唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号掲載の完成版PDFが,東北大学機関リポジトリTOURで公開されました。無料ダウンロードいただけます。草稿DP版の公開は停止しました。
こちらです。東北大学機関リポジトリTOUR
http://doi.org/10.50974/00137113
川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号掲載の完成版PDFが,東北大学機関リポジトリTOURで公開されました。無料ダウンロードいただけます。草稿DP版の公開は停止しました。
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Vaclav Smil, Still the Iron Age: Iron and Steel in the Modern World, Butterworth-Heinemann, 2016.
流し読みながら、ようやく通読できた。スミル氏は,食料,エネルギー,環境問題の専門家として知られており,その著作はいくつか日本語にも訳されている。しかし,氏の知識は恐ろしいほど範囲が広い。鉄鋼にも及んでいるというだけでなく、鉄鋼の歴史,技術,経済,社会のいずれの側面にも及んでいる。昔読んだもので言うと中澤護人『鋼の時代』(岩波新書,1964年)を思い出させる。本書は,残念ながら私にはとても書けそうにない,鉄鋼についての総合的な理解を得るために不可欠の著作である。
代替素材が出現し,また先進諸国では経済・社会の非物質化(Dematerialization)が進行しているとはいえ,著者はタイトルにある通り『今もなお鉄の時代』であり,それは容易には終わりそうにないと考えている。
「今後半世紀を見通しても,我々の最良の工学的,科学的,経済的理解にもとづく結論は以下のようになるに違いない。我々の文明が鉄鋼(steel)なしにたちゆくという現実的可能性はない。この金属に対するグローバルな依存の規模はあまりにも大きく,急速に極小化することができない。われわれはアルミニウムの33倍,あらゆるプラスチックの合計の約6倍の鉄鋼を使っているのである」(終章より)。
そして著者は、新製鉄技術が高炉に取って代わることのハードルも高いと考えている。それは、技術とは、開発されるだけでは完成したことにはならず、経済的な大規模生産を実現しなければならないものだからである。
「いずれにせよ,たとえ成功裏に実証されたとしても,すべての新製鉄技術は,手ごわい目標に立ち向かい,実証実験からパイロットプラントへ,そして大規模生産へという決定的な移行を遂げねばならないだろう。現代的な高炉における熱的・化学的効率と,その大規模な作業量,高い生産性,すぐれた寿命の長さは,同様のパフォーマンスを示す大規模な還元技術を考案することを極めて困難にしているのである。」(同上)
著者は、鉄鋼技術の科学的研究や研究室での開発の歴史だけではなく、実際に社会で生産に用いられてきた歴史を踏まえてこのように述べている。これが本書を重要な社会的意義を持つものにしている。
技術が市場とコストという経済的テストに合格しなければならないという命題は深刻である。経済的合理性を考慮しながら、地球温暖化防止のポイント・オブ・ノーリターンに間に合うように、鉄鋼技術を脱炭素化することは可能だろうか。これが読後に残される問題である。
出版社直販
https://www.sciencedirect.com/.../9780.../still-the-iron-age
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https://www.amazon.co.jp/Still-Iron-Age.../dp/B01B4KO21C
神戸製鋼所と三井物産は,オマーン国ドゥクム特別経済地区において直接還元鉄製造事業の本格的検討を加速すると発表した。生産能力は年間500万トン。神戸製鋼所の子会社であるMIDREX社の技術を用いる。このニュースは,日本鉄鋼業の将来を照らすものかもしれない。
日本の鉄鋼メーカーでは,企業再編の結果,かつての高炉6社は3社に統合されているが,日本製鉄とJFEスチールの規模が圧倒的に大きく,神戸製鋼所は生産量で両社に大きく引き離されている。
2022年暦年粗鋼生産量
日本製鉄 4946万トン(世界第4位)
JFEスチール 2685万トン(世界第13位)
神戸製鋼所 628万トン (世界上位50位ランク外)
※日本製鉄には山陽特殊鋼,オバコ,AM/NSインディアの40%,ウジミナスの31.4%を含む。
※日本製鉄,JFEスチールはWorld steel in figures, 2022より。神戸製鋼所は財務諸表より推定。
ところが,ここに来て,高炉技術を主要テクノロジーとする日本製鉄とJFEスチールに対して,子会社にMIDREXを持つ神戸製鋼所が,直接還元法による巻き返しを強めている。それは,CO2排出ゼロにまで到達し得るテクノロジー・パスに載っているからだ。
神戸製鋼所は日本国内では高炉一貫企業であるが,子会社として直接還元法のエンジニアリング企業であるMIDERX社を保有している。MIDREXプロセスによる直接還元鉄の製造は,鉄鉱石の還元に天然ガスを用いているため,高炉による銑鉄の製造よりもCO2排出を20-40%抑制できる。しかも,還元反応の一部は水素還元であり,この水素還元の割合を高めることで,設備の根幹部分を維持したままでCO2排出ゼロに向かっていくことが可能である。つまり直接還元法のテクノロジー・パスは,低炭素製鉄からニア・ゼロエミッション・スチールへと連続している。神戸製鋼所は,すでにスウェーデンの製鉄ベンチャーH2グリーンスチールから,水素100%をめざす直接還元設備を受注しており,さらにMIDREX社の水素100%を目指す直接還元設備もティッセンクルップ社に採用された。これらが計画通りに稼働すれば,ニア・ゼロエミッションスチールへの前進が加速する。
