2019年12月26日木曜日

マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」とホンダの事例

 大学院前期課程講義の特論テキスト。今回はMichael Porter, Competing Across Locations: Enhancing Competitive Advantage through a Global Strategy, in Porter, On Competition, A Harvard Business Review Book, 1996(マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」『競争戦略論II』ダイヤモンド社、1999年)だ。実は、この論文はポーターの主要な理論が結集されていて、1本で競争戦略論も価値連鎖論も戦略本質論も国の競争優位論もグローバル戦略論も学べる超便利論文だと私は思っている。その上、比較優位論やヴァーノン説やハイマー説への事実上のコメントが巧みに織り込まれている。アイディアを提示し、従来のアイディアを統合してナラティブを作り出す、ポーター教授の論文をなめてはいけない。最近、経営学関連の出版物では、「学術論文をちゃんと学べ」と言いたいあまりなのだろうが、ポーター教授の一般向け論文が学術論文とは違うことをことさらに強調する傾向がみられる。私はこの傾向に賛成できない。




 とはいえ、この論文は事例がだいぶ古くなっているので、「この事例は実は当てはまらないのか、形を変えているがやはりこの理論の事例になるのか」という点検は必要だ。ノーザン・テレコムがもう存在しないとかいろいろあるのだが、何よりホンダの事例が問題だ。例えば「ホンダは、自動車とオートバイ双方のホームベースを日本に置いており、高度な活動のほとんどは日本で進めている。ホンダのオートバイ製造能力の76%、自動車製造能力の68%は日本国内に立地する」というところは、現在では全く異なる。しかし、私はオートバイ事業の状況しか把握していないが、現在までのホンダの歩みは、むしろ分野別の複数のホームベース、そしてホームベースの移動の例として、いまもふさわしい。

 これを示すには、横井克典先生の『国際分業のメカニズム』同文舘出版、2018年に掲載されている以下の図が便利だ。この図は素晴らしい。図の読み方は各自、同署にあたっていただきたいが、かつて三嶋恒平氏が大学院生の時に東南アジアオートバイ産業論の研究支援をした経験からすると、この図を完成させるまでに血と汗と涙が流れまくるほどの実態調査、事実の発見が必要だったことは間違いない。宣伝を兼ねるので転載をお許し願いたい。



ベトナム国有鉄鋼企業TISCOの第2期工事停滞問題:本質は国有企業改革の失敗だ

 ベトナムの国有鉄鋼企業TISCO(タイグェン・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション)の第2期工事停滞問題は,ついに商工省元幹部や親会社VNスチールの元・現役員の党規律違反や逮捕を問う事態に発展した。私がインタビューしたことのある人も責任を問われている。
 英語記事を読んでも,何にどう違反(violation)したのか,党規律なのか法律なのかがはっきりしない。いずれにせよ私には,個々人が悪意や私欲のために動いて規律や法を犯したことが本質だとは思えない。
 根本にあるのは,国有企業であるVNスチールを支援もせず,しかしガバナンス改革もせずにいたというベトナム政府の企業改革上の無策である。財政支援を受けられず,だからといって民営化や経営効率化を迫られるわけでもなかったVNスチールは,漫然と量的拡大投資を続け,それらの多くが中途半端で競争力のない設備になった。その最悪の例がTISCO-IIであったということだと思う。

参考
川端望「ベトナム国有鉄鋼企業の衰退とリストラクチャリング」

「ハノイ党委書記のハイ氏、副首相在任中の違反で処分へ」VIET JO,2019年12月11日。

2019年12月24日火曜日

レイモンド・ヴァーノンのプロダクト・サイクル論と大都市圏研究

 Raymond Vernon, “International Investment and International Trade in the Product Cycle, Quarterly Journal of Economics, Vol. 80, May 1966.プロダクト・サイクル論の元祖である。大学院でもう少なくとも7回講義しているのだが,今回は,ヴァーノンがこの論文以前に行っていたニューヨーク大都市圏研究との関係をとりあげた。これは経済地理学者には当たり前のことなのだが,今回ようやくヴァーノン(蝋山正道監訳)『大都市の将来』東京大学出版会,1968年(原著1960年)を併読して論じることができた。

 ヴァーノンの理論には,一般的な立地法則がきれいにモデル化されている側面と,実は市場の不完全性を強く指摘している側面という二面性がある。ここでは前者を取り上げる。プロダクト・サイクル論のこの側面は,『大都市の将来』と併読すると理解しやすい。

 ヴァーノンは,輸送費,賃金,外部経済などを産業立地を規定する要因とし,どの要因が強く作用するかによって産業や製品を区分する。これは大都市研究でもプロダクト・サイクル論でも同じだ。しかし,違いもある。
 大都市圏研究ではこれらによって,同時点での産業の類型をとらえていた。輸送費が重要な産業,賃金コストが重要な産業,外部経済が重要な産業という具合である。しかし,プロダクト・サイクル論では新製品が成熟化し,標準化していくという時間進行によって,立地優位性が移り変わっていくととらえているのだ。
 これはプロダクト・サイクル論と雁行形態論の違いにもかかわる。両者は,小島清が自ら整理したように,先進国から見たサイクルと途上国から見たサイクルとして対比されることが多い。しかしもう一つ,「何が変わることでサイクルが進むのか」が異なる。プロダクト・サイクルは製品や工程の設計が標準化することによってサイクルが進む(ドミナント・デザイン論の萌芽)。つまり製品・工程が変わる。一方雁行形態論は,各国で資本と知識の蓄積が進むことによって要素賦存の相対関係が変わることによって雁行が国際的に伝播する。つまり,国の要素賦存が変わるのだ。これが両理論の違いである。

 ここまでで確認したいのは,ヴァーノンのプロダクトサイクル論とは何よりも立地論,あるいは立地優位性の理論だということだ。そこから直接的に導けるのは,単純な要素賦存説とは違うものの,ある種の比較優位論であり,したがって貿易論である。直接投資論ではない。プロダクトサイクル論を何よりも直接投資論と捉えるのは適切ではないのだ。

 写真の板書は1枚目がプロダクトサイクル論。2枚目が雁行形態論。3枚目は,論文をカフェでばかり読んでいることと,7回読んでも覚えない証拠。





2019年12月21日土曜日

「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」というマーガレット・サッチャーの主張は正しかったか?:MMTの貨幣論で考察する

 2019年12月21日付の『日本経済新聞』は2020年度当初予算案に寄せて、かつてマーガレット・サッチャーが「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」と発言したことを紹介している。確かに検索してみると1983年の保守党大会で"There is no such thing as public money. There is only taxpayer's money"と演説している動画が見つかる。

 この演説は二つの意味を持つ可能性があるが、いずれにしても間違っている。

 もしサッチャーが、「政府のお金」に誰が権利を持つかという意味で言っているのであればどうか。権利を持つ主体は納税者だけではない。国民とも呼ばれるべきである。自国に住む外国人を含むという意味で、納税者という言い方も間違ってはいない。しかし、低所得であるなど様々な理由で課税を免除されている自国民にも権利はあるし、納税の多寡によって国民の主権者としての資格が変わるわけでもない。

 では、彼女が「政府のお金はすべて納税者が納税したものである」という意味で言っているとすればどうか。これは正しいと思う人も多いかもしれない。政府は納税額の範囲内で支出すべきだ、財政赤字を出すべきでないという考えも世の中には強いからだ。だが、私はこれも間違いだと考える。

 政府は万能ではなく、お金を生み出せないという人がいるかもしれない。もしも国の「富」についてであれば、それはだいたい正しい。国の富は、そこに住む国民や、国内に住む外国人、それと海外に住む国民の生み出したものである。政府機関が生み出す富もあるが、そこでも国民や住民が働いていることには変わりはない。

 しかし「お金」は違う。狭義の政府は、法制度がそれを許すならば政府紙幣・貨幣によってお金を創造できるし、広義の政府に属する中央銀行は中央銀行券や中央銀行当座預金を作り出すことができる。なぜ創造できるかというと、これらは債務証書だからである。債務を負うことによって債務証書を発行できるのは何の不思議もない。債務証書だから、納税者が納税した金額と1対1対応することなく、作り出すことができるのだ。

 それは中央銀行については認められるが、政府については認められないという人もいるかもしれない。しかし、認めるべきなのだ。具体的に見よう。

 政府が国債を発行して債務を負う場合を考える。政府は調達した資金を支出するので、それによって通貨量(マネーストック)は増える。そして、国債で資金を調達しても通貨量は減らない。中央銀行が引き受ければもちろん減らないし、銀行が引き受けてさえも減らない。それはおかしいという人も多いだろうから、さらに具体的に説明しよう。

 国債引き受けの代金は、銀行が中央銀行に持つ当座預金から政府預金への振り替えによって支払われる。これで銀行全体が持つ中央銀行当座預金は減少する。ところが一方で政府支出によって通貨量が増えるので、これが受け取った会社の銀行口座の残高増になる限り、銀行預金が全体として増大し、中央銀行当座預金も増える。よって、タイムラグやテクニカルな要因による変動を除けば、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロになる。

 銀行の預金通貨は増え、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロだから、通貨量は明らかに増えている。納税者の納税額が増えなくても、政府が借金をして支出すると、通貨は創造されるのである。

 しかし、政府の借金は将来返済されねばならないのではないか、それで通貨が増大したと言えるのか、という人がいるだろう。それは場合による。政府債務が増大し続けることで問題が生じるのは、デフォルトを起こす場合、デフォルトの懸念による信用不安を起こす場合、そして通貨量の増大が需要超過・供給不足やボトルネック、独占・寡占などによりインフレを起こす場合である。このような場合、政府は債務を削減しなければならない。逆に言えば、これらを引き起こさない限り、政府債務が存在することは問題はないのである。

 問題のない範囲で政府債務が拡大する場合には、債務が増大する分だけお金が創造されて、通貨量は増大する。だから「政府のお金というものは存在する」。政府は万能ではない。富は人民が作り出さねばならない。しかし、お金については政府が創造できるのである。

 もちろん、問題ない形で政府債務を増大させることは容易ではない。政府には完全雇用やセーフティネットの供給や国防や警察という使命を果たすために支出を行う必要がある。だから、政府支出は膨張しがちになる。その際に、デフォルトを起こさないためには債務を自国通貨建てに限ることが必要である(自国通貨建てならばいくらでも借り換えができてデフォルトを心配せずに済むからだ)。インフレを起こさないためには財やサービスの高い生産性での供給を促進することが必要である。ボトルネックや独占・寡占の弊害は取り除かねばならない。だから産業政策や競争政策が必要だ。政府の使命は容易ではない。

 しかし、財政均衡を保ったり、生まれた債務を極小化しようとすることそれ自体は、政府の使命ではない。政府の努力は、財やサービスの生産促進や独占禁止や完全雇用の実現に対して傾けられるべきであり、それによって国が豊かになり、生活が安定し、公平さが守られる。その際の注意は、それらの実現の過程でインフレを起こさないようにすることに対して払われるべきである。

 インフレが起きそうな時や、外国からの借り入れがデフォルトしそうなときは債務が削減されねばならない。しかし、無条件に、いつでもどこでも債務を削減しようとしたり、債務の総額が大きいというそれだけの理由でこれを敵視したりすることは、まったく無意味なのである。

 以上はMMT(現代貨幣理論)に沿った解説であるが、特定の価値観に依拠したものではなく、むしろ金融実務に沿ったものであることをご理解いただけると幸いである。

2019年12月20日金曜日

グローバリゼーションの失速、景気の減速、地政学的リスクの増大、気候変動:多層的ガバナンスの構築は間に合うのか

 昨日12月19日の『日本経済新聞』に掲載されたイアン・ブレマー「『未曽有の難局』に備えよ」。ブレマー氏の言うことを圧縮すれば以下のようになる。

・「グローバル化の加速で「見捨てられている」と感じている人は数多く存在する」。この「認識は特に先進国の中産階級に浸透している。
・この認識のため「グローバル化の勢いがほぼ1世紀ぶりに失速し始めた」。
・「そのグローバル化の失速が最悪のタイミングで到来している」。
・「世界景気は減速しつつある」。景気は循環するものだが、「今後はこれまでのように持ち直す保証はない。というのも、新たに二つの要素が重要になっているからだ」。
・「一つ目は地政学的な要素だ」。地政学上の動きにも循環があり、「『後退』期には、国際機関の有効性や国際協調の機運が衰え、国際紛争や対立が増える」。
・「二つ目は気候変動の要素だ」。
・「現代社会は未曽有の状況に陥っている。グローバル化、地政学、そして経済が同時にマイナスに転じつつある一方で、世界の状況は過酷さを増しつつある」。

 ブレマーの思想には詳しくないので、さしあたりこの記事だけを出発点に考えよう。確かに、相当警戒した方がよい情勢だと思う。では、解決の方向はどこにあるのだろうか。
 国際協調とグローバル・ガバナンスだけでは、これを乗り切ることはできないだろう。学部ゼミで読み終えたダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』などを踏まえると、もう少し修正が必要かもしれない。
 気候変動はグローバル・ガバナンスでなければ解決できないが、通商紛争はナショナルなガバナンスを回復させながら国際的調整を行わないと激化するばかりだ。例えば、WTOを機能麻痺から救うことはどうしても必要である反面、社会的セーフティ・ネットはそれぞれの国で構築されねばないからだ。両者はどうしても矛盾する。
 矛盾のないグローバルな制度もなければ、国際紛争を激化させるばかりのナショナリズムでも解決しない。中間にあるはずのリージョナリズム(国より大きい方。EUとかASEANとか)も必要ではあるが両者にとって代わるほどではない。だから、両者の対立が通商紛争に現れる際の調整様式を、当面はプラグマチックに対応しながら、形を整えていくしかないように思う。
 難局に対応するために、多層的なガバナンスを模索する時期に入ったというべきなのかもしれない。しかし、特定の民族や社会集団を非難するキャンペーンで支持を獲得し、権力を持ったら仲間内に利権を配るような政治が、解決への努力を妨げているのが現実の動きだ。まにあうのだろうか。

「『未曽有の難局』に備えよ  イアン・ブレマー氏 米ユーラシア・グループ社長」『日本経済新聞』2019年12月19日。

2019年12月11日水曜日

パートタイマーだけにボーナスや通勤手当を支給しないことは2020年4月1日から違法となる:労働運動も経営者もただちに行動すべき

「働き方改革」関連法の賃金関連部分が来年4月1日より施行されるのだが,世の中で全然話題になっていない(中小企業については2021年4月1日から)。大丈夫なのか。不十分で問題も含んだ法律であったが,それでもパートタイマー・有期雇用労働者,派遣労働者にとっては,処遇改善のまたとない機会である。逆に経営者にとっては,必要な財源を計算して確保し,就業規則を改正しなければ違法状態に陥る。いずれの立場からみても,行動を起こすべきは今であり,何もしなければたいへんな混乱状態を招くだろう。

 ここでは話を分かりやすくするため,パートタイマー・有期雇用労働者について,解釈の余地が小さく,ほぼ確実に違法あつかいされることを四つあげる。労働運動は,これを経営者に強く主張してよい。法的にまちがいなく正当だからだ。経営者は,これらを4月1日にはなくせるように人事制度を改革しなければならない。

*正規労働者にはその貢献にかかわらず常に何らかのボーナスを支給しているのに,パートタイマー・有期雇用の労働者にだけ支給しないのは違法である。パートタイマー・有期雇用労働者にも,貢献に応じて何らかの支給をしなければならない。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用労働者の間で,通勤手当と出張旅費について差をつけるのは違法である。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用の労働者との間に福利厚生の利用条件で差をつけるのは違法である。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用の労働者との間で,慶弔休暇,健康診断のための勤務免除および有給の保証について差をつけるのは違法である。

 もちろん,働き方改革の事項は他にもいろいろあり,また派遣労働者に独自の事項もある。しかし,派遣労働者については運用が複雑で,このように短く目玉をまとめることが難しいため,ここではパートタイマー・有期雇用の問題に絞ったことをお断りしておく。

 なお,これが私の勝手な法解釈でない証拠として,厚労省「同一労働同一賃金ガイドライン」を参照されたい。

厚生労働省「同一労働同一賃金ガイドライン」のページ
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000190591.html
ガイドラインへの直リンク
https://www.mhlw.go.jp/content/11650000/000469932.pdf


2019年12月7日土曜日

フィンテック企業は,金融機関と日本銀行なくしては債務を決済できない:だからこそ手数料引き下げに意味がある

 銀行,信用金庫,信用組合,労働金庫,農業協同組合が加盟する「全銀システム」について,「金融機関以外は利用が難しいことや手数料が高いことが,決済事業への新規参入を阻害していないかどうか」公正取引委員会が調査を始めたという報道が『日本経済新聞』2019年12月7日付であった。

 手数料が高いことがキャッシュレス支払・決済事業への参入を阻害するのはわかる。銀行間送金手数料が高いことや横並びであること,銀行口座からスマホ決済アプリにチャージする際のチャージ手数料が高いこと等はそれに当たる。

 だが,「金融機関以外は利用が難しいこと」が問題だとか,全銀システムは「加入時には多額の費用がかかる。資金力が十分でないフィンテック企業が接続しようとしても,難しいのが実情だ」という記述には,不安を覚える。

 なぜかというと,私の理解する限り,いくら金を払おうが,金融機関でないフィンテック企業が全銀システムに接続するだけでは,支払・決済などできないからである。『日経』は,制度上不可能なことをできるかのように書いていないか。

 以下,銀行間決済の仕組みに即して,その理由を説明する。

 個人Aが商店Bから物を買い,銀行口座連動型のスマホ決済か小切手か銀行振り込みといったキャッシュレス方式で100万円の代金を払うとする(念のため言う。大昔からある小切手も口座振り込みもキャッシュレスである)。Aさんの取引銀行をα行,B店の取引銀行をβ行とすると,送金すれば,Aさんがα行に持つ預金は100万円減り,B店がβ行に持つ預金は100万円増える。

 一見,この操作はα行とβ行だけでできるように見える。だが,そうではない。α行とβ行が加盟している情報システムがいくら高性能であっても,α行とβ行だけではできない。かならず日本銀行が関与しなければならないのだ。

 Aさんがα行に持っている預金は,α行の債務である。B店がβ行に持っている預金は,β行の債務である。今回の取引で預金が増減すれば,Aさんはα行への預金を100万円を失い,B店はβ行への預金が100万円増える。これはよい。しかしこれだけでは両行は取引を仲介しただけなのに,α行は預金債務が100万円へり,β行は預金債務が100万円増えるというおかしなことになる。もう一つ,α行はβ行に100万円の債務を負い,これが決済されねばならない。つまりα行からβ行に100万円が送金されねばならない。これでα行とβ行は,債権債務がプラマイゼロになる(支払手数料のことは,ここでは論じない)。

 では,α行からβ行への債務決済はどうやって行うのか。自分の借金は自分の債務証書では決済できない。α行の債務はα行の債務では決済できない。より上位の債務証書を使う必要がある。それは何かと言えば日銀の債務である。すなわち,日銀券か日銀当座預金(準備預金)である(※)。

 たとえば,論理的にはα行からβ行に日本銀行券100万円分を輸送することで支払うことができる。当然,ひどく煩雑であるから実際には行われない。しかし,仮に行われるとすると,それはα行の債務証書ではダメで,日本銀行券でなければならない。

 実際には,日銀の口座内で,α行が持つ当座預金から100万円が引き落とされ,β行の当座預金に移される。これで決済は完了するのだ。

 つまり,銀行間送金とは,各銀行が日本銀行に当座預金口座を持っているからできるのである。そして,日本銀行に当座預金口座を持つのは,いまのところ法令上の預金取り扱い金融機関だけである。預金取扱金融機関が準備預金として持っているのだ。

