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2024年1月30日火曜日

預金のMMFへのシフトとFRBによるMMF相手のリバースレポはどのように行われ,どのような効果を持つか

 1.はじめに

 アメリカでは2022年から銀行預金が縮小し,またそれ以前の2020年から公社債投資信託の一種であるMMFが急増している。MMFは高利回りで安全度の高い運用先を求めるが,それは現在では政府やFRBの発行する債務へと向かう。一方,コロナ後になってFRBはインフレを食い止めようと金融引き締めにとりかかった。ここで両者の利害が一致する形で,2021年から2023前半までのFRBのリバースレポ(実質的には短期借り入れ)にMMFが応じるという取引が拡大した。本稿では,このリバースレポの金融政策上の意義について,貨幣流通の視角から論じる。なお,2023年半ばからは,MMFが運用先を短期国債にシフトさせたためリバースレポ取引は縮小し始めるが,その局面については,別の機会に委ねる。

 本稿はバランスシートを使った説明が長くなるので,結論を先取りしておくと,以下のようになる。

 家計が預金を引き出してMMFを購入すると,市中では預金貨幣が減り,現金流通高が増える。FRBの準備預金は減る。企業金融が銀行融資から証券発行にシフトしただけではこのようなことは起こらないが,MMFが投資信託であるために預金減と現金増が起こる。なお,個人にとっての流動性だけに注目して「フィナンシャルイノベーションによりMMFは通貨のようなものになった」「何が貨幣なのか曖昧になった」などという議論があるが,社会全体を見ればそうではない。単に現金流通が増えて,MMFという金融商品に買い向かったのである。

 次に,FRBがMMF相手のリバースレポを行なうと,市中では預金貨幣量は変化せず,現金流通高が減少する。FRBの準備預金は変化しない。FRBのリバースレポとは,現金通貨の吸収を通した金融引き締めなのである。このような取引が拡大していることは,FRBが中央銀行ー銀行ー企業・家計という本来のルートで信用創造を調節するだけでは金融調節が十分にできなくなり,遊休貨幣のほぼ直接的な回収に乗り出したことを意味する。しかもその回収方法は,金利というコストを支払って短期借り入れを行うというものである。本来信用を供与する側である中央銀行が,金利を支払って借り入れないと政策目的を達成できないのは,リバースレポも超過準備預金への付利も同様である。このことの意義は別途検討したことがあるが(※1),さらに考察を深める必要がある。

 預金のMMFへのシフトとFRBのMMF相手のレバースレポ取引がともに行われると,市中では預金貨幣が減り,発行済み現金は変化しない。FRBの準備預金は減る。したがい全体としては通貨供給量は減って金融引き締めとなる。預金縮小はFRBのオペレーションによるものではなく,家計の金融資産シフトによる効果である。一方,発行済み現金がいったん増加したのは,やはり家計の金融資産シフトの効果であるが,これを縮小させたのはFRBによるオペレーションの効果である。FRBは,市場の動きによっていったんは増加した現金を,MMFにリバースレポの金利を払うというコストをかけて政策的に回収したのである。FRBが回収しているのは現金だが,結果として減少しているのは預金と準備預金であることに注意が必要である。

 銀行預金と準備預金が減少することの引き締め効果は,超過準備預金が豊富にある状況ではごく小さなものである。しかし準備預金残高の縮小が進むと,効果が強まる可能性がある。FRBのリバースレポ金利支払が大きくなると,FRBの業績は悪化する。FRBの業績悪化は財務省への納付金の減少をもたらし,それによって連邦政府財政収支を赤字の方向に動かす効果を持つ。

 以下,これらのことを関連する経済主体のバランスシートの動きによって示す。なお,(+)は増額,(-)は減額で,金額はすべて同じである。

※1 「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023年7月6日。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


2.家計の資産が銀行預金からMMFにシフトすると,預金が減り,発行済現金が増え,準備預金が減る

ステップ1.家計が銀行から預金を引き出す

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),現金(+)
負債:

 家計が預金を引き出すとき,銀行は自ら準備預金を引き出して現金を確保して,これを家計に渡すのである。ここで発行済現金が増える。

ステップ2.家計がMMFを購入

家計
資産:現金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 この後MMFが何らかの金融商品で運用される。そうすると,MMF信託勘定の資産側で現金(-),金融商品(+)となり,金融商品の売り手の資産側で現金(+),金融商品(-)となる。本稿ではリバースレポで運用される話をするため,ここでいったん止める。

+取引前と後の変化

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 結果として預金貨幣が減り,発行済現金(連邦準備銀行券)は増え,FRBの準備預金も減っている。


3.FRBがリバースレポ取引によってMMFから現金を回収する

 FRBはポストコロナ下で,公社債投資信託の一種であるMMFを相手にリバースレポ取引を行っている。リバースレポ取引とは,保有国債を翌日買い戻すという条件付きで売ることであり,事実上は短期の借入である。この節の目的は,これがFRBによる現金回収を通した金融引き締めであることを,バランスシートによって示すことである。

 リバースレポ取引のプロセスを見る場合にややこしいのは,MMFはFRBに口座を持っていないことである。したがって直接取引することができず,中間にクリアリングバンクを介在させていると思われる。よって取引プロセスの段階が大きくなるが,煩を厭わずにおっていきたい。取引手数料は無視する。実務の詳細が不明であるために,取引のありようを完全に再現することは難しいが,基本的にはこのような理解でよいと思われる。

ステップ3.MMFは信託された現金をリバースレポで運用することとし,まず現金をクリアリングバンクに預金する。

MMF信託勘定
資産:現金(-),預金(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:現金(+)
負債:預金(+)

ステップ4.クリアリングバンクがFRBの準備預金を増やす

クリアリングバンク
資産:現金(-),準備預金(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(+),発行済現金(-)

 連邦準備券はFRBの負債であるため,FRBに還流すれば負債としては消滅する。紙券として再利用が可能であるかどうかは別問題である。

ステップ5.FRBがリバースレポを実行しクリアリングバンクが応じる

クリアリングバンク
資産:準備預金(-),リバースレポ(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

ステップ6.クリアリングバンクとMMFの間での清算が行われ,リバースレポの債権がMMFに移される

MMF信託勘定
資産:預金(-),リバースレポ(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:リバースレポ(-)
負債:預金(-)

+取引前と取引後の変化

MMF信託勘定
資産:現金(-),リバースレポ(+)
負債:(変化なし)

クリアリングバンク
資産:(変化なし)
負債:(変化なし)

FRB
資産:(変化なし)
負債:発行済現金(-),リバースレポ(+)

 リバースレポ取引前後で起こる通貨流通量の変化とは,預金貨幣残高や準備預金残高が変化せずに発行済現金(連邦準備銀行券)残高が減少することであるとわかる。


4.二つの局面を経ての変化の確認と結論

 銀行預金のMMFへのシフトと,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の二つの局面による変化は以下のとおりである

