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2024年1月7日日曜日

村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から

 1.課題と目的

 本稿の課題は,前稿(※1)での考察を踏まえて,村岡俊三の銀行信用論を検討することである。その目的は,マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点(以下,「蓄蔵・遊休貨幣出発説」と呼ぶ)に対し,十分な批判を行うことである。考察の前提は前稿と同じであり,国境のない単一の資本主義経済のみを想定して国際金融の影響を捨象する。また,財政収支の影響を捨象する。いわば一国の金融システムのみについての理論的考察である。そして,既に銀行が成立している下で個別銀行が活動する諸条件ではなく,銀行システム全体が成立する諸条件を考察する。

 さて,前稿での分析結果を要約すると,銀行システムが持つ支払準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の中央銀行当座預金設定でもありうる。そして,資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,準備金の主な出所は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行へに移っていくのである。

 本稿は,銀行を「信用貨幣の貸付による信用創造」として把握し,「貸し付けが預金に先行して説明されねばならない」と主張する立場に拠っている。以下,これを「信用創造=貸付先行」説と呼ぶ。前稿ではこの観点から準備金を論じることで,銀行を「現金の又貸しによる金融仲介」として,「預金が貸し付けに先行する」ものとして考える,「金融仲介=預金先行」説を批判した。「金融仲介=預金先行」説は研究者内でも学派を問わず多数であるため,この批判には意味があった。

 ただ,話をマルクス経済学に絞ると,いささか複雑になる。上述のようにそこには「蓄蔵・遊休貨幣出発説」があり,前稿はこれに対しても批判を行うものであった。「蓄蔵・遊休貨幣出発説」は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が圧倒的に強い。それ故,後者に対する批判によって前者に対する批判をかなりの程度カバーできた。

 しかし,信用貨幣論であっても「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点を採用した学説もある。それが,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」であり,それに続く著作である。本稿は,この村岡説を批判的に検討するものである。検討の中心は上記の論文(村岡,1976)に置くが,必要に応じて同『世界経済論』有斐閣,1988年(村岡,1988)も参照する。

 なお,村岡の信用論は,世界経済論の一部として公表されたこともあり,学会でも必ずしも十分に検討されていない。その中で,詳細な批判を行ったものとして岡橋保『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年(岡橋,1993)があり,参照したことをお断りしておく。岡橋の村岡批判を援用する際は,その都度注記する。

※1 川端「銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察」Ka-Bataブログ,2024年1月4日,https://riversidehope.blogspot.com/2024/01/blog-post.html


2.村岡説の検討

(1)村岡説の立ち位置

 村岡説は,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」(村岡,1976,p. 286)(※2)を行うと主張するものである。まず,この村岡説の理論的立ち位置を確認しよう。

 第一に,村岡は独自の折衷的立場を取っている。村岡は銀行券は銀行手形であり,銀行は預金を集めるのに先立った銀行券発券による貸し付けを行うと考えている。その点で,「信用貨幣=貸付先行」説に立っている。しかし同時に,「銀行とは,さし当り,このように利子生み資本として移納すべき遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣を預金として集積し,これを必要とする産業資本に貸付けることを業とする一特殊的資本」と規定しており(p.283),その点では「信用創造」でなく「金融仲介」説に立っているのである。ただし「現金の金融仲介」ではなく銀行券での貸し付けと預金を想定している。「貸付先行」と「金融仲介」がどうして両立するかというと,「先取的媒介」だからである。貸付けは先行して行われるが,それは将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介だというのである。本稿は,村岡説に対して,「信用創造=貸付先行」説を徹底させる見地から検討を加える。

 第二に,村岡が説明しようとしているのは,銀行券が信用貨幣だということであって,準備金の必要性ではない。村岡のいう「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」とは,「銀行券の預金還流」,つまり「銀行信用を供与された産業資本家以外の者(資本家又は労働者)からの預かり金」が発券銀行に預託されることである(pp. 290-291)。銀行Aは産業資本家aに銀行券で貸し出し,aと取引した産業資本家bや,aやbに雇われた労働者cが銀行Aに銀行券で預金を行うということである。村岡は,これを銀行券の還流,つまり信用貨幣が発行元へ戻ることによって消滅することの最重要形態として重視している。村岡は信用貨幣の発行と寒流の説明を目指したのであって,著者の前稿のように,銀行の準備金の成立を論じたわけではない。しかし本稿は,準備金論を深めることによって,村岡説に対する批判と代替的見地の提示が可能になると考えている。

 以上の2点を踏まえた上で,論評に移ろう。


※2 以下,書名を明示しないページ番号はすべて(村岡,1976)のものである。


(2)「銀行券の預金還流」説批判

 著者の見地から見れば,村岡説が銀行信用を「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介では」ないとする点は支持できる。他方,「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という点の妥当性は,それが何を意味するかによる。村岡説では,これを「銀行券の預金還流」に求めているが,これは問題を含むと考えられる。

 まず,銀行券が発行元に還流する最大のルートは,貸付金の返済である。企業・個人に対する貸出債権と,銀行券という銀行債務が相殺されるのが返済であり,これによって銀行券が信用貨幣である証拠とするのが,むしろ自然な説明であろう(岡橋,1993,p. 147)。銀行券は貸付によって流通に入り,返済によって流通から出て消滅するのである。ところが村岡は「およそ貸付があれば返済されるのは当然のことであるから,その点で銀行信用に固有な還流とは言えない」(p. 291)として,これを軽視し,預金還流を重視する。しかし,これは,預金の性質を取り違えた議論である。今日の銀行貸し付けの実態から明らかなように,銀行による貸付とは借り手に預金口座を開かせ,預金創造を行うことによってなされる。銀行信用とはこの預金という銀行手形による貸し付けのことである。銀行券,また発券集中の下では中央銀行券が発券されるのは,借り手が預金を引き出した場合に他ならない。より本源的なのは預金債務であり,銀行券債務は派生的なものとみるべきである。そして,預金が生まれるのはまずもって貸し付けの時なのであって,企業・個人が手持ち銀行券を銀行に預け入れることは,派生的なことである。

 また,村岡の言う「銀行券の預金還流」がなされても,還流してなくなるのは銀行券だけであり,預金債務は還流していない。村岡がマルクス『資本論』を引用して述べているように,このとき銀行は依然として産業資本家に対する債権者であり,また預金者に対して債務者である(p. 293)。銀行の貸付金も決済されていないし,信用貨幣としての預金もまだ決済されていないのである。つまり,村岡の説明では信用貨幣論として完結していないのである。村岡が信用貨幣として説明すべき対象を銀行券だけとして預金を軽視したこと,より具体的には貸付けは銀行券の札束でなされ,預金とは既発銀行券が預けられることで形成されるのだ,と想定したために,このような中途半端な説明になったのだと考えられる。

 さらに,村岡は銀行貨幣の信用貨幣であることの説明に全力を注いだために,準備金がなければ銀行は機能できないのではないか,という疑問に答えていない。村岡は正貨流通下を想定しているので,本稿も同様に想定しよう。前の段落で述べたように,銀行券が預金還流しただけでは,銀行は預金者に対し依然として債務者である。預金者が正貨での引き出しを要求したらどうするのか。また,銀行券を発券して貸し付けを行なったとして,その後その銀行券を入手したものが兌換を請求してきたらどうするのか。村岡は銀行が金を運備金として持つことは想定しているのだが(p. 300),銀行の金準備がどこからどのように形成されるのかを述べていない。中央銀行券成立下を想定した場合に就いては記述があり,「市中銀行の金での預け金と新産金の購入によって中央銀行に集積された金が中央銀行の金属準備を構成する」とは書いている(p. 300)。あるいは村岡は,市中銀行に金でも預金がなされることを当たり前と思い,説明しなかったのかもしれない。では,仮にそうだとして,正貨流通が停止されている現代では,準備金はどのような形を取り,どこからやってくるのだろうか。預金者が中央銀行券での引き出しを要求したらどうするのか。銀行はどうやって中央銀行券を入手するのか。金属準備と無関係に中央銀行券が発券されるとは理論的にどのような事態なのか。村岡は兌換・不換を問わず,資本主義社会一般に通用する銀行の規定を獲得しようとしていたのであるから,正貨流通が停止した場合,銀行はどのようにして準備金を成り立たせるかを説明する必要があったように思う。

 このように,村岡の「銀行券の預金還流」説は,銀行システム成立の説明としては,種々の問題をはらむものと言わねばならない。


(3)「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」説批判

 それでは,村岡説の「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という説明は,どう見たらよいか。

 鍵は,この「先取的媒介」という視点が有意義か,そうでないかというところにある。村岡が「先取的媒介」されるとした「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」と見ると中途半端な説明になることは既にみた。しかし,正貨での預金,また新産貨幣金属の中央銀行による買い上げと見るならば,ある程度妥当する部分がある。正貨流通の下では,銀行システムは,預金または中央銀行からの信用供与によって,準備金に必要な正貨を獲得できるという見込みを持てるからこそ,貸し付けを行える。このときにあてにしている正貨準備や金属準備を「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできるだろう。

 しかし,中央銀行券,中央銀行当座預金,とりわけ正貨流通停止下のそれについてはどうか。銀行にとってどうしても必要なのは準備金であるが,それを正貨以外で準備しようとすれば,中央銀行による信用供与,中央銀行当座預金という独特な信用貨幣の新規発行によって準備するよりない。また,村岡の想定に歩み寄って,銀行は中央銀行券で貸し出すとしても,銀行は既に発券を行なっていないので,中央銀行券を貸付けに先立って入手しなければならない。それにも中央銀行当座預金が必要である。中央銀行当座預金は,中央銀行が銀行に対して信用を供与する際に創造されるのであるから,「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできないだろう。

 もちろん,銀行システムがすでに成立している下でならば,個々の銀行は預金獲得競争に力を入れて中央銀行券を集めつつ,貸し出しを増やしていくことはある。しかし,集めるべき中央銀行券は,そもそもどこかの銀行がどこかの企業・個人に貸付けた結果存在している。銀行システム全体が成立するためには,準備金は中央銀行から獲得されると見るしかないのである。

 このような違いが生じるのは,正貨であれば蓄蔵貨幣になり得るが,貸付ける際に創造され,返済されれば消滅する預金貨幣や銀行券は,流通の外で蓄蔵されようがないからである。次項でさらに確かめるが,村岡は正貨と預金を混同し,預金も蓄蔵貨幣になると誤認したのである。

 村岡説の問題点は以下のとおりであるが,村岡が自説を通して述べたかったことは,貨幣流通の全体像にかかわる問題である。このことについての主張は村岡(1988)第4章に記されているので,そちらに即して検討しよう。


3.「銀行預金=蓄蔵貨幣」説批判

 村岡は「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を問題にしたが,銀行システムにおいて「蓄蔵貨幣」とはそもそも何なのかが問題である。金属準備が蓄蔵貨幣であることは村岡も指示している(p. 300)。しかし,村岡にとって蓄蔵貨幣とはそれだけではない。「預金還流」した銀行預金全体が蓄蔵貨幣なのである。「銀行預金こそは資本制的生産における蓄蔵貨幣の主要な存在形態である」(村岡,1988,p. 215)と断定されているのでまちがいはない。