 フィンテック業者が全銀ネットに加入することがあるとすれば,それはフィンテック業者が自ら預金取扱い金融機関になる,あるいは日銀が当座預金口座開設を資金移動業者などに認めた場合である(イングランド銀行が国際送金業者のトランスファーワイズに認めたように)。日銀に口座を持つことなしに全銀ネットに加入しても送金はできないのだ。

 これは,中央銀行口座を用いて債務を決済する以上は避けられないシステムである。Aさんがキャッシュレス支払いをして負債を負えば,それはα行の債務で決済されねばならず,α行が送金のために債務を負えば,それは日銀の債務で決済されねばならないのだ。もし,資金移動業者が日銀口座開設を認められれば,α行はカットすることができる。Aさんがキャッシュレス支払いをして負債を負えば,それは日銀の債務で決済される。この場合も日銀はカットできない。

 フィンテック業者がこうした銀行間システムと中央銀行の拘束をできるだけ避けたいとすれば,現状では銀行口座を用いない方式を取るしかない。これは,現に中国でアリペイがやったことだ(私のまちがいでなければLINE Payもできているはずだ)。まず,AさんもB店も同じキャッシュレス決済システムに入っているとする。仮にC Payとしよう。これならば,AさんがC Payに100万円以上の残高を持っている限り,AさんからB店への支払いは,C Payの内部で完結する。このお金は,C Payが持つ銀行口座,たとえばγ行の預金口座の中に存在している。Aさんが100万円をC PayにチャージしたときにAさんが持つα行の銀行口座からC Payが持つγ行の口座に送金されたのだ。そしてAさんのB店への支払により,C Payが持つ銀行口座内の金額は変動せず,C Payの責任において100万円の所有権をAさんからB店に移したのである。これならば,送金の際に直接には全銀システムを動かさずに済むし,日銀を介さずに済むわけだ。

 ただし,この100万円はC Payの持つγ行の口座として(あるいは考えにくいがC Payの手元の日銀券として)存在していなければならない。前の段落で見たように,Aさんがα行からC Payにチャージすればγ行の口座の残高は増える。また,Aさんから支払を受けたB店がC Payからお金を引き出してβ行の預金へと移せば,このγ行の口座の残高が減少する。それらの取引の際には,やはり銀行間送金と日銀準備預金が必要になる。この方式も,結局は銀行と日銀なしには存在できないのである。

 フィンテック企業であれ何であれ,いかに情報システムが発達しようとも,中央銀行抜きの債務決済などできないことに注意が必要だ。なぜならば,債務はより上位の債務によってでなければ決済できないからだ。フィンテック企業の債務を決済するには銀行の債務が必要であり,銀行の債務を決済するには日本銀行の債務である準備預金か日銀券が必要である。このうち銀行の債務という中間項は政策的にカットすることは可能だが,準備預金と日銀券の必要性は,中央銀行債務を中心とする通貨制度の下でカットできない。

 誤解してほしくないのは,だからフィンテック企業は黙って銀行に従えという意味ではない。そうではなく,制度上,全銀システムに参加できないからこそ,フィンテック企業が活動しやすいように手数料を競争促進または政策によって引き下げることには意味があるのだ。また一定の条件下で資金移動業者が日銀に口座を持つ可能性についても検討する価値はあるだろう。『日経』の記事に問題があるのは,あたかもフィンテック企業が全銀システムへの参加を恣意的に妨害されているかのように描き,参加できるようにすべきだという誤った政策提言を導きかねないことなのだ。やるべきことをまちがえてはいけない。

<補足>
 補足すると,金融機関と中央銀行抜きのデジタル「支払い」ならば,実現する方法はある。中央銀行がトークン型のデジタル通貨を発行すればよい。それにより,何ならスマホからスマホへの移動で支払は完了する。ただし,これは概念としてはデジタル化した現金(キャッシュ)での支払いであって,キャッシュレスとは言い難いこと,また債務の決済ではないことに注意が必要である。そして,トークン型中央銀行デジタル通貨はフィンテック業者の電子マネーと競合する。電子マネーに競争力があればそれはそれで便利だが,金融機関と中央銀行抜きのデジタル支払は実現しない。逆に,使い勝手の良いトークン型中央銀行デジタル通貨が大規模発行された場合,フィンテック業者の電子マネーは駆逐され,この領域は民間のビジネスでなく中央銀行の仕事になるだろう。


※※このように債務は,より通用範囲の広い債務によって決済される。L.ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)(2019)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社, 173-179。


「銀行間送金,公取委が調査 決済の参入障壁を問題視」『日本経済新聞』2019年12月7日。

※2019年12月16日。一部修正。資金移動業者が中央銀行に当座預金口座開設を認められる場合を含めた説明とした。

2019年12月4日水曜日

中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき

 中央銀行デジタル通貨試論。デジタル人民元の発行計画が話題になっているので勉強を始めた。日本銀行の報告書とニッセイ基礎研究所のレポートを読んだのだが,どうもおかしい。自分でも,かなり強い意見だと思うのだが,私が知る貨幣・信用論に基づく限り,以下のように思えて仕方がない。専門家のご意見を聞きたい。

「中央銀行発行デジタル通貨(CBDC)として検討されている二つのタイプのうち,口座型(預金のデジタル化)はまったく不合理である。以後,トークン型(現金のデジタル化)に絞って検討すべきだ。預金のデジタル化は,民間預金を使ったデビットカード支払の電子化,推進,改善として行うべきだ」

 以下,説明する。

1.中央銀行発行デジタル通貨とは何か

*中央銀行発行のデジタル通貨(CBDC)は中央銀行の債務である。

*口座型とトークン型の二つがある。口座型はデジタル通貨建ての預金口座を作り,預金者が電子機器によって指示を行うと口座振替で支払を行うものだ。トークン型は価値をもち流通性のある通貨をデジタルデータで仮想的に設定し,これを電子機器とウォレットソフトにより仮想的に貯蔵するものだ。支払を行うと,デジタル通貨は支払者の電子機器・ウォレットソフトから受け取り者の電子機器・ウォレットソフトに仮想的に移動する。

*個人が中央銀行と直接取引する直接型と,中央銀行は銀行と,銀行が個人と取引する方式の間接型がある。

*したがって,直接・口座型,直接・トークン型,間接・口座型,間接・トークン型の四つの方式がある。

*よって,口座型は預金のデジタル化であり,トークン型は現金のデジタル化と理解できる。

*口座型では,中央銀行は個々人と取引する。直接・口座型では個々人が中央銀行に口座を持つ。間接・口座型であっても,市中の銀行は仲介業務をするだけで口座は中央銀行のものだから,本質的には同じことだ。なお,直接・トークン型でも個々人が中央銀行に現金か預金通貨を持ち込んで,トークンを受け取る。間接・トークン型では中央銀行が銀行にデジタル通貨を交付し,個々人は銀行において現金か預金通貨と交換にデジタル通貨を受け取る。

2.口座型の特徴

*口座型では,個人がデジタル通貨を使うと中央銀行口座にあるデジタル通貨建て預金が引き落とされ,支払い先の口座に振り込まれる。つまりは,中央銀行に口座を開いて,デビットカード支払を使うようなものだ。

*口座型を用いれば,すべての小口リテール取引を中央銀行の決済システムに記帳することになる。超巨大な単一中央集権システムが必要になる。実現可能とは思えない。また実現可能だとしても,そうした公的機関の単一中央集権システムへの取引情報集中は望ましいこととも思えない。

*口座型を用いれば,中央銀行のデジタル通貨建て預金は,マネタリーベースでなくマネーストックとなる。つまり直接に流通する貨幣となる。この点で,銀行が中央銀行に持つ準備預金とは異なり,むしろ民間銀行の預金と似ている。

*ただし,口座型のみならずトークン型においても,デジタル通貨を現金や預金通貨と引き換えにのみ,1:1の比率で交付するとされている。なので,デジタル通貨発行は貨幣流通量に対して中立である。いくら発行しようとも貨幣流通量は変化しない。

*口座型においてデジタル通貨発行が貨幣流通量に対して中立であるというのは,預金創造を通した貸し付け,通貨供給はしない,ということを意味する。これは預金の持つ本来の機能を相当制限して現金のように使っていると言える。

*口座型においては,市民は銀行預金を中央銀行のデジタル通貨建て預金口座に移したり,その逆を行ったりすることがありうる。つまり,両者の間で大規模な資金移動が起こる可能性がある。これは,国有の中央銀行がリテール預金業務を行うことにより,民間銀行の同種業務と競合して大きな影響を与えることを意味する。

3.トークン型の特徴

*トークン型の場合,個人は中央銀行(直接型)または銀行(間接型)で現金や銀行預金をデジタル通貨に替えてスマホなどに入れ,それを使うということになる。個人がデジタル通貨を使っても銀行預金には変化はない。預金口座を持っていない人でも使うことができる(スマホなどの端末とウォレットソフトウェアは必要だ)。

*トークン型の場合,個人がデジタル通貨を使うと,デジタル通貨は支払者の電子機器・ウォレットソフトから受け取り者の電子機器・ウォレットソフトに仮想的に移動する。このことは中央銀行には直接把握されない。現金で支払った場合と同じだ。

*トークン型の場合,集権的支払決済システムでの追跡は困難である可能性が高い。他方,ブロックチェーンの技術を用いれば,集権的システムなしで記録が可能になる可能性がある。

*トークン型を用いれば,中央銀行の発行するデジタル通貨は発行された時点でマネーストックとなる。つまり直接に流通する貨幣となる。この点で,中央銀行が発行する中央銀行券と同じだ。

*トークン型においてもデジタル通貨発行は貨幣流通量に対して中立であるが,これは中央銀行が発行する中央銀行券が流通に出ていくとき,つまり銀行が中央銀行準備預金を降ろしたり,個人が銀行預金を降ろすときと同じだ。

*トークン型においては,個人は銀行預金や現金をデジタル通貨に変えることや,その逆の行動をとることがありうる。端的に預金流出が起きて民間銀行の預金業務に大きな影響を与える可能性がある。しかしこれは,銀行預金を現金かデジタル通貨でおろすという行為であるから,本来あっても不思議ではない行為であって,不正常なことではない。

4.口座型の重大な問題点

*口座型はそもそも大規模な中央集権型支払決済システムを必要とし,技術的に実現不可能ではないか。

*口座型は,仮に実現可能だとしても中央銀行に個人の取引情報を集中させるものであり,望ましくないのではないか。

*口座型で実現する預金のデジタル化とその便宜は,現在民間銀行が発行しているデビットカードによる支払いを,電子化を含めて推進すれば実現できることだ。民間銀行債務である預金通貨はすでにある程度デジタル化している。電子機器とウォレットを使った全銀行統一の支払いシステムがないだけだ。このシステムの実現を目指す方が合理的ではないか。それが銀行間の利害調整の困難により実現できないのであれば,そのことが克服すべき大きな問題ではないか。

*口座型の中央銀行デジタル通貨をわざわざ構築するのはデビットカード支払の推進=民間銀行預金通貨のデジタル化の徹底という課題を回避して,わざわざこれと競合する通貨システムを構築することだ。口座型の中央銀行デジタル通貨は,民間銀行デジタル通貨である預金通貨と大規模な競合を起こすのではないか。それは中央銀行の行為として不適切であり,社会的に無駄であり,混乱を招くのではないか。

*他方,トークン型のデジタル通貨には,少なくとも口座型のような不合理はない。これはトークン型が現金のデジタル化だからだ。もともと中央銀行債務である現金を,別の中央銀行債務であるデジタル通貨で代替しようとしているからだ。

5.結論

*結論1.口座型の中央銀行発行デジタル通貨,すなわちデジタル化された中央銀行預金の創出については,構想を破棄すべきだ。

*結論2.預金のデジタル化については,口座型の中央銀行デジタル通貨ではなく,民間銀行債務である預金通貨のデジタル化の徹底,つまりはデビットカード支払の改善,拡大,ユニバーサル化を真剣に追求すべきではないか。

*結論3.中央銀行発行デジタル通貨については,トークン型,すなわち現金のデジタル化にしぼって検討すべきだ。

矢島康次・鈴木智也「中央銀行デジタル通貨の動向-デジタル人民元vsリブラ、米国」ニッセイ基礎研究所,2019年11月15日。


『中央銀行デジタル通貨に関する法律問題研究会」報告書』日本銀行金融研究所,2019年9月。


雨宮正佳「日本銀行はデジタル通貨を発行すべきか」日本銀行,2019年7月5日。

2019年12月1日日曜日

王珊氏博士論文「日系部品サプライヤーによる海外自動車メーカーの先行開発に対する関与: デンソーを事例とした取引統治の分析」の公開によせて

 9月に博士課程を修了した王珊さんの博士論文が東北大学機関リポジトリTOURで公開されました。これまで著者が査読を経て『アジア経営研究』誌に発表した単著論文3本を基礎にしながらも,大幅な加筆・修正を加えて一つのまとまりをもった論文としたものです。

王珊「日系部品サプライヤーによる海外自動車メーカーの先行開発に対する関与: デンソーを事例とした取引統治の分析」(審査委員:川端望・柴田友厚・植田浩史)
http://hdl.handle.net/10097/00126447

 先行開発への部品メーカーの関与のあり方を分析対象とし,日系部品メーカーと複数の海外完成車メーカーとの取引を比較分析しました。取引分析に際しては,開発パフォーマンスへの貢献と取引主体間の利害調整という二つの観点を貫きました。比較分析を通して,開発をめぐる完成車メーカーと部品メーカーの取引関係を,海外において日本国内と異なるものにする要因は何かを明らかにしました。

<主要業績>
王珊(2018)「中国における日系自動車部品メーカーの開発活動とその制約条件:デンソー中国と地場系完成車メーカーの取引を中心に」『アジア経営研究』24,pp.61-73。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.24.0_61
王珊(2017)「韓国における日系自動車部品メーカーの開発活動:デンソーと現代自の取引を中心に」『アジア経営研究』23, pp.17-29。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.23.0_17
王珊(2016)「日系自動車部品サプライヤーの先行開発への関与:デンソーとVWの取引を中心に」『アジア経営研究』22, pp.103-115。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.22.0_103

張艶氏博士論文「地域エコシステム構築による新興国産業のグローバル・バリューチェーン参入と高度化-大連市ソフトウェア・ITES産業の事例を通して-」の公開によせて

 9月に博士課程を修了した張艶さんの博士論文が東北大学機関リポジトリTOURで公開されました。この博士論文は,張さんがこれまで査読を経て『アジア経営研究』誌に発表した共著(第一著者)論文1本と単著論文2本,また投稿中の単著論文1本に基づいていますが,大幅な加筆・修正を加えて一つのまとまりを持った論文に仕上げたものです。

<博士論文>
張艶「地域エコシステム構築による新興国産業のグローバル・バリューチェーン参入と高度化-大連市ソフトウェア・ITES産業の事例を通して-」(審査委員:川端望・柴田友厚・西澤昭夫)
http://hdl.handle.net/10097/00126448

 大連市ソフトウェア・ITES産業の詳細な事例分析を通して,GVC論を組み込んだ地域エコシステムの3段階区分という独自モデルを提示しました。とくに,新興国ハイテク産業育成においては,先進諸国の産学連携のように大学における先端研究成果の産業化がただちに課題とされるのではなく,まずはGVCへの参入が最大の目的とされ,その参入のためだけにも地域エコシステムの構築が求められることを明らかにしました。

<主要業績>
張艶(2018)「大連ソフトウェア・ITEサービス産業の地域エコシステム」,『アジア経営研究』24,pp.109-122。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.24.0_109
張艶(2017)「大連市におけるソフトウェア・情報技術サービス産業の発展と転機」,『アジア経営研究』23,pp.103-116。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.23.0_103
張艶・川端望(2013)「大連市におけるソフトウェア企業の事業創造と変革 -4社の事例分析から‐」『産業学会研究年報』28,pp.73-85。
https://doi.org/10.11444/sisj.2013.73
張艶・川端望(2012)「大連市におけるソフトウェア・情報サービス産業の形成」,『アジア経営研究』18,pp.35-46。
https://doi.org/10.20784/jamsjsaam.18.0_35
Yan Zhang(2017). Development of and change in the software and IT-enabled services industry in Dalian, China , TERG Discussion Paper,361, pp.1-18.
http://hdl.handle.net/10097/00121009
Yan Zhang and Nozomu Kawabata(2015). Business creationand transformation processes in four software companies in Dalian, China:Commonalities and differences, TERG Discussion Paper, 331, pp.1-21.
http://hdl.handle.net/10097/59620
Yan Zhang and Nozomu Kawabata(2013). The Formation of the Software and Information Services Industry in Dalian ,China, TERG Discussion Paper,293, pp.1-18.
http://hdl.handle.net/10097/55766
(英文DPは日本語論文の英訳です)

アジア政経学会共通論題「東アジアと歴史認識・移行期正義・国際法ー徴用工問題を中心としてー」

2019年度アジア政経学会秋季学術大会共通論題「東アジアと歴史認識・移行期正義・国際法ー徴用工問題を中心としてー」(2019年11月30日,南山大学にて)。
司会:平岩俊司(南山大学)
報告1:青木清(南山大学)
「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国 -「徴用工判決」の法的分析を通して-」 
報告2:奧薗秀樹(静岡県立大学)
「危機の日韓関係と文在寅政権による『正統性』の追求」
討論:川島真(東京大学),大庭三枝(東京理科大学),山田哲也(南山大学)

 ようやく,徴用工問題の法的構造について学ぶことができた。実に貴重なセッションで,2時間にわたり,メモを8000字以上とりながら聞いた(お前の専門は何だという話は脇に置く)。

 とくに国際私法を専門とする青木教授の報告は,まず私人と私人の争いが国境を越えて行われる場合には司法の場でどのように処理されるのかの説明から始めてくださったので,法の門外漢にはありがたかった。

 日本での報道は,慰謝料請求が請求権協定の対象内かどうかという議論に集中している。だが,そもそもこの判決が出る前提は,もともと日本での裁判があって元徴用工の原告が敗訴したこと,韓国大法院が,通常であれば日本の判決を尊重するところ,これを否認したことにある。その際に,何をもってどのように否認したかを,青木教授は懇切丁寧に解説された。その上で,その否認の論理に判決の特徴と問題点を見出された。私は,大法院判決が韓国の憲法を個々の論点に直結させていることに驚いた。そして,そのよく言えばラディカル,悪く言えばちゃぶ台返しな論理を,これまでよりははるかによく理解することができたと思う。やはり物事は結論だけでなく,それを導くプロセスから理解しないといけないようだ(以上は青木教授の報告に対する私の理解であり,報告を誤解していればその責任は私にある。また素人がこれ以上詳述すると報告趣旨を歪める恐れがあるので,ここで止める。報告が論文化されることを期待したい)。

2019年度アジア政経学会秋季学術大会プログラム


2019年11月26日火曜日

中国の鉄鋼生産能力は本当はどれくらいあるのか?過剰能力削減政策で本当はどのくらい削減されたのか?

