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2019年5月7日火曜日

MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと

ネット記事では「MMT(現代貨幣理論)は財政赤字を心配する必要がないと主張している」と報道されていて,これに多くの人が困惑している。あるいは,そんなことあるわけないだろうと一蹴している。私もずっと困惑していたが,これはMMTによる「財政」というもののとらえ方が,従来の常識と全く異なるからだと思う。朴勝俊教授によるランダル・レイの本の解説のおかげで,MMTが言いたいことがようやくわかってきた。正しいと言っているのではない。どういう話の組み立てなのかがわかってきたということだ。

 まず,私はMMTの主張は,政府と中央銀行が一体の統合政府であるか,あるいは少なくとも中央銀行が政府と協調する場合にのみ,実施可能と思う。うまくいくかどうかは別として,実施可能という意味である。中央銀行が政府と対立すると実施できない。

 そこで,ここでは通貨発行権を持つ統合政府を考える。理解のポイントは,統合政府を,通常理解される政府財政としてでなく,可能な限り中央銀行=発券銀行のイメージでとらえることにあると思う。だから統合政府を必要に応じて政府銀行と呼ぼう。統合政府の発行する政府貨幣は信用貨幣=発行元宛ての債務証書なので,これも必要に応じて政府銀行券と呼ぼう。

 その運動を理解する入り口として,銀行券が発券銀行に戻ってきたらどうなるかを考えよう。銀行券は銀行の自己宛て債務証書である。自分宛ての債務証書をとりもどしたら,人はこれを廃棄する。中央銀行も還流してきた中央銀行券を資産とするのではなく帳簿から外す(正確には,ただのモノとして扱う)(※)。一般に十分知られていることとは言えないが,金融実務家ならご存じだろう。発券はそれと全く別の話である。中央銀行が貸し付けや買いオペなどの金融取引を銀行と行うと,銀行の準備預金が拡大する。銀行が現金を必要とするときにこの準備預金をおろすと,中央銀行券が発券される。

※例えば日本銀行に1万円札が還流して来ると,モノとしては汚損がなければ発券に再利用されるため保管される。ただし,資産としては1万円の現金にはならず,ただの紙でできたものになる。

 次に,統合政府の徴税を考える。統合政府が政府銀行券で徴税する。すると,政府は政府宛ての債務証書を取り戻したのだから,これを現金資産とするのではなく帳簿から外す(ただの紙として扱う)。……ここがほとんどの人の直観に反するだろう。この統合政府は徴税したお金を現金として使えないのだ!しかし,それでは,いったいどうやって財政支出をするのだろうか?それは,まったく別の話として,通貨を発行して支出するのである。ここの説明は少しややこしく,銀行券というより小切手の原理が用いられる。つまり,民間銀行に,支出先が持つ預金に代金を振り込んでもらい,かわりに政府預金から銀行に支払う……といいたいところだが,政府自身が中央銀行なので政府預金はない。そのかわり,政府銀行が銀行に準備金を無償供与する。

 MMTが言う統合政府は,中央銀行が発券し,回収するように,支出し,徴税していると理解すべきだ。そして,ここに,MMTが理解されにくい理由がある。ほとんどの人の政府財政の概念に反するからである。しかし,おそらくMMTはこのように構成されている。もちろん,発券と回収は信用の供与と回収という金融取引であるが,支出と徴税は異なる。異なるのだけれどバランスシートの動きから見ると同じだとMMTは述べているのだ。

 中央銀行券の発券と回収(還流)を,「中央銀行は市中の銀行券を回収してきて,その金額の範囲内で金融取引をする」という人は誰もいないだろう。この回収と発券の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。中央銀行は民間経済の必要に答えて発券し,不必要な銀行券を回収するのであって,「回収の範囲で発券すべきだ」ということもない。それよりも,金融調節を行って悪性インフレを防ぐ方が大事だ。

 同じように,MMTが想定する統合政府は,「政府が税金を集めて,その金額の範囲内で支出する」というものではなく,徴税と支出の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。統合政府は民間経済の必要に答えて支出し,不必要な政府貨幣を回収するのであって,「課税の範囲で支出すべきだ」ということもない。それよりも,財政調節を行って失業をなくしつつ悪性インフレを防ぐ方が大事だ。

 中央銀行のバランスシートにおける負債は大きい。中央銀行券発行高と銀行の持つ準備預金が巨額だからであり,発券したり買いオペを行ったりするたびにこれらが増えるからだ。しかし,これは発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。

 同じように,統合政府のバランスシートにおける負債は大きい。政府銀行券発行高と準備預金が巨額だからであり,支出するたびにこれらが増えるからだ。しかし,これも政府=発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。

 MMTが正しいかどうかは別にして,MMTの論理はおそらくこうなっている。このように理解した上で議論するのがよいと,私は思う。

朴勝俊「<レポート 012> MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点」People's Economic Policy,2019年5月4日。

<関連投稿>

2019年5月4日土曜日

信用貨幣論ノートを書き終えての感慨

 信用貨幣論のノートを書き終えてつくづく思ったことがある。私は,いくら考えても,信用貨幣論・貸付先行説のモデルの方が,不換紙幣論・預金先行説のそれより実務に即して,現実を無理なく解釈できると思う。イデオロギーの問題ではなく,現実に対する説明力の問題としてそう思う。ところが,これは主流派経済学の「常識」と大きくかけ離れていることだ。ということは,経済学者の多数は,自らのパラダイムの根幹に触れかねないので,信用貨幣論を受け入れてはくれないだろうと予想される。これはかなり深刻だ。
 「デフレ」と「インフレターゲティング」をめぐる論争において,リフレーション派が,自分たちこそ科学的だ,反対する者は経済学を知らないのだと言い放ち,やたらに尊大な態度で日銀を非難した理由がわかった。パラダイムへの固着,別の言い方をすれば宗教的信心である。

 以下,信用貨幣論と経済学の「常識」が大きく異なる点を述べる。

1.信用貨幣論によれば,管理通貨制下の貨幣(中央銀行券+預金通貨)は,あらかじめ存在する預金を貸し出しているのではなく,銀行が貸し付けることによって創造される。
→実務では意見が分かれるが,ある程度の賛同が得られる解釈だ。しかし,「あらかじめ貯蓄が存在していないのに貨幣が供給され,利子率は決定される」ということになるので,主流派経済学では認められないおそれが強い。

(銀行について,そんな基本的なことまで共通理解がないのかと絶句される方が多数いらっしゃると思うが,本当にそうなのだ)

2.信用貨幣論によれば,中央銀行は銀行である。中央銀行は基本的に貸し付けること(手形・債券購入という信用代位を含む)によって中央銀行券を発行するのであり,無償で交付したり,財・サービスを直接購入するために発行することはない。中央銀行券は中央銀行に戻ってきたら資産とならずに破棄される(自分宛ての借用証書が自分に戻ってきたのだから)。
→実務では疑う余地のない当たり前。しかし,主流派モデルは,中央銀行が発券する中央銀行券(タダでは配れない)と政府が発行する不換紙幣(タダで配ることもできる)とを混同して,ヘリコプターマネーとか,ありえないことをありうるかのように平然と議論する。

3.信用貨幣論によれば,銀行が中央銀行に持つ預金は,中央銀行がすでに供給済みであって民間の手にあるが,民間経済内部で流通しているわけではない。
→実務では疑う余地のない当たり前だが,主流派のモデルでは,このことを内部化されていない。だから,ひとたび中央銀行が供給した通貨は,もう民間で流通しているという勘違い,たとえば「日銀がお札をばんばん刷ればインフレになる」などと言う認識が横行する。

 この先,財政政策論も考えねばならないが,そこではますます実務に即した現実的理解と主流派の「常識」が乖離し,議論がいっそうかみあわなくなることが心配だ。それでも自分なりに考えるしかなかろう。
 
※注:主流派経済学に比べると,マルクス経済学ではまだ信用貨幣論が受容されやすい。しかし,機会があれば論じるが,それでも少数派である。

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)

2019年5月2日木曜日

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第5,6節)(完)


5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り

 以上の検討結果は,「非伝統的金融政策」が効かない理由を説明するとともに,この政策の正当性を主張したリフレーション派の主張が現実を説明できず,適切な金融政策を提言できていないことを示している。「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,「マネタリーベースを増やせば,貨幣乗数がプラスである以上,マネーストックが増えてインフレ率が上がる」,さらに「ゼロ金利の下であっても,マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,といった主張は,いずれも誤っている。「中央銀行は,その行動一つで民間に対する通貨供給量を増やすことができる」というリフレーション派のモデルは,不換紙幣・預金先行モデルに依拠しており,それ故に,発券集中と管理通貨制の下での,中央銀行券の通貨としての流通を説明することができないのである。
 また,期待の理論を加味して,「人々の期待に働きかけることで,まず予想インフレ率を上げ,それによって現実のインフレ率を上げることができる」という議論(白川前掲書に倣って「期待に働きかける」派,略して「期待派」と呼ぶ),そこから導き出された「中央銀行がインフレ目標を設定してコミットすることでインフレ期待を発生させ,実質利子率を下げて投資を盛んにし,デフレを克服する」という意味でのインフレ・ターゲティング論も,リフレーション論の応用であって,同一の問題がある。
 もしこれが,「金融緩和によって現実の借り入れ需要を刺激し,インフレ率を上げる」という議論であれば,どちらのモデルに立っても合理的である。そこまでは何も問題はない。「期待派」の理論はそういうものではなく,現実の需要とは独立に,まず期待インフレ率を向上させ,それによって実質利子率を下げようというものであった。
 しかし,現実のインフレと独立に将来のインフレ予想が発生するという主張は,中央銀行のコミットメント一つで通貨供給量を増やすことができる,という前提に立っているのであり,繰り返し指摘するようにそこが間違いなのである。ありもしない前提を市場関係者に信じ込ませることによってインフレ期待を発生させようというのは不可能である。このような主観的に過ぎる議論が,経済学の「常識」に立って生み出され,一時は日本銀行の正式方針に採用されたことは深刻と言わねばならない。経済学の「常識」である「中央銀行は,その意志によって民間に対する通貨供給量を増やすことができる」という不換紙幣論こそが,現実と極度に乖離しているのであり,効きもしない政策を正当化するために用いられてきたのである。
 金融緩和によって通貨供給量が増えるのは,現実の需要が増えて通貨が必要になるときだけである。だから,輸入品価格の変動などの外生的要因を捨象し,他の条件を等しいものとみなすならば,予想インフレ率が上昇するためには,前提として,現実の需要が増え,現実のインフレ率が上昇しなければならないのである[15]
 もしどうしても期待の作用に注目すべきというのであれば,政府が適切な財政政策,産業政策,社会政策によって,企業利潤や,個人の所得や支出に関する期待を変え,企業の期待利潤率を高め個人の消費性向を高めるという方が,はるかに根拠がある。リフレーション派や期待派は,財政政策で行うべきことを,金融政策でできるのだと誤って強弁してきたのである。

6.結論と残された課題としての財政政策論

 管理通貨制の下での通貨と銀行の仕組み,企業と民間銀行と中央銀行の関係を無理なく理解しようとすれば,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論が妥当である。不換紙幣・預金先行モデルによる外生的貨幣供給論は,経済学的な「常識」であるにもかかわらず,不適当である。そのポイントは,中央銀行と民間銀行の関係を銀行と銀行の関係として把握できるかどうか,マネタリーベースとマネーストックの関係を説明できるかどうかである。
 「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由は,不換紙幣・預金先行モデルに依拠して,「中央銀行はその行動によって通貨供給量を増やすことができる」と想定しているからである。それが不可能であることは,信用貨幣・貸付先行モデルによって実務と整合的に説明できる。日本の金融政策論における「リフレーション派」と「期待派」は,いずれも不換紙幣・預金先行モデルの上に立っており,それ故に現実理解を誤り,実行不可能な政策を提言したのである。以上が,本稿の結論である。
 本稿では金融政策のみを論じ,また,もっぱら金融緩和によって通貨供給量を増やし,インフレを発生させ,景気を浮揚させようとした政策論についてのみ論じた。しかし,金融緩和が,国債発行による赤字財政の拡大とともに用いられ,中央銀行による買いオペレーションが国債の発行を事実上支えている場合の通貨や信用の動きについては,独自の考察が必要である。この点は,今後の課題としたい。
 また,ケインズ派やMMTによる信用貨幣論の内容を確認し,検討することも今後の課題である。さらにその先においては,MMTによる財政政策論を検討しなければならないだろう。




[15] 興味深いことに,リフレーション派であり期待派であった岩田規久男前日銀副総裁は,副総裁就任当初は予想インフレ率を高める「リフレレジーム」の構築を目指したが,それが困難に陥ると「まず現実のインフレ率を高めねばならない」と考えるようになったと回顧されている。岩田規久男『日銀日記』(筑摩書房,2018年)を参照。


(完)
第4節はこちら
書き終えての感慨

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第4節)


4.「非伝統的金融政策」はなぜ効かないか

(1)問題の所在

 中央銀行は,国債など金融資産の売買オペレーションや,民間銀行への貸付金利の操作によって短期金利を調整する。金利を調節することが,金融政策の基本線である。ここまでは,信用貨幣論と不換紙幣論に対立はない。
 問題はこの先である。現在,日本をはじめ各国で行われている「非伝統的金融政策」においては,ゼロ金利のように金利引き下げが困難な時においても,中央銀行預金を積み上げることで金融を緩和しようとしている。これを一層促進する議論として,「金融政策により通貨供給量を増やして適度なインフレーションを誘発すべきだ」というリフレーション理論が唱えられている。
 日本の場合,「非伝統的金融政策」を始めた日本銀行に対して,リフレーション派や,後述する「期待に働きかける」派(期待派)は激しい非難を浴びせかけた。しかしそれは本質的に,「非伝統的金融政策」が必要だという共通理解の上で,そのやり方が不十分だという批判であったというのが,ここでの解釈である。白川方明『日本銀行』東洋経済新報社,2018年が述べるように,日本銀行は,マネタリーベースを増やすとマネーサプライが増えるメカニズムや,インフレ率へのコミットメントが物価を引き上げるメカニズムに確信を持てないままに「非伝統的金融政策」を開始した。これに対してリフレーション派や期待派は,そうしたメカニズムは確固として存在するとして,日本銀行にこのことを認めよ,政策強度を高めよと要求したのである。ここでは根本的には「非伝統的金融政策」が効かない根拠を現実の解釈として示しつつ,この政策を理論的に正当化したリフレーション派と期待派を学説として批判することを試みる。

