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2024年12月30日月曜日

Carliss Y. Baldwin, Design Rules, Vol. 2: How Technology Shapes Organizations, The MIT Press, 2024(カーリス・Y・ボールドウィン『デザイン・ルール 第2巻 技術はどのように組織を作り上げるか』)の破壊力

 ついにCarliss Y. Baldwin, Design Rules, Vol. 2: How Technology Shapes OrganizationsがThe MIT Pressより発売された。冊子体が日本に届くまで1か月かかるので,私はKindle版を購入した。SSRNとResearchgateに公開されているDP版は結論だけが欠けていて25章あるのだが,完成版は結論を含めて17章だ。出版事情に応じて圧縮したのかもしれない。

 第1巻はボールドウィン教授とクラーク教授の共著として2000年に出版され,日本でも『デザイン・ルール:モジュール化パワー』として2004年に翻訳された。第1巻はビジネスを変革するモジュール化の意義を理論化したが,事例研究がIBM360で終わっていたことにより,影響力は今一つであるように思える。しかし,ゼミでDP版を22章まで読んだ者として言うが,第2巻の破壊力は第1巻の比ではない。まず,デザインとアーキテクチャの理論を経済学の根源にまで突き詰めて展開している。例えば経済活動の究極の分析単位は「タスクと移動」であり,しかる後に「取引」があるのだという。これは取引費用理論批判であり,著者の社会科学がモノや情報の代謝の過程と経済的過程の双方を見据えていることを示している。また,著者はチャンドラー的な近代大企業における相互依存的ステッププロセスの統合型(インテグラル型)管理の歴史的意義を十分強調する。その上で,デジタル技術の出現が,それに適合したプラットフォームエコシステムによるプラットフォームとモジュラー・オプションのセットと言う,新たな組織を生み出したことを論じている。事例研究はMackintoshとIBM PCにWINTEL,iPhoneにGoogleとAndroidプラットフォーム,ムーアの法則とのその限界,半導体産業におけるファブレス・ファウンドリモデルとその変容に及んでいる。

 現代のビジネスをを論じる上での必読文献となることは間違いなかろう。

Carliss Y. Baldwin, Design Rules, Vol. 2: How Technology Shapes Organizations, The MIT Press, 2024 (Amazon.co.jpのページ)
https://www.amazon.co.jp/Design-Rules-Technology-Organizations-English-ebook/dp/B0CYYYDN4B

2024年12月14日土曜日

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。

 本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱字が目立つし,引用されている山川均や向坂逸郎の著書・論文の書誌情報が落ちていたりする。著者の主張も,若き日の新左翼活動家としての経験の反省に立っているとはいえ,固まった見地から山川や向坂を裁断するようなところがある。ただし,その分だけ読み進めやすく,わかりやすいので,非専門家でも苦労なく読める。

 山川と向坂についてまとまった評伝を読んだことがなく,また向坂の著書は読んだことはあっても山川のそれにまったく不案内である私にとっては,本書は有意義であった。

 山川論と向坂論を一書に収録した本書の中心的メッセージは,「向坂は山川イズムの継承者ではない。山川と向坂の思想と運動は大きく異なる」ということであるように思う。評者なりに強引に要約すると,思想においては,山川はそれぞれの社会において異なる社会主義の運動や体制の在り方を創造的に模索した。一方,向坂はマルクス・レーニンの教えを金科玉条とし,さらにソ連の体制を賛美し,硬直したマルクス・レーニン主義を臆面もなく唱道し続けた。実践運動においては,山川は共同戦線党など創造的な提唱を行ったが,実践における指導力・推進力は強力ではなく,現実の政治過程では挫折の連続であった。一方,向坂はエネルギッシュであり組織化に優れており,限られた時期とはいえ社会党の運動を左右する社会主義協会をけん引した。

 著者はこのように山川と向坂を鮮やかに対比しているが,両者に対して中立なわけではない。著者は「向坂・社会主義協会を含めて,虚妄のソ連『社会主義』像を鼓吹して民衆を誤導したマルクス主義的社会主義諸勢力の罪過は測り知れない」(220頁)とする一方で,「山川のマルクス主義的社会主義の思想・運動は,様々の方面において未来形である」(121頁)とする。未来は向坂の道ではなく,山川の道にあるという主張である。

 著者の評価する山川イズムの内容は,社会民主主義でなくマルクス主義を堅持する一方で,コミンテルンや共産党の「上意下達関係の思想・運動スタイル」(112頁)とは一線を画し,旧ソ連の体制を「国家資本主義」と批判的にとらえるとともにその外交政策にも侵略性を認めるなど冷静な評価をし,「社会主義への道は一つではない」として平和的民主主義革命を主張したことである。山川のソ連批判を知らず,山川と向坂をなんとなく連続において捉えていた私には,これらの指摘は実に新鮮であった。

 他方,著者の山川イズム評価には,未解決の困難が残されているように思われる。それは社会主義政党の組織の在り方である。著者によれば,山川は前衛政党の必要性を否定しなかった。山川なりに日本の現実に即した党の在り方として戦前は共同戦線党を主張したが,戦後はむしろ社会党から独立してでも社会主義新党を創設しようとした。だが,共産党の組織的あり方を否定した上でマルクス主義政党を作るのであれば,その組織原理はどうなるのだろうか。おそらくレーニン的民主集中制ではないだろう。しかし,それならばどうなるのかが,本書によっても明らかではない。山川ら同人たちによる属人的指導ではないのか,という疑問がぬぐえなくなる。社会主義協会への個人的指導という側面においては,向坂は山川イズムを継承したのではないのかと思えてくる。これはかつて,日本共産党の立場から山川と福本和夫の著作を詳細に検討した関幸夫が指摘したことである(関幸夫『山川イズムと福本イズム』新日本出版社,1992年)。とはいえ,それでは日本共産党の民主集中制によって問題が解決し,党組織が拡大しているのかと言えば,今日の現実は厳しい答えを突き付けている。