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:リバースレポ(+) 
負債:MMF残高(+)

 これによって,冒頭で先取した通りの結論が得られる。

 なお,2023年後半からリバースレポ取引残高は急速に縮小した。MMFが財務省証券(短期国債)に買い向かっているからだという。財務省証券の発行は,昨秋の政府の債務上限引き上げ合意に基づくものであり,永続的なものとは考えにくいが,この動きをめぐって金融政策についての論評が行われているので無視はできない。また,FRBが金融引き締めをいつ,どのように終了するかも問題になってきており,その際にリバースレポと準備預金はどう変化するのかも考えねばならない。別途考察したい。


2024年1月26日金曜日

MMF再考

  これまで私は,証券金融がいくら進んでも銀行預金は減少しないと書いて来た。それはおおむね正しかった。例えば会社が銀行からお金を借りるのをやめ,借りていたのと同じ額を,社債を証券会社引き受け経由で発行して資金調達するようになっても,社会全体としては預金は減少しない。社債購入者-証券会社ー調達企業のいずれも,銀行口座に持つ預金を介して取引を行うからである。同じようなことは,電子マネー決済が増えるとか,PayPayで給料を払うとかいう話にも言える。いずれも銀行預金残高を減少させない。

 しかし小さくない例外があった。信託に該当するものである。例えば投資信託の一種であるMMFである。諸個人が低金利の銀行預金を引き出し,より高い利回りを求めて同額のMMF購入にあてたとする。このとき,預金引き出しで発行された現金が,MMF購入に充てられて,信託銀行に預けられる。しかし,預金としてではない。信託銀行の銀行勘定と分離された信託勘定に預けられる。したがい,銀行預金とMMF残高は重複しない。銀行預金が減って,現金発行高が増えるのである。増えた現金発行高がMMF購入高に等しい。投資信託を通貨供給高統計で処理する際にはテクニカルな問題があり,アメリカと日本では扱いが違ったりする。しかし,理論的には,このように理解すべきである。なので,私がMMFを証券金融一般と同じに扱ってきたのは誤りであった(※1)。

 だから,MMFについては,「マネーが銀行預金からMMFにシフトする」と言われていることは,家計による運用先選択としてはもっともである。確かにMMFが増えると預金が減るのである。ただし,通貨論としては現金の動きを忘れることはできない。「銀行預金口座から引き出された現金がMMF購入に買い向かう」のである。

 ここの認識を改めることで,FRBがポストコロナ期に行っている,「超過準備預金への金利引き上げ」と「MMF相手のリバースレポ取引の拡大とその金利引き上げ」の意味がはっきりしてきた。前者は,FRB-銀行‐企業・家計のルートを通した金融引き締めである。後者は預金から外れてMMFに買い向かった現金の回収による金融引き締めである。FRBがMMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているという認識は誤りではなく,よりクリアになった。

 ただ,リバースレポ取引が現金回収による金融引き締めだというのは,わかりにくいかもしれない。そこで,銀行預金の減少とMMFの拡大,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の拡大によって,通貨供給量と構成がどう変動するかを,次稿で扱おうと思う。

 信託勘定の扱いについてご教示くださった,小林陽介先生に感謝します。

※1 「なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか」Ka-Bataブログ,2023年4月30日。
https://riversidehope.blogspot.com/2023/04/frbmmf.html


<参考>

小林陽介(2023)「グローバル金融危機後の米国シャドーバンクの動向」『証券経済研究』124,111-136。
伊豆久(2023)「FRB・RRP・MMF—資金余剰下の金利引き上げ—」『証券経済研究』124,43-56。
https://www.jsri.or.jp/publication/periodical/economics/2023

2024年1月7日日曜日

村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から

 1.課題と目的

 本稿の課題は,前稿(※1)での考察を踏まえて,村岡俊三の銀行信用論を検討することである。その目的は,マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点(以下,「蓄蔵・遊休貨幣出発説」と呼ぶ)に対し,十分な批判を行うことである。考察の前提は前稿と同じであり,国境のない単一の資本主義経済のみを想定して国際金融の影響を捨象する。また,財政収支の影響を捨象する。いわば一国の金融システムのみについての理論的考察である。そして,既に銀行が成立している下で個別銀行が活動する諸条件ではなく,銀行システム全体が成立する諸条件を考察する。

 さて,前稿での分析結果を要約すると,銀行システムが持つ支払準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の中央銀行当座預金設定でもありうる。そして,資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,準備金の主な出所は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行へに移っていくのである。

 本稿は,銀行を「信用貨幣の貸付による信用創造」として把握し,「貸し付けが預金に先行して説明されねばならない」と主張する立場に拠っている。以下,これを「信用創造=貸付先行」説と呼ぶ。前稿ではこの観点から準備金を論じることで,銀行を「現金の又貸しによる金融仲介」として,「預金が貸し付けに先行する」ものとして考える,「金融仲介=預金先行」説を批判した。「金融仲介=預金先行」説は研究者内でも学派を問わず多数であるため,この批判には意味があった。

 ただ,話をマルクス経済学に絞ると,いささか複雑になる。上述のようにそこには「蓄蔵・遊休貨幣出発説」があり,前稿はこれに対しても批判を行うものであった。「蓄蔵・遊休貨幣出発説」は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が圧倒的に強い。それ故,後者に対する批判によって前者に対する批判をかなりの程度カバーできた。

 しかし,信用貨幣論であっても「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点を採用した学説もある。それが,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」であり,それに続く著作である。本稿は,この村岡説を批判的に検討するものである。検討の中心は上記の論文(村岡,1976)に置くが,必要に応じて同『世界経済論』有斐閣,1988年(村岡,1988)も参照する。

 なお,村岡の信用論は,世界経済論の一部として公表されたこともあり,学会でも必ずしも十分に検討されていない。その中で,詳細な批判を行ったものとして岡橋保『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年(岡橋,1993)があり,参照したことをお断りしておく。岡橋の村岡批判を援用する際は,その都度注記する。

※1 川端「銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察」Ka-Bataブログ,2024年1月4日,https://riversidehope.blogspot.com/2024/01/blog-post.html


2.村岡説の検討

(1)村岡説の立ち位置

 村岡説は,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」(村岡,1976,p. 286)(※2)を行うと主張するものである。まず,この村岡説の理論的立ち位置を確認しよう。

