これまで,信用貨幣論を論じるに当たり,先駆者として岡橋保にたびたび言及してきた。岡橋は私にとっては,師匠の師匠にあたる。その岡橋学説に対して,ようやく一定の位置と距離を持って向かい合えるようになってきた。それは,自分のゼミ生にこの学説を伝えるにあたり,無理解なままや,ただ追随するままではいられないからである。以下は,大学院ゼミでの解説用に作成したノートである。
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1.徹底した信用貨幣論としての岡橋説
岡橋保の学説は,信用貨幣理論において一つの極をなす。それは,現代の貨幣が信用貨幣であるという見地を徹底したからである。
すなわち,岡橋は,預金貨幣と銀行券を信用貨幣であるとし,また金兌換が停止されて以降も信用貨幣であるとした。また,貸付・返済によって発行・回収される預金貨幣・銀行券は伸縮性を持っており貨幣流通法則にしたがうとした。これらは,預金貨幣や銀行券が,国家の強制通用力や漠然とした人々の信認によって流通する価値シンボルであるという,マルクス経済学,近代経済学を問わず多数の研究者に保持されている常識と決定的に対立するものであった。また岡橋は,同じ預金貨幣・銀行券であっても,発行ルートの違いによって性質が異なることを指摘し,貸付によって発行された預金貨幣・銀行券発行は貨幣流通法則にしたがうが,中央銀行引き受けによる国債発行を通して発行された預金貨幣・銀行券は紙幣流通法則にしたがうことを明示した。
そのことにより,岡橋は,厳密な意味での貨幣的インフレーション=物価の全般的名目的上昇と,日常用語でいうところのディマンドプルインフレーション=需給ひっ迫から来る物価の実質的上昇をはっきり区別した。そして,貨幣的インフレーションは,いかに中央銀行が金融を緩和しようとも,手形割引や貸付による預金貨幣・銀行券の発行を通しては決して起こらず,政府の赤字財政こそ貨幣的インフレーションの発生源であることを,理論的根拠を持って明らかにした。
岡橋説は,それに賛同する者から見ても反対する者から見ても,徹頭徹尾の信用貨幣論なのである。また,それは期せずして,今日再興隆しつつある国定貨幣説的な信用貨幣論と,一部親和し,一部対立していて,興味深い対比をなしている。岡橋説を出発点とする徹底した信用貨幣論を用いると,今日の金融問題の見え方,例えば「日銀の超金融緩和はインフレーションを引き起こしうるか」といった問題への回答が,常識的な貨幣論とは異なってくる。そうしたアクチュアリティを持った学説なのである。
2.信用貨幣発生論の検討
(1)課題設定
とはいえ,当たり前のことであるが,岡橋説が何から何まで正しいというわけではない。ここでは『貨幣論 増補新版』(春秋社,1957年)に見られる,その信用貨幣発生論を検討する。ここまで岡橋の信用貨幣発生論の徹底性,独自性を強調したが,信用貨幣の発生については,意外なほどに,マルクス派の多数説と共通のところがある。それは,「銀行券は手形割引から生まれる」というテーゼを持っているところである。したがい,その批判も岡橋説の検討を超えた射程を有するだろう。以下,解説する。目指すべき方向は,岡橋説を部分修正することで,むしろその信用貨幣論をさらに徹底することである。
(2)「ほんらいの信用貨幣=手形割引によって発行された銀行券」説の批判
信用貨幣の発生を,国定貨幣説でなく手形流通説から理解するところと,貸付によって流通に入った銀行券が貨幣流通法則にしたがうとするところは,岡橋説の核心である。しかし,岡橋が,手形割引によって発行される銀行券だけが「ほんらいの信用貨幣」であり,貸付によって発行される場合は「ほんらい的でない」というのは,おかしい,というより不徹底に思える。岡橋がこのように言う理由は,貸付による銀行券発行は貨幣流通法則には基づいていても,手形流通法則に基づいていないというものである。貸付けられた銀行券は,一般的流通にも入るものであって,手形とは異なるというのである。
岡橋説がこのような主張を取るのは,信用貨幣の基本形態を銀行券に置くことと結びついている。しかし,それは逆ではないか。信用貨幣の基本形態は預金貨幣であり,預金を引き出した場合に生じる二次的形態が銀行券だと考えるべきではないか。銀行と企業が取引をするとは,企業が銀行に口座を持つということである。銀行が企業に貸付を行うというのは,銀行が信用創造によって,自己の負債として企業の持つ預金口座の残高を増額させるとともに,自らの資産として貸付金を計上することである。借り手企業が銀行券を手にするのは,預金口座からお金を引き出すときである。だから,銀行券が預けられて預金になるのではない。まず預金があって,それが引き出されるときに銀行券が発券されるのである。岡橋は,預金貨幣を重視する研究者であるが,それでも,最初からいきなり銀行券で貸し付けが行われると想定することによって,預金の意義を軽んじてしまっている。