(2)借り入れ需要とも利子率とも独立に通貨供給量を増やそうとする誤り

 「非伝統的金融政策」は事実上,リフレーション理論は明確に,中央銀行預金を積み上げれば通貨供給量を増やすことができると想定している。「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増える」というのである。これは,「中央銀行が不換紙幣を流通に投じる」という不換紙幣論・外生的貨幣供給論の抽象モデルと軌を一にした主張であり,論者が意識していようといまいと,このモデルに立たない限り成り立たない主張である。
 しかし,「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増える」という見解は,中央銀行と民間銀行が,銀行と銀行の関係であることを踏まえないものである。中央銀行が買いオペレーションをいくら行い,民間金融機関への貸し付けをいくら行っても,それでは民間金融機関が中央銀行に持つ預金,日本の場合は日本銀行当座預金が増えるだけである。中央銀行預金は,マネーストックには含まれない。
 「非伝統的金融政策」は,「マネタリーベースを増やせば,それに連動して信用創造が盛んになってマネーストックが増える」と想定しているし,リフレーション理論は明確にそのように主張している。しかし,銀行は,貸し出しを増やす際に中央銀行預金を下ろして貸しているのではないし,そのようにする必要もない。銀行は,自ら預金通貨を創造することによって企業に貸し付けるのである。
 日銀預金の積み上げが貸し出しを促進する場合もあるにはある。企業の借り入れ需要がきわめて強いときである。この時,マネタリーベースが増えれば,銀行は流動性を確保しやすいので,貸し出しをしやすくなるかもしれない。しかし,そのような場合はそもそもゼロ金利ではありえないから,金利を調節する伝統的金融政策が行われるだろう。そして,借り入れ需要が強くなく,銀行が流動性確保に不自由していない時は,マネタリーベースが増えても貸し出しが増える理由はない。いくら銀行が流動性を持っていようと,企業が借りたくもないお金を無理に貸すことはできない[12]
 「貨幣乗数がプラスでありさえすれば,マネタリーベースを増やすことでマネーストックを増やせるはずだ」という主張があるかもしれない。しかし,マネタリーベースを増やした後にマネーストックが増えたとすれば,それは利子率が下がった場合か,あるいはまったく別の要因によって企業の投資意欲が喚起されて,企業の借り入れ需要が増えた場合である。貨幣乗数とは,単なる計算結果であり,マネタリーベースとマネーストックが連動している証拠ではない。通貨供給量(マネーストック)が増えるのは,民間の需要が伸びて流通に必要な貨幣量が増える場合である。利子率と独立に,借り入れ需要の刺激とも独立に,中央銀行の行動一つで通貨供給量を増やすことなどできないのである。
 このように,中央銀行と銀行の関係を素直に観察すれば,あくまで民間経済の必要に応じて通貨が供給され,必要がなければ供給されないのであって,中央銀行の金融調節によって,この関係を変えることはできない。必要とされていない貨幣を一方的に供給することはできないのである。以上が「非伝統的金融政策」では通貨供給量を増大させられない理由である。

(3)ポートフォリオ・リバランシング論の一面性

 それでもなお,「非伝統的金融政策」を支持する論者は,ポートフォリオ・リバランシング論によって自らを正当化しようとするかもしれない。低利,または無利子,場合によってはマイナス金利の中央銀行預金が積みあがれば[13],民間銀行はより高い収益性を追求するためにポートフォリオを組み替え,この預金をおろしてよりハイリスク,ハイリターンの運用先を探すはずだというのである。日本における日銀当座預金のマイナス金利も,これを狙った政策であった。
 しかし,この政策に効果があるとすれば,サーチの効果だけに限られている。金利が一定の下で(例えばゼロ金利の下で),もともと潜在的な収益機会が株式や社債に対する投資があって,ただそれが市場の不完全性により銀行に発見されていなかった場合には,効果があるかもしれない。つまり,積みあがる中央銀行預金の収益性の低さに追い詰められ,銀行が懸命にサーチを行い,見失われていた収益機会を発見した場合だけである。しかしこれは,もとから存在したが,市場の不完全性のゆえに発見されていなかった需要が発見されただけのことであり,効果は限られている。
 その上,副作用もある。金利一定で,銀行のポートフォリオの収益性を低めるのであるから,銀行はそれ以前よりも低収益な運用方法やハイリスクな運用方法を採用せざるを得ない。しかし,そのような運用方法で,銀行経営に必要な利益率が得られるという保証はどこにもない。低収益またはハイリスクな方法では経営を保てないと判断したら,銀行はいくらリバランシングを期待されようと,単に中央銀行預金を積んだままにするので,効果はないであろう。それでもリバランシングを促そうと中央銀行が中央銀行預金のマイナス金利を強めれば,銀行経営を危機に追いやるだけであろう[14]





[12] このことにより,安倍政権,黒田総裁の下での「量的・質的金融緩和」の下で,マネタリーベースが急拡大したのに対して,マネーストックは一向に伸びなかったという事実を理解可能である。
[13] 日本の場合,日銀当座預金は,以前は無利子であったが,やがて付利されるようになり,その後,一定条件の下で積み増した分はマイナス金利になって,有利子,ゼロ金利,マイナス金利の部分が併存する状態へと変化した。
[14] 日本における日銀当座預金積み増し分へのマイナス金利が,長期金利の引き下げとあいまって,銀行経営を窮地に追い込んだこと,それ故に日銀がイールドカーブ・コントロールという形で政策の修正を余儀なくされたことは,この論理で説明できる。


(続く)
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第5,6節はこちら

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第3節)


3.管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮の説明

 本節では,二つの通貨・銀行モデルによって現実の中央銀行のオペレーションや銀行業務を理解することを試みる。とくに,通貨供給量の伸縮のメカニズムをどのようにとらえるかを比較分析することで,モデルの解像度,現実解釈への有効性を判定していく。

(1)信用貨幣・貸付先行モデルの説明

 信用貨幣・貸付先行モデルは,貨幣供給の内生性・外生性については,内生的供給論になる。つまり,中央銀行券や預金通貨は流通に必要な量の伸縮に応じて拡大し,また収縮する。必要に応じて拡大することは前節とここまでの説明から明らかなので,収縮のルートを見ていこう。
 預金形態での貸し付けが企業から返済されれば預金はその分だけ縮小する。中央銀行券は返済によって銀行に戻ってくる。また,企業活動や個人の経済活動を含めて,当面は必要のない現金も銀行に預金される。預金が増加するとともに,中央銀行券は銀行が保有する。こうして,流通に必要とされない通貨は銀行に還流するのである[8]。これは市場の自律的な作用として可能である。
 ちなみに,民間銀行と中央銀行との間でも,中央銀行券や預金は収縮しうるが,そのあり方には民間銀行の方針や中央銀行の金融政策が反映される。銀行は手元の中央銀行券を禁輸し用品の購入に回すこともできるが,準備金として必要な分は現金のままで持ったり,中央銀行預金を積み増して保有したりする。中央銀行預金は,民間銀行から中央銀行券が預けられた場合は増加し,銀行が中央銀行に債務を返済したり,中央銀行が売りオペレーションをしたりすれば縮小する。現金としての中央銀行券は,このいずれの場合も中央銀行に戻って来て,そこで消滅する。中央銀行券は,民間銀行では資産となりうるが,発行主体である中央銀行券ではなりえない。自己宛の手形は,発行主体に回収されたら消滅するのである。
 このように,信用貨幣・貸付先行モデルによれば,中央銀行券と預金通貨が,流通に必要とされない場合は,流通から出ることが理解できる。貸し付けによって拡大した民間銀行の預金通貨は返済によって縮小しうる。中央銀行券は民間銀行の手持ち現金となって蓄蔵されるか,中央銀行預金が増加するなどした際に中央銀行に還流することにより消滅する[9]。こうして通貨供給量(マネーストック)は民間経済の自律的作用により収縮する。信用貨幣は流通に必要とされるならば流通に入り,不要になれば出てくるのである。そして,マネタリーベースの動きはマネーストックはまた別である。

(2)不換紙幣・預金先行モデルによる説明の困難

 不換紙幣・預金先行モデルは,内生的貨幣供給も外生的貨幣供給もありうるモデルである。このモデルでは,企業の必要に応じても信用創造はなされるが,その必要を超えて,政府・中央銀行が通貨供給量を拡大することができるからである。では,このモデルにおいては,民間経済が必要としない通貨は収縮しうるだろうか。
 不換紙幣・預金先行モデルにおいても,貸し付けの返済によって預金通貨が縮小し,不換紙幣が民間銀行の手元に戻ること,企業や個人による貯蓄性預金の増加によって不換紙幣が民間銀行に預け入れられることは変わらない。その意味では,通貨供給量は,一見,自律的に縮小しうるようにも見える。
 しかし,このモデルでは,政府または中央銀行と民間銀行の関係が理論化されていないため,民間銀行の手元準備金と,中央銀行預金の性格がモデルに含まれておらず,この二つが通貨供給量に含まれるのか含まれないのかが理論的に判然としない。ここが大きな問題である。
 不換紙幣・預金先行モデルが,中央銀行を政府と本質的に同等とみなし,政府と民間の二分法でモデルを設定する限り,手元準備金と中央銀行預金は,根拠は不明ながらも漠然と民間の側に含ませられることが多い。なぜならば,手元準備金も中央銀行預金も,政府または中央銀行から見ればすでに供給済みなのであって,民間側にあると考えるのが,このモデル内部では自然だからである。だから,不換紙幣・預金先行モデルは,マネタリーベースとマネーストックの区別が本来的にあいまいであり,両者とも理論的には通貨供給量を表示するのだと認識される。マネタリーベースとマネーストックは貨幣乗数を介して連動するのだから,両者をひっくるめて通貨供給量とみなしてよいだろうというのである。
 ところが,返済や貯蓄性預金の増加によって収縮するのはマネーストックだけであり,マネーストックが縮小してもマネタリーベースは自動的には縮小しない。この現実を前にすると,不換紙幣・預金先行モデルは,民間経済の自律的作用によって通貨供給量が収縮するのか,しないのかをはっきりと言い切ることができなくなる。その一方,前述の通り政府または中央銀行が不換紙幣を,その決定に従って投じることができると想定している。こうして,不換紙幣・預金先行モデルは理論的な空白の部分で動揺しながらも,管理通貨制をインフレーションになりやすいシステムとみなすことになる[10]。翻って,政府または中央銀行の行動次第でインフレーションを起こすことができるシステムとみなすことにもなるのである[11]
 もちろん,このモデルを採る経済学者であっても,実務を考慮する際はマネタリーベースとマネーストックに違いがあることを考慮する。しかし,両者の違いを概念化することが,そのモデルの制約故にできないのである。

(3)信用貨幣・貸付先行モデルの優位性

 このように,管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮,マネーストックとマネタリーベースの動きの相違は,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論によれば整合的に説明可能である。しかし,不換紙幣・預金先行モデルによる外生的貨幣供給論では,マネーストックとマネタリーベースの関係について,理論的な空白が残るのである。理論的な空白は,大きな幅のある解釈と動揺をもたらす。
 理論的に整合しており,実務を無理なく説明できるのは,経済学上の「常識」に反する信用貨幣・貸付先行モデルである。そのポイントは,中央銀行預金の理解,言い換えるとマネタリーベースとマネーストックの関係の理解である。信用貨幣・貸付先行モデルは,中央銀行と民間銀行との関係を銀行と銀行の関係ととらえるので,これらを無理なく説明できる。とくに,マネタリーベースにのみ含まれる中央銀行預金の増減と,マネーストックにのみ含まれる預金通貨の増減は直接に連動するものではないことも,モデル内に含まれている。しかし,不換紙幣・預金先行モデルは,政府または中央銀行と民間銀行の関係がモデル内において明瞭ではない。とくに,マネタリーベースとマネーストックの区別がモデル内において明瞭でない。そのため,両者が本質的に同一の通貨供給量であり,一方が拡大すれば他方も拡大すると強弁されるのである。
 以上のことから,本稿は現実を説明するうえで,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論に優位を認める。そして,このモデルによって現実を説明することで,「非伝統的金融政策」が効かない理由も明らかになると考える。





[8] ここで,銀行が準備金として自ら保有する現金は,流通に必要な通貨から除かれたものとみなしている。この考え方は日本の実務においても採用されており,現金通貨の流通量を計算する際には,民間金融機関が保有する現金が控除される。
[9] この時,民間銀行が持つ現金としての準備金と中央銀行に持つ預金が積みあがったとすると,これらは流通から退出させられたが消滅はしていない。つまり民間経済の自律的作用でマネーストックは収縮したが,マネタリーベースは収縮していない状態である。民間銀行が中央銀行に債務を返済したり,中央銀行が売りオペレーションを行ったりすると,マネタリーベースも縮小する。
[10] 例えば,日本のマルクス経済学における,金兌換が行われない管理通貨制の下での中央銀行券は不換紙幣であるという見解は,このように考えてきたのである。
[11] 後述するリフレーション派や期待派はこのように考えているのである。


(続く)
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第4節はこちら

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第2節)


2.二つの通貨・銀行モデル

(1)信用貨幣論と不換紙幣論

 信用貨幣論とは,預金通貨を銀行の債務であり,銀行券を銀行が発行した債務証書であるとした上で,それらが通貨として流通しているのだという見解である[5]。その上で,本稿が取るもう少し限定された見地は,「銀行が企業に貸し付けることによって預金貨幣や銀行券という通貨が創造される」と認識する議論である。
 貨幣と信用の成り立ちについて,信用貨幣論は経済学の常識的な議論と鋭く対立している。以下,常識的な議論としての不換紙幣論との対比でこれを見ていこう。見るべきは,通貨の本質と,中央銀行及び民間銀行の信用システムがどのように構築されており,通貨がどのように発行され,その供給量がどのように調節されるかである。これを通貨・銀行モデルと呼ぼう。想定されるのは,現代社会の典型的な通貨体制である。つまり,中央銀行だけが銀行券を発行する発券集中が実施されていて,中央銀行券が通貨として流通しており,かつ金兌換が停止された管理通貨制である。単純化のために,硬貨の流通は捨象する。また,日本の通貨法のように硬貨のみを貨幣と呼ぶ限定的な呼称はしないこととする。つまり,紙幣も貨幣の一種とみなす。

