に立つ。やがて鄧小平は失脚し,毛沢東という人物が台頭する。そして文革が始まる。そう書いてもわけがわからないかもしれないから,イメージを喚起するために少しだけ主人公の言葉を引用しよう。

(引用)「ベルボトムのジーンズと鄧麗君の歌が大通りにあふれていた青年時代。香港四天王や台湾のテレビドラマが全国的に人気だった少年時代。ネットゲームやオリンピックや3D映画があった幼年時代。あれらは本当に存在したのだろうか。どこから来てどこへ消えたのか。すべては一場の夢だったのか。」(引用終わり)

 歴史は逆に流れているはずなのに,主人公が直面する状況はみなリアルである。また,個人の時間は読者と同じように流れ,主人公は出会いと別れに翻弄されながら生き,年老いていくのだ。

 SFにはなじみがなくとも,現代中国になじみがある人には一読をお勧めしたい。


出版社ページ
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015280/




2023年8月14日月曜日

石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年を読んで

 石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年。幸いにも8月9日石田教授・植田教授が臨席される書評会にオンライン参加させていただいた。著者らは,おそるべき詳細な実態調査と600ページにわたる記述を通して,以下のことを論じている。雇用関係の全体像は,仕事のガバナンスと報酬のガバナンス,両者の整合性を論じないと把握できないこと。仕事のガバナンスの描き方が先行研究では弱かったこと。経営過程とはPDCAサイクルに沿った計画の体系として叙述すべきこと。PDCAに基づく運営を,従業員のできる限り下位の層まで関与させながら進めるのが日本の経営の特質であること。

出版社ページ
https://www.minervashobo.co.jp/book/b589600.html



2023年8月7日月曜日

「何でもいいお金」はなぜ受け取ってもらえるか?ーーNHK「チコちゃんに叱られる」の貨幣論

 NHK「チコちゃんに叱られる」ICカードの謎(2023年8月4日)。「ICカードをピッとするだけでお金を払えるのはなぜ?」という問いに対して,「お金なんてなんでもいいものだから」と答えている。面白いが,説明で引っ掛かったところがあるので,考えてみよう。

 しかし,当然これだけでは足りないので,もう少し丁寧な答えは高木久史先生の助けを借りて説明する。「なんでもいい」というのは,金貨や銀貨のように,素材がそれ自体価値を持つものでできていなくてもいい,ということである。しかし,そうした価値を持たないはずのものが「なぜお金として受け取ってもらえるか」については,もう一つ理由が必要だ。

 そこで高木先生は,「タカギ券1000円」と示した紙を使い,「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という例で日銀券を説明しようとしている。相手が高木先生の約束を信用する限りは,高木先生との間では「タカギ券は1000円分のものと交換できる」とお互いに認めたことになる。同じように,国が日銀券について「この紙は1000分の価値がある」と宣言して,それをみんなが認めればお金として通用する。番組ではこのような説明になっている。

 私は,ここには問題があると思う。「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という話から始まるのはいい。もっと言えば,すごくいい。ここで肝心なのは,タカギ券を受け取るものは「発行者である高木先生の約束を信じます」と言うところである。発行者である高木先生は「発行した私は,1000円分の価値を認めて,1000円分の何かと交換しますよ」と言っている。まずこれが信用されれば,高木先生を信用する人がタカギ券を受け取り,タカギ券で高木先生に支払うだろう。そうすると今度は,高木先生を信用する人同士であれば,タカギ券で支払うことが可能になる。

 このタカギ券から1000円札を同じ原理で説明できる。「日銀は,1000円と書いた日銀券を,1000円分の何かと交換すると保証します」ということである。金本位制の時代は,これは1)「金と交換します」,2)「日銀の預金とも交換しますので銀行間決済に使えます」,3)「日銀から借りたお金はこれで返せます」の三つだった。いまは1)はできないが2)3)はできる。そして,2)3)から派生して4)「日銀を信用する人への支払いができます」ということになるのである。こうして紙切れに過ぎない日銀券はお金になる。これが基本的なすじである。番組中で短時間で説明するのは難しいが,私は講義ならばこのように話す。

 大事なことは,タカギ券か「発行者の支払い約束を信じるから受け取る」という論理を取り出すことである。こうした,支払い約束=債務証書がお金になったものを信用貨幣という。