対して従来の主流技術である高炉技術は,鉄鉱石の還元に固体コークスを必要とするため,100%水素還元にすることはできない。つまり,ニア・ゼロエミッションに向けたテクノロジー・パスが直接還元法より低い水準で行きどまりになってしまう。そのため,日本製鉄やJFEスチールは,水素還元の適用拡大に加えてCCUS(CO2回収・貯留・活用)の開発を進めているが,いずれもまだ実用段階ではない。とりあえず,すでに利用可能な電炉法の適用を拡大しているところである。長らく技術的に最先端にいた日本の高炉企業は,次世代技術の必要性が明らかになるとともに,すでにその地位から滑り落ちつつあるのである。
このように先端的地位に躍り出た神戸製鋼所/MIDREXであるが,従来は,エンジニアリング企業としての取り組みのみを進めてきた。今回,神戸製鋼所が海外での直接還元鉄事業に乗り出すことは,鉄鋼メーカーとしてのニア・ゼロエミッションへの新たな一歩なのである。
ただし,新事業の立地がオマーンであって日本ではないことにも留意しなければならない。MIDERXプロセスは立地を選ぶ。さしあたり天然ガスが豊富な場所が有利であり,やがては再生可能エネルギー発電によってグリーン水素(製造過程で)を製造できる場所が有利になる。天然ガスにせよグリーン水素にせよ輸送費が高くつくからだ。そうすると,いまのところ天然ガスもなければ大規模再エネ発電所も少ない日本では不利である。だからオマーンなのである。
神戸製鋼所/MIDREXの挑戦が平たんな道を進むとは限らない。直接還元法は高炉法ほど成熟した技術ではなく,原燃料の性質による安定操業への制約が高炉法より強いと見られているからである。しかし,それでもこのニュースは未来を示唆している可能性がある。最大2社が従来技術に依拠したままであり,3位企業の方が次世代技術を実用化しつつあるという企業間競争の要因と,安価な水素供給のめどが立たねば次世代製鉄所の立地に不利であるという立地要因により,日本鉄鋼業は変貌を迫られつつあるのだ。
「神戸製鋼と三井物産、鉄鋼原料製造を検討 世界最大規模」『日本経済新聞』2023年4月10日。
『帰ってきたウルトラマン』における一つの謎は,郷秀樹とウルトラマン(いまではウルトラマンジャックと呼ばれる)の人格はどのような関係にあったのかということである。本稿は,この作品のメインライターであった上原正三が,この関係をどのように設定しようとしたのか,結果としてどのようにこの関係が変容したのかを検討する。これを通して,上原がどのような作品世界を構築しようとし,どのような矛盾に直面したか,そのことの意義は何なのかを考える。
まず先行する二つのウルトラマンシリーズから見てみよう。『ウルトラマン』の初代ウルトラマンとハヤタは人格的に融合していたと考えられる。ハヤタは普段は人間であるが,ときにウルトラマンとしてメフィラス星人と会話したり(第33話「禁じられた言葉」),「許してくれ,地球の平和のためにやむなくおまえたちと戦ったのだ」と亡き怪獣たちに語りかけることがあった(第34話「空の贈り物」)。また『ウルトラセブン』のモロボシ・ダンはセブンが薩摩次郎という地球人の姿と人格をコピーして変身した結果生まれた人物であった。なのでダンの姿かたちや性格は次郎のものなのだが,ダンは同時に,M78星雲から来たウルトラセブンとしてのアイデンティティを持ちながら地球で暮らしていた。ふだんからM87星雲人である度合いは,ハヤタよりずっと強かったと言える。では,ウルトラマン(ジャック)と郷秀樹の関係はどうだったのだろうか。
第1話「怪獣総進撃」(脚本:上原正三。以下,とくに記さない場合は上原脚本である)では,ウルトラマンが死んだ郷秀樹に語りかけ,彼に乗り移って命を与え,一体となる。この時点で郷は死亡しているので,ウルトラマンが「君に命を預ける」と郷に一方的に告げるだけだ。しかし第1話のラストシーンでは,ウルトラマンは郷と会話する。
「郷秀樹。私はウルトラマンだ。君は一度死んだ。そこで私の命を君に預けたのだ。」
「そうだったのか。一度死んだ人間が生き返るなんて,俺も不思議に思っていた。」
(中略)
「人類の自由と幸福を守るためにともに戦おう。」
「俺はウルトラマン。俺の使命は人類の自由と幸福を脅かす,あらゆる敵と戦う……。」
二人が直接会話するのは,私の知る限りこの一度きりである。
それでは,この後の郷秀樹は,ハヤタのようにウルトラマンと同一人格なのかというと,そうではない。郷秀樹は,以前と同じ,坂田健を恩人とし,坂田アキの恋人とする一人の青年である。彼は自分がウルトラマンに変身することを自覚しているが,ウルトラマン自身ではない。だからこそ,第2話「タッコング大逆襲」では,自分の意志で自由にウルトラマンになれるものと思い込み,それができずにMATの作戦を失敗させてしまう。そしてひとたびはMATを解雇されて,「俺は確かに思い上がっていた。ウルトラマンであることを誇らしく振り回そうとした。その前に,郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」と反省するのである。ここで彼の人格はウルトラマンでもないし,ウルトラマンと一体の郷秀樹でもない。人間・郷秀樹なのである。
命は預けられているが,まったく別人格。これは,ウルトラマンとハヤタ,ウルトラセブンとダンとは全く違う関係である。これは,プロデューサーの橋本洋二との打ち合わせを経たメインライターの上原正三によって,意識的に設定された構図だろう。私は,上原がこの設定により,人間は人間として限界まで努力しなければならない,ウルトラマンは,人間が力尽きた時にだけ助けに来てくれるという思想を表現しようとしたのだと思う。それは,『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」の脚本において,金城哲夫が示したものでもあった。