「中国鉄鋼業の生産能力と能力削減実績の推計―公式発表の解釈と補正―」をTERG Discussion Paper, No.414として発表しました。中国の鉄鋼生産能力は本当はどれくらいあるのか?2016-2018年の過剰能力削減政策では,本当はどのくらい削減されたのか?これらは公式統計の数字だけではわからず,また公式統計と政府発表が矛盾しているというおかしなことになっています。統計の解釈と補正によって,事実に迫ろうとしたものです。研究者,実務家の方々のお役に立てば幸いです。

こちら(東北大学機関リポジトリTOUR)よりダウンロードできます

2019年11月25日月曜日

大澤昇平氏のTwitterについての統計的差別論からの考察

 東大の大澤昇平特任准教授のTwitterについて,ひとつ前の投稿で所感を述べたが,そこで積み残した課題について考察したい。それは統計的差別という課題であり,企業や大学が直面する話題だ。私は「日本経済」の講義で雇用システムも取り上げるので,学生に説明できるようにしておきたいので考えてみる。

 まずおさらいしておくと,大澤氏は「弊社Daisyでは中国人は採用しません」とツイートし,その理由として「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」と言ったが,その根拠は何も示さなかった。これは,単純な偏見であり差別だ。すでに多くの人がこれを指摘している。東大の情報学環・学際情報学府はこれを不適切発言であり東京大学憲章に反すると認め(※1),マネックスグループは大澤氏の寄付講座に対する寄付を停止すると発表した(※2)。

 これらとは別に検討しておかねばならないのは,彼が以下のように言い放っていることだ(2019年11月25日17時分までチェック)。数値は発言順序とは限らないが,各発言の前後も確かめたので,文脈を曲げて切り取っていることはないはずだ。

1「整理すると,私企業が『個人が努力によって変えられない属性』(例:人種・国籍・年齢・性別)に基づき採用を決定するのは是が(ママ)否かの議論です。これはHR Techとも密接に関係します。」(11/22 午後4:25)(※3
2「既にHR Tech(AI)の領域では,採用時に人物属性を考慮した自動穿孔を行っており,インプットには人種や国籍だけでなく性別や年齢が含まれる。私のことをレイシストと『なんかそれっぽい名前』でレッテル貼りしたからといって,これらの属性とパフォーマンスの因果関係が突然無に帰すわけではない」(11/22 午後3:25)(※4
3「採用時にパフォーマンスと相関する指標を考慮に入れて何が悪いんでしょうか」(11/22 午後1:24)(※5
4「今回の採用方針が統計的差別にあたると認定されたところで、「では、私企業が業績を向上する目的で、統計的差別をすることは許されないのか」という点には大いに議論の余地があります。
 人物属性を考慮に入れることが不当なのであれば、企業の書類選考はすべて不当ということになります。」(11/25 午後0:11)(※6

 1-3は24日までのもので,4は25日のものだ。これは24日に公表された彼の同僚の明戸隆浩氏のブログ(※7)を受けてのことではないかと思われる。Twitterでは,私が追跡した限り統計的差別という概念を明示したやりとりはなかったからだ。

 さて,再三繰り返すが,彼は中国人のパフォーマンスが劣るというデータを全く出していないので,ここから行う議論にかかわらず,単純な偏見によって差別しているに過ぎない(しかも,前の投稿でも書いたが,差別の上に,何事かと思うほど現実とズレている)。

 だが,彼が言い放つ1-4の主張は,人事・労働・教育関係での深刻な課題に関わるので考えてみたい。

 一言でいうと,彼の主張は<統計的差別の肯定>だ。ここでの統計的差別とは,採用において一人一人の職務遂行能力を測定するのではなく,その候補者が属する母集団(国籍,人種,性別など)を設定し,その母集団の能力を統計的に何らかの指標で評価し,候補者もそれと同等であろうと推定して採否を決定することだ。わかりやすい例としては,長期の教育訓練を必要とする職務について採用を行うとして,<女性は短期勤続の傾向がある>という統計的認識をもとに,女性の候補者を個々にテストするまでもなく一律不採用にする,といったことだ。同じく業務に高度な日本語能力が必要だとして,候補者を個々にテストせず<日本人以外は日本語能力が劣っている可能性が高い>という統計的認識をもとに,<採用対象は日本人のみ>とすることだ。企業の採用以外でも,学校の入学であり得る。<過去の統計的結果として,女子は医師になったとき結婚や出産で離職することが多かった。だから病院と提携している医科大学が,女子を入学試験で一括して不利に扱っていた>という例があったことは,記憶に新しい。

 当人の能力やパフォーマンスにかかわらず,変えることのできない属性を理由に低い処遇にしているのだから,統計的差別も明らかな差別だ。よって是正されねばならない。ここは社会的規範としてはまったく動かないところなのであって,これから話す経済合理性云々によって調整されることはあっても完全に覆ることはない。差別はよくないのだ。

 統計的差別は,もともとの統計が虚偽で偏見だった場合にはお話にならない。今回の彼の認識などがそうだ。話が難しくなるのは,統計的な相関関係としては正しい場合だ。

 社会の人権に対する認識が変化するとともに,色々な分野の差別が批判されるようになる。しかし,企業には(場合によっては学校にも),統計的差別を行いたいという誘惑が付きまとう。それは,統計的差別が,差別している主体が過去の統計データに基づいて,経済合理的に行動することで起こるからだ。仮に,偏見によって差別しようという意図がない場合でも,差別したほうが得だから差別するという誘惑が働く。なぜならば,採用候補者の能力や勤続見通しを丁寧にチェックするには膨大なコストがかかるため,属性ごとに一括して扱った方が低コストになるからだ。だから統計的差別はなくなりにくく,深刻なのだ。

 低コストだから仕方がないというのは,企業の利潤追求の論理である。それはそれとして存在する。しかし,社会には,人権をはじめとする,守らねばならない社会的規範も存在する。企業の論理と社会的規範が衝突するときは,人権と社会的規範の優先度をできるだけ上げねばならない。とはいえ,極端な高コストにより企業活動が困難になってしまっては採用そのものも社会も成り立たない。だから,コストにかかわらず絶対に許されないこと,企業にとって過大な負担となることを避けながらできるだけなくすべきことなど,何段階かに分けながら,差別のない選考をするように調整を行うしかない。これが統計的差別をめぐって長年議論され,法制や政策上も工夫されてきたことだ。この課題は,近年,AIが人事選考に用いられるようになって先鋭化している。コストを下げるために,AIが性別や人種に基づいて候補者を一括評価してよいのかどうかという問題だ。例えばAmazonではAIによる採用を行ってきたが,女性に対するバイアスを示したために中止したと報じられている(※8)

 統計的差別は,実は経済的にも合理的でない可能性がある。正確に能力を測定していないということは,有能な人の力を活かせないことになる。だから,短期的に当該企業には低コストで合理的でも,長期的に,かつ/または社会的には合理的でないことがありうるのだ。例えば女性が活躍できない経済のパフォーマンスが結局は下がるというのが,私たちの国がまさにいま直面していることだ。このような場合は,人権と倫理の面だけではなく,経済合理性の面からも差別是正が望ましいことになる。

 このように考えると,彼が3で「採用時にパフォーマンスと相関する指標を考慮に入れて何が悪いんでしょうか」と言い放ったことは,二つの問題を含んでいる。一つは相関関係は因果関係ではないということだ。彼は2では「因果関係」と言っているが,ここで問題になっている属性のうち,国籍,人種,性別について示されるのは相関であって因果など証明されていない。○○人のパフォーマンスが悪かったとしても,それは○○人であるからではなく別の要素かもしれない。例えば,教育を受ける機会がなかった人はみなパフォーマンスが悪かったのだが,社会的事情で○○人には教育を受ける機会が少なかった場合,などだ(彼は相関関係も示していなかったのだから,何度も言うが無茶苦茶だ)。もう一つは,相関というのは集団についての統計的関係であって,候補者一人一人のパフォーマンスを測った結果ではないということだ。だから統計的差別であり,それは基本的に是正されるべきだ。もちろん,現実に企業にかかるコストを想定した場合,差別是正の社会的要請と企業経営の合理性の要求との間で調整は必要だ。しかしそれは合理的に調整すべきということであって,差別を是正しなくてよいということではない。

 4の最初の文章,「私企業が業績を向上する目的で、統計的差別をすることは許されないのか」ついて言えば,逆に問う必要がある。大澤氏はこれまで,できる限り差別をなくす必要性には何も注意を払っていない。では,意のままに統計的差別をしてよいかと思っているのか。差別をなくす必要性を最大限尊重しながら企業活動の合理性を維持するという調整に取り組む気はあるのだろうか。

 4の2番目の文章「人物属性を考慮に入れることが不当なのであれば、企業の書類選考はすべて不当ということになります」はすりかえだ。書類選考によって,候補者個人の属性と能力・パフォーマンスについて因果関係を十分に推定できる場合,例えば資格の取得などでその資格に関連した職務遂行能力が推定できる場合は,それで選別するのは当然だ。業務に高度な日本語を用いる場合,日本語能力資格を指標にするのももっともだ。書類選考はちゃんとできるではないか。
 しかし,性別や国籍など,単なる相関関係しか示さない指標を使い,それを因果関係だと強弁して選別するのは統計的差別だ(そして,相関関係すら証明できないような指標で選別するのは偏見による差別だ)。法が強制する規制を守るだけでなく,企業にとって過度な負担とならない範囲で最大限解消しなければならない。そうしなければ,たとえ違法でなくても批判されざるを得ないのだ。

 統計的差別を減らすため,またAIを統計的差別の道具にしないために,2,3,4のような主張は批判され,乗り越えられるべきだ。

※(補足)もともとの氏のツイートが自身が経営するDaisy社の採用方針であることから,それが法律的に許容されるかどうかという議論が起こっている。しかしそこでは,氏が違法とされるかどうかと,差別だと批判を受けざるをえないかどうかが混同している。違法でなくても差別と批判されるべきことがあるのは,当たり前だ。
 その上で,法的なことは濱口桂一郎氏がブログですでに解説されている(※9)ので詳しくはそちらを参照いただきたい。私の理解できる範囲でつづめて言うと,法の上では,国籍や民族や人種を理由に採用しないということに対する判断は複雑だ。a)条約レベルでは日本は人種差別撤廃条約に参加しており,b)しかしこの条約を具体化する国内法はない。c)採用時の差別については,個々の法律で明示的に差別が禁止されている事項や判例で差別と認定されている事項もあれば,d)そうでない事項もある。e)国籍によって採用することは明示的に禁止されていないが,厚生労働省の行政指導では行うべきでないこととされている(※10※11)。他の例をあげると,採用での女性差別は男女雇用機会均等法によって明確に禁止されている。
 だから,大澤氏のもともとの発言について言えば,中国人と言う国籍またはエスニシティを指標にするのは,おそらく日本では直ちに違法とはされないが,行政指導の対象であり,条約の観点からも問題視されるし,社会的には当然批判される。また発言1,2,3,4にあげている指標のうち「性別」を指標にするのはパフォーマンスと見かけ上の相関があっても許されず,直ちに違法である。こういうところになるのだろう。

※1「学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」東京大学大学院情報学環・学際情報学府,2019年11月24日。
※2「寄付講座担当特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」マネックスグループ株式会社代表取締役CEO 松本大
※3,4,5,6 大澤昇平氏Twitter
※7 明戸隆浩「東大情報学環大澤昇平氏の差別発言について」researchmap研究ブログ,2019年11月24日。
※8 Isobel Ashler Hamilton「アマゾンの採用AIツール、女性差別でシャットダウン」Business Insider, 2018年10月15日。
※9 「採用における人種差別と国籍差別」hamachanブログ,2019年11月23日。
※10 「公正な採用選考を目指して」平成31年度版,厚生労働省。
※11 「事業主の皆様へ 外国人雇用はルールを守って適正に」厚生労働省・都道府県労働局・公共職業安定所。


大澤昇平氏のTwitterについての所感:自分の問題を中国人の問題にすり替えているだけでは

<この記事は2019年11月24日15時29分にFacebookに投稿したものですので,それまでに入手可能な情報を反映しています>

 東大の最年少准教授と自らプロフィールに書く大澤昇平特任准教授の「弊社Daisyでは中国人は採用しません」(11/20, 午前11:12)ツイートが差別ではないかと炎上している。彼を雇用する東京大学大学院情報学環・学際情報学府は本日「学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」を発表した。

 私は,大澤氏がなぜ中国人を採用しないと考えるのかを確かめるために,彼のTwitterを24日12時までたどってみた。安全保障問題とかではなく「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」(11/20,午後1:21)とのこと。

 え?

 世の中には数々の中国人批判もあれば日本人批判もあるが,「営利企業じゃ使えない」という中国人批判は初めて見た。いや,本当に驚いた。いま世界経済は,中国人が経営して中国人が働いている中国企業が急速に台頭しているから,色々変動しているのだが。それを好ましいと思うか嫌だと思うかは人の自由だが,中国人が営利企業でパフォーマンスを上げているという事実そのものを認められないとは。善し悪し以前に,何かがアサッテの方向にずれていないか。

 辛抱して大澤氏の発言をたどってみると,彼は要するに,ある集団の属性とある仕事のパフォーマンスに相関関係があることを以て,その集団から人を採用しないとすることは経済的に合理的だ,社会的にも妥当だと言いたいらしい。これは統計的差別という領域で,本来は真剣に検討しなければならない課題だ。それはそれで別途考えたい。

 だが,彼は今回,AIで大量のデータから集団の属性と仕事のパフォーマンスを分析したわけでも何でもないだろう。現に,いくらたどっても,営利企業において中国人のパフォーマンスが悪い証拠は示されていない。単に彼の個人的体験からの価値判断としか思えない。

 だとすれば,あれこれの理屈はみな空しく,「自分には中国人のエンジニアや労働者を使いこなせないと思った」というだけのことだろう。それならそうとだけ言えばいいのだ。自分個人の自信のなさを,中国人全体に問題があるとすりかえるのは,みっともなくないか。

※「学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」東京大学大学院情報学環・学際情報学府,2019年11月24日。

たどりたい方へ。大澤昇平氏Twitter

こちらは続編です。「大澤昇平氏のTwitterについての統計的差別論からの考察」。

2019年11月23日土曜日

誘導炉で鉄鋼をつくるベトナムのVASグループ

 ベトナム南部ビンズオン省に立地するVASグループのTue Minh Steel。資本金6062億5000万ドン(約28億5000万円),50万トンの製鋼・圧延能力を持ち,ビレットと建設用鋼材(おそらく棒鋼・線材)を製造する。圧延ラインの最初の方の試運転の動画がFacebookにアップされていた。キャプションによるとイタリアに本拠を持つダニエリ社製の圧延機とのこと。圧延された材料を切断機がシャカシャカと細切れにしているのがコミカル。これは,本来両先端部だけを切るところだと思う。粗圧延スタンドだけの試運転なので,ここで細切れにして,その先に材料が行かないようにしているのだろう。
 注目すべきは,ここに写っていない製鋼設備だ。これまで得た情報によれば,多くの国で一般的なアーク電気炉ではなく,誘導炉である。誘導炉はアーク電炉より小規模で,1-2トン/タップ程度のものもあれば12トン/タップ程度のものもある。アーク電炉の容量は100トン前後のものが一般的で,大型のものは300トンを超える。誘導炉は,小ロットで生産量を柔軟に調整しながら操業することができる。また,炉のつくりが単純で,かつ中国製のものが輸入されているので設備コストが安い。結果としてビレットの生産コストも低い。ただし,誘導炉は溶解するだけ成分調整はできないから,品質はスクラップの選別に依存する。小規模企業が機会主義的に多数参入すると,平均的な品質はアーク電炉炉メーカーより低くなる。VASグループの企業は複数あるが,それぞれ誘導炉企業としては最大級であり,グループとしての生産規模は正確に把握できないものの,おそらく100万トンを超えている。Tue Minhについては確認できないが,別の子会社An Hung Tuongでは取鍋精錬(LF)も導入しており,相対的に高品質のビレットも作っていた。
 中国では誘導炉による普通鋼の製鋼は違法として禁止され,2017年以後,政府による強制閉鎖が大規模に進められた。しかし,ベトナムでは誘導炉企業は合法的に操業しており,政府も規制する動きには出ていない。設備の選択それ自体は規制せず,安全・環境・品質規制に抵触すれば規制するという姿勢だ。そのため,棒鋼・線材市場ではアーク電炉,誘導炉,さらに小型高炉・転炉/電炉,線材に限っては大型高炉・転炉による製造も行われており,激しい競争が繰り広げられている。

Tue Minh Steel圧延工場の試運転(Facebook)。
https://www.facebook.com/theptueminh/videos/539260826621405/

2019年11月19日火曜日

日本製鉄広畑製鉄所の製鋼工程が電炉法に切り替わることについて

 製鉄所の再編・統合に隠れてあまり注目されていないが,日本製鉄は11月1日に,広畑製鉄所の製鋼工程を冷鉄源溶解法から電炉法に置き換えることを,第2四半期決算説明の一部として発表した。
 鉄鋼業界は,1980年代の円高不況期に過剰設備の削減に乗り出したが,この時,新日鉄(当時)の計画には広畑製鉄所の高炉休止が含まれていた。バブルを経て多少の延期はあったものの高炉は1993年に休止し,同年に製鋼工程は転炉法から冷鉄源溶解法に転換した。
 1996年に見学した際の記録によってまとめると,冷鉄源溶解法とは,型銑(固体・常温の銑鉄)とスクラップを加熱し,溶解炉で溶解して溶銑(融けた高温の銑鉄)と類似の鉄源を確保する方法であった。最初に前回のため湯100トンを残しておき,そこにスクラップや,大分製鉄所から運んできた型銑などの冷鉄源を投入する。その比率は当時は半々であった。これに上下から酸素・冷却LPG・窒素・粉炭を吹き込んで溶解し,出銑して取鍋にあける。以後は,高炉・転炉法と同じで,取鍋内で脱硫処理を行った後,脱炭炉(転炉)で脱炭・精錬し,さらに二次精錬を行ってから連続鋳造機に送り,鋳造してスラブにする。スラブが圧延やメッキを施されて各種の鋼板類になる。
 このプロセスならば高炉・転炉法と類似の品質の鉄源を確保できる。こうして,広畑製鉄所では圧延工程で電磁鋼板やブリキ,電気亜鉛めっき鋼板を含む高級鋼板を製造してきたのである。もっとも,半分以上は他の製鉄所から来るスラブを圧延していた。
 しかし,通常の高炉・転炉法よりコストも時間もかかる。高炉・転炉法では高炉から出銑された溶銑(融けた高温の鉄)が転炉に装入されるのに対して,冷鉄源溶解法では,大分製鉄所でいったん冷えて固まった銑鉄を広畑まで運び,もう一度加熱・溶解しているからである。
 広畑の製鋼工程は新日鉄時代から日本製鉄の長年の悩みの種であったため,今回,これを電炉法に切り替えるのは画期的な変革となり得る。ただ,公表資料には「高炉由来の高品位原料を活かし」とも書いてあるので,電炉法への切り替え後も,鉄源として型銑に依存する比率は高いのかもしれない。そうすると,いくらか画期性はそがれることになる。
 この上は,できる限りスクラップ比率を高めて欲しい。それが今回の措置の意義を高めるからだ。スクラップを主要鉄源にできればCO2排出原単位が画期的に低下するし,製銑工程を必要としないために製鉄所をコンパクトにできる。そして,冷鉄源溶解法が品質のために犠牲にしてきたコスト競争力を回復させられる。スクラップ・電炉法によって,差別化競争力の源泉である高級鋼板を製造できるのであれば,広畑製鉄所はコスト的にお荷物状態だった中型製鉄所から,未来型のコンパクト製鉄所に転換する。そして日本製鉄の未来には,地球温暖化の危機の時代に生き残るための一筋の光が差し込むことになるだろう。

「2019年度第2四半期決算説明会」日本製鉄株式会社,2019年11月1日。

2020年12月12日追記。その後の日本製鉄の温暖化対策。

2019年11月13日水曜日

「逮捕でなく書類送検」というFNNの報道はおそろしくミスリーディング

池袋暴走事件の報道だが,「逮捕でなく書類送検」という言い方はおそろしくミスリーディングだ。FNNは大丈夫か。

 世の中には,「書類送検」というと,「書類が送られて終わりで処罰されない」という誤解が蔓延している。それと対になって,「逮捕が処罰である」かのような誤解も蔓延している。この報道は誤解を助長する。

