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2023年8月27日日曜日

E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年がずいぶん売れたらしいことについて

 E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年。『思想』7月号の特集を見て,清水幾太郎訳で読んだ内容をすっかり忘れていることを思い出し,なんぼ何でもまずいかと思い,買って読んだ。久しぶりに自覚したが「これを読んでおかないとまずい」という強要,いや教養マインドの残り火くらいは私の心にもあったようだ(※1)。

 新訳は昨年8月の時点で4刷り2万5千部出たそうで,この種の本では大変な売れぶりである。「なぜ,いま,カーなのか」というのが『思想』の特集号のテーマと思うが,一番分かりやすいことを,わが同僚の小田中直樹教授が書いている。いわく,「危機の時代には変化の歴史学が求められる」のだそうだ。

 私は彼の言うことに賛成である。ただし,それは「本日,みな腹が減っているから食事が必要だ」というのに賛成だというのと同じ意味においてである。文化や歴史に関心を持つものにとって,たいていの場合,「現代は危機の時代」である。したがい,我々はどこから来て,どこに行くのかということ関心をもつので,優れた歴史論に関心が集まる。これは,過去100年くらいはいつでもどこでもあてはまることなので,わざわざ言う必要はないのではないか。ちょうど,あらゆる政党が,選挙に当たっては必ず(無投票の場合を除き)「今度の選挙は歴史的なたたかい」であり「かつてない激戦」であるというのと似ている。

 では,なぜ,いま,この時に限ってカーなのか。およそ私などに深い理由はわからないが,カーが好意的に評した社会学の発想を借りて考察すると,こうなるのではないか。

 いまや,あまりにもろくでもない本ばかりが出回っているために,「『現代』の範囲でちょっと昔の名著の方がはるかにちゃんとしたことが書いてある!」と再発見され,世代を超え,新鮮さをもって広く読まれており,4万5千部に達している(※2)。

 ただし,これは楽観的に過ぎるかもしれない。以下のような可能性もある。

 いまや,活字の本それ自体が電子版を含めて読まれなくなったことに怒り心頭に達した中高年の研究者や本好きが,「本当に素晴らしい名著を読め,コラア」という共通の心情に駆られ,意地になって名著の新版を買い,再読しているが,中高年の研究者と本好きの域にとどまるので4万5千部である(※3)。

 さすがに悲観的過ぎるだろうか。

 私個人は,読むと改めていろいろな新しい発見があり,そうすると逆に「多少古い理論でも,十分これで行ける。これでいいじゃないか」と退行してしまいがちである。緩やかな実在論で,進歩の概念は一応想定するカーの議論で十分研究の導きの糸になるし,21世紀に研究する上でもとくに支障はないんじゃないか,当時の社会主義国を過大評価しているかもしれないけれど,という風に割り切りたくなるのである。これで本当にいいのか,よくわからないが。


<異次元の注>

※1 特撮・アニメオタクの世界でも,かつては自分の趣味の中核ではなくても,「この領域は一応全部抑えておかないと」と読んだり見たり買いそろえたりして,時間もカネも居住スペースも失っていったものである。

※2 さんざ特撮SF・ヒーロー番組を見たあげく,「やっぱり初代のウルトラマンがいちばんよかった」という人が後を絶たないようなものである。

※3 おたくがこぞって初代ウルトラマンのすばらしさを再発見して関連商品を買いあさり,評論を発表したところで,社会的影響力は極めて限られているというようなものである。



2023年8月24日木曜日

研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩

 以前に大学教員を目指す博士課程院生の苦悩について書いたが,今回は田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日を手掛かりに,就職活動をする修士課程院生の苦悩について書く。なお,当研究科では後期課程,前期課程という。

 当研究科の大学院前期課程修了生は,日本国内でさほど不利にはならずに就職できている。ただし高学歴で修士を持っていても有利にもならない。年功基準で,学部卒より2歳年上と扱われるのがせいぜいである。

 前期課程在学中の最大の問題は,院生が就職活動に時間を取られるために研究がさほどできず,逆に言えば研究に時間を取られるために就職活動に力を入れられないことである。

 2013年頃まで,私は「就活のためにゼミを休んでもよい。TAなどはしなくてもよい。ただし研究は計画通りするように」と指導していた。理工系,生命系の研究室とは違い「研究室の仕事」というものはほとんどなく,私がすべての雑用を自分でやる麗しき民主主義社会なので,これで大丈夫と思ったが,それでも院生にとっては苦しかったようで,勝手に東京に住んで帰って来ない学生,連絡を切り,研究が完全にストップする院生が出現した。「ふだんから関連する論文を読み,きちんと調べておくのは当然である」という指導に納得しない院生も現れた(それはできない時期もある,の意であろう)。