 第一に,村岡は独自の折衷的立場を取っている。村岡は銀行券は銀行手形であり,銀行は預金を集めるのに先立った銀行券発券による貸し付けを行うと考えている。その点で,「信用貨幣=貸付先行」説に立っている。しかし同時に,「銀行とは,さし当り,このように利子生み資本として移納すべき遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣を預金として集積し,これを必要とする産業資本に貸付けることを業とする一特殊的資本」と規定しており(p.283),その点では「信用創造」でなく「金融仲介」説に立っているのである。ただし「現金の金融仲介」ではなく銀行券での貸し付けと預金を想定している。「貸付先行」と「金融仲介」がどうして両立するかというと,「先取的媒介」だからである。貸付けは先行して行われるが,それは将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介だというのである。本稿は,村岡説に対して,「信用創造=貸付先行」説を徹底させる見地から検討を加える。

 第二に,村岡が説明しようとしているのは,銀行券が信用貨幣だということであって,準備金の必要性ではない。村岡のいう「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」とは,「銀行券の預金還流」,つまり「銀行信用を供与された産業資本家以外の者(資本家又は労働者)からの預かり金」が発券銀行に預託されることである(pp. 290-291)。銀行Aは産業資本家aに銀行券で貸し出し,aと取引した産業資本家bや,aやbに雇われた労働者cが銀行Aに銀行券で預金を行うということである。村岡は,これを銀行券の還流,つまり信用貨幣が発行元へ戻ることによって消滅することの最重要形態として重視している。村岡は信用貨幣の発行と寒流の説明を目指したのであって,著者の前稿のように,銀行の準備金の成立を論じたわけではない。しかし本稿は,準備金論を深めることによって,村岡説に対する批判と代替的見地の提示が可能になると考えている。

 以上の2点を踏まえた上で,論評に移ろう。


※2 以下,書名を明示しないページ番号はすべて(村岡,1976)のものである。


(2)「銀行券の預金還流」説批判

 著者の見地から見れば,村岡説が銀行信用を「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介では」ないとする点は支持できる。他方,「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という点の妥当性は,それが何を意味するかによる。村岡説では,これを「銀行券の預金還流」に求めているが,これは問題を含むと考えられる。

 まず,銀行券が発行元に還流する最大のルートは,貸付金の返済である。企業・個人に対する貸出債権と,銀行券という銀行債務が相殺されるのが返済であり,これによって銀行券が信用貨幣である証拠とするのが,むしろ自然な説明であろう(岡橋,1993,p. 147)。銀行券は貸付によって流通に入り,返済によって流通から出て消滅するのである。ところが村岡は「およそ貸付があれば返済されるのは当然のことであるから,その点で銀行信用に固有な還流とは言えない」(p. 291)として,これを軽視し,預金還流を重視する。しかし,これは,預金の性質を取り違えた議論である。今日の銀行貸し付けの実態から明らかなように,銀行による貸付とは借り手に預金口座を開かせ,預金創造を行うことによってなされる。銀行信用とはこの預金という銀行手形による貸し付けのことである。銀行券,また発券集中の下では中央銀行券が発券されるのは,借り手が預金を引き出した場合に他ならない。より本源的なのは預金債務であり,銀行券債務は派生的なものとみるべきである。そして,預金が生まれるのはまずもって貸し付けの時なのであって,企業・個人が手持ち銀行券を銀行に預け入れることは,派生的なことである。

 また,村岡の言う「銀行券の預金還流」がなされても,還流してなくなるのは銀行券だけであり,預金債務は還流していない。村岡がマルクス『資本論』を引用して述べているように,このとき銀行は依然として産業資本家に対する債権者であり,また預金者に対して債務者である(p. 293)。銀行の貸付金も決済されていないし,信用貨幣としての預金もまだ決済されていないのである。つまり,村岡の説明では信用貨幣論として完結していないのである。村岡が信用貨幣として説明すべき対象を銀行券だけとして預金を軽視したこと,より具体的には貸付けは銀行券の札束でなされ,預金とは既発銀行券が預けられることで形成されるのだ,と想定したために,このような中途半端な説明になったのだと考えられる。

 さらに,村岡は銀行貨幣の信用貨幣であることの説明に全力を注いだために,準備金がなければ銀行は機能できないのではないか,という疑問に答えていない。村岡は正貨流通下を想定しているので,本稿も同様に想定しよう。前の段落で述べたように,銀行券が預金還流しただけでは,銀行は預金者に対し依然として債務者である。預金者が正貨での引き出しを要求したらどうするのか。また,銀行券を発券して貸し付けを行なったとして,その後その銀行券を入手したものが兌換を請求してきたらどうするのか。村岡は銀行が金を運備金として持つことは想定しているのだが(p. 300),銀行の金準備がどこからどのように形成されるのかを述べていない。中央銀行券成立下を想定した場合に就いては記述があり,「市中銀行の金での預け金と新産金の購入によって中央銀行に集積された金が中央銀行の金属準備を構成する」とは書いている(p. 300)。あるいは村岡は,市中銀行に金でも預金がなされることを当たり前と思い,説明しなかったのかもしれない。では,仮にそうだとして,正貨流通が停止されている現代では,準備金はどのような形を取り,どこからやってくるのだろうか。預金者が中央銀行券での引き出しを要求したらどうするのか。銀行はどうやって中央銀行券を入手するのか。金属準備と無関係に中央銀行券が発券されるとは理論的にどのような事態なのか。村岡は兌換・不換を問わず,資本主義社会一般に通用する銀行の規定を獲得しようとしていたのであるから,正貨流通が停止した場合,銀行はどのようにして準備金を成り立たせるかを説明する必要があったように思う。

 このように,村岡の「銀行券の預金還流」説は,銀行システム成立の説明としては,種々の問題をはらむものと言わねばならない。


(3)「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」説批判

 それでは,村岡説の「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という説明は,どう見たらよいか。

 鍵は,この「先取的媒介」という視点が有意義か,そうでないかというところにある。村岡が「先取的媒介」されるとした「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」と見ると中途半端な説明になることは既にみた。しかし,正貨での預金,また新産貨幣金属の中央銀行による買い上げと見るならば,ある程度妥当する部分がある。正貨流通の下では,銀行システムは,預金または中央銀行からの信用供与によって,準備金に必要な正貨を獲得できるという見込みを持てるからこそ,貸し付けを行える。このときにあてにしている正貨準備や金属準備を「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできるだろう。

 しかし,中央銀行券,中央銀行当座預金,とりわけ正貨流通停止下のそれについてはどうか。銀行にとってどうしても必要なのは準備金であるが,それを正貨以外で準備しようとすれば,中央銀行による信用供与,中央銀行当座預金という独特な信用貨幣の新規発行によって準備するよりない。また,村岡の想定に歩み寄って,銀行は中央銀行券で貸し出すとしても,銀行は既に発券を行なっていないので,中央銀行券を貸付けに先立って入手しなければならない。それにも中央銀行当座預金が必要である。中央銀行当座預金は,中央銀行が銀行に対して信用を供与する際に創造されるのであるから,「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできないだろう。