 しかし,ここには二重の問題がある。まず,デジタル信号でしかない銀行預金が流通外で金と同等の価値保蔵機能を持つとしてよいかという問題である。これはマルクス経済学における,金・正貨以外のものも蓄蔵貨幣になり得るかという論争と絡む(※3)。しかし,村岡説のより大きな問題は,預金が流通外にあるとしていることである。蓄蔵貨幣であるとは流通の外にあることである。しかし,預金とは通貨であって流通している(岡橋,p. 149)。その証拠として,日々口座振り込みによってキャッシュレスの支払が行なわれているではないか。預金貨幣は流通内にある信用貨幣なのである。

 村岡は銀行預金に蓄蔵貨幣の「プール機能」を見出していた(村岡,1988,p. 215)。しかし,これは見当違いである。銀行預金は流通内にある預金貨幣である。預金貨幣は貸付によって流通に入り,返済によって還流して消滅する。中央銀行券は,中央銀行当座預金が引き出されることによって流通に入り,中央銀行当座預金に預け入れられることによって還流して消滅する。なにもプールには溜まらないのである。

 もう少し深めよう。「プール機能」があるとすれば,それは創造される元,還流する先にあると言わねばならない。だから「プール機能」があるとするならば,銀行信用においては銀行そのもの,中央銀行券については中央銀行当座預金である。しかし,あるのはプールと流通をつなぐ導管機能だけである。すなわち,商品流通が必要とする際に貨幣がそこから流通に入り,不要な際にそこを通って流通から出ていく導管はある。しかし,プールはない。信用貨幣は,発行の際に創造され,発行元に還流した時には消滅するからである。導管機能のみ残り,実在する蓄蔵貨幣のプールはなくなるというのが,銀行券と預金貨幣のもとでの貨幣流通の在り方なのである(※4)。

 実は,ここでも村岡の主張は,正貨での預金については部分的に妥当する。預金者が正貨で預金をするとき,銀行は預金という自己宛て債務,自己宛て預かり証を発行する。そうすると,正貨そのものは預金者の手から銀行に移動してその資産となる。と同時に,銀行の負債として預金が新たに発生する。預金は通貨として流通する一方,正貨は流通から出て蓄蔵貨幣となる(※5)。銀行はこれを自ら保有し続けるかもしれないし,中央銀行に預けるかもしれないが,それはここでは問題ではない。要は,正貨での預金がなされたときには,確かに蓄蔵貨幣が発生し,銀行・中央銀行が「プール機能」を果たすのである。しかし,同時に発生する預金は流通する。だから,やはり銀行預金そのものは蓄蔵貨幣ではないのである。

 銀行システムが成立している下での「プール機能」を解明しようとした村岡の問題意識は正当である。しかし,預金貨幣の性質を見誤り,また正貨と預金を混同したために,村岡説は的を射抜くことができなかったのである。


※3 本稿著者は,金属貨幣・正貨以外のものは,流通から外に出て価値を保蔵することはできない,つまり蓄蔵貨幣にはなり得ないと考える。ただし,流通内にあって,一時的に商品流通を媒介することなく遊休することはあるし,減価するリスクを伴いながら価値保蔵が図られることはあるとも考える。川端「遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために」Ka-Bataブログ,2022年3月28日,https://riversidehope.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html

※4 貨幣が現れたり消えたりするのはどういうことかと,直観的な違和感を持たれる読者がおいでかもしれない。その答えは,「手形を発行して貸し付け,回収したら破棄するから」である。債務証書である預金や銀行券が通貨となっているから,このようなことが起こるのである。

※5 自行銀行券で預金がなされた場合にこのようなことが起こらないのは,自行銀行券は銀行にとって債務であるため,預金されると資産として保蔵されることがなく,還流・消滅するからである。銀行にとって新たな預金債務が発生することは正貨で預金された場合と同じである。


4.準備金の確保を見込んだ貸し付け

 ここまで見たように,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」を行うとし,この「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」に見出した村岡説には,種々の問題点が指摘できる。しかし,村岡が「先取」という言葉を使って表現したことには,重要な合理的契機が含まれているように思う。それは,銀行における貸付が,貸付とは別に何かを確保できることを当てにし,その確保を条件として行なわれなければならない,ということである。本稿の見地からすれば,これは準備金の重要性を示している。

 「信用貨幣=貸付先行」説においては,銀行は事前に確保した預金を又貸しするのではない。ということは,貸し付ける際に,支払準備の確保は保証されていない。一体,どのような形の貨幣で,どのように確保されるのか。これが,村岡や本稿著者を含め,「信用貨幣=貸付先行」説に要請される課題である。また,もちろんここには,貸付だけでなく預金も含めて銀行をトータルに把握すべきだという,預金論の課題も含まれている。

 「信用貨幣=貸付先行」説において,準備金は次のような理論的位置を持っている。準備金は,銀行自身が創造する信用貨幣を決済できるもので確保しなければならない。それには,正貨,相殺可能な債権,より信用度の高い債務の三種類が考えられる。このうち,銀行に何の困難ももたらさないのが債権債務の相殺であり,典型的には貸付金の返済である。銀行は信用創造によって貸付金債権を保持すると同時に預金債務を負う。そして返済=回収の際には,銀行の貸付金債権も預金債務も消滅する。多くの銀行債務=預金貨幣が,この返済=債権債務相殺によって決済されるために,銀行は準備金を貸付金の全額にわたって準備する必要がないのである。しかし,預金の引き出しや他行からの支払い請求など,債務返済を一方的に迫られる事態もありうる。そのために,債務と相殺できる債権(すなわち貸付金)以外に,一定額の正貨か,自ら創造した信用貨幣よりも信用度の高い信用貨幣(すなわち自行預金貨幣より信用度の高い中央銀行当座預金)を保持しておかねばならない。これが準備金である。定義上,それらは銀行自身が作り出せるものではない。そして,確保できるという絶対の保証はない。こうした事情から,貸し付けのための信用貨幣の発行は,別途,準備金を確保できることを当てにした,リスクを伴うものにならざるを得ないのである。これは貸付金の貸し倒れリスクとはまた別の,準備金ショートリスクであることに注意していただきたい。準備金ショートリスクは,銀行システムの成り立ちに必然的に伴うものなのである。村岡説は,この準備金ショートリスクを,「先取」の必要性という,いささか核心からそれた形で表現したのである。

 「銀行は別途,必要な準備金を確保出来るという見込みの下に,預金貨幣の創造による貸し付けを行う」。これが村岡説に対置する本稿の見地である。この確保がどのような形と経路で行われるかは,前稿で示した通りである。銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならないのである。

 準備金論に残された課題は,中央銀行に本稿の規定は当てはまるのかということである。まず正貨流通下では,中央銀行は正貨や貨幣金属地金で準備金を保有しなければならない。よって同じ規定が当てはまる。しかし正貨流通停止下では異なる。前稿で述べたように,対外支払い・決済を捨象した次元で考える限り,中央銀行には通常の意味での支払準備金は必要とされない。正貨や貨幣金属は準備金の対象外になっており,中央銀行当座預金や中央銀行券より信用度の高い信用貨幣は国内にはないからである。準備金に代わって必要とされるのは,通貨価値が毀損されないであろうという社会の信任であろう。準備金は,本質的に必要とされるのではなく,中央銀行の政策として保有するものになるだろう。ここでは準備金の性質が変わっており,貸付を行うに際して確保が必要という規定は当てはまらなくなるようにも見える。この中央銀行の独自の性質については,なお検討が必要であろう。今後の課題としたい。


参照文献

岡橋保(1993)『貨幣数量説の新系譜:マルクス貨幣信用論の俗流化批判』九州大学出版会。
村岡俊三(1976)『マルクス世界市場論:マルクス「後半の体系」の研究』新評論。
村岡俊三(1988)『世界経済論』有斐閣。

2024年1月4日木曜日

銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察

 1.問題の所在

 本稿は,銀行システム成立に当たっての準備金の必要性と役割について考察する。

 銀行を経済学的に理解する上での立場は,大きく「現金の又貸しによる金融仲介」説と「信用貨幣の貸付による信用創造」説に分かれる。前者の方がイメージはしやすいものであり,一般社会でも研究者の多数においてもこちらによって銀行が理解されることが多い。流通している現金が銀行に預け入れられ,預金となって集積され,集積された貨幣が借り手に又貸しされるというものである。後者は,銀行は自分の手形(債務証書)を発行して,それを手渡すことで貸しつけるというものである。具体的には預金貨幣が創造されて貸付けられる。借り手が預金を引き出した場合に,当該銀行が発券銀行であれば当該銀行券が発券され,発券集中が行われていれば中央銀行券が発券される。預金貨幣も銀行券も貸付けられた債務が貨幣化したものであり,信用貨幣である。

 銀行の貸付と預金という二つの業務に即していえば,前者は「預金先行」説とも言えるし,後者は「貸付先行説」とも言える。なぜなら前者では預金が先に形成されて現金が集積され,しかる後それが貸し付けられるからである。対して後者は,預金が集積されるよりも前に貸付が行なわれるからである。

 私はこれまでも述べてきたように「信用貨幣の貸付による信用創造」「貸付先行」説(以下「信用創造=貸付先行」説)に立っているが(※1),この立場に立った場合,銀行を説明する上で二つの点が「現金の又貸しによる金融仲介」「預金先行」説(以下「金融仲介=預金先行」説)よりも複雑になる。一つは,正貨流通・金兌換停止下において,預金貨幣や銀行券が信用貨幣であることの説明である。しかし,この点はこれまでも説明済みであり,ここではとりあげない(※2)。もう一つは,準備金の説明である。あらかじめ預金を集めないままに信用創造で貸し付けを行うこと自体は可能であるとしても,準備金を確保しなければ預金引き出し請求や他行からの支払い請求に応じられない。「信用創造=貸付先行」説では,準備金の確保のしくみ,準備金の役割をどう説明するのか。これが本稿の解明すべき課題である。

※1 「貨幣発行と流通のしくみ」(その1)から(その9),Ka-Bataブログ,2023/12/8-2023/12/17,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post.html

※2 「貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?」Ka-Bataブログ,2023/12/13,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post_13.html 。金兌換がなされずとも,より上位の債務による返済,債権債務の相殺という二つの方法での決済が可能であるから,信用貨幣と言えるということである。


2.考察の前提

 本稿では,ある一つの資本主義経済を,別の言い方をすれば国境に区切られていない単一の資本主義経済を想定した考察を行う。これにより,国境に区切られた世界経済において生じる対外支払い・決済の問題を捨象する。その理由は,プラグマティックには,対外支払い・決済については独自の問題が多く,それだけで紙数を必要とするからである。この措置は,理論的にも正当化できる。というのは,まず国境のない単一資本主義経済の下で考察することは,国境で区切られた世界経済を考察する上での基礎となるからである。

 本稿では,正貨(金貨など)が流通している場合と流通していない場合,全国的決済システムと発券集中を実現して中央銀行が存在する場合としない場合を分けて考察する。ただし,正貨流通が停止していて中央銀行券が成立していない状態,つまり正貨も法定通貨も存在しない状態,さらに言い換えるといわゆる「現金」のない状態,は考えにくい。よって正貨流通・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を考えればよい。より一般的な表現では,前二者は金本位制をはじめとする金属本位制の場合,後者は管理通貨制の場合だと考えればよい。