 そこでやむを得ず,後期課程進学に関するガイドラインを設定して共有し,後期課程に進む,進まないを,院生に自分から表明させ,「進まないで就職する」という学生には,研究スケジュールの中に就職活動期間を織り込むことにした。まず原則として,1)研究科が必要とする修士論文の基準は絶対に曲げないが,2)修士論文として合格するためには,何をどこまでやらねばならないかは節目節目で通知して理解できるようにする,3)「就活は自分の核心的利益だからなにをやってもよい」論と「その時になって見ないとわからないから計画しない」論を絶対に認めないので,就活で苦しくても連絡を切ったり,無断で授業を欠席したり,東京に引っ越したりしてはならないが,4)スケジュールは就活に配慮するから相談せよ,の四点を明確にした。そして,前期課程の2年間の間に,就職活動のために研究がまったくできない期間,あまり進まない期間を認める。そして,ーー本当は死んでもやりたくないがーー修士論文で到達すべき地点を最初から研究科の許容範囲内で低める,あるいは,研究時間が量的に少なくても到達しやすい性質のものに調整することとした。なお,これらの手法は普遍性を持つとは思うが,ゼミの過半数を占める中国人院生に対する解りやすさをとくに考慮したものである。

 これで,就活をめぐるゼミ内のトラブルはほぼ解消した。ただ,せっかく修士の学位を取っても優遇されない問題や,修士論文に自分の限界に挑戦するほどの労力は投入できないという問題は,解決していない。

(参考)「大学教員を目指す後期課程院生の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年9月3日。

田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日。


2023年8月21日月曜日

宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)読後感

 宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)。

 この本はケン・リュウが編集した中国SF集の2冊目である。私は書店で1冊目の『折りたたみ北京』とどちらを買おうか迷っていたが,本書を開いてぎくりとし,こちらを買うことにした。


「紫令は強硬すぎる」


という文字が目に映ったからである。もちろん,よく知られた実在の人物は紫玲であるが。

 表題作「金色昔日」の著者は,宝樹の作品で日本で知られているのは,『三体X 観想之宙』(原書2011年,日本語訳2022年)であろう。劉慈欣『三体』シリーズを著者公認の上で受け継いだスピンオフだ。彼は中国で活躍する作家だが,「金色昔日」は,2015年に英文誌に発表されたものであり,中国では出版されていない。中国の検索エンジン「百度」で「宝树 "金色昔日"」と入力しても,この日本語出版を紹介する記事しかヒットしない。

(以下,本作品のSF設定を明かします。知らずに読みたい方はここでおやめになることを勧めます。)

ーーーー

 「金色昔日」は時間小説である。登場人物たちは別の世界の中国を生きている。主人公は幼児期に北京オリンピックを見に行く。その後に経済停滞の時代が訪れ,高校時代には上海に住む幼馴染に紙の手紙を書くようになる。大学生になって天安門広場に立つ。やがて鄧小平は失脚し,毛沢東という人物が台頭する。そして文革が始まる。そう書いてもわけがわからないかもしれないから,イメージを喚起するために少しだけ主人公の言葉を引用しよう。

(引用)「ベルボトムのジーンズと鄧麗君の歌が大通りにあふれていた青年時代。香港四天王や台湾のテレビドラマが全国的に人気だった少年時代。ネットゲームやオリンピックや3D映画があった幼年時代。あれらは本当に存在したのだろうか。どこから来てどこへ消えたのか。すべては一場の夢だったのか。」(引用終わり)

 歴史は逆に流れているはずなのに,主人公が直面する状況はみなリアルである。また,個人の時間は読者と同じように流れ,主人公は出会いと別れに翻弄されながら生き,年老いていくのだ。