 もちろん,銀行システムがすでに成立している下でならば,個々の銀行は預金獲得競争に力を入れて中央銀行券を集めつつ,貸し出しを増やしていくことはある。しかし,集めるべき中央銀行券は,そもそもどこかの銀行がどこかの企業・個人に貸付けた結果存在している。銀行システム全体が成立するためには,準備金は中央銀行から獲得されると見るしかないのである。

 このような違いが生じるのは,正貨であれば蓄蔵貨幣になり得るが,貸付ける際に創造され,返済されれば消滅する預金貨幣や銀行券は,流通の外で蓄蔵されようがないからである。次項でさらに確かめるが,村岡は正貨と預金を混同し,預金も蓄蔵貨幣になると誤認したのである。

 村岡説の問題点は以下のとおりであるが,村岡が自説を通して述べたかったことは,貨幣流通の全体像にかかわる問題である。このことについての主張は村岡(1988)第4章に記されているので,そちらに即して検討しよう。


3.「銀行預金=蓄蔵貨幣」説批判

 村岡は「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を問題にしたが,銀行システムにおいて「蓄蔵貨幣」とはそもそも何なのかが問題である。金属準備が蓄蔵貨幣であることは村岡も指示している(p. 300)。しかし,村岡にとって蓄蔵貨幣とはそれだけではない。「預金還流」した銀行預金全体が蓄蔵貨幣なのである。「銀行預金こそは資本制的生産における蓄蔵貨幣の主要な存在形態である」(村岡,1988,p. 215)と断定されているのでまちがいはない。

 しかし,ここには二重の問題がある。まず,デジタル信号でしかない銀行預金が流通外で金と同等の価値保蔵機能を持つとしてよいかという問題である。これはマルクス経済学における,金・正貨以外のものも蓄蔵貨幣になり得るかという論争と絡む(※3)。しかし,村岡説のより大きな問題は,預金が流通外にあるとしていることである。蓄蔵貨幣であるとは流通の外にあることである。しかし,預金とは通貨であって流通している(岡橋,p. 149)。その証拠として,日々口座振り込みによってキャッシュレスの支払が行なわれているではないか。預金貨幣は流通内にある信用貨幣なのである。

 村岡は銀行預金に蓄蔵貨幣の「プール機能」を見出していた(村岡,1988,p. 215)。しかし,これは見当違いである。銀行預金は流通内にある預金貨幣である。預金貨幣は貸付によって流通に入り,返済によって還流して消滅する。中央銀行券は,中央銀行当座預金が引き出されることによって流通に入り,中央銀行当座預金に預け入れられることによって還流して消滅する。なにもプールには溜まらないのである。

 もう少し深めよう。「プール機能」があるとすれば,それは創造される元,還流する先にあると言わねばならない。だから「プール機能」があるとするならば,銀行信用においては銀行そのもの,中央銀行券については中央銀行当座預金である。しかし,あるのはプールと流通をつなぐ導管機能だけである。すなわち,商品流通が必要とする際に貨幣がそこから流通に入り,不要な際にそこを通って流通から出ていく導管はある。しかし,プールはない。信用貨幣は,発行の際に創造され,発行元に還流した時には消滅するからである。導管機能のみ残り,実在する蓄蔵貨幣のプールはなくなるというのが,銀行券と預金貨幣のもとでの貨幣流通の在り方なのである(※4)。

 実は,ここでも村岡の主張は,正貨での預金については部分的に妥当する。預金者が正貨で預金をするとき,銀行は預金という自己宛て債務,自己宛て預かり証を発行する。そうすると,正貨そのものは預金者の手から銀行に移動してその資産となる。と同時に,銀行の負債として預金が新たに発生する。預金は通貨として流通する一方,正貨は流通から出て蓄蔵貨幣となる(※5)。銀行はこれを自ら保有し続けるかもしれないし,中央銀行に預けるかもしれないが,それはここでは問題ではない。要は,正貨での預金がなされたときには,確かに蓄蔵貨幣が発生し,銀行・中央銀行が「プール機能」を果たすのである。しかし,同時に発生する預金は流通する。だから,やはり銀行預金そのものは蓄蔵貨幣ではないのである。

 銀行システムが成立している下での「プール機能」を解明しようとした村岡の問題意識は正当である。しかし,預金貨幣の性質を見誤り,また正貨と預金を混同したために,村岡説は的を射抜くことができなかったのである。


※3 本稿著者は,金属貨幣・正貨以外のものは,流通から外に出て価値を保蔵することはできない,つまり蓄蔵貨幣にはなり得ないと考える。ただし,流通内にあって,一時的に商品流通を媒介することなく遊休することはあるし,減価するリスクを伴いながら価値保蔵が図られることはあるとも考える。川端「遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために」Ka-Bataブログ,2022年3月28日,https://riversidehope.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html

※4 貨幣が現れたり消えたりするのはどういうことかと,直観的な違和感を持たれる読者がおいでかもしれない。その答えは,「手形を発行して貸し付け,回収したら破棄するから」である。債務証書である預金や銀行券が通貨となっているから,このようなことが起こるのである。

※5 自行銀行券で預金がなされた場合にこのようなことが起こらないのは,自行銀行券は銀行にとって債務であるため,預金されると資産として保蔵されることがなく,還流・消滅するからである。銀行にとって新たな預金債務が発生することは正貨で預金された場合と同じである。


4.準備金の確保を見込んだ貸し付け

 ここまで見たように,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」を行うとし,この「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」に見出した村岡説には,種々の問題点が指摘できる。しかし,村岡が「先取」という言葉を使って表現したことには,重要な合理的契機が含まれているように思う。それは,銀行における貸付が,貸付とは別に何かを確保できることを当てにし,その確保を条件として行なわれなければならない,ということである。本稿の見地からすれば,これは準備金の重要性を示している。

 「信用貨幣=貸付先行」説においては,銀行は事前に確保した預金を又貸しするのではない。ということは,貸し付ける際に,支払準備の確保は保証されていない。一体,どのような形の貨幣で,どのように確保されるのか。これが,村岡や本稿著者を含め,「信用貨幣=貸付先行」説に要請される課題である。また,もちろんここには,貸付だけでなく預金も含めて銀行をトータルに把握すべきだという,預金論の課題も含まれている。

