講義でマクロ経済におけるY=C+I(所得=消費+投資),Y=C+S(所得=消費+貯蓄),よってI=S(投資=貯蓄)の恒等式を説明する。私のマクロ経済学理解では,これは「投資が同額の貯蓄を生み出す」と理解すべきであり,そのように話すのだが,学生が感覚レベルで納得しない。日常感覚では「貯蓄を原資にとして投資が行われる」と考えるから当然であろう。そこで,以下のような単純な例解を説明に使おうと思っている。ある社会で設備投資が行われる際に,どのように所得が発生し,消費と貯蓄に分解するかを確認するのである。
*前提
・設備投資に対応した生産財の生産は行われ,その際には原材料としての生産財が用いられるものとする。
・個人企業を想定し,企業所得は労働者の賃金と資本家の利潤に分解するものとする。
・労働者や資本家が消費すれば消費財が在庫から販売され,消費財の在庫が減少するものとする。
・生産財や消費財の在庫減を補充する生産は行われないものとする。つまり,波及効果は考慮しない。
設例として,乗数の即時的理解を説明する際に伊東光晴氏が用いて来たものを援用する(宮崎・伊東,1974;伊東,1993)。ただし,典型的な投資を考えるために事例は宮崎・伊東が用いているダム建設ではなく設備投資とする。
いま機械設備への投資額を1兆円としよう。そのために機械工業によって生産される機械生産額も1兆円である。こうして追加的生産能力を形成した新生産手段ストックの貨幣価値が「投資」であるが,社会的には「投資」は1兆円ではない。
まず,機械が生産された際に,5000億円の部品や原材料の在庫が消費されるとしよう。このとき,部品や原材料の在庫5000億円分が用いられる。機械の付加価値は5000億円である。うち,機械工業に雇われた労働者たちが賃金として総額4000億円を得るものとする。そして労働者の消費性向は0.8であって3200億円を消費に充てる。このとき,消費財の在庫3200億円が取り崩される。800億円が労働者家計の貯蓄として残る。一方,資本家は利潤1000億円を得る。資本家の消費性向は0.1とし,100億円を消費に充てる。この時,消費財の在庫100億円が取り崩される。900億円が資本家家計の貯蓄として残る。
さて,社会的な純投資額は,機械への設備投資から生産財・消費財の在庫減(マイナスの在庫投資)を引いたものであり,
I=1兆-5000億-3200億-100億=1700億円
である。他方,社会的な貯蓄額は労働者家計と資本家家計の貯蓄を合計したものであって
S=800億+900億=1700億
ともいえるが,所得から消費を差し引いたものであるから,
S=5000億-3200億-100億=1700億円
ともいえる。いずれにせよ,投資と貯蓄は等しい。そして,明らかにこの期の投資の結果としてこの期の貯蓄が生まれたのである(※1)。
定性的に言うと,投資額をモノに即して見れば,生産された機械の付加価値から,減少した消費財在庫の価値を差し引いたものである。他方,貯蓄を貨幣に即して見れば,貨幣所得から消費支出を差し引いたものである。しかし,生産された機械の付加価値とそれによって生まれた貨幣所得は当然等しく,また減少した消費財在庫価値と消費支出は等しい。よって,生産手段ストックの新規増加額としての投資と,貨幣所得の支出されなかった残余としての貯蓄は等しいのである(※2)。
これで,「Iが同額のSを生み出す」という因果関係は,感覚的に受け入れやすいように説明できた。では,日常感覚の「SがIの原資になる」という考えは間違いなのだろうか。
実は「SがIの原資になる」というのは,ここで説明した投資から出発する例解とは別の因果関係を見ているのである。この例解を一社会のモデルだとすると(=他の社会は存在しないとすると),投資が行われるためには,前の期の生産の結果として部品・原材料と消費財の在庫が物として存在していなければならない。また正貨しか流通していないのであれば,前の期の活動の結果として,投資する貨幣を設備投資しようとする資本家が持っていなければならない。在庫が足りないか,貨幣が足りなければ,投資規模が制約されるのは当然である。「SがIの原資になり得る」というのは,この意味で正しいのである。
ただし,そこで「I=S」は保証されていない。貯蓄から出発した場合は,それが全額投資に支出されるとは限らない(※3)。他方,投資から出発した説明では「I=S」が100%保証されているのである。
このように考えると,「Iが同額のSを生み出す」は資本主義社会で常に妥当するのに対して,「SがIの原資になる」というのは,貨幣と財がともに不足している発展途上の経済に当てはまると言えそうである。まず貨幣形態の貯蓄と現物形態の富のストックを準備しないと生産が拡大できないという問題が深刻な経済である。もちろん現実の経済は多数の社会が貿易・投資で結びついているので,発展途上国が対外借り入れや直接投資受け入れによってこの不足を補うことも行なわれている。
しかし,経済が発達すると,貨幣形態での貯蓄不足は投資の障壁にならなくなる。金融システムが安定すれば,銀行による信用創造で貨幣が前貸しされるからである。また財の不足も問題にならなくなり,むしろ発達した生産能力がフル稼働せずに遊休したり,生産したものが売れ残る方が問題になってくる。こうして「Iが同額のSを生み出す」関係のみが残るのである。
※1 ちなみに所得の総額(Y)は5000億円,社会的には限界消費性向は0.66,限界貯蓄性向は0.34である。さらに念のため言うと,乗数は限界貯蓄性向の逆数であるから,1/0.34=2.941176である。投資に乗数をかけると1700億×1/0.34=5000億で所得総額となる。つまり乗数理論も即時的に成り立っている。
※2 マルクス派の枠組みで考えるとわかりやすくなるところもある。この設例の前提を,労働者は賃金を全額消費し,資本家は利潤を一切消費しないという風に調整すればよい。そうすると,貯蓄が利潤に等しいことがわかる。Iとは生産手段ストックの増加額であるから,生産された機械の価値から原材料と賃金の価値を差し引いたものであり,つまり機械に体化された価値のうちの利潤相当部分である。Sとは機械工業部門の資本家が得た利潤である。したがって,両者は等しいことがすぐにわかるだろう。資本主義とは,「サープラスが利潤という形態をとる社会である」(都留重人)。社会的余剰はこの場合,ストックの純増分にあらわれており,その大きさは利潤に等しい。このことの応用として,資本家と労働者がともに消費し,貯蓄もする世界を理解すればよい。現代の資本主義は,サープラスが貯蓄という形態を取るのである。
※3 それが利子率によってどの程度調整されるかは,新古典派とケインズ派で意見が分かれる。ケインズ派に立てば,投資の期待利潤率と利子率の関係によって投資が決まる。しかし,期待利潤率は不確実なものであり,利子率も貨幣に対する資産選好と流動性選好という不確実性を伴う需要によって左右される。利子率の上下が投資の増減に単純には直結しないのである。
参考
宮崎義一・伊東光晴(1974)『コメンタール ケインズ一般理論』第3版,日本評論社。
伊東光晴(1993)『ケインズ』講談社学術文庫。