(2)信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行

 信用貨幣論は,銀行券も預金通貨も流通する銀行債務であり,信用貨幣だと考える。銀行券は銀行の手形である。商業手形が財とサービスの取引を基礎として発生するものであり,貨幣の支払手段機能を果たすものであるように,銀行券の流通と預金の振替操作によってより支払手段機能が果たされ,債権債務の相殺による決済が可能とされる。期日が指定されない一覧払で,債権債務の広範な決済を可能にするのが銀行券と預金通貨の特徴である。このことは中央銀行による発券集中が行われ,中央銀行券が法定支払手段となっても変わらない。中央銀行券は中央銀行への支払手段として用いることもできるし,納税にも用いることができるので,むしろ支払手段としての性格は強まる。そしていったん支払い手段として確立し,信用が強力な中央銀行券は,民間経済での流通手段としても用いられるようになる。その点では不換紙幣に類似して来るが,元来信用貨幣であることは変わらない。
 そして,金兌換が停止されて管理通貨制となっても,信用貨幣としての性質は一切変わらない。金兌換の停止によって失われるのは,銀行手形が金と交換されて銀行に還流するルートだけである。金で支払われずとも手形は手形として流通し,債権債務の相殺に用いられ,中央銀行と政府は法定支払手段としてこれを受け取るからである。
 信用貨幣論は銀行論においては貸付先行説であり,したがってこのモデルは「信用貨幣・貸付先行モデル」と呼ぶことができる。このモデルによれば,預金通貨は,銀行が企業の必要に応じて貸し付けを行うことにより創造される。ここで,信用創造の一般的理解とは異なり,本源的預金は必要ない。あらかじめ預金として存在する不換紙幣を貸すことによって預金通貨が生まれるのではない。そもそも,貸し付けることによって預金が生まれ,流通に必要な通貨が供給されるのである。
 経済活動が順調に拡大すれば,貸し付けたことによって生まれる預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これらは具体的には当座預金の他に種々の貯蓄性預金の形も取る。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預金される。
 中央銀行と銀行の関係も,基本的に銀行と銀行の関係であり,信用供与によって成り立っている。中央銀行は民間銀行に対して貸し付けることによって,あるいは民間銀行の持つ国債などの金融資産を購入することによって中央銀行預金を創造し,増加させることができる。民間銀行が中央銀行預金を引き出せば,中央銀行券が発券される。
 民間銀行の貸し付けは預金の創造によって行われるが,預金は随時引き出されることがある。だから,民間銀行は準備金を中央銀行券という現金の形で持たねばならない。その現金は,いったん中央銀行券が十分な流通を始めてしまえば,貸し付けられた中央銀行券が預金として還流して来ることによって確保できるし,また個々の銀行にとっては短期金融市場での準備金の貸し借りによって相互に融通しあえるものである。しかし,銀行システム全体として,本源的には,中央銀行から供給されねばならない。民間銀行は,前段の方法で中央銀行預金をおろすことによって中央銀行券を確保する。
 ただし,民間銀行は,中央銀行預金を,現金流動性としての中央銀行券が必要だから引き出すのであって,信用拡大のためには引き出す必要はない。前述のように,自ら預金通貨を創造して貸し付けを拡大すればよいのであって,中央銀行預金は現金流動性確保のためのバッファーに過ぎないのである。言い換えると,中央銀行預金を含むマネタリーベースが拡大することは,民間銀行にとって,企業の借り入れ需要が大きいときの現金流動性確保を確実にするものである。だから,借り入れ需要が強いときは,マネタリーベースの拡大が銀行による貸し付けの拡大をやりやすくし,マネーストックの拡大につながる。しかし,貸し付け需要が強くない時には,マネタリーベースが何らかの理由で拡大しても,貸し付けが拡大せず,したがってマネーストックが拡大しないこともありうる。
 このように,信用貨幣・貸付先行モデルは,中央銀行券が銀行券であることを本質的条件として含んでいる。そのため,政府と中央銀行には本質的な違いがあり,通貨供給が銀行信用の仕組みを通して行われることを捨象しない。中央銀行預金はモデル内に含まれているので,マネタリーベースとマネーストックの相違もまたモデル内に含まれている。
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,企業の借り入れ需要にこたえて民間銀行が貸し付けることによって預金通貨を創造するところから通貨が発生する。そして,必要な現金は,本源的には中央銀行から民間銀行に供給されるのである。中央銀行は,必要に応じ,民間銀行への貸し付けや買いオペレーションを通して,民間銀行に通貨を供給する。ただし,中央銀行が直接にできるのは,中央銀行預金を増加させるところまでである。そこまでは,基本的に限度なく供給することができる。しかし,中央銀行から民間の流通に直接中央銀行券を投じることはできない[7]
 以上が信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。このモデルのポイントは,通貨は銀行によって創造されるという点であり,そこが経済学の「常識」と大きく異なる。次に,経済学の「常識」に沿った不換紙幣論のモデルを見よう。

(3)不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行

 ここで説明するのは,管理通貨制の下での中央銀行券を不換紙幣とみなすモデルである。このモデルの銀行論においては不換紙幣でなされる預金が先に存在して,それが貸し付けられる。そこでこのモデルは「不換紙幣・預金先行モデル」と呼ぶことができる。
 主流派経済学であれマルクス経済学であれ,経済学の常識的な抽象モデルは,管理通貨制のもとでの通貨を不換紙幣とみなす。つまり,それ自体は価値を持たないが,使用者に共通する信認や国家による強制通用力の付与によって一般的流通手段となる貨幣だということである。強制通用力を強調する場合は国家紙幣と呼ばれる。このモデルでは,中央銀行券は形式的には中央銀行の債務証書であり手形であるが,金兌換が不可能なもとでは,実質的に不換紙幣とみなされる。
 不換紙幣モデルにあっても預金通貨は想定されており,これが信用貨幣であることは否定されていない。つまり不換紙幣・預金先行モデルでは,中央銀行券=不換紙幣,預金貨幣=信用貨幣である。
 不換紙幣・預金先行モデルにおいては,銀行は,民間に流通している中央銀行券=不換紙幣で預金を集め,一定の準備金を確保した上で,残りを貸し出す。貸し出した不換紙幣の一部はまた預金されるので,再び一定の準備金を確保した上で,さらに貸し出しを行う。こうして,本源的預金をはるかに超える貸し付けが可能になるという意味での信用創造が行われる。ただし,本質的には,本源的預金を出発点に,銀行の手元にある不換紙幣が貸し付けられては銀行に戻り,貸し付けられては戻っているのである。これは,一般的に理解されている信用創造の論理である。
 経済活動が拡大すれば,本源的預金や貸付金の一部の再預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預けられる。
 このモデルでは本源的預金が存在するために,銀行は常に準備金を保持している。しかし,そもそも本源的預金が不換紙幣でなされるためには,不換紙幣が政府または中央銀行から民間に供給されねばならない。不換紙幣・預金先行モデルでは,発行主体としての政府と中央銀行に本質的な区別はない。中央銀行券は不換紙幣と抽象されて把握されているので,政府または中央銀行は不換紙幣を発行し,直接に流通に投じることができると仮定され,投じる方法は理論的に限定されない。もちろん,このモデルを取る経済学者でも,現実には政府ならば財政支出,中央銀行から民間銀行への貸し付けや買いオペレーションや準備率規制を行うことを知っていて,マクロ経済学の教科書ではそのように解説される。しかし,中央銀行を不換紙幣として抽象化しているため,その供給ルートは本質的でなくなる。マクロ経済学の教科書では,中央銀行が直接供給できるマネタリーベースと,そうでないマネーストックの違いは書かれているが,その区別は理論的に本質的なものとみなされていない。中央銀行預金が前者にだけ含まれ,預金通貨が後者にだけ含まれることにも,何の理論的意味も見出されていない。だから,マネタリーベース増加率に貨幣乗数をかけるとマネーストック増加率になるというように,前者が増えれば後者も増えるので,結局は中央銀行が通貨供給量をコントロールできるという風に叙述される[3]
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,民間銀行は流通している不換紙幣を預金として受け入れ,それを貸し出す。貸し出すことでまた預金が生まれるので更なる貸し出しが可能になり,こうして預金通貨が膨張するのである。そして,現金通貨については,政府または中央銀行が直接に不換紙幣を民間に供給する。政府または中央銀行は,通常,民間の必要に応じて不換紙幣を供給するものの,それ以上に供給することもできる。何らかの形で不換紙幣を一方的に供給することは,理論的に可能とされている。
 以上が不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。

(4)二つのモデルの相違点

 このように,不換紙幣論の通貨・銀行モデルと信用貨幣論のそれとでは構造が大きく異なっている。中央銀行と政府の本質的区別はないのか,あるのかという点,現金として用いられる中央銀行券は本質的に不換紙幣か,形式的にも本質的にも中央銀行の債務証書かという点,まず政府・中央銀行によって通貨が供給された上で銀行が活動するのか,まず銀行が通貨を供給したうえで,必要な現金が中央銀行から供給されるのかという点,本源的預金が存在したうえで信用創造が行われるのか,信用によって通貨と預金が同時に創出されるのかという点,中央銀行が直接民間に通貨を供給することはできないのかできるのかという点など,多岐にわたって相違がみられる。
 これらの相違が,現実の通貨と銀行,銀行と中央銀行のあり方の理解にどのような影響を及ぼすかを,次節で考えていく。




[5] この時点で日常用語との関係で一つ,注意が必要である。単に,人々が信認することによって通用している貨幣を信用貨幣と呼んでいるのではない。ここではそのような用語法を取らない。信用貨幣はあくまでも債務証書が貨幣化したものであり,債権・債務関係を前提としたものである。したがって,本稿では不換紙幣は信用貨幣ではない。
[6] したがって,しばしば思考実験として語られる「ヘリコプターマネー」は,このモデルにおいてはあり得ない。銀行は金融取引によって銀行券を発行するのであるから,中央銀行が企業や個人に無償で銀行券を給付することなどありえない。
[7] このモデルにおいては,「ヘリコプターマネー」は理論的にあり得ることとなる。モデルの本質において,政府や中央銀行が不換紙幣を発行して,民間人に無償供与することが排除されていないからである。

(続く)
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信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)

<目次>
1.はじめに
2.二つの通貨・銀行モデル
3.管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮の説明
4.「非伝統的金融政策」はなぜ効かないか
5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り
6.結論と残された課題としての財政政策論 (5と同一ページ)

書き終えての感慨

1.はじめに

(1)問題意識と課題

 21世紀に入ってからの中央銀行の金融政策を論じる場合,「非伝統的金融政策」の成否についての評価は回避できない論点である。日本では日本銀行が2001年に「量的金融緩和」を開始して以降,「包括的金融緩和」,さらに2013年以後は「異次元緩和」とも呼ばれた「量的・質的金融緩和」,「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」が実施されてきた。これらは,伝統的な金融政策が政策的な金利操作を中心としていたのに対して,短期金利をゼロとすること,政策目標を中央銀行預金の量的拡大に置くこと,オペレーションの対象を拡張し,国債のみならずコマーシャル・ペーパー(CP),上場投資信託(ETF),不動産投資信託(REIT)などお金融資産を購入すること,中央銀行預金についてマイナス金利とすることなどの点で「非伝統的」とされている。「非伝統的金融政策」は,方向としては金融緩和の方向を向いており,とくに金利がほぼゼロとなってそれ以上の金利操作が困難となったもとで,どのように金融緩和をし,穏やかなインフレを起こし,需要を刺激して経済を上向かせるかという問題意識から開発されたものである[1]
 「非伝統的金融政策」は,その直接の目的として,金利が一定の下で,具体的にはゼロ金利であっても,通貨供給量を増やすことが設定されている[2]。しかし,日本の場合,とくに安倍政権・黒田総裁のもとで採られた「異次元緩和」の下では,その効果は芳しくない。日銀当座預金を積み上げてマネタリーベースを増加させても,マネーストック,すなわち民間に出回る通貨供給量が増えないという現象が顕著になっているからである[3]。このことが,政府・日銀が目標としてきた物価上昇率の達成を阻む一つの重要な要因であることは間違いない。
 本稿はここに注目して,「非伝統的金融政策」が,なぜ通貨供給量を増加させることに失敗しているのかを,通貨と銀行の原理的モデルによって理論的に明らかにしようとするものである。結論から言えば,「非伝統的金融政策」やこれを支持・唱道する「リフレーション」派,「期待に働きかける」派の政策論は,管理通貨制の下での通貨および銀行を不適当なモデルでとらえており,原理的に不可能なことを実行しようとしていること,その不適当なモデルとは中央銀行券を不換紙幣ととらえ,銀行の機能を預金された現金を貸し出すものとみなし,中央銀行による外生的貨幣供給を可能とするモデルであること,現実を適切に理解するためには中央銀行券を信用貨幣ととらえ,銀行の機能を貸し付けによって通貨を創造するものとみなし,中央銀行による貨幣供給は内生的であるとするモデルが妥当であることを示す。

(2)分析視角と研究方法

 本稿が用いるのは,日本のマルクス経済学の潮流において論じられてきた信用貨幣論の枠組みである。この理由は,著者の身に着けた理論の範囲が限られていることによるという個人的事情にもよるが,本質的にはマルクス経済学の枠組みの拡張による通貨・銀行モデルが,この課題を果たすのに適切と思われるからである。そして,研究状況とのかかわりでは,そのことが学界にも一般にもよく知られておらず,確認しておく意義があるからである。
 本稿の研究方法は,発券集中と管理通貨制の下での信用貨幣論・貸付先行説の通貨・銀行モデルを設定して通貨供給と通貨供給量伸縮のメカニズムを明らかにするとともに,これを不換紙幣論・預金先行説のモデルおよびメカニズムと対比するものである。演繹的分析と比較分析により,整合性,モデルの精度,現実に対する説明力において信用貨幣論・貸付先行説のモデルが優位にあることを示す。その上で,信用貨幣・貸付先行モデルによって「非伝統的金融政策」が有効でない理由を説明し,この政策を唱道する諸説の問題点が,不換紙幣論・預金先行モデルに依拠しているがためであることを示す。