 「信用貨幣=貸付先行」説において,準備金は次のような理論的位置を持っている。準備金は,銀行自身が創造する信用貨幣を決済できるもので確保しなければならない。それには,正貨,相殺可能な債権,より信用度の高い債務の三種類が考えられる。このうち,銀行に何の困難ももたらさないのが債権債務の相殺であり,典型的には貸付金の返済である。銀行は信用創造によって貸付金債権を保持すると同時に預金債務を負う。そして返済=回収の際には,銀行の貸付金債権も預金債務も消滅する。多くの銀行債務=預金貨幣が,この返済=債権債務相殺によって決済されるために,銀行は準備金を貸付金の全額にわたって準備する必要がないのである。しかし,預金の引き出しや他行からの支払い請求など,債務返済を一方的に迫られる事態もありうる。そのために,債務と相殺できる債権(すなわち貸付金)以外に,一定額の正貨か,自ら創造した信用貨幣よりも信用度の高い信用貨幣(すなわち自行預金貨幣より信用度の高い中央銀行当座預金)を保持しておかねばならない。これが準備金である。定義上,それらは銀行自身が作り出せるものではない。そして,確保できるという絶対の保証はない。こうした事情から,貸し付けのための信用貨幣の発行は,別途,準備金を確保できることを当てにした,リスクを伴うものにならざるを得ないのである。これは貸付金の貸し倒れリスクとはまた別の,準備金ショートリスクであることに注意していただきたい。準備金ショートリスクは,銀行システムの成り立ちに必然的に伴うものなのである。村岡説は,この準備金ショートリスクを,「先取」の必要性という,いささか核心からそれた形で表現したのである。

 「銀行は別途,必要な準備金を確保出来るという見込みの下に,預金貨幣の創造による貸し付けを行う」。これが村岡説に対置する本稿の見地である。この確保がどのような形と経路で行われるかは,前稿で示した通りである。銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならないのである。

 準備金論に残された課題は,中央銀行に本稿の規定は当てはまるのかということである。まず正貨流通下では,中央銀行は正貨や貨幣金属地金で準備金を保有しなければならない。よって同じ規定が当てはまる。しかし正貨流通停止下では異なる。前稿で述べたように,対外支払い・決済を捨象した次元で考える限り,中央銀行には通常の意味での支払準備金は必要とされない。正貨や貨幣金属は準備金の対象外になっており,中央銀行当座預金や中央銀行券より信用度の高い信用貨幣は国内にはないからである。準備金に代わって必要とされるのは,通貨価値が毀損されないであろうという社会の信任であろう。準備金は,本質的に必要とされるのではなく,中央銀行の政策として保有するものになるだろう。ここでは準備金の性質が変わっており,貸付を行うに際して確保が必要という規定は当てはまらなくなるようにも見える。この中央銀行の独自の性質については,なお検討が必要であろう。今後の課題としたい。


参照文献

岡橋保(1993)『貨幣数量説の新系譜:マルクス貨幣信用論の俗流化批判』九州大学出版会。
村岡俊三(1976)『マルクス世界市場論:マルクス「後半の体系」の研究』新評論。
村岡俊三(1988)『世界経済論』有斐閣。

2024年1月4日木曜日

銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察

 1.問題の所在

 本稿は,銀行システム成立に当たっての準備金の必要性と役割について考察する。

 銀行を経済学的に理解する上での立場は,大きく「現金の又貸しによる金融仲介」説と「信用貨幣の貸付による信用創造」説に分かれる。前者の方がイメージはしやすいものであり,一般社会でも研究者の多数においてもこちらによって銀行が理解されることが多い。流通している現金が銀行に預け入れられ,預金となって集積され,集積された貨幣が借り手に又貸しされるというものである。後者は,銀行は自分の手形(債務証書)を発行して,それを手渡すことで貸しつけるというものである。具体的には預金貨幣が創造されて貸付けられる。借り手が預金を引き出した場合に,当該銀行が発券銀行であれば当該銀行券が発券され,発券集中が行われていれば中央銀行券が発券される。預金貨幣も銀行券も貸付けられた債務が貨幣化したものであり,信用貨幣である。

 銀行の貸付と預金という二つの業務に即していえば,前者は「預金先行」説とも言えるし,後者は「貸付先行説」とも言える。なぜなら前者では預金が先に形成されて現金が集積され,しかる後それが貸し付けられるからである。対して後者は,預金が集積されるよりも前に貸付が行なわれるからである。

 私はこれまでも述べてきたように「信用貨幣の貸付による信用創造」「貸付先行」説(以下「信用創造=貸付先行」説)に立っているが(※1),この立場に立った場合,銀行を説明する上で二つの点が「現金の又貸しによる金融仲介」「預金先行」説(以下「金融仲介=預金先行」説)よりも複雑になる。一つは,正貨流通・金兌換停止下において,預金貨幣や銀行券が信用貨幣であることの説明である。しかし,この点はこれまでも説明済みであり,ここではとりあげない(※2)。もう一つは,準備金の説明である。あらかじめ預金を集めないままに信用創造で貸し付けを行うこと自体は可能であるとしても,準備金を確保しなければ預金引き出し請求や他行からの支払い請求に応じられない。「信用創造=貸付先行」説では,準備金の確保のしくみ,準備金の役割をどう説明するのか。これが本稿の解明すべき課題である。

※1 「貨幣発行と流通のしくみ」(その1)から(その9),Ka-Bataブログ,2023/12/8-2023/12/17,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post.html

※2 「貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?」Ka-Bataブログ,2023/12/13,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post_13.html 。金兌換がなされずとも,より上位の債務による返済,債権債務の相殺という二つの方法での決済が可能であるから,信用貨幣と言えるということである。


2.考察の前提

 本稿では,ある一つの資本主義経済を,別の言い方をすれば国境に区切られていない単一の資本主義経済を想定した考察を行う。これにより,国境に区切られた世界経済において生じる対外支払い・決済の問題を捨象する。その理由は,プラグマティックには,対外支払い・決済については独自の問題が多く,それだけで紙数を必要とするからである。この措置は,理論的にも正当化できる。というのは,まず国境のない単一資本主義経済の下で考察することは,国境で区切られた世界経済を考察する上での基礎となるからである。

 本稿では,正貨(金貨など)が流通している場合と流通していない場合,全国的決済システムと発券集中を実現して中央銀行が存在する場合としない場合を分けて考察する。ただし,正貨流通が停止していて中央銀行券が成立していない状態,つまり正貨も法定通貨も存在しない状態,さらに言い換えるといわゆる「現金」のない状態,は考えにくい。よって正貨流通・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を考えればよい。より一般的な表現では,前二者は金本位制をはじめとする金属本位制の場合,後者は管理通貨制の場合だと考えればよい。

 正貨流通の下では,銀行は発券機能を持ち,正貨流通停止の下では発券集中により持たないものとする。よって,正貨流通の下では正貨,預金貨幣と,銀行券または中央銀行券が流通しており,正貨流通停止の下では預金貨幣と中央銀行券が流通している。

