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2022年1月25日火曜日

インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話

1.はじめに:マルクス経済学でインフレーションとバブルを理解する枠組みを求めて

 『前衛』2022年2月号に建部正義氏の論稿「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」が載っている。日本共産党は,貨幣・信用論をリジッドに統一しているわけではない。『前衛』や『経済』に寄稿されるマルクス経済学者も一枚岩でなく,管理通貨制度下の貨幣についての捉え方では,二大理論,つまり国家紙幣=価値章標(価値のシンボル)説と信用貨幣(手形)説の両方が存在している。建部氏の見解も,氏の独立した学問的見地に立ってのものであることは言うまでもない。ここで私が書くことも日本共産党への論評ではなく,あくまでも建部氏との学問的対話である。

 ここでは,建部氏の見解と対話することで,「マルクス経済学の概念と理論を前提した場合に,現代のインフレーションとバブルをどのように規定すべきか」を考えてみたい。建部論文は,この大きな課題に挑まれたのであり,胸を借りるに適した研究だからである。私自身は,マルクスの理論がすべて正しいと考えるものではないが,マルクスの理論の延長線上で現代資本主義をどこまで捉えられるかは,やはり限界まで突き詰めねばならないと考えている。そのためにも,まずは建部氏とともにマルクス経済学の基礎に立って討論したい。

2.不換制下の預金貨幣と銀行券は信用貨幣でないとする建部説

 前述のように,マルクス経済学において,管理通貨制度,言い換えると不換制のもとでの貨幣の捉え方は,価値章標=不換国家紙幣説と信用貨幣=手形説に大別される。まず,この点での建部氏の見地を確認しよう。建部氏は,マルクス『資本論』の記述を解釈して,大要以下のように言われる。

 まず,兌換銀行券は金支払約束という意味で信用貨幣である。兌換制下での帳簿信用による預金貨幣も,兌換銀行券支払約束という意味で信用貨幣である。これらは貨幣流通法則にしたがう。

 対して,不換銀行券は信用貨幣ではなく,不換国家紙幣の流通法則にしたがう。不換制下の帳簿信用による預金貨幣は,不換銀行券に対する支払約束に過ぎないから,信用貨幣ではなく不換国家紙幣の流通法則にしたがう。

 つまり,建部氏は現代の預金貨幣や日本銀行券は信用貨幣でなく不換国家紙幣だという見地に立っている。ここからいろいろな問題が起こってくるのであるが,まずは氏の言うことを聞き続けよう。

3.インフレーションのマルクス的定義と建部説との関係

 マルクスの貨幣流通法則とはいろいろな内容を持っているが,ここで重要なのは,商品流通に必要になれば流通に入り,不要になれば商品交換の作用により流通から出るという法則性である。つまり貨幣流通量に伸縮性があるということである。金貨をイメージすればお分かりだろう。他方,国家紙幣流通法則とは,商品流通に一度入ったら,商品交換の作用によっては流通から出られないということである。つまり国家紙幣の流通量には伸縮性がなく,国家権力が回収しない限り増える一方なのである。建部氏は詳細を説明してないが,明らかに上記の法則を念頭に置いている。そして,私も異論はない。

 ここでインフレーションをマルクス的に定義するとどうなるか。建部氏によれば,「インフレーションとは『商品流通に必要な金の総額』,すなわち,流通必要金量を超える不換通貨(金と交換されることのない政府紙幣,不換銀行券や不換制下の預金貨幣のこと)の過剰発行によって生じる名目的な物価騰貴のこと」(p. 75)である。私は後述するようにカッコ内に同意できないが,それを除けば異論はない(※1)。

 建部氏はこの定義を念頭に置き,兌換制下の信用貨幣ではインフレーションは起きようがなく,不換制下ではインフレーションが起き得るというのである。

4.不換制下の信用貨幣を本質規定では否定し,「現在の通貨供給の基本メカニズム」では事実上肯定する建部説

 このようにマルクス解釈をした上で,建部氏は「現在の通貨供給の基本メカニズム」を論じる。

 それは,企業や家計からの銀行に対する借り入れ需要に対して,銀行が帳簿信用(預金創造=信用創造)で預金貨幣を供給し,返済によって預金が消滅するというものである。銀行は創造した預金貨幣額に応じて日本銀行に準備預金を積まねばならない。この準備預金をネットで増加させることができるのは日本銀行だけである。日銀は,預金創造=信用創造活動に基づく銀行の追加準備預金需要に対しては,基本的に受動的に対応する。しかし,ある程度は金利政策を中心とした金融政策で銀行貸出に影響を与えることはできる。