 しかし番組は,これを「みんながお金としてみとめているから」「国が1000円の価値があると約束したものをみんなが信用しているから」とまとめてしまっている。これは「発行者の支払い約束を信じるから」と同じようでいて違う。「みんながお金としてみとめているから」では,政府が自分の資産として国家紙幣を発行し,それをばらまくことも含まれてしまう。それなら高木先生が「1000円のお菓子と換えてあげますよ」と言うタカギ券を発行する話から始める意味がない。タカギ先生が「ここは私の研究室だから,タカギ券はこの中では1000円として使えることにします」と研究室の会議で合意して決めるか,催眠術をかけるなり先生のカリスマ性で認めさせて信用を得ればよいのである。それが「みんながお金として認めているから」という説明にはふさわしい。

 しかし,世界の中央銀行がおこなっているのは,そのようなことではない。あくまで「中央銀行の支払い約束を信じてもらう」ことを出発点にして,中央銀行券は中央銀行の債務として発行されているのだ。

 番組がタカギ券から出発して「お金なんてなんでもいい」と言う話をするのはいいのだが,それが受け取ってもらえる理由を「みんながお金としてみとめているから」でまとめるのがおかしい。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」とすべきなのだ(※1)。

 以下,やや専門的な議論である。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」の原理で成り立つのが信用貨幣である。信用貨幣は,貨幣を使えば物々交換と異なり後払いも可能になるという,支払い手段機能が発展したものである。世界の預金通貨や中央銀行券は,こちらの性格が基本である。「みんながお金としてみとめているから」の原理で成り立つのは価値章票(価値シンボル)である。国家紙幣や補助通貨としての硬貨,軍票などは,こちらの性格が強い。価値シンボルは,貨幣を使えば色んな商品を買って入手できるねと言う流通(購買)手段機能が発展したものである。

 この番組は,「価値のない素材でできたお金が,なぜ受け取ってもらえるか」について,信用貨幣の原理の説明から入ったのに,結局価値シンボルの原理で説明を結んでしまっている。これでは,商品経済が発展するとともに,銀行と中央銀行を結節点として資本主義金融システムが発展するという,ダイナミズムが見落とされかねない。資本主義社会では,企業が経済活動のために銀行からお金を借り入れると預金通貨が増え,返済すれば減る。人々が流動性を求めて預金を下ろせば日銀券が日銀から銀行へ,銀行から人々へと渡って現金流通高が増え,人々が銀行に預金すれば現金流通高が減る。預金は銀行が企業の求めに応じて創造し,銀行に戻れば消滅する。日銀券は日銀が人々の求めに応じて発行し,日銀に戻れば消滅する(誰しも自分の借用証書を取り戻したら捨てるだろう)。このお金の生成と消滅のダイナミックなお金の運動は,信用貨幣論によってはじめて説明できるのだ。

 なお,私のこの見解は,「商品貨幣vs代行貨幣」の大区分がまずあって(※2),代行貨幣という区分の中に価値シンボルと信用貨幣があるという考えである。そして,価値シンボルと信用貨幣の区別は,資本主義金融システムのダイナミックな運動を理解する上で重要だという考えでもある。私の重点は,すでに商品貨幣が用いられていない現在の資本主義における「価値シンボルvs信用貨幣」にある。なので,商品貨幣の重要性は,従来言われていたほどではないことを強調する「商品貨幣vsそれ以外」を重視した研究とは,関心の置き所異なることを,念のため付記する。

※1 番組の説明が,高木先生の説明を忠実に再現したものなのか,番組の都合で改変したものであるかはわからない。高木先生のご研究は未読であるが,貨幣史の研究者とうかがっており,もちろん信用貨幣の原理について見識をお持ちのはずである。本稿は高木先生への批判ではなく,あくまで番組内容について,私としてはこう思ったということである。