 銀行は預金の払い出しに応じなければならない。加えて,正貨流通の下では兌換請求にも応じなければならず,正貨流通停止の下では兌換も停止するものとする。正貨流通の下では,銀行・中央銀行は預金の正貨での払い出し,自行銀行券の金との交換に応じなければならない。一方,正貨流通停止・中央銀行成立の下では,兌換は行われない。ただし,銀行・中央銀行は預金の中央銀行券での払い出しを行わねばならない。

 また口座開設者の取引の結果を決済するために,銀行内の口座間と,銀行間での送金義務が発生する。銀行内であれば口座間の預金振替でことは足りる。しかし銀行間ではそうはいかない。支払いと受け取りの差額が支払超過である場合,銀行は送金を行わねばならない。正貨流通・中央銀行未成立下では,他行に対して正貨または相手行銀行券での支払いが必要である。正貨流通・中央銀行成立下ではこれらに加えて,中央銀行当座預金での支払いが可能である。正貨流通停止・中央銀行成立換えは中央銀行当座預金での支払いが可能である。なお中央銀行当座預金に換えて中央銀行券で支払うことも可能であるが,緊急時以外には行われないであろう。

 本稿では,中央政府財政の赤字・黒字はないものとする。したがって,財政収支による通貨供給への影響はないし,国債発行による影響もないものとする。

 本稿が根本的に問題とするのは一社会において銀行というものが成り立つ条件である。既に他の銀行が成立している下で個別銀行が追加で成立する条件ではない。このことを明確にするために,個々の「銀行」と区別される社会全体としての銀行のしくみを「銀行システム」と呼ぶこともある。ただし,個別銀行について述べることと社会全体の銀行システムについて述べることが矛盾しない場合には単に「銀行」という用語を使う。


3.「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明批判

 まず,「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明について一瞥しておこう。この説だと,一見,準備金の説明は簡単に見える。先に預金が銀行に集められるからである。しかし,場合分けしてみていくとそうでもない。正貨流通・中央銀行不成立の下では預金は正貨と自行・他行銀行券,正貨流通・中央銀行成立下では正貨と中央銀行券で集められる。正貨流通停止下では,中央銀行券で集められる。

 このうち,又貸しが簡単に説明できるのは貸付が正貨または中央銀行券で行われる場合である。まずもって預金は銀行に集積されているのであるから,借り手が預金の引き出し要求,兌換請求,他行からの支払い請求に応じることは当然に可能である。また正貨流通・中央銀行不成立下の他行銀行券についても,当該銀行に兌換請求すれば正貨が入手できるので正貨で預金された場合に準じて考えることができる。準備金残高が不足することもありうるが,それは貸し出しが過大であったり,不良な借り手ばかり集まっているからという量的問題であり,本来的に準備金になるものを持っておらず支払い不可能だという質的問題ではない。

 正貨流通の下では預金として集めた正貨の一部,正貨流通停止の下では集めた中央銀行券の一部が準備金となっているので,そこから払い戻しを行う。ここに何の不思議もないように見える。

 しかし,正貨の場合は良いとして,銀行券の場合は子細に観察すると問題がある。「金融仲介=預金先行」説は,社会全体として銀行システムを考察した時,預金となって集積すべき通貨のうち,他行銀行券や中央銀行券が,そもそもどうして流通しているかを説明できないのである。預金するためにはあらかじめ流通していなければならない。しかし,銀行券というものは,そもそもどのようにして発行され,流通に入るのか。銀行券は,まず発券銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合に発券される。また,最初から銀行券で貸し付けを受けた場合にも発券される。中央銀行券もこの論理の延長上で説明できる。銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合,あるいは最初から中央銀行券で貸し付けを受けた場合に,銀行は中央銀行券を必要とする。その中央銀行券は,銀行が中央銀行に持つ中央銀行当座預金設定を引き出すことで発券される。中央銀行当座預金は,正貨流通下では,流通している正貨が銀行に預けられ,さらに中央銀行に預けられることと,中央銀行が銀行に貸し付けを行うことの二つによって形成される。また正貨流通停止下では,後者の方法によってのみ形成される。

 だとすると,正貨が関与する場合を除いて,他行銀行券や中央銀行券による預金は,貸付に先行するものではありえない。もともと,どこかで銀行が企業や個人に,あるいは中央銀行が銀行に信用を与えたからこそ存在しているものである。ということは,銀行システム全体としては「預金先行」がありうるのは正貨についてだけである。銀行券,中央銀行券は,個々の銀行から見れば「預金先行」に見えても,銀行システム全体を見れば必ず「貸付先行」なのである。

 だから,「金融仲介=預金先行」説は正貨流通下で,正貨については整合的に説明できるとしても,銀行券が関与した瞬間に論理的に成り立たなくなる。よって,銀行システム成立の論理としては否定されるべきである。


4.「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明

 では「信用創造=貸付先行」説ではどうか。これが,本稿の積極的に解くべき問題である。以下,場合分けをしながら考えよう。


(1)正貨流通下の場合

 まず正貨流通の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造するか,自行銀行券を借り手に渡して貸し付けを行ったとしよう。ここで,借り手が正貨での払い出しまたは兌換を要求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 正貨流通・中央銀行未成立下では,銀行は一定額の正貨を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。つまり銀行は,信用創造を行うこと自体は準備金がなくともできるが,正貨での準備金を,借り手が払い出し請求,兌換請求を行い,他行からの支払い請求が来る以前に準備することが必要になる。抽象化すれば,正貨が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。これらを満たすのは正貨での預金である。いったん銀行システムが成り立てば,個々の銀行にとっては他行銀行券でもよい。他行銀行券を当該銀行に提示すれば当該銀行に対する支払いができるし,正貨も入手できる。しかし,他行の存在を前提せず,銀行システム自体が成り立つ条件としては,正貨が必要である。正貨流通・中央銀行未成立下の下では,銀行システムが成立するためには,預金された正貨での準備金が必要なのである。

 念のため付記すれば,正貨準備その量は,払い出し,兌換,支払支給に応じるに十分なだけあればよいのであって,銀行は準備金ショートのリスクに注意しながら,準備金の額以上に貸し出すことができる(※3)。

 正貨流通・中央銀行成立下では,事情は多少修正される。預金者の正貨払い出し・兌換請求には正貨でなければ応じることができないが,他行に対する支払いは正貨を持ち出さなくとも,中央銀行当座預金を通して支払うことが可能である。また正貨を入手することは,中央銀行当座預金を正貨で引き出すことや,手持ちの中央銀行券を中央銀行に提示して兌換請求を行うことで可能である。つまり,正貨流通・中央銀行成立下では,銀行が準備金として確保すべきは,預金された正貨または中央銀行当座預金なのである。