 日銀券は,企業や銀行が預金を銀行から引き出す場合に発行される。まず銀行が日銀から日銀券を引き出し,この日銀券が企業や家計の手に渡される。

 建部氏の「現在の通貨供給の基本メカニズム」は,みなもっともである。建部氏はマルクス経済学内において内生的貨幣供給論者として知られており,ここで書かれていることも金融システムにおける内生的貨幣供給論そのものである。

 しかし,私は目を点にせざるを得ない。建部氏は,不換制の下でも預金貨幣は伸縮性を持つと言い,商品流通を予定した預金貨幣が貸し出しによって流通に入り,返済によって流通から出ると言っている。そして,日銀券は,預金をおろすと預金が減った分だけ日銀券が発行されるのであり,日銀券の運動は預金貨幣の運動に従属しているとみなしている。ならば,預金貨幣も日銀券も国家紙幣流通法則ではなく,貨幣流通法則に従っているとみるのが普通だろう。金と交換されなくても信用貨幣だと見るのが普通だろう。貸し出し・返済をとおした通貨供給からはインフレーションは起きないと見るのが普通だろう。ところが,建部氏は,マルクス解釈のところでは,不換制下の銀行券と預金貨幣は不換国家紙幣であって国家紙幣流通法則にしたがいインフレーションを招きやすいと言われるのである。これは水と油のごとき,矛盾と言わざるを得ない。

5.過剰な貸付けによるインフレーションを認める建部説

 それでは,建部氏は「現代インフレーションの発展プロセス」をどう説明されるのか。「インフレーションとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出という要因と中央銀行によるその見落としないし追認という要因とが重なることによって生じる」(p. 80)とすることによってである。ここで財政赤字や,まして日銀の国債引き受けなどもまったく登場していないことに注意していただきたい。建部氏は,財政的要因がまったくなくとも,銀行による過剰な貸し出しによってインフレーションが起きるといわれるのである。これは「信用インフレーション説」と呼ばれるものの極端な形態に他ならない。

 しかし,企業や家計が必要とする場合に貸し出しが行われ,貸し出しは貸し倒れなければ返済されるとすれば,それは,商品流通が拡大しようとする時,すなわち流通必要金量や通貨量が増える時に通貨が増え,商品流通が収縮して,流通必要金量や通貨量が減る時に通貨が減るだけのことである。いったい,どうしてこれで貸出が過剰になるのだろうか。どうすれば,名目的物価騰貴としてのインフレーションが起こるのであろうか。建部氏はこのことを全く説明されない。

6.土地にも流通必要金量を認める建部説

 建部氏は,次いでバブルに話を移し,「バブルとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出によって生じる地価などの資産価格の高騰」(p. 82)だと規定される。

 建部氏は,地代の資本還元によって計算された土地の購買価格をもとにして,「土地の売買に必要な貨幣量を流通必要金量に含めることはできない相談であろうか。できるはずだというのが筆者の考え方である」(p. 82)という。この論法で行けば,配当の資本還元によって株式価格も,利子の資本還元によって債券価格も,証券の売買に必要な流通金量があるということになるだろう。私は,マルクス理論に立つ限り,労働価値を持たない土地や株式や債券について流通必要金量を認めることはできないと考えるが,今の主要問題はそこではないので,いったん脇に置く。要は建部氏の言うバブルとは,インカムゲインの資本還元を超えるような土地・金融資産価格の高騰のことであろう。これはこれで,一つの根拠を持つ見解であるとは思う。

7.インフレもバブルも過剰な貸付けで起こるとする建部説の問題点

 しかし,建部氏がインフレとバブルを総合して次のように言う時,再び問題が生じる。「インフレーションもバブルもじつは同じ根っこから発生する現象に他ならないというわけである。過剰な貨幣が商品の購買にまんべんなく振り向けられるならば,インフレーションが発生し,それが資産の購買に特化して振り向けられるならば,バブルが発生することになる」(p. 82)。果たしてそうか。インフレとバブルは理論的に同根か。私はそうではないと思う。