 SFにはなじみがなくとも,現代中国になじみがある人には一読をお勧めしたい。


出版社ページ
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015280/




2023年8月14日月曜日

石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年を読んで

 石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年。幸いにも8月9日石田教授・植田教授が臨席される書評会にオンライン参加させていただいた。著者らは,おそるべき詳細な実態調査と600ページにわたる記述を通して,以下のことを論じている。雇用関係の全体像は,仕事のガバナンスと報酬のガバナンス,両者の整合性を論じないと把握できないこと。仕事のガバナンスの描き方が先行研究では弱かったこと。経営過程とはPDCAサイクルに沿った計画の体系として叙述すべきこと。PDCAに基づく運営を,従業員のできる限り下位の層まで関与させながら進めるのが日本の経営の特質であること。

出版社ページ
https://www.minervashobo.co.jp/book/b589600.html



2023年8月7日月曜日

「何でもいいお金」はなぜ受け取ってもらえるか?ーーNHK「チコちゃんに叱られる」の貨幣論

 NHK「チコちゃんに叱られる」ICカードの謎(2023年8月4日)。「ICカードをピッとするだけでお金を払えるのはなぜ?」という問いに対して,「お金なんてなんでもいいものだから」と答えている。面白いが,説明で引っ掛かったところがあるので,考えてみよう。

 しかし,当然これだけでは足りないので,もう少し丁寧な答えは高木久史先生の助けを借りて説明する。「なんでもいい」というのは,金貨や銀貨のように,素材がそれ自体価値を持つものでできていなくてもいい,ということである。しかし,そうした価値を持たないはずのものが「なぜお金として受け取ってもらえるか」については,もう一つ理由が必要だ。

 そこで高木先生は,「タカギ券1000円」と示した紙を使い,「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という例で日銀券を説明しようとしている。相手が高木先生の約束を信用する限りは,高木先生との間では「タカギ券は1000円分のものと交換できる」とお互いに認めたことになる。同じように,国が日銀券について「この紙は1000分の価値がある」と宣言して,それをみんなが認めればお金として通用する。番組ではこのような説明になっている。

 私は,ここには問題があると思う。「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という話から始まるのはいい。もっと言えば,すごくいい。ここで肝心なのは,タカギ券を受け取るものは「発行者である高木先生の約束を信じます」と言うところである。発行者である高木先生は「発行した私は,1000円分の価値を認めて,1000円分の何かと交換しますよ」と言っている。まずこれが信用されれば,高木先生を信用する人がタカギ券を受け取り,タカギ券で高木先生に支払うだろう。そうすると今度は,高木先生を信用する人同士であれば,タカギ券で支払うことが可能になる。

 このタカギ券から1000円札を同じ原理で説明できる。「日銀は,1000円と書いた日銀券を,1000円分の何かと交換すると保証します」ということである。金本位制の時代は,これは1)「金と交換します」,2)「日銀の預金とも交換しますので銀行間決済に使えます」,3)「日銀から借りたお金はこれで返せます」の三つだった。いまは1)はできないが2)3)はできる。そして,2)3)から派生して4)「日銀を信用する人への支払いができます」ということになるのである。こうして紙切れに過ぎない日銀券はお金になる。これが基本的なすじである。番組中で短時間で説明するのは難しいが,私は講義ならばこのように話す。

 大事なことは,タカギ券か「発行者の支払い約束を信じるから受け取る」という論理を取り出すことである。こうした,支払い約束=債務証書がお金になったものを信用貨幣という。

 しかし番組は,これを「みんながお金としてみとめているから」「国が1000円の価値があると約束したものをみんなが信用しているから」とまとめてしまっている。これは「発行者の支払い約束を信じるから」と同じようでいて違う。「みんながお金としてみとめているから」では,政府が自分の資産として国家紙幣を発行し,それをばらまくことも含まれてしまう。それなら高木先生が「1000円のお菓子と換えてあげますよ」と言うタカギ券を発行する話から始める意味がない。タカギ先生が「ここは私の研究室だから,タカギ券はこの中では1000円として使えることにします」と研究室の会議で合意して決めるか,催眠術をかけるなり先生のカリスマ性で認めさせて信用を得ればよいのである。それが「みんながお金として認めているから」という説明にはふさわしい。

 しかし,世界の中央銀行がおこなっているのは,そのようなことではない。あくまで「中央銀行の支払い約束を信じてもらう」ことを出発点にして,中央銀行券は中央銀行の債務として発行されているのだ。