 ここでまず注目すべきは,預金された正貨である。この正貨は「金融仲介=預金先行」説の言う本源的預金ではない。受け入れた正貨をまた貸しするのではないからである。しかし,銀行の成立に当たって必要な預金であるという意味では,本源的預金に類似したものである。正貨流通の下では,銀行はこうした,いわば準本源的な預金を必要とするのである。同じことを別の角度から言えば,貸付という行為自体は,預金がなくとも可能である。しかし,預金の払い出しや銀行間支払の必要に備えた,正貨による預金は必要なのである。

 ところで正貨での預金というのは,貨幣流通の見地から言えば,金などの貨幣商品が商品流通外に出ることを意味するものであり,蓄蔵貨幣の形成を意味する。正貨による蓄蔵貨幣の形成は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,銀行システムの成立とそれによる信用創造の拡大は,当該社会での正貨による蓄蔵貨幣の形成に外的に制約されるのである。

 中央銀行の成立はこの制約条件を緩和する。中央銀行が当座預金を創造して銀行に供給することによって,銀行の準備金に伸縮性が与えられるからである。ただし,中央銀行自身が銀行からの兌換請求に応じなければならないので,中央銀行自体に正貨や貨幣金属(典型的には金地金)の準備が一定程度必要とされる。この正貨や地金は,流通にいったん入りながら,商品流通に一時的に不要とされて形成された蓄蔵貨幣から成る。具体的には,正貨での銀行預金が,再度中央銀行当座預金として預けられたものである。しかし,それだけではない。新産の貨幣商品金属を通貨当局である中央銀行が,直接に,あるいは政府を通して平価で無制限に買い入れることによっても形成される。これにより準備は補填される。ここでも,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の産出は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,中央銀行がもたらす準備金の伸縮性も,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の買い上げという別個の運動によって外的に制約されるのである。


※3 銀行は準備金の額以上に信用創造ができる。これは,「信用創造・貸付先行」説に立つならば,正貨流通下か否か,中央銀行成立下か否かにかかわらず妥当する。よって,以後,いちいち記述しない。


(2)正貨流通停止・中央銀行成立下の場合

 次に正貨流通停止,かつ中央銀行成立の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造して貸し付けを行った後に,借り手が中央銀行券での払い出しを請求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 銀行は,中央銀行券を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。また中央銀行当座預金を保持していなければ,他行に対する支払いを行うことができない。中央銀行券は,中央銀行当座預金を引き出すことによって入手できる。つまり銀行は,信用創造を行う際に,中央銀行当座預金または中央銀行券での準備金を事前に,あるいは事後であっても少なくとも借り手が払い出し請求や兌換を行いそうになる前に準備することが必要になる。抽象化して言えば,事後に中央銀行当座預金・中央銀行券が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。 

 では,このような条件を満たす中央銀行当座預金・中央銀行券の入手方法とは何か。一見すると,正貨流通下では正貨の預金であったように,正貨流通停止の下では中央銀行券での預金であるように思える。しかし,そうではない。預金者が中央銀行券で預金を行うためには,あらかじめ中央銀行券が発券されていなければならない。ところが,財政支出が捨象されている限り,中央銀行券が発券されるのは,預金者が預金を引き出した場合だけである。そして,預金が生まれるのは銀行が企業・個人に貸し付けを行った場合である。個人や企業が銀行に中央銀行券を預け入れる場合にも預金は生まれるように見えるが,その中央銀行券はどこかで預金を引き出したから発券されているのであり,やはりそれ以前の,貸付によって生まれた預金に由来する。いずれにせよ,預金や中央銀行券が生まれる大本は銀行による企業・個人への貸付なのである。ということは,銀行システムが成立するにあたって中央銀行券での預金が必要となるというのは循環論法である。中央銀行券での預金は,どこかで銀行が企業・個人に貸し付けた結果としてでなければ存在できないのであり,銀行システムがすでに成立していることを前提するからである。

 だから,銀行システム成立に当たって銀行が必要とする中央銀行券での準備金は,銀行への預金によって形成されるものではない。中央銀行が創造した中央銀行当座預金を引き出したものなのである。正貨流通停止の下での銀行の準備金とは,本質的に中央銀行が供与するものなのである。この点が,正貨流通の場合とは決定的に異なる。

 再び貨幣流通の見地から見ると,中央銀行当座預金や,銀行によって引き出されて銀行が手持ちしている中央銀行券は,一時的に遊休し,商品流通を媒介していないという意味で遊休貨幣である。しかし,蓄蔵貨幣ではない。預金や銀行券は価値を持たないデジタル信号や紙券に過ぎないので,流通から出て価値を保蔵するという意味での蓄蔵貨幣にはなり得ない。正貨流通停止下では,遊休貨幣は存在しても蓄蔵貨幣は存在しないのである。

 しかし,中央銀行当座預金や銀行手持ち中央銀行券が蓄蔵貨幣でないことは,むしろ積極的な意味を持つ。蓄蔵貨幣ではないがために,信用創造の運動に従属し,信用創造の運動に反応して形成される伸縮性を持つからである。正貨流通停止下では,銀行の信用創造は,正貨による蓄蔵貨幣形成の制約を離れて拡大できる。中央銀行は,信用創造を促進するとともに,それが過大とならないように,自らの信用創造による準備金供給を,金利調節を通してコントロールする。そして中央銀行もまた,蓄蔵貨幣の多寡や新産貨幣金属を買い上げる必要によって外的に制約されなくなるのである。

 正貨流通停止下では中央銀行は兌換請求を受けることはない。そのため中央銀行自身の準備金としても正貨や地金は必要とされなくなる。本稿が想定する条件の下では,原理的には他の形態での準備資産さえ必要とされない(※4)。政府財政の影響を捨象する限り,正貨流通停止下では,中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に対して信用を供与した結果であり,預金貨幣は銀行が企業・個人に対して信用を供与した結果であり,中央銀行券の発券は預金の引き出しによって預金貨幣が置き換えられた結果である。このような銀行システムの下では,銀行が中央銀行に求めることは,中央銀行当座預金での支払い決済の遂行であり,中央銀行からの借り入れの返済に際して当座預金または中央銀行券の利用を認めよということである。それは,金兌換が停止されていても何ら問題なく中央銀行が遂行できることである。つまり,本稿の前提の下では,中央銀行に対して銀行から兌換請求に変わる準備資産請求が殺到することは通常はない。あるとすれば,それは恐慌の勃発などによって通貨価値の激しい毀損が生じた場合であろう。その時には,本稿の想定の外にある財政赤字累積の結果として,中央銀行が供与してもいない中央銀行当座預金が積み上がっているであろう(※5)。中央銀行が銀行システムの健全さを維持できている限りは,そうした事態は生じない。本稿が想定する条件下では,中央銀行が準備資産を持つのは当然に必要なことではない。預金払い出しや決済に必要だからではなく,こうした通貨価値の毀損が激しくなることや,そのおそれによって通貨の信認が低下する事態を抑止する効果を持つために,政策的に選択されることである。


