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2019年6月8日土曜日

博士課程院生に対する編集者型指導教員論

 私はよく,院生に対してよく言えば丁寧,悪く言えばかまい過ぎと言われますが,そこには色々な背景があります。大きいのは,「抽象的なやる気や学問へのあこがれや漠然とした関心はあっても,何をどう問題にしたいのかはわからない院生」という存在です。自分自身がそうであって苦しんだことや,当ゼミにやってくる院生もたいていはそうであるという認識がまずあります。私の意見では,1980年代には日本はすでに「なにをやりたいかわからない若者」の時代になっていたし,そして21世紀の今,新興国もそうなっているのです。よって,ただ放置しているだけ,あるいはよく使われる言葉で言うと「放牧型」の支援では,過半数の院生は論文を完成させられません。経験則的に言うならば,修士論文は辛うじて完成するかもしれませんが,学術誌に投稿したり博士論文を完成させることはできません。

 しかし,これは院生がダメだという意味ではありません。最初は何が何だかわからなくても,やがて問題を発見し,解決法を発見するかもしれないからです。そういう可能性を引き出せるかどうかは,大学と指導教員側の問題でもあります。

 だからといって「農業型」の指示・命令式指導やゼミ(研究室)運営をすると,研究主体は私になってしまい,院生が自立した研究者になれません。それは適切ではありません。

 この認識の上に立って,私がどういう指導教員になっているかと言うのをわかりやすく表現するとすると,以前は「パワハラを排したネオ徒弟制」と言っていたのですが,いまは「作家に対する編集者」だと思います。

 つまり,ネタ出しや作品構想の打ち合わせからいっしょに行い,研究対象,問題意識,課題設定,分析視角,調査方法などについて話し合う。たとえて言えば,よい研究になりそうな原石を院生の中から見つけてきて,いっしょにがっつんがっつんノミを入れあう(この表現はマンガ家マンガ『新吼えろ!ペン』第17話「おれの中の定義」サンデーGXコミックス第5巻71-73ページよりいただきました。画像参照)。




院生が持っている問題意識を引き出し,学問的枠組みや着眼点を探すことや,調査・分析の仕方も,自分で学ばせつつも頻繁にコメントし,必要なサジェスチョンやダメ出しをする。途中原稿についても完成原稿についても最初の読者となり,これが学界に出たらどういう風に視られるかを考えてまた話し合う。学会や研究会では他の研究者から学ぶ機会を作るとともに,当人を売り込む。学会報告の反応を見て,どのようにアピールすべきかもいっしょに考える。雑誌査読を突破する方策を検討し,コメント,添削,日本語校正をする。修了の見込みやキャリアについても相談する。相手が若者の場合,必要に応じて各種の生活相談に乗る。ただしパワハラ,セクハラ,えこひいき,人格的上下関係,強度の依存関係にならないように厳重に注意する(しかし,理系と異なり単独指導制なので,フェール・セーフが必要。複数の教員が出るゼミを作るとか,支援方針を文書にする,個別指導もすべて記録する,意見交換内容は互いにメールで文書化するなど<これで十分とは思っていません>)。

 このスタイルの社会的メリットは,冒頭に書いたように,「はじめから何をどうやりたいかわかって入学するわけではない」院生を育てて,よい研究を生み出すことができることです。初めから問題意識と学問的素養と自己の思想にあふれている院生だけを相手にするよりも,育成対象のすそ野は何倍にも広がります。

 また,私自身にもメリットがあります。研究過程で自分の問題意識や関心も正当に加えられるために,自分自身の研究の幅が広がり,物理的・精神的限界から自分自身ではできなかったような研究も院生がやってくれるといううれしさもあります。例えば,現在のゼミ生が手掛けている研究も,自分でやりたいけれど手が回らないテーマであったり,昔,自分でとりくんで謎のまま終わった研究の続きをやってもらっているようなものであったりします。正直,これが研究者としての最大のメリットです。

 もちろん問題もあります。私にとっての問題は,言うまでもなく,途方もない労力と時間がかかることです。何しろ,自分も論文を書かねばならないわけで,いわば作家をやりながら編集者をやっているわけですから。それと,文科系に特有の事情としては,単独著作が尊重される世界なので,かなり丁寧に支援した論文でも,雑誌には,共著でなく単著として発表させるようにしなければなりません。そうすると,自らの教育成果にはなっても研究成果として業績リストには表現されないことになります。もっとも,当人が修了してからも支援を続けて新たに雑誌に発表するときは,一人前の研究者同士の共同研究になるので,共著にします。そういう例も3回ほどありました。