 繰り返し述べるが,企業が銀行から借り入れを行い,その預金やそれをおろして得た日銀券で設備投資や在庫投資を行ったり,運転資金を借り入れて仕入れ代金や賃金を支払ったりする分には,貸し出しは過剰になる余地はなく,インフレーションは起こらない。もし景気が過熱して借り入れが盛んになり,財・サービスが需要超過となったとしても,また日銀が銀行の盛んな貸し出しを「見落としないし追認」していたとしても,それは日常用語ではインフレーションだが,建部氏も私も共有するマルクス的定義ではインフレーションではないはずである。短期的には,価格の価値からの上方への乖離に過ぎない。そして資材や人材のひっ迫によってついに生産費が高騰すれば,それは商品の労働価値が増大するという実質的物価上昇である。国家紙幣の過剰投入による名目的物価上昇=インフレーションではないはずである(※2)。

 こうして,建部氏はインフレでないものを無理くりインフレ扱いしてしまっている。そうしなければならなかったのは,不換制下の預金貨幣や日銀券を不換国家紙幣扱いしてしまったからであろう。預金も日銀券も伸縮性を持ち,内生的に供給されると認めているのだから,これを素直に信用貨幣であるとみなすべきだったのである(※3)。

 他方,バブルについては,建部氏の見解にも一理ある。企業や家計が,キャピタルゲインの獲得を目的として銀行から借り入れを行った場合,この通貨は商品流通を媒介しない。マルクス的な表現では遊休貨幣になり(※4),とりあえずは預金やたんす預金の形態をとる。しかし,預金や日銀券のままで遊休するとは限らず,価格が高騰した土地や株式という,労働価値の裏付けがない架空資本の購入に向かうことがある。手放された通貨は土地や株式の売り手に移り,買い手は架空資本価値を手に入れる。マルクス経済学の架空資本規定からは,こう理解できる。この場合,売りより買いが強ければ架空資本価値は高騰する。その価格形成にも,もちろん一定の法則は働くが,労働価値の裏付けがないために,何らかのきっかけで需給バランスが崩れ,暴落することもあり得る。その際,インカムゲインの資本還元価格は,おおむね底値となるだろう。この架空資本価値の高騰は,たしかに不換制のもとで,銀行の過剰な貸し出しによって起こり得るのである。

8.おわりに:銀行貸出によるインフレは起こらないがバブルは起こる

 以上,建部氏の見解について,批判を述べるとともに,共有できる部分を明らかにした。最後に拙論を対置しよう。

 マルクス経済学的に思考するならば,同じく持続的な物価上昇であっても,1)インフレーションという名目的物価上昇,2)価格の価値からの一時的乖離,3)実質的物価上昇は区別しなければならない。またA)労働価値を持つ商品の世界に生じるインフレーションと,B)架空資本価値の世界に生じるバブルは区別しなければならない。

 不換制下であっても預金貨幣や日銀券は信用貨幣である。銀行システムを通した通貨供給は商品流通の拡大にしたがう内生的なものであり,伸縮性を持つ。しかし,内生的に供給された通貨は,遊休貨幣となり得る。遊休貨幣が金融資産購入に買い向かうと架空資本価値の肥大化が起こり,バブルが生じる。

 不換制下であっても,民間の信用制度はインフレーションを起こさない。景気過熱時に生じる物価上昇は,価格の価値からの上方乖離や実質的物価上昇である。しかし信用制度は,バブルは起こし得るのである。

 それでは,マルクス的意味のインフレーションは,何によって起こり得るのか。それは,信用制度,日常用語では金融システムによる内生的通貨供給によっては起こりえない。財政システムによる外在的通貨供給によって起こるのである。その説明は,また別のまとまった話となる(※5)。


※1 流通必要金量は重量でしか表現できないので,厳密には,金の重量と価格の度量標準が関係づけられ(金1g=X円などというように),それによって流通必要貨幣量が価格タームで決まり,それを超える分が「過剰」とされる,というべきだろう。

※2 あるいは,建部氏は貸し倒れが頻発して商品流通が停滞し,不良債権だけが残る場合を想定しているのかもしれないが,まったく説明されていないので何とも言えない。

※3 より立ち入って言うと,「金支払約束だから信用貨幣」「金と交換されないから国家紙幣」という建部氏の定義の仕方に問題があると思う。別に金と交換されなくても,手形は信用貨幣という性質を失わない。手形決済は,金での支払いだけによってなされるのではないからである。手形は,手形を振り出した者への債務返済に用いることができる。また手形は多角的な相殺によっても決済できる。手形を,より信用度の高い債務によって決済することも可能である。不換制で否定されるのは正貨での決済だけであり,種々の相殺と信用代位の機能は何ら否定されない。よって,手形が手形でなくなるわけではないのである。この点は岡橋保,村岡俊三両氏の見解による。