(3)先行研究との関係

 本稿にとっての先行研究は,日本のマルクス経済学において行われた,不換銀行券の性質をめぐる研究,および発券集中をめぐる研究である。しかし,残念ながら,本研究についての著者の知識は限られており,日本のマルクス経済学における研究史に限っても,一定の理解を持っているのは岡橋保氏と村岡俊三氏の見解に限られる。著者は,学生・院生時代に村岡俊三教授のゼミナールで両氏の見解を学んだが,貨幣・信用論を専門としておらず,現時点では関連文献をすべてサーベイすることができない。そのため,本稿は著者の見解の説明を行うことを中心とせざるを得ず,個々の論点についての先達の見解を一つ一つ確認する文献注記を行うことはできない。本稿の叙述が,岡橋,村岡の両氏を含めて先達の著作に似通っている場合,プライオリティは当然にそれらの方々にある。
 本稿にとって最も直接的な先行研究である岡橋氏と村岡氏の見解についてのみ述べておくと,本稿に関わる論点についての見解,共通点と相違点は,さしあたり,岡橋保『信用貨幣の研究』春秋社,1969年,同『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,同『世界経済論』有斐閣,1988年で確認できる。両氏は,1)管理通貨制の下での中央銀行券が信用貨幣であるとする点は一致している。また,2)中央銀行券の流通根拠を手形であることに見る点も一致している。ただし,3)手形であることの内容として,岡橋氏は銀行手形の債権債務相殺機能を重視し,村岡氏は銀行手形による貸し付けが預金を先取りし,蓄蔵貨幣の活用を促進する機能を重視している。また,4)銀行券の本来的な発行ルートを,岡橋氏が手形割引に置くことに対して,村岡氏は企業に対する預金先取的な貸し付けに置いている。5)預金によって民間銀行に預けられた中央銀行券は,岡橋教授によれば一時休息しているだけで流通内にあるが,村岡教授によれば流通から引き揚げられた蓄蔵貨幣である。各論点についての本稿の見地をあらかじめ述べておくと,1)2)については両氏と同一であり,3)については岡橋氏,4)5)については村岡氏と同一である。
 岡橋氏と村岡氏は発券集中や管理通貨制度についても考察を行ったが,両者の下で,民間銀行が発券を行えず,したがって預金通貨は創造できるが銀行券は創造できないという現代的制度の下で,民間銀行による信用,中央銀行と民間銀行の関係がどのようなものになるか,預金通貨と中央銀行券がどのように発行され,その供給量がどのように伸縮するかをモデル化して考察することは行わなかった。この問題についての分析,その結果としての貸し付けによる預金通貨の創造の重視,中央銀行預金の理解の重視は,両氏に対する本稿の独自性である。
 なお,マルクス経済の外に出た場合,残念ながら著者の知識はさらに限られる。おそらくこの問題に関連しているであろう,ケインズ理論のミンスキー的解釈や,近年(20195月上旬現在),金融・財政政策論に関して話題となっているMMT(Modern Monetary Theory)について通じていない。MMTについては,ビル・ミッチェルのブログと関連研究者の解説記事に基づく覚書は記したものの[4],まだまだ理解がおぼつかない。研究論文をこれから確認しなければならない。しかし,私は,日本のマルクス経済学の成果を用いても,この課題には十分に迫れると考えている。かつ,学派が異なっても共有できるような用語とロジックで論じることも可能だと考えているのである。本稿はそのような試みである。
 日本でのMMTの紹介の仕方は,財政政策をめぐる論点に集中している。しかし,私の限られた知識から見てもまちがいないのは,MMTとはその名の通り,根本において貨幣論であり,信用貨幣論だということである。そこからの具体化として金融政策論があり,また信用貨幣論と統合政府論が合わさって財政政策論ができているのだと思われる。したがって,MMTについての論議は,まず信用貨幣理論から始めるのが妥当な手順だと思われる。より伝統的な理論による信用貨幣論の構造と,それによる政策論を論じておくことは,今後盛んになるであろうMMTと,その政策論をめぐる論議にも役立つはずである。

(4)以下の構成

 以下,2において信用貨幣論を定義的に説明し,不換紙幣論と対比し,さらに通貨と銀行の基本モデルについての,信用貨幣・貸付先行モデルと不換紙幣・預金先行モデルを祖述して対比する。次に3において,管理通貨制と発券集中の下での通貨供給量の伸縮を,信用貨幣・貸付先行モデルでは十分に理解できるが,不換紙幣・預金先行モデルでは理論的空白が残ることを示す。以上から,信用貨幣・貸付先行モデルの優位性が主張される。4においては「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由を論じ,5においては「非伝統的金融政策」を支えるリフレーション派と期待派の理論が,不換紙幣・預金先行モデルを前提としたものであり,そのモデルとともに誤っていることを示す。6では結論を述べる。




[1] 伝統的には需要を刺激し,その結果として穏やかなインフレを起こすという因果関係が想定されていると見るべきだが,「非伝統的金融政策」の支持者たちの場合は,必ずしもそうではない。むしろ,デフレであることから不況がひどくなるのであって,予想インフレ率を高めることによってその弊害を除去し,需要も拡大させるという因果関係が想定されている。この想定の立脚するモデルと問題点については,後段で述べる。
[2] それ以外の目的がないわけではない。例えば,ETFREITCPの購入の目的は,通貨供給量を増大させるとともに,リスク・プレミアムを引き下げることとされている。
[3] 日本において,マネタリーベースとは日本銀行券発行高,貨幣流通高,日銀当座預金残高の合計である。マネーストックにはM1, M2, M3,広義の流動性があるが,M1について言うと,日本銀行券発行高,貨幣流通高の合計から金融機関保有現金を差し引いたものに,預金通貨を加えたものである。
[4] MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書」Ka-Bataブログ,2019321日(https://riversidehope.blogspot.com/2019/03/mmtmodern-monetary-theory.html)。


(続く)
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2019年4月20日土曜日

株主にふさわしくないのにETFを買い続ける日本銀行

 2019年4月16日,黒田日銀総裁は国会で共産党の宮本議員に対して,「ETF(Ka注:指数連動型上場投資信託)買い入れは株価安定の目標を実現するために必要な措置の一つとして自らの判断で実施している」と発言。直後に「ETFの買い入れは物価安定の目標を実現するための措置として行っているものであり、株価の安定の目標ということではない。先ほどちょっと発言の誤りがあったので訂正する」と述べた。

 いや,まちがいではなく本音がポロリであろう。一応点検しておくと,日銀がETFを購入する公式の理由は,リスクプレミアム,以前の黒田総裁の説明によると「株のように変動するものと確定利付き債券のように変動しないものとのリターンの差」を低下させるためのものだ。公平のために言っておけば始まったのは2010年であり,白川総裁の頃だ。これで株式市場を活性化させ,景気を良くして物価を上げようというのだ。何のことはない。やっぱり株価を上げたいのではないか。

 現実にも,いまや日銀はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に次ぐ日本第2位の株主である。これほど大量に買い続ければ株価の安定・下支え・押し上げ作用があるのは自明であり,他の投資家が作用を期待するのも自明である。

 そして,そこまでやっているにもかかわらず,成果は芳しくない。以前の投稿「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」で示したグラフが示すように,アベノミクス開始時点では外国人投資家が期待をもって日本株を購入したが,いまでは売り越しに転じている。そして,個人株主は安倍内閣発足後,一貫して売り越しである。外国人も個人も日本株を評価せずに売り越していて,それを日銀とGPIFが買い支えているという構図ではないか。そこに無理はないのか。

 GPIFは受託者責任を持っているからまだいい。利益を上げるべき存在であり,損失が出たら追求されるべきだからだ。しかし,日銀は,運用益を目的にしてETFを買っているのでもないし,議決権を行使するわけでもない(議決権は信託銀行など,ETF組成会社が行使する)。つまり利益を出す気はない。しかし,株価が下がっても困る。誰かに受託者責任を負っているわけでもない。わけのわからない,どうふるまうべきかも決まっておらず,誰に責任を取るのかわからない株主である。株主としては不適切と言わねばならない。それが,株価を支える,日の丸の旗がついた二頭のクジラのうちの一頭なのである。

日高正裕「日銀総裁、ETF購入「株価安定のため」と言い間違え-直ちに訂正」Bloomberg, 2019年4月16日。

「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」Ka-Bataブログ,2019年2月5日。

2019年3月29日金曜日

アベノミクスは誰に一番厳しかったか

アベノミクスの個人への効果は,資産保有,就業条件,年齢階層によって異なっていた。給料も資産もない,年金だけで暮らす高齢者にはもっとも厳しかったのだ。

 超金融緩和は,株高を通して資産保有層を大いに潤した。そして労働者に対しては,程度の問題と格差の問題は大いにありながらも,雇用を拡大し,名目賃金を上げた。政府・日銀の目標には全く及ばないが,デフレを終結させ物価を上昇に転じさせた。

 一方,消費税増税は,事実上すべての人の実質的な可処分所得を押し下げる作用を持った。労働者世帯でも賃上げが相殺されてしまった場合も少なくないだろう。

 ここで最大の問題は,さしたる資産を持たず,年金等で暮らす高齢非勤労者層にあった。この層は,超金融緩和の恩恵が全くなく,消費税増税には直撃されたからだ。加えて物価が上昇傾向に転じたことも災いした。この2要因は年金支給額引き上げで相殺されず,実質的な可処分所得は低下した。

 働ける人は働いただろう。現に高齢層の就業は増大している。これらの層にも,非正規の職しか提供されないという問題があった。そして,「働こうとしても無理」で,頼るべき家族もいない高齢者は身動きが取れなかった。生活保護を受ける高齢者世帯数も増加傾向にある。生活保護で補足しきれない人も増えているだろう。

 専門的分析がなお必要とはいえ,高齢者犯罪の増加の背景には,貧困問題があると考えるべきではないか。

「日本の年金生活者が刑務所に入りたがる理由」BBC,2019年3月18日。

データは以下を参照。
『経済・物価情勢の展望』日本銀行,2019年1月。とくに「(BOX3)年齢階層別にみた賃金,可処分所得,消費性向の変化」『経済・物価情勢の展望』日本銀行,2019年1月。

是枝俊悟「消費税増税等の家計への影響試算(2018 年 10 月版)2011 年から 2020 年までの家計の実質可処分所得の推移を試算」大和総研,2018年10月30日。

是枝俊悟「年金生活者の実質可処分所得は どう変わってきたか モデル世帯の実質可処分所得の試算(2011~2017年実績)」大和総研,2018年11月7日。

「生活保護の被保護者調査(平成30年12月分概数)の結果を公表します 」厚生労働省プレスリリース,2019年3月6日。

2019年3月21日木曜日

MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書

最近,欧米リベラルの一部が依拠しているらしいMMT(Modern Monetary Theory)について。講義に関連するので興味はあるが,オリジナルの論文を読んで勉強する余裕は到底ない。さりとて新聞記事レベルでは「いくら財政赤字を出しても大丈夫」という話としてしか紹介されておらず,何だかよくわからない。幸い,主唱者の1人らしいビル・ミッチェル氏のブログが「経済学101」で訳されており,それをその他のブログの記述で補うと,おそらく以下のようなものであるらしい。

◇貨幣理論
*MMTは経済学的に貨幣理論とケインズに対する一定の理解を基礎としている。

*MMTは信用貨幣論を採る。現在流通している中央銀行券を政府債務と見るし,預金通貨を銀行の債務が通貨化していると見る。

*MMTは納税に利用されることが発券集中,つまり中央銀行券に通用力が集中した理由と見る。

*MMTは内生的貨幣供給論を採る。需要に応じて銀行が貸し出すことによって貨幣が供給されると見る。

*MMTが信用貨幣論と内生的貨幣供給論を採るということは,経済学の主流の見方である「銀行は,預けられた預金を貸し出している」というのは誤りであって,「銀行は,貸し付けることによって通貨を創造している」という見るのが正しいと主張していることを意味する。

◇非自発的失業
*MMTは,非自発的失業が発生するのは,民間部門が労働者を必要としてはいるが,貨幣を保有するために収入の一部を支出せずにおくためだと考える。純貯蓄需要と納税需要が失業を呼び起こす。

*MMTは,政府純支出によって失業を減少させることができると考える。

◇金融政策論
*MMTはヘリコプターマネーのように中央銀行が通貨を直接民間に供給することは,そもそもできないとする。中央銀行ができるのは,中央銀行が金融機関から金融資産を得て準備預金を増やしてやるという交換だけだ。

*MMTは,準備預金を増やすことと銀行が貸し出しを増加させることの間には関係がないとみる。民間の側に需要がない限り貸し出しは増えない。

*MMTが上記のような考えを取るのは,「銀行は準備預金を引き出して貸し付けている」とみておらず,「銀行は貸し付けることによって通貨を創造している」と見ているからである。

*MMTは,準備預金の量と金利を調節することを通じて望ましい金利の達成のために努力することは中央銀行の主要な機能だと認めている。つまり,中央銀行は金利を調節しているし,金利を調節することはできるが,通貨供給量を調節することはできないと考えている(4/13追加)。

◇財政政策論
*MMTはマクロ会計を重視し,政府,民間,海外のバランスがゼロになることを重視する。各部門の赤字・黒字は相殺されてゼロになる。政府の債務は,それと一致する民間が海外部門の債権と対応している。

*MMTは政府と中央銀行は一体である,またはあるべきと考える。政府と中央銀行が統合政府とみなされることの上にMMTは成り立つ。

*MMTは,通貨発行権を持つ(統合)政府であれば,自己ファイナンスが可能なのだと見る。つまり,財政赤字によって財政が破綻することはないし,政府収入のために租税が必要なのでもないとする。ここが直感や従来の諸理論ともっとも異なるところである。

*MMTは租税は政府の資金調達のために必要なのではないとする。資金調達は自己ファイナンスでいくらでも可能だからだ。

*MMTは,財政政策は完全雇用達成やインフラや社会保障システムの整備など,政策目的のために行われるべきであり,その際に財政赤字は制約にならないと見る。

*MMTは財政赤字の拡大はクラウディング・アウトを起こさないとする。民間銀行が国債を購入すると,銀行が中央銀行に持つ準備預金から政府預金に振り替えが起こるのであって,流通している通貨が減少することはない。中央銀行に預けられた預金の持ち主の構成が変わるだけである。そして,政府がその預金を引き出して支出すれば,それは誰かの銀行口座に振り込まれるのであって,民間の預金が増え,通貨供給量も増える。つまり,政府が財政赤字を拡大することが原因で政府の債務が増えて民間の資産が増える。経済学の主流のように,民間の貯蓄がまずあって,それを国債に投資してもらうのではない。だから,国債を大量に発行すると民間貯蓄が枯渇するというクラウディング・アウト論は間違いである。

*MMTは,需要が生産能力の限界に達するまでは,悪性インフレーションは起こらないと考え,そこまでは財政拡張が有効であるとする。生産能力の限界が財政政策の限界であって,生産能力がフル稼働している状態では,財政支出を行ってもインフレだけが生じると考える。

<最小限のコメント>
*MMTの政策的見地
 MMTの政策論的立場は「金融緩和にはさしたる効果がなく,財政政策こそ非自発的失業解消の王道」というものである。そこだけ見ればIS=LM分析によるケインジアンのようであるが,財政赤字という制約は一切ないと主張するところが異なる。
 MMTは通貨膨張による景気刺激というリフレーション政策を明確に否定する。そのため,金融政策においてはリフレーション派と全く異なり,正面から対立する。
 MMTは統合政府は財政的に破綻しない,自己ファイナンスが可能と主張する。この点は,リフレーション派の中の,財政政策は無効とするグループと対立し,財政政策活用も併用すべきで国債の日銀引き受けもすべきだとするグループと一致する。

*感想
 私個人は,MMTの貨幣・信用理論と金融政策論には全く違和感がない。私が,日本のマルクス経済学の貨幣・信用理論からたどりついた考えとほとんど同じである。リフレーション論がまちがっている理由,量的・質的金融緩和がいっこうにインフレを起こせない理由もMMTによって指摘できる。
 
 他方,MMTの財政政策論は,直観的に非常に分かりにくいが,その核心は中央政府と中央銀行が一体だとする統合政府論であると思われる。まだ理解できた自信がないが,政府を家計のような予算制約があるものと考えるとわからない。おそらく,政府を発券銀行のようなものと考えると理解可能になる(2019/5/8追記。どうもそうらしい。こちらをクリック)。