 院生当人にとってもよいことばかりではありません。小説家やマンガ家は,編集者と共同作業をしていてもすでにプロの作家です。しかし,大学院生はちがいます。編集者のような指導教員のもとから,修了とともに旅立たねばなりません。そのとき,編集者を失った作家のようになって挫けてしまってはどうにもなりません。つまり,指導教員がいなくなっても大丈夫なように自立する独自の努力が求められるということです。結局は,自立するしかないのです。

 課程博士論文の作成と審査は,自立の重要なきっかけであり,試練です。以前は初めて学術誌に投稿するときと思っていたのですが,どうも博士論文のようです。

 博士論文より前に学術誌に論文を出すときは,私と院生の関係も違います。学術誌への投稿では,「院生+指導教員」vs査読者という構図です。査読を突破して論文を交換するために私は院生を支援します。コメントもすれば添削も日本語校正もします(そもそも,雑誌の編集委員会が留学生の投稿者に対して,日本語ネイティブや指導教員による日本語校正を求めてきたりします)。正直,こちらがそこまでやらないと,院生が,研究職にエントリーするのに最小限必要と言われる3本の論文を出すことは難しいです。

 しかし,博士論文は院生vs「指導教員を含む審査委員」という構図です。私はもちろん論文支援はしますが,支援の方法は違います。院生に援護射撃をするのではなく,合格水準を示して,そこに向かって到達する道筋を示すような支援になるので,院生当人にとっては厳しくなります。また留学生の書いた日本語も修正はせず,問題点だけ示して必要な水準まで直させます。つまり,ここでは指導教員は支援者というより壁になります。博士論文を提出して合格することで,編集者のついていない作家として自立することになるでしょう。

 このような編集者型指導教員の姿が適切なものか,また持続可能性のあるものなのかどうかは,いまでもわかりません。しかし,今のところ私自身にとっては,これ以外の方法が思いつかないのです。

<参考>
島本和彦『新吼えろペン』第5巻,Kindle版。


2019年6月6日木曜日

島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に思う研究者≒マンガ家論

私が島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に魅かれるのは,マンガ家と研究者がどこか似ているからかもしれない。

 自然科学であれ人文・社会科学であれ,研究においては価値判断によって事実を曲げてはならない。しかし,テーマ選択や問題設定,研究方法の選択,分析視角のとり方には価値判断や嗜好が大いに働く。そのため,論文は研究対象を何らかの形で反映しているが,それは研究対象を解釈するという実践を通して反映しているのであり,その解釈においては自分自身を表現してもいるのだ。だから論文は「作品」で「も」ある。解釈や自己表現の度合いは,おそらくは自然科学より社会科学の方がはるかに強く,人文科学においてさらに強い。

 論文に「作品」の性格が強ければ強いほど,小説家や漫画家と同じく,自分を見失った状態では書けなくなる。ところが,鏡なしに自分自身を観ることは,元来大変困難であるし,論文も一種の鏡になってくれるが,あまりに形が複雑すぎて,論文に映った自分が何だよくわからないこともある。

(引用1)アシスタント・前杉英雄「人も信用できない……。自分のマンガが面白いのかどうかもわからない……。混沌としたこの世界の中で,それでも毎月作品を上げている先生はたいしたものだったのだ!!」(『吼えろ!ペン』第12巻,小学館,2004年,121ページ)


 この困難を乗り越える秘策はないのだが,十分条件ではないものの必要条件だけはあると思う。それは,書き続けることだ。

(引用2)マンガ家・炎尾燃「そこが勝負どころだ!それでも作らなければ次につながっていかないだろう!」(『新吼えろ!ペン』第5巻,小学館,2006年,41ページ)


 ごくまれに,ものすごい寡作でも名声をなす研究者もいる(当研究科なら故・原田三郎教授などがそうだ)。しかし,それは超例外的な存在だ。たいていの研究者は,傑作だろうが駄作だろうが,書き続けないと,書けなくなる。それは,研究ノウハウを失うからというだけの理由ではない。研究者としての自分自身がわからなくなり,いっそう書けなくなるのだ。だから,出来がよかろうが悪かろうが,書くしかない。そう思わない人もいるだろうが,私は,こう思う(じゃあ,書けよさっさと)。