※2 専門家向けの注。最近の信用貨幣論者は,貨幣は歴史的に初めから信用貨幣だと主張することが多い。なので,私が信用貨幣や価値シンボルを「代行貨幣」とすることには賛成されないであろう。これはまた別の話題となるが,誤解を避けるために簡単に説明しておく。まずここで私が「代行」と言っているのは,「歴史的にもともと金貨など商品貨幣が流通していたが,その後に代行貨幣になった」と言いたいのではないということである。今この瞬間の資本主義経済において,「商品流通のためには商品貨幣が必要なんだけど,それでは不便で仕方がないので代行貨幣が使われている」ということを論理的に説明しているのである。歴史的順序と論理的説明の順序は同じではない。だから,「昔だって金貨より帳簿振替が使われていたんですよ」と言われても,私は論破されたと思わない。
 商品貨幣はいろいろな機能を持っている。価値尺度,価格標準,流通(購買)手段,支払い手段,価値保蔵手段,世界貨幣などである。この種々の機能のどれかを代行するというのが代行貨幣の意味である。そして,流通手段の代行の場合も支払い手段の代行の場合も,素材としては,価値をほとんど持たない紙切れや卑金属や電子データが使用可能なのである。しかし,流通手段機能の代行と支払い手段機能の代行の説明の仕方は違う。預金通貨や日銀券は,債務証書による支払い手段代行として,「発行者の支払い約束を信じる」ことから流通するものとして説明しなければならない。私はこのように考えている。

「チコちゃんに叱られる! ▽都会と田舎▽田んぼの不思議▽ICカードの謎」初回放送日: 2023年8月4日。

2023年7月30日日曜日

泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで

 泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで。

 泉氏はマルクス経済学の言う剰余価値率を実証的に計測しようと,長年研究を続けて来られた研究者である。本稿は,国際貿易を導入した上で,剰余価値率の国際比較を行う理論の提示と実証を試みたものである。個人的にはたいへんなじみ深い領域であり,勉強になった。泉論文で書かれていることの理論的側面を,注記で多少のコメントを加えながら要約すると以下のようになる。

 マルクスによれば剰余価値率は「不払い労働/支払い労働」または「剰余価値/労働力価値」である。いま複雑労働と単純労働の還元問題を捨象すれば,一社会内では物理的労働量でとらえた前者と,労働価値でとらえた後者は一致する。しかし,複数国民経済の間で貿易が行われるという前提で,実際に計測を行おうとすると難しい問題が生じる。

 それは,異なる国の間での労働量をどのように扱うかである。世界経済の一次モデルでは,労働力は移動しないと仮定する(※1)。移動しないことにより,国民経済間の労働生産性が均衡化せず,格差が存在し続けることが説明できる。では,国民経済間に労働生産性格差がある場合,先進国の1労働日と途上国の1労働日は等質等量と扱うべきなのか否か。これが問題である。

 もし全世界の労働を等質として扱うと,何が起こるか。労働時間で計算した労働量ベースで計算した剰余価値率と価値価格(※2)で計算した剰余価値率は大きくずれてしまうのである。

 先進国の労働者が消費する賃金財は,途上国からの多くを輸入している。それらの生産は先進国よりも労働集約的に行われている。このため,労働者による輸入賃金財の消費が増えることにより,全世界等質の労働量ベースで見た支払い労働が大きくなる(※3)。このことが大量に行われると,先進国の剰余価値率は低下する。実証を試みるとマイナスにすらなるそうである。

 しかし,国際価値論を踏まえて価値ベースで考えると異なる。労働力が国内移動はするが国際移動はせず,各国間の労働生産性に格差があるのだから,全世界の労働を等質に考えるのは適当ではない。むしろ,国民経済全体の平均的労働生産性が格差を持ったままで貿易が行われることを説明すべきである。つまり,A国1労働日=B国2労働日=C国5労働日などという関係を前提して貿易が行われる。この関係を国民的労働生産性格差と言う。そして,この格差が労働の国際交換比率でもある。もちろん,このとき各産業部門での労働の社会的平均的生産性も国ごとに違うままである。

 上記のようにA国の国民的労働生産性がB国の2倍であるとき,ある産業α部門での生産性格差が2倍,つまりA国1労働日=B国2労働日ならば,α部門では両国での生産物の価値価格は等しい(※4)。日常用語で言えば競争力は同等である。もし,先端産業のβ部門では生産性格差が2倍より大きく,例えばA国1労働日=B国5労働日であれば,β部門ではA国の生産物の方が価値価格が低い。つまりは製品が安く,国際競争力がある。ローテクのγ部門では逆に生産性格差が2倍未満であれば,たとえ絶対的生産性はA国の方が高くともB国の生産物の方が価値価格が低い(※5)。

 このように観た場合,先進国労働者の消費する輸入賃金財は,国産品よりも労働時間は多く費やされているが,価値価格はむしろ小さい。したがい,全世界等質の労働量で支払い労働を見た場合のように剰余価値率の分母が大きくなることは起こらず,むしろ労働力価値とともに分母が小さくなることすらありうる。したがい,先進国の剰余価値率が低下するということも起こらないのである。推計してみると,国民的生産性の高い国ほど剰余価値率が高く,また平均賃金が極度に低い国の剰余価値率も高いという結果になる。