・警察が取り調べ→捜査終了→送検→検察が起訴するかどうか判断→起訴されたら刑事裁判

という流れは,逮捕されようがされまいが同じである。ただ,逮捕されて取り調べられていれば検察に身柄が送られ,逮捕されていないならば書類が送られる(法律用語ではないが,俗に書類送検という)。

 「逮捕でなく」と言うとすれば「逮捕でなく任意で取り調べ」だ。逮捕は処罰ではないし,逮捕されても取り調べられているだけであり犯罪者と決まったわけではない。逆に言えば,逮捕されようがされまいが,警察の取り調べで犯罪の疑いありとされたなら送検される。書類送検されたというのは罪に問われないどころか,犯罪の疑いありとと警察が判断して捜査を終了したということだ。今回の場合,これから検察が,飯塚容疑者を起訴して刑事裁判にかけるどうか決めるのだ。

 今回は遺族の方が「書類送検だけでなく、逮捕されて、本当に罪を償っていただきたい」という表現を使ったのだが,これは音声として流せばよいのであって,報道機関がそのまま見出しやテロップにするのは大いに問題だろう。

「池袋暴走の飯塚幸三容疑者 なぜ 逮捕ではなく書類送検」FNN PRIME,2019年11月12日。

ニュース映像。テロップで,遺族インタビューの映像より前に「なぜ逮捕でなく書類送検」としている。

2019年11月3日日曜日

MMTも自国通貨の信用が失われる危険について考えている

この五十嵐敬喜教授の主張は,自国通貨の信認に関する常識的なイメージとMMTの関係を説明する材料としてちょうどよい。

(引用)「今後、高齢化がいっそう進むわが国では、債務超過額はさらに拡大する可能性が高い。抵抗が大きい増税や歳出削減でそれを食い止めようとしても、実現不可能だという他ない。その現実を多くの人々が自覚したとき「自国通貨建ての債務に限界はない」とか「財政の資金繰りに問題はない」と言い続けられるだろうか。」

 言い続けられる。自国通貨建て債務で政府がデフォルトを起こすことはないからだ。心配すべきところは,そこではない。

(引用)「物価とは本来、人々が自国通貨を信用できなくなったときに歯止めなく上昇するものだ。」

 その通りだ。

「通貨に対する人々の信頼の根源が国(の財政状況)に対する信頼であることは言うまでもないだろう」。

 ここがおかしい。自国通貨への信認が失われる理由は1)自国通貨建て債務がデフォルトを起こしそうになるから,ではない。それは心配ない。本質的には通貨を発行して返済することができるからだ。

 心配すべきは,2)政府がインフレを止められない場合,3)それと関連するが政府に必要な課税能力がないとみなされた場合,4)政府がバブルとその崩壊を止められない場合,5)政府もしくは民間の外国通貨建て債務が大量にデフォルトを起こしそうな場合,6)それと関連するが為替レートが暴落した場合だろう。「通貨に対する人々の信頼の根源は」,a)人々が租税納入のためにそれを保有せざるを得ず,したがって保有したがることによって,またb)通貨=政府債務が,より汎用性の低い債務(個人の債務,企業の債務,銀行の預金債務)を信用代位して決済システムを支えていることによって保たれているのである。2)3)4)5)6)はこれらa)b)を危うくするのだ。

 MMTも,不況であると好況であるとを問わずに財政赤字をひたすら増やす財政運営をすべきだとか,してよいとか言っているわけではない。それでは少なくとも3)と2)に問題が生じるし,4)5)6)にも生じるかもしれないからだ。MMTが述べているのは,財政赤字を出すべき時には出し,減らすべき時には減らすべきだというだけのことであり,ただし景気循環を通して財政赤字があり続けること自体は問題ないということだ。この点でMMTは何ら奇論ではないし,財政赤字で一切が救済されるという宗教宣伝でもないのだ。

五十嵐敬喜「自国通貨でも債務は債務」三菱UJFリサーチ&コンサルティング,2019年8月28日。

2019年11月2日土曜日

MMT派のように恒常的財政赤字を肯定する見地からは,「財源」論をどう考えればよいのか

 私は2019年3月18日の投稿では,本格的な再分配政策には消費税も欠かせないとする井手教授が『幸福の増税論で』展開した財源論を,プライマリー・バランスの赤字解消は必要ないという点を割り引いたうえで,示唆に富むと評価していた。しかし,2019年10月30日の投稿では,井手英策教授が,財政赤字の拡大を助け合い思想の欠如と結びつけていることを批判した。これは,3月の時点では財政理論についての私の考え方がいまよりも不安定だったことにもよる。そこで,現時点での考えを改めてノートしておきたい。

 これを一般的に言うならば,「MMT派のように財政赤字の恒常的存在を肯定する見地からは,支出増に対応した『財源』論をどう考えればよいのか」という課題について考えようというのである。

 まず財政についての基本的な考え方について。私は経済が成熟し,高成長が望めない先進資本主義国においては,財政赤字は常に存在してもかまわないし,むしろ存在しなければならないだろうと考えている。そして,赤字幅は拡大すべき時は拡大し,縮小すべき時は縮小すべきだと考える。MMT派が盛んに主張していることだが,ほんらい財務省も認めているように,1)通貨発行権を持つ主権国家は,その債務が自国建てである限りデフォルトを起こすことはない。なので,「借金が返せなくなる」という心配はないのだ。また,別途詳しく述べたが(※),2)財政赤字が金利の高騰を引き起こし,民間の投資資金調達をクラウド・アウトするということもない。この点はMMT派が正しく,常識の方が誤っている点である。ただし,3)モノやヒトなどの経済資源は希少であるから,野放図に財政赤字を拡大すると資源動員の限界やボトルネックに突き当たり,インフレ=モノとヒトのクラウド・アウトを起こす危険は存在する。また,4)財政支出が実物資源の購買力にならずに金融資産購入に回ってバブルを引き起こし,ある時点でそれが崩壊する危険も存在する。さらに,5)対外的に為替レートの急落を引き起こし,通商を混乱させたり対外債務のデフォルトを招く危険もある。だから,1)2)の心配はなくとも,3)4)5)には注意した財政運営が必要である。その制約条件の下で,失業をなくし,貧困と格差を緩和し,市場の失敗を補正し,社会的に望ましい行動を促進する一方望ましくない行動はくじくように財政を運営することが原則である。つまりは経済を望ましく機能させることが重要なのであって,その結果,財政が赤字であっても黒字であっても,それ自体は問題ではない。このような見地は,私はまだ学んでいないものの機能的財政論に近いだろうと予想している。

 さて,このような財政運営を成熟した資本主義経済で行った場合,景気循環を通して平均的にみると赤字になる可能性が高い。常時,格差と貧困に対処しなければならないし,傾向的な高齢化に対処しなければならないし,不況期には失業者が多数発生するからだ。赤字であること自体は,3)4)5)の条件を満たすならば全く問題はない。もっとも,満たすためにはモノ・ヒトが十分に存在しなければならないから,GDPにどう表現されるかどうかはとにかく,富の蓄積と人の教育という実物の面での経済開発は継続する必要がある。いくら医療に財政資金を投入しても,すぐれた医者や看護師がおらず,医薬品の研究・開発・生産が困難であって供給不足に陥ってはどうにもならない。その意味で,「成長か分配か」の二者択一論は不毛であり,分配の改善も必要ならば,必要なヒト・モノ・サービスが確保できるという意味の経済開発も必要である。

 以上のように考えるので,私は井手教授の助け合い,分かち合い,頼りあいの社会思想には賛成するのだが,財政にハードな予算制約を想定して,納税で痛みをわかちあうべきとする財政思想には賛成できないのである。経済を機能させるためには,国債を大いに発行して財政赤字が拡大すべき局面もあれば,課税を強化して財政黒字を出すべき局面もある。しかし,平均して財政は均衡させるべきという根拠はなく,平均すればむしろ赤字であろうと考えるのが,成熟した資本主義経済では現実的である。だから,財政赤字それ自体は,人々の助け合い思想の欠如でもなければ,民主主義の機能不全でもないのだ。

 さて,ここまでは井手教授に対する批判であり,MMT派に近い考えだ。しかし,では財政赤字はあってもかまわないという立場に立つとして,その立場からは,井手教授が論じている再分配革命の財源をどう考えればよいかという問題が生じる。井手教授の再分配革命が支出面で達成したいこと,つまり「生きるためのニーズが満たされる」ための事業が政府によってなされるべきことは私も賛成だ。では,その際,井手教授のように財源を計算するのはまちがいなのだろうか。

 一部,明らかに批判すべき点はある。それは,井手教授がプライマリー・バランスの均衡化に必要な財源まで想定していることだ。私は,それは必要ないと考える。では,それ以外の部分はどうか。井手教授は,教育と医療の無料化には12兆円プラス関連経費でおおむね19-20兆円が必要だとして,それに対応して歳入も20兆円必要だと考えている。そして消費税増税も必要だと言われる。ある程度財政赤字があってもかまわないという見地からは,このシミュレーションにどうコメントすべきなのだろうか。この点を解決することが,批判に伴う責任だろう。

 例えば,MMT派の貨幣論に立てば「財源」という概念自体が否定される。しかし,だからと言って,歳出と歳入の量的バランスの問題を考えなくてよくなるわけではない。恒常的な支出増だけを実行すれば,その分だけ財政赤字は常時増大する。しかし,財政赤字は拡大することが望ましい局面と縮小することが望ましい局面がある。インフレ圧力が高まったリバブルが生じたりしたりする好況局面では赤字圧力は望ましくない。だから,デフレの時期には財源を気にせず,当面の支出を赤字国債で賄えということはできるものの(そういう方向の主張は,現在の日本でMMTやリフレ論に基づく反緊縮派も行っている),常時そうしてよいわけではない。不況期も好況期も含めて一般原則として歳出歳入バランスはどうあるべきかを,MMT派であっても考えねばならない。

 まず望ましいのは,ランダル・レイの『MMT 現代貨幣理論入門』でも指摘されているように,財政支出は反循環的,つまり不況期に増えるように設計し,課税による歳入は順循環的,つまり好況期に増えるように設計することだ。この点では,財政学の常識とMMT派は一致している。

 ただ,常識を変えねばならないのは,景気循環を通して財政を均衡させる必要はなく,ある程度の財政赤字は常時あってもよい,ある方が望ましいということだ。しかし,どのくらいの赤字が常時あることが望ましいのか?この財政赤字の望ましい平均水準を想定することが必要だと思うが,これは状況に依存し過ぎていて,事前に定めるのが容易ではないように思う。そして,この困難が,財政拡大を必要とする事業を構想する際の財源論を難しくする。

 教育や医療の無償化に20兆円かかるとして,その財源も20兆円必要だということはないだろう。恒常的な赤字をある程度増やすことで対処してもよいからだ。しかし,前述のように歳入をまったく考えておかないと,インフレやバブルに耐えられないだろう。それでは歳入増はいくら必要だろうか。5兆円だろうか。10兆円だろうか。17兆円だろうか。この見当がつかないと,話は先に進まない。

 一時的な事業による支出増や強度に反循環的な支出であれば問題は難しくない。しかし,教育や医療に対する支出は,ほとんどは景気循環と関係なく,一定規模で存在し,かつ,増え続ける可能性も高いものだ。この支出は当然財政に赤字への恒久的圧力を加える。妙に聞こえるかもしれないが,不況ならば話は難しくなくて,財政赤字を出せばよい。しかし,むしろ好況に転じて,インフレやバブルが生じそうになった時が問題だ。教育・医療の無償維持が必要だとすれば,強力な財政赤字圧力に対抗して,課税を強化し,歳入を増やさねばならないだろう。その手立てを,インフレが生じそうになってから考えるのでは手遅れである。教育・医療の無償化を企画する時点で設計しておかなければならないだろう。

 ということは,「財源」と呼ぶべきかどうかは別として,再分配革命のための支出増の構想には,一定水準の安定した歳入増の構想が伴わねばならない。歳出・歳入のバランス論は,MMT派でもやはり必要なのである。歳出増と歳入増をイコールにする必要はない。一定の財政赤字増を想定してもよい。しかし,その妥当な赤字増大幅を合理的に想定しておかねばならない。ここが難しい。これは,MMT派のような財政赤字を許容し,むしろ奨励する学派にとって突き付けられた政策的課題であると思う。

 このように考えるならば,井手教授が,再分配革命の支出増にどのような歳入増を対応させるか,その際,安定した歳入源は何か,税の種類によって人々にどのような動機が与えられるかとシミュレーションしていることは,やはり重要だ。そして,想定すべき赤字幅がわからない状態では,考察の出発点として,歳出増=歳入増の条件でまずシミュレーションしてみることも,思考の手続きとしては合理的だろう。そうしたシミュレーションそのものを頭から拒否するのは適切でない。

 その上で,井手教授の主張をそのまま受け入れる必要はない。まず,プライマリー・バランスの黒字化は不要なので,そのための歳入増は必要ない。次に,歳出と歳入を完全にイコールにする必要はない。常時あるべき財政赤字幅に対応した当該事業の歳出超過幅を何とかして算定し,その分は国債を発行するとすればよいだろう。そのように増税必要額を割り引いて言った場合に,どのような結果になるだろうか。消費税を増税せずとも,所得税や法人税の累進性強化や,実行可能な資産課税,様々な大企業に有利過ぎる税額控除の廃止・縮小によって,十分な歳入増が確保できるだろうか。井手教授の所説を手掛かりに,そしてその所説を乗り越えるためには,ここが解明すべき課題だと私には思える。

「<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている」Ka-Bataブログ,2019年10月30日。

「本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで」Ka-Bataブログ,2019年3月18日。


2019年11月1日金曜日

鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの終結について

 鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの延長に参加国・地域の合意が得られなかった件。グローバルフォーラムの意義は,「過剰生産能力の規模が大きく,かつ慢性化することは問題だ」という認識の共有,生産能力に関する情報の共有,能力調整の実施状況をモニタリングし,あまりに不正常な行動が起きないように抑止しあうこと,であったと私は思う。逆に言えば,能力削減を直接に推進したり,監督したりする機能は持っていなかった。つまり,能力削減に直接の実効性を持つものではなかった。

 なので,このフォーラムがなくなっても,各国・地域における能力調整の取り組み自体はそれほど影響を受けないだろう。その点では,さほど深刻に考える必要はない。

 ただし,能力に関する情報を共有し,意見を交換する場が縮小することは問題がある。極端な独自行動に出る国・地域があった場合,これを抑止しにくくなるからだ。また,鉄鋼統計を共有する場が縮小することにも問題がある。産業統計は通商政策の基礎となり,逆に政策を評価する基本情報ともなるものだが,その国際的な比較可能性に問題があるからだ。鉄鋼統計は国・地域によって基準のズレがあり,精度もまちまちであって,そこから認識のずれや極論も生まれやすい。

 こうした意味ではグローバルフォーラムが継続されなかったことは残念だ。とくに生産能力情報については,国際的に共通の情報に基づいて意見を交換し合える場はOECD鉄鋼委員会だけになってしまった(World Steel Associationは能力情報は公表してない)。こちらを拠点にして,新たな取り組みを再構築するしかないだろう。


「鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラム閣僚会合を開催しました」経済産業省,2019年10月26日。

2019年10月30日水曜日

<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている

私は,井手英策教授の「生きるためのニーズが満たされるべきだ」という考え,「雑に扱われていい人なんて一人もいない」という考えを支持する。そのために社会の成員が助け合うべきだという考え方にも共感する。しかし,井手教授は社会の成員が助け合うべきだということを,<税の納入で負担を分かち合うべきであり,財政赤字を出すべきでない>という考えに直結させているように見える。また,さらにすすんで,<増税に反対するのは助け合いの思想がないということだ>と,租税抵抗が財政赤字を拡大することをアンモラルだと主張しているように読める(※)。私は,この後の二つの考えには反対する。
 むしろ私は,極端に言えば<誰をも雑に扱わないためには,財政赤字くらい出していいじゃないか>という風に考えている。一応,その経済学的根拠もある。通貨発行権を持つ国家は,債務が自国通貨建てである限りはデフォルトを起こさない。もちろん,悪性インフレを起こすべきでないし,為替レートを暴落させるべきではないし,バブルとその崩壊を引き起こすべきではない。しかし,それらのことに気をつければ,常時財政赤字があっても問題ないはずである。また,常時財政赤字を出すことなく,失業者をすべて雇い,ミニマムの社会保障が実現できるかどうかも疑問である。
 私は,強引に要約するなら<租税抵抗による財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手教授の理想の実現を妨げているように思う。

※<>は引用でなく,井手教授の言っていることはこういうことになる,という解釈である。もちろん,井手教授は「アンモラル」という言葉を使っているわけではない。しかし,教授は租税抵抗を,助け合いの思想の欠如と結び付けてとらえており,その帰結としての財政赤字に倫理的な否定的意味を込めていると読めるのだ。これを「アンモラルと主張している」と解釈した。なお,教授は同時に,租税抵抗はお金を貯蓄として眠らせ,有効活用を妨げる効果を持つとも述べており,これには私は賛成する。

「賢人論第103回 井手英策氏 前編・中編・後編」みんなの介護,2019年10月21日,24日,28日。

井手英策『幸福の増税論』岩波書店,2018年。

2019年10月27日日曜日

地図は鬼門中の鬼門:米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件

 米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件。原因は,映画内に登場する南シナ海の地図に,中国が主張する国境線である九段線が書かれていたから。

 地図は鬼門中の鬼門,地雷中の地雷である。地図を,とくに境界線を描くというのは,高度に政治的な行為になりやすい。黙って「普通に」してれば政治的にならないというものではない。必要がないなら描かない,必要がない部分を描かない,国境を書かない,色を塗り分けないなどの目的意識的な工夫をして,なんとか非政治性や中立性を確保できるくらいに思った方がいい。さもないと,意識していようといまいと,客観的には特定の政治的立場の宣伝を行うことになってしまう。その政治宣伝を思わぬところで押し付けられた場合の反応は激しくなる。

 私にも覚えがないわけではない。以前に「東アジアプロジェクト」と言う共同研究をやっていたが,あるチラシに東アジアの地図を載せようとしたところ,以下のような問題に突き当たった。

*国別の色の塗分けはトラブルの元。係争地域について特定の判断をすることになるから。
*国境線を記すのもトラブルの元。この記事と同じ。
*端っこはどこまで東アジアとするかも,実は微妙な問題を含む。この時はそうではなかったが,ロシアの人々を含めた共同研究の場合もあるので,日本の右上をどこまで描くかですら,問題の種になるおそれがある。

 結局,東アジア全域を単色で塗りつぶし,またどこまでが東アジアかもボケた表現とする地図にした。

 また,ある共同研究の報告書で冒頭の中国の地誌に関する部分の原稿を中国人の先生に書いていただいたところ,彼が受けた標準的な地理教育に従い,九段線の内側まで中国とする文章を出してきたので,お願いして変えてもらったことがある。むろん,ベトナムの主張通りに変えるのではなく,どこまでが中国の領土かという話を含まない文章にしていただいたのだ。いや,その先生も日本のことは意識していたのか,尖閣諸島の記述はなかったのだが,それ以外の国との係争地域には考えが及ばなかったのだろう。

 かくして地理は政治である。本学では地理の専攻は理学研究科にあるが,大阪市大では文学研究科にあった。政治経済学的視角が生き残っている分野の一つは経済地理学だ。いずれももっともなことだ。