 正貨流通の下では,銀行は発券機能を持ち,正貨流通停止の下では発券集中により持たないものとする。よって,正貨流通の下では正貨,預金貨幣と,銀行券または中央銀行券が流通しており,正貨流通停止の下では預金貨幣と中央銀行券が流通している。

 銀行は預金の払い出しに応じなければならない。加えて,正貨流通の下では兌換請求にも応じなければならず,正貨流通停止の下では兌換も停止するものとする。正貨流通の下では,銀行・中央銀行は預金の正貨での払い出し,自行銀行券の金との交換に応じなければならない。一方,正貨流通停止・中央銀行成立の下では,兌換は行われない。ただし,銀行・中央銀行は預金の中央銀行券での払い出しを行わねばならない。

 また口座開設者の取引の結果を決済するために,銀行内の口座間と,銀行間での送金義務が発生する。銀行内であれば口座間の預金振替でことは足りる。しかし銀行間ではそうはいかない。支払いと受け取りの差額が支払超過である場合,銀行は送金を行わねばならない。正貨流通・中央銀行未成立下では,他行に対して正貨または相手行銀行券での支払いが必要である。正貨流通・中央銀行成立下ではこれらに加えて,中央銀行当座預金での支払いが可能である。正貨流通停止・中央銀行成立換えは中央銀行当座預金での支払いが可能である。なお中央銀行当座預金に換えて中央銀行券で支払うことも可能であるが,緊急時以外には行われないであろう。

 本稿では,中央政府財政の赤字・黒字はないものとする。したがって,財政収支による通貨供給への影響はないし,国債発行による影響もないものとする。

 本稿が根本的に問題とするのは一社会において銀行というものが成り立つ条件である。既に他の銀行が成立している下で個別銀行が追加で成立する条件ではない。このことを明確にするために,個々の「銀行」と区別される社会全体としての銀行のしくみを「銀行システム」と呼ぶこともある。ただし,個別銀行について述べることと社会全体の銀行システムについて述べることが矛盾しない場合には単に「銀行」という用語を使う。


3.「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明批判

 まず,「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明について一瞥しておこう。この説だと,一見,準備金の説明は簡単に見える。先に預金が銀行に集められるからである。しかし,場合分けしてみていくとそうでもない。正貨流通・中央銀行不成立の下では預金は正貨と自行・他行銀行券,正貨流通・中央銀行成立下では正貨と中央銀行券で集められる。正貨流通停止下では,中央銀行券で集められる。

 このうち,又貸しが簡単に説明できるのは貸付が正貨または中央銀行券で行われる場合である。まずもって預金は銀行に集積されているのであるから,借り手が預金の引き出し要求,兌換請求,他行からの支払い請求に応じることは当然に可能である。また正貨流通・中央銀行不成立下の他行銀行券についても,当該銀行に兌換請求すれば正貨が入手できるので正貨で預金された場合に準じて考えることができる。準備金残高が不足することもありうるが,それは貸し出しが過大であったり,不良な借り手ばかり集まっているからという量的問題であり,本来的に準備金になるものを持っておらず支払い不可能だという質的問題ではない。

 正貨流通の下では預金として集めた正貨の一部,正貨流通停止の下では集めた中央銀行券の一部が準備金となっているので,そこから払い戻しを行う。ここに何の不思議もないように見える。

 しかし,正貨の場合は良いとして,銀行券の場合は子細に観察すると問題がある。「金融仲介=預金先行」説は,社会全体として銀行システムを考察した時,預金となって集積すべき通貨のうち,他行銀行券や中央銀行券が,そもそもどうして流通しているかを説明できないのである。預金するためにはあらかじめ流通していなければならない。しかし,銀行券というものは,そもそもどのようにして発行され,流通に入るのか。銀行券は,まず発券銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合に発券される。また,最初から銀行券で貸し付けを受けた場合にも発券される。中央銀行券もこの論理の延長上で説明できる。銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合,あるいは最初から中央銀行券で貸し付けを受けた場合に,銀行は中央銀行券を必要とする。その中央銀行券は,銀行が中央銀行に持つ中央銀行当座預金設定を引き出すことで発券される。中央銀行当座預金は,正貨流通下では,流通している正貨が銀行に預けられ,さらに中央銀行に預けられることと,中央銀行が銀行に貸し付けを行うことの二つによって形成される。また正貨流通停止下では,後者の方法によってのみ形成される。

 だとすると,正貨が関与する場合を除いて,他行銀行券や中央銀行券による預金は,貸付に先行するものではありえない。もともと,どこかで銀行が企業や個人に,あるいは中央銀行が銀行に信用を与えたからこそ存在しているものである。ということは,銀行システム全体としては「預金先行」がありうるのは正貨についてだけである。銀行券,中央銀行券は,個々の銀行から見れば「預金先行」に見えても,銀行システム全体を見れば必ず「貸付先行」なのである。

 だから,「金融仲介=預金先行」説は正貨流通下で,正貨については整合的に説明できるとしても,銀行券が関与した瞬間に論理的に成り立たなくなる。よって,銀行システム成立の論理としては否定されるべきである。


4.「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明

 では「信用創造=貸付先行」説ではどうか。これが,本稿の積極的に解くべき問題である。以下,場合分けをしながら考えよう。


(1)正貨流通下の場合

 まず正貨流通の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造するか,自行銀行券を借り手に渡して貸し付けを行ったとしよう。ここで,借り手が正貨での払い出しまたは兌換を要求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 正貨流通・中央銀行未成立下では,銀行は一定額の正貨を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。つまり銀行は,信用創造を行うこと自体は準備金がなくともできるが,正貨での準備金を,借り手が払い出し請求,兌換請求を行い,他行からの支払い請求が来る以前に準備することが必要になる。抽象化すれば,正貨が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。これらを満たすのは正貨での預金である。いったん銀行システムが成り立てば,個々の銀行にとっては他行銀行券でもよい。他行銀行券を当該銀行に提示すれば当該銀行に対する支払いができるし,正貨も入手できる。しかし,他行の存在を前提せず,銀行システム自体が成り立つ条件としては,正貨が必要である。正貨流通・中央銀行未成立下の下では,銀行システムが成立するためには,預金された正貨での準備金が必要なのである。

 念のため付記すれば,正貨準備その量は,払い出し,兌換,支払支給に応じるに十分なだけあればよいのであって,銀行は準備金ショートのリスクに注意しながら,準備金の額以上に貸し出すことができる(※3)。

 正貨流通・中央銀行成立下では,事情は多少修正される。預金者の正貨払い出し・兌換請求には正貨でなければ応じることができないが,他行に対する支払いは正貨を持ち出さなくとも,中央銀行当座預金を通して支払うことが可能である。また正貨を入手することは,中央銀行当座預金を正貨で引き出すことや,手持ちの中央銀行券を中央銀行に提示して兌換請求を行うことで可能である。つまり,正貨流通・中央銀行成立下では,銀行が準備金として確保すべきは,預金された正貨または中央銀行当座預金なのである。

 ここでまず注目すべきは,預金された正貨である。この正貨は「金融仲介=預金先行」説の言う本源的預金ではない。受け入れた正貨をまた貸しするのではないからである。しかし,銀行の成立に当たって必要な預金であるという意味では,本源的預金に類似したものである。正貨流通の下では,銀行はこうした,いわば準本源的な預金を必要とするのである。同じことを別の角度から言えば,貸付という行為自体は,預金がなくとも可能である。しかし,預金の払い出しや銀行間支払の必要に備えた,正貨による預金は必要なのである。

 ところで正貨での預金というのは,貨幣流通の見地から言えば,金などの貨幣商品が商品流通外に出ることを意味するものであり,蓄蔵貨幣の形成を意味する。正貨による蓄蔵貨幣の形成は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,銀行システムの成立とそれによる信用創造の拡大は,当該社会での正貨による蓄蔵貨幣の形成に外的に制約されるのである。

 中央銀行の成立はこの制約条件を緩和する。中央銀行が当座預金を創造して銀行に供給することによって,銀行の準備金に伸縮性が与えられるからである。ただし,中央銀行自身が銀行からの兌換請求に応じなければならないので,中央銀行自体に正貨や貨幣金属(典型的には金地金)の準備が一定程度必要とされる。この正貨や地金は,流通にいったん入りながら,商品流通に一時的に不要とされて形成された蓄蔵貨幣から成る。具体的には,正貨での銀行預金が,再度中央銀行当座預金として預けられたものである。しかし,それだけではない。新産の貨幣商品金属を通貨当局である中央銀行が,直接に,あるいは政府を通して平価で無制限に買い入れることによっても形成される。これにより準備は補填される。ここでも,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の産出は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,中央銀行がもたらす準備金の伸縮性も,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の買い上げという別個の運動によって外的に制約されるのである。


※3 銀行は準備金の額以上に信用創造ができる。これは,「信用創造・貸付先行」説に立つならば,正貨流通下か否か,中央銀行成立下か否かにかかわらず妥当する。よって,以後,いちいち記述しない。


(2)正貨流通停止・中央銀行成立下の場合

 次に正貨流通停止,かつ中央銀行成立の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造して貸し付けを行った後に,借り手が中央銀行券での払い出しを請求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 銀行は,中央銀行券を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。また中央銀行当座預金を保持していなければ,他行に対する支払いを行うことができない。中央銀行券は,中央銀行当座預金を引き出すことによって入手できる。つまり銀行は,信用創造を行う際に,中央銀行当座預金または中央銀行券での準備金を事前に,あるいは事後であっても少なくとも借り手が払い出し請求や兌換を行いそうになる前に準備することが必要になる。抽象化して言えば,事後に中央銀行当座預金・中央銀行券が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。 

 では,このような条件を満たす中央銀行当座預金・中央銀行券の入手方法とは何か。一見すると,正貨流通下では正貨の預金であったように,正貨流通停止の下では中央銀行券での預金であるように思える。しかし,そうではない。預金者が中央銀行券で預金を行うためには,あらかじめ中央銀行券が発券されていなければならない。ところが,財政支出が捨象されている限り,中央銀行券が発券されるのは,預金者が預金を引き出した場合だけである。そして,預金が生まれるのは銀行が企業・個人に貸し付けを行った場合である。個人や企業が銀行に中央銀行券を預け入れる場合にも預金は生まれるように見えるが,その中央銀行券はどこかで預金を引き出したから発券されているのであり,やはりそれ以前の,貸付によって生まれた預金に由来する。いずれにせよ,預金や中央銀行券が生まれる大本は銀行による企業・個人への貸付なのである。ということは,銀行システムが成立するにあたって中央銀行券での預金が必要となるというのは循環論法である。中央銀行券での預金は,どこかで銀行が企業・個人に貸し付けた結果としてでなければ存在できないのであり,銀行システムがすでに成立していることを前提するからである。

 だから,銀行システム成立に当たって銀行が必要とする中央銀行券での準備金は,銀行への預金によって形成されるものではない。中央銀行が創造した中央銀行当座預金を引き出したものなのである。正貨流通停止の下での銀行の準備金とは,本質的に中央銀行が供与するものなのである。この点が,正貨流通の場合とは決定的に異なる。