※4 銀行に眠っている預金やたんす預金は,商品流通界からは出ていない。しかし,商品流通を媒介せずに一時遊休しているのである。よって,流通外の蓄蔵貨幣ではないが,遊休貨幣である。この点は,岡橋保氏の見解をヒントに拡張した。

※5 説明が十分とは言えないが,さしあたり以下をごらんいただきたい。

「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」Ka-Bataブログ,2020年11月19日。

『前衛』2022年2月号。



2022年1月24日月曜日

「円の購買力が低い」ことと「日本の物価が安い」ことを取り違えている『日経』1面記事

  『日経』は大丈夫か。この記事は電子版では会員限定だが,紙版では1面だ。1面から思い切り間違ったことを書いている。念のため言うが,思想が偏っているから悪いとかいう話ではなく,まるきりテクニカルな問題である。

 見出しは良い。「円の実力低下」「弱る購買力」である。過度な円安により,円の購買力が下がっていることのマイナス面を論じたいのであろう。それはわかる。

 ところが,「日本の物価が安いのがまずい」という,全然別の観点が紛れ込んでいるために,わけのわからない記事になっている。それは,ビッグマック指数の見方に現れている。

 ビッグマックが,いま現に日本では390円で,アメリカでは5.65ドルで売られているのであれば,ビッグマック為替レートは390/5.65=69.03により,1ドル=69.03円である。このレートならば,ドルと円の購買力は同じとなる。ところが実際には1ドル=115円なので,69.03/115=0.6で,ほんらいの60%の購買力しかなくなるほどに円は過小評価されていることになる。これが,ビッグマック指数のほんらいの考え方である。

 ところがこの記事は,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと価格差を埋められない」などと,あたかも,価格が安いことがまずいかのように書いてしまっている。それでは,読者は「え,安くて何が悪いの?」と思って混乱するだろう。ここは,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと,購買力の格差を埋められない」と書くべきだった。円の購買力が低いことと,日本の物価が安いことを混同しているからこんな書き方になったのである。


「円の実力低下、50年前並みに 購買力弱まり輸入に逆風」『日本経済新聞』2022年1月21日。


2022年1月12日水曜日

小売業史から見た日本資本主義論:満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年を読んで

 満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年。非常な興奮を持って読んだ。教科書として書かれたものなので,歴史的叙述のところどころに該当する理論解説が入るという形になっているが,非常に書き込まれた近現代史であると思う。私は流通史研究の素人なので,先行研究との関係はわからないのだが。

 何よりも,楽しい。学術的に産業を描写する際の難しいことの一つは,論理的・実証的に厳密に書くことと,学生や一般の読者が,書かれていることを具体的な光景としてイメージしやすく書くことが矛盾することだ。ところが,本書はこの矛盾がほとんどなく,小売店舗が営まれ,人々が買い物をする光景を生き生きと思い浮かべながら,丁寧で,学術的裏付けのある記述を読むことができるのである。どうすればこのように書けるのだろうか。

 一方,古くさく大上段な言い方をすれば,「本書は日本資本主義論である」と思う。どこがそうかというと,著者が日本型流通の成立・展開・変質を歴史的に把握しているところであり,また流通における資本主義原理の貫徹と日本的独自性の統一として把握しているところである。そして,小売業という,圧倒的多数が自営から出発した世界から見ることによって,日本資本主義を深くとらえることができるのである。

 著者によれば,日本型流通を特徴づけるのは卸売業の多段階性と,小売業の小規模稠密性である。この二つの特徴は,明治時代から1940年代までに成立し,1950年代から80年代初頭までに展開し,それ以降,変容を遂げつつある。

 著者によれば,日本型流通が根強く維持されてきた原因は,単に大規模店舗が規制されていたからではない。一方では地域性豊かな消費市場の構造が,画一的な大量流通になじまない状況が長く続いたからであり,他方では家族経営の自営業が頑強に再生産され続けたからである。再びあえて大上段な用語法で読み解くと,ある時期,資本主義的大量流通と自営業の原理は抱合さえしていたことが,スーパーやコンビニエンス・ストアの発展過程から読み取れる。例えば,コンビニエンス・ストアの本部は大量仕入れと小口配送,情報化による単品管理を行い,FCオーナーは家族総出で24時間営業を支え,丁寧なサービスを支え,両者が補完し合ってコンビニは発展したのである。