※4 対外取引を含めて考えるとここに修正が必要であるが,本稿は単一経済を前提しているので,こう言ってもよいのである。対外取引がある場合については,6節で最小限補足する。

※5 このことについては,ここで詳しく触れる余裕はない。さしあたり以下の拙稿を参照されたい。「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023/7/6。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


5.中央銀行当座預金の独自の役割

 ここで,中央銀行当座預金の独自の性質を論じておく必要がある。ここまでは正貨流通下・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を機械的に区分して論じてきたが,ほんらいこれらは資本主義の発展とともに歴史的に変化する通貨体制の変遷を表している。資本主義の発展とともに中央銀行設立という形で通貨体制が整備され,正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積されるとともに,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられる。そうすると,自らは必ずしも準備を必要としない中央銀行の信用供与が,銀行の準備金の主力供給源になるということである。

 では,この中央銀行の信用供与は貨幣論としてどう位置づけられるか。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金が引き出されると中央銀行券が発券される。この関係は,銀行預金と銀行券の関係と全く同じであり,ここから中央銀行当座預金も信用貨幣であり,中央銀行券に対してより本源的なものだということができる。

 しかし,中央銀行当座預金は商品流通を直接に媒介しない。その意味では通常の通貨とは異なる。しかし,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な信用貨幣であり,独自な預金貨幣だといわねばならない。今日の用語で,マネタリーベースに含まれるが,マネーストックには含まれないということが,この独自の位置を表している。このような独自な預金貨幣が生まれるのは,銀行システムが銀行と中央銀行という二層によって成立しているからである。

 貨幣流通の見地から言うと,中央銀行当座預金の発生は,前述の通り蓄蔵貨幣の形成ではない。正貨や貨幣金属ではないからである。また,少なくとも発生する時点においては,すでに流通している貨幣が遊休するのでもない。それでは何なのかと言えば,独自な貨幣の新規供給なのである。そして,その役割は,銀行の信用創造による預金貨幣供給を準備金として支えることである。こうしてみると,中央銀行当座預金が,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによる新規正貨の供給が担っていた役割を,正貨流通停止のもとで代行する信用貨幣であることがわかる。新規正貨供給に取って代わることこそ,新規に設定される中央銀行当座預金の本質的役割である。


6.対外支払い・決済論についての補足

 最初に断った通り,本稿は対外支払い・決済を捨象するという前提下で考察を行っている。ただ,ここまでの考察を踏まえて対外支払い・決済論への展望をわずかに述べておく。対外支払い・決済においては貿易や金融取引がその通貨建てで行われる中心国通貨と,それ以外の非中心国通貨が存在する。ここでは非中心国を想定する。ここでも各国財政の通貨供給への影響は捨象する。

 本稿で言う正貨流通下とは,対外的には国際的な金本位制,正貨流通停止下というのは金兌換停止に対応すると考えてよい。正貨が国内で流通し,対外的には金兌換と金現送が行われるという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた貨幣商品金属または中心国正貨,あるいは中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。正貨が国内で流通せず,対外的に金兌換も金現送も行なわれないという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。

 このように対外支払・決済論では商品貨幣金属,中心国正貨,中心国銀行に持つ中心国通貨建て預金が重要な役割を果たすと予想されるのである。しかし,この先は別の機会に委ね,今は本稿の課題についての結論を述べよう。


7.結論

 ここまで,「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明を試みて来た。銀行は,信用創造,つまり預金という自己宛て債務による貸し付けを行うものであり,この行為自体は又貸しではないので,事前の預金を必要としない。しかし,銀行は,預金払い出しの請求や他行からの支払い請求が発生に備えて準備金を確保しなければならない。

 具体的には,銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならない。

 正貨流通下では,正貨による預金形成とは蓄蔵貨幣形成である。信用創造は,蓄蔵貨幣形成という,自らとはまったく別個の運動によって制約される。中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属し,伸縮性を持つ。ただし,正貨流通下での中央銀行は,正貨による蓄蔵貨幣形成と新産貨幣金属買い上げの運動によって,外的に制約される。正貨流通停止・中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属して伸縮性を持つし,蓄蔵貨幣形成にも新産貨幣金属の無制限買い上げにも制約されない。そして,自ら準備資産を持たずとも可能である。ただし,中央銀行は通貨価値と,通貨に対する信認を維持しなければならないので,準備資産はその助けになる。中央銀行は,金利調節を通して準備金供給をコントロールすることで,銀行による信用創造の拡張を促したり,抑制したりするのである。

 ただし,この結論は,本稿が冒頭に設定した,国境によって区切られていない単一資本主義経済の下で妥当するものである。国境の存在を踏まえて国際金融を考察した場合には,一定の拡張や修正が必要である。


8.理論的示唆

 本稿は三つの場合を区別して考察を行ったが,ここから,一定の理論的示唆を引き出すことができる。正貨流通とその停止,中央銀行の未成立と成立の区別と関連を説明できる,包括的な理論の形成に向かっての示唆である。

 銀行システムが必要とする準備金とは,当該社会において現金とされるもの(正貨,中央銀行券),あるいはただちにそれに転換できるもの(中央銀行当座預金,正貨流通下での他行銀行券)でなければならない。これはいかなる学説においても共通である。

 しかし,本稿の分析結果からすれば,この準備金の出所を,蓄蔵貨幣や遊休貨幣に,言い換えると既に存在している貨幣の融通に不当に一元化,もっと強く言えば矮小化してはならない。この矮小化を典型的に行っているのは種々の学派に共通した「金融仲介=預金先行」説である。また,マルクス経済学の場合は「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点が存在するが,この観点もまた不当な一元化,矮小化である(※6)。これらの説は部分的に,具体的には正貨流通下の正貨については妥当する。それ故,現実に根拠を持つ説ではある。しかし,一般理論としては間違いなのである。

 本稿の分析結果が示すのは,準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の信用供与でもありうるということである。そして,資本主義の発展とともに正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積され,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられると,中央銀行の信用供与が準備金の主力供給源になる。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金は商品流通外にあって,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な預金貨幣である。中央銀行当座預金の役割は,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによって生まれる新規正貨に取って代わり,準備金形成を担うことである。

 資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,銀行システムの準備金の発生源は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行による,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行に移っていくのである。


※6 マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が非常に強い。それ故,後者の説に対する批判によって前者の観点に対する批判をかなりの程度カバーできる。しかし,「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,信用貨幣論や貸付先行説をとる論者でも採用することがある。例えば村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」である。この説については独自の検討が必要であるが,これは別稿に委ねなければならない。

続稿
「村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から」Ka-Bataブログ,2024年1月7日。




岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...