企業が預金貨幣によって銀行から借り入れるというモデルで考えてみよう。企業は借り入れたお金を預金口座に持っている,この時,1)同一銀行に口座を持つ他社から原材料や設備を購入することは,銀行手形の流通として理解できる。預金貨幣とは,銀行の自己宛て一覧払債務だからである。2)また,同一銀行内に口座を持つ他社との預金振替によって,債権債務の相殺による決済が可能となる。3)もちろん,返済も一種の相殺として理解できる(これは岡橋も銀行券について指摘している)。返済直前の状態を見ると,銀行は企業に貸付けているが,企業は銀行債務である預金を同額だけ持っている。ここで互いの債権=債務を相殺することが返済なのである。利子生み資本を貸付けているのは銀行の側なのであるが,それが現金による貸付でなく銀行手形による貸付であるために,このようなことが起こるのである。
以上の1),2),3)から見て,貸付による預金貨幣発行も手形原理,すなわち手形による商品の流通,二者または多者の相殺による決済という原理に立脚しているのであり,ほんらいの信用貨幣の在り方を代表しているというべきなのである。岡橋説は,このように部分修正され,かつ信用貨幣論として徹底される必要がある。
(3)手形割引と貸付の違い:購買力は創造するが貨幣流通法則にしたがう
では,手形割引と貸付の違いはどこにあるのか。前者ではすでに流通した商品価値に対応した信用貨幣が事後的に発行されるのに対して,後者では産業資本や商業資本の運動の起点となる貨幣が事前に供給され,その後で生産手段や労働力が購入されることにある。貸付では,貨幣がまず前貸しされ,それから商品を流通させるのである。その意味では購買力は創造される。
ただし,貸付が購買力を創造すると言っても,流通貨幣量が一方的に膨張してインフレが生じるわけではない。そもそも,貸付金は満期になったときに返済されて流通から消えることが,はじめから予定されているのである。その意味では,購買力の創造は一時的である。また,産業資本・商業資本の運動が正常に行われれば,前貸しされた信用貨幣の価値は,購入される生産手段や,雇われた労働者が消費する消費手段の価値に対応する。つまり,貸しつけられた信用貨幣は,それに見合う商品を流通させることに用いられる。
岡橋は商品価値との対応を強調するのだが,そのことをもって貸付が購買力を創造すること自体を否定している。それは行き過ぎであろう。信用貨幣の前貸しによって創造された購買力は,事後的に商品流通と対応すると見るべきであり,むしろそのことが貸し付けの特徴なのである。
個々の企業経営は成功することもあれば失敗することもある。成功すれば,資本の価値増殖により,流通する商品価値は拡大し,いっそうの貨幣が必要になるかもしれない。また失敗すれば,銀行には貸し倒れが生じ,流通に投じられた貨幣がそのままとなるかもしれない。しかし,社会全体としては,貨幣流通速度を所与とすれば,経済が拡大して商品流通が拡大すれば貨幣の前貸しが返済を上回り続け,縮小すれば返済が前貸しを上回り続ける。こうして,流通貨幣量は,商品流通を媒介するために必要な水準に収まるのである。だから,信用の拡大による購買力の一時的拡大は,貨幣的インフレーションを起こさない。景気が良くなって貸付が増え,企業が投資を拡大した場合には,生産手段に対する需要が拡大して物価が上昇することはもちろんある。しかし,これは生産が拡大している産業部門での実質的物価上昇であって,貨幣的インフレ=全般的名目的物価上昇ではないのである。
預金貨幣や銀行券の前貸しは一次的な購買力増大を引き起こすが,社会全体としては商品流通の必要によって貨幣流通量が規制される。つまり,貸付によって発行される信用貨幣は,根本的には貨幣流通法則にしたがうのである。これは岡橋説の核心のひとつであり,継承すべき点である(ただし,前節で述べたように手形流通法則にも従うというのが私の主張である)。信用貨幣である預金貨幣や銀行券のこの性質こそ,いったん流通に入ると国家の課税強化によらなければ出られなくなる,価値シンボルである国家紙幣との違いなのである。
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今回,岡橋説をようやくある程度整理できたが,この後には,師匠の一人村岡俊三の学説が控えている。村岡俊三の専門は世界経済の理論であったが,その一環として世界的スケールにおける貨幣・信用関係にも重大な関心を寄せ,岡橋説をモディフィケーションした主張を持っていた。例えば,村岡説は,銀行が自己の手形によって貸し付けるとする点では岡橋説を継承しており,銀行信用の本来の在り方を貸付に置くという点では,岡橋説を修正している。この二つの論点は,私にとって受け入れやすい。しかし,その貸付を「後日の預金を引き当てにして目下の貸付を行う」とするところに検討すべき点がある。他日を期したい。