 発券銀行は,貸し付けも支払いも,自ら発行した自己宛債務=銀行券と預金通貨で行うことができる。銀行券は,その信用が保たれている限りにおいて,受け取り拒否や,額面以下へのディスカウントもなく決裁に用いられ,流通するだろう。
 MMTが想定している政府=中央銀行は,この発券銀行のように行動する政府である。よって,手元に現金がなくても自己宛小切手を切るなどの手段で支出できるし,支払い不能になることもない。赤字は自ら銀行券と預金通貨の創造か,せいぜい中央銀行からの債務増大,あるいは国債の中央銀行引き受けで補ってしまうというのだ。はっきり読み切れないのだが,こう言っているのだと思う。

 3点保留しておきたい。

 第1に,この統合政府論を受けて入れてよいかどうかである。日本を含む少なくない諸国で,中央銀行の政府からの独立性を保つ制度が取られていることには,一定の意味があるはずであり,そこを再検討する必要があると思われる。
 これに関連して,ブログを読んだだけではわからないのが,財政赤字は政府債務を生み出すはずであり,それは,統合政府とはいえ中央銀行と政府の勘定が別になっている時にどのように処理されるのかだ。私が思うには,中央銀行が政府に貸し付けるか,国債を購入することによってなされると思うのだが,それがミッチェルのブログではあまりはっきり書かれていない。
 そして累積した政府債務をどうするのかが,またよくわからない。政府発行の不換紙幣ならば政府自身が発行する紙幣で支払うことができるが,政府と中央銀行の勘定が分離して中央銀行券が通貨である以上,政府に債務,中央銀行に債権が累積していく。永久に借り換えすることで維持する,あるいは中央銀行の黒字を納付金として政府に戻すことで維持するのではないかと思うのだが,はっきり書かれていない。

 第2に,非自発的失業と遊休能力がある場合に,統合政府が通貨を増発して財政政策を行った場合にインフレが起こる可能性に無警戒なのは正しいか。財政支出で遊休生産能力と在庫と非自発的に失業している労働力だけをピンポイントで現行価格で購入できれば,インフレは起きないかもしれない。しかし,財政支出の一部は多方面に拡散してしまうし,寡占的市場も存在するので,財政支出の一部は生産増に向かわず価格上昇に向かってしまう。またこの形で投入された通貨は貸付=返済と異なり流通外に出てくるメカニズムがないので,増税による調整を行わない限り通貨量の一方的純増となり,インフレ要因となるのではないか(2019/5/6補足。おそらく,だからインフレ抑止のために課税をきちんと行わねばならない,という主張のようである)。

 最後に,この政府=中央銀行の限界は,発券銀行と同じく,いまや通貨となっている不換銀行券の信用維持にあると思われる。財政赤字を出していっても「支払えない」という意味での破綻は確かにしないだろう。しかし,通貨及び国債の信用が下落するリスクは大いにありうるのではないか。私は,財政赤字をゼロにする必要性は全くないが,通貨及び国債の信用維持が,その持続可能性を画すると思う。

 以上,私が初心者として理解できた限りのMMTは,1)信用貨幣論,内生的貨幣供給論という理論的基礎と,金融政策論については全く違和感がない。しかし,2)統合政府論と財政政策論が今一つ呑み込めないというのが正直なところだ。
→(2019/5/7追記。ある程度理解できました。以下の続編をごらんください)
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」Ka-Bataブログ,2019年5月7日。
(2019/5/11追記)
「MMT(現代貨幣理論)の経済学的主張と政治的含意」Ka-Bataブログ,2019年5月11日。
(2019/7/8追記)
「MMTではゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」Ka-Bataブログ,2019年7月7日。
(2019/9/29追記)
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日。






<参照文献>
ビル・ミッチェル「中央銀行のオペレーションを理解する」(2010年4月27日)2019年2月12日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「貨幣乗数 ― 行方不明にて、死亡と推定」(2010年7月16日)2018年7月25日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」(2016年7月28日)2018年4月3日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」(2010年4月19日)2018年3月4日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 1」(2009年2月21日)2018年1月31日 by erickqchan,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)2018年2月2日 by erickqchan,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)2018年2月15日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げは信用を拡張しない」(2009年12月13日)
2018年3月16日 by 望月夜 

MMT 日本語リンク集,道草。

<関連投稿>
「リフレーション派の理論的想定と「異次元緩和」の実際は矛盾している」Ka-Bataブログ,2019年3月3日。
「森永卓郎さんとの対話を通して,新しい構造改革の必要性を考える」Ka-Bataブログ,2019年2月17日。
「稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む」Ka-Bataブログ,2018年11月1日。
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。

(2019年5月2日追記。私の考えをまとめて示す以下のノートを公表しました)
「信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて」Ka-Bataブログ,2019年5月2日。
第1節
第2節
第3節
第4節
第5・6節(完)

(2019年4月8日にアンダーライン部分を加筆・修正→2019年5月2日,そこだけ強調していると誤解される恐れがあるのでアンダーラインを削除)

2019年3月18日月曜日

本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで

 「日本経済」の2019年度講義準備。実は,昨年度は財政については最小限度しか触れていなかった。それは「財政学」という別の科目があるからだ。しかし,最小限度ふれようとすると2019年度はどうしても消費税について触れざるを得ないので,いままで放置していた井手英策教授の本を読むことにした。

 私は,本書の財政思想については,考えるだけの理論的素養が不足しており保留する。しかし,再分配を重視する立場から見てもっとも衝撃的だったのは,本書の税制改革シミュレーションだ。つまり,リベラルの側から再分配革命を行い,誰もが人としてのニーズを満たせるような社会を作ろうとすると,どうしても消費税増税という手段「も」使わざるを得ないということだ。

 まず,著者は再分配革命に必要な経費を消費税増税だけで賄うとどれくらいの税率引き上げが必要になるかを提示する。

■消費税1%増税で見込まれる税収:2.8兆円

■教育無償化と医療費無償化に必要な税収
*自己負担解消12兆円プラス関連経費(未記載だが7-8兆円と言いたいらしい)
*消費税で賄う際の引き上げ率:7%強

■基礎的財政収支の赤字解消のために必要な税収(実質成長率1%と仮定)
*8.2兆円
*消費税で賄う際の引き上げ率:3%強

 つまり,消費税率を11%引き上げねばならない。仮に消費税を排して,すべて所得税で賄おうとすると富裕層(給与収入にして1237万円以上なのでかなり広い)への税率を220%上げるか,全階層の税率をそれぞれ約30%ずつ引き上げねばならず,とても無理だ。

 「現実的には,富裕層課税と同時に,税収調達力に富む消費税もセットで引きあげ,垂直,水平,双方の公平性を強化していく戦略が現実的だということになる」(130ページ)。岩波書店の校閲をくぐり抜けて「現実的」が重複しているあたりが,著者のリアリズムであろう。

 そこで著者は以下のような方策を提示する。

■税制パッケージ
*富裕層の所得税率を5%上げる→7000億円税収増。
*法人税率を現在の23.2%から第2次安倍政権以前の30%に戻す→3.4兆円税収増。
(課税ベース拡大や金融資産課税で補完することも可)
*相続税の平均税率を5%上げる→5000-6000億円税収増。

 これで総額4-5兆円になる。ということは,

*消費税の引き上げ率:約9.2-9.5%

とやや抑制できるが,やはり消費税は相当程度引き上げねばならない。

 もちろん,他の方策を組み合わせて富裕層課税をより強めることもできるが,大きくは「中途半端な貧困対策ではなく,大胆な社会改革を求める頼りあえる社会においては,富裕層課税のみでは到底実現不可能であること」が著者の強調する点だ。

 井手教授のモデルに対して私がコメントできることがあるとすれば,基礎的財政収支の赤字をゼロに持っていくことは必要がないと考えることだ。私は,財政赤字は,円と国債が信任を維持できる限りであれば,ゼロにする必要はないという立場だ。しかし,財政改善に使うお金をなくして,消費税引き上げ必要率を4%引き下げたとしても,なお,5%強は引き上げねばならないことになる。

 再分配の強化という目的を前提にしても,また富裕層課税は強化するにしても,それでも消費税増税は避けがたい。このことは重大だ。本書の描いた税制イメージを念頭に置きながら,財政の部分の講義を考えていこう。

井手英策(2018)『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書。

(2019/5/6一部修正)

2020/2/12付記
 私はこの投稿を書いたころ,同時に井手教授と対立する赤字財政容認論の勉強も始めた。そして約半年検討した結果,私は原則的に後者が正しいと認め,「支出増の分だけ財源も必要」という考えを放棄するに至った。したがって,現在はこの投稿の見地に立っていない。井手教授の見解に対しては,以下のように考えるようになった。




2019年3月11日月曜日

2018年度卒業論文特集号によせて ーあの日のゼミー (産業発展論ゼミ誌『研究調査シリーズ』No.37所収)

 本号に収録するのは,2018年度に学部ゼミを修了する皆さんの卒業論文です。
 ゼミを毎週やっていてもっとも気になるのは,「今日の経験は,ゼミ生の心に残るのだろうか」ということです。たいていの場合そんなわけはなくて,今日のゼミの内容も明日には忘れられるのかもしれません。でも,私は,ゼミ生のその後の人生のどこかで,思い出されて力になるようなゼミをしたいのです。なぜならば,自分もそのような経験をしてきたからです。
 最近も,授業をするうえで,かつてのゼミの経験に助けられました。私は,2016年度まで学部基本専門科目「企業論」を担当していましたが,今年度から「日本経済」担当に変わりました。講義準備にあたってはいくつかの難しい問題がありましたが,その一つは,直接にはアベノミクス,広くはマクロ経済政策を論じなければならないことでした。しかも,アベノミクスの最大のポイントは,インフレ・ターゲティングを伴う金融緩和であり,およそ自分にとって得意とは言えない金融論を使わないと評価できません。
 あれこれとあがきながら,ようやく「金融緩和という方向性は,引き締めるよりは妥当であったが,金融政策に過度な期待をかけたことは適切ではなかった。この過度な依存を正当化したリフレーション論は理論的に誤っていた」という見地にたどりつき,講義を構成することができました。これは実は,大学院生時代の研究会やゼミでの学びのおかげでした。
 リフレ論に対する私の批判は,一方では実務の説明に基づいています。リフレ論は,中央銀行が,実体経済の需要増を実現するための通貨の需要と関係なく,貨供給量を一方的に増やせるかのように主張しています。極端な形としてヘリコプターマネー論が唱えられたのはその表れです。そして,「デフレだから不況になるのであって不況だからデフレになるのではない。インフレにすれば好況になる」のだから,通貨供給量を増加させてインフレを起こすべき(リフレーション)と主張したのです。しかし,日銀の金融調節は,通貨供給量を直接に増やすことはできません。いくら買いオペが行われても,それだけでは市中銀行の日銀当座預金が増えるだけです。それで短期利子率を下げて企業が銀行からお金を借りやすくし,極端にはマイナス金利のように,銀行が日銀当座預金以外の資産運用方法を探すように刺激するのです。それで確かに実体経済の需要を刺激することはできるし,需要増大の結果としての物価上昇を誘導することはできます。しかし需要と関係なく通貨供給量を一方的に増やして,名目的物価上昇を起こすことはできないのです。
 これは,実務を丁寧に見ただけでも言えることなのですが,その背景として,通貨供給は実体経済の必要に応じて増え,必要がなくなれば収縮するという金融論,マルクス経済学で言えば貨幣・信用論を持っている必要があります。私は,日銀の金融調節について調べている時に,自分がそのような理論を学んでいたことを思い出したのです。それは,副指導教官であった村岡俊三教授から学んだものでした。もちろん,その著作からも学びましたが ,何しろ素養が足りないので読んだだけではわかりません。むしろ,何度か,私に大きなショックを与え,貨幣と信用に対する見方を変えたゼミがあり,それが心に残っていたのです。今回,これを書くにあたって,当時のレジュメやノートを確かめて,詳細を確認してみました。
 まず,前期課程2年の時,1988年7月1日の国家独占資本主義研究会です※2。この日報告を行ったのは,大学院で同期だったH君でした。H君は信用インフレーションを全面的に認める見地から報告を行ったのですが,そこで村岡教授が以下のように疑問を呈しています(当時の手書きノートから再現)。
――
村岡/信用膨張→滞貨一掃。物価上昇→やがては下降。これはインフレではない。景気変動の諸局面でのことだ。下降しないようなものだけをインフレというべきだ。
H/下降する,しないで区別するべきではない。
村岡/しかし,そこで流通外からの購買力を出してくる。だが,景気変動の諸局面でもW-GなきG-Wは出る。せっかくつけた区別がなくならないか?価格標準の切り下げはどこで判別するかが分かってないのでは?
H/確かに。景気循環-好況とインフレの区別がつきにくい。
――
 信用膨張で実体経済が拡大して実質的に物価が上がることと,通貨価値が切り下がって名目的に全般的物価上昇が起こることは違います。信用インフレーション論は,銀行の信用創造が拡大すると,どうして前者だけでなく後者が起こるのかを説明しなければなりません。H君は,この時点ではそれがうまくできませんでした。
 この日の研究会は,どのような場合には流通外からの購買力を投じたことになり,インフレにつながるのかに議論が集中しました。私は初めて,そのことを分析的に考えないとインフレのメカニズムは解明できないのだと知りました。
 残念ながら,H君は大学院を途中でやめてしまい,故郷の北海道に帰って公務員になりました。
 次は,1990年5月30日と7月30日の国際経済論特論・特殊研究 ,端的には大学院の村岡ゼミでした※3。このゼミでは,修士論文作成のために佐藤俊幸さん(現・岐阜経済大学教授)が報告されました。佐藤さんは不換銀行券論争と不換制下でのインフレについて詳しく研究史を報告されました。私はこの時,不換銀行券が返済や預金によって還流する,つまり必要に応じて流通に入り,不要になれば流通外に出る,言い換えると紙幣流通法則でなく貨幣流通法則にしたがうために,思っていたよりもインフレが起きる場合は限られることを知り,衝撃を受けました。
 5月30日のゼミで村岡教授は,単純商品流通を前提として論じられた貨幣流通法則が,信用論の前提の上でどう生きるかについて解説されています(レジュメに書き込んだメモから再現)。まず,単純商品流通の下では蓄蔵貨幣も支払い手段も世界貨幣も金であるが,信用制度の下では蓄蔵貨幣は銀行預金,支払い手段は銀行券,世界貨幣は外貨準備であるとします。そして,大要次のように言われました。
――
村岡/岡橋(保)先生は,銀行券が収縮すると言いながら,蓄蔵貨幣は金だけとするのがおかしい。どこで伸縮するのか。貸し付けた銀行券が返済で発券銀行に戻って来て破棄されるのが蓄蔵だと言われているが,預金で戻ってきたら破棄されないではないか。
(中略)
 フィッシャーに倣ってPTとMVの関係を考えよう(P:物価,T:商品の総量,M:貨幣量,V:貨幣の流通速度)。Vは一定とすると,PTが増えればMが増えねばならず,PTが減ればMも減らねばならない。
 まず単純商品流通を想定した上で,金と紙幣が流通可能なもとで,必要な流通量が紙幣によってまかなわれているとする。何らかの理由で紙幣の発行量が増やせない時,もしPTが大きくなったらどうなるか。紙幣が増価して物価が下がるのか。そうではない。退蔵されている金が流通に出てきて通貨として用いられる。僕は,こう言ったのが岡橋さんの一番良いところだと思う。ここまでは『資本論』の1巻で理解できる。
 では,信用制度の下でならどうか。紙幣と銀行券が流通可能なもとで,必要な流通量が紙幣によってまかなわれているとする。紙幣の発行量が増やせない時,もしPTが大きくなったら,やはり蓄蔵貨幣が流通に出て来なければならない。これが銀行券による貸し付けによって実現される。そして,PTが縮小したら,不要になった銀行券は預金として還流するのだ。これは『資本論』3巻の論理だ。
 インフレの問題は,この後にある。銀行券が流通に滞留するとインフレになる。
――
 村岡教授は,ここで信用制度の下では銀行預金が蓄蔵貨幣に当たり,不換銀行券は流通の必要に応じて貸付によって流通に出ていき,返済または預金によって流通から出るのだと,それはマルクス経済学体系で説明できるのだと述べたのでした※4。
 この日,おそらく時間切れのために討論できずに残ったのは,現在の日本や多くの諸国のように,中央銀行だけが銀行券を発行し,それが通貨になっている場合の蓄蔵貨幣機能でした。しかし,そこについても佐藤さんは重要なことをレジュメに記していました。この場合は,市中銀行の預金すべてではなく市中銀行の支払準備金(市中銀行の現金手許残高+中央銀行への預け金)だけが蓄蔵貨幣に当たるというのです。
 日銀券や預金通貨は,実体経済の必要に応じて,銀行の融資拡大を主要経路として流通に入り(もちろん,銀行が株式や社債を買っても入りますが),不要になれば民間融資の返済,市中銀行による日銀当座預金の積み増し,市中銀行から日銀への融資返済,日銀の売りオペレーションによって流通から出るのです。とりわけ重要なことは,市中銀行が日本銀行に持つ預金は,実体経済の流通に必要な貨幣量に含まれない蓄蔵貨幣だということです。私は,このような関係をようやく理解するに至りました。いや,当時はおぼろげに理解していただけだったと思います。当時は,「そうすると,政府が国債を日銀に引き受けさせない限りは,インフレにならないことになるな」と思ったことを覚えています※5。
 これらの学びの仕上げは,後期課程3年時,1991年7月24日から12月20日まで行われた村岡ゼミでした。我々の理解の浅さに業を煮やしたのか,村岡教授は1991年7月24日から12月20日まで,国際経済論特論・特殊研究として『資本論』3巻5編(第25-31章)の講読を行ってくれました※6。そこでの討論と解説で,手形流通の相殺原理を基礎とした銀行信用論,不換銀行券=信用貨幣説,蓄蔵貨幣を出発点とした銀行論,信用における貸付先行説,産業的流通と金融的流通の区別などを,ようやく概要において理解できたと思います。ノートを見ると,いかにもわかっていない感じの私の質問に対して,先生ががまん強く説明してくれていることがわかります。