もっとも,この思想は,演出上は第1,2話では徹底していない。両作では,郷がピンチに陥ると光が差し込むが,郷はその光に向き直って両手を上げることで変身する。つまり,郷はハヤタやダンのような変身アイテムは持っていないものの,自分の意志で変身できたのである。しかし,第3話以降,しばらくの間は,郷が生命の危機に陥った時に光が差し,無意識のうちにウルトラマンになるのである。設定がより徹底され,ウルトラマンは,人間としての郷の意志によらず,彼が力尽きた時にだけ光とともに現れるものになったのである。
ところが,シリーズが進行するにつれて,この設定は動揺する。郷秀樹が,自分の意志でウルトラマンに変身できるようになっていくのである。当初は敵に向かって全力疾走することが多く,結果としてこのパターンがシリーズを通して最多になった(※1)。これは危険に陥っているのと似たようなものだと解釈できないでもなかったが,第20話「怪獣は宇宙の流れ星」(脚本:石堂淑朗)では,郷は初めて,危険に瀕してもいないのに片手を上げて変身する。そして,その後もこのような自分の意志による変身が増えていくのである。ただ,それでも上原正三脚本の回では片手を上げて変身ということは一度もなく,しばらくはせいぜい敵に向かって全力疾走であった。ここからは,上原が極限状態で変身するという設定を守りたかったのだと理解してよいように思う。
その上原も,第37話「ウルトラマン夕日に死す」では,郷が自らビルから飛び降りて変身するシーンを書く。極限状態ではあるが,郷が怪獣・宇宙人と相対してもいないのに,自分の意志で変身するのである。それだけではない。そして,この第37話では,恩人の坂田健と恋人のアキを殺された郷の復讐心と動揺が,そのままウルトラマンの弱さと敗北につながっていく。人間としての郷が,そのままウルトラマンとなっているふしがある。
これと並行して,第31話「悪魔と天使の間に……」(脚本:市川森一)や第49話「宇宙戦士その名はMAT」(脚本:伊上勝)のように,郷が同時にウルトラマンとして振る舞い,ウルトラマンを名乗って宇宙人と相対することも多くなっていく。上原はこの構図も避けていたように見えるのだが,とうとう最終回(第51話)「ウルトラ5つの誓い」では,上原も郷とウルトラマンをほぼ一体とものとして描くのである。
最終回の郷は,ウルトラマンのようでもあり,郷秀樹のようでもある。東亜スタジアムに呼び出された郷秀樹に,バット星人は「良く来たなウルトラマン!」と呼びかけ,郷はそれを否定することもなく「バット星人」と答える。そして,上原脚本ではただ一度,片手を上げて変身しようとするが,ウルトラマン(ジャック)ではなく,初代ウルトラマンの「焦ってはいけない,郷秀樹」という声に止められるのである。この郷は半ばウルトラマンである。
それでも郷は,不時着したマットアロー1号を駆り,燃料不足で10分しか飛べないにもかかわらずゼットンと戦う。そして,ついに撃墜されてウルトラマンになる。そこでは,確かに人間としてぎりぎりまで戦う郷である。
しかし,バット星人とゼットンを倒した後のラストシーンではまた異なる。郷は死んだものとしてMAT隊員によって弔われるが,墓標の前にたたずむ次郎とルミ子の前に郷が現れる。彼は「旅に出るんです」「平和なふるさとを戦争に巻き込もうとしている奴がいる。だから手助けに行くんだ」と,ウルトラマンの立場から二人に別れを告げる。人間・郷秀樹には故郷があって母親も健在だと第1話で語られているので,これは明らかに郷の姿をしたウルトラマンの言葉なのだ。そして,郷は,浜辺で第1・2話のように両手を上げて自ら変身し,ウルトラマンとして飛び去っていくのである。こうして郷という存在は地上からいなくなる。ウルトラマンと郷は一体のものとして,次郎とルミ子の目の前から去ったのである。
このように,シリーズの進行ともに,ウルトラマンと郷秀樹の関係は,別人格から,郷秀樹であって同時にウルトラマンでもあるという,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係に変貌していき,そのことは変身の仕方の変化に集中的に表現されていたのである。
なぜ,このような変化が起きたのか。もちろん,当時はシリーズ構成を詰めずに製作しているので,矛盾が起こることはしばしばであったろう。しかし,それだけのことではないと,私は思う。当初の設定に潜んでいた問題が次第に現れて行ったものと理解できるのである。
郷秀樹が,人間として最後まで力を尽くすのであれば,彼は自分がウルトラマンであることを忘れて人間として行動せねばならない。しかし,いざというときにウルトラマンになれるということを意識せず,計算せずに戦うことは,不可能で不合理である。逆に,郷が自らの意志でウルトラマンになれるのだとすれば,死ぬ寸前まで郷のまま戦うことの方が不合理であり,そんなことをしていれば怪獣や宇宙人による被害を広げることになってしまう。上原はこのジレンマに直面したのだと思われる。
他の脚本家は割り切って,郷に平然と片手を上げさせた。しかし,限界まで人間として力を尽くさねばならないことを郷に課した上原には,それはできないこと,したくないことであった。だから郷に片手を上げさせなかった。しかし,死ぬ寸前まで絶対変身しないというのでは話が不自然になる。仕方がないので,上原は郷を敵に向かって全力疾走差せたのだと思われる。そうすることで,その変身が自由意思によるものなのか極限状態でもたらされるものなのかをあいまいにせざるを得なかったのだ。
それでも,他の脚本家が郷の自由意思による変身を描いている以上,上原もそちらに合わせていかざるを得ない。そのために必要とされたのが,郷とウルトラマンを人格的に融合させることであった。人として成長し,おごり高ぶることがなくなった郷が,まず人間として戦い,必要な時にウルトラマンに変身する。郷がすなわちウルトラマンであれば,それは人間としての努力を怠ることではなくなる。こうして,郷とウルトラマン(ジャック)は,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係になったのである。しかし,そうすることによって,ウルトラマンが地球を去る時には,本来は別人格であったはずの郷秀樹も,ウルトラマンと一体になったが故にいなくなることとなった(※2)。