2019年6月1日土曜日

消えざるを得ないとすれば,どのような大学から順に消えるべきか

 消えていく大学がちらほらとある一方で,国立大学の定員を見直すという話題もちらちら見え始めています。お前は国立大学の教員だから言えるんだと言われればその通りですが,それでも申します。1)学生が集まらず,定員割れを起こしている大学から順に退出するのが妥当です。これに反することをやってはいけません。2)大学という名にふさわしい授業を行っていない大学から順に退出するのが妥当です。財務省をニュースソースに,高校・中学並みの英語の授業をしている国立大学あることを,ことさらに取り上げる報道がありましたが,それどころの騒ぎではない私立大学は存在しないのか,よく調査してはどうかと申し上げたい。

「広島国際学院大 募集停止へ」NHK NEWS WEB,2019年5月31日。



2019年5月29日水曜日

続々:留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について

 法務省が,日本の大学を卒業した留学生が就職できる範囲を広げ,日本語能力がN1に達しているのであれば,接客業や小売業でも認めるという報道がありました。
 以前に書きましたように(1,2),私はホワイトカラー業務や専門職への就職制限を緩和することには賛成ですが,ブルーカラー業務への就職制限を緩和することには反対です。今回も,接客業や小売業のホワイトカラー職(例:コンビニの購買担当業務やシステム開発業務)への就職ならばいいですが,コンビニの店員,居酒屋の店員への就職を含むならば反対です(私の言うブルーカラー職は現場での肉体労働による販売労働を含みます)。
 留学生が卒業してブルーカラー業務に就く可能性を閉ざせと言っているのではありません。そのような場合は,「特定技能」の資格に応募しなおす仕組みとすべきです。そして,「特定技能」の対象に接客業や小売業を含めた上で,それらの語学能力要件をN1にすればよいのです(「特定技能」全般についてはN4でなくN3にすべきです)。そうして,「特定技能」の受け入れ総数を管理します。それだけのことです。今回の政策には,そういう適切な制度設計をせずに,手っ取り早く人手不足を解消したいという安直な姿勢が見えます。このようなことを,法改正なしに法務省の告示だけで行うなどとんでもないことです。
 この政策ではなぜまずいかを説明します。何よりも,留学生に日本語能力だけを身に付けさせてブルーカラー業務に就職させるというルートを念頭に置いて,教育体制も整っていないのに留学生の大量獲得を目指すというモラル・ハザードが,一部の大学に発生するおそれがあるからです。東京福祉大学事件を念頭に置くならば,これは決して杞憂ではないでしょう。留学生を対象とする高等教育を形骸化させる危険があります。
 もうひとつは,人数に制限がないからです。「特定技能」の人数管理もあまり適切に行われているとは言えませんが,一応,ぼんやりとした総枠はあります。しかし,「特定活動」には全く総枠はありません。日本の労働市場の状態と関係なく外国人労働者の参入を認めるのは,適切ではありません。景気の状態によって,日本の高卒の若者との競合を招きかねません。
 外国人労働者を適切に受け入れることは必要です。同時に,留学生に対する高等教育の質を向上させるために,必要な工夫をすべきです。安易な政策は,日本の高等教育の効果をそぎ,質の低い職を外国人大卒者におしつけることになりかねません。

「専門外の接客業OKに 法務省、留学生の就職先を拡大」朝日新聞デジタル,2019年5月28日。
https://www.asahi.com/articles/ASM5X3TKYM5XUTIL026.html

出入国在留管理庁「留学生の就職支援のための法務省告示の改正について」2019年5月28日。
http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri07_00210.htm

前稿
「留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年10月22日。
「続・留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年11月3日。

参考
「東京福祉大学問題から見える,歯止めなきトップダウンのダメさ加減」Ka-Bataブログ,2019年4月13日。
濱口桂一郎「留学生の就職も「入社型」に?」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2018年10月25日。
濱口桂一郎「ジョブ型入管政策の敗北」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2019年5月29日。