 少しばかり敷衍する。2024年の日本において社会主義政党を自覚するのは共産党と,社会主義協会の一部を継承した新社会党だけであり,その勢力は強いとは言えない。いささか枠を拡大し,資本主義への批判度が高い政党をあげるならば社会民主党とれいわ新撰組であろう。それらの組織はどのようになっているのか。新社会党については情報が少なすぎて観察しにくいが,社会民主党とれいわ新撰組については,日本共産党よりも構成員の活動や発言の自由度が高いことはわかる。しかし,その分だけ,組織としての活動が属人的リーダーシップに依存していることも見て取れる。とくにれいわ新撰組はそうであろう。共産党の民主集中制では解決できない問題があるとすれば,それは属人的リーダーシップで解決するのだろうか。共産党に変化の余地はあるのだろうか。ラディカルな資本主義批判政党に,民主集中制以外のどのような組織がありうるのだろうか。あるいは政党に関心を集中する発想を変える必要があるのか。この問題に対して山川イズムは未来形なのか過去形なのか。ないものねだりであるかもしれないが,山川イズムの未解決問題の一つは,本書によってもまだ投げ出されたままであると,私には思える。しかし,そのように思わせてくれることもまた,本書の意義の一つである。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。
https://www.shahyo.com/?p=13978




2024年11月25日月曜日

財政赤字に伴う国債発行をどのように把握するか:「二層の銀行・政府」モデルの提示

 1.切り口としての「財政赤字と金利上昇圧力」

 先に「財政赤字に伴う国債発行はクラウディング・アウト効果を持つか」,より原理的には「財政赤字に伴う国債発行は金利上昇圧力を発生させるか」という問題についての拙論を修正することを表明し,ブログにも掲載した(※1)。これは実は,金融・財政システムの双方を「通貨供給システム」と把握しようとする研究構想の基本部分とかかわっている。この研究構想は,通説・通念とも現代貨幣理論(MMT)とも異なる通貨供給システム論を提示しようとするものである。

 問題を明瞭にする切り口として,財政赤字と国債発行のオペレーションが金融市場に与える影響を通説・通念,現代貨幣理論(MMT),拙論について対比すると以下のようになる。なお,ここでは追加の貨幣供給はともあれ有効需要を生み出すと仮定しており,その有効性を左右するより財市場や労働市場の具体的な条件は考察の外に置いている。

 まず経済学の「通説・通念」において,国債発行とは,国が民間からお金を借りることである。財政赤字とは,借りたお金での支出である。この点だけを見れば,政府は国債発行により民間から資金を吸い上げ,財政支出によりまた民間に戻しているに過ぎない。それでも有効需要を増やせることがあるのは,民間の遊休資金を借り入れ,支出によって需要に転じる場合である。この時,金融市場は需要超過となって金利に上昇圧力がかかる。

 続いてMMTにおいては,財政赤字とは統合政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。預金貨幣が増えれば準備預金も同額だけ増え,超過準備が生まれる。統合政府は通貨発行権を持つので,国債発行による資金調達は本質的には必要ではない。国債発行が果たしているのは,新規に生まれた超過準備に対して運用先を提供することである。金融市場の需給は変動せず,金利に上昇圧力はかからない。

 最後に私見によれば,財政赤字とは中央政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。しかし信用貨幣を発行するのは中央銀行でなく政府であるため,政府はこの支出のために,国債を発行して中央銀行預金貨幣を調達しなければならない。政府は国債発行により,市中からは資金を吸収しないが,銀行の準備預金から中央銀行預金貨幣を吸収する。一方,財政支出により預金貨幣が追加供給されるので,連動して準備預金も増え,準備預金残高はプラスマイナスゼロに回復する。しかし,全体として預金残高が増えているため,準備預金所要額が増え,金利に上昇圧力がかかる。


2.三つの金融・財政システム論

 この三つの考え方の背後には,国債発行をめぐる経済主体とその関係,より立ち入っていえば金融・財政システムを通貨供給の観点から理論化する方法に関する違いがある。ここではその違いを説明するとともに,なぜ,どのように私見が妥当であるかを説明する。

 私見によれば,用いるべきは,信用で結ばれた「民間ー銀行ー中央銀行」と課税・支出で結ばれた「民間ー政府」が並立し,また政府も中央銀行に口座を持つことで両者が統合されるモデルである。これを仮に「二層の銀行・政府」モデルと名付ける(図)。




 貨幣の流通は二つの領域で行われている。一つは市中であり,商品の流通界である。ここを流通するのがマネーストック(預金貨幣+銀行手持ち以外の中央銀行券+補助硬貨)である。マネーストックは本質的に銀行信用か財政支出によって生み出される。もう一つの領域は銀行間システムである。ここを流通するのはマネタリーベースから市中に出回っている中央銀行券を差し引いたものである(中央銀行当座預金+銀行手持ち中央銀行券)である。銀行間システムにおける貨幣は,本質的に中央銀行信用か,財政支出によって生み出される。

 この「二層の銀行・政府」モデルを用いることによって,商品流通界を流通する貨幣と銀行間システムを流通する貨幣を区別することができる。それによって,政府が「銀行間システムから中央銀行預金貨幣を調達し,市中に(民間銀行の)預金貨幣を投じる」という仕組みが理解できるのである。

 このモデルは,実務上の事実をほぼそのまま写し取ったものであり,何ら奇異ではない。経済理論の立場からすると,より抽象化して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルを設定したくなるであろうが,こと財政赤字と国債発行を論じる際には,それが間違いなのである。拙論が強調したいのは,「二層の銀行・政府」モデルからさらに抽象化をしてはならないということである。