ここでは,シリーズ冒頭で郷に課された「郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」という問題には答えは出ていない。むしろ,ウルトラマンと郷の一体化によって,有限な人間・郷秀樹がいなくなり,課題自体が消去されてしまったのである。
これは,ある意味では上原の挫折と言えるが,それは『帰ってきたウルトラマン』が凡作だということを意味しない。上原は,人間・郷秀樹を誠実に描こうとしたが故に,ウルトラマンシリーズにおいて,変身する人間とウルトラマンの関係がもつ根本的な問題を探り当ててしまったのである。それは,人間として全力を尽くすことと,自分の意志で人間の限界を超えた力を得られることは両立しないという矛盾である。人間が人間の限界を背負ったままで,同時に超越者になることはできない。逆に,人間の力を超えた存在は,自分自身でありながら,同時に限界を負った人間にはなれないのである。上原は,作品世界を誠実に構築しようとしたが故に,作品世界そのものの矛盾に突き当たり,そうすることで,現実の人間が抱える矛盾を明らかにしたのである。そして,ウルトラマンシリーズとは,これらの矛盾をめぐる,様々な角度からの,様々な物語なのだと,私には思えるのである。そこに完璧な解決はあり得ない。どの物語も途上に終わらざるを得ないのであって,その途上の在り方から傑作が生まれるのである。
※1 このことの確認には,以下の動画が参考になった。
「人間として全力を尽くす郷秀樹まとめ」REXISMRレクシズマー(2023年4月8日最終確認)
https://www.youtube.com/watch?v=wB4xsT8JAu4
※2 同様に,初代ウルトラマンは,ゾフィーに頼んでハヤタの命を救ったものの,ハヤタは,竜が森湖での赤い玉との衝突より後の記憶は持っていなかった。ハヤタはウルトラマンではなくなったのである。ウルトラセブンが地球を去る時には,その変身体であるモロボシ・ダンももちろんいなくなった。北斗星司は人間の罪という,人間のままでは解決不能な問題に突き当たり,自分を消し去ることによってウルトラマンAにならざるを得なかった。逆にウルトラマンタロウはウルトラのバッジを捨て,ウルトラマンレオは獅子の瞳を指から外し,いずれも限界を持つ一人の人間として地球で生きることにしたのである。
※2023年4月8日。注の不整合を訂正し,注1を追加。
浜田宏一教授インタビュー。いろいろ考えるべきことはあるが,いまさら浜田教授ご自身を批判してもあまり生産的ではない。ここでは,アベノミクスはトリクルダウン狙いではなかったという主張に批判的にコメントするとともに,その一方,賃金を抑圧したのはアベノミクスではなかったことにも注意を促し,アベノミクス批判派に対しても問題提起したい。
アベノミクスがトリクルダウン政策であったかどうかを考える時に,二つの次元から評価すべきことに注意が必要である。
1.アベノミクスとは株高・円安誘導策であった
一つは,安倍首相・黒田日銀の合作としての量的・質的金融緩和策は,国内需要より先に輸出と株価を回復させることを狙ったものだったということである。
量的・質的金融緩和の効果として,日銀が公に想定していたのは,物価上昇の予想が高まることによって実質利子率が低下し,投資が活発になることであった。しかし,それはゆっくりと,わずかに,2014年の消費税増税でくじかれるまで起こったに過ぎなかった。それは当時の岩田規久男副総裁も認めていることである(岩田, 2018)。その代わりに,2012年末からの半年で直ちに大規模に起こったことは,円安と株高であった。円安と株高によって,輸出企業と,株式投資に手を出せる機関投資家,大企業,富裕な個人投資家は利益を得たのである。政治家や官僚は「近隣窮乏化政策」の批判を恐れて円安狙いを公言しなかったが,そう期待していたことは明らかである。またアベノミクスのブレーンの中でも高橋洋一氏は金融緩和が円安・株高を呼ぶのだと論文で説明していた(高橋,2014)。
まず輸出企業と株式投資家が儲かる。そこから先はその後だ。アベノミクスがこのようなものであったことはまちがいない。
2.内需拡大策は,うまくいったとしても企業利益優先策であった
次に,日銀が説明したような内需の拡大に関する問題である。物価上昇予想によって実質利子率が低下し,投資が活発になるというのも,ある意味ではトリクルダウンである。というのは,まず物価が上がるならば,名目賃金は一緒でも実質賃金率は低下するのであり,だからこそ企業利潤率は上昇して投資が盛んになるからである。いわゆる「賃金遅れ」が景気回復に寄与するという理屈である。これはアベノミクスで考え出された巧妙な陰謀ではなく,むしろマクロ経済学が教える通りなのである。政権が「トリクルダウン狙いです」とわざわざいうわけにもいかなかったであろうことはわかるが,「トリクルダウンではない」というのは正直ではなかったというべきだろう。
だからアベノミクスが,輸出と金融的利益を景気回復の先導者としようとしたことや,賃金より先に企業利益の回復を目指していたことは間違いないのである。
3.賃金を抑圧したのはアベノミクスではなく日本的雇用慣行と企業内労使関係であった
ただし,アベノミクス批判者も,安倍氏憎しの余り行き過てはならないことがある。それは,アベノミクスが積極的に賃金を抑圧したわけではなかったということである。むしろ安倍元首相個人は,あまりに賃金が上がらないことに不安を抱き,経済界に賃上げを促した。その流れはいまの岸田首相にまで継承されている。それでも賃金が上がらなかったのは,アベノミクスではなく,日本的労働慣行と企業内労使関係に問題がある。アベノミクスは,賃金を下げたのではなく,賃金が上がらない日本の労働慣行と労使関係を放置した,というのが正確である。