2019年5月25日土曜日

リンク集:年俸制適用拡大をはじめとする国立大学法人等人事給与マネジメント改革について

久しぶりに組合サイドのセミナーをしなければならず,国立大学教員への年俸制適用拡大について調べる。意外と,金額的に直ちに響くのは最後の社会保険料のところだったりするので注意。 「統合イノベーション戦略」閣議決定,2018年6月15日。 https://www8.cao.go.jp/cstp/tougosenryaku/tougo_honbun.pdf 「人事給与マネジメント改革の動向及び今後の方向性」文部科学省 高等教育局 国立大学法人支援課,中央教育審議会大学分科会制度・教育改革ワーキンググループ(第17回) 配付資料,2018年7月31日。 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/043/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/08/03/1407795_5.pdf 「人事給与マネジメント改革に関する Q&A(ver.2.1)」2018年9月12日。 https://ha4.seikyou.ne.jp/home/kumiai/18/QandA2-1.pdf 「国立大学の教育研究活性化を促進する人事給与マネジメント改革に関する基本的な考え方について―特に業績評価と新しい給与システムの在り方について―」一般社団法人国立大学協会,2018年11月2日。 https://www.janu.jp/news/files/20181102-wnew-HR-Payroll.pdf 「厳格な業績評価に基づく新たな年俸制」エルムの森だより:北海道大学教職員組合執行委員会ブログ,2018年11月8日。 http://elm-mori.hatenablog.com/entry/2018/11/08/143653
「国立大学法人等人事給与マネジメント改革に関するガイドライン~教育研究力の向上に資する魅力ある人事給与マネジメントの構築に向けて~」文部科学省大臣官房人事課・高等教育局国立大学法人支援課・研究振興局学術機関課,2019年2月25日。 http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/11/1289344_001.pdf シニアガイド編集部「『年俸制は毎月均等の金額で受け取った方が得』は本当か!?」シニアガイド,株式会社インプレス,2016年2月23日。 https://seniorguide.jp/article/1001686.html 深田俊彦「相談室Q&A 年俸制を適用することによって,社会保険料の支払いに何か違いが生じるのか」『労政時報』第3912号,2016年7月8日。 https://www.ohno-jimusho.co.jp/news/pdf/news20160729_2.pdf

対中関税引き上げとは,アメリカ政府がアメリカ国内の企業と労働者と消費者を苦めることだ

 米中の関税引き上げ合戦でどっちが勝つかなどと考えるのは非常識で,問題の立て方がおかしい。アメリカが関税を引き上げれば中国からの輸入品が高くなり,代わりに別の国から輸入することにしても,以前よりは輸入価格は上がってしまう。丸損するのはアメリカの消費者である。消費が落ち込めば,輸入品を使って製造や販売をする企業も困る。利益が増大するのは,関税引き上げのおかげで国内生産を増大させられる分野の企業だけである。また,そうした産業では雇用も維持される。しかし,その分だけ,本来アメリカに優位のある産業の拡大は妨げられ,雇用は増えなくなる。所得と雇用に与えるトータルの効果は,特別な条件がなければマイナスである。

 つまり,自国政府が自国内の企業と労働者と消費者を苦めるだけのことだ。

 私は,具体的な条件の下で様々な修正が必要であるとしても,自由貿易の効用と保護主義の弊害に関する,この基本ロジックは支持する。

「アングル:米国の対中追加関税、自国企業に与える影響」ロイター,2019年5月25日。

2019年5月15日水曜日

「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案に対する意見

 2019年5月10日,以下の意見を仙台市議会事務局長に提出しました。

ーーー
 市政の充実のために奮闘する市議会の皆様に敬意を表します。「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案について,大変興味深く拝見いたしました。以下のように意見を提出いたします。

<二つの考え方>
1.政府・自治体の財政は家計や企業ではありません。財政は,その政府単位の住民の生活のために,営利事業での供給に向かない財・サービスを供給するために存在します。その費用は住民が一定の基準のもとに分かち合います。財政は営利事業ではありませんから,黒字を大きくすることが目的ではなく,住民の福祉向上が目的です。そこに必要な経済原理は「収入マイナス支出の黒字が大きくなるようにすること」ではなく,「住民のためにやるべき仕事を,なるべく少ないお金で効率的に行うこと」です。ここで大事なのは,「やるべき仕事」の方に重点があって,そのためにお金を集めて効率的に働くべきなのであって,「やるべき仕事」を放棄することでコスト削減と効率化を進めても意味がないということです。