 こうして私は貨幣・信用理論を学びましたが,その内容は長い間,研究にも教育にも使われることがなく,頭の中に眠っていました。もっぱら産業論や経営学の研究に没頭しなければならなかったからです。1990年代の終わりから2000年代の初めに,デフレをめぐる論争を眺めていた時にも,過去の学びとはうまく結びつきませんでした。
 ところが,2018年度「日本経済」の講義を準備するために,マネタリーベースを急拡大させてもマネーストックは一向に拡大しないというデータを見ていたときに,大学院ゼミの記憶がよみがえってきたのです。私はこの現象を説明できる。リフレ論のどこがおかしいのかもわかる。これは,あのゼミの話だ,と。
 国独資研と村岡ゼミでの経験は,私が日本経済の講義をすること,アベノミクスを批判的に評価することを可能にしてくれました。ゼミが私を育ててくれたのです。25年以上前のゼミが,私を助けてくれたのです。
 学部ゼミ生の皆さんの多く,また大学院ゼミ生であっても半分以上の人は,公務やビジネスの世界に進まれるのであって,学術研究に専念するわけではありません。けれど,それぞれが異なる形で,何か,ゼミをきっかけに自分のものの見方,考え方が変わり,人生に何かが付け加わるような経験をしてほしい。私はそう思っています。

2019年3月

産業発展論ゼミナール担当教員
川端 望

※1 当時,『マルクス世界市場論』(新評論,1976年)がすでに出版されていましたが,私は怠惰にも読んでおらず,もっぱら前期課程2年の時に出た『世界経済論』(有斐閣,1988年)を読み,わからないところを研究年報『経済学』の論文で補っていました。なぜ,読書の優先度が単行本でなく研究年報に向かっていたのか,いまでもよく思い出せません。
※2 当時,資本論・国家独占資本主義研究会という自主的な研究会がマルクス経済学の教員・院生の参加で開催されていました。学派別の研究会はほかにも多くあったらしく,これらが大学院改革の際に正規の授業である特別演習に引き継がれました。資本論・国独資研究会は「社会経済特別演習」となりました。
※3 当時,大学院の授業は前期課程においては「特論」,後期課程においては「特殊研究」として開講されていました。当時は大学院生が1学年に数人しかいませんでしたので,授業の実態はゼミでした。
※4 これは,「管理通貨制度のもとでは金兌換がなされていないから,流通必要金量概念は必要ない」という主張への反論でもありました。金兌換があろうとなかろうと,流通必要金量の概念があるから,銀行券が流通に入る際の論理を説くことができるのだと言っていたのです。
※5 H君が可能性を追求したように,信用創造がインフレーションにつながる何らかのメカニズムが存在すれば別で,その可否を私はまだ断言できずにいます。しかし,少なくとも,信用膨張による景気過熱とインフレを単純に同一視するのは根拠がないと思います。景気過熱の際は,財・サービスの需要超過によって物価が上昇しつつ,流通に必要な貨幣量が増大しているのです。
※6 私たちより前の世代の学生ならば原書で行ったかもしれませんが,それはもはや無理で,日本語訳を使いました。

<関連投稿>
「リフレーション派の理論的想定と『異次元緩和』の実際は矛盾している」Ka-Bataブログ,2019年3月3日。


2019年3月9日土曜日

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編『アベノミクスの成否』勁草書房,2019年の7つの章を読んで

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編(2019)『アベノミクスの成否』勁草書房。講義に反映させる内容があればと思い,マクロ経済政策をとりあげた1-6章を読んだ。

 どの論文もまちがっているとは思わない。着実に分析を行っていると思う。しかし,私にとってさほど新しい発見はなかった。なぜかというと,1)学説的にはアベノミクスを主導したリフレーション論が理論的及び実証的に妥当であったかどうかを正面から検証していないこと,2)現状分析としては,安倍政権下での景気回復が,なぜ独自の特徴(株価と企業収益が上がり,雇用の総量は増え,賃金は上がらず,コアorコアコア指数で見た物価も上がらない)を持ったのかについて,ほとんど突っ込んでいないからだと思う。正直,分析内容よりも,分析視角があまり鋭いと思えないことに疑問を持つ。

 唯一,深く考えさせられたのは,野田政権の解散表明が投資家の期待を大きく変えて円安への転換をもたらしたという北坂真一教授の指摘だ。飯田泰之教授は,これを期待とその転換の重要性を示すものとしているが,私は,それは分野によると考える。すなわち,アベノミクスにおいて,期待とその転換が直ちに効果を表したのは円安と株高であった。しかし,肝心かなめの財・サービスにおけるインフレ期待は,黒田総裁や岩田前副総裁も嘆くように,頑として動かなかったのである。それは,外国為替市場や株式市場と財・サービス市場では,投機的に反応できるかどうかが異なり,また仮に反応するとしてその速度がまったく異なるからだろう。この点は,参考になったが私の見解を確証させたのであって,変更する必要はない。
 
 細かいところで参考になったことはある。私は黒田総裁就任以来の日銀の金融政策を本質的に連続していると考え,すべて「異次元緩和」と呼んでいたが,形はだいぶ変わっているので,呼称の時期区分は実務の世界に合わせた方が良いかなと考えた。また,財務所の中島朗洋氏や飯田教授が掲げた財政に関する図表は,何点か講義スライドに取り入れた方が良いなと思った。

 マクロ経済政策とは別の話だが,大島堅一教授が執筆された第10章「安倍政権下における原子力政策ー費用負担制度を中心にー」も読んで,これはたいへん勉強になった。自民党政権に戻ってから「原発はコストが安い」と政府が主張するようになった根拠とその薄弱さ,損害賠償費用の内部化が,いつのまにか汚染者負担原則によってでなく,過去に電力料金が安かったのだから東京電力の消費者が負担せよという論理によるものにすりかわっていることが,よく理解できた。


<関連投稿>


2019年3月3日日曜日

リフレーション派の理論的想定と「異次元緩和」の実際は矛盾している

 この小論は,リフレーション派が目指したのは「名目的物価上昇が引き起こす需要増加」のはずだったが,実行された「異次元緩和」が刺激しようとしたのは「需要増加に伴う実質的物価上昇」であるという矛盾を示して,リフレーション論の果たした役割を指摘する。

 ここでは,1990年代以後の日本経済を「不況だからデフレになったのではない。デフレだから不況だったのだ」と診断してきた人々,その裏返しとして「デフレを脱却すれば景気が良くなる」とも主張し,そのために通貨供給量を膨張させるリフレーション,それを達成するためのインフレ・ターゲティングを主張した人々をリフレーション派と呼ぶ。この人々の一部は政財界に影響力を行使することができ,ついに安倍首相・黒田総裁のもと「異次元緩和」で実行させた。

 「好況だからインフレになる」「不況だからデフレになる」は,常識的にわかりやすい。好況期の財・サービスの需要超過,不況期の供給超過で物価がそれぞれ上がり,また下がるからだ。この好不況が民間セクターによって自律的に起こったものとすれば,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に応じて,流通に必要な貨幣が増減する。それに応じて,銀行からの貸し付けが増えたり減ったりして,通貨量は調節されるのだ。その際に生じる「インフレ」「デフレ」は,実質的な物価上昇,実質的な物価下落である。

 リフレーション派が想定しているのは,このような事態ではない。不況になっていなくてもそれより先にデフレが,好況になる前でもまずインフレが起こるような事態を想定しているのだ。

 古典的な本位貨幣制度ならば,こうしたインフレ・デフレもありうることはすぐにわかる。価格の度量標準(1円=金750ミリグラムなど)が切り下げられれば物価が騰貴し,切り上げられれば下落する。財・サービスを流通させるために必要な金属自体の量は変わらないのだが,それに対応する価格標準が変わってしまったために,物価が騰貴したり,下落したりする。これは名目的な物価の上昇・下落である。

 管理通貨制のもとでは,価格の度量標準は公定されない。そのため,物価の変動が実質的なものか,名目的なものかの区別はわかりにくい。事実,日常用語ではインフレーションとは持続的な全般的物価上昇であり,デフレーションとは持続的な全般的物価下落だとしか理解されていない。しかし,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に対応して通貨量が増減し物価が上下するのか,通貨が投入されたり,必要なだけ投入されないために物価が上下するのかという区別は存在する。前者を実質的な物価の上昇・下落,後者を名目的な物価の上昇・下落と呼ぶこともできる。

 管理通貨制のもとで後者が生じるのは,例えば不換紙幣を政府が発行したり,政府が中央銀行に国債を直接引き受けさせたりして,財政支出を拡大した場合である。この時,財・サービスの流通量は変わらないのに通貨供給だけが増加するので,物価は上昇する。

 リフレーション派は,このように物価上昇・下落に実質的なものと名目的なものの区別が存在することを認識している。そこまではもっともである。

 その上で,リフレーション派は,1990年代以後の日本経済について,まず日銀が十分な金融緩和をせずに通貨供給を制限していたから,名目的物価下落としてのデフレになり,デフレだから不況になったと主張した。そして,その裏返しとして,通貨供給量を十分に増やせば,名目的物価下落としてのデフレがなくなり,不況もなくなると主張した。そして,この主張は安倍政権,黒田総裁のもとでの日本銀行に採用されるに至り,「異次元の金融緩和」が実行されたのである。

 「異次元緩和」で行われたことは,日銀による国債の無制限購入,ETF(上場投資信託)やJ-RIET(不動産投資信託)など金融資産の大量購入である。この代金が金融機関が持つ日銀当座預金に振り込まれる。しかし,これではまだ通貨供給をしたことにならない。日銀当座預金の増加が短期金融市場での供給を増やし,利子率を低下させて,それが銀行からの企業の借り入れ増につながった場合,あるいは日銀当座預金の低い収益性(今は部分的にマイナス金利やゼロ金利もある)に飽き足らない金融機関がより収益性の高い貸し出しや投資を行った場合,はじめて通貨供給量(日銀券や預金通貨)が増加する。

 リフレーション派はこの流れが円滑に進むだろうと考えていたが,実際にはマネタリーベース(日本銀行券発行高+貨幣流通高+日銀当座預金残高)は激増したもののマネーストック(M2ならば日本銀行券発行高+貨幣流通高+預金通貨+準通貨+CD)は過去のトレンドを超えては伸びなかったというのが,統計の示すところである。

 なぜ,こんな結果になったのか。ここで問いたいのは,リフレーション派は名目的物価下落に名目的物価上昇で対抗しようとしていたはずなのに,「異次元緩和」の具体的な政策で想定されているのが,実質的物価上昇だということである。

 「異次元緩和」は,銀行が企業からの借り入れ需要に応えやすくし,あるいは新規社債発行の希望を適えやすくしようとしているのだ。実現すれば,企業は投資を行う。市中では預金通貨が増える。あるいは日銀当座預金が減って市中に日銀券が出回る。これは,財・サービスを流通させるための必要通貨量の増大に,金融機関・日銀が応じていることに他ならない。ここで目指されているのは,リフレーション派が想定したよな,まず通貨供給量を伸ばしてインフレにし,それを刺激に需要を伸ばすということではない。需要を伸ばせばインフレになり通貨供給量も伸びる,ということに過ぎないのだ。