まず,アベノミクス期においては雇用は増加し続けた。しかし,労働者に占める非正規雇用の割合は,それまでと同様に拡大し続けた。また業種別・職種別に見れば医療・介護職をはじめとするサービス業の,相対的に低賃金の職が増えたのである。こうして,日本的雇用慣行に組織され,ジェンダーバイアス付き生活給を曲がりなりにも支給される労働者の割合が減っていった。
また,民間大企業の正規労働者や公務セクターの賃上げも微々たるものであった。それは,バブル崩壊以来,「とにかくコスト切りつめのため賃金を上げない」ことに大企業経営者が血道を上げており,また大企業の企業内労働組合が,企業グループ内の継続雇用(つまり中高年になったら関連会社に出向することを含めた継続雇用)さえ守られればよいとばかり,賃金については経営側の言うことに唯々諾々と従う姿勢を取ってきたからである。
これらのことは安倍元首相やアベノミクス故に起こったのではなく,戦後築かれて来た日本的雇用慣行と日本的企業内労使関係の逆機能が発現した結果なのである。
4.まとめ
アベノミクスを「トリクルダウンでない」と擁護することは,金融機関と大企業の利益を優先したその性格を糊塗するものであり,強い言葉で言えば反労働者的である。その一方,賃金低迷をアベノミクスのせいにすることもまた,日本的労働慣行と企業内労使関係を改革する必要性を見落とすものである。アベノミクス批判者は,安倍氏憎しの余り大企業経営者を免罪し,政治変革を求めるあまり労働運動を再生する必要性を看過するという,本末転倒の見地に陥らないように注意する必要がある。
<参考文献>
岩田規久男(2018)『日銀日記:五年間のデフレとの闘い』筑摩書房。
高橋洋一(2014)「現在の金融緩和に危険はない」(原田泰・斎藤誠編著『徹底分析アベノミクス』中央経済社)。
「賃金上がらず予想外」アベノミクス指南役・浜田宏一氏証言 トリクルダウン起こせず…「望ましくない方向」『東京新聞』2023年3月14日。
昨年,編集に携わった『産業学会研究年報』第37号がJ-Stageで公開されました。紙媒体発行から1年後に無償公開されることになっています。以下でご覧になれます。ただいま第38号を初校ゲラ校正中です。
第37号トップhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/sisj/2022/0/_contents/-char/ja
奥山 雅之, 日本繊維産地の構造変化と主体的行為, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 1-19,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.1
岩佐 和幸, グローバル化/ファスト化に翻弄される繊維産地と域内縫製業の苦闘, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 21-39, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.21
細矢 浩志, CASE時代の欧州自動車産業の「脱炭素」戦略, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 41-59, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.41
外川 健一, 2020年コロナ禍での日欧自動車リサイクル制度改革の論点, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 61-77,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.61
佐伯 靖雄, 地理的分断克服に向けたトヨタ・グループでの委託開発の取り組み, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 79-91, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.79
垣谷 幸介, オーラル・ヒストリー手法によるトヨタ自動車と天津汽車の国産乗用車合弁事業の経緯, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 93-115,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.93
山崎 文徳, ボーイングの技術競争力と連邦政府の認証制度, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 117-132, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.117
銀 迪, 中国の鉄鋼産業政策, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 133-153,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.133
竹下 伸一, 日系塗料2社の住宅・建築用海外事業の比較研究, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 155-171, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.155
原田 優花子, 小竹 暢隆, 金属3Dプリンタビジネスの現状と課題, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 173-181, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.173
三好 純矢, 近藤 信一, デザイン経営に向けた感性を起点としたマッチング, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 183-195, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.183