 通説・通念は「民間ー政府」というモデル設定を行っている。このモデルは例示するまでもないほど当たり前のように普及しているが,これこそが誤りの元なのである。「民間ー政府」モデルを用いる限り,国債発行は政府が民間資金を吸収するとしか理解しようがない。ところが,実際には国債発行は市中の通貨流通には関与せず,銀行間システムから通貨を吸収する。銀行間システムから吸収するということは,市中への影響は準備預金を介したものとなるということであり,また銀行信用で創造された預金貨幣でなく,中央銀行信用で創造された中央銀行預金貨幣の需給に影響を及ぼすということである。したがい,その調節はもっぱら中央銀行のタスクとなる。こうした関係が「民間―政府」モデルでは全く把握できない。

 そもそも「民間―政府」モデルでは,誰が通貨供給を行っているのかが不明瞭であり,したがい通貨供給を論じるのにはなじまない。一方では漠然と,政府が何もしなくとも貨幣が流通しているかのように想定されている。国債発行が民間資金を吸収するというのはこの想定があるからである。他方では漠然と,管理通貨制だから政府が貨幣を供給すると想定しているかのようでもある。しかし,それでは国債発行などする必要がないだろう。政府と中央銀行の関係をモデル内に取り入れていないから,このような理路不明なことが起こるのである。

 他方,MMTは,一次的接近として「二層の銀行・政府」モデルを採用しているところは妥当である。MMTが銀行のオペレーションについて通説を批判するのも妥当である。また政策論議でMMT論者が強調するように,財政赤字を追加の貨幣発行と見ることも正しい。

 ところがMMTは,ここにとどまらず中央銀行と中央政府とを「統合政府」という単一主体とみなした「民間―統合政府」モデルを本質として強調する。ここから事実との不整合が生じる。MMTは「統合政府は通貨発行権を持っているので,財政赤字を出す際に資金調達は必要ではない」と本質論を主張して,国債発行を資金調達ではないとする。しかし,これは詭弁であり,MMTが重視するはずのオペレーション上の事実に反する。国債発行は超過準備に運用先を与えているだけではなく,これを資金調達のために吸収しており,だからこそ一般的には準備預金不足・金利上昇を誘発するのである。準備預金が不足せず金利が上昇しないようにするためには,統合政府のもう一方の主体である中央銀行が中央政府に協力して金融を緩和しなければならない。現に,21世紀の先進諸国では景気対策と金融危機対策により中央銀行が緩和基調で金融政策を運用しており,銀行は常に超過準備を保有している状態なので,国債発行による金利上昇は起こりにくい。つまり,現状分析としてはMMTの主張通りになっていることは確かであり,この点を指摘したのはMMTの功績である。しかし,MMTがこの状態を,超過準備がない状態でも通じる一般論として主張するのは誤りなのである。

 MMTの「民間―統合政府」論は,実際には「統合政府は通貨発行権を持つ以上,資金調達は必要ない」という抽象命題を現実の中央政府に偏って適用している。中央銀行が政府に解消される存在であるかのようである。しかし,これはすでに説明したように,事実分析としてはオペレーション上の因果関係を無視した決めつけである。中央政府は,市中に対して預金貨幣を新規に投入できるが,預金貨幣は銀行債務であって政府債務ではない。だから,政府は債務を負わせた銀行に対して銀行間システムを用いて支払いをしなければならず,そのために中央銀行預金貨幣を必要とする。そして,これを自ら発行できない以上,国債発行によって調達せざるを得ないのである。このとき,中央銀行が中立的立場であれば金利に上昇圧力がかかる。それを防ぐためには,中央銀行による金融緩和という中央政府との協調政策が必要なのである。つまり,統合政府において中央政府と中央銀行は協調しなければならない。「民間ー統合政府」論の名のもとに,両者の関係をぞんざいに扱ってはならないのである(※2)。

3.まとめ

 財政赤字に伴う国債発行という事態を正確に把握するためには「二層の銀行・政府」モデルを用いなければならない。これを無理に抽象して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルとすることは,事実認識を誤らせる不合理な抽象である。そして,私見によれば「二層の銀行・政府」モデルを用いた分析によってこそ,財政赤字と国債発行を含む,通貨供給システムとしての金融・財政システムが記述できる。その詳細な展開は他日を期したい。

※1 「「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日。

※2 経済思想としてみれば,MMTのこの中央銀行を政府に解消するかのような把握は,貨幣発行は銀行信用や中央銀行信用に由来するのではなく徴税権に由来するのだという国定貨幣説に由来するのだと思われる。これは中央銀行に対する過小評価である。資本主義経済における貨幣発行は商品流通における価値尺度・交換手段・支払手段の必要性に由来する。しかし,実物としての貨幣の使用は,資本主義の発展にとって制約となる。金融システムとは貨幣流通に伴う諸問題を商業信用,銀行信用,中央銀行信用が解決することによって発展したものである。政府は通貨名の設定によってそれに関与する。通貨名は国家が制定するという点では国定貨幣説は正しい。しかし,政府が貨幣を自ら生み出しているわけのではなく,この点では国定貨幣説は誤りである。貨幣の発生は財政システムよりも金融システムに由来する。だから,中央銀行は政府に解消される存在ではなく,貨幣システムを安定させる使命を負った銀行として,中央政府から相対的に独自な役割を持っている。「中央銀行の政府からの独立性」が問題になることは根拠のあることなのである。以上の点は,財政赤字に伴う国債発行の理解という本稿の直接の課題と離れるため,問題提起にとどめる。詳しくは,川端(2024a,2024b)をご覧いただきたい。

<参照文献>

川端望(2024a)「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, 1-39, April.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/46337895/attachment_file.pdf

川端望(2024b)「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, 1-19, September.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170/attachment_file.pdf