 再び貨幣流通の見地から見ると,中央銀行当座預金や,銀行によって引き出されて銀行が手持ちしている中央銀行券は,一時的に遊休し,商品流通を媒介していないという意味で遊休貨幣である。しかし,蓄蔵貨幣ではない。預金や銀行券は価値を持たないデジタル信号や紙券に過ぎないので,流通から出て価値を保蔵するという意味での蓄蔵貨幣にはなり得ない。正貨流通停止下では,遊休貨幣は存在しても蓄蔵貨幣は存在しないのである。

 しかし,中央銀行当座預金や銀行手持ち中央銀行券が蓄蔵貨幣でないことは,むしろ積極的な意味を持つ。蓄蔵貨幣ではないがために,信用創造の運動に従属し,信用創造の運動に反応して形成される伸縮性を持つからである。正貨流通停止下では,銀行の信用創造は,正貨による蓄蔵貨幣形成の制約を離れて拡大できる。中央銀行は,信用創造を促進するとともに,それが過大とならないように,自らの信用創造による準備金供給を,金利調節を通してコントロールする。そして中央銀行もまた,蓄蔵貨幣の多寡や新産貨幣金属を買い上げる必要によって外的に制約されなくなるのである。

 正貨流通停止下では中央銀行は兌換請求を受けることはない。そのため中央銀行自身の準備金としても正貨や地金は必要とされなくなる。本稿が想定する条件の下では,原理的には他の形態での準備資産さえ必要とされない(※4)。政府財政の影響を捨象する限り,正貨流通停止下では,中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に対して信用を供与した結果であり,預金貨幣は銀行が企業・個人に対して信用を供与した結果であり,中央銀行券の発券は預金の引き出しによって預金貨幣が置き換えられた結果である。このような銀行システムの下では,銀行が中央銀行に求めることは,中央銀行当座預金での支払い決済の遂行であり,中央銀行からの借り入れの返済に際して当座預金または中央銀行券の利用を認めよということである。それは,金兌換が停止されていても何ら問題なく中央銀行が遂行できることである。つまり,本稿の前提の下では,中央銀行に対して銀行から兌換請求に変わる準備資産請求が殺到することは通常はない。あるとすれば,それは恐慌の勃発などによって通貨価値の激しい毀損が生じた場合であろう。その時には,本稿の想定の外にある財政赤字累積の結果として,中央銀行が供与してもいない中央銀行当座預金が積み上がっているであろう(※5)。中央銀行が銀行システムの健全さを維持できている限りは,そうした事態は生じない。本稿が想定する条件下では,中央銀行が準備資産を持つのは当然に必要なことではない。預金払い出しや決済に必要だからではなく,こうした通貨価値の毀損が激しくなることや,そのおそれによって通貨の信認が低下する事態を抑止する効果を持つために,政策的に選択されることである。


※4 対外取引を含めて考えるとここに修正が必要であるが,本稿は単一経済を前提しているので,こう言ってもよいのである。対外取引がある場合については,6節で最小限補足する。

※5 このことについては,ここで詳しく触れる余裕はない。さしあたり以下の拙稿を参照されたい。「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023/7/6。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


5.中央銀行当座預金の独自の役割

 ここで,中央銀行当座預金の独自の性質を論じておく必要がある。ここまでは正貨流通下・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を機械的に区分して論じてきたが,ほんらいこれらは資本主義の発展とともに歴史的に変化する通貨体制の変遷を表している。資本主義の発展とともに中央銀行設立という形で通貨体制が整備され,正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積されるとともに,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられる。そうすると,自らは必ずしも準備を必要としない中央銀行の信用供与が,銀行の準備金の主力供給源になるということである。

 では,この中央銀行の信用供与は貨幣論としてどう位置づけられるか。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金が引き出されると中央銀行券が発券される。この関係は,銀行預金と銀行券の関係と全く同じであり,ここから中央銀行当座預金も信用貨幣であり,中央銀行券に対してより本源的なものだということができる。

 しかし,中央銀行当座預金は商品流通を直接に媒介しない。その意味では通常の通貨とは異なる。しかし,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な信用貨幣であり,独自な預金貨幣だといわねばならない。今日の用語で,マネタリーベースに含まれるが,マネーストックには含まれないということが,この独自の位置を表している。このような独自な預金貨幣が生まれるのは,銀行システムが銀行と中央銀行という二層によって成立しているからである。

 貨幣流通の見地から言うと,中央銀行当座預金の発生は,前述の通り蓄蔵貨幣の形成ではない。正貨や貨幣金属ではないからである。また,少なくとも発生する時点においては,すでに流通している貨幣が遊休するのでもない。それでは何なのかと言えば,独自な貨幣の新規供給なのである。そして,その役割は,銀行の信用創造による預金貨幣供給を準備金として支えることである。こうしてみると,中央銀行当座預金が,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによる新規正貨の供給が担っていた役割を,正貨流通停止のもとで代行する信用貨幣であることがわかる。新規正貨供給に取って代わることこそ,新規に設定される中央銀行当座預金の本質的役割である。


6.対外支払い・決済論についての補足

 最初に断った通り,本稿は対外支払い・決済を捨象するという前提下で考察を行っている。ただ,ここまでの考察を踏まえて対外支払い・決済論への展望をわずかに述べておく。対外支払い・決済においては貿易や金融取引がその通貨建てで行われる中心国通貨と,それ以外の非中心国通貨が存在する。ここでは非中心国を想定する。ここでも各国財政の通貨供給への影響は捨象する。

 本稿で言う正貨流通下とは,対外的には国際的な金本位制,正貨流通停止下というのは金兌換停止に対応すると考えてよい。正貨が国内で流通し,対外的には金兌換と金現送が行われるという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた貨幣商品金属または中心国正貨,あるいは中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。正貨が国内で流通せず,対外的に金兌換も金現送も行なわれないという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。

 このように対外支払・決済論では商品貨幣金属,中心国正貨,中心国銀行に持つ中心国通貨建て預金が重要な役割を果たすと予想されるのである。しかし,この先は別の機会に委ね,今は本稿の課題についての結論を述べよう。


7.結論

 ここまで,「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明を試みて来た。銀行は,信用創造,つまり預金という自己宛て債務による貸し付けを行うものであり,この行為自体は又貸しではないので,事前の預金を必要としない。しかし,銀行は,預金払い出しの請求や他行からの支払い請求が発生に備えて準備金を確保しなければならない。

 具体的には,銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならない。

 正貨流通下では,正貨による預金形成とは蓄蔵貨幣形成である。信用創造は,蓄蔵貨幣形成という,自らとはまったく別個の運動によって制約される。中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属し,伸縮性を持つ。ただし,正貨流通下での中央銀行は,正貨による蓄蔵貨幣形成と新産貨幣金属買い上げの運動によって,外的に制約される。正貨流通停止・中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属して伸縮性を持つし,蓄蔵貨幣形成にも新産貨幣金属の無制限買い上げにも制約されない。そして,自ら準備資産を持たずとも可能である。ただし,中央銀行は通貨価値と,通貨に対する信認を維持しなければならないので,準備資産はその助けになる。中央銀行は,金利調節を通して準備金供給をコントロールすることで,銀行による信用創造の拡張を促したり,抑制したりするのである。

 ただし,この結論は,本稿が冒頭に設定した,国境によって区切られていない単一資本主義経済の下で妥当するものである。国境の存在を踏まえて国際金融を考察した場合には,一定の拡張や修正が必要である。


8.理論的示唆

 本稿は三つの場合を区別して考察を行ったが,ここから,一定の理論的示唆を引き出すことができる。正貨流通とその停止,中央銀行の未成立と成立の区別と関連を説明できる,包括的な理論の形成に向かっての示唆である。

 銀行システムが必要とする準備金とは,当該社会において現金とされるもの(正貨,中央銀行券),あるいはただちにそれに転換できるもの(中央銀行当座預金,正貨流通下での他行銀行券)でなければならない。これはいかなる学説においても共通である。

 しかし,本稿の分析結果からすれば,この準備金の出所を,蓄蔵貨幣や遊休貨幣に,言い換えると既に存在している貨幣の融通に不当に一元化,もっと強く言えば矮小化してはならない。この矮小化を典型的に行っているのは種々の学派に共通した「金融仲介=預金先行」説である。また,マルクス経済学の場合は「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点が存在するが,この観点もまた不当な一元化,矮小化である(※6)。これらの説は部分的に,具体的には正貨流通下の正貨については妥当する。それ故,現実に根拠を持つ説ではある。しかし,一般理論としては間違いなのである。

 本稿の分析結果が示すのは,準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の信用供与でもありうるということである。そして,資本主義の発展とともに正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積され,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられると,中央銀行の信用供与が準備金の主力供給源になる。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金は商品流通外にあって,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な預金貨幣である。中央銀行当座預金の役割は,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによって生まれる新規正貨に取って代わり,準備金形成を担うことである。

 資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,銀行システムの準備金の発生源は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行による,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行に移っていくのである。


※6 マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が非常に強い。それ故,後者の説に対する批判によって前者の観点に対する批判をかなりの程度カバーできる。しかし,「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,信用貨幣論や貸付先行説をとる論者でも採用することがある。例えば村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」である。この説については独自の検討が必要であるが,これは別稿に委ねなければならない。

続稿
「村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から」Ka-Bataブログ,2024年1月7日。




2023年12月25日月曜日

玉川寛治氏博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」審査結果の要旨について

  さきに,玉川寛治氏の博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」が東北大学機関リポジトリTOURに掲載されました。しかし,審査結果の要旨は掲載されておりません。各方面に問い合わせたところ,審査報告書は1年に1度,まとめての掲載であることが判明しました。そのため,こちらで「論文審査の結果の要旨」をご紹介します。既に正式決定され公表が予定されているものであり,秘密ではございません。


論文審査担当者

主 査 准教授 結城 武延
第一副査 教授 川端 望
第二副査 大阪大学名誉教授 阿部 武司

 本論文は、技術史および産業考古学の視点から産業革命期日本における綿糸紡績技術の推移を実証的に解明し、またこの技術的諸条件とその変化が綿紡績業の移植・定着の過程に与えた影響を論じることを目的としている。論文は全9章で構成される。 

 第1章「序論」では、産業革命期における紡績技術と機械、生産工程と製品について当時の図や現物のレプリカ写真を用いて説明する。第2章から第8章にかけて綿紡績業の移植・定着過程の実態が解明され、9章で本論文の研究史上の意義が述べられている。 

 第2章「日本における紡績業発達史の概要」では、1867-1900 年における紡績機械・織機の新規設置の状況を紡績所別に明らかにし、草創期の鹿児島紡をのぞいて、1890 年に大阪紡が織布工場を入手するまで紡績・製織一貫工場は存在しないことを示している。さらに同時代の各国(イギリス、欧州、アメリカ、インド)との比較から、産業革命期日本の紡績工場の規模は過少であったことを指摘している。 

 第3章「始祖三紡績」は、日本最初の紡績工場として薩摩藩によって設立された鹿児島紡、同じく薩摩藩により設立された堺紡、鹿島万平によって設立された鹿島紡について、紡績機械の由来と特徴、機械や原料の選択過程と製品、生産成績を次のように明らかにしている。鹿児島紡の紡績機械はインド向けとまったく同じ仕様であり、日本綿の紡績には不適であったため、織物の製造が断念されるに至った。堺紡はイギリス人から技術指導を受けた石河正龍が責任者となり設立・運営され、工程間均衡を欠く欠陥を持っていたものの、後の官営紡績所や二千錘紡のモデルになった。鹿島紡ではイギリスの紡機メーカーであるヒギンス社が日本綿で紡績可能となるように、インド向けより太番手の糸を製造する紡績機械を送り、機械の据付と運転のために技術者を派遣していた。こうした生産体制を構築したことにより、のちに国産化を目的として設立された官営紡績所よりも良好な生産成績を収めていた。