大平 哲男, 市場構造の変化を踏まえた事業展開のあり方について, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 197-209, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.197
書評, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 211-222, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.211
英文要約, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 223-234, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.223
講義でマクロ経済におけるY=C+I(所得=消費+投資),Y=C+S(所得=消費+貯蓄),よってI=S(投資=貯蓄)の恒等式を説明する。私のマクロ経済学理解では,これは「投資が同額の貯蓄を生み出す」と理解すべきであり,そのように話すのだが,学生が感覚レベルで納得しない。日常感覚では「貯蓄を原資にとして投資が行われる」と考えるから当然であろう。そこで,以下のような単純な例解を説明に使おうと思っている。ある社会で設備投資が行われる際に,どのように所得が発生し,消費と貯蓄に分解するかを確認するのである。
*前提
・設備投資に対応した生産財の生産は行われ,その際には原材料としての生産財が用いられるものとする。
・個人企業を想定し,企業所得は労働者の賃金と資本家の利潤に分解するものとする。
・労働者や資本家が消費すれば消費財が在庫から販売され,消費財の在庫が減少するものとする。
・生産財や消費財の在庫減を補充する生産は行われないものとする。つまり,波及効果は考慮しない。
設例として,乗数の即時的理解を説明する際に伊東光晴氏が用いて来たものを援用する(宮崎・伊東,1974;伊東,1993)。ただし,典型的な投資を考えるために事例は宮崎・伊東が用いているダム建設ではなく設備投資とする。
いま機械設備への投資額を1兆円としよう。そのために機械工業によって生産される機械生産額も1兆円である。こうして追加的生産能力を形成した新生産手段ストックの貨幣価値が「投資」であるが,社会的には「投資」は1兆円ではない。
まず,機械が生産された際に,5000億円の部品や原材料の在庫が消費されるとしよう。このとき,部品や原材料の在庫5000億円分が用いられる。機械の付加価値は5000億円である。うち,機械工業に雇われた労働者たちが賃金として総額4000億円を得るものとする。そして労働者の消費性向は0.8であって3200億円を消費に充てる。このとき,消費財の在庫3200億円が取り崩される。800億円が労働者家計の貯蓄として残る。一方,資本家は利潤1000億円を得る。資本家の消費性向は0.1とし,100億円を消費に充てる。この時,消費財の在庫100億円が取り崩される。900億円が資本家家計の貯蓄として残る。
さて,社会的な純投資額は,機械への設備投資から生産財・消費財の在庫減(マイナスの在庫投資)を引いたものであり,
I=1兆-5000億-3200億-100億=1700億円
である。他方,社会的な貯蓄額は労働者家計と資本家家計の貯蓄を合計したものであって
S=800億+900億=1700億
ともいえるが,所得から消費を差し引いたものであるから,
S=5000億-3200億-100億=1700億円
ともいえる。いずれにせよ,投資と貯蓄は等しい。そして,明らかにこの期の投資の結果としてこの期の貯蓄が生まれたのである(※1)。
定性的に言うと,投資額をモノに即して見れば,生産された機械の付加価値から,減少した消費財在庫の価値を差し引いたものである。他方,貯蓄を貨幣に即して見れば,貨幣所得から消費支出を差し引いたものである。しかし,生産された機械の付加価値とそれによって生まれた貨幣所得は当然等しく,また減少した消費財在庫価値と消費支出は等しい。よって,生産手段ストックの新規増加額としての投資と,貨幣所得の支出されなかった残余としての貯蓄は等しいのである(※2)。
これで,「Iが同額のSを生み出す」という因果関係は,感覚的に受け入れやすいように説明できた。では,日常感覚の「SがIの原資になる」という考えは間違いなのだろうか。
実は「SがIの原資になる」というのは,ここで説明した投資から出発する例解とは別の因果関係を見ているのである。この例解を一社会のモデルだとすると(=他の社会は存在しないとすると),投資が行われるためには,前の期の生産の結果として部品・原材料と消費財の在庫が物として存在していなければならない。また正貨しか流通していないのであれば,前の期の活動の結果として,投資する貨幣を設備投資しようとする資本家が持っていなければならない。在庫が足りないか,貨幣が足りなければ,投資規模が制約されるのは当然である。「SがIの原資になり得る」というのは,この意味で正しいのである。
ただし,そこで「I=S」は保証されていない。貯蓄から出発した場合は,それが全額投資に支出されるとは限らない(※3)。他方,投資から出発した説明では「I=S」が100%保証されているのである。
このように考えると,「Iが同額のSを生み出す」は資本主義社会で常に妥当するのに対して,「SがIの原資になる」というのは,貨幣と財がともに不足している発展途上の経済に当てはまると言えそうである。まず貨幣形態の貯蓄と現物形態の富のストックを準備しないと生産が拡大できないという問題が深刻な経済である。もちろん現実の経済は多数の社会が貿易・投資で結びついているので,発展途上国が対外借り入れや直接投資受け入れによってこの不足を補うことも行なわれている。