「アニメ映画「アボミナブル」、ベトナムで上映中止 南シナ海の地図巡り」CNN.co.jp,2019年10月15日。


2019年10月25日金曜日

改憲せずとも戦前を実現できるという『産経』の白昼夢

『産経新聞』論説副委員長榊原智氏の堂々たる論説

 「憲法第1条で天皇の地位が「国民の総意に基く」とあるのは、それゆえだ。たまたま今、生きている国民の多数決に基づくものではなく、過去、現在、未来の国民の総意の規定だととらえるべきだ」。

 いや,「主権の存する国民の総意に基づく」と書いてあるんですけど。いまの天皇は,国民主権を前提に象徴だと憲法で認められているのであって,国民主権でなかった時代の天皇は,全然別の原理だと読むのが普通ですよ。

 「立憲君主である天皇が、憲法に同居する国民主権と矛盾されるわけもない」。

なぜ。どうして。どのように。

「臣下の筆頭である内閣総理大臣が即位される天皇陛下に対して、万歳を三唱するのは自然なことだ」。

 記事のタイトルで憲法守れって言ってますよね。憲法第65条と66条で「行政権は,内閣に属する」,「内閣は,法律の定めるところにより,その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」って書いてありますよ。臣下じゃないですよ。

 榊原氏は,国民主権があろうと,憲法に何と書かれていようと,それに関係なく天皇は君主であり,それ以外の国民は臣下だと言っているのです。ならば,氏と『産経』にとって新聞の役割とは,天皇や皇室について憲法や法律の見地から,その在り方が主権の存する国民の総意に基づいているかどうかを冷静に論じることではないのでしょう。それどころか,臣下として,頭を低くし,ほめたたえ,服従することを,共産党はおろか国民誰に対しても命じるキャンペーンを張ることなのでしょう。改憲せずとも戦前を実現できるという白昼夢,いや,おそれいりました。

榊原智「【一筆多論】共産党は憲法を守れ」『産経新聞』2019年10月22日。

2019年10月24日木曜日

考えようとした『河北新報』:「即位の礼」報道

 『河北新報』の2019年10月23日付朝刊トップは「『国民に寄り添う』 正殿の儀 天皇陛下即位を宣言 各国の元首ら2000人参列」の見出し。左側に小さく「雨続き二次災害警戒」の見出し。
 総合面2-3面は「皇位継承 議論後回し 女性容認の世論とずれ」「天皇陛下お言葉 憲法巡り『順守』→『のっとり』社会情勢への配慮か」「平成踏襲 批判は封印 儀式の骨格戦前が基」などの見出しの他,「厚生年金逃れも立ち入り 厚労省検討 法改正で権限拡大」などの記事が左右に。
 社会面22面は,「天皇陛下即位礼正殿の儀」「被災者に心寄せ」「宮内庁幹部『パレード延期安堵も』」「被災者思いさまざま 見ている暇ない/元気もらえた」などの見出し。
 社会面23面は即位礼の記事はなく,「災害ごみ手付かず」「被災3県 仮置き場増設でしのぐ」「郡山 処理施設浸水でストップ 生ごみ以外の排出控えて」「『面倒見良いリーダー』宮城・丸森小野さん 住民ら急死惜しむ」などの見出し。
 正殿の儀一辺倒ではなく台風被害も大事だという判断をし,儀式のあり方を論じるべきだと提起していることは,考えた上での紙面構成と見たい。
 ヨイショ記事ばかりでは新聞の役割放棄だが,『河北』はそうなるまいと努力した。




無惨な『日本経済新聞』:「即位の礼」報道

『日本経済新聞』2019年10月23日朝刊。1面の見出しは「天皇陛下即位の礼」「『象徴つとめ果たす』正殿の儀,2000人参列」「海外の賓客を歓待」「国民の幸せと世界平和願う 天皇陛下のお言葉」。左側に細長く「離脱関連法案審議入り」と別の記事。
 総合面の2-3面もほとんど即位の礼関係で,見出しは「『祝賀外交』活発 首相,連日の2国間会談」「饗宴華やか 舞楽や和食,おもてなし」「令和の天皇像にじむ」「国民とともに世界に目線」「平成の式典を踏襲 国民主権・政教分離に配慮」。わずかに「ソフトバンクGのウィーワーク支援」の記事。
 社会面の30-31面もほとんど即位の礼関係。見出しは「列島各地心から祝福」「『助け合う時代願う』」「即位の宣明高らかに」「古来からの儀式,厳粛に」「直前に雨やみ晴れ間」「『平和への思い新たに』」など。わずかに小さく「台風の被災地 複雑な思いも」。
 新聞の役割は,何事にも冷静に距離を取って報じ,論じるというものではないのか。そういう視点がほとんどない。もちろん,見出しだけでなく中身も確かめたが感想は同じ。政府から与えられたストーリーにしたがって天皇を賛美するだけの提灯持ちのヨイショ記事が多すぎ,新聞ではなく広報に近い。ある程度覚悟して読んだのだが,それでもげんなりした。


2019年10月21日月曜日

ヴェノナ文書への関心

 ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。『ヴェノナ』文書に基づく現代史研究だ。ヴェノナ作戦とは,第二次世界大戦中の1943年から1980年に至るまで,当初アメリカ陸軍の通信諜報部(後に国家安全保障局=NSAに吸収される)によって実施された対敵諜報活動だ。具体的には,旧ソ連の諜報機関であるKGBやGRUとアメリカ国内のソ連スパイ,対ソ協力者との暗号通信を解読する作戦だった。この作戦で解読された文書が「ヴェノナ」文書と呼ばれる。1995年に公開されることにより,旧ソ連がアメリカで行っていた諜報活動の一端が明らかになった。これにより,多くの人々があるいはソ連のスパイや対ソ協力者と判明し,またそう疑われることになったためにスキャンダラスなできごととなった。

 この種の出来事は,本書の帯にあるように「アメリカはソ連の諜報活動に操られていた」という政治的キャンペーンにつながる。本書の邦訳も,帯の推薦文を書かれた江崎道朗氏がおっしゃるように「アメリカでの歴史見直しの動向も無視したまま、戦前の日本「だけ」が悪かったと言い募るような、視野狭窄(きょうさく)はもうやめようではないか」(江崎「「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀」iRONNA,2018年8月15日)というところにあるようだ。

 そんな極論はどうでもよいが,ヴェノナ文書が,まともな意味でも歴史の見直しにつながることも確かだろう。私が個人的に関心を持つのは,ヴェノナ文書には,経済学者として心を動かされる名前も登場するからだ。

 その最たるものはハリー・デクスター・ホワイト,すなわちIMF設立における「ホワイト案」のその人だ。ホワイトがアメリカ共産党員ではなかったが対ソ協力者であり,情報を流していたことはかなり確定的なことらしい。これはさすがに,国際経済関係史の見直しにつながるように思う。

 世間的にはよりマイナーな,しかし私的な研究史から印象深いのはヴィクター・パーロとハリー・マグドフだ。

 パーロはアメリカのマルクス経済学者であり,日本でも多数の著作が翻訳された。私の師,金田重喜氏の最初の公表論文はパーロのThe Empire of High Financeの書評であり,金田氏はこれに『最高の金融帝国』という邦題を当てた(※)。パーロの本書は,金田氏が最も影響を受けた本の一つであった。氏は,私が学部3年の終わりの頃,研究室で「きみはまだ僕の言いたいことわかっておらんね」と言われたことがあった。そして,その翌年度のゼミの教科書にパーロ『最高の金融帝国』を指定された。1958年刊行の訳書をわざわざもう一度引っ張り出されたのは,大学院を受験する私に金融資本論を学ばせたかったからではないかと,今でもうぬぼれ半分に思っている。そのパーロは,戦時工業生産委員会内に潜むアメリカ共産党員のリーダーであり,多くの情報をKGBに流していた。これもかなり確定情報のようだ。

 ハリー・マグドフがヴェノナ文書に登場しているのは,私には意外であった。パーロの場合,アメリカ共産党員であることや,アメリカ共産党が,日本共産党が愛想をつかすほどの極端なソ連追随主義であることは学生時代から知っていたが,マグドフはポール・スウィージーとともにMonthly Review誌を担った,党派に属さないマルクス経済学者として知られていたからだ。私は,岩波新書の『現代の帝国主義』の他,スウィージーとの共著『アメリカ資本主義の動態』,『アメリカの繁栄は終わった!』,『アメリカ資本主義の危機』をよく読んだ。過剰資本論の理解は彼らに学んだところも大きい。そのマグドフも,ヴェノナ文書ではパーロ・グループの一員とされている。ただし,Wikipedia英語版によれば,マグドフは犯罪に関与していないという主張もあるそうだ。

 現在の基準ではソ連への機密文書横流しなど到底正当性を持ちえないことは言うまでもない。しかし,当時,少なからぬ人々がこのような活動に手を染めたのは,どのような動機と論理によるものだったのか。本書からしても,カネのためとか,弱みを握られ脅されたからではない。アメリカ共産党員,あるいはソ連の社会主義体制支持者として,それが正しいものと心から信じて行っていたと思われる。それは,当時のどのような社会的条件の下で,どのようなモチベーションとロジックにより選択されたのか。それが知りたい。

 もう少し歴史的に言えば,「国際共産主義運動」は,いつまでソ連を司令塔とする単一の,国際的ヒエラルキーを持つ運動だったのか。これは,Facebook友人に旧社会主義国の歴史研究の専門家がいらっしゃるので,素人が何かを言えるわけではない。しかし,関心はある。加藤哲郎氏が指摘されるように,国際共産主義運動は,今から見れば非常に特異な形を持った,国境を越えようとする運動だったのだ。私は,それが何であったのかを考えたい。

※ この時,浅尾孝氏による訳書はまだ出版されていなかったが,訳書でも邦題は同じであった。金田氏の書評での邦題を浅尾氏が採用されたのか,あるいは金田氏の方が訳出進行中の予定邦題を知っていたのかは謎である。生前にうかがっておくべきであった。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。


2019年10月15日火曜日

派遣事業者と職業紹介事業者の労働立法への参画について

 労働分野の立法の検討は政労使または公労使の三者構成だが,労働市場の需給調整機能に関する審議は,派遣事業者または職業紹介事業者を含む四者構成であるべきだとする中村 天江氏の意見が公表された。

 ここまで労働者派遣事業や民営職業紹介事業が定着した今,傾聴に値すると思う。

 労働者派遣事業や民営職業紹介事業に対する政策が,長らく規制し,制限するという趣旨であったのは,歴史的経過から中間搾取が懸念されていたからであるが,実は企業内労働市場と,学校が職業紹介に関与するしくみによって,労働力需給調節機能が担われていたからでもある。中間搾取の懸念は今なおあるが,企業内労働市場と学校による職業紹介機能は徐々に弱体化しており,いまさら労働者派遣や民営職業紹介なしでやっていくことはできない。となれば,課題は業界の発展を抑えることではなく,現代化することだろう。

 実際,中村氏が紹介している派遣労働者の同一労働同一賃金について,当初,派遣先での類似職務に就く直接雇用労働者との同一性だけが当たり前のように議論されていたのを,労働市場の相場をもとにした派遣元での,派遣先の個別性にとらわれない同一性という基準も盛り込んだ例は重要だ。後者は派遣事業者の観点だ。つまり,よく機能する派遣事業というのは,企業横断的な同一労働同一賃金を促進するものなのである。

 労働者派遣事業をブラック職場にしてはならない。しかし,派遣事業の拡大を阻止し,縮小させようとすることはもはや非現実的であり,誤りでもある。その存在を認め,現代化を促し,労働市場の専門的担い手として活動できるようにすることが,政策の基本視点であるべきだろう。

中村天江「労働市場政策100年目のターニングポイント―「三者構成原則」のままでよいのか?」リクルートワークス研究所,2019年10月11日。

2019年10月13日日曜日

「学卒一括採用」か「対象を限定しない通年の採用」かが本来の問題だ

 「学生の4割「通年採用望まない」 採用の自由化に不安」という記事を読んで思うのだが,今の日本ではそもそも「通年採用」とは何かがあやふやだ。アンケートをする側,回答する学生,論評する記者がそれぞれ何を「通年採用」と呼んでいて,それが一致しているかどうかが問題だと思う。食い違っていると,調査が意味をなさない。

 基本的な問題は,日本企業が本来の意味の「通年の採用」に踏み切るか,そうでなく学卒者対象の就活が開始される時点をてんでんばらばらに早めることを「通年採用」と呼ぶだけなのかということだ。それがはっきりしないから,学生の認識も固めようがない。

 まず「一括採用」というのは,雇用対策法の年齢差別禁止規定の例外として新規学卒者に対象を絞り,就「職」でなく「入社」させてから,職務・勤務地を会社が命じるものだ。「学卒一括採用」と言った方がわかりがいい。必要な職務能力は採用時点で決まっていないから,漠然とした潜在能力だけを測定して採用したうえで,必要な職務能力は企業内訓練で育成することになる。

 一方,何の限定もつけずに言葉通りの意味,つまり「通年の採用」というだけの意味の「通年採用」は,特定の仕事をしてもらうために,それに必要な職務能力を持つ人を雇うというものである。当然,職務・勤務地を指定した求人になる。そして,新規学卒者に対象を絞る意味はなく,また法律上もそれは出来ず,新規学卒者から高齢者まで対象とすることになる(※)。即戦略になってもらうのであって,既に職務能力を持っているかどうかを基準に採用する。
 日本ではこうした採用は「中途採用」と呼ばれる。上で書いたような採用を新卒者以外に対してのみ行うからだ。しかし,本来,上記のような採用をして新卒者も既卒者も対象にするのが「通年の採用」だ。例えば以下の報道でトヨタやホンダが「中途採用」を拡大するというのは,言い換えれば本格的な「通年の採用」をするということだ。

「トヨタやホンダなど中途採用を拡大 即戦力の人材確保へ[新聞ウォッチ]」Response,2019年10月3日。

 だからまともに「通年の採用」をすれば学生が不利なのは当たり前のことだ。すべての年齢層の,技能のある経験者と同次元で競わねばならないからだ。それが深刻な問題なのであって,「さあて,学生はどっちを好むかなあ」などと学生の志向だけを論じる次元のものではない。

 そして,大学教員としては悩むところだが,学生に厳しいからといって,退けるべきと決めつけるわけにもいかない。この「通年の採用」は,「会社の一員として雇用するメンバーシップ型雇用」の縮小と,「特定の職務を遂行する人を雇用するジョブ型雇用」の広がりを意味する。前者は新卒者の「入社」に有利であり,中高年の正規職への再就職や転職にとって不利である。後者は逆である。だから「通年の採用」は
,非正規職しか転職・再就職できずに苦しんでいる高齢者や女性全般の地位を改善し,社会全体として生産性や公平性を高める効果がありうるのだ。今後の日本社会全体としては,そちらの方が望ましい可能性がある。

 しかし,もしかすると日本企業はこうした本来の「通年の採用」をしないという可能性もある。つまり,従来の新規学卒採用をそのまま続け,ただ単に「一括」だけを止めて,通年で少しずつ採用する,という可能性もある。はなはだしきは,いわゆる「就活ルール」を廃止したので,学生にとっての就活開始時点をひたすらはやめる青田買いを強めるだけ,ということもありうる。つまりは「通年学卒採用」だ。しかし,学生はほとんどが3月に卒業するのだから結局4月1日に「入社」するのであり,これは「一括」採用の範囲に過ぎない。就職浪人,第二新卒の部分が4月1日以外の「入社」になるだけだろう。「なんちゃって通年採用」だ。
 たとえば以下の記事が解説する「通年採用」とは「通年学卒採用」「なんちゃって通年採用」に過ぎない。「通年採用とは、必要に応じ、一年を通して新卒・中途を問わず採用活動を行うことです」と言っていてるが,職務を指定せず潜在能力だけで採用する方式を念頭に置いているので,これでは新卒者やそれに準じる相手しか対象に出来ない。

「通年採用」日本の人事部,2019年6月14日。

 この場合,個々の学生によって有利か不利化はいろいろだろう。しかし大事なことは,日本の労働市場は何も改革されないということだ。前述の「漠然とした潜在能力だけを測定して採用したうえで,必要な職務能力は企業内訓練で育成すること」は同じである。日本企業のパフォーマンスや働き方は何も変わらず,ただ就活だけが年がら年中行われるようになるだろう。

 本当の違いは「学卒採用」か「そうでない通年の採用」かだ。日本の企業自身も学生もマスコミも,「一括採用」か「通年採用」かと論じているが,暗黙の裡に「学卒採用」の範囲内で「通年採用」という言葉を使うことが多い。その一方,ほんらいの「通年の採用」を「中途採用」と呼び,学卒者が応募するものではないかのように呼ぶ。これは習慣的な日本独特の用語法であり,改革を論じる時には混乱を招きやすいので,注意した方がいい。

※これを言うと仰天する人が今でも多いことには仰天するが,応募年齢を限ること自体が年齢差別であり,雇用対策法で禁止されている。例えば,求人に「35歳程度まで」と書くのはアウトである。

安田亜紀代「学生の4割「通年採用望まない」 採用の自由化に不安」NIKKEI STYLE,2019年10月11日。


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191012-00000004-nikkeisty-bus_all&p=2

2019年10月1日火曜日

佐藤千洋氏博士論文「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」の公表によせて

 当ゼミの後期課程修了生,佐藤千洋さんの博士論文「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」が東北大学機関リポジトリTOURに全文掲載されました。基礎になった論文は査読を経て『赤門マネジメント・レビュー』と『工業経営研究』に掲載されています。
 佐藤さんの論文の特色は,製品開発研究,アーキテクチャ研究の蓄積を踏まえ,これを一歩進める論点を提起して事例研究を行ったことです。まず,アーキテクチャの位置取りにおける依存性と戦略性の把握です。自社および顧客のアーキテクチャをそれぞれ孤立的にとらえるのでなく,相互に影響を与えあうものとしてとらえ,また経営者にとって所与として決定されるものではなく,戦略的に変化させ得るものとして把握しました。次に,アーキテクチャの位置取り戦略と開発組織の相関性の把握です。これまで自社の製品アーキテクチャと製品開発組織の相関性について研究が積み重ねられてきましたが,顧客製品のアーキテクチャを含めて開発組織との関係を論じる視点を打ち出しました。そして専業電子部品メーカーのイリソ電子と総合電子部品メーカーのアルプス電気の車載事業傾斜について比較事例分析を行いました。

<博士論文>
佐藤千洋「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」
http://hdl.handle.net/10097/00125764

雑誌掲載論文
佐藤千洋(2018)「総合電子部品メーカーのアーキテクチャ戦略と開発組織の適合性 : 車載市場への傾斜を踏まえて」『工業経営研究』32(1), 16-27。
https://ci.nii.ac.jp/naid/40021581969
佐藤千洋(2018)「電子部品産業における専業メーカーの競争優位:アーキテクチャ戦略と製品開発体制の適合性の観点から」『赤門マネジメント・レビュー』17(3), 111-130。
https://doi.org/10.14955/amr.0170607a

国際会議報告
Chihiro Sato (2016), A Study on the Business Strategy of Highly Profitable Electronic Component Manufacturers, Proceedings of the 2016 International Conference on Industrial Engineering and Operations Management
Kuala Lumpur, Malaysia, March 8-10, 2016.
http://ieomsociety.org/ieom_2016/pdfs/136.pdf

学会報告
佐藤千洋(2015)「高収益部品メーカーにおける製品戦略 : キーエンスとヒロセ電機の比較」『イノベーション学会年次大会講演要旨集』30(0),2466-469。
https://doi.org/10.20801/randi.30.0_466