 第4章「官営愛知紡績所から大阪紡績会社へ」では、まず『米欧回覧実記』の記録から、岩倉遣欧使節団(1871-73 年)が欧米の紡績業の事情を技術的内容等も含めてかなり正確に把握していたことを示している。続いて、使節団の視察をふまえて1880年代前半に設立された官営紡績所・二千錘紡績所の紡績機械の仕様を解明している。いずれも手織りで織る白木綿の原糸となる極太糸を生産していたことを示している。さらに渋沢栄一主導のもとで設立された大阪紡の機械設備と技術者の活動を明らかにする。そして、技術者山辺文夫が短繊維に適したプラット社製機械を採用したことが大阪紡の好成績の要因であるとしている。 

 第5章「繭糸織物陶漆器共進会(第二区二類綿糸)で明らかにされた紡績技術」は、政府が殖産興業の事業を促進する目的で開催した共進会が紡績業者に与えた影響を検討している。共進会には各工場の綿糸が出品・展示され、審査された。審査結果により各工場の綿糸の問題点が明確になり、日本綿を原料とした綿糸生産は13番手程度の極太糸に限るべきだということが業者間で合意された。さらに共進会における技術者の講演により紡績業者は初めて紡績技術の全体像を知ることになり、技術情報の共有の重要性を認識することになった。共進会において、紡績業が直面している最大の問題は、日本綿の品質が紡績機械による紡績に不適であることが確認されたというのである。 

 第6章「日本綿・中国綿からインド綿・米綿・エジプト綿へ」では、共進会以後広まった日本綿の不良な品質について、その根本問題は、日本綿の繊維が短すぎて、精紡機でローラードラフトするには不適であったことにあると、著者自ら繊維工学の手法により解明している。続いて著者は、問題の所在を認識した日本の紡績業者が、原料の輸入に転じ、インド綿を主体として、中国綿および米国綿を混綿して極太糸・太糸を製造する日本独自の生産構造を作り上げ、輸入防遏に成功したことを示している。 

 第7章「インド綿・米綿・エジプト綿用の紡績機械」は、原料輸入に転じて以降、大阪紡第 3 工場から日本紡に至る紡績機械について明らかにしている。ここでリング精紡機がほぼ全面的に採用された事実が確認され、次章への伏線となっている。 

 第8章「ミュール精紡機とリング精紡機の選択をめぐる諸問題」は、論争的なものである。日本の綿紡績業の発展の契機となった一つがミュール精紡機からリング精紡機の全面的採用への転換であり、それは日本の紡績技術者による主体的な選択によってもたらされたというのが通説である。著者は、これまで看過されてきた技術史的視点による検証と新資料の発掘により、この通説を批判し、自説を対置する。著者は各国におけるリング精紡機採用の理由を比較検討する。そして、日本では国内と中国市場に向けて厚地手織木綿用原糸を供給しており、それには繊維の短い綿を強撚して一定の強度を確保する必要があったが、その必要を満たすのがリング精紡機であったこと、そして、日本綿や中国綿よりは繊維が長いインド綿や米国綿を輸入することによって、リング精紡機の効率的使用の展望が開けたことを、リング精紡機全面採用の理由としている。さらに、リング精紡機の採用を推進したのが、世界最大の紡機メーカーであったプラット社とその輸入代理店の三井物産であったことを示している。 

 第9章「結論」は全体を要約し、本論文が鹿児島紡から1900年に至る綿糸紡績技術を、初めて、通史的に解明することができたとしている。 

 本論文は、著者の長年にわたる研究の集大成として執筆されたもので、極めて独創性が高く、実証的にも確度の高い研究成果である。すなわち、技術史及び産業考古学の観点から当時の紡績技術と生産工程を復元・再構成した上で、日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であったことを明らかにし、さらに紡績業者がその事実を認識して原料転換と新たな技術選択を行っていく過程を説明したことである。産業革命期日本の紡績業に関する先行研究はその重要性から膨大にあるが、意外にも始祖三紡績の実態や官営紡績所から大阪紡績会社をはじめとした民間会社への移行過程における技術・機械・原料選択に関する要因は不明な点が多く、それらを明らかにした本論文の学術的貢献は非常に大きいといえる。この研究が可能になったのは、元紡績技術者でもあった著者が独自に収集した広範な資料群を駆使したからにほかならない。 

 今後の課題として、独立系の鹿島紡績所の実態や遣欧使節団及び共進会が後の紡績業や紡績連合会に与えた影響の含意のいっそうの考察が必要であろうが、それらはいずれも資料発掘が行われたのちに検討する課題であり、学界全体で取り組むべき残された宿題ともいえる。本論文は既発表25本の論文・報告書を再構成して作成されており、それら個別論文は当該分野の多くの先行研究ですでに何度も引用されていることから、学界においても高い評価を得ている。以上のことから、本論文は博士(経済学)の学位論文を授与するに相応しい業績であると判断する。 

 なお、主査の所属は経営学領域であるが、技術、機械、原料の選択が産業発展に与えた影響を解明している本論文の内容に即して、学位は博士(経済学)が妥当であると判断した。 

学位授与日:2023年8月24日。

本文ダウンロードページ

玉川寛治『日本における初期綿糸紡績技術の研究』


2023年12月22日金曜日

現代の金融の基本形は「現金の金融仲介」でなく「信用創造による預金貨幣創出」である

 1.問題の所在

 この小論の目的は,「現金の金融仲介が金融の基本形である」という常識に疑問を呈し,金融仲介と信用創造という二つの信用形態を正しく位置付けることである。結論を先取りすると,正貨流通の下では現金の金融仲介は,信用創造と並んで独自の役割を果たす。しかし,正貨流通の停止=管理通貨制度の下では,信用創造がすべての金融仲介の前提となる。すなわち,金融の基本形は信用創造である。

 現金の金融仲介とは,貸し手と借り手の間の仲介を行うことである。ある経済主体の手元で現金が差し当たり使い道がなく遊休しており,別の経済主体が経済活動のための現金を欲している時に,前者から後者への貸付を仲介することが金融仲介である。

 このような金融仲介は,ほとんどの金融論の教科書で金融の基本形として扱われている。研究者を含めて多くの人は,金融仲介を実現しているのが銀行であると考える。

 しかし,このような想念は正しくない。以下,そのことを説明する。なお,前提として,正貨流通の下でも銀行は存在し,発券を行っているものとする。また政府紙幣は存在せず,財政システムは捨象する。つまり財政赤字を通した貨幣発行はないものとする。これらはいずれも純粋な考察のための合理的単純化である。


2.銀行が行っているのは信用創造を通した新規の通貨発行である

 まず,経済活動のための貨幣を欲している主体に対して金融を行う方法は,金融仲介だけではない。新たに通貨を発行し,これを貸し付けることによっても可能である。この,追加貨幣の発行というルートを考慮して金融の基本形を考える必要がある。

 銀行がおこなっていることは,預金貨幣または銀行券という自己宛て債務を創造し,これを貸し付けることである。貸付を行った際には預金貨幣が増大する。借入者が預金を引き出せば預金貨幣の代わりに銀行券が発行される。つまり,企業が銀行から借り入れを行ったとき,新規に預金貨幣が発行されているのである。逆に,企業が銀行に返済を行う際には,預金貨幣が減少するのである。

 この時,別の経済主体の手元で遊休し,預けられていた預金は,銀行にとって支払準備金として機能する。しかし,この預金がそのまま企業に貸し付けられたわけではない。貸付けられる預金貨幣は,その都度創造されているのである。

 このように,銀行による融資は金融仲介ではなく,信用創造であり,信用創造を通した新規貨幣発行なのである。


3.現金の金融仲介は正貨流通の下で二通りに実現する

 それでは,多くの人がイメージする現金の金融仲介とは何なのだろうか。それは二通りある。そして,ほとんど意識されていないが,実は,いずれも正貨流通の下で行われるものである。

 ひとつは証券会社を通した金融仲介である。つまり,正貨を蓄積した主体が,社債発行などに応募することである。正貨は,これを必要とする社債発行企業等に融通される。銀行ではなく,証券会社を経由した融資こそが金融仲介である。

 しかしもう一つ,特殊な場合がある。まず,正貨を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して正貨に換え,正貨で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,蓄積しておいた準備金を取り崩して正貨を渡さねばならない。かくして正貨は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 しかしこのようなケースがあるからと言って,銀行の貸付が信用創造でなく金融仲介だということにはならない。銀行はあくまで預金貨幣を発行して貸し付けを行った。このとき,貨幣流通量は増加したのであり,すでに信用創造が行われている。企業がこの預金を引き出したのは,流通する貨幣の一部を預金貨幣から正貨に置き換えることにすぎない。この時,貨幣流通量は変化しない。しかし,正貨は銀行内で遊休した状態から流通する貨幣へと転換するのである。

 以上の二つが,正貨流通の下で行われる現金の金融仲介である。この二つのうち,前者すなわち証券会社を媒介にした金融は,信用創造とは全く独立に生じることができる。後者すなわち銀行融資の正貨による引き出しは,信用創造を前提とし,これに従属して生じるものである。だから,「現金の金融仲介が金融の基本形」として独立に成り立つのは,正貨流通の下での証券会社を通した金融だけなのである。


4.正貨流通停止の下での金融仲介

 次に強調したいのは,このような,いわば純粋モデルとしての現金の金融仲介は,正貨流通の下でしか機能しないということである。正貨流通が停止された,管理通貨制度の下での金融仲介を見てみよう。

 正貨停止の下では,経済主体が貨幣を蓄積するのは預金通貨か中央銀行券によってである。これが証券会社を通して,社債発行企業等に融通されることが金融仲介である。

 また,管理通貨制度下では中央銀行券が現金化していることを想定すれば,もう一つの金融仲介ルートもあり得る。まず,中央銀行券を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して中央銀行券に換え,中央銀行券で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,手元に保有していた(あるいは中央銀行に預け入れていた)中央銀行券を取り崩して渡さねばならない。かくして現金としての中央銀行券は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 以上の二つが,正貨流通停止の下で行われる現金の金融仲介である。しかし,この金融仲介は信用創造から独立して行われることはない。


5.管理通貨制度下の金融仲介は信用創造を前提とする

 どちらの金融仲介であれ,その前提は,ある経済主体が預金通貨または中央銀行券の形で貨幣を蓄積していることである。しかし,これらの預金通貨や中央銀行券は,どこで発生したのであろうか。正貨が産金業者の下で発生して流通に投じられたように,預金通貨や中央銀行券にも発生源がある。それは,この経済主体が蓄積する以前に,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けを行ったことである。それにより発生した預金通貨が点々とあるいは預金通貨のまま流通し,あるいは引き出されて中央銀行券に換えられてからさらに流通し,ついにある経済主体に対する支払いに用いられ,この主体の手元で蓄積されるに至ったのである。

 つまり,ある経済主体の手元で預金通貨や中央銀行券が蓄積されるためには,それに先立ってどこかで銀行による企業への貸付が,したがって信用創造による預金貨幣の発行が行われていなければならない。どこかで発行された貨幣でなければ蓄積することはできないのである。