しかし,経済が発達すると,貨幣形態での貯蓄不足は投資の障壁にならなくなる。金融システムが安定すれば,銀行による信用創造で貨幣が前貸しされるからである。また財の不足も問題にならなくなり,むしろ発達した生産能力がフル稼働せずに遊休したり,生産したものが売れ残る方が問題になってくる。こうして「Iが同額のSを生み出す」関係のみが残るのである。
※1 ちなみに所得の総額(Y)は5000億円,社会的には限界消費性向は0.66,限界貯蓄性向は0.34である。さらに念のため言うと,乗数は限界貯蓄性向の逆数であるから,1/0.34=2.941176である。投資に乗数をかけると1700億×1/0.34=5000億で所得総額となる。つまり乗数理論も即時的に成り立っている。
※2 マルクス派の枠組みで考えるとわかりやすくなるところもある。この設例の前提を,労働者は賃金を全額消費し,資本家は利潤を一切消費しないという風に調整すればよい。そうすると,貯蓄が利潤に等しいことがわかる。Iとは生産手段ストックの増加額であるから,生産された機械の価値から原材料と賃金の価値を差し引いたものであり,つまり機械に体化された価値のうちの利潤相当部分である。Sとは機械工業部門の資本家が得た利潤である。したがって,両者は等しいことがすぐにわかるだろう。資本主義とは,「サープラスが利潤という形態をとる社会である」(都留重人)。社会的余剰はこの場合,ストックの純増分にあらわれており,その大きさは利潤に等しい。このことの応用として,資本家と労働者がともに消費し,貯蓄もする世界を理解すればよい。現代の資本主義は,サープラスが貯蓄という形態を取るのである。
※3 それが利子率によってどの程度調整されるかは,新古典派とケインズ派で意見が分かれる。ケインズ派に立てば,投資の期待利潤率と利子率の関係によって投資が決まる。しかし,期待利潤率は不確実なものであり,利子率も貨幣に対する資産選好と流動性選好という不確実性を伴う需要によって左右される。利子率の上下が投資の増減に単純には直結しないのである。
参考
宮崎義一・伊東光晴(1974)『コメンタール ケインズ一般理論』第3版,日本評論社。
伊東光晴(1993)『ケインズ』講談社学術文庫。
3月18日に,李捷生氏の大阪公立大学退官記念講演会にzoom参加した。
私は大阪市立大学経済研究所において,氏の前任者であった。自分が転出することになった1997年のある日,後任をどうしたらいいだろうと,同僚の植田浩史氏(現・慶應義塾大学)と話し合ったときのことを覚えている。数分間,二人で考えた後,たぶん私の方からだと思うが,「李さんをお呼びすれば」と気がつき,そうだ,それがいいと早速準備に入ってもらった。ついこの間のことのようだが,もう25年も前の話だ。当時李氏は,松崎義編『中国の電子・鉄鋼産業』法政大学出版局,1996年に寄せた首都鋼鉄に関する論文で高い評判を得ていた。
李氏の着任後,経済研究所はなくなって,氏は創造都市研究科に移られ(2018年度より経営学研究科),社会人大学院を担当されることになった。経済研究所は研究に専念できる場であったため,改組によって先生に過大なご苦労をかけることになったかと思ったこともある。しかし,講演会に参加して,実におおぜいの大学院修了者が各方面で活躍していることを知り,李氏が偉大な仕事をされたことが理解できた。
記念講演は,「労働研究38年 -方法としての日本-」という題目で,李氏の研究の問題意識と理論的背景が語られた。
まず,氏がご自身の中国での経験を背景として,マルクス派宇野理論の「労働力商品化の無理」規定を解釈し,「労働供給は組織コミットメントを通して初めて達成される」という観点で労働調査を行ってこられたことが理解できた。氏の経験からすれば,おそらくそれは「資本主義であれ,社会主義であれ」そうなのだということだ。氏が博士論文・単著において首都鋼鉄における従業員代表者大会によるガバナンスに注目されたのは,中国の国有企業においても,企業の運命は,労働者が組織にコミットする在り方によって左右されると考えられていたからであろう。
また,李氏の調査の問題設定が,氏原正治郎氏の問題意識を継承したものであることも理解できた。日本企業は生活給的な年功賃金を正規労働者に支給している。熟練や成果に応じた賃金でないのであれば,いったいどうやって労働者のコミットメントを確保しているのか。また職務の曖昧さゆえに労働が「不定量」になる時に,企業はどうやって必要な「量」を確保するのか。それは,一方においては年功的なものを含みつつ様々な展開を遂げる賃金管理によって,他方において生産管理によって確保するということである。この二つが李氏の調査・研究領域となったのである。
李氏は,詳細な実態調査において右に出る者のない研究者であるが,同時にその研究は,日本のマルクス派や労働問題研究の問題意識や着眼点を受け継ぎ,これを発展させるものでもあった。まさに「方法としての日本」であり,「故きを温ねて新しきを知る」である。
1970-80年代中国において育まれた氏の鋭い問題意識が,日本の学問の中から自らの方法となり得るものをつかみ取ることを可能にした。私は,日本において積み重ねられてきた学問的伝統を自分がどう扱っているのかを自問せざるを得ない。理論が古くなったから役に立たないのではなく,単に私が漫然と生きているから,先人の蓄積から見つけられるものを見つけられていないのではないだろうか。いや,よく記憶をたどると,氏に初めて会った時からそう思い知らされていたのである。
岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年。一体,何が起こったのかと思った,まさかの復刊。旧青土社版(1983年)を買ってはいないが,渡辺寛氏との問答の記述が記憶に残っているから,たぶんちらちら見たことはあるのだろう。岡崎次郎と言えば,私の世代(1964年生まれ)にとっては国民文庫や『マルクス・エンゲルス全集』の『資本論』,岩波文庫版『金融資本論』など,マルクスやマルクス主義文献の翻訳者である。本書はその生涯を振り返って自ら書き記したものである。