2024年11月23日土曜日

「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件

  従来,私は赤字財政に伴う国債発行は,カネのクラウディング・アウト(金融市場ひっ迫による金利高騰)は起こさず,モノとヒトのクラウディング・アウト(財・サービス・人材の供給ひっ迫とインフレ)は起こすという見地を採ってきた。これは現代貨幣理論(MMT)と同じ見解である。しかし,「一般論としては,カネのクラウディングアウトはある程度起こる。ただし,通説が言うほどではない。また,超過準備が一定以上あるという条件の下では起こらない」と修正しなければならないように思う。

 通説は,「財政赤字は民間貯蓄を吸収するので,金利を高騰させる。財政支出によって通貨供給量が増えるとしても,貯蓄が吸収されるためにプラマイゼロになってしまう。財政支出は需要を増やすが,貯蓄の吸収は民間の投資・消費をクラウド・アウトして,需要を減少させる」と考えるものである。対して,MMTは「財政赤字は民間貯蓄を吸収しない。国債は市中を流通する通貨ではなく準備預金(中央銀行当座預金)によって購入されるからだ。その際,準備預金は減るものの,国債発行額と同額の赤字支出が行われると預金貨幣が増え,同額の準備預金が増える。通貨流通量は一方的に増えるし,需要を拡大する。準備預金はプラスマイナスゼロなので金利は上昇しない。なので,クラウディング・アウトは起こらない」と主張している。

 中央銀行ー銀行の二重システムのオペレーションを踏まえている点では,MMTの方が現実に近い。しかし,このオペレーションによって金利が上昇しないということは,一般論としては問題をはらむ。

 なぜか。まず理論的考察のために,銀行が準備預金を,金融市場の状態に適応して過不足なく持っている状態を考えよう。成熟した資本主義国では預金準備率は規制されていないので,必要な預金準備率は銀行の経営判断として,預金の種類や金融市場の状態に応じ,幅を持って設定されている。しかし,一定の率で設定されると仮定することは許されるだろう。ここで,国債発行前の準備預金が,銀行セクター全体として,預金支払準備金として過不足ない水準で確保されるような準備率を必要準備率と想定する。また必要額を超えて保有される準備預金を超過準備と呼ぶ。

 さて,銀行が必要準備率だけ準備預金を持っている状態で政府が赤字支出のために国債を発行したとする。MMTが説明する上記のオペレーションにより,銀行預金は増加して,準備預金(中央銀行当座預金)はプラマイゼロとなる。しかし,この時,プラマイゼロの準備預金は,国債発行前よりも大きな額の預金と対応しているので,銀行セクター全体として「銀行預金増加額×必要準備率」だけ準備預金不足になる。この時,中央銀行が介入しなければ,インターバンク市場での金利上昇が起こり,and/or銀行セクター全体として貸出しの縮小が生じる。これを補うべく,インターバンク市場での中央銀行預金貨幣の流通速度上昇,市中の遊休貨幣を動員しての預金の増額が生じるかもしれない。

 このように,準備預金額がプラマイゼロでも,預金額そのものが増えているので,準備預金不足の分だけ金利が上昇するか,銀行貸し出しが減少するか,またはその両方が置き,民間の投資・消費を抑制するクラウディング・アウト効果が生じるのである。

 ただし,その程度には幅がある。もし,銀行が必要準備率の回復のためにもっぱら貸出しを減少させると,国債発行額=預金増加額と同額だけ貸出額が減らなければならない。通貨供給量は国債発行前と同じになってしまう。この場合は,クラウディング・アウトがもっとも激しく生じるだろう。しかし,短期金利の上昇によるインターバンク市場の効率化(中央銀行預金通貨流通速度の拡大),市中での遊休資金動員による預金増加が起こるならば,クラウディング・アウト効果は小さくて済むだろう。預金増加は国債発行額ほどでなくても済み,通貨供給量は国債発行前より増加するからである。つまり,通説が抽象的にイメージしているような,金融市場において国債発行額と同額の資金を市中から引き抜くようなことは,極端な場合,つまり超過準備がない状況下で,準備預金所要額の回復がもっぱら貸出し減によって実現する場合にのみ生じるのである。

 さて,超過準備が存在するという条件を加えると話は変わってくる。現実の先進諸国の銀行セクターは,基本的には金融市場の発展により,また特殊には経済の成熟に対応して中央銀行が金融緩和基調をとらざるを得ないことにより,さらに特殊には金融危機のリスクに備えて流動性の供給を多目にすることにより,超過準備を確保している。この場合,国債発行前後で準備預金所要額が「預金増加額×必要準備率」だけ増加しても,超過準備が多少減少するだけで,金利への影響はほとんどない。かてて加えて,これもまた現実の先進諸国で起こっているように,中央銀行が政府と協調し,国債発行時に金利を低め誘導したり,銀行が購入した国債を事後に買い上げて金融緩和を行えば,金利上昇が抑えられる。

 まとめるとこうなる。一般論としては,国債発行はカネのクラウディング・アウト効果を持つ。ただし,通説が想定するように国債発行額と同額の民間貯蓄を吸収する,ということによってではない。国債発行額と同額の銀行預金増分に必要とされる準備預金が追加で必要とされる,ということによってである。したがい,クラウディング・アウト効果も通説が想定するほど大きくはない。そして,超過準備の存在によってクラウディング・アウト効果は緩和され,超過準備の拡大とともにほとんどなくなる。また,中央銀行が国債発行時に金融緩和を行えば,やはりクラウディング・アウト効果はなくなる。


 MMTの主張については,次のように言える。1)財政赤字が通貨供給量を増やすことについては正しい。2)「クラウディング・アウト効果はない」という主張は,一般論として主張するのは誤っている。3)この主張は,超過準備が一定以上存在する下では妥当する。3)また,この主張は,中央銀行が政府と協調して金利を低め誘導するという条件下でも妥当する。