 しかし,やがてモータリゼーションと情報化によって小売店舗の立地が大きく変わり,また調整機能における多段階・小規模稠密性の優位が失われていくことで,今日私たちが目の当たりにしているような専門量販店とショッピングセンターの優位,Eコマースの成長,そして商店街の苦境が訪れる。そして,気が付けば商店街の苦境を取り仕切るのは中高年の男性たちであり,女性は背後に置かれており,後継者は見つかりにくいのである。

 著者は,日本流通史から「望ましい流通のあり方はただ一つに決まるものではない」という命題を引き出して強調する。そのとおりだろう。しかし,私は著者はそのことに加えて,「流通は,その社会の歴史から逃れられない」ことと,とくに「資本主義は自営業のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということを明らかにしたように思う(おそらく著者も自覚されているが,そんな暗くて重い言い方をすると学生が「引く」と思って書かないのだろうと,私は邪推する)。後者をもっと敷衍すれば,「資本主義はその社会の家族のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということでもあると思う。このことは,かつて農業を念頭に置いて行なわれた日本資本主義史研究では常識であった。しかし,農業だけでなく,自営業と家族のあり方を念頭に置くべきなのだろう。

 著者も触れているが,私達は上述した流通業態の変化とともに,自営業主が減少し,その分だけ非正規雇用者が増える変化の中にある。このことは何を意味するだろうか。多くの人は,肯定的にであれ否定的にであれ,大資本の力と市場原理の強化として把握するだろう。もちろんその通りなのだが,それはことの半面に過ぎないのではないか。日本の資本主義に対する自営業からの作用が弱体化し,ついに社会編成に質的変化をもたらしたととらえるべきではないか。この変化をとらえるために必要な一つの切り口はもちろん労働であるが,実は小売りも重要な切り口だったのである。本書からはそのような示唆を得ることができると,私は思う。


満薗氏の前著『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』講談社現代新書,2015年に関するノートはこちら



2022年1月4日火曜日

動画:現代資本主義におけるマクロ経済政策 第1-7回

  管理通貨制度下における通貨供給,金融政策,財政政策について解説する,学部生向け講義動画を限定的に公開します。管理通貨制度下において信用貨幣が全面的に意義を持つことを述べ,そのことを前提に金融政策と財政政策の原理を論じています。

 この講義は,理論的に十分精緻なものとは言えませんが,以下のようにマルクス派とケインズ派を踏襲しているつもりです。

・管理通貨制度の下で,初めて信用貨幣の原理が全面的に貫徹すると考えている点ではマルクス派内マイノリティです。貨幣は本源的には価値物であることが必要だけれど,制度の発展により価値シンボルや手形で代用されると理解するところがマルクス派で,信用貨幣論に基づき金融において内生的貨幣供給論,財政において外生的貨幣供給論を取るところがマイノリティです。
・資本主義において失業の発生を不可避と見る点はマルクス派とケインズ派に従っています。
・現代の貨幣を信用貨幣と理解するところはマルクス派内マイノリティでもあり現代貨幣理論(MMT)と同じでもあります。そこから,財政赤字が傾向的に増えることを不可避としています。
・利子は投資と貯蓄を裁定しないこと,閉鎖系では純投資が貯蓄を決定すること,資本の限界効率によって投資の不確実性が発生することなどは,オールド・ケインジアンに従っています。

(2022/1/7追記)まず第1-7回を公開します。Youtubeにリンクしています

第1回 管理通貨制度とは何だろうか


第2回 現代の貨幣は信用貨幣:債務が流通している世界 


第3回 債務は債務でしか支払えない:金貨で支払うことのない世界



第4回 銀行は,すでに存在する預金を貸し付けるのではなく,預金を無から創造して貸し付ける:そのことによって通貨が生まれる



第5回 金融システムは貸付・返済により,財政システムは支出・課税により通貨供給を調整する


第6回 金融システムを通して内生的に,財政システムを通して外生的に通貨が供給される


第7回 なぜ政府は,金融・財政政策によって経済に介入しなければならないのか



以下は第1-7回のロングバージョンです。

現代資本主義とマクロ経済政策(1)



全ての動画を掲載しているチャンネルです。

川端望のチャンネル




岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...