2.地方財政は,国の財政に影響される存在です。国の制度・政策によって,地方に十分な財源が与えられていなければ,地方自治を発展させられません。例えば,地方交付税の制度と規模について,地方自治体は政府に対して適切な意見を述べ,要望をする必要があります。

 以上の二つの観点から見て,この条例案の以下の点に改善の余地があると思い,各項目について修正案を提案するものです。

<提案>
*前文の最初の2段落が,今後の財政を引き締め方向で運用することを前提にしています。これは適切ではありません。人口減少・高齢社会に向かって市が提供すべき財・サービスのイメージを明らかにし,「社会の変化に対応した公共サービスを提供し,市民の生活に資すること,そのために必要な財政資金を確保するとともに,これを効率的に用いることこそ市財政の本旨である」であるとまず述べるべきです。
*前文の「時代の要請を踏まえた事業の選択と集中」のところ,何が「時代の要請」なのか明らかではありません。また「事業の選択と集中」はこれまで行政や企業経営においては,事業を縮小する際にのみ用いられている用語であり,また新規事業の開発を排除した意味になっていて,適当ではありません。「新たな時代の市民生活の必要に応じた事業の開発や組み換え,選択と集中」などとするのが均衡の取れた表現だと考えます。
*「公共サービスによる利益を享受している市民の理解が不可欠であり」では,市民が市という会社の顧客のようであり,またサービスを一方的に受けているかのように見えます。市民が市政の主体であること,また現にその費用を負担していることが踏まえられていません。「地方自治の主体であるとともに公共サービスの受益者であり,その費用の負担者でもある市民の理解が不可欠であり」などとするのが,地方自治,住民自治の本旨にふさわしいと思います。
*「財政運営の基本原則」の2「将来の世代に負担を過度に残すことがないよう、安定的で持続可能な財政運営を行うこと」は,まちがってはいませんが,市債の考え方を一面的にとらえています。会社がお金を借り入れて将来のために工場を建てることが必要な時があるように,市にもお金を借り入れて将来のために施設・設備をつくることが必要な時があります。そのために市債を発行し,その返済費用は,施設・設備を利用する将来世代にも負担してもらうというのが,市債の考え方であり,公式ページにもその趣旨が記されているところです。負担を残さないことだけを考えて,必要なことをしないというのでは本末転倒です。「将来の世代の受益を図りつつ,その負担を過度に残すことがないよう」が均衡の取れた表現と思われます。
*「財政運営の基本原則」の4「公共サービスに係る市民の受益と負担の均衡を図ること」が,市民全体と負担全体についてのことであればよいのですが,個々のサービスについての個々人の受益と均衡を図るという意味ならば,適当ではありません。それは公共サービスの原理ではなく,民間サービス業の原理です。公共サービスを受けるのは住民の権利であり,一定部分のサービスは負担能力に関係なく人権として保障されねばなりません。もちろん,そこにも費用が掛かりますが,その負担は負担能力などを勘案して配分すべきです。それが薄く広く,負担を分かち合う税制の考えです。4「公共サービスに係る市民の受益全体と負担全体の均衡を図るとともに,負担配分が適切・公正であるように努めること」とするのがよいと思います。
*「市民の参画」について。市民が主権者であること,住民自治の考えが全く踏まえられていません。「市民は市政の担い手であり,市の公共サービスのあり方について自ら発言し,市政を監視するとともに,その財政運営について理解することが求められる」などという項目を冒頭に加えるべきべき(ブログ収録時の注:もちろんタイプミス)。
*政府に対して働きかけるのも,財政の健全性を守るための市の責務です。「政府へのはたらきかけ」などと言う項目を立て,「市と市議会は,財政自主権の確立のため,政府と地方自治体の役割分担,地方財源のあり方について常に改善に努め,他の地方自治体と連携して,政府に適切な提案とはたらきかけを行う」などという文章を加えるべきです。

 以上の主要な個所に加え,いくつかの付随的な修正点を追加し,文章の整合性を加味した修正案を添付いたします。ご検討賜れれば幸いに存じます。
(ブログでは修正案は略)

仙台市議会では「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案に関する市民意見聴取を実施します 



論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...