 リフレーション派は,ときに一般向け解説では,日銀券=不換銀行券を不換紙幣と同一視する。日銀が国債を買い入れれば通貨供給量が自動的に増えるかのように話をもっていくのである。しかし,これはおかしい。日銀券は政府発行の不換紙幣ではない。いくら日銀が国債を買っても,また銀行にお金を貸し付けても同じだが,銀行が日銀当座預金をそのままにしておくだけならば,通貨量は増えない。日銀の金融調節では,需要と関係なく通過を流通に投入することはできない。

 あるいはまたリフレーション派は,ここを「期待」の理論でお化粧する。名目金利が下がることに加えて人々の予想物価上昇率が上がれば,その合力として実質金利が下がるのだから,インフレ期待を高めて好況にするという因果関係だという。それがうまくいかなかったのは黒田総裁や岩田前副総裁が嘆いている通りである。しかし,期待は期待であって,実態が動かないと完結できない。期待の論理という皮を一枚はげば,より実態的な過程にあるのは,需要を刺激できれば好況になってインフレになるという単純な因果関係なのである。

 だからリフレ派は,理論と政策が矛盾している。リフレ派は,名目的物価上昇を起こして不況を好況に転換させるのだと主張した。しかし,実際に行なわれた「異次元の金融緩和」は,需要を刺激して,実質的物価上昇を伴う好況を呼び起こそうとするものだったのである。

 これは,理屈だけの問題ではなく,リフレーション理論が果たした役割に関わる。「異次元緩和」は確かに非伝統的な政策を繰り出しているものの,中央銀行による金融調節の本質を変えたわけではなかった。日銀当座預金を積み上げても通貨供給量が増えなかったという事実からくみ取るべきは,財・サービスの流通する市中からの需要がなければ通貨供給は増えないのであり,財・サービスの流通から全く独立に通貨供給を増やすことはできないということである。この金融調節の性質を歪めて伝え,日銀が自由に通貨供給量を調節できるかのように宣伝し,「異次元緩和」に過度な幻想を持たせたことがリフレーション理論の役割だったと,私は考える。

 残された論点であるが,リフレーション派が,自らの理論に整合した政策を行う可能性が二つだけある。ひとつは政府が発行する国債を,日銀が直接に引き受けることである。この場合,日銀が支払う代金は政府預金に振り込まれ,政府は必ずやそれを財政支出に用いるだろう。よって通貨供給量は増大する。もうひとつは,政府が不換紙幣を発行して財政支出に用いることである。これらの手段を使ったときのみ,日銀を従えた政府は,望むだけ通貨供給量を増やすことができる。ただし,減らすことは困難であろうことは,歴史が示している。

 小論は,「異次元緩和」をめぐるリフレーション派の矛盾とその実際的役割を論じた。日銀による国債引き受けや政府紙幣発行の是非,さらに金融緩和・財政拡張に過度に依存すること自体の問題については,残された課題である。

<関連投稿>
「2018年度卒業論文特集号によせて ーあの日のゼミー (産業発展論ゼミ誌『研究調査シリーズ』No.37所収)」Ka-Bataブログ,2019年3月11日。
「森永卓郎さんとの対話を通して,新しい構造改革の必要性を考える」Ka-Bataブログ,2019年2月17日。
「稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む」Ka-Bataブログ,2018年11月1日。
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。


2019年2月17日日曜日

森永卓郎さんの記事と対話して,新しい構造改革の必要性を考える

 森永卓郎さんは,「憲法改正も,原発政策も,働き方改革も,すべて反対だ。ただ一点,マクロ経済政策,すなわち財政政策と金融政策に関しては,安倍政権のやり方は,正しいと考えている」方だ。2000年代前半には「いまデフレなんだからインフレにすればいいんです」とリフレーション政策の正当性を強調しておられた。

 しかし,いま森永さんは,平成時代における日本の「転落」と「格差」のとてつもなさを,危機感をもって訴えている。それならば,「転落」と「格差」が,「異次元緩和」を政治的に導入した安倍内閣時代にも止まっていないのはどうしてなのかを考えてみる必要があるのではないか。

 安倍内閣は,確かに日銀と協定を結んで金融は緩和したし,財政も引き締めてはいない。私は,森永さんほど安倍政権の政策を支持できないが,これらは引き締め政策よりはましだった,とは考えている。

 しかし,だから,それで十分というものではない。それどころではない。

 安倍・黒田路線では,株高と円安にのみ偏った反応が現れた。その恩恵にあずかったのは,まず外国投資家(日本人が預けた資産を運用している場合もある)であり,続いて輸出企業であった。企業は賃上げをせず,正規雇用ではなく非正規雇用を拡大し,蓄積した純資本を設備ではなく現金積み上げや証券に投資した。雇用は拡大したが消費の拡大は弱弱しかった。6年続けてもこうなのだから,何かがおかしいと考えるべきだ。

 このようにしか金融・財政拡張の効果が出てこないのは,日本経済の構造に問題があると考えるべきだ。ただしそれは,小泉内閣が主張したような,企業が利益を上げることを妨げる構造ではない。供給サイドにおいては,新市場拡大に挑むようなベンチャー,中堅企業が生まれにくい構造だ。需要サイドにおいては,賃上げが鈍いために多数の個人のふところが温まらず,社会保障と雇用システムが不安定なために,消費を増やす気持ちになれない構造だ。

 どんな構造もそうだが,この構造も様々な既得権益を守っているが故に,変わりにくい。庶民の中にも既得権益がないとは言わない。しかし,最も深刻なのは,既存大企業の利益,富裕層の資産蓄積という既得権益だと思う。そこにメスを入れようとしないバイアスを,自公政権が持っている問題だと,私は思う。

 現在もなお,金融,財政を引き締めるべきではない。まして,消費税増税で景気を冷え込ませるべきでもない。私は,そこまでは森永さんやリフレ派の人と同意見だ。しかし,引き締めなければそれでよいというものでもないし,さらに金融,財政を拡張すればよいというものでも,まったくない。そこが,リフレ派の人とは全く異なる。日本経済は,小泉内閣とは異なる意味での構造改革を必要としている。新市場向け投資がやりやすくなり,多数の個人のふところが温まりやすくなり,しかも消費しやすくなるような構造への改革だ。

 森永さんも,格差を意識しているならば,いまでは,財政・金融の拡張だけでよいとは思っていないのではないか。

森永卓郎さん「とてつもない大転落」『平成 時代への道標インタビュー』NHK NEWS WEB。日付不詳。

森永卓郎「財務省にだまされてはいけない」『森永卓郎の戦争と平和講座』マガジン9,2018年5月16日。

<関連投稿>
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日。

ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)

日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。

賃上げの根拠は「内部留保」か「付加価値の分配率」と「手元現預金」か (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。

内部留保研究者の主張を正確に理解すべきことについて:内部留保増分の問題ある使途が賃上げを主張する根拠 (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。

内部留保への課税論には根拠があることについて (2018/7/8),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。






 

2019年2月5日火曜日

公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時

 GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の2018年度10-12月期の運用実勢が14兆8039億円の赤字で,四半期では過去最大出会ったことが話題になっている。ここで考えねばならないのは,2014年にポートフォリオを見直して,内外株式の比率を高めたことだ。

 一方で超低金利のもと(それ自体,政府・日銀が誘導しているのではあるが),年金資産の運用を債券だけで行っていては運用益が稼げないことは確かである。だから,株式の資産組み入れ比率をある程度まで高めること自体は,やむを得ない。この点,株式投資イコール投機だから年金積立金をつぎ込むな的なGPIF批判をするつもりはない。

 しかし,現在GPIFが行っている株式投資が,どれほど健全なのかという問題は確かにあり,検討しなければならない。

 一つは,安倍政権下で定められた,国内株式25%という基本ポートフォリオ構成が,本当に適切なのかどうかだ。25%と定めてしまえば,乖離率は認められているとは言え,国内株式にどれほどの資金をつぎ込むかはある程度決まってしまう。つまり,年金積立金が増える限り,GPIFは国内株式市場の確実な買い手になる。

 もう一つ,GPIFの行動を株式市場全体の中で評価し,また安倍政権下の金融政策・資本市場政策の中でGPIFを評価する必要がある。具体的には,GPIFに加えて,日銀が超金融緩和を続けるためにETF(指数連動型上場投資信託受益権)を大量購入するという,事実上の株式投資を行っていることを評価する必要がある。日本の株式市場には,公的資金で確実に買ってくれるGPIFと日銀という2頭のクジラがいるのである。

 では,GPIFと日銀は株式市場でどのような役割をはたしているのか。他の投資家との関係はどうなっているのか。それを明らかにするために,金額で見た投資部門別株式売買状況の推移に,日銀の年次ETF購入額を重ねた図を示す。本来の売買状況データでは,日銀ETFは「自己取引」に入っている。GPIFの購入・売却額は残念ながらわからない。分類の中では「信託銀行」に含まれている。


 ここから,以下のことが言えるのではないか。
(買)日銀ETF購入が株式市場に与える影響は大きいし,次第に強まっている。
(買)GPIFの影響の度合いは証明できないが,「信託銀行」は2014年以後買い越している。
(買)事業法人が買い越している。自社株買いの反映と思われる。
(売)海外投資家が日本株を大量に買ったのは2013年だけである。あとは年によって違うが,売り越しの方が激しい。
(売)個人は一貫して売り越している。

 GPIFの影響力はフローの売買ではわからないので,数字がわかるストックの方を見てみる。GPIFは,2018年12月末で国内株式を時価評価で35兆9101円保有してる。おおざっぱな比較方法だとわかっていて言うが,これは国内上場株式時価総額の582兆6705億円に対して,6.16%保有していることになる。1投資家で6%であり,その存在感は大きい。

 アベノミクスの成果が喧伝されているが,外国人も個人も日本の株式を評価せずに売っている。その時に,GPIFと日銀という公的資金のクジラで買い支えてきたのではないか。これは,クジラの意図がどうあれ(日銀は,そもそも株式運用益を目的としてETFを買っているのではあるまい),市場実勢とかけ離れた投機ではないのか。それも,公的資金を用いた投機ではないのか。

 それでも,株価が支えられている間は,さしあたり誰も損をしないかもしれない。しかし,無理な買い支えが限度に来て株価が下落するとき,損失は2頭のクジラにかかり,公的資金にかかる。つまりは年金資産に損失が出るのであり,日銀のバランスシートを毀損する。これは,株式市場としても,公的資金のあり方としても不健全ではないのか。

<データ注>
・表は,日本取引所グループ「投資部門別株式売買状況」および日本銀行「指数連動型上場投資信託受益権(ETF)および不動産投資法人投資口(J-REIT)の買入結果」より作成。
・GPIF株式保有額はGPIF「平成30年度第3四半期運用状況(速報)」より。
・国内上場株式時価総額は,日本取引所グループ「市場別時価総額」より。



2018年12月15日土曜日

フランスデモの解説記事から,民主政治とマクロ経済政策のジレンマを考える

 同僚の小田中直樹教授による「黄色いベスト」運動の長期・中期・短期の背景解説。たいへんわかりやすい。そして救いがない。ここにはフランスだけではない,多くの先進諸国の政治と経済政策がはまりこんでいるジレンマがあると,私は思う。

 1970年代後半以後の先進諸国における政治的スペクトラムにおいて,なにがしかの穏健左派から穏健右派までに共通するのは「財政赤字の膨張を抑制すること」である。EUの場合,やっかいなことに通貨価値の維持と財政赤字の抑制が制度自体に組み込まれている。
 ここで経済が停滞してくると,厄介なことが起こる。穏健右派はもちろん,穏健左派も「庶民にやさしい経済政策」を主張しづらくなる。とくに万年野党の場合はとにかく,政権を取ろうとすると,政策を整合させるために積極的に種々の構造調整策を打ち出すのだが,これが拡大か緊縮かというマクロ経済の二分法においては緊縮策になってしまう。
 これはいまにはじまったことではなく,1970年代後半から世界に広がった動きだ。ヨーロッパの社会民主主義政党やアメリカの民主党が通貨価値維持を語り,財政再建を語り,福祉効率化を語り,そのかわり企業競争力を強化して所得と雇用を何とか増やすのだ,だから労働運動や社会運動は企業行動をあまり制約するな,と語るのを,いま50歳以上の人はずっと見てきたはずだ(私の大学院生時代にも,EUを専門とし,ヨーロッパ統合についての楽観論を自らの持ち味とし,社会民主主義を支持していた教授は堂々とそのように主張していた)。
 しかし,そうすると,有力な政治勢力のいずれもが「庶民にやさしい経済政策」を主張しないことになる。「企業の競争力を強化して何とかする」という方法は,1980年代までの日本では何とか機能したものの,現在の先進諸国で十分機能していないことは明らかだ。それでは,格差と貧困が我慢の限度を超えた時にどうなるのか。その支持は,従来の穏健左派から穏健右派までのどこにも向かわない。むしろ,それら全体が庶民無視だとして糾弾される。フランスの「黄色いベスト」運動も左派でも右派でもなく,とにかくマクロン政権と「庶民にやさしくない経済政策」を糾弾しているようだ。
 こうした状況で支持が集中するグループがあるとすれば,魅力的なリーダーを持っているか,宣伝が巧みか,それなりに草の根活動をしているグループだ。それは経済的にはアメリカのサンダースを含む新しいタイプの社会主義勢力のようなラディカル左派か,あるいはトランプやヨーロッパの極右のように,整合的な経済政策はないが政治的敵を作り上げ,こいつらをやっつければ庶民は豊かになれると煽るグループだ。
 いまや先進諸国では,穏健左派から穏健右派までの政治グループは「財政赤字の膨張を抑制すること」にこだわる限り,庶民を敵に回してしまうというジレンマにはまり込んでいる。多くの経済学者や政治学者は,「増税による負担が必要だということをきちんと市民に知らせて説得せよ」という話が大好きで,何十年もうわごとのように繰り返しているが,もはやそれも機能していない。それでは政治家は選挙で支持されない。経済学者が,経済法則を勝手に変えられないというならば,この議会制民主主義の法則もお説教では変えようがない。延々と説教を続けると学者まで「何をお高くとまってやがる」とデモの対象にされかねない。