関連過去記事

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。

「財政赤字は貨幣を追加で生み出すのか,それとも国債消化と相殺されるのか:米山隆一氏の山本太郎氏への批判によせて」Ka-Bataブログ,2024年2月15日。

2024年11月8日金曜日

ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。

 会田弘継氏が『破綻するアメリカ』岩波書店,2017年から『それでもなぜ,トランプは支持されるのか』東洋経済新報社,2024年まで訴えてこられたことを私なりにまとめるならば,トランプ台頭の客観的背景はアメリカにおける資産・所得の絶望的な格差拡大であり,格差の下方に追いやられた人々が民主党に絶望したことであった。そこに対して,長年,財政均衡,金融引き締め派であった共和党を,財政拡張・金融緩和論に逆転させ,またMake America Great Againで豊かな白人中間層再建を最優先とする政策を,種々の差別,マッチョイズム,反エリート主義のイデオロギーに乗せたトランプとその取り巻きが,主体的に働きかけたのである。

 経済政策と党派という角度から単純化して言えば,経済的地位が転落した人々,とくに白人男性が民主党でなく共和党につき,共和党が財政・金融緊縮派から拡張派に転換したことが,トランプ台頭時代の特徴である。

 そこまでは分かる。謎なのはバーナムである。会田氏の上記二著や論文「ジェームズ・バーナム思想とトランプ現象」『アメリカ研究』52,アメリカ学会,2018年5月によれば,バーナム『経営者革命』(原書1941年,武山泰雄訳,東洋経済新報社,1965年)の予言が,エリート支配の文脈で保守的政治思想の世界で復権させられたのだとという。一体,どういうことか。

 身もふたもない言い方ができる可能性はある。エリート支配,階級分裂,貧富の格差を右から批判する潮流が,自分たちには使いようがないマルクス主義や左派思想の代わりに,バーナムを利用したのかもしれない。

 しかし,結論を急がないようにしよう。経済・経営学者としては,バーナムのそのような活用が妥当なのか,そこに落とし穴や見落としはないのかということを理論的に考えていきたい。

 第一に,バーナムの経営者革命論は経営者というよりテクノクラートによるエリート支配をペシミスティックに予言したが,その後発展した経営学の経営者革命論はどちらかと言えばホワイトカラー主導の安定した社会をオプティミスティックに描いたということである。バーナムは,資本主義でも社会主義でもなく,管理能力を基礎にしたエリート支配が到来すると予言した。元トロツキストらしい着眼点とも言える。しかし,経営学の世界では,経営者革命論は,高生産性と高所得,ホワイトカラー職務の拡大・多様化と,それによる安定的雇用とキャリア形成を保証するものと受け取られた。それが経営史の強力なパラダイムとなったアルフレッド・D・チャンドラー Jr.『経営者の時代』(原書1977年,鳥羽欽一郎・小林袈裟治訳,東洋経済新報社,1979年)の「見える手」の理論である。チャンドラーはバーナムを自身の理論形成のヒントとしたことを明言している。またジョン・ケネス・ガルブレイス『新しい産業国家』(原著1967年,都留重人監訳,河出書房,1968年)は,社会に対しては批評的姿勢を崩さなかったものの,大企業については技術発展を体現するものとしたし,その具体的担い手としてテクノクラートとそれが形成する構造としてのテクノストラクチュアの生産性を高く評価した。ホワイトカラーの世界の経営者革命論は,ブルーカラーの世界のフォーディズムとともに,20世紀アメリカ資本主義の繁栄を描写する思想・理論となったのである。現代の保守派は,バーナム理論の構造に即した活用よりも,価値判断だけの引用に走っていないだろうか。

 第二に,バーナムにせよチャンドラーにせよガルブレイスにせよ,経営者革命論であって産業資本家論や株主支配論や金融資本主義論ではなかった。しかしアメリカの現実は経営者革命,つまりテクノクラート支配という一面だけを持っているのではない。それはむしろ1970年代の話であり,以後は株主反革命,株式ファイナンスによるハイテク産業創出,金融市場の肥大化の時代とされている。一方においてITプラットフォームを利用した大企業支配があり,株式保有を通した少数のハイテク資本家支配が復権している。他方において,金融資産を保有すればするほどさらに蓄積できる,金融機関と金融資産家の世界が存在する。トマ・ピケティ『21世紀の資本』(原著2013年,山形浩生ほか訳,みすず書房,2014年)が明らかにしたように,アメリカの資産保有者は,確かに専門家として高額の労働所得も得ているが,異常に高額の経営者報酬をも得ており,これは偽装された資本所得と言ってよい。そして労働所得を上回る資本所得を得ており,その多くはキャピタル・ゲインなのである。現代のエリート支配はテクノクラート支配であると同時に株主産業資本家支配であり,また金融資産家支配でもある。保守派はバーナムを利用することで,株主資本主義と金融資本主義による格差から人々の目をそらしてはいないだろうか。エリートを批判するのに不動産資本家トランプがボスであって,ハイテク資本家イーロン・マスクが味方でよいのだろうか。

 これらは漠然とした問題提起に過ぎない。30年以上前に読んだきりのバーナム『経営者革命』を書棚から出した。今後,テキストに即して確かめていく必要がある。トランプの背後でバーナムが政治思想として復権した今,その理論を経済・経営学の見地から再検討することも意味があるだろう。




2024年11月3日日曜日

『少年忍者部隊月光』における戦争

  私はまもなく60歳で,特撮ドラマと言えば『ウルトラマン』『ウルトラセブン』を再放送で,『帰ってきたウルトラマン』や『仮面ライダー』をオリジナル放映で見た世代です。現代ではほぼ老人会に属しますが,それでも,『忍者部隊月光』(1964-66年放映)は伝説的存在でした。いまでこそ『月光』をYouTubeで見かけることもありますが,私の若い頃にはインターネットがないだけでなく,ビデオデッキも選ばれたエリートしか持っておらず,昔のモノクロ特撮テレビドラマを見る機会はほとんどなかったからです。

