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2025年4月23日水曜日

なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保とうとするのか:管理通貨制における最終決済手段としての中央銀行マネー

 トランプ大統領はFRBの独立性などお構いなしに金利引き下げを要求し,議長の解任の可能性にまで言及している。景気が冷えそうなのは自らのでたらめな高関税のせいなのに,責任転嫁も甚だしい。絶対自分が悪いとは認めたくないのだろう。

 ところで,中央銀行にはなぜ独立性が必要とされるのだろうか。よく知られているのは,通貨価値の安定を保つ必要があるという理由だ。これは正しい。しかし,なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保たねばならないのだろう。また,なぜ保とうとするのだろうか。

 それは管理通貨制のもとでは,中央銀行が発行する貨幣(中央銀行マネー)が通貨システム全体を支える最終決済手段だからである。以下,やや複雑だが説明しよう。

 現代経済では,多くの支払いが異なる銀行の間で発生する。銀行間の支払い決済は,現金輸送車で札束を運ぶ例外的な事態を除き,中央銀行当座預金を使用して行われる。中央銀行当座預金がなければ口座振替は同一銀行内でしか行われなくなり,経済はマヒする。したがい,中央銀行当座預金が通貨価値を毀損されないことは決定的に重要である。

 またすべての現金は,銀行預金を預金者が引き出すことによって現金流通界に供給される。銀行はこの引き出しに耐えるために,中央銀行券を手元に持っていなければならない。この中央銀行は,銀行が準備預金(中央銀行当座預金)を引き出すことによって銀行の手元にわたる。では中央銀行当座預金はどこから来るかというと,中央銀行が民間銀行に信用を供与することによって設定される(融資される場合もあるが,現在では中央銀行が民間銀行から国債を買い入れるオペレーションによって供給される割合が高い)。ここでも根源は中央銀行当座預金であるから,その通貨価値が損なわれないことは決定的に重要である。

 銀行間システムでは中央銀行当座預金が最終支払い手段である。現金流通界では,中央銀行券が最終支払い手段である。しかし,その通貨価値は金属貨幣と異なり内在的な価値に基づいていない。これらはいずれも信用貨幣であり,中央銀行債務であるから,その価値を支えるのは返済能力である。中央銀行は債務返済を迫られないのだろうか。銀行は,中央銀行に要求して,中央銀行券を中央銀行預金に換えることや,その逆はできる。しかし,「そんなものじゃだめだ。管理通貨制など信用できない。金か実物資産で払え」と中央銀行に迫ることはないのだろうか。

 実は,通貨価値さえ安定していれば,こうした要求を中央銀行に突きつける銀行はない。なぜならば,銀行は,中央銀行当座預金で他の銀行から,あるいは中央銀行券で経済界の誰かから,価値の安定した資産を買えばよいからである。こうして,最終支払い手段が中央銀行の信用貨幣であって金でなくても不都合はなく,通貨システムは回っていく。中央銀行は,準備資産を持たなくてすら成り立つのである。

 しかし,悪性インフレや物価の乱高下によって通貨価値が毀損されれば別である。中央銀行券が紙くずに準じた扱いとなり,中央銀行当座預金が意味のない電子信号に準じた扱いになれば,通貨システムは崩壊するだろう。中央銀行は,何か価値の認められる別の資産を持ち出して支払いに応じないと,倒産の憂き目を見るかもしれない。

 このように,中央銀行が発行する当座預金と銀行券が最終決済手段であるためには,悪性インフレや物価の乱高下が起こらないことが必須条件である。したがい,中央銀行は,通貨価値を安定させる強力な動機を持つのである。


(専門的補足)
 厳密に言うと通貨価値の低下には,1)金生産費の低下など正貨の内在的価値の低下,2)正貨に対する代表価値の低下,3)商品に対する購買力の低下,の三つの意味がある。1)は管理通貨制ではほぼ意味をなさない。2)が損なわれるのは財政赤字によって代用貨幣が一方的に増加する場合だけである。3)はその場合に加えて,景気過熱によって物価が一時的,実質的に上昇する場合にも生じる。なので,FRBが金利引き下げに慎重だというのは,3)を防ごうとしているからだと言っていい。国債買い入れに慎重になるとすれば,それは2)を警戒するからである。