 読解に誤りがないとすれば,泉論文が言いたいことは,以上のようなことである。

 さらに進んで言えば,全世界等質の労働ベースによる先進諸国の剰余価値率がマイナスだという推計が妥当ならば,先進国労働者は途上国労働者を価値論レベルで搾取しているという含意をもたらす。国際価値ベースによる,先進国や特別に低賃金な国の剰余価値率が高いという推計が妥当ならば含意は全く異なり,先進国の労働者も途上国の労働者も搾取されているということになる。労働を全世界等質を考えるのは適当ではない以上,前者の考え方は適当ではなく,後者のように考えるべきだ。泉氏が意識しているのはこのようなことである(※6)。

 私は泉氏の分析にほとんど賛成である。貿易を含めた場合の剰余価値率は,全世界等質の労働ベースではなく,国際価値論を前提にして,価値ベースで理解すべきである。このことを両説対比の上で明らかにした本稿には重要な意義があると思う。

 ただ,この力作にも,注記について気になる点がある。泉氏は,国際価値論に関する諸文献を文献リストに列挙し,それらを参照したことを明示されているが,国民的生産性格差説の説明のところで,依拠された先行研究を特定して注記されていない。そのため,この分野になじんでいない読者が読むと,あたかも国民的生産性格差説が泉氏の独創であるかのように見えてしまうだろう。泉氏が文献リストにより,誠実に参照指示をされようとしたことは理解できる。ただ,客観的には上記の誤読の余地はあると思う。国民的生産性格差説は戦後の国際価値論研究の中で種々の模索の末に確立された学説であり,他方では過去も現在もこの説に依拠しない国際価値論も存在する(※7)。泉氏には,自らが他の説でなく国民的生産性格差説の研究蓄積に依拠していることを明記し,それに該当する文献はリストの中のどれであるかを指示して欲しかったと思う。


※1 資本が移動すると仮定するかしないかは論者によって異なり,泉氏は移動しないとしているが本稿の論旨にはどちらでも影響はない。なお,マルクス経済学で国際労働移動が基本的にはないというモデルを立てる場合は,部分的な労働移動は国際価値論ではなく相対的過剰人口論で扱う。

※2 価値価格とは,労働価値どおりの価格という意味である。

※3 たとえば,労働者は,より労働集約的につくられたシャツを着るようになるからである。

※4 専門家はご存知の通り,3国以上あると計算は極度に複雑になるし,価値価格と生産価格と市場価値でも話は異なって来るが,いまはそれは脇に置く。

※5 泉氏はこの語を用いないが,これが比較生産費説のマルクス的国際価値論による説明である。泉氏の説明は,金貨幣による価値表現を省略しているが,それ以外は以下と一致する。村岡俊三『グローバリゼーションをマルクスの目で読み解く』新日本出版社,2010年。

※6 この記事で最初にこの話をしなかったのは,この記事を読む方に,実践的価値判断から経済理論の正否を裁断するのではなく,あくまで理論的妥当性によって判断して欲しかったからである。
 念のため付記するが,泉論文もこの記事も,あくまで国際価値論(世界経済における労働価値の修正)のレベルでこうだという話をしているのであり,現実の世界経済に対する判断は,もっとたくさんの理論的,個別的条件を踏まえた上で,行なうべきことは当然である。

※7 泉氏が列挙されている国際価値論の諸文献も,みな国民的生産性格差説を採っているのではない。例えば,名和統一『国際価値論研究』日本評論社,1949年は基軸産業が労働の国際交換比率を決めるという見解であった。日本では名和説を出発点に種々の研究と論争が行われ,整合性の高いモデルとして国民的生産性格差説が生まれた。木下悦二『資本主義と外国貿易』有斐閣,1978年や村岡俊三『世界経済論』有斐閣,1988年はこれに依拠している。一方,中川信義『世界価値論研究序説』御茶の水書房,2014年は産業部門ごとに世界レベルで社会的平均的労働が確立するが,部門間交換比率は問題にもしないという特異なものである。
 なお,これらの学説の相違については,佐藤秀夫『国際分業=外国貿易の基本論理』創風社,1994年で整理されている。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...