 『忍者部隊月光』を初めて見たのは,80年代にテレビ埼玉で再放送していたのを録画されたビデオを,SF研の部長が取り寄せて見せてくれた時でした。ただ,CMで「君は埼玉のどんなところが好き?」とインタビュアーが聞くと子どもが「クルマが少ないところー!」と『翔んで埼玉』みたいな応答をしていたので,本当に80年代の再放送だったのかと不思議に思っています。

 ある時,『忍者部隊月光』の原作は,かのタツノコプロダクションの創設者である吉田竜夫先生の漫画『少年忍者部隊月光』であり,そこでは設定が違うと聞いて驚きました。テレビの『忍者部隊月光』の舞台は現代で,伊賀流・甲賀流忍者の末裔によって編成された忍者部隊が,「あけぼの機関」のもと,世界の平和のために戦うという設定です。しかし,原作の『少年忍者部隊月光』の時代は太平洋戦争中であり,少年忍者部隊は山本五十六連合艦隊司令長官直属の秘密部隊だったというではありませんか。

 以後,原作を読む機会がないままに,私はずっと気になっていたことがありました。

「このマンガの結末はどうなるのか?」

ということです。太平洋戦争を日本側で戦っているという設定である以上,戦いに勝ってハッピーエンドとなりようがないからです。

 数年前に『少年忍者部隊月光』復刻版全4巻のうち,1巻と4巻を比較的安価に入手することができて,ようやく謎が解けました。これからご覧になるかもいらっしゃるかもしれないので詳細は明かしませんが,最初は威勢よく珊瑚海海戦に参戦して空母レキシントン撃沈に貢献などしていた少年忍者部隊は,やがて,たたかってもたたかっても,戦争を終わらせることも,犠牲をなくすこともできない現実に直面していくのです。空想とはいえ,山本五十六連合艦隊司令長官との会話には重いものがあります(画像2)。敵のウラン研究所を爆破しても問題は解決しないことを知り(画像3),敵の新兵器の威力を理解せず,若い命を戦場に平然と投入する軍の司令たちに絶望する(画像4)。そしてついに巨大なキノコ雲が……(この絵は,ぜひ実物でご覧ください)。

 私の偏った読みでない証拠として,画像も少しだけ貼りました(論評のために許される範囲の引用と判断します)。ここで私は特定の思想を主張したいのではなく,活劇の中に戦争の過酷さを描き,少年忍者部隊の苦闘を描き切った吉田竜夫先生に心より敬意を表したいのです。

画像1 吉田竜夫『少年忍者部隊月光〔完全版〕』第4巻,マンガショップ,2006年。

画像2 同上書,105頁。

画像3。同上書,235頁。

画像4。同上書,250頁。














2024年10月12日土曜日

幸福への道か,底なし沼か:中国製の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVが超絶ハイクオリティという話

 中国の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVがすごいという話。2019年からマンガとしてネット配信されていた作品がアニメ化されたという局面らしい。一瞬,日本のアニメかと思うがセリフも背景の文字も簡体字であるし,制服がジャージっぽいので間違いなく中国である。デザインと言い動きと言い,中国のオタク界隈が,ここまで萌えに習熟したとは恐るべき進化である。ただし,それが幸せへの道であるか,底のない沼であるかは,わからない。


YouTube。もとはBiliBili動画。
https://www.youtube.com/watch?v=O9ABD1oKlsQ&t=1s


おそらくこれが原作。テンセント漫画。原作/凳小氷 円小劉。作画/羅克ROKとある。 

https://ac.qq.com/ComicView/index/id/642826/cid/1657




2024年10月3日木曜日

BISによる「プロジェクト・アゴラ」とは何なのか:どうやってホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)で国際決済を行うのか

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)にはリテール型とホールセール型がある。リテール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)とは,要するに中央銀行券をデジタル化し,専門的な用語で言えばトークン化したものである。他方,ホールセール型CBDCとは,中央銀行への預金をより高度なIT技術を使って効率化し,さらに金融機関のみならず民間の経済主体も使えるようにしたものである。

 リテール型は,いま紙であるものいがデジタル信号のまとまりになるわけで,その変化は分かりやすい。個人が支払うときの感覚だと,現金で払っていたものがバーコード決済での支払いや知人への送金になる感覚で理解して,そう間違いない。一方,ホールセール型とは,割り切っていえば単に中央銀行預金が便利になり,民間人も使えるようになるものであるから,どういう意味があるのかわかりにくい。

 現在,ホールセール型CBDCを使って国際決済を便利にしようという「プロジェクト・アゴラ」が国際決済銀行(BIS)によって推進されている。現在の国際決済にはコルレス・バンキングが用いられており,その手続きをSWIFTというしくみで簡素化して迅速化を図っている。しかし,それでも煩雑だということで,新プラットフォーム上で素早く決済するのだという。強引に簡略化していえばそうなる。民間企業も中央銀行に口座を持って,中央銀行間が連携し,情報技術の活用で素早く決済しようということではないかと推測できる。

 一見,わかりやすそうな話であるが,私にはまだ理解できない大きな謎がある。「どの時点でどのように両替するのか」である。現代世界経済には統一通貨はない。払うとすればドルとかユーロとか円とか元とかで払うしかない。例えば日本企業が日銀に口座を持つとして,円建ての日銀預金でどうやってアメリカのFRBやアメリカ企業に払うのか。

 考えられることは三つくらいある。

1.どこかの時点で外貨に両替し,CBDC化したドル現金を入手してバーチャル送金する。イメージとしては,デジタルドルを入手し,支払元が日本で持っている端末から,支払先がアメリカで持っている端末に送るようなものである。CBDC化したドル現金に両替することは確かに考えられる。しかし,それならばリテール型CBDCを使うことになり,ホールセール型の出番はない。