 これは要するに,正貨流通停止=管理通貨制度の下では,すべての金融仲介は,それに先立つ信用創造を前提するということである。

 既に存在する貨幣をもとに金融仲介を行うためには,その貨幣があらかじめ発行されていなければならない。管理通貨制度の下では貨幣とは預金貨幣か中央銀行券なのであり,貨幣の発行とは銀行による信用創造である。信用創造がなければ金融仲介はない。金融仲介は信用創造から独立に存在できないのである。


6.結論

 研究者を含めて多くの人は,「現金が貸し手から借り手に融通されるしくみ」を金融の基本形と考えやすい。しかし,これが当てはまるのは正貨流通の下での証券金融だけである。もし,正貨が流通しない現代の銀行をイメージするときには,金融の基本形は「銀行融資によって預金貨幣が創造されること」なのである。金融の基本形は信用創造であり,金融仲介は派生形なのである。

 以上のことは,企業の資金調達が証券発行を中心とするようになって,いわゆる「企業の銀行離れ」がいくら起ころうとも,揺らぐものではない。企業が証券発行をする際もお金のやり取りは銀行の要求払い預金の口座間で行われるし,企業が債券を発行して資金を調達しても,そのお金は投資かも証券会社も企業もどこかの銀行の要求払い預金に置くからである。そして,それらの要求払い預金は,どこかの銀行がどこかの企業に対して信用創造で供与したものが流通した結果だからである。財政の作用を捨象する限り,すべての預金貨幣や中央銀行券は,銀行による信用創造に由来する。逆に言えば,銀行セクターは,証券会社との競争においていかに不利になろうとも,貸し出し業務の利鞘がいかに薄くなり,手数料ビジネスに経営をシフトさせざるを得なくなっても,信用創造による通貨の供給者という役割を放棄することはできないのである。

注:2024年1月25日,1月29日。MMFに関する誤った記述を削除して書き換え。






2023年12月20日水曜日

Nippon Steel's Acquisition of U.S. Steel: Voices from Past, Voices for Future

Aims and Challenges of Nippon Steel's Acquisition of US Steel Voices from the Past, Voices for the Future

Nozomu Kawabata (Professor, Graduate School of Economics and Management, Tohoku University)

Nippon Steel Corporation announced the acquisition of U.S. Steel Corporation (USS). The acquisition is subject to approval by USS shareholders in April of next year. The total purchase price is $14.126 billion (2.01 trillion yen), a 40% premium over U.S. Steel's 12/15 share price. Japanese financial institutions will provide the debt financing for this acquisition. The acquisition will raise Nippon Steel's debt-to-equity ratio from 0.5 to 0.9. Nippon Steel's global crude steel production capacity will increase from 66 million tons to 86 million tons, approaching the target of 100 million tons, of which 47 million tons (55%) will come from Japan and 39 million tons (45%) from overseas.

 A closer look at USS Steel's crude steel production capacity shows that it is 15.8 million tons in the United States and 4.5 million tons in the Czech Republic, for a total of 20.3 million tons. Of this total, the electric furnaces (EAF) of U.S. subsidiary Big River Steel is 3.3 million tons, and the rest is thought to be blast furnaces (BF) and basic oxygen furnaces (BOF). An additional 3.0 million tons of EAF capacity will be added in 2024. In other words, one year later, the crude steel production capacity of the USS will be 23.3 million tons, of which 6.3 million tons (27%) will be electric furnaces. In the U.S. steel industry, more than 60% of crude steel production is already by EAF method.

 Here is my comment. Nippon Steel aims to expand its global crude steel production capacity and global market share. Until the mid-2010s, Nippon Steel had been locating only the downstream processes of rolling, and fabrication overseas. However, since its joint acquisition with ArcelorMittal of Essar in India in 2019, the company has adopted a strategy of acquiring integrated companies involved in the entire iron and steelmaking process. When the deal is completed, 45% of the " Nippon" Steel Corporation's production capacity will be overseas.

 With the acquisition of USS, Nippon Steel now has a global reach that encompasses developed and emerging markets in terms of location, high-end and general-purpose product markets in terms of product grade, and blast furnace, basic oxygen furnace, and electric furnace methods in terms of technology. However, it is not as if the company is unnecessarily expanding its reach in all directions. The company appears to be pursuing two distinct goals: one addressing present needs and the other focused on future objectives. At present, they are securing the market by acquiring integrated blast furnace-based steel mills that are competitive in the mass production of high-end products. In the future, they are expanding the electric furnace method, which emits less CO2, to meet the environmental regulations of achieving carbon neutrality by 2050 in developed countries and Southeast Asia and by 2070 in India. 

 In particular, in the case of USS, it is clear that blast furnaces represent the past to the present, and electric furnaces represent the present to the future.

  USS has only two integrated blast furnace steel mills in the U.S. anymore, Gary Works and Mon Valley Works. Of these, Gary Works is the only one in full-scale integrated production. Mon Valley Works is merely the name given to the three integrated steel mills and one rolling mill that once existed. Many of the facilities there closed because they could not withstand competition from imports and electric furnace-based mini-mills. The remaining facilities are connected by river transport to create the appearance of integrated production. Mon Valley represents the glory of the past.

 On the other hand, Big River Steel, which USS acquired in 2019, has a state-of-the-art EAF, compact hot strip mill, cold rolled mill, and galvanizing facilities. Big River Steel manufactures automotive steel for General Motors and even the electromagnetic steel needed for electric vehicles. The raw materials charged to EAF appear to be a mixture of scrap, pig iron, and direct-reduced hot briquet iron (HBI). The production of high-grade steel by electric furnaces is already expanding. The future is here.

 While Nippon Steel Corporation manufactures electromagnetic steel sheets from electric furnace steel at its Hirohata Works in Setouchi, this technology is less established than the traditional BF-BOF methods, which have been the company's forte. Although the company is probably a provider of B.F. and BOF technology to USS, it is more likely to absorb know-how from USS in large EAF operations and the production of high-grade steel using EAF steel.

 However, if the current strategy is to use BF-BOF and the future is to use EAF, a transition strategy is needed between the two. How long will BF-BOF be used, and can the switch from those to EAF be made smoothly from a managerial standpoint and considering the interests of the local economy and workers? How practical is partial hydrogen reduction in a B.F.? When will the decision to invest in 100% direct hydrogen reduction be made, and where will it be located? As the Japanese government subsidizes both new technologies, there should be a political constraint that the first unit should be built in Japan. But what will Nippon Steel do when it becomes more profitable to build overseas (About the transition strategy of the Japanese integrated steelmakers, see Kawabata 2023) ?

 As with other steel mills, Nippon Steel will have a group of steel mills that represent the past and a group of steel mills that represent the future simultaneously in U.S. Steel. Will it be the voice from the past or the voice of the future that decides the fate of Nippon Steel? In the new era of the steel industry, which is to achieve carbon neutrality, the company still faces many challenges. We can look forward to the social effects of its actions, but we will also have to monitor them closely.

Nippon Steel Corporation + U. S. Steel. Moving Forward Together as the ‘Best Steelmaker with World-Leading Capabilities’

*Aerial photography by Google Maps

U.S. Steel Gary Works 

U.S. Steel Mon Valley Works

 Clairton Works (Coke oven)

 Edgar Thomson Works (Ironmaking and steel making)

 Irvin Works (Hot rolling, cold rolling and galvanizing)

 Fairless Plat (Galvanizing)

U.S. Steel Big River Steel (Factory can be seen in the lower right)

Nozomu Kawabata (2023). Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition, The Japanese Political Economy, 49(2/3), 231-252 




2023年12月19日火曜日

日本製鉄によるUSスチール買収の狙いと課題:過去からの声,未来への声

 日本製鉄はUSスチール(USS)買収を発表した。来年4月にUSSの株主総会が承認することが前提だ。買収総額は141億2600万ドル(2兆100億円)。USスチールの12/15株価に対して40%のプレミアムを支払う。借入金は日本の金融機関より。買収により日鉄のD/Eレシオは0.5から0.9となる。日鉄のグローバル粗鋼生産能力は6600万トンから8600万トンとなり,目標の1億トンに接近する。このうち日本国内が4700万トン(55%),海外が3900万トン(45%)となる。

 USSスチールの粗鋼生産能力はアメリカ1580万トン,チェコ450万トンで計2030万トン。うちアメリカの子会社Big River Steelの電炉は,資料によって違いがあるが日鉄の計算だと330万トンで,他は高炉・転炉法と思われる。電炉は2024年にはさらに300万トン追加予定。つまり,1年後にはUSSの粗鋼生産能力は2330万トンとなり,うち630万トン(27%)が電炉となる。なお,アメリカ全体では,粗鋼生産のうち60%以上は既に電炉になっている。

 ここから私のコメントだが,日本製鉄の狙いは,グローバル粗鋼生産能力とグローバルシェアの拡大である。日本製鉄は,2010年代半ばまでは,製鉄ー製鋼ー圧延ー加工のうち川下の圧延ー加工工程のみを海外に配置してきたが,2019年にインドのエッサールを,アルセロール・ミッタルと共同で買収して以来,製鉄や製鋼工程からの一貫企業を買収する方式に打って出た。今回の買収もその延長線上である。今回の買収が完了すれば,「日本」製鉄という名の企業の生産能力のうち45%は海外にあることになる。

 USS買収により,日本製鉄は立地としては先進国と新興国,製品グレードとしては高級品市場と汎用品市場,技術としては高炉・転炉法と電炉法の全方位にわたるグローバル買収を敢行することになった。しかし,むやみに全方位に手を広げているわけではないだろう。現時点と将来とで,異なる目標を二重に持っていると思われる。現時点では高級品大量生産に競争力を持つ高炉一貫製鉄所を手中に収めて市場を確保するとともに,将来に向かっては電炉法を拡大して,先進国・東南アジアでは2050年,インドでは2070年のカーボンニュートラル達成という環境規制に対応していこうという戦略なのだと思われる。

 とくに,USSの場合,高炉は過去から現在,電炉は現在から未来を代表していることは明らかである。USSがアメリカ国内に持つ高炉一貫製鉄所はもはやGaryとMon Valleyの2か所に過ぎないし,まともに一貫生産を行っているのはGaryだけである。Mon Valleyは以前に紹介したように,かつては3つの一貫製鉄所と1つの圧延所であった。輸入品や電炉との競争に耐えられず,設備の多くが閉鎖されてしまい,残った設備を河川輸送でつないで,一貫生産の形を整えているに過ぎないのだ。Mon Valleyは過去を代表している。

 一方,USSは2019年に買収したBig River Steelに電炉ーコンパクト・ストリップ・ミルー冷延ミルー電磁鋼板設備,亜鉛めっき設備を持ち,電磁鋼板や,GMに納入する自動車用鋼板まで製造している。原料はスクラップ,銑鉄,直接還元のホット・ブリケット・アイアン(HBI)の3種混合のようだ。既に電炉による高級鋼生産は拡大しつつあるのだ。未来はこちらにある。

 日本製鉄も瀬戸内製鉄所広畑地区で電炉鋼から電磁鋼板を製造しているが,高炉・転炉法に比べると技術の確立度は弱い。高炉・転炉技術はもはやUSSに対して供与する側であろうが,大型電炉操業と電炉鋼からの高級鋼製造については,むしろUSSからノウハウを吸収しようという構えであろう。