2019年9月29日日曜日

インド人の流入・流出の効果を考えるには,そのハイスキル比率の高さと,日本におけるICT人材の不足を念頭に置いた方がいい

この記事のタイトルにある「優秀なインド人」の実態を考える一つの切り口として,在日インド人の構成を考える。2018年12月現在の中長期在留インド人は3万5419人で,在留外国人の1.3%を占める。問題はその内部構成だ。誤差を承知で在留資格の種類により,経営者,ホワイトカラー,専門家の比率をハイスキル比率として推定してみる。すると,外国人全体では11.3%がハイスキル者ということになるのだが,インド人の場合,30.1%がハイスキル者なのだ。総数が1万人を超える出身国・地域で,インドよりもハイスキル比率が高いのは,フランスの31.1%,英国の34.1%,カナダの32.8%,米国の34.4%だけだ。先進国以外の主要な出身国・地域では,インドは最高のハイスキル比率を示しているということだ。
 人間の人間としての尊厳は誰もが平等という前提を置いたうえで,労働市場への影響を考える時には,外国人労働力の性質については注意を払わざるを得ない。インド人のハイスキル比率の高さを念頭に置いて,その日本への定着・日本からの流出の効果を考える必要がある。インド人は人手不足のICT関係職に就くことが多いので,求職において日本人と競合していない。そのため,定着してくれることによって日本初イノベーションの可能性を広げてくれるし,流出することは日本経済にとってスキルの損失になると私は考える。

※教授,芸術,宗教,報道,高度専門職1号イ,ロ,ハ,高度専門職2号,経営・管理,法律・会計業務,教育,技術・人文知識・国際業務,企業内転勤,特定活動(特定研究及び情報処理・本人),特定活動(高度人材・本人)をハイスキル者とみなした。言うまでもないが,この方法には特別永住者や永住者のハイスキル者をカバーできないなどのエラーがある。

石川奈津美「「優秀なインド人が日本から流出している」江戸川区議に初当選したよぎさんが語る在日インド人のリアル」BLOGOS,2019年9月24日。

2019年9月22日日曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準

 前回のノート(2)では,財政赤字によるカネのクラウディング・アウト,すなわち金利高騰は生じないことを論じた。だからといって,金利が政策変数として役に立たないわけではない。レイ教授も,債務の爆発的上昇を避けるために,政府は自ら支払う金利を経済成長率より低く保たねばならないことは認めている(『MMT』149ページ。以下ページ番号は本書のもの)。ただ,政府債務を増やすたびに金利上昇が生じることを心配しなく良いので,金利を低く保つことは,常識的なマクロ経済学が想定するよりもずっと容易だ。
 では,カネのクラウディング・アウトは心配なく,また自国の主権通貨建て債務のデフォルトはあり得ないとして,それ以外に財政赤字を制約する条件はないだろうか。もちろん,ある。インフレ率と為替レートだ(『MMT』219ページ)。インフレーションは財・サービスや労働力に対する自国通貨の価値,為替レートは他国通貨に対する自国通貨の価値を変化させるからだ。レイ教授はこれらのことをはっきり認識している。MMTは財政赤字を無限に増やしてよいとする奇説だという非難は,いいがかりである。
 ここでは二つの要因のうちインフレを取り上げ,MMTにおけるその位置づけを考える。二つのことを一度に取り扱うのは困難だからでもあるが,インフレの方が財政赤字の根本的な限界に関わっているからだ。それは,利用可能な資源の有限性ということだ。
 日本ではデフレが長く続いてきたため,悪性インフレの心配が当面の問題にならない。そのためMMTをめぐっても,ハイパーインフレの恐れのあるなしという極端な場合についての議論だけが飛び交い,MMTにおけるインフレの理論的位置づけという課題は後景に退いてしまっている。私は,これは望ましくないと思う。本来,インフレはMMTにおいて非常に重要な理論的位置を与えられていると思うからである。

 さてレイ教授は冥王星探査ロケットの例を挙げて,政府が支出する際に考慮しなければならない要因を列挙している(『MMT』356-360ページ)。少し抽象化して整理しよう。
 第一に,そもそも政府が購入できる財・サービスや,雇うことができる適切なスキルを持った人が必要なだけ存在するかどうかだ。当たり前のことだが,重要だ。
 第二に,そうした財・サービスや人がの別の用途との競合による機会費用の発生だ。他の用途との競合は資源の争奪戦,つまり賃金や購入価格の引き上げ合戦を引き起こして,望ましくないインフレを生じさせるかもしれない(それに,輸入増を引き起こして為替レートにも影響するかもしれない)。
 第三に,民間経済主体に与えるインセンティブや公平性の問題や価値判断として望ましくない支出拡大があるかもしれない。
 この1番目と2番目の要因については,「財政赤字によるモノとヒトのクラウディング・アウトは起こり得る」と表現することはできる。政府支出を強行すれば,民間の支出が実行困難になるからだ。前回述べたように,政府が負債を増やすことを金融市場から制止される危険はない。けれど,政府支出を増やすことを財市場と労働市場から制止されることはあり得るのだ。 
 MMT批判を意識した,別の言い方をしよう。財政赤字について,しばしば,というか千年一日のごとく飽きもせずに「ない袖はふれない」,「フリーランチはない」という主張がなされる。前回論じたように,MMTの独自の貢献は,カネの面ではそういう制限は実はないと明らかにしたことだ。しかし,財・サービスや労働力については,確かにない袖は振れず,フリーランチはない。主権通貨(政府の債務証書)はすぐにでも大量に発行できるが,ないモノは買えないし,別のところで働いている人を引き抜くのは困難で,望ましくないかもしれない。その問題性はインフレ率として表現される。これは,本来すべてのケインズ派が認めるところだろうが,MMTもまた認めているのだ。
 レイ教授の表現ではこうなる。「問題は,支出能力に関するものではないし,そんなものはそもそもあり得ない。問題は資源に関するものである」(『MMT』439ページ)。

 以上のことから,常識的なマクロ経済学とMMTにおける,財政政策の原則に関する類似点と相違点が確認できる。
 いずれも,完全雇用の達成を政策目標とすることは同じである。しかし,常識的なマクロ経済学では,ここで二つの制約がかかる。一つは,1)「金利」を指標にしてカネの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。この制約がかかることにより,しばしば完全雇用達成以前に財政が緊縮に転じてしまう。あげく,EMUのように雇用情勢に関係なく財政赤字のGDP比率に枠をはめたりする。もう一つは,2)「インフレ率」を指標にしてモノとヒトの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。インフレ率が高かった1970年代には先進国でもこちらが問題になったし,現在でも途上国ではこの論点が問題になる国もある。そして,物価安定が完全雇用より優先されてしまう場合もある(『MMT』478ページ)。
 MMTは,前回ノート(2)で述べたように,1)の制約条件は虚偽であって,気にする必要ないと主張する。しかし,2)の条件についてはその必要性を認める。むしろ,1)の制約は無視してよいとされる分だけ,2)の制約が非常に重要になるのがMMTの財政政策だと理解すべきだろう。そして,MMTは2)に対して,あくまでも完全雇用を追求し,その実現前に悪性インフレを起こさないようにという観点からアプローチするのだ。

 MMTはインフレなき完全雇用という目標を降ろさない。その際,カネのクラウディング・アウトや金利高騰は心配しないが,モノとヒトのクラウディング・アウトとインフレは厳重に警戒する。これが,財政政策の根本基準となる。では,MMTの観点からは,より具体的にどのような政策を実施すべきだと言うことになるだろうか。すでにレイ教授によって提案されている雇用保障プログラムや「悪」に課税せよという税制論は,この目標や基準と関連して主張されているのだろうか。これらが次の検討課題となる。

<連載>
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

<出版社ページ>
L・ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,2019年。


個別企業がM&Aに「投資」しても社会的には「縮み志向による投資の停滞」が終わるわけではない

 『日経』本紙13版,2019年9月21日1面記事「日立,成長へ1兆円調達」。「これまで日本企業は借金返済を優先し,投資などは抑制してきた。そうした『縮み志向』を抜け出す企業が増えていく可能性がある」との指摘。だが,その紙面に掲載されていた以下のグラフを見て欲しい。




 日立は確かに設備投資は1.6兆円から1.8兆円規模に増やそうとしているが,同時にM&Aなどを0.5兆円から2.5兆円に増やそうとしているのだ。日立が株式市場からROE(自己資本収益率)の観点で評価されるためには,設備投資よりM&Aの方が効果的だという判断からこのような比率になるのだろう。
 確かに日立という個別企業にとってはどちらも「投資」だ。しかし,社会的に見れば(海外投資は国内に投下されないという点はさておくとしても),M&Aは純投資ではなく,資産の持ち手変更のために株式と現金を交換するに過ぎない。こうした動きが広まっても,日本経済への効果としては「縮み志向による投資の停滞」が直接に変わるわけではないのだ。
 もちろん,M&Aによって資産が有効に活用されて利益を生むようになり,その資産をもとにした設備投資も間接的に拡大することはありうる。しかし,それは時間のかかる話だ。また,たとえ個別企業にとってM&Aが成功した場合でも,収益性の高い他社事業をただ傘下に取り込むだけだと,やはり社会的には投資は増えない。M&Aが見込み違いで失敗した場合は言うまでもない。
 M&Aは個別企業にとっては「投資」でも,社会的には(マクロ経済的には)そうではないことに注意しなければならない。

「日立,成長へ1兆円調達 守りから攻めの財務に 22年3月期まで M&A・設備投資向け」『日本経済新聞』2019年9月21日。



2019年9月9日月曜日

第2学期学部ゼミテキストはダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学:資本主義を再構築する』

 学部ゼミテキスト選定。今年度の第1学期はリチャード・ボールドウィン『世界経済 大いなる収斂』を読んだ。ボールドウィン教授は技術革命を中心にグローバリゼーションを段階的に論じ,基本的にはその必然性と積極的意義を強調した。すなわち,ICTがもたらす第2のアンバンドリング,グローバル・バリュー・チェーン革命により,新興国が経済発展の機会を得て,一部がそれを実現し,かつての「大分岐」に対比される「大いなる収斂」をもたらすとした。このすじみち,いわばグローバリゼーション下の産業論のロジックを学ぶことは,産業発展論という看板を掲げる当ゼミの学部生にとっても有益だった。
 しかし,ボールドウィン教授自身が率直に認めるように,グローバリゼーションは先進国の産業構造調整問題,経済格差問題を生んだし,発展途上国のごく一部を成長させたに過ぎないために成長した国とそれ以外の国の格差も広がった。初発的な工業化で先進国初の多国籍企業に依存したことが,その先の経済発展に問題を起こさないのかどうかということも残された問題だった。これらの問題を考察するには,グローバリゼーションの限度をも理論的に論じた研究を活用しなければならない。
 というわけでジュンク堂書店であれこれブラウジングした結果,第2学期はダニ・ロドリック(岩本正明訳)『貿易戦争の政治経済学 資本主義を再構築する』白水社,2019年(原書:Dani Rodrik, Straight Talk on Trade: Ideas for a sane world economy, Princeton University Press, 2017)を読むこととした。ロドリック教授は,ハイパーグローバリゼーション,すなわち経済のグローバル化をどこまでも進め,ガバナンスもグローバル化するという道は非現実的であるとし,国民国家をはじめとする多様な制度による分割された統治と限られたグローバリゼーションのありかたを探求している。その理論的探究は,今日の米中貿易戦争やEUの政治・経済的動揺,TPPやアジアの経済統合という諸問題と直接格闘しながらの営みだ。
 第1学期に読んだ本のロジックを全面的には否定しないが限定条件が多数加わり,ロジックも純経済的なものから政治経済的なものへと複雑化する。読解の難易度もやや上がる。というわけでゼミ生の学びにも適していると期待する。


ダニ・ロドリック(岩本正明訳)『貿易戦争の政治経済学 資本主義を再構築する』白水社,2019年。

リチャード・ボールドウィン(遠藤真美訳)[2018]『世界経済 大いなる収斂:ITがもたらす新次元のグローバリゼーション』日本経済新聞出版社,3500円+税。





2019年9月7日土曜日

マイナス金利は失敗であり,深堀りは傷口を広げる

 2019年9月7日『日本経済新聞』1面トップ(注:仙台宅配の13版)の日銀黒田総裁インタビュー。マイナス金利深堀りを選択肢の一つとして挙げているが,その理由として黒田総裁は,長短金利差が縮小してイールドカーブが寝ていることに集中していることばかりあげている。つまり,生命保険や年金のリターンが下がることを警戒しているのだ。それはそれでわかるが,これはマイナス金利がそもそもの目的をまったく達成せず,さりとてやめることもできずに副作用への対処に熱中せざるを得ない事態になっていることを意味する。
 もともとマイナス金利は,ゼロ金利でも何とか金融緩和を進める方法の一つとして開発された。さらに遡って言えば,日銀があれこれ方針を宣言して予想インフレ率を高めるという従来の「期待に働きかける」「リフレ」策が効き目がないことで考案されたものだ。その狙いは,銀行が持つ日銀準備預金の収益性を低下させれば,民間銀行はより高い収益性を追求するためにポートフォリオを組み替え,ハイリスク,ハイリターンの運用先を探さざるを得ないだろうというポートフォリオ・リバランシング論であった。しかし,もともとゼロ金利下でも借り入れ需要が停滞しているという,企業の事業見通しの暗さが問題なのであって,無理くり金利を引き下げたところで効果などなかった。それどころか,銀行の利鞘を圧縮して,地方銀行の経営困難を招いただけであった。マイナス金利は,そのそもそもの目的において失敗しているのだ(※1)。そしてもう一つの副作用として。長短金利をつないだイールドカーブが寝てしまい,長期国債での運用難を引き起こすという問題が出たのだ。
 イールドカーブを保持しながらマイナス金利を深堀りすれば,確かに一つの副作用には対処できる。しかし,本来の失敗と副作用には全く対処できず,むしろ傷口を広げるのではないか。銀行がIT化の推進など,前向きな経営効率化を図るならまだいい。しかし,有望な貸付先が少ない中でさらに利幅を圧縮されて,二つの危険な行動に出るおそれがある。一つは融資をかえって縮小させることで,これは中小企業と地方経済に打撃を与える。もう一つは,リターンとのバランスが取れないほどにハイリスクな貸し出し,投資に走ることで,これは不良債権を累積させるおそれがある。いずれも,いまのような好景気の末期に促してはならない行動だ。
 いま,金融を引き締めるべきではない。しかし,これ以上緩和したところで効果はない。日銀がやたらと動いても仕方がない。すぐにでも行うべきは,家計を温めて確実に需要を支えるような財政政策だ。だから消費税増税は不適切だ。より長いスパンで行うべきは,企業の投資マインドを高める産業政策,家計の不安感を除去する社会政策だ。




2019年9月5日木曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない

 MMTは「主権を有し,不換通貨を発行する政府は,その通貨において支払い不能になることはない」と主張する。これに対して,まともな形で「いや,デフォルトする」と批判する議論は,さすがに少ない。もう少し現実的にありそうな事態として,財政赤字が累積すると支払い続けることは可能でも,1)クラウディング・アウトを起こして民間の需要を奪うので,赤字財政の需要刺激効果がなくなるだろう,2)望ましくないインフレーションを引き起こすだろう,3)国債と通貨が信用を失って暴落するだろうという批判が多い。ここでは1)について考えたい。これは,先だってのポール・クルーグマン教授(※1)とステファニー・ケルトン教授(※2)の応酬でも一つの争点だったし,R・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』の巻末解説で松尾匡氏も触れている点だ。日本のメディアでも,早川英男氏(※3),野口旭氏(※4)など多数のMMT批判者がこの論点に触れている。
 
 私はこの問題を考えるにあたり,レイ教授が,しばしば金融資産と実物資産の世界,貨幣の世界と実物の世界の関係に触れていることを手掛かりとしたい。クラウディング・アウトの問題を考える際にも,貨幣(カネ)の世界と実物の世界を分けた上で,その関連を見ることが必要だと思う。つまり,カネのクラウディング・アウト=<財政赤字が利子率を高騰させ,民間の投資を押しのけること>と実物のクラウディング・アウト=<政府が雇用や財購入を増やしたために賃金や物価が騰貴し,労働力や財が他の有効な用途に回らなくなって民間の経済活動を押しのけること>を概念として分けるのである。実物のクラウディング・アウトは端的にインフレーションと呼んでもよいのだが,インフレには様々な原因のものがありうるから,特定の原因によるインフレーションであることをはっきりさせるために,あえて実物のクラウディング・アウトと呼んだ。私の理解では,ニュー・ケインジアンを含む主流派の経済学では,前者は,経済が流動性の罠に陥っていない限りは起こる。しかし,MMTでは前者は決して起こらない。後者については,ニューケインジアンでもMMTでも,労働力や財が財政支出以前に有効に用いられているかどうかに依存して起こったり起こらなかったりする。大きな違いは前者にある。以下,説明しよう。

 MMTが説明するように,政府の赤字支出の仕方は1)シンプルなものと2)事前に国債を発行して資金調達した上で行うものの二通りがあるので,レイ教授に従って説明しよう(※5)。話を単純にするため政府は雇用はせず財を買うことにする。まず1)は国庫と中央政府が統合された政府が直接支出する場合だ。政府は単に小切手を切って財を購入する。すると民間企業は購入代金を受け取り,その取り立てを取引銀行に依頼する。銀行は小切手を現金化するので企業の預金は増える。銀行は中央銀行兼国庫にこの小切手を持ち込む。中央銀行兼国庫は銀行の持つ準備預金口座に小切手相当額を振り込む。この場合,民間貯蓄は増えている。銀行の準備金も増えている。したがって,利子率は下落する。「財政赤字の最初の効果は,金利を(上げることではなく)下げることである」(233ページ)。

 そんな単純な仮定は信じられないという人のために,実際にアメリカや日本の政府が行っている2)の場合を考えよう。狭義の政府と中央銀行は別の勘定になっており,政府は中央銀行に政府預金を持っている。まず,政府は国債を発行して民間銀行に引き受けてもらう。つまり,銀行は国債を得て,その額面相当額が準備預金から引き落とされて政府預金に払い込まれる。次は1)と同じであって,政府は民間企業から財を買うので,民間企業が取引銀行に持つ預金が増える。取引銀行はその相当額を準備預金として得るが,1)と異なり,政府預金から準備預金への移動によって得る。この場合も,民間貯蓄は増えている。銀行の準備金は,いったん減った後もとの水準にもどっている。したがって,利子率は支出までのタイムラグにおいて上がるかもしれないが,結局は元に戻るだろう。

 ここには何の特別な理論も思想もない。MMTはこの点でまったく説明的であり,ただバランスシートを使って金融実務を説明しただけだ。財政赤字はカネのクラウディング・アウト=金利高騰をもたらさないのだ(※6)。

 にもかかわらず,クルーグマン氏も,早川氏も,野口氏も,松尾氏も利子率は騰貴すると言う。それはニューケインジアンや,もっと昔からあるアメリカン・ケインジアン(つまりはIS-LM分析)や,たいていの経済学の理論に依拠すれば当然そうなるからだ。財政赤字拡大によって需要は増えるが利子率は騰貴するというのだ。しかし,<標準的なマクロ経済学がそう言っているから正しい>というわけにはいかない。大事なのは,それを覆す事実があるということである。<MMTが金融実務を素直に描写しているのに対して,たいていの経済学はそうではない>ということではないのか。

 しかし,もう一度,別の角度から考えよう。ある意味,MMTの方が人々の直観に反するから,受け入れられにくいからだ。つまり,マクロ経済学者でなくても<お金に対する需要が増大したのに,金利が上昇しないのはおかしくないか>という疑問を多くの人が抱くだろう。この疑問に答える必要がある。