その生涯は,私には,ああ,こういう人もきっと昔のマルクス主義者にはいたよなあ,そんな名残は私の先生たちにもあったよなあ,と読めるものであるが,今の若者が読むとぎょっとするのかもしれない。極端に言えば遊民,やや穏やかに言って浮世離れしたところがあり,もっと穏やかに言って超マイペースな人生だからである。マルクスの翻訳だけでこんなにお金が入ったことも(大月書店からの『マルエン全集』と『資本論』各版の印税1億5000万円!=今の貨幣価値で2億6650万円),また当人が暴力革命以外ありえないだろうという思想を持っているのに,本書では社会に対する理想や思いよりお金や大学の人間模様や翻訳業務をめぐるドタバタに頁を費やしているのも,私の世代では,まだ「あるある」と思うが,今の若者には理解しがたく,もしかすると不快に思うかもしれない。とくに,著者は本書刊行後間もなく,奥方とともに旅立ち,消息を絶ったことで知られているだけに,初見の読者が本書をマルクスに殉じた歩みを記したもの,と考えて手に取ると,「何だこりゃ」となるおそれがある。
しかし,本書はそういうものではないのである。では,どういうものか。資本主義社会で生きる以上,マルクスに携わる研究者も大学教員も翻訳家も,運動家さえも,原稿料や印税や給与や講演料を得てくらしていかねばならず,それなりに「商売」感覚を持たざるを得ない(持たない場合,すぐに野垂れ死ぬか,あるいは家族に多大な負担をかける)。これは,岡崎氏が,自らの生涯のうち,当時のマルクス業界の「商売」に関する部分を中心に記述した本だと思えばよいのである(そういう記述をした本として,他に野々村一雄『学者商売』がある)。そして,その「商売」感覚が,昔と今とでは相当に異なっているのだ。マイペースにお金を稼げるマルクス業界は,もうどこにもないからである。
そんなわけで,本書はもはや一つの歴史であるが,どうしても,時代を超えて,いまこうす「べきだ」と言いたくところがひとつだけある。それは,岩波版『資本論』の翻訳について,向坂逸郎と岩波書店が岡崎氏にとった態度についてである。文庫版第2分冊以降をほとんど岡崎氏に訳させ,共訳とするはずの約束を「下訳」扱いして自分の単独訳とし,印税だけ折半するなどという行為が,なぜまかり通ったのか。マルクス業界にも,なぜこのような親分・子分関係が存在したのか。もちろん,このことも本書の他の内容とともに歴史として扱うべきかもしれない。しかし,岩波書店は,この出来事をなかったかのように扱い,『資本論』を向坂の単独訳として,今なお販売し続けているのである。それは,現在の問題として改めるべきであろうと,私は思う。
アメリカのシリコンバレーバンク(SVB)が経営破綻し,連邦預金保険公社(FDIC)の管理下に置かれることになった。総資産は2090億ドルであり,2008年以来の大型銀行破綻である(※1)。
SVBは,スタートアップの成長を見込み,貸し出しを拡大しようとして預金を盛んに集めていたようである。13 日まで判明している限り,少なくとも一部の顧客との契約では,他の金融機関と取引しないことを条件としていた(※2)。ところが預金を集めたはいいが,貸し出し先を見つけられず,資金を不動産担保債券(MBS)で運用していたところ,金利上昇で債券価格が下落した(※3)。同時に,金利上昇で顧客のスタートアップも資金が潤沢でなくなり,預金を引き出す動きが出る。SVBは流動性を確保しなければならなくなった。MBSの含み損の表面化を避けるために短期国債を売却したが,やはり売却損が表面化。これを埋め合わせようと増資を発表したが,このニュースが株価暴落,預金の取り付けを招き,破綻に至ったとのことである。
預金保険は,本来1口座あたり25万ドルまでしか保護しない。しかし,財務省・FRB・FDICは12日に,同行および同じく破綻したシグネチャーバンクの預金を,本来の預金保険の上限を超えて全額保護するとの内容を含む共同声明を発表した(※4)。信用不安が拡大するのを防ぐためであろう。考えられる限り最も素早い措置であるが,うまくいくという保証はない。
この出来事は,かねてから予想されていたアメリカ金融政策のジレンマを現出させたと言える(※5)。連邦準備制度理事会(FRB)はインフレーション退治のために,不況になることも厭わず金利を引き上げる姿勢を示してきた。FRBが望んでいたのは,実物セクターの需要減,失業率の上昇,賃金上昇の停止である。しかし,それが実現しないうちにSVBが破綻し,金融セクターへの不安が広まっている。金融セクターでの破綻の連鎖が起これば,金融システムが崩壊し,FRBが最も望まない状態が現出することになる。しかし,本来実物セクターと金融セクターは密接に連携しており,不況を実物セクターのみにとどめるのは容易ではない。FRBは,金利を引き上げれば信用不安が高まり,引き上げを止めればインフレが続くというジレンマに直面している。
さらに,IMF等によって指摘されているように(※6),金利引き上げは新興国が抱えるドル建て債務を重くしている。信用不安が国際的に連鎖すれば新興国に打撃を与え,その損失がまた,新興国に投資する先進国に打ち戻されることになりかねない。預金全額保護措置が当面は功を奏するかもしれないが,世界的な金融危機に対する警戒は,むしろ高めねばならないだろう。
※3 アメリカで資産運用会社を経営するTak(qRealtyPnw)さんのTweet,20223月10-11日。
※4 Joint Statement by the Department of the Treasury, Federal Reserve, and FDIC, March 12, 2023.
※5 「金融危機のリスクと政策的ジレンマに直面する世界経済」Ka-Bataブログ,2022年10月20日。
大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。 本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...