 ただし,現在は高炉・転炉,将来は電炉というのであれば,両者の間に移行戦略が必要となる。いつまで高炉・転炉を用いるのか,高炉・転炉から電炉への切り替えを経営的に,また地域経済や労働者の利害を踏まえて円滑に行えるのか。高炉での部分的水素還元はどの程度実用に耐えるのか。高級スクラップが不足したら,直接還元鉄はどこから手に入れるのか。100%水素直接還元に投資する決断はいつになったら行うのか。その立地はどうするのか。どちらの新技術も,日本政府から開発補助金を得ている以上,1号機は国内に建てるべきという道義的制約はかかるはずだが,海外の方が採算がよさそうになった時に,どうするのか(川端,2023を参照)。

 日本製鉄は,他の拠点でもそうであるように,USスチールにおいても,過去から現在を代表する製鉄所と,現在から未来を代表する製鉄所を同時に抱えることになる。日本製鉄の運命を決めるのは,過去からの声か,未来への声か。カーボンニュートラルを目指す鉄鋼業の新時代において,同社はまだ数々の課題に立ち向かわなければならない。その行動の社会的効果に,私たちは期待することもできるが,同時に注意深く監視もしていかねばならないだろう。

日本製鉄株式会社「U.S.Steelの買収について」2023年12月18日。

Gary製鉄所空撮(Googleマップ)

Mon Valley製鉄所を構成する4工場空撮

クレアトン工場空撮(Googleマップ)
エドガー・トムソン工場空撮(Googleマップ)
アーヴィン工場空撮(Googleマップ)
フェアレス工場空撮(Googleマップ)

Big River Steel空撮(Googleマップ1)位置がズレて駐車場になっているが,写真掲載多数。工場は右下。

Big River Steel空撮(Googleマップ2)製鉄所の位置。

参考:製鉄所に刻まれたアメリカ鉄鋼業衰退の歩み(2018/10/6)

川端(2023)「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」(日本語原稿)

元論文 Nozomu Kawabata(2023). Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition, The Japanese Political Economy, 49(2/3), 231-252 

 

2023年12月17日日曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その9)おわりに

 12 おわりに

 まとめに入ります。この講演は,「お金はどこから来て,どこへ消えるのか」についてお話ししました。それを通して知って欲しかったことは二つです。

 一つは,普段の生活では気がつきにくい,お金の本当の姿です。お話ししたことの中から列挙してみましょう。まず,現代社会では,ほとんどのお金は信用貨幣です。信用貨幣というのは,債務証書が貨幣として通用しているものです。ここですでにショックを受けた方もいるかもしれません。また,中央銀行券だけでなく預金もお金です。しかも,コンピュータが出現する以前からあるデジタル通貨です。また中央銀行券と預金とでは,実は預金の方が基礎になる存在で,預金の一部が引き出されるとその分だけが中央銀行券になります。紙切れやデジタル信号に過ぎないお金がお金と認められて流通するのは,国家権力が強制しているからでも,何となくみんなが信じているからでもなく,銀行または中央銀行の信用ある債務証書だからです。ただ債務証書と言っても,現代では,「債務を本当のお金で返す」ことはできません。それ自体が価値をもっている商品貨幣,つまりは本当の貨幣が流通していないからです。なので,債務はより高度な債務証書で支払うか,債権・債務を相殺するしかありません。でも,裏返して言えば,その二つは可能だから現代の貨幣は信用貨幣として通用するのです。

 意外なことはまだ続いたかもしれません。銀行は,預金を集めて又貸しするのではありません。自分の債務証書である預金を発行して貸し付けているのです。預金は貸し出しのときに生まれるのです。私たちの持つ預金や現金は,もともと,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたお金が流通した結果であり,いわば貸し付けから派生した存在です。企業活動が拡大すると銀行の貸し出しが増えて返済を上回り,お金の流通量が増えます。企業活動が縮小すると銀行への返済が増えて貸し出しを上回り,お金の流通量が減ります。

 そうして,以上の金融システムのほかに,もう一つ財政システムによるお金の供給があるが,またの機会にということになります。皆さんにとって,どのくらいが意外で,どのくらいはご存知のことだったでしょうか。

 もう一つは,もっと根源的なことで,私たちは,発達した資本主義社会という,豊かさのために貸し借りが必要となる世界に生きているということです。私たち個人は,「お金をためてから活動すべきで,借金すべきではない」という規範を持っていることが多いです。社会によって事情は異なるでしょうが,日本では特にこの考えが強いかもしれません。これは個人としてはもっともなのです。しかし,この講演が示しているのは,社会の全員が「お金をためてから活動して使う」ことはできないということです。また,社会の活動とはまず富を生産する活動であって企業が担うものであることにも注意が必要です。 

 企業や起業家がお金をためようとします。しかし,「ためる」べきお金は,もともとどこかの企業が銀行から借りたから存在しているのです。全員が最初に「ためる」ことはできません。先ず誰かが銀行から借りて事業をしなければならないのです。もしこの事態を避けるとしたら,銀行をなくして信用創造を止めるか,そうでなければ社会全体を金貨や銀貨だけで動かし,信用貨幣を失くすしかありません。あとの場合,銀行は金貨や銀貨を預かって又貸しするものになるでしょう。しかし,そんなことをすれば,たちまち社会が必要とする貨幣量を満たせなくなって,お金が足りなくなります。経済が拡大するとすぐ金利が引き上がってしまうでしょう。不況の時に資金を得るのがたいへんむずかしくなり,激しい恐慌になるでしょう。

 このことを裏返して言うならば,資本主義のしくみの下では,経済の拡大と安定のために,「財・サービスを生産するために,企業が銀行からお金を借りる」ことと「債務証書をお金にすること」がどうしても必要だということです。企業がお金を前借りし,不確実な未来に向かって生産を拡大し続けなければ,豊かさは生まれません。当然,成功することも失敗することもあります。

 また,この金融システムは,信用貨幣という,本来価値のない代用品を大量に発生させるのですが,ふだんは実物の商品経済の動きに従っています。ですから,金融システムを通しては,貨幣が商品に対して過剰に発行されることはありません。ただし例外がバブルです。商品の生産と離れて金融取引だけが拡大し,金融取引のためだけにお金が駆り出されて通貨供給量が拡大するのです。これは本質的に騰貴ですから,資産価格が高騰して,いつかは崩壊します。リーマン・ショックなどの金融危機はこうして起こるのです。

 資本主義の金融システムは,このように大量の商品を生み出して豊かさを作り出しますが,そこにはリスクがあり,またバブルの可能性もあるということが,最後に考えておいてほしいことです。

 最後に参考書ですが,この講演とまったく同じ考えをわかりやすく書いた本はありません。しかし,以下の2冊が参考になると思います。ひとつは,お金の経済と商品の経済の関係についてです。これは,田内学さんの『お金のむこうに人がいる――元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門』が的確な解説をしています。トレーダーが書いた金儲けの本かというと,そうではありません。むしろ田内さんは私よりも根本的に,お金と人の関係を論じています。経済に対する見方が,予備知識がなくてもわかる本です。もうひとつは,大学の教科書で私の考えと最も近いものです。松本朗さんの『改訂版 入門金融経済』です。

 以上で私の講演を終わります。長時間お付き合いいただき,ありがとうございました 。

■補足

*講演の最後には,信用貨幣が流通する発達した資本主義経済とは,つまり何なのかということを言わねばならない。しかし,これではまだまだ表面的である。

*ただ,一つ言いたいことは,「現代は価値のない信用貨幣が肥大化している。これが膨張してバブルになるから悪い」といった雑な金融化批判はとらないということである。

*管理通貨制の下で信用貨幣が流通し,またここでは言ってないが金融・財政政策が発動することで,資本主義経済の物質的に豊かな側面も成り立っているからである。しかも,金融システムに関する限り,商品経済の運動が独立変数であって貨幣供給は従属変数なのである。

*ただし,信用貨幣供給の主要ルートは手形割引ではなく貸し付けであるから,商品経済の運動というもの自体に元々リスクがあるととらえている。そして,金融資産購入のために借り入れるという行為によるバブルもまた起こり得るのである。正常な経済拡張とバブルの分岐について論じる道具立てを持っていないところは私の限界である。


貨幣発行と流通のしくみ(その8)金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 11 金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 ここまで私は,金融システムを通した通貨供給のことだけをお話ししてきました。預金貨幣は銀行が発行するものであり,中央銀行券は中央銀行が発行するものですから,もちろん,金融システムが本来の通貨供給ルートなのです。しかし,現代社会にはそれ以外にも通貨供給ルートがあります。それは財政システムです。これはまた別のテーマになるため,今回はお話しすることができませんが,その特徴についてごく簡単にご紹介しておきます。

 財政システムによる通貨供給とは政府の収入と支出のバランスによるものです。政府の収入は主に課税によってまかなわれます。これは経済から貨幣を引き上げます。政府の支出は社会保障,教育,インフラストラクチュアの整備,軍事,公務員給与など様々なことについて行われます。これは経済に貨幣を投じることになります。ですから,全体として支出が収入より大きく,財政が赤字の場合,通貨供給量が増大します。逆に全体として収入が支出より大きく,財政が黒字の場合,通貨供給量が縮小します。財政システムによる通貨供給の原理を,もっとも単純化して申し上げればこうなります。

 金融システムと異なり,財政システムは,つまり課税や支出は,政府の目的意識的な政策によって左右されます。なので,財政赤字になるほど支出を増やして経済を刺激するとか,財政黒字になるほど課税を増やし支出を減らして景気の過熱やインフレを抑制する,といったことが行われています。このように,政策の見地から目的意識的な操作がある程度可能になることが,民間経済の運動に従属している金融システムとの違いです。

 ここに金融システムとはまた別の体系だった仕組みがあり,財政赤字や財政黒字をめぐる大事な問題がありますが,それをお話しするのはまた別の機会にせざるを得ません。

図 10 通貨供給の概念図(財政システム)

 財政システムを通した通貨供給を概念図として示したのが図 10です。そして,金融・財政両システムを総合して通貨供給を表したのが図 11です 。

図 11 通貨供給の総合的概念図


■補足
*通貨供給システムとして金融システムと財政システムがある,逆に言えば財政システムを通貨供給システムという側面から論じることができる,というのが私の見地である。さらに別な言い方をすれば,通貨供給の見地から貨幣・金融システム,財政システムを論じ,次いでマクロ経済政策を論じることで,一つの話が完結するというのが私の構想である。現在行っている日本経済の講演の一部分は,そのように構成している。
*財政赤字は通貨供給量を増加させ,財政黒字は通貨供給量を減少させる。これは,政府が国債を発行して資金調達をする方法が,中央銀行引き受けであっても民間銀行購入であってもともに妥当すると私は考えているが,ここでは説明していない。
*国債を直接民間人が購入した場合のように,政府支出が民間貯蓄の引き上げ,政府による貨幣再投入となり,いわばプラスマイナスゼロである場合もある。
*ただし,私の理解が主流の考えと異なるのは,民間銀行による国債購入を背景とした政府支出の場合は,上記のようなプラスマイナスゼロにならず通貨供給量プラスになると考えていることである。民間銀行は,流通の外にある中央銀行当座預金で国債を購入するし,それによる減額は,政府支出の決済によって銀行預金が,したがって中央銀行預金が増額されることによって相殺されるからである。