 ここで大事なのは,金利は準備預金をもとにした短期金融市場(コール市場)の需給によっても動くし,民間経済内部のカネの需給によっても動くということだ。このことを念頭に置きながら考えよう。

 1)の場合も2)の場合も,民間経済内部では政府は支出してモノを買っただけなので,利子率には影響がない。一方,1)では準備預金は増加している。だからコール市場では,<お金の供給が増大したので金利は低下する>。2)の場合,準備預金はいったん減って,元に戻る。よってコール市場でも金利は変化しない(短期的に上昇して元に戻るかもしれない)。以上のように説明すれば,貨幣の需給がひっ迫しなかったことがわかるだろう。

 それでもなお,直観的に受け入れがたい人もいるかもしれない。だから念のため,<お金に対する需要は増えなかったのか>という角度からもう一度点検しよう。1)について言えば,そもそも政府は,あらかじめ存在するお金を借りていない。手形で物を買うように,自分で発行した債務証書=信用貨幣で物を買っているのだ。しかも,それで民間では預金というお金がかえって増えている。預金が増加したぶんだけ準備預金も増加して利子率は下がる。2)について言えば,確かに政府は現存するお金を借りたのだが,それは準備預金から借りたので,民間預金増に連動して準備預金が増えることとちょうど相殺されるのだ。

 どの角度から見ても,財政赤字によってカネのクラウディング・アウトは全く起こらない。この論点については,私はMMTは正しいと思う。

 では,たいていの経済学や常識的な直観はどこが誤っているのか。それは,<政府は既に存在するお金を借りて,それを使う>とイメージしているからである。しかし正しくは,<政府は支出することによって新たに通貨を創造する>のである。1)の場合はもちろんそうだ。2)の場合ですら,一見すると銀行の準備預金を引き出して使ったように見えるが,結果としてはずの準備預金は減らず,支出を受けた民間企業の手元では通貨が増えているのだ。支出して通貨を創造したのは1)と同じなのだ。

 これはなにもおかしくない。通常のものの売買において,会社は手形を振り出してものを買うことができる。政府は,それをより洗練された形態でやっているに過ぎない。信用貨幣である通貨を発行して,物を買うことができるのだ。確かに債務は増える。しかし,既に存在する貨幣を求めたわけではないので資本市場は需要超過にならず,利子率は騰貴しないのだ。

 この点に関しては,MMTと主流派経済学は全く異なっている。もちろん,MMTとニューケインジアンが,当面の財政拡大が望ましいか,望ましくないかで,意見が一致することはあるだろう。それはそれで当然だ。しかし,財政赤字が金利を高騰させるか,させないかという点では根本的に対立することは確認しておかねばならない。そして,私はこの点はMMTの方が正しいと考える。これがこのノートの結論だ。

 さて,次の問題はモノのクラウディングアウトだ。カネのクラウディング・アウトが起こらないからと言って,モノのクラウディング・アウトが起こらないとは限らない。政府は通貨=カネを作って支出できるが,同時にモノを作り出すわけではないからだ。この点に考察を進めねばならない。

 また,このノートからは別の論点も派生する。<政府は通貨を創造して,それで支出する>のであれば,そもそも赤字であろうと黒字であろうと<政府は,既に存在するお金を使って支出するのではない>ことになる。それは,租税とは支出の財源ではないということを意味する。これは大多数の人の直観に反することだが,まさにMMTはそう主張しているのだ。こちらについては,また別途考察する必要がある。

※1 Paul Krugman, What’s Wrong With Functional Finance? (Wonkish): The doctrine behind MMT was smart but not completely right, The New York Time, Feb. 12, 2019.
Brad Delongによる要約の抄訳あり。optical_frog抄訳「ブラッド・デロング「クルーグマン:機能的ファイナンスのどこが問題か」(2019年2月14日)」経済学101,2019年2月17日。


※2  Stephanie Kelton, Modern Monetary Theory Is Not a Recipe for Doom: There are no inherent tradeoffs between fiscal and monetary policy, Bloomberg Opinion, Feb. 21, 2019.

邦訳あり。erickqchan訳「クルーグマンさん、MMTは破滅のレシピではないって」道草,2019年3月20日。

※3 早川英男「MMT(現代貨幣理論):その読解と批判」富士通総研,2019年7月1日。

※4 野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。

※5 レイ『MMT』の叙述では,ここでの1)のケースはケース1b①として描写されている。図解は200ページ参照。2)のケースはケース3②③④として描写されている。図解は202-203ページ参照。ここでは議論が入り組むことを避けるために,1)のケースで事後に統合政府が国債を売却するプロセスを省いた。

※6 松尾教授は『MMT』の巻末解説で2)の場合について「クルーグマンの言うとおり,金利が元の水準よりも上がって当然だろう」(531ページ)と指摘されるが,どういう因果関係でそうなるのか,私には理解できない。なお,この解説は独立した記事としてネット公開された。
松尾匡「MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由:「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識」東洋経済ONLINE,2019年9月6日。

<前稿>
「L.ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。
<続稿>
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日。


2019年9月3日火曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠

 L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』。一応読み通した。これまでMMTについて,目についた限りの論説から理解に努めて投稿して来たが,どうやら理解は誤ってはいなかったようでほっとした。なので,MMTの主張を改めて紹介することはしない。むしろ,本書を読んで,理論的により深めるべきと思った論点や,疑問が生じた点を中心に,何度かに分けてノートしていきたい。

 まず,MMTのMMTたるゆえんである貨幣論から。今回は,財政赤字の話にはまったくたどり着かないから,どうかそのつもりでお読みいただきたい。

 MMTは,歴史的にも,現在の経済システムの理論的本質としても,貨幣は信用貨幣=債務証書であるとする。いま歴史的な検証は脇に置くとして,すくなくとも管理通貨制の下での主権通貨の主要な形態である,不換の中央銀行債務(準備預金+中央銀行券)や市中銀行債務(銀行預金)が信用貨幣であることについては,私はMMTに賛同する。

 このことは,一方では当然にも見える。日本銀行の準備預金も日銀券発行残高も日銀のバランスシートの負債側に記帳されているし,日銀に還流した日銀券はバランスシート上では紙切れに戻る(1万円札は1万円の資産にならずに,ただの紙製品としての資産になる)からだ。債務者が取り戻した自分の債務証書に過ぎないからだ。

 しかし,このことは一見して奇異にも見える。日銀の債務証書である1万円札を日銀に持ち込んでも,何かで償還してくれるわけではないからだ。何かで返してもらえない債務証書に何の意味があるのか。兌換銀行券が金債務証書だというなら分かるが,不換の中央銀行券は,ただ人々の習慣や国家の強制通用力によって(この二つは意味が逆なのだが)通用している価値シンボルではないのかという疑問も湧く。主流派経済学も,日本のマルクス経済学のおおむね半数以上もこう考えている。

 返済されない債務証書が,それでも信用貨幣だということの意味を,MMTはこう説明する。「発行者は,支払いを受ける際にそれを受け取らねばならない」(訳本48ページ)。<債務者に対する支払い手段として機能することによって流通する>から信用貨幣だというのだ。そして,この論理の延長線上で,国家の発行した主権通貨が不換通貨であっても通用する理由を求める。「それは,政府の通貨が,政府に対して負っている租税などの金銭債務の履行において,政府によって受け取られる主要な(たいていは唯一の)ものだからである」(120ページ)。つまり,<租税の支払い手段として機能するから,人々は主権通貨を受け取る>というのだ。

 私は,MMTのここまでの論理自体は受け入れられる。しかし,法定不換通貨の流通根拠として十分とは思えない。レイ教授は,中央銀行の準備金や中央銀行券の運動を丁寧に説明しているのだが,なぜか主権貨幣の流通根拠は租税だけで説明し,中央銀行との関係を論じない。それでよいのかどうかを考えてみたい。

 信用貨幣の端緒的形態は商業手形であろう。手形は,確かに振り出した当人への支払いに使えるが,それだけではない。手形を持っている者同士は,手形同士を相殺して決済することができる。債権債務の方向がちょうど逆で金額が同一ならば,現金を用いずに完全相殺だけで決済することすらできる。さらに,銀行の債務である預金になると,銀行に対する支払(たとえば銀行からの借り入れの返済)に使えるだけではない。同一の銀行に口座を持つ者同士であれば,現金を用いずに預金口座を使って債権債務の決済が行える。発券集中が行われて中央銀行が主権通貨建ての準備預金と中央銀行券を発行しているならば,銀行はそれらを用いて中央銀行に対して支払うことができる(例えば中央銀行からの借り入れを返済できる)。しかし,それだけではない。中央銀行に準備預金口座を持つ銀行同士であれば,口座を用いて債権債務の決済が行える。

 つまり,まず抽象的に言えば,信用貨幣とは<債務者に対する支払い手段として機能する>というだけでなく,<債権債務を相殺することによって決済する手段として機能する>から流通すると考えるべきではないか。

 次に,やや具体的な次元に移り,主権通貨建ての法定不換通貨が通用する理由を考えよう。法定不換通貨が準備金や中央銀行券という形態をとる場合については,それが流通する根拠は<税の支払い手段として機能するから>ということに加えて,<中央銀行に対する支払い手段として機能するから>,さらに<準備金を通した決済手段として機能するから>ではないのだろうか。

 実はレイ教授もいわゆる「債務のピラミッド」の説明において,「銀行以外の民間企業はほとんどの場合,自身の勘定を決済するために銀行の負債を利用する」(175-176ページ)こと,「銀行は政府の負債(川端注:準備)を使って勘定を決済する」(174ページ)ことを指摘している。そして,こうも言う。「ピラミッドの下の方で,何か問題が起きたらどうなるだろうか?」(178ページ)。レイ教授はこの問いに,「下層にいるものは銀行の負債を決済に使い,次に銀行は政府の負債(中央銀行の準備預金)を銀行自身の負債の決済に使う」(179ページ)と答える。だから中央銀行の「最後の貸し手」機能は重要であり,それを十分に果たせない欧州中央銀行(ECB)と欧州通貨統合には欠陥があるというのだ。私はこのピラミッド論に何の異議もない。しかしレイ教授は,これを主権通貨が通用する根拠とまでは位置づけない。私はこのことが不思議であり,不満である。(9/4以下2文追記)もっとも,レイ教授は「債務証書の受領性は,『要求があれば,その債務証書を,より広く受領される他の債務証書に交換する』という約束によって高めることができる」(499ページ)として,この契機を副次的要因としては認めているようである。だが,私はもっと高い位置づけが必要ではないかと思う。

 通貨に対する信認は,一方では政府の徴税能力に支えられている。それはそれでわかる。しかし他方で,企業間決済を銀行が守り,銀行間決済を中央銀行が守ることによっても支えられているはずである。前者だけでは,通貨に対する信認が政府の強権によってのみ支えられているという話になりかねない。私は,そうではないと思う。通貨の信用は,個人ー企業ー銀行ー中央銀行という連鎖の中にある決済システムの健全性によっても支えられていると考えるべきではないだろうか。つまり民間経済のあり方にも支えられているのだ。

 MMTは,よく知られているように「主権を有し,不換通貨を発行する政府は,その通貨において支払い不能になることはない」と主張するが,同時に,徴税能力が怪しい国の不換通貨は信認を失いインフレになりやすいことも認めている。しかし,もうひとつ,決済システムが揺らいでいるような国の不換通貨もまた信認を失いやすいというべきではないか。つまり,税制がどうであれ,持続不可能なバブルが生じているとみられたり,それが崩壊して混乱している国の不換通貨は信用されないというべきではないだろうか。

 以上がMMTの貨幣論に対する私の疑問である。この疑問は,MMTが間違っているのではないかというものではなく,そのよって立つ場所を一つでなく二つにすべきではないかというものである。しかし,もしかするとこの疑問は,MMTが統合政府を「政府」に引きつけて理解し過ぎていて,「中央銀行」の存在意義についての考察を手薄にしているのではないかという疑問につながるかもしれない。もっとよく考えてみる必要がある。

L・ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,2019年。

続稿
L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない
L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準



2019年8月29日木曜日

「平和の少女像」:どの国が正しいかを決めることではなく,戦争を告発すること

 「平和の少女像」について,展示の自由と別に,以前より思っていることを書く。

 まず,背景への認識。そもそも,わが日本国政府の見解は「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ(2015年12月28日。日韓両外相共同記者会見)。私はこの点について安倍首相を支持する。慰安婦について日本国は何も反省しなくていいという人は,実は安倍首相に反対なのだ。

 次。平和の少女像の表面的な使われ方。慰安婦支援団体による使い方には確かに問題がある。政府公館の正面に設置するのは適切でないし,これを撤去しない韓国政府の姿勢は外交儀礼として適切でないと思う。また,慰安婦問題についての事実関係や補償と謝罪に関する考え方についても,私は最大の慰安婦支援団体である挺対協と見解を同じくしない。慰安婦問題について日本国政府を直接・間接に代表する謝罪はすでに9回行われており,「日本は謝罪していない」という前提での政治行動には私は反対だ。

 その上で,平和の少女像の根本的メッセージ。私は,この像には読み取るべきものがあると思う。この像の作者キム・ソギョン,キム・ウンソンの夫妻は確かに慰安婦問題で日本を批判しているが,それは韓国国家を支持しているからではない。この夫妻は,ベトナム戦争時に韓国軍がベトナムで行った虐殺行為を批判し,謝罪と反省の意味を込めて「ベトナム・ピエタ」を製作しているのだ。韓国軍の虐殺行為を認めるのは,韓国の世論でも多数ではなく,むしろ「軍を辱めるな」と非難されがちな立場だ。夫妻はそれでも製作している。つまり,平和の少女像は,ある国家の見地から別の国家を非難するものではない。戦争によって犠牲とされた民衆の見地から加害者を告発するものなのだ。

 社会運動の文脈では,平和の少女像は「日本は謝罪していない」という誤った事実認識の上に立つ運動に使われており,不適切にも政府公館の前に置かれている。作者はこの運動を肯定している。私はこれらの点で作者に賛同しない。だが,不本意に慰安婦にされて苦しんだ女性がいたことは事実である。そちらが根本だ。この作品はその事実に対する作者の思いを表現している。なので,この作品には考えさせられるものがあると私は思う。

 根本の問題は,韓国対日本のどちらが正しいかではない(ベトナムと韓国のどちらが正しいかでもない)。国家対国家の二者択一にとらわれるならば,どちらを支持するのであれ本質を見失う。慰霊されるべきは,また二度と再び現出させるべきでないのは,どこの国に属しているかにかかわらず戦争の犠牲者だ。告発されるべきは,どこの国という名前がついているかにかかわらず,戦争を起こし,他人の生活を踏みにじり,命を奪う者たちなのだ。

「韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻」The Huffington Post,2016年1月25日。

熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年を読んで:財政赤字に関心を集中し過ぎていないか

 熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年。熊倉教授の論文は,通貨政策,金融政策を制度に即して語っているため,「日本経済」の講義を作成する際にいくつか読ませていただいた。今回の岩波新書では,学術論文では抑えられていた日本のマクロ経済政策に対する批判的見地がはっきりと打ち出されている。本書では通貨政策,金融政策,財政政策が論じられていて,その論点は多岐にわたる。だが,やや強引に熊倉氏の議論の本流を要約すると以下のようになると思う。

 <日本のマクロ経済政策は,産業構造上不可能な高成長を無理に目指すものであり,人為的円高誘導と事実上の財政ファイナンスを行ってこれを加速するものである。すでに政府債務が深刻な状況にある財政はいっそう破綻の危険を強めている。これを防止するための日本銀行の独立性は損なわれている。そして,不合理で持続性のない政策を,政策目標や会計規則の操作によって継続させている。これをコントロールするのは日本の民主政治の課題であり,それができていないところに問題がある>。

 私は,政策目標や制度が政府によって恣意的に操作されており,そこに透明性と民主的コントロールが不足していることについては熊倉教授に賛成であり,教授が制度に即してこれを具体的に示しているところは大いに説得力があると思う。

 しかし,アベノミクス批判を,財政危機に対して財政ファイナンスで事態を悪化させていることを最大の軸にして批判することには賛成できない。軸の一つとしては良い。国債と円の信用が市場において失われた場合には,通常の需給とは無関係に国債と円が暴落する。そのリスクは徐々に高まっているからだ。

 だが,それは確実に起こるというようなものではなく,将来における多くの可能性の一つに過ぎない。とくに,国債が国内で消化されていて中央銀行が政府と協調している現代の日本において,財政破綻それ自体は起こらない可能性もあるからだ。いつかは起こるかもしれないということ自体はまちがいではないが,その論点を押し出し過ぎることによって,もうすでに起こっているアベノミクスの他の問題を脇に追いやることは適当ではない。

 すでに起こっている問題は,ハイパーインフレの可能性とは逆のことである。つまりマクロ的には,いくら量的緩和を行って日銀が国債を買い上げ,その代金が銀行が日銀に持つ日銀当座預金(超過準備)として膨れ上がっても,いっこうに需要が伸びず,したがって流通内での通貨量(マネーストック)が増えず,物価もわずかにしか上がらないことである。そして,経済の内部構造を踏まえて言えば,円安と株高誘導によって投資家と輸出企業は利潤を蓄積できたが,賃金の伸びが遅すぎること,とくに非正規労働者の低賃金が抑制されていること,また不十分な水準の年金で暮らす人が増えていることによって,生活水準が低下する人が増えていることである。

 通貨供給量が伸びない以上,通常の意味でのインフレ,つまり流通する財・サービスに対して通貨が増え過ぎることによるインフレも起きない。だから,それが加速することによる悪性インフレも起きようがない。著者もそれはわかっているので,国債と円が一気に信用を失うようなハイパーインフレだけを想定している。しかし,それは確実に起こる唯一最大の危機であるという証拠は,本書では示されていない。

 著者の関心は,あまりにも財政破綻に集中しすぎている。例えば,著者は円安誘導の無理と,質的金融緩和による株価・地価操作を批判しており,そのことには私も賛成する。ところがよく読むと,著者は結局この二つへの批判を,政府財政が外国為替資金特別会計の剰余金や日銀の納付金に依存することへの批判に帰結させてしまっている。<歳入を本来頼るべきでない財布に頼るのは不健全だ>という観点からの批判なのだ。私は最大の問題はそこではないと思う。無理な円安誘導は輸出企業の利益はもたらしたが,輸出に依存する既存大企業が再投資も賃上げもせずに内部留保を積み上げたことが問題なのだ。質的金融緩和は人為的な株価・地価のつり上げを招き,株式市場と不動産市場に参加できるような投資家だけを潤したことが問題なのだ。それでは新産業は生まれず肝心の潜在成長率は引きあがらないし,多くの労働者,とくに非正規の労働者,すでに賃金を得ていない高齢者は置き去りである。

 著者が指摘するように,日本経済の持続的発展にとって,国債・通貨の信用喪失は,確かに将来ありうる一つの危険だ。だが,産業構造改革の停滞と格差の拡大は,すでにおこっている目の前の危険である。本書は前者は指摘するが,後者は指摘しないという偏りを持っている(※1)。

 著者の認識からすると,現状で必要なのは,起こるかもしれない財政破綻に備えて財政を縮小するか増税することにならざるを得ない。つまり財政再建優先政策を成熟した民主主義の下で選択すべきだということになる。私も,景気に関わらず歳出が自動的に膨張する事態(1960-70年代によく使われた言葉で言う財政硬直化)を避けるために税収を拡大する必要があるとは思う。しかし,財政再建を最優先の目標におくことは賛成できないし,それを実現できないことを日本の民主主義の問題の中心とすることもバランスが取れているとは思えないのである。