(詳細こちら)
川端望「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」https://doi.org/10.50974/0002003359

2025年4月21日月曜日

改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない

「現場の知恵」で作業標準を無視した作業方法を勝手に実行したら大問題になるという記事が,『日経XTECH』に掲載されていた。2ページ目以後有料記事で失礼。

 当たり前のようだが,実は重要な含意を持っている。

 適切な改善方法は,もちろん,正式の提案による作業標準の書き換えである。そのためには,もちろん正規の手続きを踏み,作業員の意見を汲んで(名称は企業によりさまざまだが)職長が提案し,その上位の会議体が承認していなければならない。これまでトヨタを筆頭とする日本企業が行ってきた,生産現場での改善活動も,もちろんこのようなものである。

 だからどうしたと人は言うだろうが,この話の含意は「改善活動は,時間外の小集団活動を主力とするのでもないし,管理職や職長抜きに現場だけでやるものでもない」ということである。

 QCサークルなど,正規業務以外に,労働時間外に「自主的に」行うものが主力なのではない(もっとも,いまではさすがに労基法逃れではないかと突っ込まれるので,正規の時間とみなしている会社も多い)。そうではなく,正規の仕事の中に改善活動があるのである。

 また「現場労働者の知恵」や「現場の作業員の知的熟練」だけを取り出してほめたたえるのも,現場に寄り添っているようでいて,実は間違いだということである。なぜならば,改善活動は,「職長とその上位の管理階層が」正規の改善手続きを回していくことによって成り立っているからである。この記事が指摘するように,現場で勝手に作業方法を変えたのを職長とその上位の管理職が把握できないというのは論外である。逆に,管理職と職長は状況を把握してはいるが,組織が硬直化してしまい,「改善活動など面倒だし評価されないからやらない」という態度になってもだめである。時にその両方が生じることもある。これは工場に限ったことではないので,オフィスのことで覚えのある方もいるだろう。

 「正規の仕事の一部として,作業員の意をくみながら,正規の改善手順を,管理階層と職長が懸命に回す。具体的には相当な頻度で作業標準を書き換える」。これが改善活動である。現場の創意工夫を受け止めて改善することと,組織の決められたルールを守ることを両方実行すれば,手間暇は恐ろしく増える。それでもやるところに難しさがあり,意義もあるのである。

 その前提として,こうした改善に,少なくとも正社員の工場労働者は参加してくれるような労使関係がある。そのような労使関係が珍しく,多くの国では容易に実現できなかったから,ひところ,日本の改善活動には秘密があるように思われたのである。

 なお,生産革新を目指すにあたり,こうした改善活動ではどうにもならないことが,この25年くらいは増えているのではないかという問題は,もちろん別に存在する。

古谷賢一「作業標準を無視した「現場の知恵」が全数回収を招いた企業」『日経XTECH』2025年4月11日。



2025年4月11日金曜日

安孫子麟著作集全2巻『日本地主制の構造と展開』『日本地主制と近代村落』(八朔社,2024年)を読んで

 全然本が読めない状況であるが,何とか安孫子麟著作集全2巻(八朔社,2024年)を読了した。安孫子説をどう受け止めるかは,いずれ落ち着いて考えてみたい。ここでは第1巻と第2巻の違いについて覚書を記しておくにとどめる。

 第1巻『日本地主制の構造と展開』に収録されている論文が示すように,安孫子説は,実態分析により地主制を人格的支配関係を含むとする点で講座派の流れを汲む。山田盛太郎『日本資本主義分析』に対しても肯定的言及の方が多い。しかし,安孫子説は固定的な半封建制論や絶対主義論を採らず,地主制を日本資本主義のウクラードとして位置付ける。資本主義発展に規定され,また農民運動との対抗の中で地主制が成立・展開・解体の変遷を遂げるという点では,栗原百寿の流れを汲む修正講座派である。ここでは講座派の硬直的な在り方に対して,資本主義のダイナミックな展開が強調されている。