貨幣発行と流通のしくみ(その7)結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 10 結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 さて,これで一通り貨幣が発行されて流通に入り,やがて流通から出ていくしくみについてお話ししました。それでは,結局のところ,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減ると言えばいいのでしょうか。ごく簡単に言えば,銀行貸出残高が増えれば貨幣流通量が増え,銀行貸出残高が減れば貨幣流通量も減る,ということになります。

 大きく言えば,金融システムを通した貨幣供給においては,商品を生産し,流通させる活動が拡大すると,それに応じて通貨流通量が増加し,逆に商品の生産・流通活動が縮小すると,通貨流通量が減少します。このように,商品経済の動きに従って貨幣供給が調整されるしくみを,内生的貨幣供給と言います。

 もう少し具体的に見ましょう。企業が銀行からお金を借り入れると,預金通貨が発行され,社会の通貨流通量が増えます。企業が銀行に返済すると,預金通貨が消滅し,社会の通貨流通量が減ります。中央銀行券は,誰かが預金を下ろしたときにだけ必要になります。中央銀行が銀行に貸し付けている準備預金の一部を銀行が引き出し,さらに銀行が預金引き出しに応じる形で中央銀行券が発券されます。まず預金通貨が生まれ,中央銀行券が発券されると,その分だけ預金通貨が減るのです。

 このような内生的貨幣供給の動きを,大谷禎之介先生のデザインを借りて図解すると図 8のようになります。

図 8 金融システムにおける通貨流通量増減の原理

 経済発展とともに貨幣の必要量が大きくなるとどうなるでしょうか。社会全体として,銀行が企業に貸し出す額が,銀行に対して企業が返済する額を上回るようになります。そうすると,貨幣流通量が拡大するのです。

 ここでみなさんは,少し不安に思って尋ねたくなるかもしれません。では,経済が成長すると社会全体として銀行からの借金が増えるのかと。その答えはイエスです。しかし,さらに尋ねたくなるかもしれません。借金はいつかは返さねばならないから,増え続けられないのではないかと。その答えはノーです。借り入れているのは企業です。企業が借りたお金で利潤を生みだすことができれば,その一部として銀行に利子を支払い,また元本を返済することができるでしょう。その上で,その企業や,あるいは別な企業が,さらなる事業拡大を目指して,また借り入れを行います。そういう風に資本主義企業は活動しているのです。

 さて,これまで説明した,金融システムを通した通貨供給の有様を図にまとめると図 9のようになります。銀行は貸付を通して預金通貨を供給し,返済によってこれを回収します。銀行の背後では中央銀行が支払い決済システムを支え,また準備金となる中央銀行当座預金を,貸し付けを通して銀行に供給しています。その総量は中央銀行による貸しだしと銀行からの返済を通して調整されるのです。このように,銀行が,預金という自分の債務証書を用いて貸し付けを行うこと,貸し付けと返済を通して量が調整されることが,金融システムを通した貨幣供給の根幹なのです。

図 9 通貨供給の概念図(金融システム)

 このようなしくみを,実物経済と貨幣の関係という観点から評価すると,どうなるでしょう。私は商品の集積からできている実物経済の成長が原因で通貨供給量が結果だと言っていることになります。貨幣の供給が経済を成長させるわけではなく,経済の成長に応じて貨幣が供給されるのです。もちろん,事業を拡大しようとする企業が貨幣を必要とするときに銀行は信用を与えてこれを実現するわけですから,貨幣の役割は決定的です。しかし,あくまで事業を拡大しようとする企業の活動が原因であって,銀行信用はこれを後押ししているにすぎません。銀行が通貨を供給したから企業活動が始まるというわけではないのです。

 ただし,財・サービスなどの実物経済の拡大と離れて,銀行からの貸し出しが増えていくこともあります。それは,もっぱら金融資産の売買によるキャピタル・ゲインの獲得をめざして銀行からの借り入れが行われる場合です。この場合,通貨供給は拡大しますが,供給された通貨は財・サービスに買い向かわないので,その価格は変化させません。ただ株式をはじめとする金融資産の価格だけを騰貴させます。これがバブルです 。

■補足
*金融システムを通した貨幣供給は内生的である。これを別の用語で言えば,貨幣流通法則にしたがうのであって,紙幣流通の独自法則にしたがうのでも,貨幣数量説にしたがうのでもない。貨幣の流通速度を捨象するとすれば,商品の総量が増減するのに応じて貨幣流通量も増減するのであって,逆ではない。
*この講演では扱い切れないが,ここまでの論旨からは,次のように言える。政府財政の影響がない限り,中央銀行の金融政策が緩和的であったり引き締め的であったりし,それに対応して銀行の貸し出しが増えたり減ったりするとしても,それで物価水準の名目的騰貴という意味でのインフレーションや,物価水準の名目的下落という意味でのデフレーションは起こらない。インフレ,デフレが今日広い意味で用いられることを考慮して,この二つを貨幣的インフレ,貨幣的デフレと呼ぶならば,これらは金融システムからは決して生じないのである。金融の緩和や引き締めから起こるのは好況や不況であり,好況時の需要超過による物価上昇(ディマンド・プル・インフレ)や不況時の需要減退による物価下落(不況によるデフレ)だけである。これらは名目的な物価変動ではなく,まずは元に戻るかもしれない一時的変動であり,継続すれば実質的変動となる。需要超過の場合は生産コストの高い供給者がの割合が増えるし,需要減退の場合は生産コストの安い供給者だけが生き残るからである。
*だから,この講演の論理を延長すれば,金融政策を論じる時に「貨幣的現象としてのデフレ」を日銀の金融政策が起こしたとか,「貨幣的現象としてのインフレ」を日銀が起こすことができるとかいう主張は,誤っていると言えるのである。

貨幣発行と流通のしくみ(その6)銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか/銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 8 銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか

 しかし,なお疑問が残るかもしれません。そもそも預金とは,個人や企業が銀行にお金を預けたときに発生するのではないのか。銀行の融資とは,預けられた預金を原資に,それを企業に又貸ししているのではないか,と思われる方もいるでしょう。実際,日常生活の常識もそのようなものですし,経済学者の多くもそのようなモデルで思考しています。しかし,そうではない,預金は,銀行がお金を貸すときに生まれるというのがこの講演の見地です。これまでもそうお話ししてきましたが,ここでもう一度,なぜ又貸しと考えてはいけないのかという角度から考えてみましょう。

 背理法を使いましょう。銀行がまず預金を集めて,それを又貸ししていると考えたならば,おかしなことはおこらないのかを点検するのです。

 銀行が,預けられた預金を貸し出していると考えると,預けられた預金,つまりは預けられた中央銀行券は,そもそもどこから来たのかという問題が生じます。中央銀行券は銀行などとだけ取引するものであり,一般市民とは取引しません。ですから,中央銀行券が市中で流通しているということは,どこかで誰かが預金をおろして中央銀行券に換えた,ということを意味します。ということは,どこかに誰かの預金がもともとあったから,中央銀行券が流通しているということになります。それでは,そのどこかの誰かの預金はどこからきたのでしょう。又貸し説に従えば,当然,誰かが預けたということになります。では,預ける前の中央銀行券はどこから来たのでしょうか………。こういう風に,又貸し説の論法は無限後退し,どこにもたどりつきません。ですから,この説明はおかしいのです。

 理屈に合ったように現実を説明するには,どこかの誰かの預金とは,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれた,と考えるよりありません。そう考えるべきなのです。

 図 7をご覧ください。この講演の立場から言うと,市中に出回っている中央銀行券や,口座振り込みに使われて流通している預金通貨は,そもそもはどこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれたということになります。貸し付けを受けた企業は,原材料を購入したり人を雇ったりしてお金を払います。払われた企業はまた原材料を買うかもしれないし,給料を支払われた個人は預金を引き出して現金に換え,食べ物を買ったりネット通信料を払ったりするかもしれません。いずれにせよ,預金通貨は時に中央銀行券という現金に姿を変えながら転々と流通します。そして,あるときに,企業や個人の手元に中央銀行券の姿でたどり着き,その企業や個人が,当面現金とした使わないから,あるいは預金通貨として使いたいから,預金として銀行に預け入れるのです。通貨が生まれて流通する始まりは,銀行から企業への貸付なのです。ちなみに,その終わりは企業から銀行への返済です。

図 7 預金は貸し付けの際に生まれる

 ですから,銀行の活動とは,誰かが銀行にお金を預けて預金が生まれるところから始まるのではなく,銀行が企業の預金を設定してお金を貸すところから始まるのです。

銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 しかし,ここからはまた新たな疑問が生まれるでしょう。銀行が自分で預金を生み出せるならば,なぜ預金を集めようとするのかということです。その答えは,準備金の確保のためです。

 これまでお話ししたように,銀行が企業に貸し付ける行為自体は,手元に現金がなくてもできます。銀行は預金を創造できるからです。しかし,貸し付けを受けた企業は,預金を引き出して現金にするかもしれませんし,取引先への支払いのために預金口座から他の銀行の口座に送金するかもしれません。前者であれば,銀行は中央銀行券を渡さねばなりませんし,後者であれば自分の持つ中央銀行当座預金を取り崩して他行に送金しなければなりません。

 ですから,銀行はつねに一定額の中央銀行券と中央銀行当座預金を資産として持っておかねばならないのです。これが準備金です。正確には,預金が引き出される場合,銀行間取引で自行が支払い超過になる場合,貸付金が貸し倒れになるなど損失が発生した場合に備えて必要になります。

 ただ,ちょっと回り道をしますが,銀行の持つ準備金は,社会全体としてみれば中央銀行が供与するものであって,預金者から集めるものではありません。中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に貸し出したときに発生します。また中央銀行券は,銀行が中央銀行当座預金を引き出したときに発行されます。いずれにせよ,もとは中央銀行が銀行に信用を与えたから発生しているのです。

 ところが,銀行全体としてはこうであっても,個々の銀行にとっては話が違います。中央銀行が供与した中銀当座預金や中銀券は,銀行の間では取引状況に応じて不均等に分布しています。個々の銀行の立場としては,資金繰りを安定させ,さらに貸し付けを拡大するために,自分のところに準備金を集めたいかもしれません。そういう銀行は,企業や個人から広く預金を集めようとするでしょう。預金を集めれば,手元に現金として持っておいて金庫やATMに入れておき,引き出しに備えることもできますし,中央銀行に当座預金として預けて,銀行間決済に備えることもできます。個々の銀行は,いわば市中に流れた中央銀行券を奪い合って,自行の準備金をとりわけ厚くしようとするわけです 。

■補足
*「銀行は預金をまた貸ししているのではない」という説明は,日常感覚に反するために聞く人が驚くところだが,実務的な説明はそれほど難しくない。
*理論的にややこしいのは,準備金について社会全体の視点と個々の銀行の視点が異なることである。個々の銀行にとっては,自行の準備金を増やすために,預金獲得に励む余地がある。しかし,銀行セクター全体としては,中銀当座預金+中央銀行券発行残高は,中央銀行でなければ供給できないのであり,全銀行が一斉に預金獲得に励んでも,社会全体としては増加しないのである。

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  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...