2.ドル預金をアメリカの銀行に持つことで払う。支払元はドル預金口座をアメリカの銀行(US-A行とする)に持ち,そこから支払先の取引銀行(US-B行とする)の口座に振り込んでもらう。A行とB行の銀行間決済はFRBの当座預金にバックアップしてもらう。しかし,これならば従来のコルレス・バンキングそのものであり,情報技術でスピードアップする以外は何も新しいことはない。

3.ホールセール型CBDCに積極的役割を持たせるとすれば,次のようになるのかもしれない。支払元の日本企業が日銀とFRBの両方に中央銀行預金(ホールセール型CBDC)を持ち,支払先のアメリカ企業はFRBに中央銀行預金を持っている。そして,日本企業は中央銀行預金を引き出してドルに両替し,ただちにFRBに預け,FRB内の預金振替でアメリカ企業に払う。これならば,ホールセール型CBDCが生きるし,確かにコルレスバンキングよりは手順は簡素になるかもしれない。ただし,各国中央銀行には非常に大きな負荷がかかる。日本からアメリカへのあらゆる大口送金について,FRBが自ら振替処理をしなければならないからだ。そんなことが可能なのだろうか。これを可能にする新しいプラットフォームを作るということだろうか。

 これまでのところ一番詳しいBISの報告は,2023の国際決済銀行(BIS)年次経済報告第3章「Blueprint for the future monetary system: improving the old, enabling the new」だと思うのだが,これを読んでも,決裁を迅速にするトークン技術の新しさが解説されているだけで,ここでの疑問である「どの時点で外貨両替するのか」が一言も書かれていないように見える。だから上記の3であるのかどうか,確証が持てない。

 このように,「アゴラ・プロジェクト」とは,国際決済としてどこをどう新しい仕組みにするのか,まだ私には謎である。BISのページを見ただけではよくわからない。現在,この領域を対象としているゼミの院生が文献を調査しているところだ。

BISの実験プロジェクト『アゴラ』への日本銀行の参加について,日本銀行,2024年4月4日

Project Agorá: central banks and banking sector embark on major project to explore tokenisation of cross-border payments, April 3, 2024, BIS.

2024年10月1日火曜日

岡橋保の貨幣・信用論はなぜ少数派だったのか?この説を継承・発展させるためには何が必要か?

 ここ数年,再評価作業を行っている岡橋保氏の貨幣・信用論であるが,学界では当人の生前から少数派にとどまっていたようである。その原因を考えてみると,四点ほど思い当たることがある。

 第1に,その叙述スタイルである。まず前提として,岡橋氏が活躍した時代は,雑誌論文よりも著書が主要な研究成果発表形態であったことを踏まえておく必要がある。岡橋氏の著書は,1957年の『新版 貨幣論』までは,自己の理論を体系的に叙述するスタイルであった。しかし,その後の著作では,歴史書である『銀行券発生史論』を除いて,冒頭では自己の見解を要約し,その後は論敵に対して批判を行う形で記述されるようになった。取り上げられた論客は,当初は不換銀行券を信用貨幣でなく国家紙幣とみなす飯田繁,麓健一,三宅義夫の各氏であり,信用インフレーションを説く川合一郎氏であり,新しいインフレーションを説く高須賀義博氏であり,ドルを国際通貨とみなす岩野茂道,木下悦二,深町郁彌の各氏であり,信用を現金の貸し付けとみなす宇野弘蔵氏であり,最後は預金貨幣を貨幣と認めず,また経済法則の適用対象を国民経済でなく経済一般とみなす村岡俊三氏であった。批判を中心とした岡橋氏の叙述スタイルは,当時としては論点をビビッドに取り出すものであったのだろうが,後年の読者からすると,その積極的見解をわかりにくくし,また過去の議論とみなされやすくしたことは否めない。また批判の方法が,一方では相手の論旨を「というのである」「ということになる」とその帰結までたどる丁寧なものであったのだが,後年の読者が読むと,どこまでが相手の議論の紹介でどこからが岡橋氏の見解がわかりづらくなったことは否めない。他方で,批判の表現は,今日ではもちろん,おそらく当時の基準でもあまりにも苛烈であったために,その理論的内容が素直に受け取られにくかったことも想像に難くない。

 第2に,金でなければ本来の貨幣にならず,価値尺度にならないという主張を貫いたことである。これは,マルクスその人の貨幣論を素直に継承したものなのであるが,多くのマルクス経済学者はこの規定がリジッドに過ぎて管理通貨制下の資本主義を分析する際の障壁になるとみなし,多かれ少なかれ修正しようとした。しかし,岡橋氏はまったく譲ることがなく,ほんらいの貨幣は金でなければならないとし,その一方で,金が流通しなくなり,公定価格標準が廃止された現実を現実としてそのままみとめたのである。岡橋氏は,特定の商品貨幣が流通して直接の価値尺度機能を果たすことはもはやなく,代用貨幣のみが流通し,中央銀行券と中央銀行当座預金が最終決済手段になっていると,事実上主張していた。ここにはマルクス経済学の中核的命題を維持しながら現実の説明を可能とする理論的発展の手掛かりがあったはずである。しかし,岡橋氏はこのことについてまとまった説明を与えなかったために,読者にはその主張が十分に伝わらなかった。