 では,このジレンマから抜け出す道は,どこにあるのか。民主主義を否定すれば権力的弾圧策という解決策があるが,そんなことが許されるべきではない。しかし,安定のためにはそれもやむを得ないという勢力が膨張することも十分ありうる。
 そうした最悪の解決策は避けて,庶民を主人公とする民主主義を守ることが前提ならば,とにかくある程度「庶民にやさしい経済政策」をするしかない。軍隊やら大企業やらベンチャー企業やらにやさしいか厳しいかは別として,少なくとも庶民に「も」やさしくなければならない。
 方策の一つ目は,「財政赤字を気にしない」ことである。二つ目は,「財政赤字はともかく,金融を無茶苦茶に緩めることで何とかする」ことである。これらには,深く考えずに実行する場合から,経済学的に財政or/and金融をいくら緩めても大丈夫なのだと証明する種々のリフレーション派までのスペクトラムがある。日本のアベノミクスは建前上はふたつめに属しているが,客観的には一つ目の側面も持っている。
 三つめは,「緊縮ではない構造調整を行い,何とか財政赤字を一定範囲に抑えつつ,庶民にやさしい経済政策も実行する」である。これは統合された潮流とは言えないが,日本で言えば,1990年代の終わりから神野直彦氏や金子勝氏が主張してきた「セーフティネットの貼り換え」論などが,本来は該当する。アメリカのサンダースたちや,ヨーロッパの極左などがどこに該当するのか,残念ながら不勉強でわからない。
 一つ目と二つ目の路線の弱点は,本当にそこまで財政と金融を拡張して大丈夫なのかということもあるが,より直接的には金融・財政を派手に拡張した割には経済成長率がわずかであり,庶民にやさしい状態が一向に実現しないことである。せいぜい緊縮よりはましだというにとどまる。そして,株式投機や建設・不動産で儲けられるものだけは大儲けするという格差が生じやすい。つまりは今の日本の状態だ。
 三つ目の路線は,種々の政策を整合させる必要があるため,部分的にはともかく,トータルにマクロ経済的目標を達成できるほど強力に推進され難いという弱点がある。ヨーロッパの左派の政策には,この路線が社会保障や教育に部品として多かれ少なかれ入っているのだが,それでもマクロ経済政策全体として「財政赤字の制約」に流されてしまう傾向が強まっているから厄介だ。また,もう一つ,この路線は成長より再分配を重視するのだが,失業率が高い時には最大の「庶民にやさしい経済政策」は失業解消なので,有効需要全体を増やす成長政策も取らざるを得ないという矛盾を抱えている。

 私は,小田中氏のフランスデモの解説を掘り下げていくと,このような,民主政治とマクロ経済政策上の困難に突き当たるように思うのだ。

小田中直樹「フランスデモ、怒りの根底にある「庶民軽視・緊縮財政」の現代史」現代ビジネス,2018年12月14日。


 

2018年12月7日金曜日

『日経』連続記事「景気回復 最長への関門」に見る日本経済の変化と新たな不安

 一昨日から今朝にかけての『日経』1面の「景気回復 最長への関門」(上・中・下)は考えさせられる。よく読むと内容は深刻だ。来年度の「日本経済」講義のヒントになる。掲載されたグラフ3点を見るとわかりやすい。私の観点から再構成すると以下のように読める。
 国内だけを見れば,アベノミクスの超金融緩和とだらだらとした財政拡張が,ようやく,4年もたって,2017年から設備投資増には効き始めたように見える。しかし,消費の方は依然として停滞している。実質雇用者報酬が縮小する悲惨な事態は2016年にようやく止まり,上向きになったが,可処分所得はアベノミクス開始前にわずかに及ばない程度だ。これは,社会保障と税の負担のためだ。
 ところが世界を見ると,米中貿易戦争をきっかけに景気の減速傾向が強まっている。これは外需に依存し,いつまでたっても途上国のように円安を待望する日本産業にとって不気味なことだ。
 設備投資はようやく伸び始めた。賃金は少しずつ上昇しているが,消費は伸びない。これまで依存できた外需は雲行きが怪しくなってきた。それでは,いったい何をつくってどこに売るのか。
 日本経済のこれまでの局面は「アベノミクスで拡張政策をとったが,輸出と企業利益は増えても投資は増えず,雇用は増えても賃金は上がらず消費も伸びない」というものだった。しかし,また別の局面に入りつつあるのではないか。

「景気回復 最長への関門(上)世界経済に頭打ち感 中国の変調、アジアに影」『日本経済新聞』2018年12月5日朝刊。

「景気回復 最長への関門(中)「賢い工場」活発な設備投資 外需と業績、懸念材料に」『日本経済新聞』2018年12月6日朝刊。

「景気回復 最長への関門(下) 力不足の「メリハリ消費」 増えない可処分所得」『日本経済新聞』2018年12月7日朝刊。


2018年11月15日木曜日

「異次元緩和」への依存は邦銀をハイリスクな投融資に走らせていないか

大槻奈那「邦銀が「次の金融危機」の引き金を引くのか 投資家の暴走で世界でゾンビ企業が急増」東洋経済ONLINE,2018年11月12日。3ページ目に掲載されているグラフに驚いた。いつのまにか銀行の与信総額で邦銀が日,英,独を抜いている。融資先が順調に拡大しているならば邦銀のプレゼンスが上がっているということだが,そう喜んではいられない状況だ。アメリカは多少巻き戻したとはいえ日本の異次元緩和は続いているし,10年単位でみれば世界的な金利抑制傾向が続いている。それでもインフレ率は上がらないという傾向が世界的に続いている(福田慎一『21世紀の長期停滞論』平凡社,2018年)。世界の銀行は運用難に戸惑い,思い余ってハイリスク・ハイリターンの投資・融資に流れている。邦銀の与信もそうした融資で伸びているというのだ。
 もはや,通貨収縮によるデフレが問題という局面ではない。日本のアベノミクスが「方向は良いが不十分」とみる人は,利下げの余地がなくなっても日銀の国債買い上げによって金融機関にリスク資産へのリバランシングを促せるならばなお緩和の効果は期待できるというが(例えば野口旭[2015]『世界は危機を克服する』東洋経済新報社),それは資本の需要を無視して供給側からバブルを煽る行為ではないか。
 問題は,金利を下げて通貨供給を試みるだけでは,投資と消費の意欲が喚起されず,インフレ率が上がらないことだ。少なくとも日本では,金融ではなく実物的に考えることが必要だ。新市場を開拓する成長産業のタネをまき,芽を育て,キャッシュを眠らせずに賃上げと再分配で個人による支出に導き,成長を下支えする発想が必要な局面だ。金融政策から財政政策と社会政策に移す時だ。
 もちろん,それでも難題は残る。一つは財政赤字であり,もう一つは,これほど短期資金の浮動性が高いと,バブルを伴いながらでないと成長産業が現れないということだ。しかし,金融緩和一本やりで進み続けるよりははるかにましだろう。

大槻奈那「邦銀が「次の金融危機」の引き金を引くのか 投資家の暴走で世界でゾンビ企業が急増」東洋経済ONLINE,2018年11月12日。

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日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について (2018/6/16),Ka-Bataアーカイブ。
アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)

2018年11月1日木曜日

稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む

 稲葉振一郎『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』。稲葉教授はたいへんな博学で,本書に登場する書物には,私が読んでいないものも少なくない。著者は様々な経済思想を博覧強記に,かつ平易に解説し,自らの思想の見取り図にはめ込んでいく。ただ,正直に言って,私は稲葉氏の見取り図が読み取りにくく,また納得しづらかった。それでも何とか読み取ろうとしたうえで,何が納得できないのかを記しておきたい。

1.本書は,新自由主義とは何であるかということを前面に掲げつつ,近現代の社会経済思想史を描こうとしたものだと思う。
 しかし,この二つがどうかみ合っているのかがわからない。冒頭の章をはじめとする新自由主義論は,なぜか多くがマルクス主義者の新自由主義論を批判する形をとっており,それが新自由主義自体を正面から論じることを妨げており,論旨をとりにくくしている。
 著者の主張ではっきりわかるのは,(1)マルクス主義者が新自由主義を資本主義の新段階とするのは,資本主義から社会主義への移行の中で発展段階を論じるはずのマルクス主義にとって自己矛盾ではないかという批判と,(2)新自由主義は包括的な世界像を提示するようなまとまりに欠けているものだ,ということだ。(1)は,社会主義が破綻したからマルクス主義も全部だめだという乱暴な否定のバリエーションに見えるし,(2)は賛成できるものの,さほど切れ味がよい話とも思えない。そもそも著者がやたら(1)のマルクス主義批判に重点を置く理由がよくわからない。いや,新自由主義批判をするのは確かに左派やリベラル派ではあるが,マルクス主義者に限らない。誰もが社会主義への展望を考えているわけではないのだから,社会主義移行論の無効化を理由に新自由主義批判を批判するというのは,あまり生産的とは思えないのだ。

2.もう少し原理原則的に言うと,著者の理論批判の方法,つまり理論を理論によって評価するのか,理論を現実と照応させて,正確に言えば理論を,現実に対する自らの認識に照らして評価するのかがはっきりしない。上記のマルクス主義者批判では,著者はマルクス主義の理論的整合性を問う形で,つまり理論を理論によって批判している。他方,本書の随所ではマルクス主義,産業社会論,そして著者の言う「実物的ケインジアン」の有効性低下を論じるところでは,1980年代以後,市場競争と営利企業が技術革新を促進し,担うことになったという,現実(に対する著者の認識)を根拠としている。このような理論評価の方法の分裂はほかの箇所にも見られ,本書が何を基準として話をしているのかをわかりづらくしている。

3.もっとも,より具体的な,理論の成否を測る物差しとなると,本書全体に共通する軸がないわけではない。それは,著者の言葉を借りるならば「貨幣的ケインジアン」の理論によって種々の学説を裁断していることだ。私なりに言い換えると,ケインズのリフレ派的理解である。つまり,失業,有効需要不足の主原因は貨幣,流動性の不足であり,それへの処方箋は金融政策でのインフレ誘導だということである。対して著者によれば「実物的ケインジアン」とは,失業,有効需要不足の主原因として価格の硬直性を問題にするものであり,これは本来のケインズの論点ではないと著者は言う。マルクス主義,産業社会論,実物的ケインジアンに対して本書は様々な批判を投げつけるが,共通しているのは,貨幣の重要性とマクロ経済の領域を軽視したからだという批判だ。その批判の根拠は貨幣的ケインジアン,つまりケインズのリフレ派的理解であり,流動性を十分に供給すれば自由な市場経済は完全雇用を達成できるのであり,技術革新も担えるのだということらしい。
 となると,著者の現代資本主義評価というのはこういうことなのだろうか。新自由主義論のように,市場と競争が強烈すぎると批判するのは的外れである。そうではなく,何らかの理由で流動性が十分供給されずに経済停滞や失業が起こることと,完全雇用が達成されたとしても存在する社会問題が肝心だ,と。
 その成否はともかく,本書は,ケインズのリフレ派的理解という物差しに強く依拠している。しかし,他書に委ねるということなのか,そもそもケインズのリフレ派的理解について,さほど丁寧な説明をされていない。そのため,本書は,わかりにくいという声が出るかもしれないことを別にすると,リフレ派ならば賛成でき,リフレ派でなければ賛成できないという風に,はっきりと読者を選んでしまっていると思う。それでいいのだろうか。

4.私見では,著者は「実物的ケインジアン」を矮小化しすぎており,その結果,著者からみれば古い発想なのだろうが,市場の自己調整機能を過大評価していると思う。私の理解は以下のとおりだ。
(1)まず,著者がおそらくセー法則と貨幣ヴェール観を否定していることはまちがいなく,それは理解できる。しかし,それならマルクスに対する評価はもっと上げるべきだと思う。金本位制にとらわれていたというのは,一応信用論を銀行券にまで立ち入って論じたマルクスや,マルクス学派の貨幣・信用論に対してあんまりではないか。
(2)次に,流動性が供給されれば完全雇用が達成されるという理解だが,それがたとえ客観的には正しくても,政策論としては,流動性選好が貨幣の供給によって有意に操作できなければならない。しかし,貨幣をはじめとする流動性を,人為的に,つまり市中からの需要とは独立に供給することには限度があるのではないか。市中からの需要に金本位制が答えられず,管理通貨制という知恵が必要だったというところまでは納得できる。しかし,いつでもどこでも,政府や中央銀行が貨幣供給量を自由に増やせるという理解はおかしくないだろうか。市中の需要がないところに貨幣を無理やり供給することは,少なくとも著者が重視する中央銀行券専一流通システムの下ではできないのではないか。現代日本で,マネタリーベースを拡大してもマネーストックは拡大しないという現象はどう説明するのか。いくら金利を引き下げてもインフレ率が高まらず,成長率がリーマン・ショック前のトレンドを回復しない先進諸国の現実をどう説明するのだろうか。
(3)流動性選好は重視するが,資本の限界効率の不確実性は無視するのはなぜなのか。ケインズは価格の硬直性だけを主張したのではない。資本の限界効率が不確実だと主張したのではないか。だから,いくら利子率を下げ,よしんば流動性選好が和らいだとしても,その分だけ自動的に投資が増えるとは限らないのではないか。利子率やインフレ期待という数字ではなく,産業や社会やライフサイクルへの見通しという,人間の持つ,形のある期待に働きかけることで,はじめて資本の限界効率は上昇するのではないか。

5.技術革新が市場競争によって促進され,営利企業によって担われるという現実への評価の仕方にも,疑問がある。この現実により,マルクス主義と産業社会論の一定の側面,つまり資本主義は技術革新を担いきれなくなるだろうという展望が否定されていることは,私も同意する。しかし,それ自体は社会主義計画経済の崩壊以来言い尽くされていることであって,いまさら新しい論点だとは思えない。
 一つの問題は,技術革新が営利企業によって担われることをもって,ケインズの実物的理解を否定することはできないということである。技術革新が活発であるかどうかと,有効需要が足りて失業がなくなることは別だからだ。技術革新が活発な世界でも,いや場合によってはそれ故にこそ供給力が増大して,有効需要は不足するかもしれない。
 また,著者に従って貨幣的ケインジアンの視線に発つとしても,それでめでたしめでたしとはならないはずではないか。なぜならば,市場競争と営利企業による技術革新は,バブル経済の生成,金融セクターの肥大化を通して促進されるからだ。ここには,金融工学のように,技術革新の金融部面への偏りという問題も生じる。これは実物的であれ貨幣的であれケインジアン的に見るなら,問題の残る成長の仕方ではないのか。

6.本書の末尾では現代日本の経済政策が論じられているが,ここで突如として著者は緊縮的財政政策を嘆いている。本書のここまでの流れからすれば,著者にとって重要なのは金融政策であろう。現に著者はアベノミクスの異次元の金融緩和は高く評価している。しかし,それで物価が上がらず,景気対策が十分でなく,財政拡張も必要だというのであれば,それは理論的に「金融緩和だけでは有効需要が十分に回復しない」という証拠であり,ここにケインズのリフレ派的理解の限界が示されているのではないのか。

 以上,浅学を顧みず批判ばかり書き連ねたが,批判を通して自らの見解を再検討し,認識を深める訓練をさせていただけるという点では,本書はたいへんよい材料だった。著者に感謝したい。

稲葉振一郎[2018]『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』亜紀書房。


<関連>
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/20182018621.html

「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について (2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018616.html

「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018-2018513.html


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

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