 番組がタカギ券から出発して「お金なんてなんでもいい」と言う話をするのはいいのだが,それが受け取ってもらえる理由を「みんながお金としてみとめているから」でまとめるのがおかしい。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」とすべきなのだ(※1)。

 以下,やや専門的な議論である。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」の原理で成り立つのが信用貨幣である。信用貨幣は,貨幣を使えば物々交換と異なり後払いも可能になるという,支払い手段機能が発展したものである。世界の預金通貨や中央銀行券は,こちらの性格が基本である。「みんながお金としてみとめているから」の原理で成り立つのは価値章票(価値シンボル)である。国家紙幣や補助通貨としての硬貨,軍票などは,こちらの性格が強い。価値シンボルは,貨幣を使えば色んな商品を買って入手できるねと言う流通(購買)手段機能が発展したものである。

 この番組は,「価値のない素材でできたお金が,なぜ受け取ってもらえるか」について,信用貨幣の原理の説明から入ったのに,結局価値シンボルの原理で説明を結んでしまっている。これでは,商品経済が発展するとともに,銀行と中央銀行を結節点として資本主義金融システムが発展するという,ダイナミズムが見落とされかねない。資本主義社会では,企業が経済活動のために銀行からお金を借り入れると預金通貨が増え,返済すれば減る。人々が流動性を求めて預金を下ろせば日銀券が日銀から銀行へ,銀行から人々へと渡って現金流通高が増え,人々が銀行に預金すれば現金流通高が減る。預金は銀行が企業の求めに応じて創造し,銀行に戻れば消滅する。日銀券は日銀が人々の求めに応じて発行し,日銀に戻れば消滅する(誰しも自分の借用証書を取り戻したら捨てるだろう)。このお金の生成と消滅のダイナミックなお金の運動は,信用貨幣論によってはじめて説明できるのだ。

 なお,私のこの見解は,「商品貨幣vs代行貨幣」の大区分がまずあって(※2),代行貨幣という区分の中に価値シンボルと信用貨幣があるという考えである。そして,価値シンボルと信用貨幣の区別は,資本主義金融システムのダイナミックな運動を理解する上で重要だという考えでもある。私の重点は,すでに商品貨幣が用いられていない現在の資本主義における「価値シンボルvs信用貨幣」にある。なので,商品貨幣の重要性は,従来言われていたほどではないことを強調する「商品貨幣vsそれ以外」を重視した研究とは,関心の置き所異なることを,念のため付記する。

※1 番組の説明が,高木先生の説明を忠実に再現したものなのか,番組の都合で改変したものであるかはわからない。高木先生のご研究は未読であるが,貨幣史の研究者とうかがっており,もちろん信用貨幣の原理について見識をお持ちのはずである。本稿は高木先生への批判ではなく,あくまで番組内容について,私としてはこう思ったということである。

※2 専門家向けの注。最近の信用貨幣論者は,貨幣は歴史的に初めから信用貨幣だと主張することが多い。なので,私が信用貨幣や価値シンボルを「代行貨幣」とすることには賛成されないであろう。これはまた別の話題となるが,誤解を避けるために簡単に説明しておく。まずここで私が「代行」と言っているのは,「歴史的にもともと金貨など商品貨幣が流通していたが,その後に代行貨幣になった」と言いたいのではないということである。今この瞬間の資本主義経済において,「商品流通のためには商品貨幣が必要なんだけど,それでは不便で仕方がないので代行貨幣が使われている」ということを論理的に説明しているのである。歴史的順序と論理的説明の順序は同じではない。だから,「昔だって金貨より帳簿振替が使われていたんですよ」と言われても,私は論破されたと思わない。
 商品貨幣はいろいろな機能を持っている。価値尺度,価格標準,流通(購買)手段,支払い手段,価値保蔵手段,世界貨幣などである。この種々の機能のどれかを代行するというのが代行貨幣の意味である。そして,流通手段の代行の場合も支払い手段の代行の場合も,素材としては,価値をほとんど持たない紙切れや卑金属や電子データが使用可能なのである。しかし,流通手段機能の代行と支払い手段機能の代行の説明の仕方は違う。預金通貨や日銀券は,債務証書による支払い手段代行として,「発行者の支払い約束を信じる」ことから流通するものとして説明しなければならない。私はこのように考えている。

「チコちゃんに叱られる! ▽都会と田舎▽田んぼの不思議▽ICカードの謎」初回放送日: 2023年8月4日。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...