 あえて政治的コンテキストに触れるならば,著者の見解だと,アベノミクスの不均等な作用の下で苦しむ人々が財政措置を求めることを,民主主義の成熟性という見地から否定することにならないだろうか。また財政再建策をここまで最優先すると,誰がどのように税を負担すべきかという分配問題を抜きにして,とにかく税収を拡大して赤字を減らす方策であれば高く評価されるということにならないだろうか。私はそのような懸念を持った。

※1 なお公平を期すために言うと,著者は医療・福祉分野については不合理な規制を緩和することで賃金と物価が上昇すると主張している。しかし,それだけで非正規労働者の不合理な待遇が改善されるものではない。私は,メンバーシップ型の労働慣行を,法的規制になじむ部分から始めて着実かつ時間をかけて改革していくことが必要だと思う。

熊倉正修『日本のマクロ経済政策:未熟な民主政治の帰結』岩波書店,2019年。

2019年8月27日火曜日

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(6完)を読んで。全体のまとめ

 野口教授によるMMT検討と批判第6回(最終回)。MMTと正統派の共存可能性がテーマ。

 野口教授の基本的結論は,<一部分は共存可能だが,多くの部分において共存不可能>というものだ。共存可能な部分も取りだそうとしているのは,野口教授の公平さを示している。ただ,共存している部分とできない部分の境界線の取り方,そして共存不可能であることの意味の理解においては,ところによって的からずれており,また命中している場合も深く射ていないように思える。以下,コメントする。

 まず,野口教授が「MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している」と,批判を込めて述べていることについて。これはこれまでもあったが不当な単純化を含む。
 MMTは,<金利が市場経済において調整機能を全く果たさない>とまでは言っていないだろう。例えて言えば,MMTの理論構造からは,金融政策について<ひもは引っ張ることはできるし,引っ張られるのに対して緩めることはできるが,押すことはできない>となるはずだ。中央銀行は,1)信用がインフレやバブルにつながり望ましくない形や速度で膨張する際には金利を引き上げて引き締めることはできるだろうし,2)逆に信用がインフレにつながらずに望ましい形や速度で膨張する際に,高すぎる金利を下げることもできるだろう。ただし,3)直接に通貨を供給することや,金利を下げることによって必ず一定の通貨供給増が生じると期待することはできない(※1)。

 しかし,行き過ぎているとはいえ,野口教授が,MMTが金利の調整機能を低く見ていると感じ取っていることは,おそらく正しい。教授はニュー・ケインジアンを擁護する者として,ここが自分たちとの本質的な違いだと気づいているのだろう。MMTは金利が投資と貯蓄を均衡させるとは考えていない。金利が下がれば必ず一定程度は企業による投資が増えるとも考えない。したがって,金利が下がれば必ず一定程度は銀行貸し出しが増え,通貨供給量が増えるとも考えない。投資は増えるかもしれないし増えないかもしれない。金利調節をその程度のものとしか考えていないのだ(※2)。

 そうしたMMTは,学説上どのような系譜にあるのか。野口教授は「レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである」とし,また「ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである」という。私は研究史を教科書レベルでしか知らないが,これには説得力を感じる。野口教授はMMTを,少なくとも財政赤字に関する奇説ではなく,初期ケインジアン再興の試みだと認めているのだ(※3)。

 野口教授は,このように系譜上の位置づけを行う。その上で,自らはニュー・ケインジアンの立場に立って,オールド・ケインジアンとしてのMMTの金利軽視論を批判する。しかし,肝心のここのところで,根拠が弱々しい。ただ学説の展開によって「かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった」と言い,MMTは「マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない」というだけである。つまりは<金利に調整機能がないなんてそんな馬鹿なことがあるか>と<古い説だ>という非難にとどまっている。理論的とは思えない。

 最後に野口教授は,「MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう」という言われる。しかし,問題はそこにはないのではないか。野口教授は,MMTと正統派が,いま何において対決しているかという,肝心なところを無視しているように思う。

 いま,MMTと正統派が対決しているのは,現在のような状況,すなわち<先進国において,ゼロ金利まで金融を緩和しても経済が停滞から抜け出せない状況>において採るべきマクロ経済政策をめぐってだ。ニュー・ケインジアンを含む正統派は,ゼロ金利下において採るべきマクロ経済政策について,当初は<財政拡張ではなく金融緩和だ>と述べていた。それがリフレーション論であり,そのためのインフレ・ターゲティング論であった。ところが「量的・質的金融緩和」の成果が芳しいものではなく,一向に成長率が上がらずインフレも起きない事態を前にして,<金融緩和も財政拡大も>と言い出すようになった。対してMMTが主張するのは一貫して<金融緩和でなく財政拡大>だ(※4)。ここには,財政拡大をめぐる部分的な一致と,金融緩和をめぐる根本的な対立がある。野口教授によるMMTと正統派の対比は,肝心かなめのここの対立を説明し,その根拠を解き明かし,どちらがなぜ妥当なのかを論じるつくりになっていない。それで,MMTに正統派と共存できる道を説教してもさほど意味がないだろう。

(1)から(6)までを読んでのまとめ
 野口教授の論説を(1)から(6)まで読み解いてみた。この論説から一番学ぶべきは,MMTと正統派の対比により,MMTがつまるところ単なる奇説ではなくオールド・ケインジアン再興の試みだと確認できたことだろう。この対比を誠実・公平に行おうとされたことがこの論説の意義だと思う。。
 ただ,その対比は一部は不当な単純化や行き過ぎを含み,そして何よりも,両者の違いを深いところでは対比していないと,私には思えた。だから切れ味がよくない。どうしてそうなるかというと,<ゼロ金利下において金融緩和には需要拡大効果はなく,財政政策にはある>というMMTの政策的主張を,<ゼロ金利下においても金融政策は有効だ>とする正統派の主張と正面から対比していないからだ。さらに,政策的対立の背後にあるMMTの<金利に投資と貯蓄を均衡させる機能などない>という理論的主張を正統派の<金利には投資と貯蓄を均衡させる調節機能がある>という主張と突き合わせず,最終的には,MMTを<正統派の達成を無視するなんておかしい><古い>で片付けてしまっているからだ。真の対立点を対立させず,また対立の根拠をどこまでも遡って対比しないからだ。これを逆に言うならば,おそらくMMTの妥当性を真に検証するためには,これらの対立をどこまでも掘り下げて考察することが必要なのだろう。以上が,浅学を省みずに野口教授の論説を批判的に読み解いて学んだことである。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性」Newsweek,2019年8月20日。


※1.しかし,野口教授は私と異なってWrayらのMacroeconomicsをすでに読破されているので,Wrayらが私が予想するよりもはっきりと金利の機能を否定している記述を確認しているのかもしれない。これは,私が自ら確認すべきことだ。

※2.利子率と投資の直接的な関係をMMTが否定していることは,WrayのUnderstanding Modern Moneyで確認した。ただ私は,その根拠について,WrayやMitchellの文献でまだ確認していない。しかし,ケインズ『一般理論』をMMTが文字通りに受容しているのだとすれば,<投資が利子率と資本の限界効率の関係で決まるからであり,資本の限界効率は不確実性を含むから>なのだろうと予想する。そして,この背後には,おそらくMMTというかケインズに対するオールド・ケインジアン的理解がある。MMTはマクロ的に言えば<投資は事前の貯蓄を必要とせず,投資がそれに等しい貯蓄を生み出す>と考えているのでああろう。さらに予想を含めて言うと,ミクロレベルでのMMTの貨幣論がこれに関係する。MMTの信用貨幣論では,<投資に必要な貸し出しは事前に預金がなくとも信用創造によって可能になる>のだが,これがマクロの投資・貯蓄論と連動しているのだと思われる。しかし,ここのつながりについては私の理解は十分でなく,今後確認しなければならない。

※3.とはいえ,ケインズ『一般理論』の理解から,財政赤字に関するMMTのような理解が本当に唯一妥当なものとして引き出されるのかどうかは,もっと学んでみないと私にはわからない。また,MMTは貨幣と財政に関する見地をむしろケインズ『貨幣論』から引き出している可能性もあり,そうすると『貨幣論』と『一般理論』の関係をどう理解するかも問題になる。両者の間の連続性と非連続性は元来重要なテーマだと聞いているからだ。なので,『貨幣論』を学んでいない私には,貨幣理論から来る財政観について,MMTがケインズ理解のどのような系譜にあると見るべきかについて,まだ断定する力がない。

※4.以下のノートで,金融政策重視の正統派と財政政策重視のMMTをくっきりと対比させてみた。
「MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(5)を読んで

 野口教授によるMMT検討と批判第5回。政府に予算制約があるかないかという論点についての考察。

 まず野口教授は「MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と理解する。次に,野口教授はこの分類から,MMTが「リカード・バローの中立定理」を否定していること,「物価水準の財政理論」(FTPL)による物価水準論も否定していることを正しく読み取られる。

 ここまでは読解として問題はない。そしてこの確認は大変重要だ。1970年代以後,ケインズ的財政政策に加えられた批判の重要な柱は<課税と公債発行には本質的な差はない><赤字財政の効果は将来の増税によって相殺される>という「リカード・バローの中立定理」だった。MMTはこの定理を否定する。それは,価値観として否定するのではなく,原理的にこの定理が成りたたないような貨幣・財政理論を持っているということだ。MMTでは統合政府にハードな予算制約がない。だから赤字財政が将来増税を招くということが原理的にないのだ。ちょうど中央銀行が流通に必要な準備や銀行券を自己宛債務として供給するように,MMTの政府は経済を機能させるために必要な通貨を政府債務として供給する。MMTでは,政府は集めた税金の範囲で支出するのではない。経済を機能させるのに必要なだけを支出し,必要なだけを課税し,結果としていくら黒字だろうと赤字だろうとそれ自体は気にしなくてよいとするのだ(※1)。気にすべきは,経済が機能したかどうか,典型的には失業者がいなくなり,悪性インフレが起きないようにできているかどうかだ(※2)。

 次に,野口教授が次のように言うのは適切でない。「赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである」。なるほど,MMTにとっては,<政府の予算制約><それ自体>に対する<配慮>は<無意味>である。MMTは,<望ましからぬインフレ>とその背後にある供給制約には厳重に警戒している。すなわち,一国経済の物的生産能力の天井が低く,あるいは/かつ物的生産性が低ければ,いくら財政拡張を行っても生み出せる実質所得は限られており,完全雇用か設備フル稼働の後はインフレになるだけなのである。野口教授がMMTのこの部分を無視されるのは公平ではない。

 また,野口教授の次の指摘もおかしい。「正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、『財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する』という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない」。これは全く言いがかりであって,財政赤字の拡大と民間資産の増加による不況やデフレの克服はMMTでも,赤字ハト派の正統派と変わらず有効に機能する。例えばWrayが主張する,政府が財政を拡張して,失業者すべてを最低賃金で雇い,その賃金水準を調整するという政策が不況の克服策となる(※3)。なぜ,野口教授がMMTが大声で主張していることを正反対に解釈するのか,理解できない。

(第6回の検討に続く) 

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論」Newsweek,2019年8月13日。


※1。MMTで直観的に一番わかりにくいところがここだろう。これまでMMTについて対話したすべての人が,ここで一端はつっかかる。私もそうだった。以下の拙文は,こう解釈すれば飲み込めるのではないかという試み。
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」


※2。私見では,MMTの最大の問題は財政赤字が拡大すること自体ではなく,失業を失くしインフレを起こさないように赤字の程度や増減の速度をコントロールできるのかというところにある。以下の拙文で述べた。
「最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて」

2019年8月26日月曜日

野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(4)を読んで

 野口旭教授によるMMTの検討と批判第4回。クラウド・アウトは原理的に起こらないというMMTの主張を取り上げて批判している。

 この回は奇妙である。野口教授は話の途中までは,MMTが<政府が財政赤字を出して支出を増やしても民間貯蓄を吸収することはない。むしろ民間貯蓄は増える。だからクラウド・アウトは起こらない>としている理由を,第1回で紹介されたMMTによる金融実務的解説に即して,おそらく正確に紹介している。ところが後半になると,「完全雇用下における政府の赤字財政支出は、一般に金利上昇と民間投資のクラウド・アウトをもたらす」ことは正統派はきちんと明らかにしているが,MMTはこれができていない,と言い出す。

 そんなことはない。MMTは,財政赤字で所得を増加させられる限度は,物的・人的生産能力の実物的限界だとはっきり述べている。設備がフル稼働し,完全雇用が達成されたら,あとは財政赤字をいくら出しても民間投資をクラウドアウトし,インフレになるだけだ。これはMMTだけでなくすべてのケインズ派が同意するところだろう。このことは,MMTのどんな通俗的解説でも述べていることなのに,なぜ野口氏はネグレクトするのだろうか。

 おそらくその理由は,私がまだ不勉強なMMTの所得決定メカニズムに野口教授が疑問を持たれたからだと思われる。野口教授の理解では,「MMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない」。そして,野口教授はここで一刀両断して終わらずに,MMTは民間投資の利子非弾力性を仮定しているのだろうと推定した上で,それでもMMTはおかしいという。「少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかない」というのだ。

 MMTにIS曲線がないというのはおそらく正しい。MMTは,<利子率によって所得が決まるという単純なメカニズムがそもそもない>としていて,IS-LM分析を肯定しないのだろう。しかし,MMTに財市場が存在しないというのは無茶な批判で,前述の通り,生産能力の実物的限界は当然に想定されている。

 逆のベクトルで言うと,MMTでは財政赤字の拡大は民間貯蓄を全く減少させない。だから,財政赤字分だけ所得が拡大しても金利に上昇圧力はかからないのだ。野口教授はMMTのこの説明を正確になぞったはずで,しかもその説明自体はとくに否定していない。ならば,<財政赤字が拡大しただけでは利子率は上がらない>と認めるのか。そうではなく,正統派の理論通りに,<財政赤字が拡大すれば利子率は上がる>というのであれば,金融実務に沿ったMMTの説明のどこがおかしいかを指摘すべきではないか。

 こうして考えてみると,ここでもMMTと,野口氏が妥当だと考える正統派(ニューケインジアン)との違いは,あれこれの部分的理屈だけでなく,利子,投資,貯蓄の関係,それに関するケインズ理解なのだと思う。MMTは,<利子率を下げれば投資が増えるというものではない>と考えているのだ。おそらくケインズその人が述べたように,資本の限界効率に不確実性が大きいと見るからだろう。またMMTは<投資は事前に貯蓄が形成されていることを必要としない>,むしろ<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えているのだ。1-3回を読んだ時と同じ結論だが,ここに根本的な理論的相違があるのではないか。

 引き続き第5回以後も読んで考えたい。
(第5回の検討に続く)

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(1)(2)(3)を読んで

野口旭教授によるMMTの検討と批判。「MMTとは財政赤字を出しても問題ないという理論である」などという政治宣伝による賛否の争いでなく,経済学的な検討であって,誠にありがたい。野口教授はすでにWrayたちの教科書Macroeconomicsも読破されているようだ。現在,連載4回目であって,今後も続くようだが,ここまでの論点について考えたい。私はマクロ経済学の歴史的な系譜について素人なので,学びながらのノートのつもりだ。

 まず1-3回について。

 野口教授はMMTとマクロ経済学の正統派(ニューケインジアン)の違いは中央銀行の役割だとする。野口教授の理解では,MMTは中央銀行無能論に立っている。つまり金利が所与とされている時に中央銀行は受動的に中銀当座預金を調整するだけだとしている。これに対して正統派はマクロ経済の安定のためには金利調整が必要不可欠であり,だから「中央銀行がインフレ率と産出ギャップを両睨みしながら政策金利を調整する」というテーラー・ルールを採用しているのだという(シェア先はこのことが書いてあるページ)。

 野口教授によるこの対比は,中央銀行の役割論としては妥当だと思う。だが,理論的には両者の背後に利子率に対する捉え方の決定的な違いがあるのではないか。

 MMTは一定のケインズ理解により<利子率が貯蓄と投資を均衡させるのではない>と考えているし,<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えている。これは野口教授が参照されているビル・ミッチェルのブログ記事「自然利子率は『ゼロ』だ!」からはっきりとわかる。だから,物価に対して中立な利子率水準が存在し,それより利上げすればデフレを,利下げすればインフレを促すという発想をとらないのだ。MMTと正統派(ニューケインジアン)の根源的な違いは,大元をたどればケインズの理解の違いであり,利子,貯蓄,投資の関係の捉え方の違いなのではないか。

(第4回の検討に続く)

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割」Newsweek,2019年7月23日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性」Newsweek,2019年7月30日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜」Newsweek,2019年8月1日。

ビル・ミッチェル(望月慎訳)「自然利子率は「ゼロ」だ!」(2009年8月30日)「経済学101」2018年2月28日。


2019年8月2日金曜日

大学院に行くのは個人の私的選択であるから支援する必要はないという文科省Q&A

「高等教育段階の教育費負担新制度に係る質問と回答(Q&A)(2019年7月3日版)」より。
ーー
Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は 18 歳人口の 5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では 20 歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
ーー

 政府の文書に頭を抱えるのは日常茶飯事だが,これほどはらわたが煮えくり返ったのは久しぶりだ。

 このQ&Aが言わんとすることは,「同年代の者には平均的に言って稼得能力があるのだから,大学院生を支援する必要性は低い」ということだ。通常,授業料等の免除は当人やその属する世帯の収入が高いか低いかを問題にする。いま教育無償化論は敢えて脇に置いて唱えないことにするが,ともあれ普通は当人や世帯が低所得だから支援するのだ。ところが,ここでは当人でなく,同年代の者に稼得能力があるかどうかを問題にしている。

 なぜ,そんな回りくどいことを言うのか。考えられるロジックはただ一つ。「稼ごうと思えば稼げる年になってるのに,大学院にわざわざ行くのは個人の私的選択であって,とりたてて国が支援すべきものではない」というものだ。大学院生を育てて,研究者や技術者やマネージャーや起業家や公務員にすることの社会的意義などないというのだ。

 10兆歩譲って,財務省が言うならば,嗚呼また始まったよといなしてもいい。だが,文部科学省が言っているのだ。

 学部と大学院で全く扱いを同じにする必要があるかどうかは議論があるだろう。しかし,ことは根本的な考え方の問題だ。何歳の人間が大学院に入学するかは関係ない。また,その院生の高校や学部の同級生が大企業の社長か政治家や高級官僚(の給料は大したことがないか)か何かで大儲けしていようが,それは関係ない。一定の優秀な院生を育成して社会に送り出すことが重要なのではないか?そのために,一定人数は,当人の経済状態にかかわらず研究できるように支援すべきではないのか。文科省は,そういう見地から大学院大学化を推進し,大学院出身者の多様な進路の開拓を活躍を目指してきたのではないのか?

 ところが今回のQ&Aは,いや,そんなことは重要ではない,大学院に行くのと趣味の有料サークルに入るのは同じ私的選択だと言っているのだ。くりかえすが,財務省の自己責任主義,財政赤字削減至上主義のプロパガンダでなく,修学支援制度に関する文部科学省の解説文書が!

注:この投稿はQ&Aの考え方を批判したものだが,大学院生に対する授業料免除が一切なくなると絶望的な解釈をしているわけではない。新修学支援制度の実施によって,大学院生を含んでいる従来の授業料免除制度が完全に上書きされてなくなってしまうのかどうか,まだ未解明かつ未決定な部分がある。はたの君枝議員(共産)は文科省の担当者に「文科省としては各大学の大学院生対象の授業料減免への国からの支援は続ける方向で検討していることを確認しました」とツイートしている。来年度予算で必要な措置がとられるように運動と働きかけを強める必要があるだろう。


ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年を読んで

 ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。原題もGerald A. Epstein, What's wrong with modern money theory?なので邦題は間違っていないのだが,内容はタイ...