 第3に,不換の預金貨幣や銀行券を信用貨幣とみなし,マルクス経済学を含む通念に真っ向から反対したことである。岡橋氏は,不換制の下での預金貨幣や銀行券・中央銀行券を,兌換制のもとと変わらず信用貨幣であるとした。しかし,当時,マルクス経済学を含めて信用貨幣とは金債務であるとするのが常識であった。つまり<銀行券などは金で支払われるから信用貨幣なのであり,不換制の下では国家紙幣になる>というのである。岡橋説は論敵の三宅義夫氏をして「岡橋教授の所説はおそらく教授以外の何人も納得しえないものと思われるが」と言わしめたほど少数派であった。しかし,その三宅氏もすぐ続けて「こんにちの不換制下においても,日銀のバランス・シートでは発行銀行券は『負債の部』に計上されている。これをどう説明するかはエレガントなパズルと言えよう」(三宅「兌換銀行券と不換銀行券:岡橋・飯田両教授の所説に寄せて」『経済評論』1957年3月号)と認めざるを得なかった。岡橋氏は,不換制のもとでも商業信用が執り行われ手形が存在する以上,銀行券・中央銀行券を手形と認めないのは不整合であることや,不換銀行券の流通量は伸縮しうること,返済を含む債権債務相殺の機能は生きていることを述べて,自説を主張した。しかし,金債務説がもっとも問いたいであろう,<中央銀行券が金債務でないというのならば,何によってどのように支払われるのか>については,岡橋氏は中央銀行券が最終支払い手段になったのだという以外のことは述べなかった。このため,岡橋説にあっては,中央銀行券・中央銀行当座預金の信用貨幣としての流通根拠が,今一つ積極的に説明されないままにとどまった。

 第4に,マルクスの「貨幣流通法則」と「紙幣流通の独自法則」を厳密に解釈した結果,現状分析の上で,1960年代から1975年にいたるまで,日本には厳密な意味でのインフレーションは起こっていなかったと主張したことである。岡橋説によれば,価格標準の切り下げによる名目的物価上昇としてのインフレーションは,公定価格標準(金平価)の切り下げか,財政赤字による投げ込み的(今日的に言えば外生的)貨幣投入によって生じる。一方,銀行貸付の肥大化による通貨供給は,商品流通量の増大に伴う,貨幣流通法則に沿った(今日的に言えば内生的な)供給であり,貸付・返済によって伸縮するものであるから,景気を過熱させることはあってもインフレーションを起こすものではない。したがい,岡橋氏から見れば,戦時中の物価上昇は厳密な意味でのインフレであったが,高度成長期から1975年までは日本の財政は赤字ではなかったので,インフレも生じなかった。岡橋氏は,高度成長期や過剰流動性期の物価上昇を,景気の過熱による一時的及び実質的物価上昇だったとみなしたのである。岡橋説では,また,1970年代には,アメリカの物価高騰や,オイルショックによる原燃料価格の高騰を反映して「輸入インフレ」と呼ばれる事態が生じたが,岡橋はこれも円の相対的価値の低下による不等価交換とみなし,やはりインフレーションとはみなさなかった。この,日常用語としては誰もが「インフレ」と呼んでいたものを,厳密にはインフレではないと言い切った岡橋説は,マルクス経済学者を含めて極論とみなされたのである。

 以上を踏まえると,岡橋説の現代的意義を主張する際には,これらの論点に対応した解明が必要である。第一に,岡橋貨幣・信用論の体系をわかりやすく再現する説明を行うことである。第二に,資本主義における貨幣システムの発展を,本来の貨幣としての金属貨幣=商品貨幣の流通を排し,代用貨幣によって代える傾向を持つものとして叙述することである。そしてその発展が,資本主義発展をどのように媒介し,どのように矛盾を蓄積させているかを明らかにすることである。第三に,不換の預金貨幣や中央銀行券が信用貨幣であることについて,その支払い能力がどう担保されているかの適切な説明を行うことである。第四に,日常用語として「インフレ」とされている現象について,厳密な意味でのインフレーションであるか,そうでない物価上昇であるかについて納得のいく説明を行うことである。これらは実は,1990年代以後の「デフレ」やポスト・コロナの「インフレ」,「異次元の金融緩和」とその解除の意味を問ううえでも必要な論点であり,その解明は歴史的にも現代的にも意義を持つと,私は考える。

(写真は,ようやくそろった岡橋の全著書・編著と追悼文集)




2024年9月25日水曜日

論文「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」を公開しました

 拙稿「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割:ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究」が『アジア経営研究』30-1号に掲載されました。J-Stageにアップされましたので,ダウンロードいただけます。

 2020年4月に科研費をとってベトナム鉄鋼業における外資企業成功の条件に関する研究を始めました。しかし,コロナ禍で海外調査ができなくなり,研究対象を共英製鋼に絞って国内取材から始め,2023年にようやく現地調査を再開して,本稿を完成させるに至りました。

 本稿は技術移転論と中堅企業論で,ビナ・キョウエイ・スチール(VKS)社の事例を解釈しています。共英製鋼が1990年代にベトナムに移転したのは,当時の現地で必要とされていた鉄筋用棒鋼の生産技術でした。当時のベトナム進出はハイリスクでしたが,共英製鋼は創業家高島一族の果敢な行動と組織の力を結合させて実行しました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは成功し,経営を軌道に乗せることができました。しかし,まもなく鉄筋用棒鋼の生産は他の企業もできるようになりました。また共英製鋼の弱い財務基盤は,バブル崩壊後の建設不況の下で経営危機を引き起こしました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは21世紀突入とともに激しい競争にさらされることになりました。保有していた技術の意義と限界,中堅企業としての強さと弱さがこの事例を特徴づけていたのです。

 21世紀になってからの共英製鋼のベトナム事業については,別の雑誌に投稿中です。

川端望(2024)「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」『アジア経営研究』30-1,77-92。

Carliss Y. Baldwin, Design Rules, Vol. 2: How Technology Shapes Organizations, The MIT Press, 2024(カーリス・Y・ボールドウィン『デザイン・ルール 第2巻 技術はどのように組織を作り上げるか』)の破壊力

 ついにCarliss Y. Baldwin, Design Rules, Vol. 2: How Technology Shapes OrganizationsがThe MIT Pressより発売された。冊子体が日本に届くまで1か月かかるので,私はKindle版を購入した。SS...