 同時に,第2巻『日本地主制と近代村落』に収録されている論文が示すように,安孫子説は小経営的生産様式論と中村吉治の共同体論に依拠した村落社会論という側面を持つ。小経営はそれだけで完結することができす,何らかの共同組織,共同関係を必要とする。その最たるものは土地管理機能の必要性である。しかし,この共同組織は,よく言われるような,人類史の起源から続く共同体と等しいのではない。共同体は血縁規範に支えられた人格的結合であって,生産力の発展とどもに次第に機能別に広域に拡散していき,近代社会では基本的に解体される。近代の村落は共同体的関係を部分的に残しているが共同体そのものではなく,血縁規範以外のまとまりによっても支えられる独自の秩序である。安孫子氏はそれは明治期にあっては「部落」であったとする。ところが部落の土地管理機能は次第に地主による土地管理にとってかわられ,さらにファシズム的な国家管理によって再編される。そして戦後の農地改革を経て新たな村落にとってかわられるのである。ここでは資本主義や商品経済や私的所有権に解消されない,村落における独自の社会関係が強調されているのである。

 安孫子説は,経済史研究や農業・農村の研究にとってのみ有意義なのではない。この説によって,戦前日本が敗戦まで半封建制や絶対主義のままであったかのような講座派の硬直的なバージョンが退けられると同時に,日本は資本主義であることを強調するあまり独自の社会関係を見落とす労農派的見地の硬直的バージョンも退けられる。それだけではない。読者の側が安孫子説を敷衍するならば,小経営の独自の運動を見落とす近代経済学の単純化されたバージョンや,小経営に個人の完全な自立を見出す空想的市民社会論も退けられる。と同時に,村落の共同関係に共同体を見出し,近代的個人を否定した人格的結合への回帰を夢見る時代錯誤も退けられるのである。安孫子説はこのような広大な射程を持つというのが,私の解釈である。




2025年4月3日木曜日

自由・無差別・多角の終わりとしてのトランプ関税

  日本メディアでは,トランプの差別的関税率が日本にとってどうなのかを重点的に取り上げている。確かに差別的関税率は特定の国の産業に打撃を与える効果はあるし,またそれでも可能なアメリカへの輸出については輸出国の変化や輸出品目の変化を促し,輸出国の相対的な地位を変動させる。その中でどのような相対位置を占めるかは,日本を含む各国にとって重要な問題だ。しかし,それが最大の問題なのではない。より深刻なのは,アメリカそのものを含む世界経済への打撃と,戦後世界の通商ルールの転換だ。

 トランプ関税は全般的高関税だ。自国産業を保護することで経済を活性化させるというのは,1930年のスムート・ホーリー法の思想だ。この大恐慌下での高関税はアメリカ経済を回復させなかったし,世界経済ブロック化の流れを強めた。

 トランプ関税は相互関税でもある。相互関税は「相手がやっていることをやり返す」という相互主義に基づいている。レーガン政権はこの手法で日本などを攻撃したが,アメリカの貿易赤字を縮小させることにはまったく役立たなかった(そもそも貿易赤字が悪いことで貿易黒字がよいことだというのは,外貨準備が枯渇する危険のある途上国には言えても,先進国では成り立たない決めつけだ)。

 そしてトランプ関税は差別的関税でもある。相手によって税率が異なることが,例外でなく原則になっているからだ。これは国際関係を悪化させ,敵愾心をあおるには適しているが,報復合戦を誘発することで世界経済を縮小のスパイラルに導く。

 これらを歴史的に見れば,トランプ関税は,世界大恐慌とブロック経済,そしてそれらが背景となった第二次世界大戦の教訓として戦後に確立された自由・無差別・多角という通商思想を否定するものだ。世界の通商体制は新たな局面に入りつつある。自由な貿易・投資が望ましいというイデオロギーが広範囲に共有されていたポスト冷戦期から,より分断された時代へと。


クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...